わが国の情報史(25)  昭和のインテリジェンス(その1)   ─軍事教範の制定─

▼大正期から昭和へと移行

 大正天皇は1926年(大正15年/昭和元年)12月25日
に崩御された。この時、新たな元号は「光文」と報じられたが、
誤報として「昭和」に訂正された(わが国の情報史(23))。

大正期におけるわが国の対外情勢の大きな変化の一つは、ロシ アで社会主義革命が起きて共産主義国家ソ連が誕生したことである。そのソ連はコミンテルンを結成して世界に対する共産主義革命の輸出に乗り出した。

それに対する地政学上の防波堤となったのが満洲であり、国内における共産主義の浸透を食い止める活動が諜報・防諜であった。こうした活動の中心となったのが陸軍であった。

 大正期におけるもう一つの重大な対外情勢の変化は、アメリカによる日本に対する封じ込めが顕著になったことである。アメリカは、米国内における日本人移民の排斥、海軍艦艇をはじめとする軍縮、わが国による中国進出に対する容喙(ようかい)など、さまざまな対日圧力を仕掛けてきた。

 このアメリカを仮想敵国の第1位として、将来の対米決戦を視野において準備を開始したのが海軍であった。つまり、日本陸軍と日本海軍は、異なる情勢認識の下で、軍事力の整備や軍事戦略および作戦計画を立案していったのである。

▼陸軍教範の制定

 昭和期に入り、新たな陸軍教範が制定された。つまり、いかなる戦いをするのかという用兵思想、すなわちドクトリンが固まったのである。その傑作は『統帥綱領』『統帥参考』および『作戦要務令』である。

 『統帥綱領』は1928年(昭和3年)に制定された。同綱領は日本陸軍の将軍および参謀のために国軍統帥の大綱を説いたものである。

 また『統帥綱領』を陸軍大学で講義するために使用する参考(解説)書として『統帥参考』があり、こちらの方は1932年に作成された。

 一方の『作戦要務令』は軍隊の勤務や作戦・戦闘の要領などについて規定したものである。これは少尉以上の軍幹部に対する公開教範である。

 『作戦要務令』は1938年(昭和13年)9月に制定された。これは大正期に編纂された『陣中要務令』(大正3年)と『戦闘綱要』(昭和4年)の重複部分を削除・統合するとともに、1937年の日中戦争の戦訓を採り入れ、対ソ連を仮想敵として制定された。

 なお、海軍にも『海戦要務令』があり、こちらの方は1901年に制定され、その後の日露戦争のときの連合艦隊参謀・秋山真之が改正し、大艦巨砲による艦隊決戦の思想を確定した。その後、大正期に2回、昭和期に2回改正されたが、全体が海軍機密に指定されていたので、一般には知られていない。

▼『統帥綱領』および『統帥参考』の概要

 統帥綱領や統帥参考は、将帥、すなわち将軍と参謀の心構えを規定し、国軍統帥の大綱、つまりわが国の戦略や作戦遂行の在り方を定めたものである。

 『統帥綱領』は、第1「統帥の要義」、第2「将帥」、第3「作戦軍の編組」、第4「作戦指導の要領」、第5「集中」、第6「会戦」、第7「特異の作戦」、第8「陸海空軍協同作戦」、第9「連合作戦」の全9篇176条からなる。

 『統帥綱領』は「軍事機密」書であったので、陸軍大学校卒の一部のエリートのみしか閲覧ができなかった。むろん『作戦要務令』のような公開本ではなかった。

 この綱領は、一部のエリート将校の集まりであった参謀本部が、天皇の有する統帥権を逸脱して「超法的」に日中戦争などを遂行した根拠になったという批判が強い。一方、部下統率の在り方などについては参考すべき点が多々あり、戦後のビジネス本などとしても活用されている。

 もう一つの『統帥参考』は、第1篇「一般統帥」と第2篇「特殊作戦の統帥」に分かれ、さらに第1篇は第1章「将帥」、第2章「幕僚」、第3章「統帥組織」、第4章「統帥の要綱」、第5章「情報収集」、第6章「集中」、第7章「会戦」の195条からなる(なお、第2編については割愛)。

 こちらの方は「軍事機密」に次ぐ「軍事極秘」という扱いになっている。さすがに参考書という位置づけなので『統帥綱領』に比して記述内容の具体性が随所にうかがえる。

▼インテリジェンスの視点からの注目点

 『統帥綱領』の第4「作戦指導の要領」の以下の条文が注目される。

・25、捜索は主として航空部隊及び騎兵の任ずるところとす。両者の捜索に関する能力には互いに長短あるをもって、高級指揮官はその特性及び状況に応じて、任務の配当を適切ならしめ、かつ相互の連携を緊密にならしむること肝要なり。(以下、略)

・26、諜報は捜索の結果を確認、補足するほか、縷々(るる)捜索の端緒を捉え、捜索の手段を持ってならし得ざる各種の重要なる情報をも収集し得るものにして、捜索部隊の不足に伴い、ますますその価値を向上す。(以下、略)

 つまり、この2つの条文から、捜索と諜報がともに情報を収集する手段であることがわかるのである。

 ただし、1914年の『陣中要務令』(計13編)の中の第3編「捜索」、第4編「諜報」において、すでに「捜索」と「諜報」の定義や、その内容は具体的に規定されている。

 『統帥綱領』の25条と26条は、『陣中要務令』の「捜索」と「諜報」の記述内容の要旨を抽出し、それを方面軍の統帥に適用したものであり、内容に何ら目新しさはない。

 他方の『統帥参考』では第5章「情報収集」があり、ここには次のような趣旨の内容が記述されている。要点を抜粋し、要約する。

◇「情報収集において敵に優越することが勝利の発端」「情報収集は敵情判断の基礎にして」と情報収集の重要性について記述している。しかしその一方で「情報の収集は必ずしも常に所望の効果を期待できないので、高級指揮官はいたずらにその成果を待つことなく、状況によっては、任務に基づき主導的行動に出ることに躊躇してはならない」として、敵情を詳しく知りたいがために戦機を逃してならない旨の戒(いまし)めを記述している。

◇情報を戦略的情報と戦術的情報に区分している。方面軍は主として戦略的情報、軍団は戦略的情報と戦術的情報の両者、軍内師団は主として戦術的情報を収集するとしている。

◇情報収集の手段には諜報勤務と軍隊の行なう捜索に分けている。戦術的情報は主として捜索により、これは騎兵、航空部隊、装甲部隊、第一線部隊などを使用するほか、砲兵情報班、無線諜報班、諜報機関などを適宜使用するとして、一方の戦略的情報は主として航空部隊および諜報による、と規定している。

◇諜報についてはとくに紙面を割いて規定している。「最高統帥の情報収集は作戦の効果によるほか、専(もっぱ)ら諜報による」としているほか、作戦軍においても諜報の価値は大きい旨を規定している。

◇諜報勤務の要領について、脈絡一貫した組織の下に行なう、作戦軍のための諜報機関といえどもその骨幹は開戦前より編成配置して開戦後速やかに捕捉拡張するように準備するなどを規定している。

◇諜報勤務は宣伝謀略および保安の諸勤務と密接なる関係があるとして、これらの機関に資料を提供するとともに、その成果を利用することの必要性を規定している。

明治時期以降において形成されてきた情報収集、捜索、諜報の個々の内容や相互の関係性などが、『統帥参考』の作成により、ようやく体系的に整理したといえる。

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