情報分析官が見た陸軍中野学校(4/5)

▼中野学校とスパイは映画の幻影

 中野学校の精神綱領には次のように書かれていました。「秘密戦士の精神とは、尽忠報国の至誠に発する軍人精神にして、居常積極敢闘、細心剛胆、克く責任を重んじ、苦難に堪え、環境に眤(なず)まず、名利を忘れ、只管(ひたすら)天業恢弘(てんぎょうかいふく)の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」(本書引用)

 中野学校の教官であった伊藤貞利は精神綱領を次のように解説しています。

 「精神綱領による秘密戦士の精神とは君国に恩返しをするために私心をなくして命を捧げるという『まごこころ』から出る軍人精神である。常日頃、ことを行うにあたっては積極的に勇敢に、こまかく心をくばると同時に大胆に、責任を重んじ、苦難にたえ、自主性を堅持し、物心の欲望を捨て去り、ひたすら世界人類がそれぞれ自由に幸せに生きることができる世界をつくるという天業を押し広める土台石にとなることに満足し、たとえ自分の肉体は滅びても、精神は普遍的な大きな道義の実現を通して悠久に生きるということである」(本文引用)

太平洋戦争の中期以降、中野学校の教育は秘密戦士から遊撃戦士の育成に大きく舵を切ることになりますが、「秘密戦士として名利を求めない」という一期生の精神は代々受け継がれ、中野教育の伝統になりました。

秘密戦も遊撃戦も突き詰めれば孤独な戦いです。だから、人間の真心の交流という精神要素が求められるのです。

軍人には命を賭して国家・民族の自主自立を守るという崇高な使命があり、それにふさわしい栄誉が与えられます。

しかし、秘密戦士には軍人としての栄誉は与えられず、任務の特性上、その功績を表に出せず、時として犯罪者の汚名を着せられ、ひそかに抹殺される可能性すらあります。

 さらに中野出身者には残置諜者として、「外地に土着し、骨を埋める」ことが求められました。親の死に目にも遭えず、自身も人知れずに死んでいく運命にあったのです。だから、精神綱領では「環境に眤まず、名利を忘れ」の精神が謳われました。

 戦争末期の学生が受けた精神教育の大綱は「一、謀略は誠なり」「二、諜者は死なず」「三、石炭殻の如くに」の三つでした。まさに「石炭殻の如く」人知れず、「悠久の大義」に生きるための精神を涵養する教育が行なわれたのです。

▼生きて生き抜いて任務を果たす

 上述の「諜者は死なず」について解説を加えます。戦陣訓では、「生きて虜囚の辱めを受けず」と述べられています。しかし、秘密戦士は任務を達成するために「生きて生き抜かなければならない」と教えられました。これは武士に対する忍者の心構えと類似しています。

 一期生に忍術を講義した藤田西湖は次のように語ったといいます。

 「武士道では、死ということを、はなはだりっぱなものにうたいあげている。しかし、忍者の道では、死は卑怯な行為とされている。死んでしまえば、苦しみも悩みもいっさいなくなって、これほど安楽なことはないが、忍者はどんな苦しみをも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、ころげてでも敵陣から逃げ帰って、味方に情報を報告する。生きて生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ」(本書引用)

 また、二期生の原田統吉は以下のように述べています。

「『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓の言葉を地上白昼の正規戦争の戒律だとすれば、秘密戦の戒律はちょうどそれを裏返したものだと考えていいでしょう。『生きろ、あくまでも生きて戦え、虜囚となろうとも生きて戦いの機会を狙え、恥を恐れるな、裏切者の汚名を着たまま野垂れ死することさえも甘受して、真の大目的のために戦い尽くせ、手がなくなれば足で、眼がなくなれば歯で……命尽きるまでは戦え』というふうに言っても言いつくせないような<強靭な戦いの精神>が要求されているのです。(本書引用)

 このように、「生きて生き抜く」、これが中野学校の精神教育の本質であったのです。

▼楠公精神の涵養

 精神教育は学生隊長や訓育主任などによる「精神訓話」と「国体学」に分けられますが、主体は国体学でした。その国体学とは、わが国の由緒正しい国家の体制を歴史的に考察する学問です。

 国体学では以下の試みがなされました。

○楠木正成を秘密戦士の精神的理想像として、楠公社を建て、朝夕ここに参拝し、自己反省する

○記念館(室)を設け、明治以来の先輩、秘密戦士の遺品・遺影、その他の関係資料を掲げて、ここを講堂にあてて、自習を促す

○教育に加えて、国事に従事した先烈の士の遺跡を訪ね、現地で精神的結晶の総仕上げとする

 記念室は畳敷きで、学生たちはそれぞれ小さな机に向かって、座布団なしで正座し、国体学を受講しました。吉田松陰が塾生に講義するスタイルがとられました。

 中野学校の国体学の教官であった吉原政已は「自分は和服だし正座は慣れていたが、学生諸氏は窮屈な背広を着用し、若くて張り切った大腿であったから、不慣れな正座は苦痛そのものであったろう。…

…私は、何の躊躇もなく正座を要求した。正座の苦痛のために、私の講義が耳に入らないこともあるのは、十分考えられることであったが、それでもあえて正座講義を行った。人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受け入れる方が大事と信じて疑わなかったからである」(本書引用)と述べています。

精神の鍛練は耳学、目学だけではなく体全体で受け入れる。これは今日では物議を呼びそうですが、私はわが国の修行の歴史などから深い意味があると思います。

▼誠の精神の涵養

 現地研修では吉野、笠置、赤坂、千早、湊川、鎌倉などの楠木正成のゆかりの地への訪問が実施されました。楠木正成は後醍醐天皇に仕え、鎌倉時代末期の「建武の新政」に貢献した天才武将です。

正成の生き様を通して学ぶ精神とは「誠の精神」です。つまり、正成の嘘や混じりけのない、一途な天皇への忠誠から誠の精神を学びました。

教官の吉原は次のように述べています。

 「防諜・諜報・宣伝・謀略などという、尋常でない工作だけに、これにたずさわる精神の純度が、問われるのである。不純な動機による権謀ほど、醜くして憎むべきものは無い。中野学校において、『秘密戦は誠なり』と強調されたのは、まことに当然のことであった」(本書引用)

「誠」は秘密戦士に限らず、軍人全体に求められました。ただし、中野学校では次の点が異なりました。

 「(軍人教育で行なわれた)『誠』の発露は天皇陛下に対してであり、拡大した場合でも日本国民が最大範囲であったと思われるのに対して、8丙が教えられた『誠』はその範囲が異民族まで拡大しており、一見『誠』とは正反対に考えられる謀略でも『誠』から発足したものでない限り真の成功はないと教えられた」(本書引用)

時代の要請により、中野出身者にはアジア民族を植民地より解放し、その独立と繁栄を与えることが任務に課せられため、「誠」の範囲は異民族まで拡大されたのです。

中野出身者は、現地人への愛情と責任から、みずからの現地軍に身を投じる者すらあったといいます。また、戦後になっても、インドや東南アジア諸国の住民との交流が続いたといいます。このことは、戦時中に異民族に示した行為や愛情は、心底「誠」から出たもので、決して一片の謀略や一時的な工作手段から出たものでなかったことを実証して余りあるのではないでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA