わが国の情報史(26)  昭和のインテリジェンス(その2)   ─『作戦要務令』の制定と重要「情報理論」の萌芽─       

▼『作戦要務令』の制定  

 前回は、昭和期になって作成された『統帥綱領』および『統帥 参考』を引き合いに、情報収集の手段が軍隊の行なう捜索勤務と 諜報に分けられ、戦術的情報は捜索により、戦略的情報は航空部 隊および諜報によって収集する、などについて述べた。

 今回はもう一つの軍事教典である『作戦要務令』を取り上げる。 これは、陸軍の、戦場での勤務や作戦・戦闘の要領などについて 規定した行動基準であり、少尉以上の軍幹部に対する公開教範で あった。  

 綱領、第1部、第2部、第3部、第4部に区分され、1938 (昭和13)年から1940年にかけて編纂された。  1938年9月、日中事変(1937年7月)から得た教訓を 取り入れ、『陣中要務令』(大正3年)と『戦闘綱要』の重複部 分を削除・統合して、対ソ連を仮想敵として『作戦要務令』の綱 領、第1部と第2部が制定された。1939年には第3部、19 40年には第4部がそれぞれ制定された。

▼『作戦要務令』の沿革  

 ここで簡単に『作戦要務令』の歴史を回顧しておこう。  

 徳川幕府以来、陸軍はフランスの陸軍将校を顧問として着々と した兵制の建設を行なってきたが、参謀次長・川上操六らの尽力 により、1882(明治15)年にこれを一挙にドイツ式に切り 替えた(前坂俊之『明治三十七年のインテリジェンス外交』)。  

 こうした動きにともない、陸軍教範もフランス式からドイツ式 に切り替わった。1887年、ドイツの「野外要務令」を翻訳し た『野外要務令草案』が作成され、1889年に『野外要務令』 が制定された。  

 なお、同要務令はのちに参謀次長として日露戦争の準備を取り 仕切る田村怡与造が中心になって作成し、この要務令のお蔭で日本はロシアに勝利できたとされる。

『野外要務令』は第1部「陣中要務」と第2部「秋季演習」か らなる。陣中要務とは「軍陣での勤務」、すなわち戦場勤務のこ とである。  

 第1部では、司令部と軍隊間の命令・通報・報告の伝達、捜索 勤務、警戒勤務、行軍、宿営、行李、輜重(兵站)、休養、衛生 などの実施要領などが記述された。第2部では、演習の要領、演 習の構成、対抗演習や仮設敵演習、演習の審判、危害予防などに ついて記述された。  

 同要務令は日露戦争(1904年)の戦訓を踏まえての190 7(明治40)年の改訂を経て、大正期に入り、第1部「陣中要 務」と第2部「秋季演習」がそれぞれ分離独立した。1914 (大正3)年6月に第1部が『陣中要務令』となり、これが『作 戦要務令』の基礎となったのである。 『作戦要務令』のもう一つの基礎である『戦闘綱要』について みてみよう。『戦闘綱要』は個人の徒歩教練、射撃、歩兵として の部隊の戦闘法などを記述する教範である。  

 これは1871年に「フランス式歩兵操典」として定められた ものが、まず1891年に「ドイツ式歩兵操典(1888年版)」 に翻訳したものに改訂された。この『歩兵操典』は1909年 (明治42年)に日露戦争の教訓を踏まえて再度改訂された。  1926(大正15)年に『歩兵操典』の基本事項をもとに 『戦闘綱要草案』が示され、1929(昭和4)年に『戦闘綱要』 が制定された。これが、もう一つの『陣中要務令』と合体して 『作戦要務令』になったという次第である。

▼1909年の『歩兵操典』の改正に注目  

 1909年の『歩兵操典』の改訂においては日露戦争の勝利に 自信を深めた陸軍が精神主義を強調し、攻撃精神と白兵銃剣突撃 を核とする歩兵戦術を確立した(NHK取材班『敵を知らず己を 知らず』)として、この教範改定がしばしば情報軽視によって太平洋戦争に敗北した原因として引き合いに出されるのである。  

 これに関して、筆者は明治期のインテリジェンスの総括でも述 べたが、情報は戦略情報と作戦情報に分けて論じなければなら ない、と改めて指摘しておきたい。  

 かのクラウゼヴィツは「戦争中に得られる情報の大部分は相互 に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何 らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っ ている」(『戦争論』)と述べていることをもう一度思い起こし てほしい(わが国の情報史(21))。  

「精神主義が情報軽視を生み、それが日中戦争、太平洋戦争へ 進み、ガダルカナルでは情報を無視して玉砕した。ここでの教範改定から軍事の独断専行が強まり、先の太平洋戦争は敗北した」  

 このように、何らかの原因を特定することで歴史に決着をつけ るといった恣意的かつ浅薄な分析が横行している点は非常に残念 である。  

 ここで精神主義は、戦場における陸軍基準としての教範改定に論をあてている。戦場における編成や装備および戦術・ 戦法の近代化を精神主義が妨げたという検証結果ならば十分な価値はある。  

 しかし、精神主義と情報軽視という短絡的な連接では何 らの教訓も生まれない。 繰り返すように情報は戦略情報と作戦情報に区分される。『統帥参考』などで示すとおり、戦略情報は国家の戦争指導や作戦指導の全局面に活用されるものである。

 だから、国家がなぜ先の無 謀な戦争に向かったのかは、軍人のみならず国家全体で作成すべ きであった戦略情報がどうだったのかの分析が第一義的に必要で あろう。  

 精神主義、白兵銃剣突撃といった一局面をとらえ、それと情報軽視を結びつけて、「軍人が精神主義によって無謀な戦争に駆り 立て、敗北した」と結論付け、すべての原因を軍人独走に押し付ける のは“お門違い”ではないだろうか?  

 戦略情報を作成すべき内閣、外務省はどうだったのか? そしてマスコミや国民はどうだったのか? これらの点もよくよく分析しなければならない。

▼情報関係の記述  

 情報関係の記述は『野外要務令』から『陣中要務令』の系譜に求められる。  明治期の『野外要務令』では、捜索という用語は随所にみられ るが、情報、諜報はそれぞれ1か所である。  

 大正期の『陣中要務令』では「情報」の使用は『野外要務令』 と比べると多少増えてはいるが、「情報」の定義および内容など を直接的に説明した箇所は見当たらない。他方で同要務令では、 「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述された点は 注目に値する。

 同要務令は計13編の構成になっているが、その第3編が「捜 索」、第4編が「諜報」となっており、「捜索」と「諜報」がそ れぞれ編立てされた。このような経緯を踏まえて、先述の『統帥 綱領』および『統帥参考』では、情報が捜索と諜報から構成され る、ということが体系的に整理されたのである。  

 では、『作戦要務令』では情報関連の記述はどうなっているだろうか? 『作戦要務令・第1部』(1938年版)では第3編 「情報」を編立てにし、第1章「捜索」と第2章「諜報」をそれ ぞれ章立てしている。

 記述内容は『陣中要務令』および『統帥参考』の、ほぼ“焼き 直し”という状態であり、特段に注目する条文があるわけでない。 ただし、72条に「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定するを要す。これがため、まず各情報の出所、 偵知の時機及び方法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと 関係諸情報とを比較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ 判決を得た情報いえども更に審査を継続する着意あるを要す」の条文がある。

 ここでの「情報を審査して、比較総合し、判決する」というこ とは、今日のインフォメーションからインテリジェンスへの転換 のことを述べている。すなわち、情報循環(インテリジェンンス・ サイクル)という今日のもっとも重要な「情報理論」の萌芽を 『作戦要務令』に求めることができるのである。

 この点は大いに 注目すべきである。 しかし、実はこの『情報理論』の萌芽にはもう少し時代を遡る 必要がある。すなわち、ある「軍事極秘」の軍事教典に着目する 必要がある。それは1928年に作成された、幻の軍事教典とも いうべき『諜報宣伝勤務指針』である。

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