情報分析官が見た陸軍中野学校(5/5)

▼中野学校を等身大に評価する

 今日、どちらかといえば中野学校は実態よりも過大、誇大に捉えられています。他方で、中野学校を情報機関や謀略機関として誤認識し、それを各国の情報機関などと比較して「大したことはなかった」と過小評価することもあります。いずれも間違いです。

 中野学校を過大視し、今後の日本の情報組織や情報活動のあり方を模索するには中野学校に学べばよい、などの短絡的思考は禁物です。

 中野出身者や中野教育における優れた点が多々あったことは間違いありませんが、他方で、「中野学校がもう少し早くできれば、太平洋戦争は回避できた」かのような感覚論に基づく過大評価は問題の本質への理解を遠ざけます。

また、根拠に乏しい過大評価は、映画『陸軍中野学校』や小野田少尉にまつわる特殊事例が独り歩きし、中野出身者が北朝鮮情報機関を作ったなどの“都市伝説”や戦後の帝銀事件などの「国家重大謀略事件」に関与したなどの不確かな噂を広める原因にもなります。

だから、中野学校の誤認識を排斥し、現代的教訓を導き出すためには、まずは中野学校を等身大に評価することが必要不可欠なのです。

▼秘密戦の誤解を解く

 今日、秘密戦は中野学校で行なわれていた秘密戦技術、沖縄での遊撃戦、さらには登戸研究所(秘密戦研究所)による風船爆弾、偽札の製造、そして第七三一部隊が関与したとされる生物戦および化学戦など、さまざまに認識されています。

 森村誠一の『悪魔の飽食』(光文社)の信憑性はともかく、そこに描かれる第七三一部隊の暴虐性には目をそらしたくなるものがあり、ベストセラーとして多くの読者に悪辣なイメージを植えつけたことは間違いないでしょう。こうして、秘密戦とは絶対に許されない手段をもって、相手側の情報を盗んだり、目的達成の障害となる要人を暗殺したりする行為との印象が固まってきました。

中野学校や陸軍参謀本部では秘密戦を情報勤務の意味で使用し、それは諜報、宣伝、謀略、防諜の4つからなると定義していました。しかし、今日では秘密戦はさまざまな意味で使用されており、それらの違いを明らかにせず、メディアなどで混同して使用することは禁物です。これが、中野学校のイメージを貶め、現代に少なからぬ負の影響をもたらしています。

 だから私は本書では次のように主張しました。「秘密戦という一つの言葉をもって中野学校、登戸研究所、第七三一部隊が短絡的に連接される。中野学校の教育の一部をもって忌まわしい事実を強調する。秘密戦という後ろめたい隠微な言葉の響きとともに旧軍や中野学校が行なった情報活動が全否定される。このような何もかも一緒に関連づける粗雑な論理の延長線で、今日の情報に関する組織、活動および教育が否定されることだけは絶対に避けなければならない。周辺国が情報戦を強化しているいま、日本がそれらに対抗して本来行なうべき正当な情報活動まで制約を受けることがあってはならない。情報活動は国家が行なう正当な行為である。情報活動そのものを否定してはならないのである。」(本書引用)

▼根拠不明な謀略説を排除する

 さらに許しがたい状況は、書籍や雑誌で中野出身者が暗殺や毒殺、拉致などを働いたなどという記事がまことしやかに流布されていることです。

ただし、毒殺などは教育の中でわずかに教えられただけであり、所要の目的を達成するためには相当の訓練が必要となります。他方で、毒殺といえども、作戦との連接や所望の効果などを考えずに単に実行するだけであれば、当時の一般軍人や知識のある民間人でも実行は可能であったとみられます。

また中野学校では個人目的での謀略の使用は厳しく制限され、国家目的のため、さらにはアジア解放のための謀略に限定すべきであると教育されていました。要するに、さしたる根拠もなしに、安易に謀略事件と関連づけて吹聴すべきではないということを申し上げたいのです。

 中野出身者で御年99歳になられる牟田照雄先生は、筆者の知人でもある鈴木千春氏の取材に対して次のように述べられています。

 「スパイ学校という表現を筆頭に、中野学校を書いた書籍、雑誌は多いが間違いが多い。メディアやマスコミの無責任な憶測から、全く関係がないのに下山事件、白鳥事件まで中野学校にこじつけられ、非常に不愉快です。中野学校には裏切り者も犯罪者もいません。誤解と中傷に怒りを感じます。中野出身者は密かに熾烈に、黙々と国のために尽くしました。間違った情報が独り歩きし、私たちの『誠の精神』が踏みにじられています。これでは戦死した同志の英霊も安らかに眠れない」(本書引用)

 私たちは、牟田先生ほかの“声なき声”を重く受け止め、日本のために戦った英霊を慰め鎮めるためにも、いわれなき風説を排斥しなくてならないと思います。是非とも、できるだけ多くの方々に本書をお読みいただき、誤った認識が流布されることを一緒に防止していただけたらと心よりお願いしたいのです。

▼インテリジェンス・リテラシーの向上を目指して

 本書では組織や国家がインテリジェンス・リテラシーを高めるために秘密戦の研究は排除してはならないと述べました。ただし、これは謀略などの能力を保有せよ、という意味ではありません。諸外国がこれらの情報活動を活発に展開している現状では、防諜の観点からこれらの秘密戦を研究することは必要であるということを申し上げます。

今日、「超限戦」「ハイブリッド戦」「マルチドメイン作戦」など呼称はさまざまですが、平時と有事、正規と非正規、戦略と作戦・戦術のグレーゾーンでの戦いが注目されています。そして、わが国に対するかかる脅威が確実に高まっています。

ハイブリッド戦などの原点は秘密戦であると言ってもよいでしょう。今日、現代的視点で著されたハイブリッド戦などの関連書が陸続と刊行されています。

もちろんこのような関連書を参考にすることも重要ですが、私はその原点である秘密戦を今一度研究する意義が大きいとみられます。

本書では第1次世界大戦後の総力戦思想の誕生の中で、諸外国が秘密戦で火花を散らし、わが国も遅ればせながら秘密戦を重視した経緯についても詳述しています。ここには、なぜわが国が秘密戦で敗北したのかの原因を特定するヒントを掲載しています。

今日のハイブリッド戦への対応についても、かつての日本国あるいは日本人の宿痾(しゅくあ)ともいうべきある脆弱性を抱えているとみられます。つまり、秘密戦に関する歴史的検証を欠いた現代の視点だけの対応だけでは、某国からのハイブリッド戦などに対応することはできないと考えます。

 第二に、批判的思考で発信者の意図を推測することの重要性について強調しました。現在、さまざまな政治的意図を持った著書が出版されていますし、中野学校関連書の中にも真偽の怪しい情報が氾濫しています。

インターネット上ではフェイク・ニュースが氾濫しています。こうしたなか、我々には真実を選り分ける判断力が一層重要となっています。

 本書では、報道や記述に対して冷静に分析し、発信者の意図はどこにあるかを見極めることが重要になっています。本書では、3つの「問い」をもって情報(インフォメーション)を客観的かつ批判的に見ることがフェイク・ニュースに惑わされないための秘訣であることを述べました。

 こうした批判的思考を各人が身に着けることが、国家や組織のインテリジェンス・リテラシーを高める重要な一歩となると思います。

第三に、インテリジェンス・サイクルを確立することの必要性について強調しました。

 日本は米中ロという大国に囲まれ、かつ多くの資源を諸外国に依存しており、地政学的に見れば、日本ほど世界情勢を的確に見通す情報力が必要とされる国はありません。現代は不確実で先が見通せない時代にあって、インテリジェンスの重要性はますます高まっています。

中野学校が創設された当時も支那事変の泥沼化、欧州情勢の緊迫化、共産主義の浸透と国内テロの増加など、不透明な時代でした。

 こうしたなか、中野関係者は、将来を見据えて、海外情報要員の育成を決意し実行に移しました。彼らの決断力と行動力を教訓として、現在の国家組織や民間企業がインテリジェンスの重要性を認識し、良好なインテリジェンス・サイクルを確立していただきたいと思います。

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