ツイッター、トランプ大統領のアカウント停止に思う

1月8日、ソーシャルメディア(SNS)大手のツイッターがトランプ大統領のアカウントを「さらなる暴力扇動のリスク」を理由として永久停止したようです。

私にとって、このニュースは今後の国際社会の行方を占う〝ドライバー〝であると思われますので、報道事実を中心備忘録として書き残しておきます。

事の起こりは、1月6日午後、ワシントンの連邦議会議事堂で大統領選の結果を確定させる上下両院の合同会議が開催中のことです。トランプ大統領の支持者が多数、会期場に乱入し、一時占拠しました。合同会議は中断を挟んで再開され、7日未明に大統領選の結果確認を終え、バイデン次期大統領の勝利とトランプ氏の敗北が正式に確定しました。この乱入騒ぎで警察に銃撃された女性1人を含め、4人が死亡した模様です。

この乱入事件に世界が注目しているようですが、私はツィターの停止の方に関心がありました。ツィターがトランプ氏のアカウントを停止した経緯は以下のとおりだとされています。

トランプ氏は、事前に支持者が議事堂で抗議するよう扇動していたとの批判が集まっていました[1]。これを受けて、ツイッターは6日にトランプ氏のアカウントを一時停止しました。その後、アカウントは一時解除され、ツイッターによる停止表明から24時間後の7日午後7時10分(東部時間)に、トランプ氏は暴力への批判と国民の団結を呼びかける2分41秒のスピーチ動画をツイッートしました。

さらに8日午前9時46分と午前10時44分にツィートし、この中で、トランプ氏が「20日のバイデン新大統領就任式に出席しない」などと表明し、「米国の愛国者たち」などの表現で支持者らを激励しました。

これを問題視したツィターが8日午後6時21分にトランプ大統領のアカウントを「さらなる暴力扇動のリスク」を理由として永久停止しました。

ツィターの動きを受けて、SNS各社が軒並みトランプ大統領のアカウント凍結に動いています。

フェイスブックもアカウント停止の無期限延長を表明しました。ツイッターの代替として、多くのトランプ氏の支持者が活用するソーシャルメディア・アプリ「Parler(パーラー)」については、グーグル社が8日、アップル社が9日、それぞれ自社のアプリ・ストアで凍結・削除しました。このほか、アマゾン社がホスティング・サービスから削除する決定をしました。アップルやアマゾン・ドット・コムは、右派が集まる交流サイト(SNS)「パーラー」をアプリストアやウェブサービスから削除しました。

ツィターの永久停止に対して、トランプ氏は米国大統領の公式ツイッターアカウントを使って、以下のようには表現の自由を損なうものとして反論してます。

「ずっと言い続けてきたことだが、ツイッターは表現の自由の禁止へとどんどんと突き進んできた。そして今夜、ツイッターの社員たちは民主党や急進左派と連携して私のアカウントをプラットフォームから削除し、私を沈黙させた――さらに私に投票してくれた7,500万人の偉大な愛国者の皆さんのこともだ。ツイッターは私企業だが、通信品位法230条(プラットフォーム免責)の恩恵なしには長くは存続できないはずだ。いずれそうなる。他の様々なサイトとも交渉をしてきた。いずれ大々的な発表をすることになるだろう。近い将来、我々独自のプラットフォームをつくる可能性も検討している。我々は沈黙しない。ツイッターは表現の自由とは縁もゆかりもない」[2]。(平和博「Twitter、Facebookが大統領を黙らせ、ユーザーを不安にさせる理由」)

トランプ氏は「表現の自由」という観点から、ツィター社を批判し、近い将来、独自のプラットフォームを立ち上げる可能性をちらつかせ、対抗意志を露にしました。

 一方、野党民主党は「トランプ氏が支持者らによる連邦議会での暴動を扇動した」などとして、11日、連邦議会下院にトランプ大統領を弾劾訴追する決議案を提出しました。一般の刑事事件の起訴状にあたる決議案では「トランプ大統領は政府への暴力をあおる重罪に関与した。大統領は国家安全保障と民主主義への脅威であり続ける」と非難しています。

 SNS(ソーシャルメディア)が社会的な問題を引き起こすことから、かねてよりコンテンツ管理強化を要求する声は高まっていました。これに、今夏の議事堂占拠事件が起こったのですから、今回のツィターの措置には一定の理解が示されているようです。

しかし、この問題の意味するところは小さくありません。なにしろ、トランプ氏はまもなく大統領を辞することが確定しているとしても、未だ現職の大統領なのです。一介の私企業であるツイッターがあからさまな政治活動を行っていることには、権力層への癒着という違和感さえあります。

2008年ごろからツイッター、フェイスブックなどのSNSが普及し、非民主主義の権威主義体制下の国の一部では、政府と国民との力関係が逆転する現象が起きました。2010年代のアラブの春はその記憶に新しいところです。その裏には欧米などの民主化運動への支援の影がちらついていました。他方、米国や中国などではSNSが政府などの権力と連携して、水面下で国民をコントールしているとの批判もあります。

今回のツィターのなどによる停止措置は、これまでのSNSによる水面下での政治工作が表面化したともいえます。トランプ支持派の暴力的行為は論外ですが、これにしても実態はどれほど深刻なのものかはわかりません。

香港デモでは、我々は民主化グループの活動がたとえどれほど過激であろうとも、それを〝善〟として捉え、取り締まる側を民主主義を抑圧する〝悪〟だと捉える傾向があります。香港民主化グループと、会議に雪崩れ込んだトランプ支持者はどうほど違うのでしょうか? 一方を〝善〟として、トランプ支持派を〝悪〟と認識する我々の多くは、本当はマスメディアによって操作された情報に踊らされている可能性さえあります。

今回のツィター社の行為は、国際社会がますます「国家に対する個人のエンパワーメントの増大」に向かっていることを証明しました。拡大解釈すれば、SNSなどの一部の巨大IT企業が、どこかの独裁国家と連携すれば、自らの価値観に沿った世界を構築し、支配するという懸念も出てきます。

よく「ポピュラリズム」を自由・民主主義の脅威だという声を耳にします。しかし、ポピュラリズムは直接民主主義が生んだ産物です。ポピュラリズムを一概に否定するわけにはいきません。これもメディアの操作かもしれません。

むしろ、SNSが特定の利益集団と連携して、それに反対する国民の言論や集会、結社の自由を奪うとすることの方が自由・民主主義への冒涜とはいえないでしょうか。一部の私企業における歯止めのない権力の増大こそが自由・民主主義の大きな脅威だと、私は思います。

共和党のルビオ上院議員はFOXニュースに、米国自由人権協会(ACLU)は「フェイスブックやツイッターなどの企業が、数十億人の発言に不可欠となったプラットフォームからユーザーを排除するという絶対的権力を行使することは懸念だ」との見解を示しました。

また、ドイツのメルケル首相は11日、ツイッター社の決定について、意見表明の自由を制限する行為は「法に基づくべきだ」と述べ、同社の対応を批判し、報道官を通じて、意見表明の自由を守ることは絶対的に重要だと強調しました。

メルケル氏は、多国間主義の重要性を基本理念として、トランプ氏の「米国第一」の政治姿勢に対しては批判的な立場を取っていますが、彼女には確固たる政治理念があります。だから、自国のみならずEUでもメルケル氏は大いに尊敬を集めています。

メルケル氏の発言を世界はどのように受け止めるかを注目しています。


[1]  トランプ氏は6日正午すぎにはホワイトハウス近くで演説し、「ここにいる全員が議事堂に行き、平和的に愛国的に、声を聞かせるために行進することを知っている」と議事堂での抗議を求めた。

[2]これらのツイートも、間もなくツイッターによって削除された。

半藤さんのご冥福をお祈りします

1月12日、昭和史に関するノンフィクション作品を多く手がけた作家の半藤一利(はんどう・かずとし)氏がお亡くなりなりました(享年90歳)。謹んでご冥福をお祈りいします。

昭和5年、東京にお生まれになり、東大文学部を卒業し、文芸春秋新社に入社され、1990年から本格的な作家活動に入られたとのことです。

私も半藤氏の著書はいくつか拝読しました。半藤氏の『昭和史』(平凡社ライブラリー)は、『昭和史1926-1945』と『昭和史 戦後篇 1945-1989  』の2冊がありますが、現在まで累計70万部を超えるベストセラーになっています。昭和史としては日本で最も多く読まれた書の一つといえるでしょう。

今日(1月13日1300時現在)の「アマゾンランキング軍事」で検索すると、『日本のいちばん長い日 決定版』(文集文庫)が売れ筋の第一位で、『ノモンハンの夏』が同第二位です。著名人の身上変化が出版市場を大きく動かすのはいつものことですが、半藤氏の影響力の大きさを改めて感じます。

『日本のいちばん長い日 決定版』は、昭和40年に大宅壮一編として、玉音放送までの一日を描いた「日本のいちばん長い日-運命の八月十五日」として発表されました。これが、平成7年に「決定版」として、自身の名義で改訂されました。

半藤氏の昭和史は非常に面白く、綿密な取材の跡が随所に伺えます。ただ少し、私が思っている歴史認識とは少し違うな、という印象ではあります。

私のような浅学な歴史認識では太刀打ちできませんので、「テンミニッツtv」で学んだ、故・渡部昇一氏の見解をここに引用しておきます。

「私は半藤氏をよく存じ上げている。彼が月刊誌『文藝春秋』の編集長を務めていた頃、企画などをよく頼まれていたのだ。半藤氏は教養あるジェントルマンで、奥さんは夏目漱石のお孫さんである。私と同い年で、大東亜戦争にも大変興味を持っており、戦後、司馬遼太郎氏をはじめ、いろいろな人と交流を持ちつつ多くの関係者に取材し聞き書きを行なっておられる。

 だから、半藤氏の『昭和史』に書かれていることは、時代の一面を非常にうまく切り取っている。口述を文章にまとめたものだから、とても読みやすく、面白いエピソードも数多く入っている。どの話も事実であろう。

 だがしかし、そうであるがゆえに、ある意味で危険ともいえる面がある。そのことを、本書の冒頭でぜひ示しておく必要がある。

 私の見るところ、半藤氏は終始、いわゆる「東京裁判史観」に立っておられる。つまり、東京裁判が日本人に示した(言葉を選ばずにいえば、日本人に「押し付けようとした」)歴史観の矩(のり)を一切踰(こ)えていない。

 戦後、占領軍の命令で、東京裁判(極東国際軍事裁判、昭和21年〈1946〉~23年〈1948〉)のためにあらゆる史料が集められた。それがあまりに膨大なものであったため、それらの史料こそが「客観的かつ科学的な歴史」の源であり、それらなしには二度と昭和史の本を書くことができないような印象さえ世間に与えた。

 だが、実はこの「客観的かつ科学的」というのが、大きな偽りなのである。

 一般にはあまり知られてこなかったことではあるが、終戦直後に、7千点を超える書籍が「宣伝用刊行物」と指定されて禁書とされ、GHQの手で秘密裏に没収されている。その状況については、現在、西尾幹二氏が著作を発表されておられる。また、当時の日本人の多くが気づかないうちに、戦後のメディア報道はきわめて厳重に検閲され、コントロールされていた。そのことについては、江藤淳氏の労作をはじめ、さまざまな研究がなされている。

 さらに、これは気をつけなくてはならない点だが、そのような状況下で「歴史観」がつくられていくと、実際に体験をした人の「記憶」も巧妙に書き換えられていくのである。なぜなら、全体を見渡せるような立場にいた人は少ないからだ。

 自分が経験したことは、大きな時代の流れの一局面にすぎない。だから、外から「実はお前がやらされていたことは、こういう動きの一部分なのだ」と指摘されると、「そんなものかなあ」と思わされてしまうことも多い。

 また、それに輪をかけて気をつけなくてはいけないのが、実際に体験した人々の話を編集したり、聞き書きする人の歴史観である。体験談は多くの場合、もちろん編集者の目を経て発表される。しかも体験者はプロの書き手ではないから、誰かに聞き書きをしてもらうことも多い。その編集者や、体験談をまとめる書き手が一定の歴史観に縛られていたとすれば、残された「記録」の方向性に大きなバイアスがかかってしまうのである。

 戦後のメディアの「言論空間」の中では、編集者や書き手の歴史観が、大きく東京裁判に影響されたことはいうまでもない。

 東京裁判以後の歴史観が、残された史料によって必然的に「東京裁判史観」に墜ちていってしまうのは、このような背景があるからだ。また、戦争の時代を生きた当事者の聞き書きだからといって、簡単に「『東京裁判史観』の影響を受けていない歴史の真実だ」と断ずることができないのも、いま指摘した通りだ」(以上、「テンミニッツTV」テキストから抜粋)

 渡部氏の指摘のポイントは、①戦後のメディア報道はGHQにより、きわめて厳重に検閲され、コントロールされた状況下にあった。そのような状況下で「歴史観」がつくられていくと、実際に体験をした人の「記憶」も巧妙に書き換えられていく。②実際に体験した人々の話を編集したり、聞き書する人の歴史観にはバイアスがかかる。GGQにより恣意的に残された史料が必然的に、編集者や聞き書きする人の歴史感を「東京裁判史観」に擦り寄せていく。以上の二点です。

 司馬遼太郎氏がノモンハン事件を執筆するための取材に、半藤氏は編集者として同行しました。しかし、司馬氏はノモンハン事件については書きませんでした。そこで、司馬氏のお別れ会で、自分がノモンハンについて書くと決めたのだとされています。

さて、ノモンハン事件は、作戦参謀の辻正信と同作戦主任参謀の服部卓四郎によって執行され、その作戦は失敗に帰した。その責任を取る形で両名は一応左遷されたが信じられないような軽い処分で済んだ。というのがこれまでの歴史の定説です。半藤氏の主張もこのような定説を補強するものとなっています。

ただし、ソ連崩壊後に旧ソ連時代の秘密文書が解禁となって以降、異なる歴史解釈が紹介され、実はノモンハンについても、ソ連の方が格段に損害が大きかったという見解も出て来ています。また、当時、その情報は「機密情報」としてソ連が封印していたというのです。

ジューコフ元帥が第二次世界大戦後にインタビューを受けて、「あなたの戦歴の中で最も厳しい戦況だった戦いはどこですか?」との問いがあり、インタビュアーは、「独ソ戦史の中のいずれかの戦場」との答えを期待していたようです。しかし、彼は一言「ノモンハン」と回答しました。

結局、当時の陸軍には戦闘損耗を妥当に評価できる態勢がありませんでした(なお、米軍はBDA(爆撃効果判定、Bomb Ⅾamage  Assessment)を重視している)。これに加え、GHQの意図的な情報操作があったとすれば、執筆者や編集者の著述の正確性は低下し、我々の歴史認識も変わってしまうことになります。

インテリジェンスの重要性を改めて認識します。

判断力思考(3)

■状況判断と情勢判断

 筆者が防衛省情報分析官の時代には「状況判断」という言葉よりも「情勢判断」という言葉の方が馴染みになりました。

 情報分析官の仕事は、国際情勢や安全保障に関わる事項が主であり、陸上自衛隊の部隊のように瞬時の状況判断が求められることは、それほど多くありません。

 状況は「周囲の状況」「その時の状況」といった使い方が一般的です。他方、情勢は「国際情勢」「当時の情勢」「将来の情勢」などといった使い方が多いようです。とはいえ、状況と情勢に明確な境界線は引くことは困難であり、時間や地理空間の大小で感覚的に区分して使用していると言えます。

 時間で見た場合、状況判断には「咄嗟」や「瞬時」の判断がより強く求められ、情勢判断には「周到」や「正確」が求められます。つまり、状況判断はスピード重視、情勢判断を正確性重視という特性があります。

 他方、地理空間で見た場合、状況判断は「周囲」や「身の回り」といった個別的、具体的、詳細的な判断が求められます。情勢判断には国際情勢などのような広範的、多角的、重層的な判断が求められます。

■戦略判断と戦術判断 

 自衛隊には戦略、戦術という言葉があり、それぞれ戦略判断(戦略的意思決定)、戦術判断(戦術的意思決定)という言葉もよく使われます。戦略判断が情勢判断、戦術判断が状況判断に相当すると考えればよいと思います。

 そこで、状況判断と情勢判断をより理解するために、戦略と戦術の関係について見ておきましょう。

 戦略と戦術は、旧陸海軍時代からの軍事用語なのですが、今日は政治やビジネスなどでも広く使われるようになっています。軍事用語としての戦略とは「大規模な軍事行動を行うための計画や運用方法」、戦術とは「戦略の枠内での個々の戦闘を行うための計画や遂行方法」などと定義できます。このように戦略と戦術は相互に対比される概念であり、戦略が上位、戦術が下位になります。

今日、戦略も戦術がビジネスなどの多領域に浸透したことから、軍事でも一般でも通用する本質的な概念を探る努力がなされています。それに関して、私は次のように定義しています。

戦略は「環境条件の変化に対応して物事がいかにあるべきかを決定する学(サイエンス)術(アート)である」、戦術は「固定的な状況から物事をいかに為すべきかを決定する学と術である」(拙著『戦略的インテリジェンス入門』)

一般のビジネス書では、戦略は「企業目的や経営目標を達成するためのシナリオ」などと定義され、「目的、目標、ゴール、方針」などといった言葉で表現されます。一方の戦術は「戦略を実現させるための具体的な手段」と定義され、「方法、やり方、オペレーション」などといった言葉が良く使われます。

要するに、戦略とは「目的や目標(What)を決定する」ものであって、戦術は「目的や目標のやり方(How to)を決定するもの」ということになります。

翻って、状況判断あるいは戦術判断は「目的や目標が決定(固定)している状況下で、瞬間的あるいは短期間の内にどのやり方が良いかを判断する」、一方の情勢判断あるいは戦略判断は「じっくりと時間をかけて目的や目標という進むべき方向性を判断する」ということなります。

次回は状況判断の特性についてさらに考えてみたいと思います。

判断力思考(2)

今回は判断や状況判断について考えてみます。

■判断とは何か

「判断」は「物事の真偽などを見極めて決めること」という意味です。判断の代わりに「決断」や「断定」などの類語もよく使われます。

「判断する」を「決断する」に置き換えてもそれほどの意味の違いはありませんが、「判断を仰ぐ」はあっても「決断を仰ぐ」はあまり耳にしません。というのは、判断は上司などに仰ぐことができても、決断は自ら行うものだからです。

「判断」と「決断」のいずれも、「どちらが善いか悪いかなどを見定めて決める」という意味がありますが、「決断」の方は決断をする人の意志がより強いと言えます。すなわち、判断が思考作用であるとすれば、決断は思考作用に意志という精神作用が加わったものであると言えるかもしれません。

順序的には、判断→決断であって、決断→判断はあり得ません(判断→決断の繰り返しはある)。判断は「どちらの選択肢が良いのか見極める」段階、決断の段階では「良い方の選択肢を実行に移す」段階ということになります。

■状況判断は軍事用語

最近は、よく「状況判断」という言葉を耳にします。特にスポーツの世界では状況判断は定着しています。

野球でノーアウト、ランナー三塁の場面です。野手が内野ゴロを捕獲し、バックホームするか、それとも一塁に送球するか、瞬時の判断が必要となります。このような場合、野手は三塁ランナーの位置、打者の打球の速さ、打者の走力などの状況を総合的に考査して、瞬発的に判断を下すことになります。このような判断が優れている者を、「彼は状況判断力がある」などと言います。

ただし、この言葉はもともとは軍事用語です。

昭和初期に制定された公開教範『作戦要務令』では、状況判断について次のように規定されています。

「指揮官はその指揮を適切にならしむるために、たえず状況を判断しあるを要す。状況判断は任務を基礎とし、我が軍の状態・敵情・地形・気象等、各種の資料を較量し、積極的に我が任務を達成すべき方策を定むべきものとす。敵情特に其の企図は多くの場合不明なるべしと雖も、既得の敵情のほか、国民性・編制・装備・戦法・指揮官の性格等、其の特性及び当時における作戦能力等に鑑み、敵として為し得べき行動、特に我が方策に重大なる影響を及ぼすべき行動を攻究推定せば、我が方策の遂行に大なる過誤なきを得べし。」(八条)

 『作戦要務令』の源流である明治期の教範『野外要務令』では「情況判断」という言葉が登場します。また大正期の教範『陣中要務令』では、「情況を判断するに方(あた)りては特に先入主とならざること必要にして……」などの規定が登場しています。

 わが国の陸軍教範はドイツ教範を基に作成されていますので、当時のプロシア軍の戦場での戦いから、状況判断の重要性が認識されたと言えます。

■自衛隊用語として用いられている

 今日の自衛隊用語としてとしても「情況判断」は良く使用されます。

 筆者は若手幹部時代、来る日も来るも戦術教育(図上戦術)を受けました。

 地図上に仮想(想定)の敵と我が軍隊を配置し、仮想敵の状況、地形や時間的・空間的な環境が付与され、これに基づき、敵が能力的に取りうる可能行動を列挙し、それを敵の意図と兼ね合わせて敵が採用するであろう、可能行動の種類や採用興産の順位などを考えます。次に敵の可能行動(複数)に応じた我の行動を方針をいくつか列挙して、敵の可能行動と組み合わせて、最良の行動方針を案出します。

 この際、指揮官の立場に立ってまず「状況判断」を実施することが図上戦術のスタートでした。

 状況判断とは「我が任務を達成するため」に最良の行動方針を決定するために行いますが、これだけでは部隊の統率はできません。

 統率は統御と指揮からなり、前者は組織にやる気を起こさせる心理工作です。後者の指揮は、統御によって湧き立てエネルギーを総合して、組織の目標に適時適切に集中する技術です。この指揮は、「(1)状況判断 (2)決心 (3)命令 (4)監督の四手順をふんで行うと、忙しいときでも、手落ちなく、スムーズに実行できる」と、著名な兵法家にして経営者であった故・大橋武夫氏は述べています。(大橋『統率学入門』)

また大橋氏は「状況判断とは「今、私はどうするのが一番よいか?」と継続的に何時も考えていることで、これによって決心の資料を提供するものであり、決心と違うところは実行をともわないことである。」と述べています。

 次回は情勢判断について考えてみます。

緊急事態宣言と危機管理

新型コロナウイルス対策で、政府は本日(1月7日)、首都圏の1都3県を対象、8日から来月7日までの期間、緊急事態宣言を再発令しました。また、本日の東京都の新たなコロナ感染者数は2447人と発表されました。

インターネットの書き込みなどを見ますと、政府のコロナ対策の遅れ、オリンピックをやめてコロナ対策費に回せ!などの、反政府批判が目立ちます。

今年の箱根駅伝では、主催する関東学連が「応援したいから、応援にいかない。」をキャッチコピーに公式サイトなどで呼びかけました。その効果があって2日間におけるコース沿道での観戦者数が、約18万人と発表。昨年の前回大会は121万人で約85%減となりました。

しかし、約18万人もの観客が駆け付けたことに対して、モラルの低下や危機意識の欠如を嘆くツィターも多いようです。

たしかに、最初の緊急事態宣言の後に〝緊張の糸〟が切れたのか、人々の危機意識はどんどんと薄らいだような気がします。「三密」も流行語の年間大賞となって、「愛の不時着」(2位)「あつ森」(3位)などと並んで、どこか、ほのぼの感さえ感じられ、緊張感がありません。

危機意識の欠如は、「喉元過ぎれば…」的な日本人特有の性質や、人間の深層心理にある、「たいしたことはない」との過小評価、「周りの人が皆町に繰り出しているから自分も大丈夫」などの同調主義といった心理バイアスが影響しているように思います。

結局、危機意識というのは個人ではなかなか高められませんし、維持できません。だから、政府、地方行政組織、企業などがある程度の強制力を持って危機の実態を具体的に説明し、注意喚起しなければなりません。

注意喚起する側が、危機意識のない行動を取れば、それは説得力をもちません。国民による反政府批判を煽るかのような、一部マスメディアの報道振りもいかがなものかとは思いますが、連日のように政府要人方の〝軽率に見える行動〟(※政治家として為すべき当然の行動も多々あり、報道される行動が自体が軽率だと私が考えているわけではありません)が報じられています。

他方、危機意識は誰のためでもありません。自分のためです。東洋大学の酒井駅伝監督の「その一秒を削り出せ」を思い起こし、政府による「GO to キャンペーン」の是非をあれこれ論じることは横に置いて、個人が少しだけ自覚ある行動を取ればコロナへの勝利が一歩近づくのではないでしょうか。

ただし、人間は生活しなければならないし、政治や経済は前に向かって進ませなければなりません。だから、どんなに自覚ある行動をとっていたとしても、コロナに感染することは不可抗力の場合があります。どんなに注意しても交通事故に巻き込まれることと同じです。コロナにかかった方を白眼視(※三国志の阮籍が元になった故事成語で、差別用語はありません)してはなりません。

さて、危機管理には一般に(狭義の)危機管理(クライシス・マネージメント)とリスク管理があるとされます。リスク管理は「危機以前のリスクが起こらないように、そのリスクの原因となる事象の防止策を検討し、実行に移すこと」です。他方、「危機管理」は「すでに危機が発生した場合に、その被害を最小限にするとともに、いち早く危機状態からの脱出・回復を図ること」です。

今回のコロナ禍を例にとりますと、集団クラスターが発生するような場所に行かない、外出時にはマスクをつけるなどがリスク管理となります。危機管理の方は、集団クラスターが発生した以降、その場所を消毒し、濃厚接触者を特定して隔離し、医療行為を行うようなことだと言えます。

リスク管理は危機発生前に専門組織または個人が予測的に行う活動ということになります。これに対して、危機管理はどちらかいえば危機発生後に総合組織または集団組織が臨機応変に行うものという違いがあります。

今回の緊急事態宣言は「危機管理」です。リスク管理に比して、費用も労力も比肩できないほど甚大です。これらの費用も我々の税金から捻出するとすれば、個人がリスク管理を怠ることで、何倍にも借金が膨れて跳ね返ってくることになります。まさに天に向かって唾を吐くことになります。

今しばらく、リスク管理的な思考で危機を乗り切る必要があります。

判断力思考(1)

はじめに

一昨年、私は『武器になる情報分析力』を刊行しました。おかげ様で、無事に重版出来となり、昨年に3刷目となりました(※なお、この本のベースとなった『戦略的インテリジェンス入門』も昨年再重版出来となり3冊目となりました)。この著書では情報分析とは何か、情報分析の着眼、情報分析の手法などを解説しました。

しかし、情報分析という行為は基になる情報(インフォメーション)があってこそ成り立ちます。情報がなければ論理的思考法は活用できませんし、情報から戦略や戦術を決定するためのインテリジェンスは作成できません。

かのクラウゼビッツの『戦争論』で以下の記述があります。

「戦争中に得られる情報の大部分は相互に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何らかの意味で不確実だ。言ってしまえば、たいていの情報は間違っている」。

ただし、この記述はあくまでも戦場での戦闘場面を想定しています。他方でクラウゼッビィツは、「戦争は、政治の表現である。政治が軍事よりも優先し、政治を軍事に従属させるのは不合理である。政治は知性であり、戦争はその手段である。戦争の大綱は常に政府によって、軍事機構によるのではなく決定されるべきである」と述べています。

つまり軍事、戦闘よりも外交を優先する、政治的な知性をもって戦争をコントロールする思想です。これは「勝算のない戦いはしない」「戦わずして勝つ」ことを追求した『孫子』の兵法と相通じるものがあります。よく『孫子』は情報を重視していたが、クラゼビッツには情報を管理する発想に乏しいとの議論がありますが、これは表層的で誤った解釈であると言えます。

では、正しい情報はなかなか得られない場合はどうしたら良いのでしょうか? これが今回のテーマです。

1932年に策定された『統帥参考』では、以下の旨の記述があります。

「情報の収集は必ずしも常に所望の効果を期待できないので、高級指揮官はいたずらにその成果を待つことなく、状況によっては、任務に基づき主導的行動に出ることに躊躇してはならない」

『統帥参考』では「情報収集において敵に優越することが勝利の発端」「情報収集は敵情判断の基礎にして、適切なる敵情判断は情報収集を容易にする」など規定しているので、情報収集や情報を軽視しているわけではありません。しかし、「情報が不十分だからといって躊躇すれば戦機を逃すので、自らの目的と役割に基づいて判断や行動に移れと」といっています。

要するに、情報が不十分の場合には判断が重要となります。この際の判断は充分な情報がないので論理的な思考は完全には踏めないという前提です。このため、過去の経験を最大限に生かす、少ない情報を基に想像力をフルに活用するなどが重要となります。

今回は私が思っている判断とは何か、判断力を養成するためにはどうすれば良いのかなどを、随時にこのブログに書き留めておきたいと思います。

次回は判断とは何か、判断と決断とはどう異なるのかなどについて記述しようと思います。

「医食同源」から「和製漢語」を考えた

昨晩、急に腸の具合が悪くなり、冷汗と下痢、激痛に見舞われました。最大の苦しみは、1時間ほどで過ぎましたが、いまだ腸と腰に鈍痛が少し残っています。

昨年も正月明けに同じような症状になったような覚えがあります。〝自己診断〟ですが、正月はずっと食べたり、飲んだり、寝たりで、そこに昨日(1月4日)は本年の初の外食で中華料理店で四川料理を食べたことが原因かもしれません。それに加えて部屋の暖房の暖かさを過信して、腹を出して寝たことが原因かなと思います。

ただし、自己判断の因果関係は誤謬が多いので、しばらく自重し、様子を見ようと思います。

さて、こんな症状になって、思い起こした四字熟語があります。「医食同源」です。これは、病気の治療や日常の食事も、ともに健康を保持には欠くことができないもので、源は同じだという考えです。

私は、かつてこの言葉は、中国から輸入されたものと思っていました。しかし、中国の「薬食同源」(体によい食材を日常的に食べていれば、特に薬など必要としないという考え)をもとに日本人の方が1972年に造った造語のようです。現在は、中国でも医食同源が使われています。

統計によれば、中国で今日使用されている社会・人文・科学方面の名詞・用語の実に70%が日本から輸入したものようです。その経緯を調べれば、主として明治維新以後、日本は近代化のため、西洋の文化、制度、歴史を勉強してきましたが、その際、日本にはない概念である西洋の語句を「和製漢語」として翻訳しました。

当時、中国の知識人は自国の近代化のため日本に留学していました。彼らは明治維新後の日本に学び、同時に 日本を通じて西洋文明を祖国に紹介しようとしたのです。梁啓超などが「和製漢語」を自国に持ち帰り、それが中国語の中に根を下ろしたようです。

本ブログの「インテリジェンス関連用語」(カテゴリー)の中でも解説していますが、情報も明治期になって、陸軍がフランスの軍事教範を翻訳する際、仏語の「renseignement」 (案内、情報)の訳語として「敵情を報知する」意味で情報を用いたのが最初です。これも現在、中国に逆輸入され軍事用語として用いられています。

他方は分析はどうでしょうか。分析に相当する英語はanalysisです。同語の語源は「~を(ana-)ばらばらに分解して(luo)調べること(-sis)」です。日本語の分析は、「刀で切り分ける、木で斧を切る」という二つの言葉からなると言われます。だから、日本人による「和製漢語」だと言えそうです。

しかし、漢書には『全訳(第二版)漢辞海/三省堂』によれば、漢書ですでに「分析(ブンセキ)」は「分ける。区別する。」(漢書・孔安国伝)の意味で用いたようです。なかなか、語句の語源も複雑です。

さて、民主・科学・政治・経済・自由・法律・哲学・美学・人権といった語彙はすべて日本から中国に渡ったようです。つまり、中国は欧米の制度、文化、などの修学は日本語を媒介しています。

わが国は近代化のために西欧から主導的に本質を学ぼうとしたが、他方の中国は日本の手を借りた。そこには知的エネルギーの発揚に大きな差があると思えます。また、この相違が両国の人権、民主、法律などへの解釈の違いの根底のような気がします。香港問題もこのような視点から考えることが重要であると思います。

箱根駅伝観戦から未来予測について思う

1月4日、今日から仕事始めの方もいらっしゃるのではないでしょか?しかし、コロナ禍でテレワークが新たな働き方の主流になったので、例年のような「御用始め」という状況ではないのかもしれません。私の仕事始めはまだ先ですが、頭の中ではあれこれと書き物の構想を練ったり、本を読んだりしています。

例年、私の正月三が日は駅伝観戦です。実業団駅伝、箱根駅伝、今年もドラマを見せてくれました。なかなか戦前の予想は当たりません。データやAIを駆使した予想タイムもまったく当てにならず、まだまだ「筋書きのないドラマ」にAIは無力だなあ、と思いました。

それにしても、箱根駅伝では、創価大学のあれだけの健闘を誰か予想していましたか?さらに驚いたのは最終10区で3分以上の差を覆した駒澤大学です。最終ランナーの活躍は見事でした。

実は私は外出する用事があり、9区が終わった段階で自宅を出ました。だから、劇的なシーンを見逃しました。大八木監督の歓喜のダミ声を聞けなかったのが残念です。

まさに、「一寸先の未来はわからない」ということです。協賛した報道機関や各紙は創価大学の優勝を前提に、優勝インタビューの準備や朝刊の見出しを考えていたのが大急ぎで駒澤に切り替えると言った〝ドタバタ劇〟があったのかもしれません。

それにしても未来予測はなかなか難しいものです。今年はどんな年になるのでしょうか。オリンピックは無事開催できるのでしょうか。コロナ禍はワクチン開発で収まるのでしょうか?

不透明な社会に対応する一つの秘訣は「行動しながら考える。うまくいかなければ修正する」ということです。行動をためらっては問題は発見できないし、解決もできません。

その意味では、私は政府の「GO TO キャンペーン」への決断も基本的に誤っていないと思います。また、一時的、一部地域での見直しも妥当だと思います。同キャンペーンとコロナ再ブレイクの因果関係は明らかではありませんし、素人判断での行き過ぎた政府批判を行っても問題の解決にならない気がします。

もう一つは、未来のシナリオを複数考えることです。そのためには現在の潮流を捉えて、その影響要因を見定めることが重要です。

私は一昨年、『未来予測』を刊行しましたが、現在の潮流として「グローバル化」と「環境の変化(気候の温暖化)」を挙げ、これらがもたらす未来のマイナスの側面(影)としてパンデミックを指摘しました。

『未来予測入門』から抜粋

また、ビジネスパーソンの暮らし方・働き方を論点として掲げ、「ビジネスパーソンの価値観の変化」と、「働き方改革(テレワーク)の趨勢」を現在の二つの潮流として、4つの未来シナリオを提示しました。

①在宅勤務ライフ、②デュアルライフ、③毎日通勤ライフ、④シリコンバレーライフ、です。

誰しも、「いつ、何が、どのように起きるのか」は予言できません。しかし、予言と予測は違います。自分に関係があることを少しリスク管理的に予測することは重要だし、不可能ではありません。

今回のコロナ禍でも、それを予測できる多くの事前兆候があとから注目されています。未来予測とは、そのような兆候を軽視しないということに主たる目的があると思います。

今年の朝刊各紙のトップ記事の見出しに思う

以下は、1月1日朝刊各紙の1面トップ記事の見出しです。皆様は、「どれが、どの新聞」なのか、わかりますか?

①中国「千人計画」に日本人

②脱炭素の主役 世界競う

③民主主義が消えてゆく

④吉川氏に現金 さらに1300万円

⑤戦前の東京鮮やかに

①が読売新聞、②が日経新聞、③が産経新聞、④が朝日新聞、⑤が東京新聞です。

「日経新聞」はカーボンゼロの話です。日本も昨年末、2050年までに二酸化炭素(CO2)など温暖化ガスの排出を実質ゼロにすると宣言しました。グローバルイシューを取り上げ、未来視線の新年らしい良い記事であると私は思いました。

「東京新聞」も地域性を特色とした面白い記事です。

それにしても、朝日新聞は新年早々から元政治家の献金問題とは。重要なテーマだとは思いますが、正月記事としては私は少し・・・・・です。

最近は見出しだけだ見ると、どちらが「読売新聞」か「産経新聞」かわかりませんね。両社の主張がだんだんと似通っているように思うのは私だけでしょうか。

①も③も中国脅威論が根底にあります。①は、世界レベルの理工系人材1000人を破格の待遇で国外から引き抜き、中国の経済発展に貢献させるのが狙いで、2008年から始まった国家プロジェクトのようです。

そう言えば、1990年代には、中国が海外人材を呼び戻す「百人計画」というのがありました。「千人計画」の方も対象者数はとっくに千人を超えているようですので、「万人計画」もまもなく(?)の勢いですね。

ただし、中国脅威論は認識する必要はありますが、わが国の研究開発の停滞振りに、より問題の本質があるのかも知れません。最近の研究開発費の伸び率は日本が3%に対し、中国は48%とのデータがあります。研究者数も、ここ20年間、日本が70万人程度で推移しているのに対し、中国は180万人まで急増してきたようです。

③は中国の権威主義が自由と民主主義の脅威となり、最前線のインド太平洋で「米国一強」は揺らいでいるという内容の記事です。

さて、まもなく米国では新政権が開始されます。米中関係はどうなるのでしょうか? 権威主義と自由・民主主義のせめぎ合いの中で、日本は自ら先頭に立ってインド太平洋での自由・民主主義の価値を守る方針を打ち出すのでしょうか?

「千人計画」の推進で、我が国の科学技術や高度な秘密情報が中国に流出し、中国による「軍民融合」政策のもとで安全保障上の脅威が増大しているとの指摘に、わが国はどのような具体的な答えを出すのでしょうか?

コロナ禍の終焉が見えない中、菅政権の舵取りには波乱も予想されますが、どうか我が国の国営擁護のために頑張っていただきたいと思います。

あけましておめでとうございます。

皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

昨年は私の諸般の事情がありましてブログを中断していましたが、今年は再開します。昨年はコロナ禍に見舞われましたが、雑誌取材や講演依頼などはほぼ順調でした。どうもありがとうございました。

これも、一昨年に出版した『武器になる情報分析力』と『未来予測入門』の効果のようです。昨年は、私の環境変化などで一冊も新刊を出版できなかったのですが、今年はなんとか一冊は出版したいと考えています。

四五年来の書き溜めたものをすでに整理していますので、出版もまもなくだと思います。その節には、このブログでご紹介させていただきますので、ご贔屓に願います。

今年はスマホを利用して、外出先などで気軽に近況ブログなどを書き、その後、自宅で時々修正(更新)したいと思います。

皆様、今年一年よろしくお願いします。