わが国の情報史(28)  昭和のインテリジェンス(その4)   満洲事変以前の情報組織とその運用─

▼わが国における共産主義の浸透

第1次世界大戦(1914~18年)後の主要な内外情勢の注 目点としては、まずわが国における共産主義の浸透が挙げられる。

第1次世界大戦が国民を戦争へと動員する総力戦として戦われ ため、欧州では労働者の権利の拡張や国民の政治参加を求める声 が高まった。日本でもロシア革命(1917年)・米騒動(19 18年)をきっかけとして社会運動が勃興した。大戦中の産業の 急速な発展により労働者の数が増加し、労働争議の件数も急激に 増加し、労働組合の全国組織も樹立された。  

こうした社会運動の勃興に油を注ぐことになったのがソ連にお ける共産党政権の誕生である。その対外組織であるコミンテルン の支部として1921年には中国共産党が設立し、22年には日本共産党が設立した。  

わが国は1911年1月の幸徳秋水事件を契機に、社会運動の取り締まりを目的に同年8月に特別高等課(特高)を設置した。 ただし、この時点では国内の社会主義の取り締まりということであり、特高も注目される存在ではなかった。

ところが、1922 年に日本共産党が成立したことにより、主要府県の警察部にも続々 と特別高等課を設置して、その取締の強化に乗り出した。

かくして1925年、わが国は治安維持法を制定する。この法 律は国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まること が目的として制定された。また、山東出兵中の1928(昭和3) 年2月、日本で最初の普通選挙が実施され、無産政党から8人の当選者が出た。

これに田中義一内閣は警戒心を強め、治安維持法 の「国体」を否定する運動に対する弾圧を強め、3月15日に地 下の共産党員およびその協力者に対する大弾圧を行なった。

▼中国における共産主義の浸透と蒋介石の台頭  

第2の注目点は、中国における共産主義の浸透と蒋介石の台頭である。1912年1月1日、三民主義をとなえる孫文を臨時大統領とする中華民国が南京に成立。ここに清朝が倒れた。

しかし、 中華民国の実権はすぐに北洋軍閥の袁世凱の手に移り、袁世凱が死亡(1916年)すると、各地で軍閥が跋扈する混沌とした状 態になった。

そこで孫文は中国を統一するために、コミンテルンの力を借り ることにする。1923年1月、孫文はソ連の代表アドリフ・ヨ ッフェとの共同声明を発表した。これは連ソ容共・工農扶助を受 け入れることであった。  

1924年1月、コミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝いりで国民党と共産党の国共合作(第1次)が成立。すなわちコミンテルンの浸透工作が中国大陸において本格始動する。  

孫文は1925年3月に北京で客死した以降、国民党は広東に国民政府を組織して国民革命軍を建軍した。このなかで台頭した蒋介石が1926年7月1日に北伐を開始する。  

蒋介石は当初から孫文の連ソ容共・工農扶助に反対していたた め、共産主義勢力の弾圧に乗り出した。1927年4月12日の 「上海クーデター」で共産党を排除し、同年4月18日、南京にて国民党による国民政府を樹立した。  

1928年に入り、蒋介石は北伐を再開し、6月には北京に入 城して正式に中国統一を宣言した。しかし、反蒋介石派も活動を続け、1931年5月に広州に王精衛(汪兆銘)らによって臨時国民政府が作られた。  

他方、中国共産党は1927年8月から9月にかけての武装蜂起で敗走するが、江西省の井岡山に拠点を設定して、上海などで 地下ゲリラ活動を展開した。これに対して蒋介石は1930年1 2月から囲剿戦(いそうせん)を開始するが、共産党の掃討は困 難を極めた。  

蒋介石による北伐の最中、日本は1927年以降、北伐からの居留民保護の名目で3次にわたって派兵、国民革命軍と衝突した。 1928年には済南事件が起こった。  

このような蒋介石軍の北伐は、わが国にとって南満洲権益への明確な脅威と映った。その過程や延長線において、張作霖爆殺事件(1928年6月4日)、および満洲事変(1931年9月1 8日)が生起し、それが、のちの日中戦争につながっていくので ある。

▼米国による対日牽制が顕在化  

内外情勢でもう一つ見逃してはならないのが米国の動向である。 世界最初の社会主義革命が起き、ロシア帝国が崩壊し、共産主義 国家ソ連が誕生(1922年)する過程において、わが国と米国 は共同でシベリア出兵を行なった。

しかし、日米の派兵目的は異なっていた。わが国は共産主義の浸透が満洲、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒し、オムス クに反革命政権を樹立することを目的に出兵兵力をどんどんと増 大させた。  

一方の米国の出兵目的は日本の北満洲とシベリアの進出に抵抗 することであった。米国は共産主義を脅威だとは認識しておらず、 ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力しなかった(わが国の情 報史(24))。    

わが国がシベリア出兵を継続したことが、日露戦争以後から対 日警戒を強めていた米国の警戒心をさらに増幅させた。米国は1 920年から21年にかけてのワシントン海軍軍縮会議において 日本側艦艇の保有を制限し、1924年に排日移民法制定するな ど、さまざまな対日圧力を仕掛けた。  

他方、南京国民政府の全国統一の動きに対しては、米国は国際 社会の先陣をきって、中国に対する関税自主権回復の承認(19 28年7月)に踏み切り、蒋介石の南京政府を承認(1928年 7月)した。  

米国は早くから水面下で蒋介石と日本との対立を画策していっ た。こうした行動の背後には、わが国を牽制して中国大陸におけ る利権を獲得するとの思惑があった。  

こうした米国の反日行動に対して、わが国は1923年に帝国 国防方針を改定して、米国を仮想敵国として、フィリピン攻略準 備を少しずつ開始することになるのである。

▼参謀本部第2部の改編  

1928(昭和3)年8月15日、参謀本部の改編が行なわれ た。これは第1部第4課(演習課)が、第4部第8課へ編成替え になったことによるものである。  

これにより情報を司る第2部は、第5課(支那情報を除く外国 情報)と第6課(支那情報)がそれぞれ繰り上がり、4課と第5 課となったが(正確には明治41年12月18日の編制の課番号 に戻った)、その基本業務を変わっていない。  

第4課の編制は第1班米国、第2班ロシア、第3班欧州、第4 班諜報であった。一方の第5課の担任業務に「暗号の解読及び国軍使用暗号の立案」が加わったため、第5班暗号、第6班支那、 第7班地誌となった。なお暗号業務の開始は1930年7月5日 から開始された。  

第1次世界大戦では本格的な暗号戦がドイツと英国間で行なわ れ、ドイツは暗号戦に敗れたことを教訓に1918年にエニグマ 暗号を発明した。こうしたなか、従来は第3部にあった暗号班を第2部に移し、諜報と暗号の研究との連携を強化したというわけである。この点は、第1次世界大戦の教訓を踏まえた対応として 評価できる。  

しかし、建軍以来第一の仮想敵国であるロシアに対する警戒心 は希薄であった。つまり、共産主義の浸透を警戒して1922年 までシベリア出兵を継続はしたものの、新生ソ連に対する警戒心 には緩みがみられた。  

当時、共産主義への敵視が強かったため、シベリアからの撤兵 後も国交正常化の動きには国内の右翼や外務省が反対した。外務 大臣の幣原喜重郎は、共産主義の宣伝の禁止を明文化して、国交 回復を実現(1925年1月)した。

こうした国際関係を踏まえたのか、1928年の参謀本部の改 定では、ソ連は依然として参謀本部第2部の第4課の1つの班にすぎなかった。  

上述の帝国国防方針の第二次改定において、陸海軍は対米戦の 場合にはフィリピン島攻略を本格的に取り組むことになったが、 こうした方針が陸軍参謀本部の編制に影響を及ぼすことはなく、 米国に対する情報も第4課の1つの班が担っていた。

▼満洲事変以前の対外情報体制  

第1次世界大戦(1914~18年)以後、外務省は全世界に大公使館、総領事館を設置して、世界的情報網を構成していた。  

他方、陸軍では参謀本部第2部が国防用兵に必要な各国の軍事、 国勢、外交などに関する情報を収集・評価すること、所要の兵要地理を調査し、兵用地図の収集整備にあたることなど目的に、 大・公使館付武官の派遣や、ほそぼそと秘密諜報員を海外に派遣 していた。  

陸軍は第1次世界大戦以降、大・公使館付武官の駐在先を拡大 した。それまでの主たる駐在先は、英国、ド イツ、フランス、 オーストリア、イタリア、米国、ロシア、清(1912年から支 那)、朝鮮(1897年から韓国)であったが、ソ連および米国 を取り巻くかたちで中小国にも駐在先を拡大していった。  

しかしながら外務省の情報は非軍事に限られていた。外務省、 陸軍、海軍による国際情勢判断、政戦略情報のすり合わせは不十 分であった。  

第1次世界大戦において、英国のMI5、MI6などの国家情 報組織が情報戦をリードした。しかし、英国と同盟関係(日英同 盟は1902年1月に調印され、1923年8月に失効)にあっ たわが国は、かかる貴重な教訓を学ぶことはなかった。  

北方要域においては、1918年のシベリア出兵以降、ハルビ ン、奉天、満洲里、綏芬河(すいふんが)、竜井村、吉林に特務 機関を設置して、対ソ連の情報活動の体制を維持した。  

これらの特務機関の活動は関東軍司令部(当時は情報課はなかった)が管轄した。なお関東軍は1919年4月に創設され、台湾軍、朝鮮軍、支那駐屯軍などと同列の独立軍であったが、独立守備隊6個大隊を継続し、また日本内地から2年交代で派遣され る駐箚(ちゅうさつ)1個師団という小規模な陣容であった。  

中国大陸においては、日清戦争後の1901年に、天津に清国 駐屯軍(1912年から支那駐屯軍)を設置し、約2100名の兵力を維持していた。また、北京では、青木宣純大佐の青木公館 (1904年7月~1913年8月)を引き継いだ坂西利八郎・大佐 (1917年8月、少将)が坂西公館(1911年10月~19 27年4月)を開設して、中国大陸の情報活動を行なった。  

1912年、陸軍大学校を卒業した土肥原賢二が参謀本部付大 尉として坂西公館補佐官として赴任した。以後、土肥原はここでの情報活動により、わが国の対中政策の主要な推進者となり、やがて「満蒙のローレンス」と畏怖されるようになる。 これらの情報拠点が満洲事変以後の情報活動や謀略工作の基礎 となった。

▼ドイツ顧問団の兆候を見逃し  

蒋介石は軍隊と国防産業の近代化を必要していた。他方、第1 次世界大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約により軍を 10万人に制限され、軍需産業は大幅に縮小されたため、ドイツ の工業生産は大きく減少した。

そこでドイツは工業力を立て直す ため先進的な軍事技術を輸出し、その見返りに資源の安定供給を 確保することを狙った。こうした両者の思惑が一致し、1920 年代から、両国の軍事的・経済的協力が開始された。いわゆる 「中独合作」である。  

蒋介石は1927年末、蒋介石はドイツの軍事顧問団を招き、 マークスバウア大佐が軍事顧問団長として赴任した。同大佐が1 929年4月に死亡するとヘルマン・クリーベル中佐がその交替 で赴任し、1930年8月にゲオマク・ウェトルス中将と続き、 顧問団も約70人規模に及んだ。  

満洲事変以後に起きた1932年1月の第1次上海事変におい て、蒋介石は日本軍に善戦し、ドイツ軍への信頼を高めた。そこで、蒋介石はドイツ再軍備で有名なゼークト大将を招聘した。その後、日露戦争後に在日武官として東京に駐在したファルケンハ ウゼン中将が軍事顧問団長となり、日本軍は蒋介石軍に苦しめら れることになるのである。  

太平洋戦争の情報参謀で、戦後に陸上自衛隊の幕僚長に就任した杉田一次氏は著書『情報なき作戦指導─大本営情報参謀の回想』 にて、以下のように回顧している。

「盧溝橋事件勃発するやファルケンハウゼンは保定にある中国の北区戦区司令部に派遣され、つづいて上海戦線へと派遣されて中国軍の作戦を援助して、南京陥落後は蒋介石の特命で武将になっ て蒋介石を補佐した。高級顧問団員(複数)は秘密裡に山東省や 山西省で活躍し、ある意味では支那事変は日独(軍人)間の闘争であった」  (引用終わり)

情報活動は早期に兆候を探知し、それを高所、多角的な視点から見て、向かうべき趨勢を見極め、戦略や戦術に反映しなければ ならない。中独合作の最初の兆候は満洲事変以前に遡る。

「後智慧」といえばそれまであるが、もしわが国が早期にこの兆候に気 づき、ドイツの本質を見抜いていたならば、米国との太平洋戦線 への分水嶺となった「日独防共協定締結(1936年11月)」 にわが国に向かわせたであろうか。

ここに、戦略的インテリジェンスの要諦をみるような思いがす る。  

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