インテリジェンス関連用語を探る(その4)防諜について

防諜は、『諜報宣伝指針』では登場していない

1925年から28年にかけて作成された情報専門の教範である『諜報宣伝勤務指針』では、諜報、謀略、宣伝という用語が登場し、その定義がなされていますが、防諜という言葉は登場しません。

1938年7月に陸軍中野学校の前身である、後方勤務要員養成所が設立され、それが中野に移転し、陸軍中野学校に発展する過程において、諜報、謀略、宣伝と、防諜が秘密戦という用語で整理されます。では、この防諜という用語はいつ登場したのでしょうか?

防諜機能は諜報機能と共に発達

インテリジェンスには積極的機能(アクティブ・インテリジェンス)と消極的機能(デイフェンシブ・インテリジェンス)があるのは太古の昔からです。誰しも秘密があります。秘密の情報をとられてはならないから、厳重に守ろうとします。

そのため、秘匿された情報を如何にして取るかということが重要となります。これが諜報活動を高度化し、組織化していくことになります。さらには、諜報活動によって相手側の弱点が明らかになれば、それに対して心理的な打撃を与えたり、偽情報を流布して判断を誤らせるといった活動が発生します。そのため、情報を守る活動はより厳重かつ組織的になります。つまり、防諜という消極的機能は諜報、防諜、宣伝といった積極的機能と同時に発達してきたわけです。

しかし、上述のように『諜報宣伝勤務指針』では防諜という用語でできません。ただし、同指針の同書についてはのちほど詳しく言及するが、第一編「諜報勤務」の第5章では「対諜報防衛」という見出しがあり、計11個の条文(165~175)が規定されています。それが、より具体化され、体系化されていくなかで防諜という兵語が生まれます。

防諜という兵語の登場

「防諜」という語は、1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條 兵務課に於ては左の事務を掌る 六 軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項 が最初の用例だと思われます。

『防衛研究所紀要』第14巻「研究ノート 陸海軍の防諜 ――その組織と教育―」(インターネット上で公開)では、1938年9月9日に陸軍省韓関係部隊に通知された資料である「防諜ノ参考」、及び陸軍省兵務局が各省の防諜業務担当者に配布した資料である「防諜第一 號 」を根拠に、以下のように解説しています。

◇陸軍は、防諜を「外国の我に向ってする諜報、謀略(宣伝を含む)に対し、我が国防力 の安全を確保する」ことであると定義し、積極的防諜と消極的防諜に区分して説明してい る。

◇積極的防諜とは、「外国の諜報、若は謀略の企図、組織又は其の行為若は措 置を探知、防止、破摧」することであり、主として憲兵や警察などが行った。その具体的 な活動内容は、不法無線の監視や電話の盗聴、物件の奪取、談話の盗聴、郵便物の秘密開緘などであった。

◇消極的防諜とは、「個人若は団体が自己に関する秘密の漏洩を防止する行為若は措置」のことであり、軍隊、官衙、学校、軍工場等が自ら行うものであった。主要施策としては、①防諜観念の養成、②秘の事項又は物件を暴露しようとす る各種行為若しくは措置に対する行政的指導又は法律に依る禁止若しくは制限、③ラジオ、 刊行物、輸出物件及び通信の検閲、④建物、建築物等に関する秘匿措置、⑤秘密保持の為 の法令及び規程の立案及びその施行などがあった。

つまり、1937年7月の日中戦争以降に防諜の概念が整理され、陸軍省から関係部署に徹底されたということがわかります。
その後、1937年8月に軍機保護法が全面改訂され(10月施行)、 1937年11月10日の内務省広報誌『週報』56号 「時局と防諜」では、 防諜は「対諜防衛」または「諜者(スパイ)防止」の略称だと説明されました。

1938年には、 国防科学研究会著『スパイを防止せよ!! : 防諜の心得』 (亜細亜出版社、インターネット公開)といった著書が出版され、国民に対して防諜意識の啓蒙が図られました。

同著では、一防諜とはどんなことか、二防諜は国民全体の手で、三軍機の保護と防諜とは、四国民は防諜上どうしたらよいか、五スパイの魔手は如何に働くか、六外国の人は皆スパイか、七国民よ防諜上の覚悟は良いか、の見出しで防諜の概念や国民がスパイから秘密を守るための留意事項が述べられています。

同著では、「近頃新聞紙やパンフレット等に防諜という言葉が屢々見受けられるようになってきたが・・・・・・、又一般流行語の様に一時的に人気のある言葉で過ぎ去るべきものであるか、・・・・・・」と記述されていることから、防諜が一般用語として急速に普及したようです。

その後、防諜に関する著作、記事、パンフレットが定期的に頒布されました。 主なものは挙げると、『週報』240号 「特集 秘密戦と防諜」 (1941年5月14日)、『機械化』21号 「君等は銃後の防諜戦士」 (1942年8月) 、引間功 『戦時防諜と秘密戦の全貌』 ( 1943( 康徳9)年、 大同印書館出版)が挙げられます。つまり、終戦までずっと防諜の重要性が認識され、国民への啓蒙活動がおこなれました。

防諜という用語が登場・普及した背景

このように防諜という言葉が登場・普及した背景には、第一に共産主義国家ソ連の誕生と共産主義イデオロギーの海外輸出、1931年9月の満州事変以後のわが国の大陸進出と それに対する欧米、ソ連、蒋介石政権の対日牽制が挙げられます。

とくに満州事変、わが国の国連脱退などにより、日本への外国人渡来者数や軍事関連施設の視察者が増加したため、陸軍省は軍内の機密保護観念の希薄さを問題視するとともに、各省庁が連携して国家の防諜態勢を確立すること目指したのです。

スパイ事件が防諜の重要性を高める

また、わが国におけるスパイ事件が防諜の重要性を高めました。その代表事例がコックス事件とゾルゲ事件です。

コックスコックス事件は、1940年7月27日に、日本各地において在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙されたというものです。同月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り、死亡ます。

当時、この事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となりました。

一方のゾルゲ事件 は、ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲが組織する スパイ網の構成員が 1941年9月から1942年4月にかけて逮捕された事件です。 ゾルゲは、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実などを協力者として運用し、わが国が南進するなどの重要な情報をソ連に報告していました。

戦後に防諜は消滅

戦後、防諜と言葉は消滅します。これは、戦中の防諜が敵国のスパイに対する警戒から、わが国の国民に対する監視へと向かったことが原因だとみられます。

実際問題として、ゾルゲ事件にも見られるように、敵国等のスパイ活動はわが国の国民を利用して行いますので、防諜組織は監視対象を「敵国人か」と「日本人か」で峻別することは困難です。 それが、戦後になって戦中の“悪しき汚点”として忌避されたのです。

防諜は日本だではなく、各国も当然のこととしてずっと昔から行っています。英語ではカウンター・インテリジェンスといいます。戦後になり、陸上自衛隊研究本部の松本重夫氏が米軍教範から「情報教範」を作成する際、これを「対情報」と訳しました。

防諜には消極防諜と積極防諜がありましたが、わが国では積極防諜はこれといつた具体化、体系化はなされたなかったとようで。しかし、諸外国でのカウンター・インテリジェンスの概念は、わが国の積極防諜をさらに拡大、攻勢化した意味が含まれます。

だから松本氏は、カウンター・インテリジェンスの訳語について悩んでいたが、結局平凡な「対情報」という言葉になったようです。ただし、現在は教範には「対情報」という用語は存在していません。

(次回に続く)

インテリジェンス関連用語を探る(その3)「宣伝」及び「謀略」について


▼ 謀略の淵源

 「謀略」という言葉は中国では古代から用いられていたとみられます。ただし、中国における研究においても「謀略」という言葉の淵源には様々な見方があるようです。

 もともと「謀略」という言葉がいきなり登場したのではなく、「謀」と「略」が異なる時代に登場し、いつのまにか一体化して用いられるようになったとされます。 

中国の『説文大字典』によれば、謀の登場は略の登場よりも一千年早く登場したようです。

 同字典では、「謀」は「計なり、議なり、図なり、謨なり」とされ、古代ではこれらの言葉は非常に似通った意味で使用されました。『尚書』で謨が登場しますが、この字の形と読音が謀と似通っており、謨が謀に発展したとみられています。 

 なお「謀」が中国において最初に使用されたのは『老子』の「不争而善勝、不言而善応、不召而自来、繟然而善謀」です。

 『孫子』における「計」、「智」、「略」、「廟朝」、『呉子』における「図」などは謀の別称といえます。(以上、柴宇球『謀略論』、藍天出版社から取り纏め)

▼わが国において謀略という兵語の使用はいつから?

 総力戦研究所所長などを歴任した飯村譲中将によれば、「謀略は西洋のインドリーグ(陰謀)の訳語であり、参謀本部のロシア班長小松原道太郎少佐(のちの中将)の手によるものであって、陸大卒業後にロシア班に入り、始めて謀略という言を耳にした」ということです。

 そして、飯村中将は「日露戦争のとき、明石中佐による政治謀略に関する毛筆筆記の報告書がロシア班員の聖典となり、小松原中佐が、これらから謀略の訳語を作った」と推測しています。

 しかし、「謀略」の用例については、1884(明治17)年の内外兵事新聞局出版の『應地戰術 第一巻』「前哨ノ部」に「若シ敵兵攻撃偵察ヲ企ツルノ擧動ヲ察セハ大哨兵司令ハ其哨兵ノ報知ヲ得ルヤ直チニ之ヲ其前哨豫備隊司令官ニ通報シ援軍ノ到着ヲ待ツノ間力メテ敵ノ謀略ヲ挫折スルコトヲ計ルヘシ」という訳文があります。

 また「偕行社記事」明治25年3月第5巻の「參謀野外勤務論」(佛國將校集議録)に「情報及命令ノ傳達 古語ニ曰ク敵ヲ知ル者ハ勝ツト此言ヤ今日モ尚ホ真理タルヲ失ハサルナリ何レノ世ト雖モ夙ニ敵ノ謀略ヲ察知シ我衆兵ヲ以テ好機ニ敵ノ薄弱點ヲ攻撃スル將師ハ常ニ赫々タル勝利ヲ得タリ」という訳文があります。

 したがって、どうやら飯村中将の説は誤りのようですが、いずれにせよ日露戦争以後に謀略と言う言葉は軍内における兵語として普及したとみられます。

 ▼『陣中要務令』において「宣伝」が登場

 1889年に制定され、 日露戦争の戦訓を踏まえて1907年(明治40年)に改訂された 『野外要務令』では、「情報」及び「諜報」はわずかに確認できますが、「謀略」や「宣伝」という用語は登場しません。

 しかし、『野外要務令』の後継として、大正期に制定された『陣中要務令』では、以下の記述があります。

第3篇「捜索」第73
「捜索の目的は敵情を明らかにするにあり。これがため、直接敵の位置、兵力、行動及び施設を探知するとともに、諜報の結果を利用してこれを補綴確定し、また諜報の結果によりて、捜索の端緒を得るにつとめざるべからず。捜索の実施にありては、敵の欺騙的動作並びに宣伝等に惑わされるに注意を要する。」

第4編「諜報」第125「諜報勤務は作戦地の情況及び作戦経過の時期等に適応するごとく、適当にこれを企画し、また敵の宣伝に関する真相を解明すること緊要なり。しかして住民の感情は諜報勤務の実施に影響及ぼすこと大なるをもって上下を問わない。とくに住民に対する使節、態度等ほして諜報勤務実施に便ならしむるごとく留意すること緊要なり。」

 ここでの宣伝は、我の諜報、捜索活動の阻害する要因であって、敵によって行われる 宣伝(プロパガンダ)を意味しているとみられます。

 ▼ 「宣伝」「謀略」 がわが国の軍事用語として定着


 「宣伝」「謀略」 がわが国の軍事用語として定着したのは、1928年に制定された『諜報宣伝勤務指針』及び『統帥綱領』だとみられます。

 『諜報宣伝勤務指針』 の第二編「宣伝及び謀略勤務」では、宣伝、謀略について、用語の定義、実施機関、実施要領、宣伝及び謀略に対する防衛などが記述されています。

 同指針では、以下のように記述されています。

「平時・戦時をとわず、内外各方面に対して、我に有利な形成、雰囲気を醸成する目的をもって、とくに対手を感動させる方法、手段により適切な時期を選んで、ある事実を所要の範囲に宣明伝布するを宣伝と称し、これに関する諸準備、計画及び実施に関する勤務を宣伝勤務という。」 

「間接あるいは直接に敵の戦争指導及び作戦行動の遂行を妨害する目的を持って公然の戦闘員もしくは戦闘団体以外の者を使用して行う行為もしくは政治、思想、経済等の陰謀並びにこれらの指導、教唆に関する行為を謀略と称し、これが為の準備、計画及び実施に任ずる勤務を謀略勤務とする。」

一方の『統帥綱領』では以下のように記述されています。

第1「統帥の要義」の6
「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象としてこれを行ない、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。」

時代はやや下り、1932年の『統帥参考』では以下のように記述されています。

第4章「統帥の要綱」34
「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行ない、敵軍戦力の崩壊を企図すること必要なり」

以上のように、「捜索」あるいは「諜報」のように、敵に対する情報を入手するだけでなく、敵戦力の崩壊を企図する、敵の作戦指導などを妨害する、あるいは我に有利な形成を醸成する機能を持つ「宣伝」及び「謀略」が軍事用語として一般化されました。

その背景には、第一次世界大戦において、戦争が総力化、科学化、非戦場化して平時及び軍事、戦場及び非戦場において、「戦わずして勝つ」をモットーとする秘密戦が重要な要因になったことが挙げられます。

(次回に続く)

インテリジェンス関連用語を探る(その2) 諜報と『諜報宣伝指針』   

「諜報」という用語の源流

諜報や間諜という言葉の歴史は古く、中国では『孫子』の13編において間諜について記述しています。

わが国においても「諜報」と「間諜」の歴史は日本書紀まで遡ります。山本石樹が『間諜兵学』(1943年)に記すように、「間諜」は狭くみれば「敵情を探りてその主に報ずるもの」ということになりますが、「敵勢を不利に導き、味方を有利にならしむべき隠密行動を為すもの」という解釈が一般的でした。
[1]

「情報」は1882年の『野外陣中軌典』において初登場しますが、間諜はそれよりも古くから旧軍において登場します。1871年(明治4年)に参謀本部の前身である兵部省陸軍参謀局が設置され、その下の間諜都督使が間諜隊を統括しました。 また、同参謀局の職責は「機務密謀に参画し、地図政誌を編纂し、並びに間諜通報等の事を掌る」とされました。

1874年6月に制定された参謀局条例は、参謀局の任務と権限について[2]、諜報堤理佐官[3]を置くことが定められ、その任務として「戦時諜報の事を総理せしむ、平時に在りては事の視察すべきあるに臨んで諜を発す」と定められました[4]

つまり、「情報」が登場する以前に「諜報」は軍隊用語として存在していたのです。

海軍においても、1896年(明治29年)3月、海軍軍令部に第1局、第2局のほかに牒報課が新設されました。なお「 牒報 」は1897年(明治30年)勅令第423号から「諜報」に改められました。

 このように、わが国の参謀本部機構が形成されるなかで、「諜報」は早くからその骨格を現し始めていました。

しかし、1907年の『野外要務令』では、第13条において「諜報勤務」との用語が一ケ所出てくるだけであり、「諜報」の具体的な内容は言及されていません。

つまり、「情報」と同じく「諜報」も、明治期においては馴染みの薄い用語であったといえます。

『諜報宣伝指針』について

前回は、1914年(大正3年)の『陣中要務令』[5] と1932年の『統帥参考』及び『作戦要務令』を根拠に、情報捜索、諜報の関係が明確になったことを述べました。今回は、1928年(昭和3年)2月に陸軍参謀本部が作成した『諜報宣伝指針』を見てみましょう。

同指針は当時の諜報及び宣伝謀略などのことを専門的に記述した「軍事極秘」書であり、参謀本部第8課(謀略課)が保管していました。のちに陸軍中野学校の教範として使用されました。

構成は、第1編「諜報勤務」で、第2編「宣伝及び謀略勤務」からなります。第1編は5編からなり、計175の条文があります。そのなかに以下の条文があります。

「敵国、敵軍そのほか探知せんとする事物に関する情報の蒐集(しゅうしゅう)、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務を情報勤務と総称し、戦争間兵力もしくは戦闘器材の使用により、直接敵情探知の目的を達せんとするものは、これを捜索勤務と称し、平戦両時を通じ、兵力もしくは戦闘器材の使用によることなく、爾(じ)多の公明なる手段もしくは隠密なる方法によりて実施する情報勤務はこれを諜報勤務と称す。」

 ここでは、情報勤務、捜索勤務、諜報勤務の意義が定義されています。前回、『統帥参考』(1932年)及び『作戦要務令・第2部』(1936年)において、情報を得る手段が諜報と捜索からなることについては既述しました。ただし、『諜報宣伝指針』は両教典に先行していますので、『諜報宣伝指針』において、情報、諜報、捜索の関係が整理されたと見るべきでしよう。

 ここでは情報勤務は「敵国等に関する情報の収集、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務である」とされますが、査覈とは「調べる」という意味です。今日では使われない用語です。

中野学校卒業生・平館勝治氏によれば、参謀本部第8課から中野学校に派遣された教官である矢部中佐の謀略についての講義のなかで、講義中「査覈」と黒板に書き、「誰かこれが読めるか」と尋ねったが、誰も読める者がいなかったといいいます。

『作戦要務令』では以下の条文があります。

「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定するを要す。これがため、まず各情報の出所、偵知の時機及び方法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと関係諸情報とを比較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ判決を得た情報いえども更に審査を継続する着意あるを要す。

敵情の逐次変化する過程を系統的に討究するときは、その状態、企図等を判断するの憑拠を得ることすくなからざるをもって連続的に情報を収集すること緊要なり。

既得の情報により、的確なる判決を求め得ざる場合においても、爾後速力に偵知すべき事項を判定し、もって情報収集に便ならしむるを要す。」(72条)

「情報の審査にあたりて先入主となり、或は的確なる憑拠なき想像に陥ることなきを要す。また、一見瑣末の情報いいえど全般より観察するか、もしくは他の情報 と比較研究するときは重要なる資料を得ることあり。なお局部的判断にとらわれ、あるいは 敵の欺騙、宣伝等により、おうおう大なる誤謬を招来することあるに注意するを要す。」(74条)

査覈を現代の言葉で説明すれば、その情報(インフォメーション)の情報源の信頼性や情報の正確性などを調べて評価することに相当するとみられます。

今日、インテリジェンスの世界では、情報サイクル(循環)という概念が「情報理論」として定着しています。『諜報宣伝指針』の記述内容には、すでに情報サイクルの概念、理論が盛り込まれていることに驚かされます。

わが国の軍事情報においても、戦後、米軍の教範『MILITARY INTELLIGENCE』をもとに、情報教範が作成され、そこではインテリジェンスとインフォーメーションを明確に区分し、インフォーメーションを情報資料、インテリジェンスを情報と呼称するようになりました。そして、情報資料を情報循環の過程のなかで処理して得た有用な知識が情報であり、これが伝達・配布されます。

戦後、米軍の「情報教範」から陸上自衛隊の「情報教範」を作成した、元陸上自衛隊幹部学校研究員であった松本重夫氏(陸士53期)は次のよう述べています。

「戦後、米軍の「情報教範」が理論的、体系的に記述されていたことに対し、旧軍の情報教育は“情報”をというものを先輩から徒弟職的に引き継がれていたもの程度にすぎず、「情報学」や「情報理論」と呼ばれるような教育はなかったということである」(松本重夫『自衛隊「影の部隊」情報戦)。

前出の平館氏は、以下のような発言をしています。

「私が自衛隊に入ってから、情報教育を自衛隊の調査学校でやりましたが、同僚の情報教官(旧内務省特高関係者)にこの指針を見せましたが反応はありませんでした。

 私が1952年7月に警察予備隊(後の自衛隊)に入って、米軍将校から彼等の情報マニュアル(入隊一か月位の新兵に情報教育をする一般教科書)で情報教育を受けました。その時、彼等の情報処理の要領が私が中野学校で習った情報の査覈と非常によく似ていました。

 ただ、彼等のやり方は五段階法を導入し論理的に情報を分析し評価判定し利用する方法をとっていました。それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などというものは万国共通のものなんだな、とひとり合点していましたが、第四報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめてなぞがとけると共に愕然としました。

 ドイツは河辺少佐に種本をくれると同時に、米国にも同じ物をくれていたと想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改良工夫を加え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、日本はその種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしていました。

 この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたものと察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであったと感じました(『諜報宣伝勤務指針』の解説、2012年12月22日)。

 時代は遡りますが、日露戦争時、日本海海戦の大勝利の立役者・秋山真之少佐が米国に留学し、米国海軍においては末端クラスまでに作戦理解の徹底が図られていることを学習しました。

しかし、秋山は帰国後の1902年に海軍大学校の教官について教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していないことに驚いたといJます。なぜならば、秘密保持の観点から、戦術は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからです。

 秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るるよりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官にしたためました。

 なんでもかんでも秘密、秘密にする風潮は結局、昭和の軍隊においては改められなかったのです。『諜報宣伝指針』というすばらしい情報教範があったのにもかかわらず、それが改良と工夫され、情報教育の普及に反映されなかったのは残念といえます。


[1] (小野「情報という言葉を尋ねて(2)」)

[2] 「参謀局長は陸軍卿に属し、日本総陸軍の定制節度をつまびらかにし兵謀兵略を明らかにし、もって機務密謀を参画するをつかさどる。平時にあり地理をつまびびらかにし政誌をつまびらかにし、戦時に至り図を案じ部署を定め路程をかぎり戦略を区画するは、参謀局長の専任たり」とされた。大江士乃夫『日本の参謀本部』(中公新書、一九八五年)

[3] なお、初代の諜報堤理は桂太郎である。桂は1870年から3年間ドイツに留学し、帰国後に陸軍大尉に任官し、第6局勤務、ついで少佐に進級し参謀局の設置とともにその諜報堤理の職につき、75年間からドイツ公使館附武官として海外赴任し、帰国して、78年7月に再び諜報堤理に補職された。

[4] 有賀傳『日本陸海軍の情報機関とその活動』、

[5] 『野外要務令』は大正期に入り、第1部「陣中要務」と第2部「秋季演習」が分離独立し、1914年(大正3年)6月に、この第1部を基に軍隊での勤務要領を定めたものが『陣中要務令』となった。同要務令は1924年(大正13年)に改訂された。

[6]同章は第一節「騎兵集(旅)団」、第二節「師団騎兵」、第三節「斥候」に区分。

インテリジェンス関連用語を探る(その1)    

▼はじめに  

2016年1月、拙著『戦略的インテリジェンス入門』を発刊して以来、ビジネスパーソンの方々から情報分析についてお聞きしたいとの依頼が何度かありました。  

同著は、国家安全保障に携わる初級の情報分析官を読者として想定し、執筆したものです。筆者としては、できるだけ内容を簡潔に、かつインテリジェンスの全領域を網羅することに着意いたしました。

しかしながら、入門書という立場上、参考文献の記述から大きく逸脱するわけにはいきません。そのため少し説明が杓子定規になってしまい、読みづらい点があったことを残念に思っています。

ビジネスパーソンの方々にインテリジェンスや情報分析のお話ししてみて、改めて、これまで当たり前のように使用してきた「情報」「インテリジェンス」「情報分析」という言葉の意味はなんだろうか?と、自問しました。

そしてビジネスパーソンなどの方々にそれら内容を伝えるには、用語の意味や内容をさらに咀嚼し、身近な例に置き換えるなどの努力をする必要があると認識しました。

そこで、このシリーズではインテリジェンス関連用語について、できるだけわかりやすく述べてみたいと思います。なおすでに筆者の他の題目ブログにて述べたことと一部重複する個所もありますが、ご容赦下さい。

▼「情報」のルーツを探る  

現在は情報学、情報処理、情報システム、情報公開、情報戦など、情報に関連する用語が日常的に氾濫しています。すなわち「情報」は日常語であると言えるかと思います。

しかし、わが国における「情報」という言葉は、もともとは「敵情報告」の略語として明治時代に生まれた軍事用語です。また、他の多くの言葉のように「情報」も中国からの流入語と思われがちですが、そうではありません。ただし、「情」という言葉は、孫子の「敵の情」という用例が示すとおり、中国からの流入語となります。しかし、「情報」は、中国人自身が認めているように日本から中国に輸出されたのです。

その初出例は、1876年(明治9年)に酒井忠恕陸軍少佐が翻訳した『佛國歩兵陣中要務實地演習軌典』(内外兵事新聞局)です。同著では、情報は「情状の知らせ、ないしは様子」という意味で使用されました。つまり、情報は敵の「情状の報知」を縮めたものでした。

その後1882年に『野外演習軌典』(陸軍省)において「情報」が初めて陸軍の軍事用語(兵語)として採用されました。1901年にはドイツから帰国した森鴎外が、ナポレオンの軍事将校として勤務したクラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳(大戦学理)した際、情報とは「敵と敵国に関する我が智識の全体を謂ふ」と定義しました。

また鴎外は情報とは「これ、我が諸想定及び諸作業の根底なり。敵の情報とは『敵の状・情』に関するものなり。『状』とは、敵の兵力や装備等の状況(事実)を明らかにするもの。『情』とは、敵の感情の動きや内部のそれぞれの事情を含めた士気・規律・団結の状況を示すもの」と解説しました。

『野外陣中軌典』で「情報」が使われるようになった以降、他の兵書でも「情報」という言葉が使われるようになります。それと同時に「状報」という言葉も使用されます。上述のような用例の違いはあったとしても、両用語は明確な区別なく使用されていました。

1989年(明治24年)、わが国最初の体系的な陸軍教範『野外要務令』が制定されました。同要務令をひも解きますと、情況、情状、敵情、事情などの「情」がつく言葉は随所に登場します。しかし「情報」が登場する箇所はわずか二箇所です(筆者の検証ミスがあったらお許しください)。

ここでの使用法を抜粋します。

・「……このごとき情報を蒐集(しゅうしゅう)するは主として最前線にある騎兵の任務に属す。……」

・ 「情況を判決するには直接に敵を探偵観察して得たる情報と他の諸点より得たる認識推測を集めてなれる証迹(しょうせき、証跡)とをもってするを最も確実なるものとする。・・・・・・」

つまり、「情報」は、上述のとおり、敵や地域に関する「状」や「情」であって、戦場において敵及び地域と直接接触して得ることがおおむね認識されていたと考えられます。ただし、軍内に広く定着する軍事用語ではありませんでした。

1914年(大正3年)には、『野外要務令』を基礎に『陣中要務令』が制定されました。ここでの「情報」の使用は『野外要務令』と比べると多少増えています。しかし、「情報」の定義及び内容などを直接的に説明した箇所は見当たりません。

他方、同要務令では、「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述されました。同要務令は計13編の構成になっていますが、その第3編が「捜索」、第4編「諜報」となっています。つまり、「捜索」と「諜報」がそれぞれ章立てされたということになります。

そして、「捜索」とは、戦場において、主として騎兵などの第一線部隊が敵と接触して得る「敵の状・情」である旨が記述されています。 一方の「諜報」は、主として諜報専門部隊が住民の発言、新聞、信書、電信、その他の郵便物、俘虜などから得る「敵の状・情」である旨が記述されています。

つまり、「捜索」は戦時における戦場において第一線部隊が獲得するもの、「諜報」は戦時・平時及び戦場・非戦場を問わず諜報専門部隊が獲得するものとして、大まかに区分されたと解釈できます。

さらに昭和期に至り、1932年(昭和7年)に『統帥参考』が制定されました。同書では「情報収集」の手段を「諜報勤務」と「軍隊に行う捜索」に区分する、としています。また、同年制定の『作戦要務令』の第3編「情報」では、第1章「捜索」、第2章「諜報」に区分して、その意義や内容を具体的に記述しています。

つまり、昭和期に至ってようやく「情報」が「捜索」と「諜報」の上位概念であり、「捜索」と「諜報」を網羅するものであることが規定されたのです。

(次回に続く)