インテリジェンス関連用語を探る(その1)    

▼はじめに  

2016年1月、拙著『戦略的インテリジェンス入門』を発刊して以来、ビジネスパーソンの方々から情報分析についてお聞きしたいとの依頼が何度かありました。  

同著は、国家安全保障に携わる初級の情報分析官を読者として想定し、執筆したものです。筆者としては、できるだけ内容を簡潔に、かつインテリジェンスの全領域を網羅することに着意いたしました。

しかしながら、入門書という立場上、参考文献の記述から大きく逸脱するわけにはいきません。そのため少し説明が杓子定規になってしまい、読みづらい点があったことを残念に思っています。

ビジネスパーソンの方々にインテリジェンスや情報分析のお話ししてみて、改めて、これまで当たり前のように使用してきた「情報」「インテリジェンス」「情報分析」という言葉の意味はなんだろうか?と、自問しました。

そしてビジネスパーソンなどの方々にそれら内容を伝えるには、用語の意味や内容をさらに咀嚼し、身近な例に置き換えるなどの努力をする必要があると認識しました。

そこで、このシリーズではインテリジェンス関連用語について、できるだけわかりやすく述べてみたいと思います。なおすでに筆者の他の題目ブログにて述べたことと一部重複する個所もありますが、ご容赦下さい。

▼「情報」のルーツを探る  

現在は情報学、情報処理、情報システム、情報公開、情報戦など、情報に関連する用語が日常的に氾濫しています。すなわち「情報」は日常語であると言えるかと思います。

しかし、わが国における「情報」という言葉は、もともとは「敵情報告」の略語として明治時代に生まれた軍事用語です。また、他の多くの言葉のように「情報」も中国からの流入語と思われがちですが、そうではありません。ただし、「情」という言葉は、孫子の「敵の情」という用例が示すとおり、中国からの流入語となります。しかし、「情報」は、中国人自身が認めているように日本から中国に輸出されたのです。

その初出例は、1876年(明治9年)に酒井忠恕陸軍少佐が翻訳した『佛國歩兵陣中要務實地演習軌典』(内外兵事新聞局)です。同著では、情報は「情状の知らせ、ないしは様子」という意味で使用されました。つまり、情報は敵の「情状の報知」を縮めたものでした。

その後1882年に『野外演習軌典』(陸軍省)において「情報」が初めて陸軍の軍事用語(兵語)として採用されました。1901年にはドイツから帰国した森鴎外が、ナポレオンの軍事将校として勤務したクラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳(大戦学理)した際、情報とは「敵と敵国に関する我が智識の全体を謂ふ」と定義しました。

また鴎外は情報とは「これ、我が諸想定及び諸作業の根底なり。敵の情報とは『敵の状・情』に関するものなり。『状』とは、敵の兵力や装備等の状況(事実)を明らかにするもの。『情』とは、敵の感情の動きや内部のそれぞれの事情を含めた士気・規律・団結の状況を示すもの」と解説しました。

『野外陣中軌典』で「情報」が使われるようになった以降、他の兵書でも「情報」という言葉が使われるようになります。それと同時に「状報」という言葉も使用されます。上述のような用例の違いはあったとしても、両用語は明確な区別なく使用されていました。

1989年(明治24年)、わが国最初の体系的な陸軍教範『野外要務令』が制定されました。同要務令をひも解きますと、情況、情状、敵情、事情などの「情」がつく言葉は随所に登場します。しかし「情報」が登場する箇所はわずか二箇所です(筆者の検証ミスがあったらお許しください)。

ここでの使用法を抜粋します。

・「……このごとき情報を蒐集(しゅうしゅう)するは主として最前線にある騎兵の任務に属す。……」

・ 「情況を判決するには直接に敵を探偵観察して得たる情報と他の諸点より得たる認識推測を集めてなれる証迹(しょうせき、証跡)とをもってするを最も確実なるものとする。・・・・・・」

つまり、「情報」は、上述のとおり、敵や地域に関する「状」や「情」であって、戦場において敵及び地域と直接接触して得ることがおおむね認識されていたと考えられます。ただし、軍内に広く定着する軍事用語ではありませんでした。

1914年(大正3年)には、『野外要務令』を基礎に『陣中要務令』が制定されました。ここでの「情報」の使用は『野外要務令』と比べると多少増えています。しかし、「情報」の定義及び内容などを直接的に説明した箇所は見当たりません。

他方、同要務令では、「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述されました。同要務令は計13編の構成になっていますが、その第3編が「捜索」、第4編「諜報」となっています。つまり、「捜索」と「諜報」がそれぞれ章立てされたということになります。

そして、「捜索」とは、戦場において、主として騎兵などの第一線部隊が敵と接触して得る「敵の状・情」である旨が記述されています。 一方の「諜報」は、主として諜報専門部隊が住民の発言、新聞、信書、電信、その他の郵便物、俘虜などから得る「敵の状・情」である旨が記述されています。

つまり、「捜索」は戦時における戦場において第一線部隊が獲得するもの、「諜報」は戦時・平時及び戦場・非戦場を問わず諜報専門部隊が獲得するものとして、大まかに区分されたと解釈できます。

さらに昭和期に至り、1932年(昭和7年)に『統帥参考』が制定されました。同書では「情報収集」の手段を「諜報勤務」と「軍隊に行う捜索」に区分する、としています。また、同年制定の『作戦要務令』の第3編「情報」では、第1章「捜索」、第2章「諜報」に区分して、その意義や内容を具体的に記述しています。

つまり、昭和期に至ってようやく「情報」が「捜索」と「諜報」の上位概念であり、「捜索」と「諜報」を網羅するものであることが規定されたのです。

(次回に続く)

わが国の情報史(24)

大正期のインテリジェンス(その2)

▼一時しのぎの「石井・ランシング協定」

第一次世界大戦は明治末期からの不況と財政危機とを一挙に吹き飛ばした。日本は英・仏・露などの連合軍に軍需品を、欧州列強が撤退したアジア市場には綿織物を、アメリカには生糸を輸出して大幅な輸出超過となった。

また、大戦により世界的な船舶不足になり、日本はイギリス・アメリカに次ぐ世界第三位の海運国となった。こうした日本の大躍進に警戒したのが、ほかならぬアメリカであった。

第一次世界大戦が開始した頃から、中国大陸における日米両国の利権問題やアメリカ国内での日本人移民排斥運動の動きなど、日米間には緊張した空気が流れていた。

1917年(大正6年)11月2日、日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官・ランシングとの間で「石井・ランシング協定」が締結された。 この協定は、中国の領土保全・門戸開放と、地理的な近接性ゆえに日本は中国(満州・東部内蒙古)に特殊利益をもつとする公文書であった。さらに付属の秘密協定では、両国は第一次世界大戦に乗じて中国で新たな特権を求めることはしないことに合意した。

つまり、日米双方は第一次世界大戦の最中であったので、無用な衝突を回避するために双方の妥協点を見出すという、一時しのぎの“苦肉の策”に出たのであった。

▼シベリア出兵によってアメリカの対日警戒が増大  

第一次世界大戦の最中の1917年、レーニンの指導するボリシェヴィキにより世界最初の社会主義革命が起き、1918年にロシア帝国は崩壊した。 1918年3月、ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト=リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。

連合国側としてドイツと戦っていたソ連が裏切ったのである。 そのためドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に振り向けることができた。これに慌てた連合国は、ドイツに再び東部戦線に目を向けさせるとともに、社会主義国家の誕生を恐れて、シベリアのチェコスロバキア軍救援を名目として内戦下のロシアに干渉戦争を仕掛けた。

しかし、英・仏はすでに西部戦線で手一杯で、大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵の主力になるように打診した。

1918年7月になってアメリカがチェコスロバキア軍救援のために日米共同で限定出兵することを提起すると、寺内正毅内閣は1918年8月、シベリア・北満州への派兵を決定した(シベリア出兵)。

しかし、アメリカと日本の派兵目的は異なっていた。日本は共産主義の浸透が満州、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒していた。そのため、オムスクに反革命政権を樹立することを目的に出兵兵力をどんどんと増大させた。

一方のアメリカの出兵目的は日本の北満州とシベリアの進出に抵抗することであった。アメリカは共産主義を脅威だとは認識していなかった。だから、ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力せず、かえってボルシェビキに好意を示す有様だった。

▼パリ講和条約における日米の軋轢

第一次世界大戦は1918年11月に休戦が成立した。両国とも連合国の一員として、戦勝国として1919年のパリ講和会議に参加した。 パリ講和会議のヴェルサイユ条約では、日本は山東省の旧ドイツ権益の継承が認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。

しかし、その少し前に朝鮮で起きた「三・一独立運動」の影響もあって、日本のドイツ利権の継承に対して、北京の学生数千人が1919年5月4日、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をし、デモ隊は暴徒化した(五・四運動)。 この五・四運動が中国共産党の設立を促し、やがて泥沼の日中戦争へとわが国は向かうことになる。

山東還付問題については会議中からアメリカが反対した。我が国は戦勝国として臨んだ講和会議であったが山東還付問題でアメリカから批判されたことで、講和会議に参加した外交官や新聞各紙の記者は衝撃を受けた。

▼ペリー来航の目的

このように大正期において日米対立が顕著になるが、その対立の歴史はさらに遡る。 1853年のベリー来航の第一の目的は、アメリカは日本を捕鯨船団の寄港地にすることであった。当時、太平洋を漁場にした捕鯨の最盛期でもあった。日本近海には、アメリカの捕鯨船がひしめきあい、灯火の燃料にするため盛んにクジラをとっていた。

しかし、アメリカのもっと大きな狙いは中国(清)利権の獲得であった。つまり、当時4億人の市場を持つ中国への市場拡大を狙っていた。そのための寄港地が日本というわけである。

米国のアジア大陸の進出の目論みは南北戦争(1861~65年)によって、いったん中断されたが、この戦争が終わり、米国は本格的にアジア・太平洋の支配を狙いにスペインとの戦争を開始した。 1898年にハワイ、次いでフィリピンを獲得し、1902年までにフィリピン独立戦争に勝利してここを植民地として、加えてウェーク、サモア、ミッドウェー等を押さえ、南太平洋上に日本を取り巻く形で、太平洋の支配に乗り出した。

そして、いよいよ中国への進出である。しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど中国分割が進んでいた。 そこで、アメリカの国務長官ジョン=ヘイは、1899年と1900年の二度にわたり、「清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきである」として、中国に関する門戸開放(もんこかいほう)・機会均等の原則を求めた(門戸開放宣言)。さらに1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。

▼アメリカのオレンジ計画

1904年、満州利権をめぐって日露戦争が生起した。この時、イギリスとアメリカはロシアの満州占領を反対して、日本支持を支持したが、日本がロシアに勝利したことで、アメリカは日本に対する脅威を増大させていった。

アメリカは1904年、陸海軍の統合会議を開催して、世界戦略の研究に着手した。ドイツを仮想敵国にしたのがブラックプラン、イギリスに対してはレッドプラン、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。

オレンジ計画では、日本はフィリピンとグアムに侵略することが想定された。つまり、アメリカが占領した太平洋の拠点を防衛する上で、日本は想定敵国に位置付けられた。日露戦争の日本勝利によってオレンジ計画はより具体化されていった。

▼白船事件

オレンジ計画の具体化のひとつともいうべき事象が白船事件である。アメリカは1907年に大西洋艦隊を西海岸のサンフランシスコへ回航すると議会で発表した。この時にはまだ世界一周航海であることは伏せられていた。

同年12月16日、大西洋艦隊は出港し、翌1908年の3月11日にメキシコのマグダレナに到着すると、3月13日にルーズベルトは航海の目的が世界一周だと発表した。 つまり、アメリカは大西洋艦隊を大挙して太平洋に回航させ、日本近海に近づけるということ行動に出たのである。

日本の連合艦隊の2倍の規模もある大艦隊の接近は日本に恐怖をもたらした。船は白いペンキが塗られていたのでかつての黒船と区別して「白船」と言われた。

米国は、海軍力を誇示することでロシアのバルチック艦隊を破った日本海軍を牽制したのである。 アメリカのハースト系新聞その他は、日本軍がこれを迎え撃った場合は大戦争が始まるということで、世界に一斉に煽情的な報道を流した。 これに対して、日本政府とマスコミは「白船歓迎作戦」に出た。この作戦が奏功し、何事もなくアメリカ艦隊はサンフランシスコへ去っていった。

▼日本人移民排斥運動

日米関係の悪化のもう一つの背景には、アメリカ国内における日本人の移民問題があった。 1848年1月、カルフォルニア州で金鉱山が発見されると、鉱脈開発や鉄道工事で多数の中国人労働者が受け入れられた。

しかし、中国人労働者の入植によって自分たちの地位が奪われるとして、カルフォルニアの白人労働者が1860年代から脅威を覚えるようになった。そこで、1882年に中国人の移民が禁止された(排華移民法)。

他方、日本からのハワイへの移民は明治時代初頭から開始されていた。上述の排華移民法の成立と1898年のアメリカによるハワイを併合が、日本人による米大陸本土への移民を促した。

こうして日本人移民は1900年代初頭に急増した。急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で、日本人移民は現地社会から排斥されるようになり、1905年5月に日本人・韓国人排斥連盟が結成された。

1906年4月、サンフランシスコ大地震が発生した。この際、大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、サンフランシスコ当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じた(日本人学童隔離問題)。

この事件を契機に、アメリカでは「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。 その後も、アメリカ合衆国の対日感情は強硬になり、1924年7月(大正13年)、排日移民法が制定されたのであった。

▼ワシントン会議における対日圧力

1921年11月12日から 翌22年2月6日かけて、第一次世界大戦後のアジア太平洋地域の新秩序を形成するための国際会議がアメリカのワシントンで行われた。 この会議には、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国(中国)・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加したがソ連は会議に招かれなかった。

同会議では、重要な三つの条約が締結された。第一は「四か国条約」(1921.12月)である。これは米・英・日・仏が参加した太平洋の平和に関する条約であり、これによって日英同盟は破棄された。

第二は「9か国条約」(1922.2)である。これは中国問題に関する条約であり、中国の主権尊重、門戸開放、機会均等などが約束され、「石井・ランシング協定」は破棄された。 つまり、この条約締結により、日本の中国に置ける特殊地位は否認され、た。山東省における旧ドイツ権益を中国へ還付することになった。

第三は「海軍軍縮条約」(1922.2)であった。この条約により、主力艦保有はアメリカ・イギリスが各5、日本3、フランス・イタリア各1.67として、今後10年間は老朽化しても代艦を建造しないことが約束された。 日本国内では、この軍縮条約をめぐって、海軍軍令部が対英米7割論を強く主張したが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が部内の不満を押さえて調印した。

▼帝国国防方針の改定

こうした情勢下、わが国は1918年(大正7年)と1923年(大正12年)に帝国国防方針を改定した。 1918年の第一次改定では、海軍の対米作戦計画は、「敵海軍を日本本土近海沿岸に引き付けて集中攻撃を行う」こと本旨とする守勢作戦であった。

これがため、米艦隊の現出を硫黄島西方海域やフィリピン島東方海面に予想し、我が根拠地を奄美大島、沖縄に求めることにしていた。 しかし、1923年の第二次改定では、「開戦劈頭、まず敵の東海における海上兵力を掃討し陸軍と協同してその根拠地を攻略し、西太平洋を制御して帝国の通商貿易を確保するとともに敵艦隊の作戦を困難にならしめ、然る後、敵本国艦隊の進出を待ちこれを邀撃し撃滅する」と改められた。

つまり、陸海軍は対米戦の場合、フィリピン島攻略を本格的に取り組むことになった。また、毎年実施された海軍大演習はこれに準拠して訓練の向上に努力させられたが、陸軍部隊の南洋委任統治領に使用することなど全然考慮されていなかった。

▼ワシントン条約からの撤退

1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約は日本で政治問題化し、海軍内では艦隊派(条約撤退)と条約派の対立が生起した。当初は条約派が主導してようやく締結にこぎ着けたが、32年からは艦隊派が優勢になった。 1931年の満州事件とともに、海軍軍縮条約を締結するかいなかの重大な案件が持ち上がった。

元老、重臣は国力からして国際協調路線であった。陸軍も満州国建設や対ソ作戦準備の点から条約維持を主張した。 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、1876年~ 1943年)陸軍大臣は、大角岑生(おおすみ みねお、1876年~1941年)海軍大臣に対して条約継続を強く希望した。

岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年~ 1952年)総理も、軍縮会議の存続を望み五相会議で論議されたが、大角大臣は、「それでは部内が収まらない」として、ワシントン会議よりの脱退を主張した。かくして、海軍出身の岡田総理は1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約脱退通告を米政府にいたした。

とかく陸軍が引き起こした満州事変及び日中戦争が太平洋戦争を招いたとの文脈で捉えられるが、太平洋戦争の遠因はペリー来航から始まっていた。そして、大正期の軍縮条約を是としない海軍艦艇派は対米戦に向けて準備を進めたのである。 そこには、陸海軍を統制する国家の情報機関の不在と、国際問題を大局的に分析するインテリジェンスが欠如していた。

未来において必要とされる能力と資質!  

我々の未来の環境はさまざまですが、AI(ITC含む)環境とグローバル環境に集約されます。

総務省はAI環境に必要な能力と資質について、人間的資質、企画発想力や創造性、対人間能力、業務遂行能力、基礎的素養に区分して、以下の能力や資質をあげています。

◇人間的資質:チャレンジ精神、主体性、行動力、洞察力

◇企画発想力や創造性 ◇対人間能力:コミュニケーション能力、コーチングなど

◇業務遂行能力:情報収集力、課題解決力、論理的思考力など

◇基礎的素養:語学力、理解力、表現力など  

他方、文部科学省はグローバル人材の定義に関して、要素Ⅰ、要素Ⅱ、要素Ⅲに区分して、以下の能力や資質をあげています。

◇要素Ⅰ:語学力、コミュニケーション能力

◇要素Ⅱ:主体性、積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感

◇要素Ⅲ:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー

また、文部科学省は、以上のほか、幅広い教養と深い専門性、課題発見・解決能力、チームワークと(異質な者の集団をまとめる)リーダーシップ、公共性・倫理観、メディア・リテラシー等が重要であるとしています。  

筆者は20数年前、陸上自衛隊調査学校(現在の情報学校)の新米の情報教官でした。当時、1992年の自衛隊カンボジア派遣などを契機に、“情報化”と“国際化”に対応する人材育成が喫緊の課題として認識されていたように記憶しています。

そうしたなか、陸上自衛隊の情報要員に対して「養成すべき資質や能力は何か?」というテーマが“侃侃諤々”と論議されていました。

筆者は現職時、教官業務の一環として相当数の「教育課目表(レッスンプラン)」を作成してきました。 これは簡略化すれば、上級司令部が示す教育基準、学校長の教育指針、前年度の成果、内外情勢及び教育環境などを踏まえ、基本的に修得すべき能力及び資質と、内外情勢の変化を対応して修得すべき能力及び資質について、それらの具体的な内容やバランス(配当時間)を明確にします。

次に、それらの能力及び資質を明らかにしたうえで、それらを達成するための課目及び課目内容を案出して、教育基準で示された精神教育、知識教育、実習、研修などの大項目区分に従って、課目と課目内容を割り当てていくことになります。

この作成過程において、もっとも苦心するのが、養成すべき能力及び資質を案出することですが、20年前の「教育課目標」の作成過程において、上述の総務省や文科省が列挙する項目はほぼ網羅されていたように記憶しています。

当時のAI環境、グローバル環境に比べて、現在は相当に進化しています。そ して、「今後10~20年程度で米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化さ れるリスクが高い(英オックスフォード大学でAIなどの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授)」、「2045年にAIが人間の能力を超えるシンギュラリティが訪れる(AI分野における世界的権威であるレイ・カーツワイル、ソフトバンク会長兼社長の孫正義氏など)」などの予測もあります。

また、グローバル化においては「ヒト」「モノ」「カネ」のボーダレスな流通が恒常化され、ITC発展とあいまって外国人労働者の流入、キャッシュレス社会、消費社会からシェア社会といった生活環境の変化がすでに起きいています。これが未来はさらに急速に進展すると予測されます。

このような環境変化に関する予測を受けて、多くの人が「10年先はわからない」、「私たちの仕事がAIに奪われる」といった不安感が次第に蔓延しつつあります。また「どのようなスキルを身に着けるべきか」などの暗中模索の思考がおこなれています。

たしかに、今後、これまでの職業がAIにとって代わられたりするといった状況が起こることは間違いないでしょう。つまり、ドライバーが自動運転技術にとって代わられた、精密技工や外国語の翻訳などがAIにとって代わられることになるでしょう。

「時代は流れる」「環境は変化する」、これは自然の法則です。そして結局のところ、先行きは 不透明であり、未来をずばっと言い当てることなど、神様でもなければ不可能です。

だから、「万物は流転する」といった自然の法則を受け入れ、そのうえで未来のシナリオを複数想定して、 基本的に必要とされる識能と資質をベースに、 自らが修得すべき識能と資質に磨きを掛けることが求められます。

ただし、筆者は上述の経験から、基本的に必要とされる能力・資質はいつの時代においても大きく異なるものではないと考えています。もちろん、それらの能力及び資質のうち、どれがより重視されるか、どの程度の語学レベルが求められるのかといった点には変化はあるでしょう。

環境の変化に柔軟に対応する(環境は変化するという事実を受け入れて、周囲の意見を聞いて自分の出来ることをやる)、リスクを恐れずに主体的・積極的に物事に取り組む、多様な仲間達と協調して困難を克服する、これらの基本的な能力及び資質があれば、「どのような環境であれ、世界であれ、領域であれ、やっていける」のではないでしょうか?

韓国海軍艦艇のレーダー照射事件について思うこと!

日韓レーダー照射問題で対立

現在、「P1哨戒機が火器管制レーダー照射による威嚇を受けた」とする日本側の主張に対して、日韓両国が真っ向から対立しています。

わが国の見識者は、「事実関係の解明が重要だ」としています。しかし、韓国側が完全否定している以上、事実関係を対外的に明らかにするためには決定的な証拠を公開して第三者の公的判断を仰ぐ以外にはありません。

つまり、P1哨戒機が解析しているであろう、『異常かつ不明』な電磁波信号を公開する必要があります。しかし、これは、自らの技術を明かし、そうでなくても先行きが不透明な韓国軍に火器管制レーダーの改良を促し、そうした情報が他の第三国に流れる懸念もあります。

こんなことは到底不可能です。その足元を見透かすかのように、韓国は逆に、「哨戒機が威嚇的低空飛行をしてきた」などと反論し、日本に対して謝罪を要求しています。他方、韓国は実務協議で問題解決を図る姿勢をちらつかせていますが、これはP1哨戒機が収集した電波情報の共同分析の提案という“魔の一手”(要は、日本側の電波情報だけが提示される)になる可能性があります。

思い起こされる大韓航空機007便撃墜事件

1983年9月に発生した「大韓航空機007撃墜事件」では、あくまでも事実を否認するソ連に対し、米国は国連の場において陸上幕僚監部調査部別室(当時)が行なった傍受交信の記録テープを証拠に「ソ連軍機が007便を撃墜した」と発表しました。

このテープの公開については、当時の中曽根総理や後藤田官房長官は当初、了承していなかったといいいます。

米国はわが国のインテリジェンスを利用することで、ソ連による航空機撃墜の事実を証明しました。しかし、わが国が長年かけて蓄積した、対ソ連のシギント収集のための指向周波数が公表され、ソ連はそれまで使用していた通信暗号を全面的に変更した。

その結果、わが国の傍受器材や傍受要領が通用しなくなり、シギント基盤は大打撃をこうむり、その再構築には多大な経費と時間を要したといいいます。

つまり、今回のような事案では、わが国は韓国に決定的な証拠を突きつけることは困難なのです。結局は事実関係の対外的公表はできないことになります。

国内向けに宣伝戦を続ける両国

日本は懸命に韓国側の危険行為の事実と、韓国側の主張の正当性のなさを主張しています。しかし、上述のように決定的な証拠が出せないのですから、あまり対外的な効果はありません。

国民に対して、粛々たる対応姿勢をアピールすることが狙いかもしれませんが、その国民からは「韓国側に明確な抗議を示せ」「具体的な措置を取れ」といった厳しい意見も多いようです。

韓国は完全に開き直って、韓国政府の立場をまとめた日本語を含む計6カ国語の動画を追加公開して、自国の立場を国際社会にアピールしています。

これに対して、日本では、「ほとんどは日本側の映像だ」とか、「こんな根拠のない主張は国際的には認めらないし、宣伝は効果はない」と、高をくくっていますが、はたしてそうでしょうか?

世界にとって日韓問題は極東アジアの些末な問題であり、どうでもよいことなのでしょう。たくさん目にしたもの、耳にしたものを批判なく信じ、利益を与えてくれるものに味方し、世論が少しづつ形成されて、固定観念になっていきます。それは、慰安婦問題などの歴史問題をみればよくわかります。

つまり、事実が正しいかどうかではなく、なりふり構わないロビー活動などにしてやられているのが現状です。

情報分析して何をするのか?

この問題については自衛官OBも含めて専門家などがコメントされています。主な意見は次のように整理できます。

◇現場サイドによる恣意的な判断でレーダーを照射したのであろう。

◇謝罪すれば済む話であった。ただし国防部は、南北関係の重視と歴史問題で支持率維持を狙う文在寅政権に対する忖度によって謝罪に応じられなくなっている。

◇日韓の軍事関係は以前として良好である。韓国海軍は実務協議で問題解決のメッセージを送ってきている。

つまり、現在の日韓関係のほとんどの問題は、文政権という不正常な一時的な状態に起因しているという見解です。

それにしても、事実関係の解明だとか、韓国側の意図だとか、情報分析ばかりしているような気がします。

筆者に言わせれば、「事実は日本側の主張どおり。でも、そんなことはもういい。それよりも、何ゆえに韓国側の意図を分析しようしているのか、情報分析の結果をどのような戦略・戦術に反映するのか、明確なスタンスを持ってほしい」ということです。

韓国はほんとうに友好国なのか?

上述のような専門家のコメントには隠れた前提があります。つまり、「日韓関係は基本的に変化がなく、韓国は依然としてわが国の友好国である。だから、昨今の北朝鮮情勢や中国情勢を踏まえた場合、韓国との緊密な軍事関係を維持する必要があるのだ」というものです。

これでは、いくら情報分析しても戦略・戦術は変わりません。すなわち、戦略・戦術にインテリジェンスを反映できません。

しかし、本当にこの前提が本当に正しいのか、一度考え直す時期に来ていると筆者は考えます。

中・韓・北VS日・米という地殻変動はすでに起きているのではないか?その背景には地政学的な力学のほかに地経学的な力学が働いているのではないか?日韓の軍事関係は良好であったのは過去、あるいは一部の高級幹部に限られているのであって、韓国軍の中堅幹部は反日・親中に傾斜しているのではないか?

これらのことを慎重に判断して、韓国との軍事関係のスタンスを見直すことが重要なのではないでしょうか。

筆者は日・米・韓の軍事関係がどの程度変化しているのかはわかりません。また、韓国の指導層にもさまざまな意見や派閥が存在することは間違いないでしょう。

ただし、インテリジェンスの視点からは「日・米・韓が協力して中国の台頭や北朝鮮の突発行動に対処すべき」との前提論に固執しすぎると、情報分析を誤りかねない、このことを申し上げておきます。

この点、有村香氏は相手の意図を分析することに終始して対応が遅れることの問題点を指摘されています。まことに拝聴の価値があります。

韓国と中国の相似性

それにしても、このような問題をめぐる韓国と中国の相似性には驚くべきものがあります。これは儒教文化など歴史的にも起因するのでしょうが、中国、北朝鮮、韓国はまさに双生児といってもよいかもしれません。

ここにはまったく日本的な禅譲、謙虚、誠実といった文化はありません。それでも、新聞等をみますと、文大統領が日本に対して“謙虚”になれ、といっているようですが、これはおそらく翻訳の誤りでしょう。中国や韓国に謙虚という言葉があるとは思えません。

第七計「無中生有」(むちゅうしょうゆう)―捏造 される領有権 問題

以下は、筆者の2016年に出版した『中国戦略悪の教科書』からの抜粋です。

― 「でっちあげ」の計略 -

「無中生有」は「無の中から有を生ず」と読む。語源は「万物は無から生ずる」との『老子』からの引用であるとされる。 本来はなかった物をあるようにみせ、その間に着実に実態を整える計略である。いわゆる「でっちあげ」「はったり」の計略である。

「無中生有」は中国の常套手段だ

二〇一二年九月、わが国による尖閣諸島国有化の以降、日中間の軋轢が急上昇した。中国国内での反日デモはまもなく収まったが、「海監」および「漁政」などの法執行船による尖閣諸島領海内への侵犯が常態化した。

二〇一三年一月一三日、尖閣諸島北方の東シナ海公海上で、中国海軍のフリゲート艦が海上自衛隊護衛艦に対し、約三キロ離れた所から、約三分にわたって射撃管制用レーダー(FCレーダー)を照射した。

わが国が中国側に対し二月五日、中国側がFCレーダーを使用したことを公表して、「危険きわまりない」と抗議した。 翌二月六日、中国外交部(外務省に相当)の定例記者会見で華春瑩(女性)・副報道局長は「外交部は日本から抗議されるまで知らなかったのか」との質問に対し、「そう理解してもよい」と返答した。

二月八日、国防部は「照射したのは監視レーダーだ」とし、FCレーダーの使用を完全否定した。そして副報道局長が「日本側の無中生有だ」と言い放った。 開き直りともいうべき完全否定は、FCレーダーを照射することの重大性を認識できる国際常識は持ち合わせていたことを示すものであろうが、一方、中国指導部は予期しない事態の対応に迫られたことで、「無中生有」だと居直り、完全否定を押し通すしかなかったと推察される。 また、副報道局長の「無中生有」発言は、中国がこの計略を常套手段として、平素から多用している証左であろう。

抗議には逆抗議で居直る

二〇一四年五月二四日、中国の戦闘機二機(Su-27)が東シナ海上空で自衛隊の情報収集機(YS-11EB)に約三〇メートまで接近した。同年六月一一日に、オーストラリアの国防相と外務相が来日中に、中国の戦闘機二機がふたたび自衛隊の情報収集機に接近した。

小野寺防衛大臣(当時)が、「こうした危険な飛行を行なわないよう」に外交ルートを通じて抗議した。これに対し六月一二日、中国国防部は「東シナ海の中国の防空識別圏で定期哨戒飛行中のTu-154型機が日本のF-15戦闘機二機に三〇メートルの距離に異常接近された」として、〝証拠〟の動画を公表した。

この動画を分析したわが国の専門家によれば、日中双方の航空機の距離は十分に保たれており、中国側の主張はまったくの捏造であった。 中国国防部は、わが国の抗議に対して居直り、逆に「自衛隊機の異常接近」をでっち上げることで、わが国を逆牽制するとともに、諸外国に対して、自らの正当性をアピールする国際宣伝戦に出たものとみられる。

尖閣諸島の領有権は〝でっちあげ〟

最近の日中間対立の直接原因は尖閣問題にある。これについても、中国側による「無中生有」であることを指摘しておかねばならない。

わが国は一八八五年から尖閣諸島に対する現地調査を開始し、台湾割譲が合意される下関条約の締結以前に、同諸島が占有者のいない土地、すなわち国際法上の無主地であることを確認し、わが国領土に編入した。 これに対し、当時の清国からは、なんらの異議申し立てはなかった。

その後、尖閣諸島は一九五一年の「サンフランシスコ平和条約」で沖縄本島とともに一時的に米国施政下に置かれ、七一年に、「沖縄返還協定」に基づき、沖縄とともに施政権が返還された。

この間、中国は尖閣諸島の領有権を公式に主張したことは一度もない。中国が五八年に発表した「領海声明」においても、尖閣諸島は中国の領土だと主張されていない。

ところが、中国は一九七一年、「尖閣諸島は中国古来の領土である」との領有権主張を開始した。これは、国連アジア極東経済委員会が同海域の海洋調査を実施し、六八年に「同海域には大規模な石油・ガス田が存在する可能性が高い」こと発表したことに対応したものである。

その後、「日中平和友好条約」の締結が大詰めに近づいていた一九七八年四月、中国の武装漁船が同諸島付近に集結し、日中に一挙に緊張が高まった。この際、鄧小平(とうしょうへい)・副主席が「問題を後代に委ねよう」と「棚上げ」を提唱し、尖閣問題は一応の沈静化をみた。 

しかし一九九二年、中国は「領海法」を制定し、南沙諸島などに加え、尖閣諸島の領有権を明記した。つまり、中国はいったん自ら「棚上げ」を提唱しておきながら、一方的にそれを放棄した。 中国は尖閣諸島の領有権を〝でっち上げ〟、そして「棚上げ」論でわが国を油断させ、その間に尖閣諸島が「自らの古来の歴史的領土」であることを正当化する文献の収集と、自国にとって都合の悪い日本側の文献・地図の棄却を行ない、「領海法」という国内法でもって外堀を固めた。

明代に著された書物に釣魚台の文字が記述されてあったとの主張を中心に、領有権の存在を国内外に喧伝していく一方で、尖閣諸島と記述されている『中国地図集』は都合が悪いため、中国政府が躍起になって回収しているといわれている。 まさに「無中生有」の実践が行なわれているのである。(以上、引用終わり)

さいごに

今回のレーダー照射事件はおそらく、今後の日韓関係の未来に起こり得ることの氷山の一角なのでしょう。

事実関係や直接的な原因を追求することも重要ですが、一角の現象はどこから来ているのか?地理、歴史、文化など、さまざな根底要因を洞察することが重要です。そして、大きな変化はとらえることが重要です。

その分析手法を氷山分析といいます。興味のある方は検索してみてください。

外国人労働者はわが国に幸運をもたらすか!

人口構造の変化

わが国は少子高齢化に急速に向かっており、労働人口の現象、地方における限界集落など、さまざまな悪影響が懸念しています。他方、世界では未だに人口が増加して、アジアやアフリカにおいては多くの余剰労働力があります。

そこで、わが国の少子高齢化の対策を考えるうえで、世界における爆発的な人口増加は何がもたらしたのか?この要因をPESTで分析してみましよう。

政治(P)では政府の政策に作用される側面が大きいと考えます。

中国は第二次世界大戦後に爆発的な増加の道を辿ります。これは中国政府が「人口が多いのは重要な国家財産である」と楽観的な思想の下で人口増加政策を推し進めたことにあります。

その反動から1979年から「一人子政策」を開始しましたが、2016年から労働者人口が減少に転じたために、一人子政策を廃止しました。

経済的(E)には工業化による経済成長が大きく左右していると考えられます。

世界的な人口爆発は、18世紀の農業革命とその後の産業革命時期に起きます。つまり、大量の食糧や商品を生産して消費する消費経済が人口増に適していたわけです。  

社会的(S)には戦争との関係が大きいとみられます。

第二次世界大戦後、世界各国にはベビーブームが訪れますが、これは終戦による安堵感から沢山の子供が出来たとみられます。   

技術的(T)には、テクノロジーによる食糧や物の生産力の向上があげられます。

農業分野におけるテクロノジーの導入は穀物生産量の大幅増となり、これが人口増加に直結しました。また、医療技術の進歩によって安定出産と長寿化が図られました。

日本の第一次ベビーブームの到来

わが国の第二次大戦後に第一次ベビーブーム期(1947年~1949年)を迎えます。つまり、終戦による社会の変化、安心感が人々に子供を持つ希望と勇気を与えました。

1949年には年間出生数は約270万人の最高値を記録しました。第一次ベビーブーム期の3年間に生まれた人たちが「団塊の世代」と呼ばれます。これは約800万人に達していました。

やはり、人口増の背景には政府の政策が大きく作用しました。第二次世界大戦後、経済復興のための政府は「生めよ、育てよ」をスローガンにした 子供の出生を奨励しました。この政策と、社会的な平和、そして飛躍的な経済発展による景気感が第一次ベビーブームの到来となったのです。

このように出生率が向上して、テクロノジーの恩恵によって医療技術がもたらす長寿化が、わが国の人口を急激に押し上げたのです。

わが国の出生率は早くから低下した

しかしなが、わが国の出生率は意外にも、第一次ベビーブームが終わるとすぐに低下することになります。

第一次ベビーブーム期から約20年後の1970年代初頭、第二次ベビーブーム期(1971年~74年)が訪れます。この時期には毎年約200万人、計800万人の子供が生ました。これは「団塊ジュニア」と呼ばれます。

このベビーブームは、第一次ベビーブームの「団塊世代」による“ボーナスの配当”です。実は、女性一人の少生率に限ってみれば、それ以前から減少していたのです。

合計特殊出生率(15歳から49歳までの女性1人の出産率)は第一次ベビーブーム期には4.3を超えていました。しかし、その後、特殊出生率は急激に落ち込んでいき、第二ベビーブーム期には約2%になっていました。

人口を維持できる合計特殊出生数の水準は2.07とされることから、すでに未来の危機となる少子化の傾向は始まっていたたわけです。 このように、出生数の低下という現象は穏やかに始まっていましたが、「団塊の世代」という大きな分母が「団塊ジュニア世代」という大きな分子を生んだのです。このことが、政府は国民の未来への楽観視へとつながったのかもしれません。

1975年以降の出生数はほぼ減少し続けていきました。合計特殊出生率も漸減していき1989年には1.57まで落ち込み、「1.57」ショックと呼ばれました。なお、この影響には、この年にあたる「丙午(ひのえうま)」に生まれた子供は縁起が悪いというジンクスの影響が加算されました。

合計特殊出生率の低下により、団塊ジュニア世代が結婚適齢期になる1990年代の前半になっても、第三次ベビーブームは起こりませんでした。合計特殊出生率は2005年には過去最低の1.26まで落ち込みました。

その後はやや持ち直し、最近では1.5弱を維持していますが、2016年以降また減少傾向にあります。

出生数の方も1975年以降、減少の一途をたどり2016年からは毎年100万人を下回っています。第二次ベビーブーム期の約半分まで落ち込んだことりなります。

しかし、それでも人口全体の数はずっと増え続けていました。なぜならば医療技術などによって平均寿命が大幅に伸びたからです。このことが、人口構成の変化がもたらす危機についての認識欠如に繋がりました。

平均寿命は戦後ほぼ一貫して伸び続け、1990年と2017年を比較すると、男女ともに5歳以上を伸長しています。 しかし、長寿化の速度を少子化の速度が上回ったことから、わが国は2010年から歴史上初の人口減少を迎えました。

この場に及んでようやく人口の問題がクローズアップされます。しかし、その問題の原因ははるか昔に発生していました。政府や国民の楽観視が問題解決の本質に気づかなかった、気付こうとしなかったといえます。

日本の人口予想

人口減少の傾向は、2010年の1億2806万人が、2040年には1億728万人になると推測されています。 また65歳以上の高齢者が社会全体に占める割合は、2010年には23%であったが、2035年には33%を超えて3人に1人が高齢者となります。2042年には高齢者3878万人でピークを迎えますが、高齢者率はその後も増え続け、2060年には約40%に達すると予測されています。

このようにわが国は少子高齢化に向かって進んでいますが、高齢化の波を押しとどめることは道徳的、倫理的な観点から不可能です。 したがって少子化の改善が急務となっています。つまり直接的な人口減少原因である出生率の低下に歯止めをかける必要があるのです。

先に見てきましたように、世界的な人口増加は終戦、政府の政策、経済発展、テクノロジーの進化がもたらしましたが、これからは消費社会からシェア社会へと移行していきますので、世界的に人口増加という方向には向かうわけではありません。

しかし、わが国における少子高齢化という歪な体制を解消するためには、当面の出生率を回復・上昇することは不可欠です。

その出生率の低下は女性の高学歴化や社会進出の影響が大きいとされます。1950年代の後半から日本は高度成長期に入り、経済の中心は農業から工業・サービス業へと移り、学校を終えた女性が外で働くことが一般的となりました。1967年には、初めて女性雇用者の数が1千万人を超えました。

さらに政府による女性の労働奨励(1986年の男女雇用機会均等法)、中絶合法化、男女同権などの政策が出生数にブレーキをかけていきました。

また人口減少が地方都市での産業の空洞化を生み、大都市に人口流出が起きたことも少子化の原因です。都市部への人口集中が起きると、そこでは経済の過当競争が起こり、共働き家族が増えます。すなわち女性の社会進出によって、ますます少子化が加速することになるのです。

女性の社会進出が少子化につながるという悪循環

わが国は世界でも類をみない少子高齢化社会の到来を迎えて、労働力不足のための外国人労働者の受け入れや、高齢者の活用、さらにはAI(人工知能)などを模索しながら、少子化の根源原因の改善に努めなければならないとみられます。

少子化が直面する喫緊の課題が労働力不足です。この対策の一つとして、政府は女性の活用を挙げています。しかし、 しつかりとした対策を講じなければ、 先述のように女性の社会進出が少子化の原因となったのですから、負のスパイラルに陥る可能性があります。

政府は女性の活用を促進しつつ少子化を抑制するために、子育て支援、働き方改革などを推進する方向を示しています。しかしながら、女性の社会進出によって女性の結婚観、人生観にも変化が見られています。このような価値観の変化には政府による各種の優遇策は無力であるかもしれません。

ただし、同様に少子化で苦労していたフランスでは、金銭的な子育て支援策のほかに、結婚に縛られない出産環境を整えました。現在で50%以上がシングルマザーとなり、合計特殊出生率も2.07%を上回っています。 このことは、わが国にも一縷の希望をもたらすことになるかもしれません。

外国人労働者の問題

労働力不測の対策のもう一つの対策である外国人労働者についてはどうでしょうか?

これについては賛否などについて侃侃諤々の議論がなされていますが、昨年(2018年)暮れに、筆者はある出版社の社長さんと、銃器の世界的な権威であるT氏と会食する機会があり、その時にT氏がお話しされたことがとても有益だったので、皆様に紹介します。  

T氏はドイツと日本で計50年生活されている国際人です。そ の方から見る、現在の日本人や日本の在り方論には大いに感銘を 受けました。

よく未来予測は「すでに起きている現実に着目せよ」と いわれますが、ドイツは少子高齢化の先進国です。 つまり、日本が労働力不足解消のために外国人労働者の受け入れることが、どのような未来を引き起 こすかを予測するには、ドイツですでに起きている現象を知ることが重要なのです。  

ドイツはその労働力不足の解消や、グローバル化の世界的な影響を受けて、どんどん移民を受け入れています。 T氏によれば、ドイツではイスラム系トルコ人が移民として移 り住んでおり、とくに問題となるのが、ドイツ国籍を取得したトルコ系二世のドイツ人なのだそうです。  

最初に父親たちがトルコからドイツに移住します。彼らはドイ ツ人女性とは結婚せずに、トルコ人女性との結婚が主流のようです。父親は仕事に就くために、努力して語学を修得します。でも、 遅れてドイツにやって来る母親(恋人)は生活に必要なドイツ語 しか修得しようとしません。  

だから、その両親によって育てられる二世は、言語でドイツ人 と障壁を持つことになります。また、風貌もドイツ人とは異なっていますし、宗教はイスラム教です。つまり、ドイツ社会では法 や規則ではわからない、知らず知らずの差別化が生まれているの だそうです。

こうした若者は自分のアイデンティティーに疑問やジレンマを抱くことになります。そして集団に属さない、行き場のない若者が生まれるのだそうです。

おそらく、そこにテロ組織が目をつけて、彼らの所属先を提供 し、これがテロ組織の勢力拡大や、ローンウルフ型のテロを生む原因となっているのだと思います。  

また、イスラムでは4人まで妻を持つことができるようです。 成功したトルコ人は複数の妻を養おうとして、それがドイツ政府との間で問題となっているようです。こんなことはドイツでは当然許されません。

また、心のよりどころが欲 しくなり、成功したトルコ人はモスクを立てようとします。しか し、ドイツとしては、どこでもかしこでも宗教的建築物を建築してもらつてはこまります。だから、それを拒否する政府とイスラム系トルコ人との軋轢という問題が起きているようです。  

つまり、宗教、文化といった障壁が、トルコ人とドイツ人の拭い切れない内部対立を生んでいるようです。  

さらには、一部のドイツ人がトルコ人になりすまし、「いかに差別された労働環境で働かされたか」といったドキュメンタリー記事を書いて、大注目されるといったことも生起したようです。  

どの世界でも、反政府派は存在します。彼らは現政権を打倒す るために、差別や“ブラック”を意図的に用いて大衆の不満に訴 えるというのが常套なのです。

T氏のわが国の未来への警鐘 

そのほかにも、T氏からはさまざまな有益なお話を賜りましたが、わが国の政策についてのT氏の懸念をいつくか紹介します。

○歴史的に民族の往来があるドイツでもこういう状況です。島国である日本に、たとえばインドネシアからイスラム系の外国人労働者がたく さん入国したらどうなりますか?多神教のわが国が、どの程度イスラム教を容認できますか?

○徴用工の問題がありますよね。彼らは自主的に日本での仕事に 志願したにせよ、目に見えない仲間内の差別は当然あったでしょ う。これと同じようなことが、あらたな外語人労働者との問題と して起こる可能性はあります。徴用工のような問題がふたたび未来に起こる、それを政府は理解しているのでしょうか?

○外国人労働者を5年間も日本で働かせて、「ハイ、さよなら」 とはいきません。彼らが自国に帰っても、すでに生活基盤はあり ません。結局は、日本に住むことになります。そうしたことを考 えていますか?都合の良い弥縫的な政策でお茶を濁そうとしていませんか?

○外国人による刑事事件が生じれば、警察には特殊言語の専門家が必要です。また行政の窓口にも特殊言語の専門家がいります。 それも規模が拡大すれば市町村レベルまで必要になります。こ ういう点を考えると、労働力不足の解消にはつながりません。もっとA Iの導入などをしっかりとやるべきでしょう。  

まさに、ドイツの現状を知る人ならではの貴重なお話でした。

わが国の情報史(23)

大正期のインテリジェンス(その1)

▼光と影の大正期  

1912年(明治45年/大正)7月30日、明治天皇崩御の報が日本列島を駆けめぐった。ここに「明治」の御代は終わり大正が始まる。実際は、明治天皇は前日の29日の午後10時4 3分に崩御されたが、公式には2時間遅らせて30日の0時43 分とされた。  

その大正天皇は1926年(大正15年/昭和元年)12月2 5日に崩御された。この時、元号は「光文」と報じられたが、誤報として「昭和」に訂正された。おおらかな時代ではあった。  

大正はわずか14年半と短かかったこともあり、明治と昭和の 激動期に挟まれ、ともすれば注目度が薄い。しかし、インテリジェ ンスの歴史において、シーメンス事件、シベリア出兵、ワシント ン海軍軍縮会議など、決して無視してはならない事件・事案があ る。

大正は明治末の重苦しい時代から解き放たれて、「大正デモク ラシー」「大正ロマン」に象徴されるように社会全体は解放的で軽快なイメー ジがある。たしかに、そこにはサラリーマンを中心とした中間層の文化的な生活欲求によって生み出された明るい生活があった。  

しかし、社会のさまざまな局面で矛盾や問題が露呈していった。 中間層の生活の豊かさと、その影で深刻化する矛盾や問題の進行 という、“光と影”に彩られた大正期を駆け足で眺めてみよう。

▼世界史的には激動の時代  

世界史的にはまさに激動期といえるだろう。20世紀初頭の欧州は、英・仏・露などからなる三国協商と、独・墺・伊からなる三国同盟との両陣営の対立を軸として、複数の地域的対立を抱える複雑な国際関係を形成していった。  

そこに、1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がサ ラエボで銃撃された。これが第一次世界大戦の幕開けとなった。  

各国は英・仏・露からなる連合国と、独・墺・伊およびオスマ ン帝国からなる同盟国との両陣営に分かれ総力戦を展開した。中立を宣言していたアメリカまでもが1917年にドイツに宣戦布告する。

この戦争は1918年まで続き、おびただしい惨劇を出 して、やがて連合国の勝利で終わることになる。

わが国は日英同盟に基づき、連合国側に参戦し、中国大陸と太平洋地域のドイツ支配地(膠州湾の青島、マーシャル、マリアナ、 パラオ、カロリンのドイツ領北太平洋諸島)を攻撃したほか、ま た一部艦隊を地中海に派遣した。  

ドイツ権益を奪ったかたちの日本は、「対華21カ条の要求」 を出し、袁世凱政府にほぼその要求を呑ませた。これにより、日 本は山東半島などに中国大陸侵出の足場を築いた。また太平洋方 面でもドイツ領を委託統治領として獲得した。

しかし、このような大陸進出の本格的な動きを、アメリカ・イ ギリスが警戒して、日本の大陸政策をめぐる英米との対立の出発 点となったのである。

▼第一次世界大戦で戦訓を学ばなかった日本  

この大戦では、戦車戦や砲兵戦の重視、歩兵における機関銃の役割、炊事車の導入、隊員の休養、家族とのつながり、精神的ケ アなど、多くの学ぶべき戦訓があった。  

海上作戦においては、潜水艦戦と対潜作戦が重視された。この作戦とともに、敵の潜水艦の位置を突き止める熾烈な情報戦、とくに暗号解読戦が繰り広げられた。

空中作戦では新兵器として航空機が登場した。開戦時にはよう やく飛ぶのが精いっぱいであった戦闘機は、わずか4年の大戦中 に大きく進歩した。これにより、偵察飛行、水上機による基地攻 撃、爆撃機による都市爆撃が可能となった。このため、イギリス、 フランス、ドイツでは陸軍航空隊が組織として誕生した。

航空機のもたらす偵察情報はしばしば戦闘に大きな役割を果た し、砲兵観測は既存の直接射撃主体の砲兵の戦術を一新するなど、 航空機は陸戦の勝敗を決する上で非常に重要な兵科となった。

このように、第一次世界大戦は戦訓の宝庫であったが、わが国はあくまでも補助的な限定参加であったこともあり、真摯にその教訓を得ようとはしなかった。また、明治維新の功労者は一人、また一人と第一線を退き、こ の世を去ろうとしていた。つまり、そこには羅針盤のない“昭和丸”の暴風における船出が待っていたことになる。

▼第一次世界大戦で繰り広げられたスパイ戦  

第一次世界大戦を経験し、世界各国は軍事のみならず政治、経済、 思想などを総合的に駆使する総力戦の重要性を認識するに至った。  

戦争が総力戦になるにともない、スパイ戦も熾烈化していった。 この大戦では、ドイツと英・仏との間でも熾烈なスパイ戦争が繰 り広げられた。ドイツは英・仏に対してスパイを潜入させる工作を活発化させた。有名なところで、女性スパイのマタハリが世界 的に注目された。  

ドイツは中立国スペインなどを拠点に英・仏に対するスパイ活動を展開した。 他方、英国は優れたシギント(信号情報)機能を駆使するとと もにロシアの協力を得てドイツの暗号解読に成功し、大戦のほぼ全期間にわたってドイツの艦隊に関する情報を把握していた。  

中東方面では、イギリスから派遣された「アラビアのローレンス」こと、トーマス・エドワード・ローレンスは、オスマントル コに対するアラブ人の反乱工作を展開して、有名になった。  

しかし、わが国は専門の国家中央レベルの情報機関を設置するでもなし、日露戦争後からずっと諜報・謀略を組織的に管理するという方向も示さなかった。

昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯で あった。参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになった のは1926年(大正14年)末のことである。

▼シベリア出兵と日ソ基本条約  

大正期にはわが国とソ連との緊張と修復の関係が続いた。第一次世界大戦の末期、1917年に十一月革命(旧:10月革命)が勃発した。革命政府がドイツとの停戦に乗り出すことにな ると、アメリカ・イギリスなど連合国はロシア革命に干渉して革 命政府を倒し、対ドイツ戦争を継続する勢力を支援しようとした。

日本も同調し、1918年には日本軍もシベリア出兵を行ない、 シベリアで革命政府のパルチザンと戦い、途中、ニコライエフス ク事件で日本軍守備隊が全滅するなど、成果を上げられないまま、 22年までシベリアに留まった。  

1917年のロシア革命によって、日ソ両国は国交を断絶した。 しかし、ソビエト連邦の安定化とともに、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。  

基本条約の内容は、外交・領事関係の確立、内政の相互不干渉、 日露講和条約の有効性再確認、漁業資源に関する条約の維持確認および改訂、ソ連側天然資源の日本への利権供与を定めたものであった。日本は、軍を北樺太から撤退させる一方、北樺太の漁業 権と石油・石炭開発権を獲得した。  

当時、日本は共産主義への敵視が強かったため、シベリアから の撤兵後も国交正常化の動きには国内の右翼や外務省は反対した。 外務大臣の幣原喜重郎は、共産主義の宣伝の禁止を明文化して、 国交回復を実現した。

また1924年から、イギリスやイタリアがソ連と国交を回復 した。こうしたことから、1925年1月20日、日本はソ連と 日ソ基本条約を締結して、国交を正常化させた。  

他方、1921年のワシントン海軍軍縮会議の結果調印された 四カ国条約成立に伴って、日英同盟が1923年8月17日に失 効した。このことも、第二次世界大戦での敗戦の原因となった。

▼特務機関の設立  

わが国は米英の要請でシベリアに出兵した(1918~22年)。19 19年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、関東都督府 の陸軍部が、台湾軍、朝鮮軍、駐屯軍と同じく、関東軍として独 立した。  

じ来、満洲地方が日本の大陸進出の拠点として本格的に活用さ れるようになった。また、満洲は経済資源の宝庫であり、満洲事 変にはじまる日中戦争の発火源ともなった。  

陸軍史上初めて特務機関なる名称が登場したのはシベリア出兵 時に設立されたハルビン特務機関である。 初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、特務機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部付として発令された。

当初はウ ラジオストク、ハバロフスクなどに設置され、改廃・移動を繰り 返しながらシベリア出兵を支援した。  

黒沢準(くろさわひとし)少将が率いるハルビン特務機関はイ ルクーツク、ウラジオストク、ノボアレクセーエフカ、満洲里、 チチハルなどに駐在していた情報将校グループを統轄し、シベリ ア撤退後も現地に残って終戦まで情報収集にあたった。  

ハルビン特務機関の設置以降、わが国は中国大陸において諜報・ 謀略などの特殊任務(秘密戦)を担当する機関を次々と設置し、 これを特務機関と呼称した。なお、特務機関の名称の発案者は、 当時のオムスク機関長であった高柳保太郎(たかやなぎやすたろ う)陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳 とされる。 こうした特務機関を中心にした諜報・謀略活動は、昭和期の土 肥原賢二(どいはらけんじ)大佐などの特務活動へとつながるこ とになる。

中国の統一戦線工作(3)

はじめに

前回は、中国共産党が掲げる統一戦線とは何か、それがどのように日本に持ち込まれたか、統一戦線の国際版である国際統一戦線がどのような理論で進められたか、などについて言及しました。 今回は、その最終回です。

▼日本共産党を通じた指導工作

1950年6月の朝鮮戦争勃発によりGHQから赤旗が発刊停止処分を受けます。この苦境から脱するために徳田球一と野坂参三は中国に密航し、在外組織「北京機関」を創設します。 同機関は『自由日本放送』を開始し、1955年12月末まで、北京から同放送を通じて日本共産党に対して平和運動などに関する革命戦術指導を行ないました。

朝鮮戦争が一段落した1951年、中国は中央対外連絡部を設立し、世界の共産党との間に対外交流関係を樹立し、さらなる革命運動支援を展開します。 対外連絡部の初代部長は、かつての八露軍総政治部主任として対日工作に携わっていた王稼祥です。

彼は1949年の建国後は初代のソ連大使として赴任し、同地でコミンフォルムから影響を受けました。彼によってソ連共産党の統一戦線と中国の伝統的な統一戦線との理論的結合がなされ、それが対外工作や対日工作に活用されていきます。

副部長には廖承志、李初梨などの日本留学組が就きました。この陣容からみても、当時の中国共産党がいかに国際統一戦線の一環としての対日工作を重要視していたかがうかがえます。

中国共産党は日本共産党に対して、工作のための資金援助も行いました。米政府による「機密指定」が解除された『CIA報告書』によれば、1950~60年代、日本共産党は旧ソ連や中国から多い年で年間40万ドルの資金提供を受けたとされます。

これは、当時の日本共産党の年間資金額の4分の1に達しました。日本共産党への資金提供は日本当局の監視を逃れるために様々な偽装工作が施され、香港経由で受け渡されたといいます。

▼中国共産党による帰還兵の運用

さらに中国共産党による革命工作の驚くべき実態に目をむけてみましょう。

中国共産党は中国国内に教育機関を設置し、そこで立場の弱い日本軍の帰還兵を洗脳的に教育し、帰還兵を日本国内における革命遂行の中核とする戦術を採用しました。

そして日本国内に対日工作組織を設置し、米軍などに関する情報収集と日本共産党への指導・監視を行う一方、日本共産党に対する資金と武器提供を行ったというのです。

また、帰還兵を使って米軍施設に侵入させて米軍情報を入手させたほか日本国内における武装蜂起準備などを指示したといいます。

1953年から57年4月までの間、北京郊外にマルクス・レーニン主義学院が設立され、ここでは中国に抑留されていた日本人や密出国した日本共産党党員に対する革命教育が行われた模様です。

1956年から57年にかけて日本各地で交番襲撃、火炎瓶闘争、山村ゲリラ闘争などの非合法闘争が展開されますが、その首謀者はマルクス・レーニン主義学院の教育修了者であったとされます。

▼人事交流を通じた革命支援基盤の形成

では「統一戦線」の表のソフト部分を構成する人事交流についてみてみましよう。

1954年10月の国慶節に際し、日中友好協会の学術代表団と婦人代表団が民間旅券で中国に訪問しました。これにより正式な人事交流が開始されました。その後、超党派の国会議員からなる総勢100名近い日本代表団が訪中しました。

中国側からは1954年10月に中国紅十字会代表の李徳全(馮玉祥夫人)以下10名が、戦争犯罪人名簿などを携行して来日しました。この来日の表向きの目的は、日中戦争後なお中国にとらわれていたB、C級戦犯1000人を日本に速やかに帰国させることでした。

李氏は日中友好の使者として来日します。女性代表、赤十字といった、おおいに友好ムードを装いました。しかし、この訪日には対日工作専門家である廖承志と呉学文が随行しました。彼らは日本共産党との連絡調整に当たりました。つまり、日本共産党がこの来日のお膳立てに関わっていました。

そして、背後では中国において多くの帰還兵が革命教育を受けていたのです。すなわち、帰還兵を通じての暴力革命の準備が行われていたのです。つまり、表では日中友好交流というソフト戦術を繰り広げ、その水面下では暴力的な革命工作が着々と仕掛けられていたのです。

これが「統一戦線」工作の実態なのです。

▼親中派、左翼勢力の取り込み 

統一戦線工作は日本共産党以外の親中派の取り込みにも余念がありません。統一戦線工作はあらゆる勢力をターゲットする。これも統一戦線工作の特徴です。

日米関係を重視する岸信介内閣が1957年に誕生しました。これにより日中関係は急速に悪化します。 岸内閣が日米安保条約改定に動き出すやいなや、中国はこれを「敵視政策」「日本軍国主義の復活」として攻撃しました。また、条約改定反対闘争を画策することを目的として、反政府側要人の招聘工作に乗り出したのです。

1959年には日本共産党代表、社会党代表、日本原水協代表及び総評の代表者がこぞって訪中しました。浅沼稲次郎・社会党書記長による訪中においては、中国人民外交学会代表団との間で「米国帝国主義は中日両国人民の共同敵であり、米帝国主義の支配から抜け出し、共同して戦う」ことをうたう共同声明が発表されました。

一方の中国側は1960年8月の第15回総評大会及び第6回原水禁世界大会に10名の訪問団を来日させました。1961年以降は労働者、青年、作家、法律家、婦人などの各種の人民団体を来日させ、その引き換えに日本の親中派、左翼勢力を中国に続々と招聘しました。

中国がこうした対日工作を強化した背景には、中ソ対立という国際秩序の変化がありました。中国共産党は日本国内でソ連勢力が浸透しないように、原水禁世界大会などに中国代表団を日本に送りました。

同時に、ソ連路線に近い社会党、総評及び労組の代表者を中国に招聘して、親中・反ソの宣伝工作と洗脳教育を行なおうとしたのです。

▼日中貿易を通じた指導、援助

中国による対日工作は人事交流のほかに経済も活用されました。あらゆる手段を総合的に駆使するのが統一戦線のさらなる特徴の一つです。その動向を見てみましょう。

岸内閣から池田隼人内閣に移行して、日中関係は雪解けへと向かいました。その結果、1962年からLT貿易(日中の責任者である廖承志、高碕達之助の頭文字)が開始されます。

しかしながら、経済交流とは名ばかりでした。LT貿易の基本的構造は日本の「友好商社」と、中国対外貿易部傘下の「輸出入公司」との間で行われる、特定間の交流にすぎなかったのです。

友好商社とは、中国側から「政治的に合格」と認められた一部の中小企業のことです。当然、日本共産党及び社会党などの親中政党と強い結びつきがありました。
たとえば、当時の友好商社の御三家といわれていた睦、羽賀通商及び三進交易の3社の社長及び幹部社員はいずれも日本共産党の党員でした。  

 日中貿易は中国共産党による革命政党の拡大を支援する構図となっていました。つまり中国共産党が友好商社に対して取引条件などの特別優遇措置を与えます。この引き換えに、取引額、利益の中から一定額を友好商社が日本共産党や日中友好協会に献金する仕組みが作られたことが、判明しています。

また友好商社による日中貿易は政治思想教育の場でもありました。友好商社と「輸出入公司」の商談は、友好商社代表が毎年春秋2回、広州で行われる広州交易会に出張し、中国側の代表と協議するというスタイルでした。

広州交易会においては毛沢東語録の朗読や、「米帝国主義打倒」「ソ連修正主義打倒」などのプラカード掲げたデモ行進などが義務付けられたのです。  

LT貿易に伴い、1964年、中国展が東京と大阪で開催されました。同開催場では毛沢東を賛美する写真、刺繍、展示物が飾られ、中・小学校の社会科見学や、一般市民や零細企業の労働者などの参観が行われました。さながら政治学集会の様相を呈したのです。

▼各種出版物等を通じた大衆宣伝

統一戦線工作において手段としての宣伝工作は極めて重要です(中国の統一戦線工作(2)参照)。 中国共産党は日本の一般大衆に対する宣伝工作にも余念がありませんでした。

このための宣伝武器として大いに活用されたのが『人民中国』、『中国画報』及び『北京週報』のいわゆる対日宣伝三誌でした。 これら宣伝紙は、1950年代から60年代末にかけて、日本の一般大衆に向け、中国の歴史文化などを紹介しました。

この傍らでは、反米・反帝国主義闘争の体験談、社会主義の成果、各国人民との親善交流、毛沢東主義に対する賛歌、中国共産党の内外政策に関する論文などを織り交ぜた記事を発信しました。

当時の主要三誌の販売においては、日中友好協会が積極的な役割を果たし、その誌代は日中友好協会自体の収入源となっていたといいます。

このほかの対日宣伝工作として観光事業が挙げられます。1964年半ばから、中国共産党は日本からの観光団の受け入れを開始しました。そのため、中国旅行を取り扱う日本側の旅行会社が設立されました。これは、いうまでもなく日本共産党系列です。

かくして1965年から日本人観光団の訪中が行われたのです。 中国側は、旅行者に対して中国各地の都市や革命遺跡などを見学させ、社会主義中国の発展振りや、雄大な自然と長大な歴史を誇示しました。

旅行日程には毛沢東思想の勉強、日本による対米従属への非難、民間レベルの国交回復運動などの政治カリキュラムが組まれていました。

友好貿易と同様に日本側の旅行会社に対しては、旅行費用の一部がキックバックされ、日本共産党の資金に運用されたようです。

▼日本共産党以外の政党に対する接近

1966年、中国共産党と日本共産党との関係は宮本顕治・書記長の訪中(1966.2~66・4)により決裂しました。 中国共産党にとって革命同士であった日本共産党を失ったことは大きな痛手となりました。

しかし、中国共産党は傷心を振り払うかのごとく、日本共産党を分裂させ親中勢力を取り込む工作に打ってでました。 これは、まさしく「敵を分裂させ、その中から味方を取り込む」という統一戦線の応用であったわけです。

中国共産党は、まず日本共産党及びその外郭団体の内部分裂を画策しました。そして、そこから除名、除外された親中派人物や団体の取り込みを図ったのです。 その成果が表れ、日本共産党系の「日中友好協会」を分裂させ、新たに非日本共産党系の「日中友好協会(正統)本部」を結成することに成功します。

日中貿易の窓口であった日本共産党系の「日中貿易促進会」を解散させ、もう一方の窓口「日本国際貿易促進協会」は日本共産党系を排除し、親中派の元日本共産党党員らで構成される組織として再結成しました。

中国共産党は日本共産党分裂工作に加え、社会党左派勢力に対して接近しました。同派の国会議員団を招待し、社会党が毛沢東路線の下で一体化するよう教導・感化しました。こうした訪中議員団は『毛沢東語録』を日本に持ち帰り、日本版『毛沢東語録』として日本国内で販売するなどの活動を行いました。

中国共産党は保守派政治家への接近も図りました。親米派の保守本流に対しては「反動派」として徹底した闘争方針をとりましたが、反主流派に対しては親睦を名目とした接近や招待工作を強化しました。

1961年1月の社会党黒田寿男の訪中に際して、毛沢東は次のように述べます。

「日本政府の内部は足並みがそろっていない。いわゆる主流派と反主流派があって彼らは完全に一致していない。たとえば、松村、石橋、高碕などの派閥はわれわれの言葉でいえば間接の同盟軍である。あなた方にとって、中国の人民は直接の同盟軍であり、人民党内部の矛盾は間接の同盟軍である。彼らの割れ目が拡大し対立し衝突することは人民に有利だ」

そのほか中国は創価学会への接近を開始しました。当時、創価学会は既に1000万近い膨大な会員数を抱えていました。その利用価値を認識し、周恩来総理は廖承志に対して創価学会を最大限に利用すること指示したといいます。

▼中国の統一戦線工作に対する戦いが開始

以上、3回にわたって「統一戦線」とは何か、中国共産党が「国際統一戦線」理論をもとにいかなる対日工作を展開したのか、などをざっと述べてきました。 ここで注意すべきは、中国共産党による「国際統一戦線」の発想は現在も健在だということです。

中国共産党はかつて「親ソ反米」から「反ソ親米」に転換しました。今日は再びロシアとの戦略的パートナーシップを確立して対米牽制に出ています。 その一方で、歴史認識問題などにおいては、中国は米国とも統一戦線を模索して日本を牽制する動きも見せています。 さらには広範囲の結集を狙いに欧州にも働きかけを行っています。

たとえば習近平主席は2014年3月のドイツ訪問時、ベルリンのホローコスト記念館への視察を打診しました(これはドイツ側から断られた)。 おそらく、習主席は同記念館を訪問し「ナチスの歴史を深く反省したドイツ」を賞賛し、それと対比し「軍国主義と侵略の歴史を反省しない日本」との違いを浮き彫りにする狙いがあったのでしょう。 

中国は現在、孔子学院の世界的な展開や「一帯一路」を掲げて経済力を梃子など、ソフト戦略を前面に出して広範囲に友人関係を構築しようとしています。 しかしその影では非合法な諜報活動によって米国などの最新技術の取得によってテクロノジーでの優位に立つことを狙っています。そして巧みな政治工作によって米国の一強支配を打破しようとしています。すなわち、統一戦線工作によって優位に立とうとしています。

こうした動きが、ついに今日の貿易戦争とよばれる米中対立となって噴出し始めたのです。

今日の米中対立は「米国ファースト」を掲げるトランプ大統領が、貿易不均衡を是正して米国の労働者を擁護するという、表面上は貿易戦争の様相がみられます。

しかし、これは単なる経済戦争にとどまるものではありません。中国によるAI、ビッグデータ、自動走行車、集積回路、3Dの技術盗用によって、中国が米国の技術的地位を脅かしている。さらには米国やその他におけるあらゆる階層にチャイナロビーを浸透させて、米国の政治的地位を脅かしている。これを放置しておくと、米国主導の国際秩序は崩壊しかねない。 「今対処しなければ、とんでもないことになる。中国の『ユナイテッド・フロント』に飲み込まれてしまう」

このような危機感が米国指導者の共通認識となっているとみられます。つまり、“中国覇権主義”という世界的な浸透への防波堤をいま築かねばならないということなのです。

そうはいっても米国も中国も全面的対決には至らないでしょう。表面的には、その都度、丁々発止のやり取りが行われ、外交合意はなされていくでしょう。それが相互依存関係、グローバル化の特質というものです。

だからこそ、水面下での優位性を追求するインテリジェンス戦争が展開されます。これが「統一戦線」工作をめぐる米中の対立の兆しというわけです。

米国は世界的な規模での孔子学院の追放、世界第2位の携帯電話会社ファーウェーの締め出しを開始しました。これらは、米国が中国の統一戦線工作に対して多面的な戦いが開始した、一つの兆候といえそうです。

▼わが国が注意すべきこと

米中関係がきな臭くなると中国は早速日本に秋波を送ってきます。これが、現在の日中関係の改善の兆しとなっています。 こうした中国のやり方は、まさに古森氏が指摘する統一戦線の理論実践にほかなりません。

わが国は、今後も中国の多面的・多角的な対日工作に留意することが重要です。とくにソフトイメージ戦略のもとにすすめられる思想・文化の対日浸透、あらゆる階層と領域に対する、大容量の人力とサイバーを活用した諜報活動、これによるテクノロジー盗用にはとくに注意が必要です。

また、日本共産党に対しても注意を怠らないことが必要でしょう。 日本共産党が政党として、行き過ぎた独裁政治を牽制するために政治活動を行っている限りでは問題はありません。しかし、その行動の先にある真の狙いに対して常に注視する必要があります。

日本共産党は1966年に中国共産党と分裂しました。それ以降、独自路線の推進を強調しています。1998年の関係修復以後も一定の距離を置いています。 中国共産党が自らの領土であると主張する尖閣諸島についても日本領土との姿勢を堅持しています。党綱領においても暴力革命の言及はみられません。

しかしながら革命の戦略・戦術である統一戦線を堅持しています。日本共産党の委員長の演説のなかでは、しっかりと統一戦線を堅持することが謳われています。 こうした根本的な理論を享有するかぎり、日本共産党は中国共産党との過去の歴史や今後の連携を完全に断ち切ることはできないでしょう。

中国は尖閣、沖縄などの略取、あるいは在沖縄米軍の撤退を図ることを狙いに対日戦略・戦術を立てている節が随所にみられます。その好機が訪れた場合、戦略・戦術を発動する前提となるのが保守政党を潰すことです。そのためにも、中国にとっては日本共産党と連携強化を画策することは理にかなっています。 

一方、日本共産党が党勢を拡大していくためには、あらゆる領域に及ぶ中国のマネーや政治力を利用することは得策です。政権奪取の好機が到来したとみるならば強力な後ろ盾として中国共産党に接近する可能性は排除されないとみるべきでしょう。

それが、日本共産党が現在も堅持している「統一戦線」理論の真実の意味なのかもしれません? (以上、終わり)

わが国のインテリジェンスは遅れていないか!

▼戦略がビジネスの世界に浸透

世の中では、経営(競争)戦略、企業戦略などの用語が頻繁に紙面を賑わしています。ただし、戦略は言葉の言い回しからして、もともとは軍事用語です。

戦略の定義は諸説多く約200あるといわれています。この詳細はさておき、第二次世界大戦以前の共通した戦略の定義はおおむね軍事的要素に限られていました。 しかし第一次世界大戦以降、軍事力のみならず国家総力で戦争に応ずる必要性が認識されました。

一方で、戦禍の犠牲を最小限にするため軍備管理などの重要性が高まりました。このため、戦略は単なる戦場の兵法から国家の向かうべき方向性や対応策まで含む幅広い概念へと拡大するようになったのです。

戦争の様相の変化とともに、戦略も必然的に非軍事的要因、すなわち経済的・心理的・道徳的・政治的・技術的要因をより多く加味する必要がでてきました。

よって今日は、軍事戦略だけでなく国家戦略、外交戦略および経済戦略などの用語が定着するようになっています。つまり、戦略の概念は武力戦のみならず外交・経済・心理・技術などの非武力戦を包含したものに拡大したのです。

他方、ビジネス社会では20世紀になり企業が膨張・多角化し、競争がグローバルに拡大しました。そのため、「相手に勝つ」ことを本義とする軍事戦略が、経営に活用・応用されるようになり、それに伴い経営戦略などの造語が登場するようになりました。

21世紀に入り、グローバル化、メガコンペティション化、IT化などの急速な進展により、企業間の競争は一段と鮮烈化しています。さらに、ビジネスを取り巻く環境の変化が急速であり、新たなライバイ会社の登場や予想もしなかったような代替品の出現によって企業の存続が危ぶまれるといった事態が恒常化しています。

疾風怒涛の競争の中を優位な状況で勝ち抜き、新たな事業の展開をはかっていくためには、よりダイナミックな経営手法、積極果敢な戦略、機知を捉えた巧みな戦術が要求されています。

▼インテリジェンスの進化と拡大

軍事の領域で使用された戦略・戦術がビジネスの世界に普及・浸透するにつれて、軍事情報理論も逐次にビジネス界に浸透しつつあります。

軍事の領域では、早くから敵対国や戦場のことを先に知る、敵側の部隊、兵器の現在地を知るなど、すなわち情報優越の必要性が認識されてきました。いまから2500年前の戦略書である『孫子の兵法』では、すでに戦勝を獲得するための情報の重要性が説かれています。

他方、経済の世界において情報が大きな役割をもった最初の例は19世紀初頭のフランスのナポレオン時代にさかのぼります。

当時、ナポレオンはヨーロッパ大陸の征服を目指していました。一方、当時のヨーロッパ大陸で大きな権益を誇っていたのがイギリスです。

ナポレオンは1814年にプロシアに敗れ、地中海のエルバ島にいったん流されますが、島から脱出して再起をかけます。ナポレオンはフランス軍を率いてブリュセル郊外の「ワーテルローの戦い」でプロシアに決戦を挑みます。

この時、イギリスは工業力を背景にヨーロッパで大きな貿易取引をしていたので、ナポレオンが勝つか負けるかが最大の関心事でした。つまり、ナポレオンのフランス軍が勝てば、イギリスの欧州大陸における利権は一気に失われることになります。

当時、イギリスのロンドンに世界最大規模の証券取引所があり、そこでは国債が販売されていました。国債の価格はナポレオンが負ければ暴騰し、ナポレオンが勝てば暴落します。

そのため、投資家たちは、ロンドンからはるか離れた「ワーテルローの戦い」の勝敗を、固唾をのんで見守りました。つまり、この戦いの勝敗を告げる情報が決定的な力を持ったのです。

この時に情報をいち早く入手して、国債の価格を意図的に変動させて、大もうけした人物がいます。この人物がユダヤ系のロスチャイド家のネイサン・ロスチャイルドです。 ネイサンは欧州各国に展張した情報網を駆使してナポレオン敗退の情報を誰より早く的確に入手しました。これはイギリス政府が知るより、一日早い情報だったといわれています。 

ネイサン・ロスチャイルド

ナポレオンが負けたのだからイギリスの国債は上がります。だから国債を買えば儲かります。しかし、ネイサンは、ぎゃくに国債の売りに出ます。

これを見た他の投資家は、ネイサンの行動から「イギリスは負けた」「イギリス国債は大暴落する」と判断して、大量の国債が二束三文でたたき売られました。そこでネイサンはこの大暴落した国債を買い占めたのでした。  

その後、証券取引所にも「ナポレオン敗北」のニュースが飛び込み、ネイサンの思惑どおりイギリス国債の価格は跳ね上がりました。こうしてネイサンは莫大な富を得ました。

この結果、世界各国で情報の力と重要性が認識され、情報処理技術が加速度的に進歩し、モールス信号や電話が開発されました。

さらに第一次、第二次世界大戦を経て、情報の収集・伝達手段がさらに高度になり、レーダーやコンピューターなどが発明されました。かくして情報力が戦勝を支配するようになりました。 また、これらの戦争を通じて、米国ではインフォメーションとインテリジェンスとの区別、インテリジェンス・サイクルなどの情報理論を確立していきました。

当時日本軍は、情報を収集することでは決して引けを取っていなかったのですが、インフォメーションをインテリジェンスに高める理論を欠いていました。戦後、自衛隊で情報教範の作成に従事する松本重夫は、このことが情報戦に敗北した原因との見方を提示しています。

なお、インフォメーションとインテリジェンスの意味について後述しますが、ここでは生情報がインフォメーション、インフォメーションを加工して作成した、戦略・戦術の立案や意思決定に直結する情報がインテリジェンスと理解しておいてください。

▼欧米ではビジネス・インテリジェンスが活性化  

インテリジェンスは戦略などと同様に、本来は国家の組織が行う国家機能です。しかし、米国ではすでに1970年代に、それがビジネスの世界に取り入れられ、ビジネス・インテリジェンスの研究と企業における実践が開始されました。  

この経緯については、北岡元著『ビジネス・インテリジェンス』に詳しく記述されていますが、ここでは他の資料も加味してその要点について紹介します。

1980年、マイケル・ポーターが『the study Competitive strategy(競争戦略)』を出版したことが、ビジネスの世界におけるCI(Competitive Intelligenceの略語)の源流となりました。なおCIは今日、競合インテリジェンスあるいは競合情報分析などと翻訳されています。

CIは、企業が企業間あるいは国際間での競争優位に立つことを目的としています。これは、単なる競合(ライバル)会社を分析するコンペティター分析ではありません。自社を取り巻く未来環境を把握し、そのなかで自社の勝ち目を見出すものです。 米CIAのOBであるジャン・ヘリングは「我々を取り巻く環境に対する知識と未来予想で、マネジメントの判断・行動の前提」と定義しています。

1985年、国家インテリジェンス組織で培われたノウハウが、ビジネスの世界に導入されました。この立役者がモトローラ社のCEOを務めたロバート・ガルバンと、前述のヘリングです。

1970年代当時、カルバンはモトローラ社のビジネスマンであり、「アメリカ大統領対外インテリジェンス諮問委員会」の委員を兼任していました。彼はCIAなど政府インテリジェンス組織のプロたちが、インフォメーションを収集し、分析してインテリジェンスを作り、未来を予想することで安全保障政策の立案・執行に役立てていることに注目しました。

1980年代になって、ガルバンはモトローラ社内で情報のプロたちによるインテリジェンス部門の立ち上げを提唱しました。当初、その提案に対する社内の反応は冷ややかでしたが、やっとのことでその提案が承認されます。そして、そのインテリジェンス部門の責任者として、ヘリングがモトローラ社にやってきました。それが1985年のことです。

1986年には、CIの専門家による協会であるSCIP(スキップ。競合情報専門家協会。Society of competitive Intelligence professionals)が、米国・バージニア州に設立されました。

1990年代には、同協会は会員数が6000名規模までに拡大し、米国のみならず、カナダ、イギリス、オーストラリアへとその範囲を拡大しました。なお、SCIPは2009年の金融危機により、他の組織と統合され、組織名も「Strategic & Competitive Intelligence Professionals」に変更されました。

1996年、レオナード・ファルド氏、ベン・ギラド氏、ジャン・ヘリング氏が、ACI(CIアカデミィー,「The Fuld-Gilad-Herring Academy of Competitive Intelligence(ACI)」をケンブリッジに設立しました。

CIアカデミーは、CI専門家を育成する機関ですが、近年ではCIアカデミーが行うプログラムの参加者の中に、CI部門以外のマネージャーの参加が増えてきたそうです。これは、企業全体のCI能力の向上が必要であるとの認識がビジネス界全体に芽生えていることの証拠です。

このように欧米諸国ではインテリジェンスをビジネスの世界に積極導入しています。そして企業内のCI能力を高めるための各種の啓蒙・普及活動にはめざましいものがあります。

▼わが国のビジネス・インテリジェンスの現状  

残念ながら、わが国におけるビジネス・インテリジェンスは欧米に比して大いに遅れをとっているといわざるをえません。

2001年4月に前田健治元警視総監らによる「SCIP Japan」の設立を経て、2008年2月に「日本コンペティティブ・インテリジェンス学会」が発足しました。しかしながら、いまだに学問的研究が主体であり、CIの概念がビジネスの世界で普及したとは言い難い実情にあると思われます。

大企業においてインテリジェンス部門を設置したという話題も聞きませんし、政府組織の情報分析官が企業のインテリジェンス部門に採用されるといったケースは皆無でしょう。

これにはいくかの原因が考えられますが、筆者が思い当たるものは以下のようなものです。

第一に、政府情報組織におけるインテリジェンス理論や情報分析手法などが未確立であり、インテリジェンス要員の育成も未熟である。政治、経済といった複眼的思考から、現状分析、未来予測を行い、戦略設定や危機管理に対して助言できる人材が育っていない。したがって企業ニーズに応えられない。

第二に、ビジネス界では戦略・戦術、インテリジェンスなどの理論や本質が十分に理解されていない。企業全体としてインテリジェンスの重要性に対する認識が確立されていない。

第三に、わが国のビジネスパーソンは、安全保障への関心や、地政学的リスクに対する意識が希薄である。中国の海洋進出、北朝鮮の核ミサイル問題、米中貿易戦争関連のニュース報道は盛んに行われるが、それらの政治リスクが企業経営にどのような影響を及ぼすのかまでブレークダウンして考える気風がない。

上述した問題点を是正していくことは容易ではありません。ですが、まずは官民がインテリジェンスの基礎理論などについて共通の認識を持ち、その理論の活用などに関する知見をともに高めることが必要だと、筆者は考えています。

わが国の情報史(22) 日露戦争におけるインテリジェンスの総括

わが国の情報活動に問題はなかったのか

日露戦争においてわが国は、日英同盟を背景とするグローバルな情報収集と的確な情勢判断によって、日露に対する世界の思惑を見誤ることなく、戦争前からの和平工作とあいまってロシアに辛勝した。

しかし、すべてのインテリジェンスに問題がなかったわけではない。  大江志乃夫氏は自著『日本の参謀本部』において、日露戦争における情報活動の問題点を以下のとおり指弾している。

◇「ドイツの大井中佐と英国の宇都宮中佐が軍源として活躍したが、総司令部がその情報を活用した形跡はあまりない。瀋陽会戦後の沙河の会戦の初期、黒溝台の会戦の際、宇都宮中佐及び大井中佐から、ロシア軍による兵力集中や大攻勢に関わる真相情報が総司令部に伝えられたにもかかわらず、総司令部はそれらの情報を無視した。

◇参謀本部第二部は韓国、清国に情報網を張り巡らしていたが、第二部の情報将校はロシア軍に関する知識と戦術的な判断能力にかけていたため、作戦情報の役に立たなかった。シベリア鉄道の輸送能力に関する情報は、判断資料たりえなかった。

◇ 作戦部は情報部の活動に信頼をおくことができず、作戦に必要な軍事情報 活動を作戦部自身がおこなうことになった。すなわち、情報活動は、情報部が行う謀略活動と作戦部が行う軍事情報活動に二分化し、作戦部は主観にもとづく情報無視の作戦を行い、作戦面における苦戦を招いた。作戦部系と情報部系の情報組織が対立して派閥争いまで演じ、情報作戦に反映されることを困難にした。

外務省の暗号がロシアに筒抜け

このほか、当時のわが国の暗号解読の能力は、西欧列強やロシアに比べて格段に劣り、ロシアの軍暗号や外交暗号は解読できなかった。逆に日本の外暗号は完全に解読されていたとの指摘がある。

開戦日の1904年2月6日、ペテルスブルクで栗野慎一朗公使がロシア外務省を訪れ、ラムズドルフ外相に国交断絶の公文書を手渡したとき(明石が同行)は、同外相は口を滑らして「ニコライ皇帝は日本が国交断絶をすることをすでに承知している」旨のことを述べたとされる。  

明石は日記のなかで、「ロシアは既に日本の暗号解読に成功し、この国交断絶の通告以前から、日本の企図の大部分はロシアに筒濡れであったものと判断する」と明記している(島貫『戦略・日露戦争』)。

パリの本野一郎公使によれば、日露戦争の前年、ロシアと本国との暗号通信がロシアの手に渡ったとされる。その事件現場はオランダの日本公使館であった。 在オランダの日本公使は独身であったので、ロシアの情報機関はロシア人美女をオランダ人と偽って女中として住み込ませた。

この女中が公使の熟睡中に、公使の机から合鍵を使って暗号書を盗み出し、それを諜報員に手渡し、諜報員が夜明けまでに写真を撮って、女性が暗号書を金庫に戻しておくという方法であった。 この方法により、五日間で暗号書の全ページを複写されてしまったのであるが、公使は盗まれたことを全く気づかなかったという。

この秘密は、暗号書を盗み出させたロシアの諜報主任が開戦直後、こともあろうに、パリの本野公使のところへ、それを五千フランで売りに来たことから発覚した。外務省は慌てて暗号書を更新し、それ以降、在外公館では特殊な金庫に保管させるようにした。

しかし、この新暗号も今度はフランス警察庁によって解読された。同警察庁の警視で片手間に暗号解読作業に従事していたアベルナが、たった二か月の作業で千六百ページにわたる日本外交暗号書のほとんどを再現した。親ロ中立国であったフランスはそのコピーを日露戦争後半にロシア側に手渡したという。

戦略情報は知る深さが重要

安全保障及び軍事の情報は、使用者と使用目的によって、戦略情報(戦略的インテリジェンス)と作戦情報(作戦的インテリジェンス)に区分できる。

前者は、国家戦略等の決定者が国家戦略等(政略、国家政策を含む)を決定するために使用し、後者は作戦指揮官が作戦・戦闘のために使用する。 両者にはインテリジェンスとしての共通性はあるが、その特性はやや異なる。

戦略情報では、「相手国がいかなる能力をもっているか」「いかなること意図を有しているか」「将来的にいかなる行動を取るのか」「中立国がどのような思惑を有しているか」、などを明らかにする必要がある。 だから時間をかけて、慎重に生情報(インフォメーション)を分析してインテリジェンスを生成する必要がある。戦略情報には「知る深さ」が必要といわれる所以である。

作戦情報は知る速さが重要

他方、作戦戦場では作戦指揮官は刻一刻と変化する状況を瞬時に判断して、意思決定をおこなわなくてはならない。したがって、作戦指揮官は完全なインテリジェンスを待っている余裕などない。だから、正確なインテリジェンスよりも、生情報の迅速かつ正確な伝達の方がより重要となる。すなわち作戦情報には「知る速さ」が求められる。

現代戦は双方の歩兵が徒歩前進して戦闘を交えるといった様相にならない。航空機、ミサイルなどが大量出現した。偵察衛星、航空機、無人機、地上監視レーダーなど、さまざまな敵状監視システムが開発された。また無線、衛星電話などの情報伝達機器も発達した。

これらにより、戦況速度は格段に速くなり、意思決定にはさらなる迅速性が求められるようになった。そこには敵の意図的な欺瞞や、我の錯誤が生じる。迅速性の要請から、戦場指揮官は様々な真偽錯綜の生情報から、戦闘の“勝ち目”を判断することが増えていく。つまり、独断専行が求められるのである。

かのクラウゼヴィツは、「戦争中に得られる情報の大部分は相互に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っている」(『戦争論』)と述べている。 これは基本的には日露戦争当時も現代も変化はないということである。

「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向はいいのか

太平洋戦争における失敗の原因を「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向にある。政略・戦略の立案では、これは絶対に回避すべきである。回避することもできる。しかし、作戦・戦闘では必要な情報が入手できない、あるいは真偽錯綜する情報のなか独断専行的に作戦指導することもあるということである。 結果論で言えば、「おろかな無謀な戦い」ということになるが、致し方のない面もある。

戦略情報こそが重要

日露戦争においては「戦略情報が勝利した」といっても過言ではない。つまり、官・軍・民が一体となってグローバルな情報活動により、良質のインテリジェンスを生成して、それを「6分4分」の戦闘勝利で即時停戦という国家戦略に生かしたのである。

他方、戦術情報の面では、通信網などの組織化が不十分なために必要な情報を得られなかったなどという状況が、さまざまな局面で生起したことが伝えられている。また、大江氏の指摘するような問題点もあったのであろう。 つまり、日露戦争では作戦情報では問題もあったが、戦略情報では勝利した。太平洋戦争の敗因は、戦略情報と作戦情報の両方の失敗である。ここが違っていた。

戦略情報が成功すれば、作戦情報の失敗は挽回できる。しかし、戦略情報が失敗すれば、作戦情報が成功しても意味はない。作戦情報の成功が、誤った戦略の遂行を助長し、やがては墓穴を掘ることにもなりかねない。

日清・日露戦争においては、日英同盟にもとづくグローバルな情報収集体制と、獲得した情報をインテリジェンスに昇華させる国家・軍事指導者の国際感覚と戦略眼があった。無謀な泥沼戦争に突入させないために、戦争の潮時を心得ていた。このことは現代日本にとっての重要な教訓である。

昨今、中国の台頭、北朝鮮の暴走、ロシアの不透明な行動などが安全保障上の脅威になっている。こうしたなか、わが国が進路を誤ることなく、万一の侵略事態に適切に対応するためには、安全保障・軍事常識に裏打ちされた戦略情報が不可欠である。 是非とも、国家を挙げての戦略情報を強化していただきたいし、今日、陸上自衛隊(かつての調査学校は廃止となり、戦略情報課程はなくなった。現在の新設の情報学校は作戦情報にほぼ特化している)にもこのことを申し述べたい。  

情報と作戦の分化の問題

明治期の参謀本部の沿革をみるに、情報と作戦の分離独立という問題にはいろいろと紆余曲折があったようである。 日露戦争では、満州軍司令部の作戦課と情報課を分離独立したが、松川敏胤作戦課長は部下の田中義一少佐(後の首相)の進言を受け入れ、満州・朝鮮の作戦地域における情報活動は作戦課で担当することを主張した。 作戦課の情報活動は、敵情に関する詳細な情報を収集しその活躍は明治天皇に上奏され、感状まで授けられた(柏原『インテリジェンス入門』)。

しかし、ここでは情報将校に松川系と福島(安正)系の両派が生じ、暗闘、反目するという結果を生んだという。 松川派は「福島派の情報など、しょせん馬賊情報に過ぎない。戦術眼のない馬賊のもたらした情報など、およそ不正確でタイミングも遅すぎ、とても作戦の役に立たないと」主張した。福島派も「諜報には長い経験が必要なのだ。速成の情報将校が役に立つか」と反発した。 その結果、日本軍の情報には、拮抗する二種類が存在することになり、状況判断の上で混乱が生じる一因ともなった、という。

よく、「情報部が作戦部から独立しないことの弊害は、とかく作戦担当者が、自ら策案した作戦に都合がいいような情報ばかりを選択して、主観的で独りよがりなものになりがちな傾向を生むことである」とされる。よって「組織構造から、情報部と作戦部は分離されるのが望ましい」とされている。

この主張は戦略レベルではまったく異論がない。戦略情報の作成には歴史観に裏打ちされた情報分析力や国情情勢に対する専門的知識などが不可欠である。いくら偵察衛星やシギント(通信情報)機能が発達したからといっても、敵対国の意図までは洞察できない。それらの解明には、情報部署に所属する専門の情報分析官の力が必要である。まさに「諜報には長い経験が必要だ」との福島派の言葉が身にしみる。

また、「インテリジェンスの政治化」(※)という問題もある。仮に、作戦部がインテリジェンスを独自に生成するとなれば、作戦部は作戦指揮官の作戦構想に合致したインテリジェンスを提供する傾向が強まり、インテリジェンスの客観性は失われる。

しかし、作戦戦場における作戦・戦術レベルでは、第一線部隊を指揮する作戦部がもっとも最新の状況を認知しているのが通常である。無人機やレーダーなどの戦場監視機器が発達し、それを管理・運用する者の専門的知識も必要ではあるが、戦略レベルの情報分析官のような長年の経験と広範な知識の蓄積は必要とされない。基本的には、あったこと、見たことを、諸元にもとづいて処理すればよいのである。

しかも、上述のように、現代戦は戦況速度が格段に速まり、戦場監視がデジタル化している。 つまり、戦場では過去にもまして、作戦部と情報部の垣根がなくなっている。作戦指揮官がインフォメーションに基づき、独断専行的に意思決定を行い、作戦部にその実行を命じるという状況が増えると考えられる。

日露戦争後の軍事の流れのなかで、情報部門と作戦部門の未分化が作戦部門の唯我独尊、自閉的集団化を引き起こし、ノモンハン事件以降はまったくの情報軽視が生起して、それが太平洋戦争の敗北に向かったという。

しかし筆者は情報と作戦の分化という問題は、戦略レベルと作戦・戦術レペルに分けて、よくよく考える必要があると考える。 実務においては、通り一遍の情報と作戦の分化論は危険である。

作戦戦場における情報部門の独立、すなわち現在の陸上自衛隊の情報科の新編独立(2010年3月26日、陸上自衛隊に情報科職種が新設)についても、この日露戦争の戦史をひも解き、問題点を創造的に見出し、改善していくことが必要であると考える。

(※)インテリジェンスの政治化 政策決定者がその政策や好みに合致した情報を出すよう圧力、誘導をし、情報機関の側にも権力におもねって、それに取り入ろうとする動き。情報分析官個人が自分の利益のために政策決定者が好むインテリジェンスを意識、無意識に生成することなどをいう。

謀略の問題

前出の大江氏は、「情報操作・情勢作為によって自己の政治的地位を高めてきた山県(有朋)のもとで育った情報将校たちは、正確な軍事情報の入手よりも、情勢を作為するための謀略に重きを置く傾向を強めた」と厳しく指弾している。

この問題についても、筆者の私見を述べたい。 明石工作については、最近の戦史研究によって明石の自著『落花流水』には相当の事実相違があることが判明している。 稲葉千晴氏が北欧の研究者として共同して行った最近の歴史検証では、「明石の大半の工作は失敗に終わった」とされている。 稲葉氏は「明石がおこなった反ツァーリ抵抗諸党への援助は、ロシア1905年革命に、そしてツァーリ政府の弱体化に、ほとんど影響を及ぼしていない。勿論、日露戦争での日本の勝利とはまったく結びつかなかったのである。」(稲葉千晴『明石工作』)と述べている。

稲葉氏の緻密な研究成果に異を唱えるものではないが、謀略の成果があったのか、なかったのかを検証するという作業には非常に困難性がともなうと考える。それを断定的に述べることは学問では是とされても、それを実務に取り入れることには注意が必要だと考える。

作家の佐藤優氏は、稲葉氏の研究資料となったパヴロフ・ペトロフ共著[左近毅訳]『日露戦争の秘密-ロシア側資料で明るみに出た諜報戦の内幕』(成文社、1994年)について、「そもそもロシア側の原資料は、明石工作はたいして意味がなかったというように情報操作している」と指摘している。

もちろん、これも佐藤氏の思い込みだと排斥することも可能であるが、諜報・謀略の世界では情報操作は当たり前である。日本軍のマニュアルにも謀略宣伝のやり方が書かれていたし、英国の首相チャーチルが国家的な謀略に手を染めていたこともほぼ明らかとなっている。

筆者は、次のことにも付言したい。謀略は心理戦の様相が大勢を占めるということである。つまり、緻密な歴史研究をもってしても、いかなる経緯や事象が民衆心理に対して、どの程度の影響をもたらしたのかなどは解明が困難であるということである。

暴動やパニックは一つの嘘から引き起こされる場合もある。この嘘が偶然だったのか、それとも情報機関が周到に仕組んだ偽情報だったのかは知る由もない。現在のテロが起こるたびに、ISは犯行声明を発出するがその関係性もよくわからない。ただし、ITCによって心理面の影響を受けている可能性は否定できない。 だから、謀略やテロといった代物は、因果関係が立証できなくても、因果を一応の前提として、その対処を研究する必要があるのである。

日露戦争後、日本は謀略を組織的に管理するという方向に向かわなかった。昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯であった。 参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになったのは1926年(大正14年)末のことである。 参謀本部に謀略課(第8課)が設置されたのは支那事変後の1937年10月である。

謀略によって泥沼の日中戦争に向かい太平洋戦争に敗北したとする、のであればそれは謀略自体を悪と決めつけることによってのみ問題を解決するのは一面的である。むしろ適切に謀略を管理する組織体制がなかったことに問題の所在をおくべきだと考える。 

今日、「専守防衛」を基本とするわが国には、日露戦争当時に明石工作や青木工作のような謀略は不向きである。しかしながら、南京事件などをみるにつけ、中国が謀略、宣伝戦を仕掛けていると思われる節がいくつもみえる。 謀略を阻止するという観点からも、軍事部門を司る組織において、謀略の研究がなされる必要はあると考える。

AI環境下での自衛隊における要員確保の道は!

わが国は少子高齢化にまい進中

日本は2010年から有史以来初の人口減少に向かい始めたようです。少子化の方は、それよりもずっと早くから始まっていました。しかし、医療技術の発達や栄養状態の改善、健康指導などによって長寿化が進み、それが人口減少を食い止めていました。  つまり、少子高齢化は2010年のずっと前から始まっていました。

人口減少の傾向は、2010年の1億2806万人が、2040年には1億728万人になると推測されています。

また65歳以上の高齢者が社会全体に占める割合は、2010年には23%であったが、2035年には33%を超えて3人に1人が高齢者となります。2042年には高齢者3878万人でピークを迎えますが、高齢者率はその後も増え続け、2060年には約40%に達すると予測されます。

このようにわが国は少子高齢化に向かって進んでいますが、高齢化の波を押しとどめることは道徳的、倫理的な観点から不可能です。だから、少子化の対策、すなわち、出生率を上げることが喫緊の課題となっています。

少子高齢化は労働人口不足を招く

少子高齢化は、都市への人口集中と地方の空洞化などの副次的な影響をもたらしますが、なんといっても最大の問題点は労働市場における人手不足です。 この対策には、女性の雇用、高齢者の雇用、外国人労働者の雇用、そしてAIの雇用などの対策があげられています。 しかし、女性の雇用を進む一方で、子育て支援といった政府対策、男性の育児休暇などの職場の理解がなければ、さらなる少子化の原因となります。つまり、負のフィード・バック・ループに陥ることになります。

高齢者の雇用については、確かに50年前の65歳と現在の65歳を比べるのは問題ですが、そうはいっても企業側としては健康面でのリスクを抱えることになります。ましてや、防衛・消防・警察といった面においては、一部のスーパー高齢者は別にして、有事を想定した場合も60歳以上を正規雇用するなどといったことは筆者の経験からして「あり得ない」と考えます。

外国人労働者あるいは移民政策についても、治安問題、社会における受け入れ体制、言葉の障碍など、早急には改善できない問題が山積しています。先に移民政策を取ったヨーロッパにおいては、移民政策が誘因となるテロなども問題となっています。

AIの導入如何によっては、世の中の労働市場は高度専門技術者と肉体労働者を残し、今日の大部分を占める中間層の事務・管理などの業務は淘汰されるとされています。 これら中間層のほとんどは肉体労働に向かうしかない、といわれています。

しかし、問題は中間層が自分の能力を過大評価している点です。つまり、多くの中間層がうまくシフトができないで、無職になって世捨て人になってしまう可能性があります。 かつての蒸気機関の発明による産業革命時期のように、労働者による暴動が起こる可能性も懸念されるわけです。    

自衛隊の要員確保が深刻な問題

さて、世の中が、こういう状況に移っているのですから、自衛隊における要員確保が困難になっているのも頷けます。

他方、世界秩序の多極化、経済を中心としたグローバル化、ITの拡大により、わが国周辺では中国の覇権主義的な台頭が起こり、世界各地では地域紛争、民主化デモやテロ活動の兆しが生起しています。このため、わが国の防衛、警備上のニーズは将来的にさらに高まる事が予想されます。
 

また世界的規模で進む気候変動が、風水、津波被害を頻発させることが予見され、このことが防衛上の所要を高めるとみられます。。

このように将来的に防衛・警備の所要が増大する中、自衛隊の募集は困窮を極めています。そこで、防衛省は新隊員の採用年限を32歳まで引き上げるなどの応急策を取ろうとしていますが、はたして、どうなることでしょうか?これが、どのような悪影響を及ぼすかについては、あまり検討されていないようです。

幹部自衛官の処遇は他の公務員よりも悪い!


私の娘は地方公務員です。8年前に陸上自衛隊の幹部候補生にも合格しました。入隊を進めましたが、自衛隊の幹部候補生は生涯賃金などを他の公務員と比較したら、高卒対象の初級職公務員より待遇が悪い、という評価のようです。それを言われると、納得せざるを得ません。 

私も55歳で自衛隊を定年退職しましたが、幹部自衛官といっても2佐以下であれば、損保、警備職がほとんどです。年収は半分以下になり、自衛隊で修得した指揮・運用能力の活用などは望めません。

かつての自衛隊は60歳から共済年金が支給されていましたが現在は65歳です。つまり、10年間は新たな職業によって生活を保持し続けなければなりません。ここで、一般公務員との待遇格差が生じることになります。

また、ほとんどの幹部自衛官は高度専門職ではなく、どちらかといえば事務・管理職です。だから、AIが導入されれば、ますます潰しが効かず、再就職には不利です。 しかも、自衛隊は秘密保全などの理由から、積極的に外部社会と関わる環境を推進しているとは言い難い状況にあります。 つまり、人脈を増やしたり、他の領域においてスキルアップができる有利な環境にあるとはいえません。

一般社会のどの階層と比較するのかという問題はありますが、少なくとも一般幹部候補生を、他の大卒の一般公務員と比較した場合、その処遇は見劣りするといってよいでしょう。

それでも自衛隊に入隊するとしたら国民からの信頼と誇りが支えとなります。今日の自衛隊は災害派遣などで国民から高い信頼と評価を受けています。これは防衛基盤の育成としては重要なことですが、災害派遣のために自衛隊を選択する者はほとんどいません。あくまでも、他国の侵略やその他の脅威から国民の生命・財産を国防という第一義的任務を全うすることを誇りに入隊します。

一般自衛官の処遇改善が急務

幹部自衛官がこのような状況ですから、ましてや一般の自衛官の募集はさらに困難でしょう。それに加え、これからIT社会、AI導入により、自衛隊の職場環境や、未来の戦場環境は変わってきます。

ますます質の高い要因の確保が求められますが、高質の要員を確保・育成するためには処遇改善が不可欠です。つまり、 職場環境や居住環境の改善が必要不可欠です。現代青年に不可欠な隊員個室、ワイファイ環境、こういった整備を整えなければ現代青年は定着しません。そして、AI環境下における戦士の育成はできません。

私の現役時代、厳しい生活環境で隊員を鍛えるといった上級指導者がいましたが、時代錯誤です。生活環境はゆとりを、訓練は厳しく、そのメリハリが重要であることは、米軍、ドイツ軍などでは伝統的になっています。

かりに一般社会に先駆けて、ドローン操縦、自動運転などの技術が修得できるとすれば、それは新たな魅力になるかもしれません。一般社会とは違う、先験的な魅力化政策と、処遇改善、それが要員確保の本質であると考えます。