わが国の情報史(37)  昭和のインテリジェンス(その13)   ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(3)─

▼はじめに

これまで、秘密戦の要素である諜報、防諜、宣伝、謀略のうち、諜報と防諜については説明した。今回は宣伝に焦点をあてて解説する。まさに「プロパガンダ恐るべし」である。

▼宣伝という用語の軍事的使用

 宣伝という軍事用語はいつから使用されるようになったのだろうか? 

 1889年に制定され、日露戦争の戦訓を踏まえて1907年(明治40年)に改訂された『野外要務令』では、「情報」および「諜報」という用語はわずかに確認できるが、「宣伝」という用語は登場しない。

 しかし、『野外要務令』の後継として大正期に制定された『陣中要務令』では、以下の記述がある。

第3篇「捜索」第73

「捜索の目的は敵情を明らかにするにあり。これがため、直接敵の位置、兵力、行動及び施設を探知するとともに、諜報の結果を利用してこれを補綴確定し、また諜報の結果によりて、捜索の端緒を得るにつとめざるべからず。捜索の実施にありては、敵の欺騙的動作並びに宣伝等に惑わされるに注意を要する。」

第4編「諜報」第125

「諜報勤務は作戦地の情況及び作戦経過の時期等に適応するごとく、適当にこれを企画し、また敵の宣伝に関する真相を解明すること緊要なり。しかして住民の感情は諜報勤務の実施に影響及ぼすこと大なるをもって上下を問わない。とくに住民に対する使節、態度等ほして諜報勤務実施に便ならしむるごとく留意すること緊要なり。」

 ここでの宣伝は、我の諜報、捜索活動の阻害する要因であって、敵によって行なわれる宣伝(プロパガンダ)を意味しているとみられる。これは、後述のとおり、第一次世界大戦における総力戦の中で行なわれたプロパガンダの様相をわが国も取り入れるようとの思惑が契機になったのであろう。

 「宣伝」がわが国の軍事用語としてより定着するようになったのは、昭和期に入って、『諜報宣伝勤務指針』および『統帥綱領』が制定された1920年代だとみられる。

 1925年から28年にかけての作成と推定される『諜報宣伝勤務指針』の第二編「宣伝及び謀略勤務」では、謀略の定義と共に宣伝について、用語の定義、実施機関、実施要領、宣伝および謀略に対する防衛などが記述されている。ここでは宣伝と謀略が一体的に定義されている。

 同指針から宣伝関連の記述を抜粋する。

 「平時・戦時をとわず、内外各方面に対して、我に有利な形成、雰囲気を醸成する目的をもって、とくに対手を感動させる方法、手段により適切な時期を選んで、ある事実を所要の範囲に宣明伝布するを宣伝と称し、これに関する諸準備、計画及び実施に関する勤務を宣伝勤務という。」

 一方の『統帥綱領』では以下のように記述されている。

第1「統帥の要義」の6

「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象としてこれを行い、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。

殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。」

 1932年の『統帥参考』では以下のように記述されている。

第4章「統帥の要綱」34

「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行い、敵軍戦力の崩壊を企図すること必要なり。」

 以上のように、「捜索」あるいは「諜報」のように敵に対する情報を入手するだけでなく、敵戦力の崩壊を企図する、敵の作戦指導などを妨害する、あるいは我に有利な形成を醸成する機能を強化する必要性が認識され、そのことが「宣伝」を「謀略」ともに軍事用語として一般化したのである。

▼第一次世界大戦における宣伝戦

 心理戦の発祥は古来に遡るが、心理戦の重要性が認識され、組織的かつ計画的に行なわれるようになったのは第一次世界大戦からである。

 1948年に『Psychological Warfare』(邦訳名『心理戦争』)を出版したラインバーガーは、次のように述べる。

 「第一次世界大戦によって心理戦争は付随的な兵器から主要な兵器へと変容し、後には戦争を贏(か)ち得た武器とさえ呼ばれるようになった」

 心理戦の最大の武器となるのが宣伝戦である。よって心理戦はしばしば宣伝戦と呼び変えられることが多い。

第一次世界大戦における宣伝戦の主役は間違いなくイギリスであった。第一次世界大戦が開戦すると、イギリスは1914年8月、ドイツとアメリカ間の海底電線を切断した。当時、無線は使われ始めていたがまだ不十分であり、しかもイギリスが盗聴していた。つまり、イギリスは通信を独占し、アメリカにはイギリスが与える情報しか入らなくなった。

イギリスは独占した通信をもって、ドイツの誹謗中傷報道を流し、ブラック・プロパガンダにより、米国を欧州の大戦に参加させるよう画策した。イギリスの自由党議員チャールズ・マスターマンは1914年9月、戦争宣伝局(War Propaganda Bureau)、通称「ウェリントン・ハウス」を設置する。これは、外務省付属の秘密組織であった。

ここから、イギリス国内向けの戦意高揚施策や、敵国への謀略報道戦が展開された。イギリス外務省は学者、著名芸術家、文筆家を協力者として、ドイツの“絶対悪”をブラック・プロパガンダして、アメリカ人の人道感情を揺さぶり、アメリカを参戦へといざなったのである。

その後、戦争宣伝局は情報局を経て1918年には情報省へと発展し、新聞大手「デイリー・エクスプレス」紙の社主ビーヴァ─ブルック卿が情報大臣に任じられる。この時、ウェリントン・ハウスは解消されたが、主要なメンバーは残った。

また「タイムズ」紙と「デイリー・メール」紙の社主ノースクリフ卿が、彼の屋敷におかれた宣伝機関である「クルー・ハウス」からドイツに対するブラック・プロパガンダを展開した。

 クルー・ハウスは、ドイツの厭戦気運を盛り上げ、ドイツ兵の投稿を促すビラやリーフレットを大量に作成した。これらは気球などによってドイツ、敵陣営、中立国に投下された。

 とくに、ドイツが中立国に侵略して残虐行為を働いたとの虚偽のブラック・プロパガンダが展開された。また、ロイター通信が中立国に対し虚偽記事を配信し、国際世論の反ドイツ感情を煽った。

 アメリカは参戦後、新聞編集者ジョージ・クリールを委員長とする「広報委員会」、通称クリール委員会を発足させた。同委員会はイギリスと同様に新聞、パンフレットなどにより、反ドイツ感情を煽った。また、アメリカでは反ドイツ映画が作成された。かのチャップリンも反独映画の作成に協力した。

▼第一次世界大戦後のドイツ

第一次世界大戦後、宣伝戦争においては英国がドイツに圧倒的に有利であったことが明らかとなった。英国の宣伝を最も評価したのがヒトラーである。彼は『わが闘争』において、ドイツが英国の宣伝戦から学ぶべきである、とした。

ドイツでは1933年1月にナチスが政権を握ると、ただちに国民啓蒙・宣伝省を創設した(1933年3月)。ナチスで宣伝全国指導者を務めていたヨーゼフ・ゲッペルスが初代大臣に任命された。ゲッペルスは3月25日に次のような演説を行なっている。

 「宣伝省にはドイツで精神的な動員を行なう仕事がある。つまり、精神面での国防省と同じ仕事である。(中略)今、まさに民族は精神面で動員と、武装化を必要としている」

まさに宣伝戦が武力戦と同等の地位を占めるに至り、宣伝戦が国際社会を席巻する火蓋となったのである。

▼わが国が対外文化交流を推進

第一次世界大戦終了後の5月4日、わが国は北京において五四運動に直面することになる。これは、パリ講和会議(1919年1月)で、「日本がドイツから奪った山東省の権益を返還せよ」という中国の巧みな宣伝によって、山東省の権益返還が国際承認されたことに端を発している。

こうしたことから、わが国は国際宣伝の重要性に対する認識を高め、1920年4月、内外情報の収集・整理や宣伝活動を行なう「情報部」を設置(1921年8月)した。このほか、「国際通信社」や「東方通信社」といった対外通信社の強化を図った。また中国における対日感情を好転すべく、文化事業に力を入れた。

1930年代、ドイツが「ゲーテ・インスティトゥート」(1932年)、イギリスが「ブリティシュ・カウンセル」(1934年)を創設するなど、主要国が対外文化組織を設立するなか、わが国も1934年に財団法人・国際文化振興会を設立した。

同振興会は、メディア研究やプロパガンダ研究により、諸外国の文化交流を通じた親睦を深めて、対日国際理解を推進することが目的であった。文化人などの講師を海外に派遣・招聘し、日本文化の理解の普及につとめた。ニューヨークにはその出先機関として日本文化会館が置かれた。また1935年には日本放送協会による海外向けラジオ放送が開始された。

しかし、日中戦争以後の国際情勢が緊迫化すると、穏やかな「国際交流」という様相は脇に追いやられ、国内外に対するプロパガンダが重視されるようになる。

▼情報局の設立

第一次世界大戦当時、プロパガンダという言葉にまったくなじみのなかった日本は宣伝戦に大きく後れをとった。日本の新聞や雑誌にプロパガンダという言葉が現れるのは、1917(大正6)年以降である。(小野厚夫『情報ということば』)

上述のように中国の抗日宣伝に翻弄されたことや、第一次世界大戦における総力戦思想の跋扈に触発され、強力な情報宣伝の国家機関を設立しようとする動きが軍部などに生じ、陸・海軍や外務省では宣伝活動を展開する機関が設置されるようになる。

外務省は1921年8月に情報部を設置した(事務開始は1920年3月から)。他方、陸軍省は1920年1月に陸軍新聞班(1937年に大本営陸軍報道部、38年に陸軍省情報部、40年に陸軍報道部へと改編)、海軍省は1923年5月に軍事普及委員会(1932年に軍事普及部と改称)を設置した。

満洲事変以後、日本を非難する国際世論の高まりに対して、外務省は内田康哉外務大臣の下で対外情報戦略を練り直すことになった。1932年9月、陸・海・外務による情報宣伝に関する非公式の連絡機関「情報委員会」が設置された。これ以後、「情報宣伝」という複合語が盛んに用いられるようになる。

満洲事変による国際対日批判を払拭するため、日本は自らの立場を世界に訴え、国際理解を増進させる方針を選んだ。そこで武器となるのが世論を形成する新聞、その新聞にニュースを提供する通信社であった。

しかし、当時は電通(1907年設立)と聯合(1926年誕生)が激しく競争していた。1931年の満洲事変の発生では、陸軍をバックにつけた電通の一報は、事変発生後わずか4時間で入電し大スクープとなった。

両通信社による激烈な取材競争により、両社ともに経費が膨れ上がり、報道内容にも食い違いが生じた。このため政府部内や新聞界で両社を統合しようという機運が高まり、1936年(昭和11年)1月、同盟通信社が発足した。

1936年7月1日、非公式の連絡機関「情報委員会」を基に各省の広報宣伝部局の連絡調整や、同盟通信社などを監督する目的で「内閣情報委員会」が設立された。

1937年9月25日、連絡調整のみならず各省所管外の情報収集や広報宣伝を行なうために、内閣情報委員会は「内閣情報部」に改められ、情報収集や宣伝活動が職務に加えられた。

1939年、「国民精神動員に関する一般事項」が加わり、国民に対する宣伝を活発化させ、それを担うマスコミ・芸能・芸術への統制を進めた。

1940年12月6日、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課、以上の各省・各部課に分属されていた情報事務を統一化することを目指して、内閣直属機関である「情報局(内閣情報局)」が設置された。

情報局には総裁、次官の下に一官房、五部17課が置かれた。第一部は企画調査、第二部は新聞、出版、報道の取り締まり、第三部は対外宣伝、第四部は出版物の取り締まり、第五部は映画、芸術などの文化宣伝をそれぞれ担当した。職員は情報官以上55名、属官89名の合計144名からなった。

しかし、陸軍と海軍は、大本営陸軍部・海軍部に報道部を設置したほか、陸軍報道部、海軍省軍事普及部の権限を委譲しようとはせず、情報局は内務省警保局検閲課の職員が大半を占めて、検閲の業務を粛々遂行し、宣伝活動において目立った成果はなかったのである。

(次回に続く)

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