認知戦とは何?(その1)

     

認知戦という言葉をよく耳にする最近

2022年2月のウクライナ戦争が始まる以前から、「認知戦(Cognitive Warfare)」という言葉をよく耳にするようになりました。わが国のインターネット上の論文や一般書籍でも認知戦を冠するものが多く確認されるようになりました。筆者が参加する安全保障やサイバーセキュリティのセミナーでは「認知戦」という用語にしばしば接します。

実は、認知戦についての世界の共通定義は未だになされておらず、欧米もその研究を開始したばかりです。ただし、認知戦を「偽情報により相手の認知(認識)を誤った方向に導き、判断を誤らせる戦い」、あるいは「ソーシャルメディアによる情報操作や偽情報など」といったニュアンスで認識されているようです。

ウクライナ戦争では認知戦が繰り広げられている

 ウクライナ戦争では、ロシア、ウクライナ、そして欧米がマスメディア、ソーシャルメディアを使って真偽不明な画像やナラティブ(物語)を拡散し、国際世論を味方につける、あるいは相手側の社会を分断する試みを行なっています。すなわち、認知戦の様相を呈しているのです。

認知とは「何かを認識・理解する心の働き」であり、認知戦の本質は相手の心に影響を与え、支配することです。この点は伝統的な「心戦」あるいは「心理戦」と一寸の違いもありません。この点に関して、中国の軍事専門家は「認知空間における競争と対抗は数千年の戦争史を通じて一貫して存在しており、古代の中国では『攻心術』や『心戦』と称されていた」と指摘しています。しかし、認知戦は、発達したICT環境の中に誕生した新たな戦いでもあります。つまり〝古くて新しい戦いなのです。

心理戦から認知戦に至る経緯

心理戦(心戦)は、わが国においても古代から兵法の一つとして用いられてきました。第二次世界大戦時には、欧米の専門家が「Psychological warfare」および「Psychological Operations」の概念を提起し、わが国ではそれを心理戦争、心理戦、心理作戦などと訳しました。冷戦期には、心理戦は核抑止戦略の一環を形成し、政治的用語としての色彩を強く帯びるようになりました。

湾岸戦争において米国は、C4ISRを駆使した戦いを展開し、世界を驚愕させました。その戦争から情報の重要性が認識され、「Information Warfare(情報戦)」や「Information Operation(情報作戦)」などの言葉の定義づけや研究が世界的に行なわれました。中国やロシア、あるいは国際テロ組織は〝弱者の戦法〟として情報(作)戦に取り組み、その中でも電子戦、サイバー戦能力の強化に努めました。

21世紀に入り、時代はパソコンからスマホへと移り、情報発信のツールとしてソーシャルメディアが登場した。2010年初頭の「アラブの春」ではソーシャルメディアによる民主化デモへの参加が呼びかけられました。

そして、現行のウクライナ戦争ではマスメディアがテレビ、新聞、インターネット記事で戦況を刻々と報じています。同時に、戦場にいる誰かがスマホで動画を撮影し、それをソーシャルメディアで拡散させ、世界の多くの人々の心理・認知に影響を及ぼしています。すなわち国際社会全体が認知戦の影響を受けているのです。

さらに、認知戦の先には、AIが人間の心理・認知を操作する、あるいは人間の心理・認知をも超えてAIが自律的な意思決定を行ない、自律型無人機が戦場を飛びかうAI戦争が見え隠れしています。

私たちはこうした世界に生きています。現在、世界や我が国周辺で起こっている認知戦についてもっと知る必要があると思います。(次回に続く)

ツィーターを開始し、はや3か月半!

2023年1月からツイッターをはじめました(本名でやっています)。3月半、ほぼ毎日書きましたが、4月半ば現在、フォローワー数が30名であり、何万人ものフォロワー数を持っているツイッター者には敬意を表します。

周囲の者にもツイッターを始めたと宣伝しているわけではありません。内容も面白いものではないので共感を誘うものでもありません。私の記事が勉強になると思う方にお読みいただければ良いと思います。

ツイッターで感じたこと、気付いたことは、字数が決まっているのでメモ代わりに、スマホで軽易に書ける、非常に便利だということです。このウェブは月々の有料料金を払っていますが、スマホに直結していないので開くのが面倒です。スマホは無料であり、アイコンを押せばすぐ開ける。まことに便利です。

でも、政治的な偏りなど、第三者にとって不快ななこと、個人情報の無用な暴露などの記述には気おつけています。面白いことを書けば拡散するとは思いますが、自分にはたいして面白い話もないし、まあ抑制しています。

ツイッターを除くと相当な情報があります。なかには、こんな記事によく何万人も注目しているな、と思うこともありますが、そこには心が寄り添う関係が成立しているのでしょう。わたしは、ツイッター記事をあまり詮索しないようにしています。というのは、時間がもったいないし、ほかのことに注意が向かうと勉強がおろそかになるからです。やはり、自分の読書時間が奪われるのはイヤです。

これまで認知バイアスや思考術について書いて、今は心理戦についてツイッートしています。その次はカウンターインテリジェンスについて語ろうかと思います。心理戦とカウンターインテリジェンス、今年か来年にはそれぞれをテーマとした本を出版でしたいなと思い情報収集を兼ねて備忘録として書いています。(おわり)

新年あけましておめでとうございます。

2023年の正月は駅伝を見てゆっくりと過ごしました。実業団駅伝はホンダの二連覇、箱根は駒沢が優勝して、昨年からの駅伝で三冠を達成しました。どちらもチームワークの勝利でした。おめでとうございます。

昨年1年間の私は、某企業のシナリオプランニング作成のお手伝いをさせていただき、貴重な経験をしました。また、おおむね月1での講演をお引き受けし、充実した1年間になりました。著書の方も、『超一流諜報員の頭の回転が速くなるダークスキル』と『武器になる状況判断力』の二冊を刊行しました。

前者は、すこしセクシーなタイトルですが(読み手の注意を惹く刺激的なタイトルを「セクシー」なタイトルという)、思い切って難しいところを避けて、2~3時間で読み切れるをコンセプトとしています。

実は分かりやすいということは、重要ではあるが微細なところが省略(いわゆる犠牲)されています。インテリジェンスはこの微細なところが重要です。ですから、まずは一挙に読むことで、インテリジェンス脳を作り、その次に他のインテリジェンス本にも挑戦したいただきたいと思います。

後者は、少々がっちりと書きました。この著書は自衛官、ビジネスパーソンなどにお読みいただくことを想定しました。この本の欠点は、起業などのための状況判断はできないということです。つまり、上からの任務付与があって初めて自分の任務(具体的に達成べき目標)を分析して、その任務を達成するための行動方針を案出するという思考方式なのです。

ある上場企業の副会長から言われてたことがあります。「わが社でも自衛官OB(将補クラス)を採用したが、彼らはこれをやれと言えば完璧にこなす。でも自分で創造的に考えて仕事をすることができない。」

これは、任務分析は良くできるが、創造的思考ができないということなのかもしれません。大きな組織の中にいると、上からの指令を忠実に実践することが大切であって、自分で創造的に何かやろうとすると、「いらんことはするな」ということになります。なので形にはまったことは、よくできるが、創造的に自分で考えることは苦手になっているようです。

さて今年はどんな年になりますか。コロナは収まるか、ウクライナは停戦を迎えるか、物価上昇や円安はひと段落するか、いずれも見通しはさして明るくないような気がします。しかし、民主主義大国の米国は国内対立がだんだんと激しくなり、権威主義国家の中国はゼロコロナ政策が失敗するなど荒れ模様です。なんだかんだと言っても日本がまともだな、と思います。

今年の執筆テーマは「認知戦・心理戦」です。もうひとつの目標は健康管理です。1年間、無理せず、横着せずに頑張りたいと思います。

新著『超一流諜報員の頭の回転が速くなるダークスキル』9月18日に発刊

皆様へ

 暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。本日は私の新著の発売のご紹介させてください。

 9月16日ワニブックス社から『超一流諜報員の頭の回転が速くなるダークスキル-仕事で使える5つの極秘技術』が発刊されます。ワニブックス社は桜林美佐様の『陸海空 軍人によるウクライナ侵攻分析』の出版社です。

 タイトルは、読者の関心を引き付けようとの意図が見え見えですが、内容はインテリジェンス・リテラシーやビジネス力をつけるために役立つ内容です。

 本日は同著の前書き部分(修正前原稿)を紹介させていただきます。

善く(よく)戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。故に善く戦う者の勝つや、智名も無く、勇功も無し。

→勝者は無理のない、勝って当然な勝ち方をする。「能ある鷹は爪を隠す」。それが諜報員の戦い方である。

  故に三軍の事は間より親しきは莫く、賞は間より厚きは莫く、事は間より密なるは莫し。

→組織トップは、諜報員を最も信頼し、高い俸給が与え、しかも諜報員とのことは秘密にしなければならない。つまり、諜報員は組織にとって必要不可欠な存在である。

■この世で最も“頭の回転が速く”なければならない職業

「会話や物事の理解度が高い」

「仕事を効率的に行なう」

「情報をまとめたり、整理できる」

「人の心が読める、人を操れる」

「記憶力が高い」

「物事の先を読める」

「決断力がある」

 多くのビジネスパーソンが憧れる、〝頭の回転が速い人〟とは、このような能力や資質の持ち主を指すのであろう。

 むろん、これだけの能力が備わっていれば、仕事やビジネスで成果を出すことはたやすいだろう。だからこそ、あなたは「頭の回転が速くなる技術」について書かれた本書をご所望されたのだろう。

 実は、冒頭に並べた能力・資質をほぼすべて兼ね備えている仕事人がいる。それが諜報員だ。本書で定義する諜報員とは、アメリカのCIA、イギリスのMI6、ロシアのSVR、イスラエルのモサドといった諜報機関で、敵対勢力に対し、「戦わずして勝つ」を信条に水面下での情報戦に従事している者の総称である。

 彼らは、情報を収集し、分析してインテリジェンスを作成したり、時に秘密工作に従事し、また、国家の重要な秘密情報を守るミッションを遂行する。

諜報員がミッションに失敗すれば、国や国民は危機に瀕する。個々の諜報員には死刑、投獄が待っている。まさしく、重要かつ命がけの職業だ。

諜報員は、高い倍率を突破し、長期間の基礎教育と実地教育で篩にかけられ、勝ち残った超一流のエリートである。

 すなわち、諜報員こそは、この世で最も「頭の回転が速くなければ務まらない職業人」なのである。

 本書のテーマは、世界の優秀な諜報員が実践している「思考」と「行動」の型を紹介し、それをあなたに使いこなしてもらうことだ。

■努力、まじめさ、よりもダークスキルで成果が出る

 誰もが仕事に対して、努力し、まじめに働いていることだろう。それなのに、なぜ、成果が出ないのだろうか。それは、結果につながらないことをやっているからだ。すなわち無駄なことに力を注いでいるからだ。

 諜報員は国家の危機を救うなど大きな成果を出している。そんな優秀な諜報員の仕事の流儀に従えば、あなたは無理なく成果が出せるだろう。

 諜報活動は社会の水面下で粛々と行われるため、諜報員の成功が華々しく語られることはない。すなわち、諜報員のスキルはダークサイドのスキルなのである。しかし、インテリジェンスに関する研究書や歴史書、元諜報員の自伝や執筆物から、ダークサイドのスキルから一部は我々に役立つスキルに置き換えることはできる。また、欧米では、企業がインテリジェンスの重要性を認識していることもあり、退職する諜報員は今も昔も、企業から引く手あまたの状態だ。経営者として成功している元諜報員も多い。

 つまり、諜報員のスキルの中で汎用性の高いものは、ビジネスの世界に流入し、活用されており、これらスキルが成果につながることは実証済みである。つまり、ビジネスパーソンがこれらスキルを使えば必ず、頭の回転を格段に速めることができる。

 諜報員は、緊迫した状況で成果を出さなければならない。だから諜報員のスキルは「ムリ、ムダ、ムラ」を排除したシンプルで理に適っている。すなわち、諜報員のスキルはビジネスパーソンにも容易に理解できるし、実践しやすいのだ。

 また、かつては国家機関で情報の収集と分析に携わり、今はビジネスパーソンの一人となった我が、重要な情報を選りすぐり、自分の経験も踏まえて、できるだけ平易に解説した。

本書で書かれていることを、あなたが実践すれば、ビジネスの成果を出すことは間違いないと確信する。

■元情報分析官等の経験から解説

日本にはCIAのような海外で秘密ミッションを行なうような機関はないが、「日本に諜報機関があるか」と問われば微妙である。なぜならば、諜報という言葉は元来、目的を秘匿する情報収集活動であって、そこにはオープンソース(公開情報源)を集め分析する活動も含むからだ。

 このような活動はいかなる国も当然のこととしてやっている。だから、私がかつて就いていた「情報分析官も諜報員か」と言えば、(我が国では諜報がダーティーなもとのイメージが定着しているので非常に答えにくいが)「そうだ」と言えるのかもしれない。

 私はかつて、情報幹部、情報分析官、情報学校の共感、在外大使館員などとして勤務していた。本格的な諜報員のように身分を隠すようなことはなかったが、オシントやヒューミントを収集し、分析した。また、各国情報機関の公開の情報分析マニュアル、各国のスパイマスターや諜報員の自伝を渉猟し、彼らの思考法から、自らの情報収集や情報分析のスキルを磨いてきた。

 簡単に言うと、インテリジェンスとは情報(インフォメーション)を料理することだ。集めた情報を自分なりに解釈し、意思決定、行動に活かせる形にしたものがインテリジェンスである。

 現在、私は一介のビジネスパーソンである。そこで残念に感じることがある。ビジネス界にはスキルアップ研修の場は数多くあるが、インテリジェンス・リテラシーを高めるための研修は少ない。つまり、インテリジェンスの重要性は次第に認識されつつあるものの、それがスキルとなってビジネスに適用されることには不十分である。

 これからは、社会がますます不確実性を帯ていくとともに、高度なICT社会の中で情報が氾濫する。だから、インテリジェンスや諜報の重要性が増大するだろう。それは相手側の情報の活用と、自らの情報のセキュリティという両面においてである。

 本書は、元諜報員が自らの体験をビジネス向けに書き下ろした著書の中から、ビジネスパーソンが活用できるエキスを抽出して1冊に再構築した。そこに、私の経験から得た知見でもって体系整理と内容の肉付けをおこなった。本書はインテリジェンスリテラシーの入門書としての価値も高いと確信する。

■本書の構成

 本書は次のような構成になっている。

01の章では、諜報員がいかに優れているか、どんな組織で、どんな活動を行ない、どんなスキルを持っているかを紹介する。

02の章では、情報収集法を紹介する。諜報員がどのように秘密情報を集めていくのかがわかる。

03の章では、人心掌握の技術を紹介する。諜報員が、協力者を見つけ、思い通りに動かすテクニックがわかる。

 04の章では、記憶術を紹介する。キーワードや人の話の内容を覚える技術、記憶を瞬時に引き出す方法がわかる。

05の章では、情報分析の技術を紹介する。03章までの技術を駆使して集めた情報から、有効な意思決定、行動を行なうためのインテリジェンスを作成する要領の一端がわかる。

06章では、目標達成のための実行力を高める方法を紹介する。冷静に、迅速に、柔軟に考え、行動する技術が身につく。

 ところどころに、歴史的なスパイ戦についてもお話しているので、楽しみながらスキルを身につけていってほしい。

                                  (以上)

近況の報告(『インテリジェンス用語事典』の出版)

2022年の最初の投稿です。一昨日、講演依頼をいただきましたが、依頼者から、最近、ブログの投稿が途絶えているので、この連絡メールのアドレス(ブログに記載)が生きているのかどうか心配であった、とのお話しをいただきました。はい、生きています。

実は投稿をしばらく休止していたのは新作の構想固めに1か月半もかかったからです。仕事をしながら、一つの事に集中すると、他のことは全くできません。60歳を超えると、目は悪くなるし、体力も衰えます。頭の中にあるものをどのように体系付けしようかと考えると非常にぐったりとして、ブログ投稿はお休みしていました。それもなんとか1週間くらい前に終わりました。新作はいつ刊行できるかはわかりません。

ありがたいことに一年くらい前から講演依頼を継続的にいただています。主に『武器になる情報分析力』と『未来予測入門』を読んだ方々からです。非常にありがたいことです。私は原則、1か月に2回以上の講演は受けないことにしていますので少し後ろ倒ししていただいています。申し訳ありません。

今年は固い著書とやわらかい著書を1冊ずつ出すのが目標です。本は売れない時代ですが、講演はだいたい数十人、本は数千冊。講演は組織による要請の方が多いですが、本は自ら出費を決断しての購入です。私の考え方などを伝えるツールとして本の方が効率的です。ただし、本は、よほど売れないと商売にはまったくなりません。赤字と言ってもよいくらいです。

さて、先日は共著『インテリジェンス用語事典』を出しました。辞典ではなく事典であるので、読み物として読んでいただいても面白いと思います。編著は樋口敬祐さんが担当しました。自分の執筆に加えて、私と志田さんの執筆をチェックして修正され、全体の構成を考えられたので大変な労苦であったと思われます。

樋口さんは長年、インテリジェンスの学術研究をされており、私の先輩ですが、組織での再任用を継続されていたので、昨年65歳で定年されました。今は、大学で講師もされています。今後の活躍を祈念します。

私の方は自衛隊を退官して早7年(55歳で定年)になります。インテリジェンスをビジネスパーソンにどう伝えるかがテーマですので、樋口さんとはアプローチや書き物はかなり違います。志田さんは沖縄県にある名桜大学の准教授であり、こちらはバリバリの学者です。それぞれの知識によるコラボで、拓殖大学大学院教授の川上高司先生の監修のもとで著書が完成しました。

本来ならば、各用語を大項目にするか、中項目にするか、小項目にするのかなど侃々諤々の議論をするはずが、コロナ禍の影響でできていません。そのため、完成度としてはイマイチ感もありますが、初のインテリジェンス用語事典ということに意義があると思います。ご愛読いただくと嬉しいです。

武器になる「状況判断力」(9)

軍隊式「状況判断」は軍事合理性と米国の国情から生まれた

□はじめに

 コロナの新規感染者数も次第に下降傾向にあるようです。若者に対するワクチン接種が拡大した成果でしょうか。このまま一挙に収束することを願っています。

 

ところで前回の謎かけの答えです。信号機の赤色は危険信号なので最も重要です。だから目立たなければなりません。仮に赤信号が左側、すなわち歩道側にあったら木の陰に隠れて見えづらくなります。また、日本の車両は左側通行です。そのため、進行方向に向かって右側、つまり中央部の方が良く見えます。

ここで重要なことは、仮にこのような理由を発見した時、「では、右側通行の米国はどうか?」という新たな疑問を持つことです。なお、米国の信号機は進行方向に向かって左から「赤、黄、青」の順番です。

 

今回の謎かけは、「大阪ではエスカレーターの右側に立ち、東京では同左側に立つのは、なぜか?」です。皆さん、この事実をご存じでしたか?

▼状況判断は旧軍教範にもある

前回は軍隊式「状況判断」について解説しましたが、わが国にも戦前から「状況判断」の概念は存在していました。明治期に作成された公開教範『野外要務令』では、「情況を判決するには……」との条文があり、また別の条文では「情況判断」という用語も確認できます。

大正期の教範『陣中要務令』では、「情況を判断するに……」との条文や「およそ指揮官の決心は任務、地形、敵情、我が軍の状態等を較量(こうりょう)し、周到なる思慮と迅速なる決断とを以て、これを決するものにして……」との条文があります。

昭和期の教範『作戦要務令』でも、「指揮官はその指揮を適切ならしむるため、たえず状況判断(※情況ではなく状況になった)しあるを要す」とあり、「指揮官は状況判断に基づき、適時、決心をなさざるべからず。状況判断は任務を基礎とし、我が軍の状態・敵情・地形・気象等、各種の資料を収集較量し、積極的に我が任務を達成すべき方策を定むべきものとす。」と規定されています。

つまり、任務、我が状況、敵情、地形・気象(地域)の4つの要因を考察して状況判断し、その上で指揮官が決心を行なうという基本理念は戦前から確立されていたのです。

なお、これら教範の源流は『ドイツ式野外要務令』であるので、「状況判断」は、多くのほかの軍事思想や軍事原則とともに当時のプロシアから入ってきたといえます。陸軍大学の教壇に立ったメッケル少佐もおそらく「状況判断」について学生に講義したことでしょう。

▼状況判断の考え方は軍事合理性に基づく

ただし、状況判断についての上述は特筆すべきことではありません。BC500年頃(今から2500年前)に兵法書『孫子』を著した孫武は、「彼(敵)を知り、己を知れば百戦危うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず敗れる」、「彼を知りて己を知らば、勝ちすなわち殆うかず。地を知り、天を知れば、勝ちすなわち窮(きわま)らず」と言っています。つまり、戦いに勝利する(任務)には、敵、我、地形・気象の要因を認識することが重要だと説いています。

『孫子』の日本流入は、一説では8世紀に遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったとされています。つまり、プロシアから軍事思想を輸入したことにかかわらず、我が国では『孫子』の伝承や国内合戦の体験を通じて、任務を基礎に我、敵、地域の3つの要因について状況を判断し、決心していたのでしょう。

要するに、状況判断の基本理念は軍事合理性から誕生したと言えます。

▼米軍は「状況判断」の手順を大戦前に確立した

しかしながら、『作戦要務令』などには状況判断をどのような手順で行なうのかまでは記されていません。だから、旧軍は状況判断とは何かということや、その重要性は理解していたものの、作戦の構想や計画を立てるために指揮官や幕僚が状況判断を使いこなす態勢になっていたとは言えません。

 

他方、米軍は第1次世界大戦後、英国、ドイツなどの教範を基に、これに第1次世界大戦の教訓を加味してマニュアルの整備を開始します。1921年、米陸軍は『Operations』(FM-3)を制定し、そこには「戦いの9原則」などが記述されていました。これが自衛隊の『野外令』の基になったことはすでに述べたとおりです。

1932年の米陸軍教範『Staff Officers Field Manual』(FM101-5)では「状況判断」の5段階の思考手順(アプローチ)を規定しました。同教範の1940年改訂版から、その項目を列挙してみましょう。

1. Mission(任務)

2. The situation and possible lines of action(状況および行動方針)

 a Consideration affecting the possible lines of action(行動方針への影響要因)

 b Enemy capability(敵の可能行動)

 c Own lines of action(我が行動方針)

3. Analysis of possible lines of action(行動方針の分析)

4. Comparison of own lines of action(我が行動方針の比較)

5. Decision(決定)

以上のように、賭け(ゲーム)の理論を適用して、意思を有する敵との闘争を推論して最良の選択を行なう論理的な思考手順が規定されています。

米軍は我が国と太平洋戦争を戦う以前から、このような「状況判断」の論理的な思考手順を確立していました。さらに思考手順をマニュアル化し、それを誰もが理解できるように可視化し、それに基づいて教育訓練を行ない、多くの指揮官・幕僚に普及する努力をしていたのです。

▼米軍は情報マニュアルも整備

太平洋戦争の敗因の1つとして取り沙汰される情報についても、米軍は大戦以前にマニュアルを整備していました。旧陸軍将校で戦後に陸上自衛隊に入隊した松本重夫氏は、米軍マニュアル『Military Intelligence』を基に陸上自衛隊の「作戦情報」教範を作成しますが、松本氏は旧軍の情報に関して次のように嘆いています。

「私が初めて米軍の『情報教範(マニュアル)』と『小部隊の情報(連隊レベル以下のマニュアル)』を見て、いかに論理的、学問的に出来上がっているものかを知り、驚き入った覚えがある。それに比べて、旧軍でいうところの“情報”というものは、単に先輩から徒弟職的に引き継がれていたもの程度にすぎなかった。私にとって『情報学』または『情報理論』と呼ばれるものとの出会いはこれが最初だった」(『自衛隊「影の部隊」情報戦秘録』)

また、松本氏は「情報資料と情報を峻別することが重要である。情報資料を情報に転換する処理は、記録、評価、判定からなり、いかに貴重な情報資料であっても、その処理を誤れば何らその価値を発揮しない」と述べています(前掲書)

▼旧軍は原理・原則を可視化する発想に欠けていた

情報に関する原理・原則書は戦前の日本にもなかったわけではありまん。1928年制定の『諜報宣伝勤務指針』(ただし、公開教範ではなく極秘文書)では、情報の原理・原則、諜報員の徴募、諜報網の展張、諜報活動の実施要領などが詳細に記されています。

これに関して、当時、陸軍中野学校で『諜報宣伝勤務指針』を基に情報教育を受けた平館勝治氏(乙I長期、二期生) は、次のような興味深い感想を語っています。

「私が一九五二年七月に警察予備隊(後の自衛隊)に入って、米軍将校から彼等の情報マニュアル(入隊一か月位の新兵に情報教育をする一般教科書)で情報教育を受けました。その時、彼等の情報処理の要領が、私が中野学校で習った情報の査覈(さかく)と非常によく似ていました。ただ、彼等のやり方は五段階法を導入し論理的に情報を分析し評価判定し利用する方法をとっていました。それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などというものは万国共通のものなんだな、とひとり合点していましたが、第四報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめて謎がとけると共に愕然としました。ドイツは河辺少佐に種本(筆者注、『諜報宣伝勤務指針』の元資料とみられる)をくれると同時に、米国にも同じ物をくれていたと想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改良工夫を加え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、日本はその種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしていました。この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたものと察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであったと感じました」(拙著『情報分析官が見た陸軍中野学校』)

繰り返しになりますが、米軍は情報の原理・原則などを誰もが容易に理解できるようにマニュアルに落とし込み、可視化し、教育訓練によって普及化していました。他方の日本軍は、教範を「保全、保全」と言って一部の者の“宝物”のように扱い、官民の英知を結集して、実践的理論として確立することはなく、教育訓練を通じて普及することも十分ではありませんでした。

要するに、日本軍は原理・原則を可視化して普及する発想に欠けていたのです。この点が、米軍と日本軍との勝敗を分けた根本原因だと筆者は考えます。

▼米軍はなぜマニュアル化を重視したのか?

米軍がマニュアル化を重視するのは、多民族国家どの米国の国情に起因するものであると考えます。

それに加えて、当時、次のような背景があったようです。『勝つための状況判断学』(松村劭著)から一部抜粋し、要点を整理します。

「1930年代に入り、第一次世界大戦、米国は戦争の歴史から遠ざかっていく中、軍人の老齢化が進んでいた。そこで、ドイツや日本などの関係が緊張化する状況下、米軍は民間企業の中から優秀な人材を将校として養成することにした。その際、「状況判断」の能力をつけさせることが喫緊の課題となり、定型の思考方法が整理された。当時、旧陸軍が参考にしたドイツ軍もフランス軍も『目的に寄与するためには、何をしなければならないか』を考察し、それを達成する方法を経験則に当てはめて実行要領を定め、妨害する敵と戦い、戦闘環境を排除するという『演繹法的思考法』を使っていた。一方、英軍だけは『遠くの目標に向かって何ができるか』の選択肢をかき集めて、最も容易な選択肢を選択するという『帰納法的思考法』を使っていた。そこで、米陸軍参謀本部は学者を集めて状況判断の思考方法を考察し、それをマニュアル化した。これは、前段で『何をなすべきか』(演繹法)を考え、後段で『何ができるか』(帰納法)を考える方法で、命題、前提、分析、総合、結論という五段階からなる。一般的には『演繹的帰納法』と言われる思考過程である」(以上、『勝つための状況判断学』の記述を筆者が整理)

つまり、米軍は独仏軍と英軍の思考法を融合させ、独自の思考法を開発しました。ここには、さまざまな利点を取り入れることが可能な多民族国家米国の強みを見る気がします。

他方、日本は「阿吽(あうん)の呼吸」が通じ、「徒弟制度」が伝統的に重視される社会です。宮大工や寿司職人などは師匠に付いて、長い間の修行の中で、自主的試行錯誤を通して“技”を会得するとされます。人まねでは通用しない、名人や超一流といわれる人の技能養成はそうあるべきかもしれませんが、軍隊や多くの企業では、少数の一流人を生み出すことよりも、むしろ全体的な技能レベルの底上げが重要となるのではないでしょうか。そのためにはマニュアルによるノウハウの可視化が重要だと考えます。この点に関しては、わが国は米国あるいは米軍から学ぶべき点があると考えます(もちろん、これだけではダメですが)。

米軍が開発した状況判断の思考過程の手順は、自衛隊のみならずドイツやフランスの軍隊、米国と同盟関係にあるカナダ・オーストラリア・韓国の軍隊もこの手順を学んでいます。米軍は世界各国から軍事留学生を迎えて入れています。ほぼ世界の主要国軍は同じような考え方を取り入れていることになります。

米軍のノウハウはビジネス界にも波及しているので、経営のグローバル化が進展している状況下、わが国のビジネスパーソンも米軍式「状況判断」を理解することは有益だと考えます。

(つづく)

『米軍から見た沖縄特攻作戦』の読後感

出版元から献本していただきました。早速、拝読したので読後感を載せておきます。

本書は、太平洋戦争末期の沖縄戦での日本軍戦闘機と米軍戦闘機およびレーダーピケット(PR)艦との戦いの日誌です。
 序章から第二章までは、レーダーピケット任務や戦闘哨戒任務(CAP)および沖縄戦、日本軍の神風(しんぷう、米軍は「カミカゼ」と呼称)を解説し、第3章から第7章までは、沖縄戦でのPR任務が開始された3月24日(沖縄侵攻開始の8日前)から、終戦の8月15日までの戦闘日誌です。第8章は、なぜ米軍PR艦が損害を受けたのかの原因を探っています。
 本書は8月27日発売ですが、早くもアマゾン軍事部門で売れ筋第1位(8月29日現在)になっています。おそらく、旧軍の沖縄戦特攻作戦に関する米軍側の初の公開資料の資価値を多くの戦史家や軍事専門家が理解しているためだと考えます。

特攻隊隊員は帰還していないので、実際にどのような空中戦闘が行われたのかは日本側資料では知ることはできません。よって歴史検証が甘くなり、今日では特攻作戦に関して多くの認識誤りがあります。

本書の帯では、「カミカゼ攻撃、気のくるった者が命令した狂信的な任務ではなかった。アメリカ人に日本侵攻が高くつくことを示して、侵攻を思い止まらせる唯一理性的で可能な方法だった」との作者(米国人歴史研究家、元海兵隊員)の意見が述べられています。実際我々の多くは、特攻隊が無謀に敵の空母や戦艦に体当たりして、華々しく玉砕したかのように認識しています。ここには合理性を欠いた精神論を排斥しようとの教訓も付随しています。しかしながら、本書を読むことで、目標は沖縄周辺に配置されていた21箇所に配置されたレーダーピケット艦隊(駆逐艦、各種小型艦艇)であることが認識できます。レーダーピケットとは、敵の航空機や艦艇をレーダーによって索敵することを主目的に、主力と離れておおむね単独で行動し、敵を警戒します。しかも駆逐艦などの小型艦艇であるため、爆撃等に対する防護力は脆弱であり、戦闘機の体当たり撃破の効果が高くなります。

また、敵のレーダー機能を潰すことは、現代戦では常套手段ですが、日本軍はこうした戦いの原則に則り、敵の目と耳を潰す〝麻痺戦〟を試みたのです。
 すでに戦況が悪化してわが国国力が衰退していましたので、特攻作戦は戦略的劣勢の回復には繋がりませんでしたが、作戦的には多くのPR艦艇を撃破し、米海軍に深刻な打撃を与えました。特攻作戦に是非はいったん脇に枠として、本書を読むことで神風特攻作戦が自棄になった自殺行為ではないことが理解できます。
 個人的意見ですが、戦後のわが国の戦史研究や戦史著書は「失敗か、成功か」のどちらかの大前提で、失敗の原因を追及することばかりに集中している気がします。
 1935年5月のノモンハン事件も失敗の事例として取り扱われることが多々ありますが(ソ連の大戦車軍団の前に日本陸軍は大打撃を受けたというのが定説)、最近になった公開されたソ連の情報資料によれば、日本は少ない戦力でありながら、対戦車戦闘ではソ連よりも優勢であったとの説もあります。

本著もそうですが、商売主義に影響を受けた日本著書とは異なり、外国著書の翻訳本には実に浩瀚で真面目なものが多く、多くの知見を得ることができます。外国著者の研究を多くの読者が支持しているところに国家としての力量を感じずにはいれません。
 優れた著書である『失敗の本質』なども、やはり本著の米国側の資料で再評価することで認識を改めることになるかもしれません。たとえば、同著では、「大艦巨砲主義」から早く脱却して「航空主兵主義」になれば勝利できたかのように理解できる記述があります。
  しかし、本著を見ると、米海軍がレーダーと連携した防空戦闘機を多数準備していた状況がうかがえます。その真剣な状況を踏まえるならば、失敗の本質は上記ではなかったという結論になるかもしれません。

そのような視点に立った、優れた外国文献である本著をじっくりと読まれることを推奨します。

武器になる状況判断力(8)

米軍式「状況判断」の内容

□はじめに

 オリンピックでは日本選手がたくさんのメダルを獲得しました。また、陸上種目ではメダル獲得はなかったものの、中長距離の若手選手が日本記録を連発し、将来への希望を抱かせました。

 しかし、オリンピック開催の是非や成否をめぐっての議論は止みません。民主主義国家ではさまざまな意見があってしかるべきですが、個人の素直な意見というよりも、マスメディアやSNSなどを経由してのバイアスがかかった意見です。だから、国民の「多数意見」あるいは国家の「全体意志」は奈辺にあるかについて無性に知りたくなりますが、それは叶わぬ願いのようです。

 さて、今回の謎かけは「日本の信号機は進行方向に向かって左から「青、黄、赤」となっていますが、それはなぜか?」です。

▼軍隊式「状況判断」とは?

 これまで、「状況判断とは何か?」「状況判断力は養成できるのか?」などについて解説してきました。これから米軍や自衛隊などで採用されている状況判断を軍隊式「状況判断」と呼称し、その思考手順について解説します。

 まずは、米軍の「フィールドマニュアル」の記述内容を紹介します。ただし、本連載では米軍マニュアルそのものを理解することが目的ではありません。

よってマニュアルの内容はざっと要点のみを述べ、その後、国際情勢判断や、一般社会やビジネスの場などで汎用できるよう筆者独自の解釈を加えて解説します。

 なお、自衛隊教範『野外令』でも、状況判断の思考手順を記述していますが、こちらの方は部内限定となっています。ただし、その内容の本質部分は米軍マニュアルとまったく同じです。

 そもそも各国軍の状況判断の思考手順はほぼ共通です。それにより言語や文化などが異なる各国の軍隊の連合作戦を可能にしていると言っても過言ではありません。

 軍隊式「状況判断」の思考手順は少々複雑ですが、要するに、目的と目標(戦略)の確立と、方法(戦術)の案出方法を、なるべく順序立てて論理的に考えるということに主眼があります。あまり枝葉末節にこだわらず、大局的な理解に努めて下さい。

▼米軍が採用する「状況判断」の思考法

 1984年の米軍マニュアル「FM101-5」に基づき、「状況判断」の思考手順を述べます。なお『勝つための状況判断学』(松村劭著)では、米陸軍の「状況判断」の思考手順を簡潔に整理していますので、同書を適宜に参考にします。

1 任務(※)

 任務を分析して、具体的に達成すべき目標とその目的を明らかにする。任務は通常、目標と目的をもって示される。分析の結果、具体的に達成すべき目標が2つ以上ある場合、優先順位をつける。

2「状況及び行動方針」

(2a)状況

【ア】地域の特性

 我が任務に関係する作戦地域の気象(weather)、地形(terrain)、 その他(other    factors)を要因として考察し、作戦地域の状況を認識する。

【イ】敵の状況

 敵の配置(Dispositions)、編組(Composition)、戦力( Strength)、重要な活動(Significant activity)を把握し、特性および弱点(Peculiarities & weakness)を明らかにする。この際、当面の敵のみならず増援兵力、火力支援、航空支援、NBC(核、生物、化学)兵器などの状況に注意する。

【ウ】我の状況

 敵の状況把握に準じて我が状況を認識する。この際、上下級の部隊、隣接する友軍等の現況を認識する。

【エ】相対的戦闘力

 彼我の一般的要因、軍事的要因を定量的、定性的に比較し、さらにこれらが地域の特性によってどのような影響を受けるかを考察し、考察した項目別に彼我の強みと弱みを一表で表示するなどに留意する。

(2b)敵の可能行動の列挙

 我の任務達成に影響するすべての可能行動を列挙する。このため、任務、地域の特性、敵情、我が部隊の状況を踏まえて、敵が能力的に取り得る行動を列挙する。次いで、列挙した行動の場所・時期・戦法などを考察する。次いで、我が任務にあまり影響を及ぼさない可能行動は排除し、我が任務への影響度の差の少ないものは整理・統合する。

 敵情の分析や敵の可能行動の列挙は、通常は情報幕僚が「幕僚見積(情報見積)」として実施する。情報幕僚は自らの判断結果を指揮官に具申し、これを指揮官が総合的に判断する。指揮官は情報幕僚の判断を採用することもあれば、拒否することもある。さらに敵情の認識を深化させる、また幕僚見積のやり直しを命じることもある。

(2c)我の行動方針の列挙

 敵の可能行動を踏まえて、我が任務を達成する行動方針を案出、列挙する。指揮官は作戦幕僚に1つか複数の行動方針を示し、作戦幕僚は指揮官の指針に基づいて、さらに行動方針を案出する。指揮官は作戦幕僚が提出した行動方針を採用、拒否、変更(修正)する。

 行動方針には、行動の形態(攻撃、防御など:WHAT)、行動開始および完了の時間(WHEN)、行動する場所(防御担当地域、 攻撃の一般方向など:WHERE)、利用可能な手段(機動の方式、隊形、核および化学攻撃の採用など:HOW)、行動の理由(WHY)を状況に応じて含める。これらの内容をどの程度まで詳細に明記するかは指揮官の判断による。

3 各行動方針の分析

 敵の可能行動が我の行動方針どのような影響を及ぼすかを考察する。このため、敵の可能行動と我の各行動方針を組み合わせて(戦闘シミュレーションの実施)、戦況がいかに推移し、戦闘の様相がどうなるかなどを考察する。

 分析を経て、我の各行動方針の特性や問題点が浮き彫りする。さらに、これらを踏まえて我の各行動方針の優劣を比較して、その妥当性や効果性などの評価を行なうとともに問題点に対する処置、対策を明らかにする。

 分析を行なうことで、行動方針を比較するための要因を明らかにしていく。要因は、地域の特性、相対戦闘力、敵の可能行動などから、我が行動方針に重大な影響与及ぼす要因を選定することになる。

4 各行動方針の比較

 「各行動方針の比較」と同時並行的に実施する。比較のための要因の重みづけ、とくに重視する比較要因(加重要因)を明らかにする。

 次いで、要員が各行動方針に及ぼす影響を考察し、比較要因ごとに最良の行動方針を判断し、最後に総合的に最良の行動方針を選定する。

5 結論

 選定した行動方針に所要の修正を加えて、1H5Wのうち所要の事項を定める。行動方針の決定が事後の作戦計画の構想となる。

(※)米軍マニュアルでは「状況判断」の思考手順の第1アプローチは、「mission」である。これは翻訳すると「使命」となるが、「使命感」などの言葉にみられるよう、日本語の使命の意味は曖昧で、米軍の「mission」の意味とは異なる。「mission(使命)」という用語は、米軍の意思決定では特別の意味をもっており、米軍では「mission」を「直属上官の全体計画+指揮官の任務」と定義している。「直属上官が自ら選んだ目標+指揮官の与えられた目標」と言い換えることもできる。あるいは、「使命(mission)は、「目的(purpose)と任務(task)からなり、取るべき行動とその理由が明確に定義されたもの」(堂下哲郎『作戦司令部の意思決定』)とも定義できる。一方、米軍では、「任務(task)」は「指揮官の与えられた目標」と規定している。(アメリカ海軍大学『勝つための意思決定』)このように、米軍の「mission」と「task」には差異があるが、陸上自衛隊の状況判断などでは「使命」を使わず(旧軍もそうであったが)、「使命分析」ではなく「任務分析」を使用する。ただし、ここで使用する任務の意味は「task」ではなく「mission」に相当する。よって、「○○をやれ」という単なる命令・指示ではなく、「上級指揮官が示す『なぜやるのか』という目的(purpose)を含んだ全体計画(構想)と、それに基づいて下級指揮官に示された目標を含んだ概念であることを理解する必要がある。

(つづく)

武器になる「状況判断力」(7)

センスを高める秘訣-暗黙知を形式知に置き換える

    

□はじめに

皆様こんばんは。「武器になる状況判断力」の7回目です。

前回の謎かけは、「交通事故死亡者数で愛知県は、2016年から2018年まで全国1位、2019年から2020年は全国2位です。なぜ愛知県では死亡事故が多いのか?」でした。

その答えは「都道府県別の車両数が愛知県は最も多いから」です。「愛知県の運転手は気が荒い」と答えた人は正解ではありません。車10万台あたりの交通事故死亡者数では愛知県は全国的に下位です。統計数字にはよくよく気付けなければ、誤った判断をするという一例です。

前回は、パイロットを例に挙げて、状況判断力は養成できるということを解説しましたが、今回は消防士を例に、センスを向上させるための秘訣を考えてみたいと思います。なお、今回で「武器になる「状況判断力」」の第一章は終わります。第二章は「軍隊式「状況判断」の思考手順」を解説します。

  • 冷静な状況判断力が必要に消防士

 消防士もパイロット同様に高度な状況判断力を必要とします。消防士に向いている資質、性格、適性などについてネット検索しますと、「ハードな体力」、「正義感」、「使命感」などともに「冷静な状況判断力」という表示に接します。

消防士は危険な状況の中で、一刻一秒を争う生命の救出作業に携わるのですから高度な状況判断力が求められるのは当然です。

しかし、正義心だけで、自らの命を顧みず、無鉄砲に火の中に飛び込んでくことは勇気ある行動ではありません。現場を混乱させるだけで、チームに迷惑をかけることになります。だからこそ、周囲の状況をみながらの冷静な状況判断力が必要となります。

  • 某消防隊長の咄嗟の状況判断力

ゲーリー・クライン『決断の法則』では、状況判断に関するさまざまな事例を扱っています。その中で、次のような、某消防隊長の話がでてきます。

「ある消防士のチームが火災現場に駆けつけ、火元とおぼしき台所で消火作業を始めた。ところが放水を初めてすぐに消防隊長は自分でも分からないままに「早く逃げるんだ」と叫んでいた。ちょうど全員が退去した直後、床が焼け落ち、間一髪でチーム全員の命が救われた。

実は、火元は一階の台所ではなく、消防士たちが立っていた床の真下の地下室であった。もし隊長が叫ばなければチーム全員は地下の火の渦に巻き込まれたのである。」(『決断の法則』から筆者が抜粋、再編集)

▼なぜ消防隊長は咄嗟に正しい状況判断ができのか?

では、隊長はどうしてこのような咄嗟の状況判断ができたのでしょうか。

最初は隊長も、なぜ咄嗟に適切な判断が下させたのか自分でもわかりませんでした。隊長は言いました。「危険の第六感がした。でも、「何かがおかしい」とは感じたが自分でもどうしてあのように叫んだのかもわからない。」

「どうして、あのような絶妙なタイミングで避難の指示が出せたのですか?」と尋ねる隊員に隊長は次のように答えました。

「正直言って、オレにもよく分からない。神秘的だね。強いて言えば直観かな。すぐさま退避しないとやばいということを、直観が教えてくれたんだ」

隊員は「いつか、あんなにすごい直観が、われわれにも備わるんでしょうか」と言いました。そこで、隊長は自分が突然得た直観を「隊員に具体的に教えられるのか、具体的に教えられればすばらしいだろう」と考えたのです。

結論から言えば、このような直観は、隊員が具体的に学ぶことは可能です。なぜならば、「直観は、決して神秘的なものではなく、科学的に説明できるから」北岡元『速習!ハーバード流インテリジェンス仕事術―問題解決力を高める情報分析のノウハウ』)です。

しばらくたって消防隊長は、3つの「なんとなく変だ」と思っていたことがある、と言い出しました。

  • あれだけの放水をしながら、火が弱まらないのは、何となく変だ。
  • キッチンはそれほど広くない。その割に火災が発する熱があれだけ高いのは、何となく変だ。
  • あれだけの高熱を発する火災の場合には、もっと火が燃えさかる音がするはずなのに、あれだけ静かなのは何となく変だ。

(前掲、北岡)

直観とは広範かつ高速な「パターン認識」が原動力になって起きます。つまり、過去の経験から潜在意識に蓄積された「何となく変だ」という「パターン認識」が極めて高速に行われることによって直観が生まれます。

上述のように、隊長の頭の中で「この程度放水すれば火はこの程度になる」、「この程度の広さでの火災なら、発生する熱はこの程度になる」というような、過去の経験により蓄積された情報が呼び起こされ、それが瞬時の答え、すなわち判断を導き出したのです。

ただし、無意識の状態で起こるので自分では直ぐに説明できません。しかし、冷静になって考えれば、「パターン認識」をいくつかに分解して科学的に説明できるのです。

ここに第六感であるク・ドゥイユの本質と、それを養成する可能性を見出すことができます。多くのセンスの正体は実は、経験、学習、訓練によって潜在意識の中に蓄えられた「パターン認識」であるのでしょう。すなわち、クラウゼヴィッツが述べるように経験と教育の積み重ねによって、ク・ドゥイユは向上すると言えるのではないでしょうか。

▼直観を可視化する

日ごろ良く使う「直観」という言葉の本質はなんでしょうか? 「専門性と経験に裏打ちされた直感なのか?」それとも「感情的な直感なのか?」「なぜ自分はこう感じたのか?」など、「なぜなぜ思考」を用いて「なぜ?」をどんどんと掘り下げていくと、直観の「言語化」がなされます。

野球の長嶋監督は天才肌です。選手時代、なぜ自分があの場面で打てたのかの説明は得意ではなかったようです。監督になってからも、「なぜあの場面であんな判断をしたのか」の説明に窮するところがありました。人々は監督の判断を「カンピュータ」と言って褒めたり、揶揄したりしていました。

一方の落合監督は、自分がなぜ打ってたのか、打てなかったのかを言葉で論理的に説明しています。引退して、現役の野球選手がなぜ打てなかったのかなどを実に論理的に解説しています。

落合監督は、投手が投げるボールが捕手のミットに収まるわずか数秒間の自分の打撃を振り替えることで、無意識を意識、そして言語に変換しているのでしょう。ちなみに落合監督は試合前にはボールとバットの当たる角度の調整だけに集中したという逸話があります。

今を時めく大リーガーの大谷翔平選手は、小学3年生になる直前から「野球ノート」をつけています。そこには、大谷選手が感じた「良かったこと」「悪かったこと」「目標(これから練習すること)を記しています。この簡潔な可視化が、繰り返しで身に着ける技術と一体となり、大谷選手のスキルや状況判断力を向上させてきたのだと考えます。

東京オリンピックの女子レスリング50kg級で金メダルを取った須藤優衣(すさいきゆう)選手に関する記事に感動すら覚えました。須崎選手は全相手から1ポインも奪われないパーフェクト勝利という偉業を達成しました。

「決戦前、相手の孫亜楠(中国)を〝丸裸〟にした。「金メダルを取るために、ここまでやるかってくらい研究し、対策しました(須崎)。相手の特徴に加え、スタートからの構え、手と足の位置、どう攻めてポイントを取るかなどの要点を文字でまとめた。それを受け取った吉村祥子コーチは「私が書き出していたものとすべて一致」と証言。……」(東スポWeb 2021/08/08)

つまり、試合では相手の攻撃を受けて、咄嗟に状況判断して、まるで激流が岩場を巧みに潜り抜けるがごとく、臨機応変かつ感性的に戦っているようであっても、そこには勝つための〝文字による可視化〟があったというのです。

このように成功者の多くは、直観を可視化する、言語化することで、咄嗟の状況判断に必要なセンスを自然と向上させているのでしょう。

▼科学技術によって可視化領域は拡大

400メートルハードラーで、世界選手権で二度も銅メダルを獲得した為末大(ためすえだい)氏は、東京大学経済学部教授の柳川範之氏との対談で次のように述べています。

「……私たちの現役の頃には取れなかった身体データが、今はいろいろな手法で取れるので、データをもとに選手に説明する必要があります。ですから、データの扱い方が分からないコーチだと、指導していくのが徐々に難しくなってきているような側面もあります。…」(10ⅯTV)

これは、従来は勘に頼っていたコーチングが、科学技術の発展よりデータ活用してのコーチングへと転換してることを示唆しています。つまり、スポーツの分野では、過去には潜在的であったものがどんどん可視化され、言語化されています。

「おばあちゃんの知恵袋」は現代でも役に立つ知識が満載です。おばあちゃんは、孫になぜそうなるかを理論的に説明はできませんが、昔からの言い伝えや先人からの言い伝えを体現し、実際に有益であることは知っています。実は、これも物理的、化学的に説明できます。仮に、言葉で「なぜ」を説明できたら、おばあちゃんの知恵はより広く、迅速に伝わることでしょう。ここにも可視化の効能を認識することができます。

  • 暗黙知を形式知に置き換える

高度で瞬時の状況判断が求められる場面では、たしかにセンスや直観、あるいはク・ドゥイユ(瞬間的洞察力)というのが必要です。これらは、ナポレオンが言うように、たしかに先天的要素もあるかもしれませんが、その多くは努力して蓄積された経験なのだと私は考えます。

人は誰しも、直前の情報や周囲の特別な状況に影響され、しばしば冷静的な判断を失います。そのため、経験という暗黙知を形式知に置き換える、つまり思考過程の手順を言語化、マニュアル化しておく必要があります。実は、後で説明する軍隊式「状況判断」は頭の中で行われている思考作用を書き出すという行為なのです。

可視化すること、つまりマニュアル化することで、組織としての共通意識が生まれ、個人の「なんとなく」が明確化され、チームや個人の状況判断力を確実に高めることができると考えます。特に、マニュアル化による共通意識の下での学習や訓練がチーム全体の状況判断力の強化を可能にすると考えます。(つづく)

武器になる状況判断力(6)

□はじめに

「武器になる状況判断力」の6回目です。

 前回の謎かけは、「将棋には王将と玉将の二つがある。上位者が王将を使い、下位者が玉将使う。もともとは一つであったが、どちらが先にあって、後から誕生したのはどちらか?」です。

 答えは、「玉将です。歩兵があるので王将があると思いがちです。他方、金将と銀将があります。ほかに将のつく駒はありません。金、銀はいずれも宝物ですが、だとするとさらに高価な宝物といえば玉(ぎょく、ひすい)ということになります。なお玉将しかなかったものを王将と玉将に分けたのは豊臣秀吉であるとの逸話があります。

 そもそも、王様と将軍とは異なるので、それを二つ合わせるのもおかしいと思います。

 事象の類似性に着目する思考法をアナロジー思考と言い、未来を予測するための思考法です。これには過去の類似性に着目し、現状から未来を予測する方法と、他の領域の先行する類似性に着目し、未来を予測する方法があります。興味があれば、拙著の『未来予測入門』(*)をお読みください。

 今回の謎かけは、「交通事故死亡者数で愛知県は、2016年から2018年まで全国1位、2019年から2020年は全国2位です。なぜ愛知県では死亡事故が多いのでしょうか?」

 さて前回は今日の状況判断の重要性の高まりについて解説しましたが、今回は、状況判断力は養成できるのかについて解説します。

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▼状況判断力はスキルかセンスか?

ビジネスの世界では「スキル」か「センス」かという議論があります。戦略・戦術、インテリジェンスを語る際にも同様の議論があり、ここでは「アート」か「サイエンス」かという喩えがよく用いられます。スキルはサイエンス、センスはアートに相当します。思考法については論理的思考法と創造的思考法(直観)がありますが、前者はスキルで後者はセンスに該当します。

スキルは分解して数値化・具体化できます。たとえば、学力はスキルなので算数、国語、社会などに分類でき、英語はTOEICで何点といったように数値化できます。しかし、服装センスや人間性などは数値化・具体化できません。大衆を魅了する、異性にモテするのは総合的なセンスがあるというほかありません。

このような両者の違いから、スキルは後天的であって養成が可能とされています。企業などがKPI(重要業績評価指標)などを用いて、社員の能力を分解・評価し、それぞれの指標を定めて人材育成を行なうのはスキルの養成です。一方、センスは先天的なもの、総合的なものであり、センスを養成する確率的な方法はないと一般的によく言われています。

経営者には一般的にスキルよりもセンスが重要であり、社員はスキルが重要とされます。そして、しばしば養成が困難であるセンスをいかに養成するかが論じられます。

▼状況判断力を分解する

では、状況判断力はセンスかスキルのどちらに属するのでしょうか? まず状況判断が統率や指揮の要素であるという視点から考察してみましょう。

統率は統御と指揮に分かれます。統御は組織内の各個人にやる気を起こさせる心理工作であり、指揮官の個性、人格などが影響することが大きいのでセンスです。これには形になった養成法がありません。

一方の指揮は、状況判断、決心、命令、監督などに分類できます。また、米陸軍などがマニュアル化した状況判断のアプローチは、敵の可能行動と我の行動方針を掛け合わせて、賭けゲームの理論を適用して行なう論理的思考法です。

だから、指揮は統御との対比ではスキルです。そして指揮の一要素である状況判断もスキルと言うことができます。だからか、軍隊では戦術教育などを活用して、状況判断が必要な場面を想定し、それを学生に付与して、時間内に判断と決断を行なわせ、それに基づく計画や命令の作成などの訓練を通して状況判断能力や指揮能力を訓練します。

▼状況判断にもセンスが重要

しかしながら、状況判断にセンスの要素がないわけでありません。状況判断の基礎である状況把握に必要な情報の収集だけをとっても〝情報センス〟との言葉があるようにセンスが必要不可欠です。

また、実際には過去の多くの名将は、戦略眼あるいは洞察力ともいえる瞬間的な状況判断力で苦難を乗り越えてきました。このような瞬間的な洞察力や判断力をフランス語で「クードゥイユ(Coupd’oeil)」と言います。ジョミニ中将は「どんなに優れた戦略計画を作れる将軍でも、クードゥイユがなければ戦場で敵を目の前にしたとき、自身の戦術理論を適用することはできない」(松村劭『勝つための状況判断学』)と述べています。

クードゥイユとは第六感、まさしくセンスなのです。第六感であるクードゥイユが養成できるかどうかについては意見の相違があります。ナポレオンは、この才は神から与えられた先天的なものと考えていたようですが、クラウゼヴィッツは、「この才は、先天的に決まるものではなく、経験と教育の積み重ねによって得られるもの」と述べています。

▼ハドソン川の奇跡とは

さて、センスはまったく養成できないのでしょうか?そもそもセンスとは何でしょうか?

高度な状況判断を必要とする職業といえば、真っ先に挙げられるのはパイロットではないでしょうか。坂井優基『機長の判断力』(2009年5月)の中で、2009年1月のチェスリー・サレンバーガー機長が行った「ハドソン川の奇跡」について書かれています。これは2016年に映画化されましたので鑑賞された方もいるかと思います。

 坂井氏の著書は「ハドソン川の奇跡」が起きたわずか4か月後に出版されたました。同事件が本書の刊行の流れを決定づけたと言えますが、坂井氏は常々、サレンバーガー機長と同じような修練を積んでいたから、このような著書を短期間に書き上げることができたのだと考えます。

 以下は同著からの抜粋です。

「2009年1月15日、ニューヨークのラガーディア空港を飛び立ったUSエアウェイズの旅客機1549便が両方のエンジンに鳥を吸い込みました。……エンジンの中心部に吸い込まれた鳥がエンジンの内部を壊し、その結果、両方のエンジンとも推力をなくしてしまいました。チェスリー・サレンバーガー機長は、両方のエンジンが故障したことを知ると、直ちにハドソン川に降りることを決意して実行しました。それによって乗客・乗員155名全員の命が助かりました。この事故では機長の決断と行動が大勢の人の命を救いました。どれ一つを間違えても大事故になった可能性があります。……まず何が一番素晴らしかったのかというと、離陸した元の空港に戻ろうとしなかったことです。機体も乗客も両方無事に着陸させたいというのは、パイロットにとって本能のようなものです。川に降りると決断した時点で、機体の無事は切り捨てなければなりません。

もし、このときに機長が離陸した空港に戻ろうとしていたら、途中で墜落して、乗客・乗員の命が助からなかったのみならず、燃料をたくさん積んだジェット機が地上に激突して、地上にいるたくさんの人も犠牲になったに違いありません。また、機長は着水場所にイーストリバーではなくハドソン川を選びました。……イーストリバーにはたくさんの橋がかかっており、もしイーストリバーを選んでいたら、橋に激突した可能性があります。さらに操縦方法の問題もあります。……着水時の速度も問題です。……これだけの判断をしながら機長は飛行機を止める場所までも選んでいました。このようなケースの際は、船が近くにたくさんいる場所に止めることが素早く救助してもらう鉄則です。今回はまさにフェリーがたくさんいるフェリー乗り場のそばに着水させています。……機長は全員の脱出を確認してから機内を二度見て回り、いちばん最後に自分が脱出しました。……これからどんなことが言えるのでしょうか。いちばん重要なのはよく準備した者だけが生き残るということです。グライダーの操縦を練習し、心理学の勉強をし、NSTB(National Transportation SafetyBoard、国家運輸安全委員会)のセミナーに参加し、日ごろから様々な状況を考えて、頭の中でシュミレーションしていたからこそできた技ではないかと思います。もう一つ重要なのは、切り捨てるという決断も必要ということです。もし飛行機もの乗客も両方救いたいと思えば、結果的に全てを失っていたはずです。……」

▼センスであっても養成はできる部分はある

この記事は「優れた状況判断は平素からの地道な修練の賜物である」ことを如実に物語っています。ただし、機長の優れた状況判断は論理的アプローチにより手順を追って行われたというよりも、咄嗟の総合的な判断であったとみられます。つまり、機長はクードゥイユあるいはセンスを発揮して状況判断を行ない、危機を脱し、乗客の命を救いました。

ここで注目すべきは、機長は常日頃から、身体を鍛え、グライダーのライセンスを取得し、起こり得る危機を想定し、危機が現実となった時に何を判断すべきかをイメージトレーニングしていたという点です。すなわち、常日頃からスキルを磨いていたからこそ、咄嗟のセンスが発揮できたのです。

物事や環境に対するすべての状況判断は論理的思考と創造的思考の併用よると言っても過言ではありません。「結局はセンスが大切」といって、一見小難しい論理的アプローチを一蹴し、感覚や直観だけに頼より物事を処理するではなく、意識して一定の論理的思考法や技法を取り入れることが、全部とは言えないものの相当部分のセンスを磨くことができると考えます。

すなわち、論理的思考法(スキル)の向上が創造的思考法(センス)を活性化し、その相乗効果で状況判断力が高まると考えます。

(つづく)