わが国の情報史(35) 昭和のインテリジェンス(その11)      -日中戦争から太平洋戦争までの情報活動①-     

▼はじめに

さて、前回は、軍閥間の対立などによって2.26事件が起こったことを述べました。今回から日中戦争と第二次世界大戦に移ることにする。すでに第二次世界大戦については、〝情報の渦〟というくらい多くのことが語られている。だから、ひとつひとつの戦闘の局面を取り上げて述べるのではなく、当時の防諜体制、陸軍中野学校、秘密戦など、歴史の教科書や、通常の戦史書では触れられていないことを中心にざっと述べることにしよう。

▼2.26事件により統制派が台頭  

2.26事件が発生し、岡田啓介内閣は総辞職した。陸軍の皇道派に属する重鎮は軒並み予備役に編入された。これら皇軍派の左遷人事を行ったのが、軍務局軍事課の武藤章中佐(後述)と参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐であった。    

彼らは、相沢中佐に刺殺された永田鉄山が率いてきた「一夕会」のメンバーであり、統制派である。つまり、2.26事件により、統制派が皇道派を完全に一掃した。

ポスト岡田内閣について、最後の元老であった西園寺公望は当初、近衛文麿に組閣を命じたが、近衛は病気を名目に辞退した。そのため、斎藤内閣から岡田内閣まで外務大臣であった広田弘毅(ひろたこうき)にお鉢が回った。広田も就任を拒み続けたが、やっとのことで承諾した。

かくして、1936年3月9日、初の福岡県出身の総理広田による内閣が成立した。陸軍大臣には寺内寿一(てらうちひさいち、シベリア出兵時の寺内正毅総理の長男)が就任したが、これも武藤と石原の背後での根回しが功を奏した。

寺内は入閣を打診された際、1913年に山本権兵衛内閣で廃止された「軍部大臣現役武官制」を復活させるよう迫り、外相に予定されていた吉田茂を外させるなど、入閣と引き換えに組閣に対して容喙した。

「軍部大臣現役武官制」とは、陸軍大臣、海軍大臣は現役軍人でなければならないというものである。つまり、軍部のお墨付きがなければ組閣ができないことを意味し、政治に対する軍部の影響力が増大することになった。 このことが、やがて統制派のトップに君臨した東條英機による陸軍大臣、さらに内閣総理大臣への就任、そして太平洋戦争へと連接する道に向かわせることになった一要因とみられている。

▼3国防共協定の締結

当時、世界的にはドイツのナチズムとイタリアのファシズムが台頭していた。我が国においては「利権拡大のためドイツと軍事同盟を結ぶべし」との強硬論と、「戦争に向かいつつある欧州とは関わり合いを持たないほうが良い」とする慎重論に分かれた。広田は慎重論であった。

他方でソ連を中心とする国際共産主義運動も活発化していたことに対して多大な懸念があった。そのため、広田内閣は1936年11月にドイツとの日独防共共協の締結に踏み込んだ。ただし、欧州の情勢に巻き込まれる軍事条約の締結には反対し続けた。

翌1937年11月、イタリアがこれに参加し、日独防共協定は日独伊三国防共協定となった。かくして、わが国はドイツ、イタリアと反ソ連の立場で結束し、枢軸陣営を結成し、連合国との対立を鮮明にしていくのであった。

▼政権交代を繰り返し、混迷する日本政治

軍部と政党の対立のなかで、広田首相は指導力を発揮できず、組閣から1年もたたずに1937年1月23日に総辞職する。広田内閣の後には、宇垣一成を推す声が強かったが、宇垣が行った軍縮に恨みを持つ軍部の反対で、これは実現しなかった。

結局、2月2日に予備役大将の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)による内閣が成立した。 林内閣も、政党からそっぽを向かれて、同年6月4日に総辞職した。林内閣は短命で特に何もしなかったことから、林の名をもじって「何にもせんじゅうろう内閣」と皮肉られた。
こうした短命内閣の背後には、「軍部大臣現役武官制」を通じた軍部からの圧力の存在があったとみられている。

林内閣の後には第一次近衛文麿内閣が誕生した。 新鋭47歳の近衛公は、身長180cm以上で容姿端麗、国民人気は高く軍部および政財界からも大歓迎を受けた。また、近衛はパリ講和会議の前年「英米本意の和平思想を排す」という論文を発表し、1932年(昭和8)1月、年頭談話では、満州国の正当性を否定するリットンへの反対意見を発表するなど、軍部の革新思想と一脈通じるものがあった。

しかし、近衛は思いつきとみられるよう浅薄な発言を繰り返し、国政を混乱させ、軍部からはすぐに見限られる。また、近衛は尾崎秀実(おざきほつみ)やリヒャルト・ゾルゲとの個人的関係が取り沙汰される、彼自身が共産主義者と見られたり、要を得ない人物であった。

▼盧溝橋事件から支那事変が勃発

第一次近衛文麿内閣成立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国の衝突事件が起きた。いったんは現地で停戦協定が成立して、近衛内閣は不拡大方針を表明したが、軍部の圧力等により、兵力を増派して戦線を拡大することになる。  

参謀本部・作戦(第1)部長の石原莞爾少将は「陸軍総動員兵力30ケ師団中、日本が中国作戦に使用し得る兵力は対ソ戦備上15ケ師団(全兵力の1/2)でなければならないが、その兵力では到底広大な中国大陸を制し得られない」 と主張し、事変の不拡大を支持した。

石原は、現地の第一線のわが軍を北支一帯より撤収すべきだと考え、近衛総理が自ら南京に赴き、蒋介石と直接会談して時局の収拾にあたるべしと強調した。

しかし、軍中央部においては作戦部、第2部(情報)ならびに軍務局(陸軍省)内において事件拡大積極論を叫ぶ者があった。結局、石原はこうした軍部の圧力に屈する形で、7月10日、3個師団の動員派遣に同意するに至った。これが強硬論に拍車をかけた。

▼強硬論の中心人物、武藤章

石原は1931年の満州事変で、中央政府の不拡大方針を遵守せずに拡大を図った。だから、石原は部下の軍務課長の武藤章大佐以下の中堅幹部の積極論を押さえられなかった。

強硬論の中心人物である武藤章はのちに中将職でただ一人、A級戦犯で処刑された。武藤は1935年以降に関東軍によって推進された、華北(チャハル、綏遠、河北、山西、山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする「華北分離工作」の起草者である。

石原が中央の統制に服するよう、武藤の説得に来た際に、「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と得意の毒舌で反論して同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

武藤は2.26事件の善後処置において、石原と共に最も厳重な厳粛法案を立案して、これを実行に移した。この時以来、武藤は統制派の重鎮として影響力を持った。

盧溝橋事件が起きると、蒋介石政府を侮る武藤(この時参謀本部の編制課長)として「中国一激論」を唱え、田中新一・東條英機ら統制派の勢力を後ろ盾に石原ら不拡大派を追放(喧嘩両成敗で武藤も参謀本部を去るが、のちに軍務局長として復活)、近衛文麿内閣による日中戦争拡大と日独伊三国同盟に主導的役割を果した。

盧溝橋事件の現地部隊は事態不拡大の意向であったが、日本政府が軍の一部の圧力に影響され、事態が拡大し、日中全面構想から太平洋戦争に至った。 この点に関して言えば、満州事変が出先の関東軍の主導によって、中央政府の不拡大方針を遮って拡大路線を向かったことと線対称であった。

わが国の積極攻勢に対して、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面闘争に発展した。すなわち、泥沼の日中戦争へと発展した。

1937年9月には国民政府と共産党が再び提携し(第二次国共合作)、抗日民族統一戦線を樹立した。日本はつぎつぎと大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を占領した。国民政府は南京から漢口、さらに奥地の重慶に退いて抗戦を続けたので、日中戦争は泥沼の長期戦となった。

▼第二次世界大戦が勃発

欧州では、ナチス・ドイツが積極的にヴェルサイユ体制の打破に乗り出し、以下のとおり着々と支配権を拡大した。

・1938年3月、オーストリアおよびチェコスロバキアを併合

・1939年4月、ポーランドとの不可侵条約(1934)を破棄

・1939年9月1日、ポーランドに侵攻

これに対し、イギリス、フランスが1939年9月3日、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。 ドイツ軍の侵攻に触発され、ソ連もポーランドに侵攻した。両国は独ソ不可侵条約(1939年8月)にもとづき、ポーランドを分割した。 ソ連は1939年11月にフィンランドに侵攻、1940年にはフィンランドから領土を割譲、ついでバルト三国を併合した。

▼世界を驚愕させた独ソ不可侵条約

ソ連に対し、ドイツはのちの1941年6月22日に攻撃を仕掛けることになるが、大戦直後のドイツの攻勢は、良好な対ソ関係に支えられた。ドイツはソ連に接近することで東部戦線を安定させ、西部戦線に戦力を集中したのである。

両国の良好関係を示す最たるものが、1939年8月の独ソ不可侵条約である。イデオロギーを対立させ、個人的に〝犬猿の仲〟といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだのであるから、世界中に衝撃が走った。  

ヒトラーは1933年の政権奪取以降、イギリスとの対立を回避する外交政策を展開していた。しかし、駐英大使時代に反英感情を強めていたリッベントロップ外相は、はやくも独・伊・日・ソによってイギリスに対抗する構想を固め始めていた。1938年1月、彼はヒトラーによる反英構想の覚書を提出した。こうした反英構想が、次第にドイツを対ソ懐柔政策へと向かわせたのであった。  

1939年4月、ヒトラーはポーランドとの不可侵協定とイギリスとの海軍協定を破棄し、イギリスに対決する意志を明確にした。他方、イギリスはソ連に対して「平和戦線」への参加を求めた。ソ連は参加の条件として、英・仏・ソの三カ国による軍事同盟の締結を求めた。しかし、英仏側はそれに応じなかった。  

ソ連側の提案に、チェンバレン英首相が否定的な態度を示したことで、スターリンは、ソ連だけがドイツとの戦争に巻き込まれ、英仏がそれを傍観するという最悪の図式を懸念した。  

そこで、ソ連はドイツとの接触を開始した。ドイツのリッベントロップ外相がソ連のモロトフ外相がその交渉にあたった。モロトフがドイツとの接近に消極的であると見るや、ドイツは大胆な手を打った。

1939年8月14日、「ポーランドを含めた東欧をソ連と分割する用意がある」ことをヒトラーが表明した。同時に、リッベントロップ自らがモスクワに飛んで交渉することを申し入れたのである。  

ソ連側は、こうしたドイツ側の対応を〝誠意〟と感じ取った。8月15日、モロトフは独ソ間の不可侵条約について提案を行なった。 ヒトラーにとってこの提案は望むところであった。なぜならば、ソ連を戦争圏外に置いて安心してポーランドを攻撃できるのみならず、英仏の行動を相当委縮できるからである。かくして、8月23日、世界が驚愕する独ソ不可侵条約の成立と相成ったのである。  

▼早くも情報戦に敗北する日本  

上述のとおり、広田内閣は、ソ連の共産主義拡大を警戒し、日独防共協定、次いでを締結し、日・独・伊三国防共協定を締結した。 一方、1937年7月以降の日中戦争の勃発によって、極東のソ連が最大の軍事的脅威となった。

そして1938年7月、満洲国に駐屯して対ソ国境を警戒する日本陸軍はソ・満国境不明地帯においてソ連軍と衝突(張鼓峰事件)した。さらに、日ソの緊張度は高まり、1939年5月には、満洲国西部とモンゴル人民共和国の国境地帯で、ノモンハン事件が生起した。なおこの戦いではソ連の大戦車軍団の前に日本陸軍は大打撃を受けたのである(ただし、少ない戦力で対戦車戦闘ではソ連よりも優位な戦いをしたとの説もある)。  

こうしたなか、ドイツはソ連に加え、英仏を仮想敵国とする軍事同盟を締結することを日本に提案してきた。わが国は「同盟を結ぶべきか否か」について、何回となく会議を開くものの結論が出せなかった。そうこうしているうち、1939年8月、突如、独ソ不可侵条約が締結されたのである。   この条約の締結は、わが国がノモンハン事件を戦っている最中の出来事であり、ソ連を仮想敵国として進めてきたわが国とドイツとの同盟関係が根底から揺さぶられるものだった。 これを契機に、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なり」との有名な言葉を残し、国際情勢の急変に対応し得ないとして総辞職した。  

日本は、独ソの接近がまったく読めなかった。これに対して、ソ連情報機関(クリピッキー機関)の諜報活動により、日・独防共協定をめぐるベルリンと東京の極秘電報をスターリンに筒抜けになっていた。(三宅正樹『スターリンの対日情報工作』) つまり、当時の日本の情報関心は、直接対峙する中国、あるいは北方の極東ソ連だけに限られてはならなかった。すなわち世界の情勢推移を多面的に見る目が必要であった。

日本は、中国戦線における優勢に浮かれ、狭窄症にかられて、国際情勢をみる目も持たなければ、暗号解読をめぐるソ連との情報戦にも完敗したということになる。すでに、太平洋戦争における情報戦の敗北は始まっていたのである。

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