情報分析官が見た陸軍中野学校(2/5)

中野学校は秘密戦士を育成するために創設されものの、太平洋戦争開始によって、やむを得ず、遊撃戦士の教育も引き受けることになったことなどについて解説しました。今回は「秘密戦とは何か?」を焦点に、秘密戦と遊撃戦との違い、中野学校の創設の経緯や発展の歴史などを解説します。

▼秘密戦とは何か

  皆さんは「秘密戦」という言葉から、どのようなイメージを抱かれますか?

秘密戦の一般的なイメージは、開錠、開封、潜入といったスパイ技術、沖縄戦で行なわれた遊撃戦、登戸研究所(秘密戦研究所)による風船爆弾や偽札の製造、そして第731部隊が関与したとされる生物戦および化学戦などでしょうか。

 森村誠一の『悪魔の飽食』(光文社)の信憑性はともかく、そこに描かれる第731部隊の暴虐性には目をそらしたくなるものがあります。こうして、秘密戦とは絶対に許されない手段をもって、相手側の情報を盗んだり、目的達成の障害となる要人を暗殺したりなどする行為との印象が固まっているようにみられます。

 しかしながら、中野学校では太古の昔から行われてきた情報勤務を秘密戦と呼称しました。つまり、「従来いわゆる情報活動なり情報勤務といわれていた各種の業務、すなわち「諜報」「宣伝」「謀略」「防諜」を総括して、中野学校が創立後しばらくたった頃から「秘密戦」と呼ぶようになった。」(本書引用)のです。

 そして、陸軍や中野学校では秘密戦と遊撃戦を異なる概念として位置づけていました。遊撃戦とはゲリラ戦のことです。軍事行動に連携して、敵後方地域の重要目標などを襲撃、破壊などして、〝主〟である軍事行動の促進を企図します。

 他方、秘密戦は、平時と戦時の両期間、軍事行動とは独立して行われることが一般的です。つまり、軍隊以外の個人または集団が、我の状況を有利にするために、非戦場や一般社会で政治や外交の裏面でも広範多岐に行うことが多々あります。いうならば遊撃戦は「戦いに勝つ」を目的とするが、秘密戦は「戦わずして勝つ」ことを目的とします。

▼中野学校はなぜ創設されたのか?

 第一次世界大戦は総力戦となり、その一つである秘密戦が重視されました。しかし、軍備縮小の世界的趨勢の中で、わが国では総力戦思想は陸軍内の一部に閉塞され、秘密戦を本格的に研究する状況は生まれませんでした。

 1930年代から満州事変へと突入し、ソ連と直接国境を対峙する中、わが国の諜報活動はソ連の鉄壁の防諜態勢により行き詰まります。1936年からの支那事変では、伝統的な「支那通」による和解工作が展開されるものの、ことごとく失敗に帰し、戦争は泥沼化していきます。

 さらに日本国内では共産主義が浸透していきます。2.26事件にも共産主義が影響したとの見方があります。

 こうした中、関東軍やソ連を担任する陸軍参謀本部第5課(ロシア課)では情報活動、すなわち秘密戦を強化すべきとの意識が高まります。また陸軍省軍務局では国内防諜態勢の強化が高まります。そして、防諜態勢を一歩推し進めた対外秘密戦の機能を強化しようとの要請が高まります。これが秘密戦士を育成する学校である中野学校の創設に繋がります。

 しかし、同校の創設に反対する勢力も多々ありました。英米課や支那課が反対の急先鋒だったとされます。中野学校は当初、「替わらざる武官」を養成しようとしたので、陸士出身者で固められていた駐在武官のポストが奪われるかもしれないという危惧もありました。

 だから当初は「後方勤務要員養成所」という名前で、九段下の愛国婦人会別館での仮宿での〝寺小屋方式〟の教育から第1期生に対する教育が開始されました。太平洋戦争が始まる3年以上前の1938年7月のことです。

▼なぜ秘密戦から遊撃戦へ移行したのか?

 中野学校は「替わらざる武官」の要請を目的に、幹部だけの第一期生19人が入校しました。1939年4月、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転し、施設は拡充されます。同年12月入校の二期生からは幹部学生が110人に増え、これに加えて優秀な下士官候補生から選抜された52人が入所しました。これは刻一刻と英米との戦争に向かう日本の状況を反映したものであり、早急な秘密戦対応が必要となったからです。

 1940年8月、「後方勤務要員養成所」は陸軍大臣直轄の学校として、名称も「陸軍中野学校」に変更され、施設や教育内容が急速に整備され、当初の私塾的な体裁から変わっていきます。同時に、中野学校の教育は、「秘密戦を諜報、宣伝、防諜、謀略と定義することとし、防諜については従来の軍機保護法的な考え方から進んで敵の諜報、謀略企図を探知することは固より、敵の企図を逆用する所謂反間謀略業務を重視することとした。占領地行政は秘密戦ではないが、特に陸軍省の要請があったので教育課程に加えた」(本書引用)のです。

 1941年12月から太平洋戦争が開始されます。最初は連戦連勝の勢いでしたが、1942年のミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いを経て、日本は攻勢から守勢に転換し、陸軍参謀本部は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開に踏み切ります。

 これにともない、長期勤務する秘密戦士を養成することを目的として創設された中野学校は遊撃戦士の教育へと軸足を移していきます。1943年8月、陸軍参謀本部は中野学校に「遊撃戦戦闘教令(案)」の起案と遊撃戦幹部要員の教育を命じ、本教令(案)は44年1月に作成配布されました。1944年8月、静岡県磐田郡に遊撃戦幹部を養成する二俣分校が創設され、第一期生226人が尉官学生(見習士官)として9月に入校、約3か月の教育が行なわれました。この中に小野田寛郎がいました。

 他方で本校はそのまま存続して、1945年4月に群馬県富岡に疎開します。このように中野学校は本校と分校の二つに分かれましたが、秘密戦の教育はずっと続けられました。

▼小野田少尉が世間に与えた印象は誤り

 今日では、小野田少尉が世間に与えた印象をもって中野学校そのものであるかのように認識されがちですが、そうした風潮は正しくありません。

 中野学校が遊撃戦教育を引き受けた経緯について、中野出身者の桑原武(戦後は自衛隊陸将補)は戦後の講演で以下のように述べています。

「思うに、陸軍においては一般情報勤務と秘密戦勤務を教える二本立ての学校が本来必要であったのに、最初にできたのが中野学校であったので、戦争に際会して一般情報勤務教育(ママ)の必要に迫られ、中野でこれをやろうということになったのだと思う。しかし、両者は別々にやるのが適当であろうと信ずる。

 こういう所見を鈴木さん(筆者注、研究部長の鈴木中佐)が入れております。このようにして、今申し上げたように遊撃戦ということが昭和十八年の暮れから十九年の春にかけて非常にやかましく、遊撃戦、遊撃戦といいだして、結局中野学校で遊撃戦をやることになりました。しかしあの東京の真ん中の中野では、とても遊撃戦の訓練などできませんので、分校をつくれということで、二俣分校というのができたわけです」(本書抜粋)

 今日、中野学校は沖縄戦での遊撃戦を行った主体組織であるかのように認識されています。しかし、実態は中野学校は止む得ずに秘密戦の教育を引き受けたのであり、しかもその教育は3か月の基礎教育に過ぎませんでした。また、正確を期すならば、中野学校が遊撃戦を実行したのではなく、その実行はあくまでも現地軍(沖縄では第32軍)が行ったのです。

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