わが国の情報史(29)昭和のインテリジェンス(その5) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(1)─

▼張作霖爆殺事件

 1928年6月4日、中華民国・奉天(瀋陽)近郊で、奉天軍閥の指導者である張作霖が暗殺された。当時、この事件の真相は国民 に知らされず、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。

 国民革命軍との決戦を断念した張は6月4日早朝、北京を退去して特別編成の列車で満洲に引き上げた。途中、奉天近郊の京奉線が満鉄線と交差する陸橋付近にさしかかった際、線路に仕掛けられていた火薬が爆発(?)、列車ごと吹き飛ばされ張は重傷を負い、まもなく死亡した。

 その事件の扱いは、山川出版の高校教科書『詳説 日本史B』によれば、以下のとおりである。

 「田中首相は当初、真相の公表と厳重処分を決意し、その旨を天皇に上奏した。しかし、閣僚や陸軍から反対されたため、首謀者の河本大作(こうもとだいさく)大佐を停職にしただけで一件落着とした。この方針転換をめぐって田中首相は天皇の不興をかい、1929年総辞職した」

▼河本大作について

 河本とはどんな人物か、簡単に経歴を言及する。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903(明治36)年に陸軍士官学校を卒業して翌年日露戦争に出征している。1914(大正3)年に陸軍大学校を卒業した。

 陸士の卒業順位97番、陸大の卒業順位が24番であるが、大佐昇任が17番であるので、実務において実力を発揮するタイプであったとみられる。

 そして、彼が関東軍の高級参謀であった時に、張作霖爆殺事件の首謀者とされた。しかし、軍法会議にかけられることはなく、停職処分を受けて、予備役編入された。

 その後、河本は関東軍時代の人脈を用いて、1932(昭和7)年に南満洲鉄道の理事となり、満洲炭坑の理事長、南満洲鉄道の経済調査会委員長などを歴任する。太平洋戦争中の1942(昭和17)年、日支経済連携を目的として設立された北支那開発株式会社傘下の山西産業株式会社社長にした。

 戦後、山西産業が中華民国政府に接収されたが、中華民国政府の指示により河本は同社の最高顧問に就任し、引き続き会社の運営にあたった。

 戦後、河本は閻錫山(えんしゃくざん)の中国国民党山西軍に協力して中国共産党軍と戦ったが、1949(昭和24)年に中国共産党軍によって河本は捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。そして1955年に同収容所にて病死する。

▼関東軍と張作霖との関係

 当初日本の新聞では、張作霖爆殺事件は、蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の犯行の可能性も指摘されていた。

 しかし、事件当初から関東軍の関与も噂された。奉天総領事から外相宛の報告では、現地の日本人記者の中に関東軍の仕業であると考えるものも多かったと記されているようだ。

 関東軍関与説の背景には、現地の関東軍と張作霖の対立があった。1927年に4月に設立した田中義一内閣は、北伐を進める蒋介石軍に対しては強硬策を採用した。しかし、張作霖への間接的援助による満洲利権の確保を指向していた。

 これに対して、関東軍司令官の村岡中太郎中将は、張作霖に対しての不審感を募らせており、満洲を独立させようと画策していた。これに対し、田中首相が関東軍の行動にブレーキをかけていたのである。また河本は、この事件前から、周囲に対して張作霖殺害を匂わせるような発言もしていたようである。

▼河本犯行説に至った経緯

 上述の情況から、田中首相はすぐに「関東軍の仕業ではないか」との疑惑をもった。そして西園寺公望を訪ねたところ、西園寺は「(犯人は)どうも日本の軍人らしい」と応じた。昭和天皇の側近である西園寺は、ある筋から、そのような情報を入手していたのである。

 西園寺は田中に、「断然断罪して軍の綱紀を粛正しなければならない。一時は評判が悪くても、それが国際的信用を維持する所以である」と励ました。

 田中は、事件の3か月後になって、白川義則陸相に指示して憲兵司令官を現地に派遣した。9月22日に外務省、陸軍省、関東庁の担当者らで構成する調査特別委員会を設置し、10月中に報告書を作成するよう命じた。

 10月23日、調査特別委から、事件は関東軍高級参謀の河本が計画し、実行したとの報告があった。同月8日に帰国した憲兵司令官も、河本の犯行とする調査結果を提出した。

 しかしながら、この過程において河本はずっと犯行を否認した。つまり、河本の犯行を裏付ける直接証拠は見つからず、関係者の発言などの状況証拠によって河本犯行説が判断されたのである。

▼昭和天皇による叱責

 10月10日には即位の礼が執り行なわれた。それから2か月後の12月24日、田中は昭和天皇(陛下)の御前で、張作霖事件において帝国軍人の関与が明らかとなった場合には、法に照らして厳然たる処分を行なう旨を述べた。

 陛下は、関東軍の謀略を嘆きつつ、田中の厳罰方針に深くうなずいた、とされる。

 ところが、河本犯行説の調査結果を受けて、田中首相が閣議を開くと厳罰主義に同調する者はいなかった。小川(平吉)鉄道相、白川(義則)陸相、鈴木(荘六)参謀総長が穏便に処理するよう田中に要求した。

奥保鞏(おくやすかた)、閑院宮(載仁親王:ことひとしんのう)、上原(勇作)による、天皇の最高軍事顧問である元帥会議においても、上原がリードして事件の真相の公表、責任者の軍法会議送致に強く反対した。

 このため、河本は軍法会議にかけられることなく、予備役編入という軽い処分で終わった。

 こうした経緯について、昭和天皇は田中首相を激しく叱責した。『昭和天皇独白録』は以下のとおりである。

 「たとえ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云ふ事であつた。そして田中は牧野(信顕)内大臣、西園寺(公望)元老、鈴木(貫太郎)侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考えだと云つたそうである。

……田中は再び私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云う事であつた。……私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してどうかと強い語気で云つた」(引用終わり)

▼河本犯行説の裏付けとなった資料

 今日、張作霖事件はわが国が日中戦争に突入する契機となった事件として認識されている。

 また、定説は、先述の山川出版の高校教科書が記述するとおりである。つまり、「河本の犯行であり、張作霖の殺害と、それに引き続く武力発動によって満洲を占領し、懸案であつた満蒙問題を一挙に解決しようとする計画的な謀略である」と認識されている。

 これに対して、「計画的な謀略ではなく、河本の恣意的な判断による無計画な犯行」との対立説はあるが、いずれにせよ、最近になるまで河本犯行説には揺るぎはなかった。

 しかしながら、前述のように河本犯行説を裏付ける直接的な証拠はないのであり、河本自身の自白もなかった。河本が極東軍事裁判に呼ばれて、彼の口からこの事件について発言する機会は設定されなかったのである。

 河本犯行説の大きな根拠となっているものは、戦後に発表された『河本大佐の手記』「私が張作霖を殺した」(文芸春秋・1954年12月号)である。

しかしながら、「手記」とは名ばかりで、これは河本の自筆ではないとされる。これは、河本の義弟で作家の平野零児が口述をもとに筆記したものであるようだ。

平野は1918年に東京日日新聞(毎日新聞)入社、その後、中央公論社(現在の中央公論新社)と文藝春秋社の特派員として中国に渡った。このころから作家として活動し始めた。

平野は現地に詳しい文筆家である。そして平野は、終戦直前に河本を頼り中華民国山東省太原に身を寄せた。そこで、河本とともに閻錫山の中国国民党の山西軍に協力して反共活動に従事して、中国共産党に逮捕され政治犯収容所に投獄された。彼は、河本の死亡1年後の1956年に帰国した。

 平野は、河本の発言を知り得る立場にはいたが、他方で収容所において中国共産党からの洗脳を受けていた可能性も指摘されている。

 また、1955年に河本は病死しているので、1954年12月のこの手記に対して、河本がその後に「手記」に対してコメントする機会はほとんどなかったとみられる。

▼第二次情報源の危うさ

 最初の情報源のことを第一次情報源という。第一次情報源から情報を受けた情報源を数次情報源という。また第一次情報源からの情報を第一次情報、数次情報源からの情報を数次情報と呼称する。一般的には数次情報をまとめて第二次情報として区分している。

 第一次情報とは主として本人が実際に直接、目にした耳にした情報である。これに対し、第二次情報は第三者を介して得た、あるいは第三者の思考や判断が加味された情報である。

 ここでの第一次情報とは、河本本人による極東裁判などにおける発言、あるいは河本自身が直接書いたものであった。しかし、残念ながら、それは存在していない。

 平野が書いたとされる『河本大佐の手記』は第二次情報である。インテリジェンスの視点からは、かかる第二次情報は、どのように外堀を固めようとも、情報としての正確性に欠陥があるという前提に立たなければならない。物語を作る、解釈する歴史学とはこの点が異なる。

 現在では、張作霖事件についてソ連のGRU犯行説などが出ている(なお、筆者は、この説を無批判に受け入れるものではない。これについては次回に触れる)。しかし、『河本大佐の手記』という第二次情報を根拠にして、GRU犯行説を大上段に否定するのは、著しく説得力を欠くといわざるを得ない。

 最後に、できる限り第一次情報源に接するのがインテリジェンスの原則であるが、常に第一次情報が正しくて、第二次情報が誤っているというわけではない。戦後の手記などは自分の都合のよいように脚色される、この点は注意して紐解く必要がある。

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