わが国の情報史(20-前段) 日露戦争の勝利の要因その2 -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール

前回から日露戦争における勝利の要因についてインテリジェンスの視点から考察しています。 前回においては、兵法家の大橋武夫氏の説を取り上げ、以下の6つの勝利の要の同盟に焦点を当てた。

(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

今回は、(2)の金子堅太郎の活躍を中心に、若干(3)の高橋是清の活躍についても触れつつ、日露戦争の勝利の要因を考察する。

日露戦争に向けた政治指導体制

日清戦争後、桂太郎(1848年~1913年)は第三次伊藤内閣(1898年1月~同年6月)で陸軍大臣として初入閣し、その後も出世街道を驀進した。 そして明治34年(1901年)6月、第一次桂太郎内閣が誕生することになる。

この内閣は、海軍大臣・山本権兵衛(1852年~1933年)と陸軍大臣・児玉源太郎(1852年~1906年)の留任を除いては、その他は初めて大臣になるという官僚が大半であった。 しかも、その多くが内務省出身の山県(有朋)閥の官僚であったため、世人は「小山県内閣」「第二流内閣」と揶揄した。 しかし、この桂内閣が日露戦争を戦い、わが国の歴史上の大勝利をもたらしたのである。

桂は1901年9月に小村寿太郎を外相に起用して日英同盟の締結を目指した。二人にとって、その先にあるものはロシア問題の解決にほかならなかった。 当時、ロシア問題をめぐっては日本政府内では山県、桂、小村らの対露主戦派と、伊藤、井上馨らの戦争回避派との論争が続いていた。 桂はこれらの元老たちの意向を汲み、微妙に調整しつつ、わが国の生存・発展戦略を模索しなければならなかった。  

1902年に成立した日英同盟を背景に山県・桂らの主戦派は、伊藤らの戦争回避派に対する分裂工作を仕掛けるなど、政界における影響力の増大に努めた。 1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山県の別荘で両派による対ロ方針に関する会議が行われた。

この会議において桂は、満洲に対してはロシアの優越権を認める、そのかわりに、朝鮮においては日本の優越権を認めさせる、これらが貫徹できなければ戦争も辞さない、との対ロ交渉方針を掲げ伊藤と山県の同意を得た。

しかしながら、桂の予測どおりともいうべきか、ロシアの南下政策は一向にとどまることない。ついに1904年(明治37年)、桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月4日に日露戦争の火ぶたが切って落とされることになる。

日露戦争に向けた軍事指導体制

他方、日露戦争までの軍事指導体制に焦点をあててみることにしよう。1998年に川上操六(1848年~1899年)が参謀総長に就任し、作戦を司る第一部長に田村怡与造(1854年~1903年)、情報を司る第二部長に福島安正(1852年~1919年)を登用した。これにより作戦と情報の両輪体制が整い、ロシアとの対立を視野においた軍事指導体制が確立された。

しかし1899年5月に頼みの綱であった川上操六が急死する。まさに日本は“飛車堕ち”の危機的状況に瀕した。その応急的措置として、長老の大山巌(1842年~1916年)が参謀総長に就任し、同次長には寺内正毅(てらうち まさたけ、1852年~1919年)が就任した。

ただし、参謀本部の実権は徐々に川上の申し子である田村へと移っていく。田村は1900年4月に陸軍少将に進級し、第1部長兼ねて参謀本部総務部長となり、その存在感を陸軍内にとどろかせていた。

一方、第一次桂内閣において陸軍大臣に留任した児玉は、1902年3月に陸軍大臣の職を解かれ、まもなくして内務大臣に転任した。 その陸軍大臣の後任には参謀本部次長の寺内が就任した。これにより、1902年4月、田村が寺内の後任として参謀本部次長に就任した。つまり、ロシアに対する軍事作戦の責任が田村に任されたのである。

田村自身は、大山総参謀長と同じく日露開戦には慎重であったが、ロシアとの戦争を想定して戦略・戦術を練った。これが、まもなく生起する日露戦争において功を奏したことはいうまでもない。 しかし、その田村も川上と同様に過労のため、日露戦争開戦の前年の1903年10月に死去してしまうのであった。享年50歳であった。なお、田村は同日に陸軍中将に進級した。

川上、田村という陸軍の英傑を相次いで失ったわが軍の憔悴振りは、いかばかりであったろうか? この“火中の栗”を拾うとばかりに立ち上がったのが児玉である。児玉は内務大臣から二階級降格(親任官から勅任官の下の奏任官)の形で(ただし、親任官の台湾総督を兼任したままであったので実質的な降格ではなかった)して参謀本部次長に就任した。

田村と違って児玉は日露開戦の積極派である。当時、田村と海軍の山本権兵衛はそりが合わなかったが、児玉が参謀本部次長に就任したことで、陸・海において協同の気風が生まれ、日露開戦へと一歩近づくことになる。 日露戦争の開戦の直後の1904年2月11日、陸軍参謀本部のほぼそのままの陣営を維持して、戦時大本営が設置された。大本営参謀総長には参謀総長の大山(元帥)、同次長には児玉(大将)が就任した。

一方、現地の作戦指揮を一元的に行うことを狙いに1904年6月に満州軍総司令部が設置された。その総司令官には参謀総長であった大山があてられ、満州軍総参謀長には児玉が就任した。 そして、高級参謀として作戦を司る第1課の課長に松川敏胤(参謀本部第1部長、歩兵大佐)、同主任に田中義一(歩兵少佐、のちの総理大臣)、情報を司る第2課の課長に福島安正(同第2部長、少将)、後方を担当する第3課の課長に井口省吾(同総務部長、少将)が就任した。

また、大山及び児玉の満州軍への派遣により、大本営総参謀長には山県有朋(1838年~1922年)、同次長には新たに長岡外史(1858年~1933年)が就任した。

わが国は「6分4分」の勝負を戦略とする

事前に「勝利は間違いなし」と判断した日清戦争とは異なり、日露戦争では明治天皇は戦争決断に際して落涙されたと伝えられている。当時のロシアは、日本の約10倍の国家予算と軍事力を誇り、国際の見方はロシアの圧倒的な有利であった。

相澤邦衛『「クラウゼヴィッツの戦争論」と日露戦争の勝利』では、次のように述べている。 「日露戦争当時のわが国の指導者は、ロシアと日本との国力差を認識し、完全勝利はできないし、長期戦になれば、日本に勝ち目がないと判断していた。 そこで、ロシア軍の情勢を分析するなかで、開戦時期を「シベリア鉄道が完全に完成せず、欧州ロシアから送られてくる同国の満州派遣軍の主力が到着する以前とする」とした。

そして日本側の条件は、「武器弾薬の自前生産が可能な大阪砲兵工廠などの軍需工場の完成、八幡製鉄所等工業力の充実、袁世凱の協力を得ての豊富な資源を埋蔵する満州からの石炭の調達、など戦闘準備を終えてから日本軍は一挙に大軍を韓半島・満州へ兵力を送るべく、戦場予定地への動員体制をとっていく。

そして満州において日本軍が優勢な内に、宣戦布告と同時に緒戦において一気に満州在住のロシア軍を撃破しておく」という練りに練った作戦構想を立てた。」 つまりわが国は、敵の準備未完の好機を捕捉し、ロシア側を上回る大軍を要事要点に集中して緒戦において勝利する。

これにより、国際世論において日本の地位を高めて、戦争遂行に必要な外債募集を容易にすることを狙ったのである。 児玉源太郎・満州軍総参謀長の腹積もりは短期決戦、すなわち「6分4分」の勝負に持ち込むというものであった。そこで児玉は、開戦と同時に盟友の杉山茂丸や中島久万吉(桂太郎首相秘書官)に終戦工作を依頼した。 奉天会戦の勝利後は、児玉は元老や閣僚たちに対して終戦を説いて回った。

戦略的インテリジェンスの勝利

開戦とともにわが陸軍は連戦連勝して北進し、1905年3月には奉天会戦で大勝利を得た。しかしながら、大局的にみれば、ロシア軍は外国領内を約300キロ後退させたにすぎず、軍そのものも致命的な打撃は受けていない。

1905年5月27日の日本海海戦の完勝により、わが海軍は見事に大挙来攻するバルチック艦隊の進撃を粉砕して、ロシアの戦意を挫折させた。しかし、進んでその首都を占領するまでの力はわが国にはなかった。

つまり、わが国はロシア領土内に一寸も侵攻しておらず、米国による和解仲介によってやっとのことで辛勝したのである。 そのため、戦争の緒戦に勝利して有利な体制で終戦に持ち込む、それが、わが国の国家戦略であった。ここには「戦わずして勝つ」「計量的思考」「速戦即決」を信条とする「孫子兵法」が縦横無尽に応用されたとみるべきであろう。

それにもまして、こうした戦略を可能にならしめたのが的確な情勢判断であった。当時の指導者はロシアを取り巻く国際情勢を知悉し、「世界列強は日露両国のいずれが勝ちすぎても、負けすぎても困る」という事情を的確に判断していた(大橋武夫『統帥綱領』)。

的確な情勢判断を支える唯一無比なものが戦略的インテリジェンスである。わが国は、そのインテリジェンス能力を過分なく発揮し、英国との同盟をよく維持し、米国を和解仲介へと引き摺り込んだのであった。

金子賢太郎の終戦工作

金子堅太郎
1853~1942

政治と軍事の連携という点では、金子堅太郎(かねこ けんたろう、1853年~1942年)の活躍が特筆される。 金子は明治の官僚・政治家である。彼は1871年、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、のちの三井財閥の総帥となる團琢磨(だんたくま,1858~1932)とともに米国に留学した。彼が18歳の時のことである。

1878年9月、金子は25歳で帰国する。その後まもなくして、内閣総理大臣・伊藤博文の秘書官として、伊東巳代治(いとうみよじ,1857~1934年)、井上毅(いのうえこわし,1844~1895)らとともに大日本帝国憲法の起草に尽力した。

彼は伊藤博文から厚く信頼され、第2次伊藤内閣の農商務次官、第3次伊藤内閣の農商務大臣、第4次伊藤内閣の司法大臣を歴任した。 また教育者でもあり、日本法律学校(現・日本大学)の初代校長を歴任した。

金子は米国に留学して、はじめはボストンの小学校に入学するが、飛び級で中学に進学し、最終的にハーバー大学で法学士の学位を受領した。 ハーバードにおける修学では、のちの外務大臣となる小村壽太郎(1855~1911)と同宿し勉学に励んだ。

またハーバード大学における修学が縁で、日露戦争時の米大統領となるセオドア・ルーズベルト(1858~1919)の知己を得ることができた。 ルーズベルトも同大学の卒業生であり、のちに彼が弁護士となり日本を訪れた時に二人は知り合い、金子が議会制度調査のために再び渡米するなどして、両者は厚く親交を結ぶようになった。

上述のようにわが国の戦略は、「緒戦勝利、早期終戦」であったため、第3国に終戦工作をおこなわせることが課題であった。その命運を枢密院議長の伊藤博文によって託されたのが、ルーズベルト大統領にもっとも親しい日本人であった金子であった。

金子は、伊藤の説得を受けて日露戦争勃発の直後に単独で渡米した。彼は日露戦争終結後のポーツマス講和会議(1905年8月)が終了する1905年10月までずっと米国に滞在して、ルーズベルト大統領に常に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく親日世論工作を展開した。 ポーツマス会議においては、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求めて講和の成立に貢献した。

金子の米国における大活躍

この時の金子の活躍振りは、前坂俊之著『明治三七年のインテリジェンス外交』(祥伝社新書))に詳述されている。 そのなかからいくつかのエピソードを拾ってみたい。

・日露戦争の開戦を決定した御前会議を終えた伊藤博文は、官邸に帰ると、すぐ電語で腹心の金子堅太郎(前農商務大臣、貴族院議員)を呼んだ。  伊藤は「ついに開戦が決まった。戦争は何年続くかわからない。私も鉄砲かついでロシア兵と戦う覚悟だ。君は直ちにアメリカにとび、親友のルーズベルト大統領に和平調停に乗り出すよう説得してもらいたい」と告げた。

・密命を帯びた金子は(1904年)3月26日、ホワイトハウスに大領を訪ねた。数十人の客が待っていたが、大統領は自ら廊下を走って出てきて「君はなぜもっと早く来なかったか。僕は待っていたのに」と肩を抱きあって大喜びし、執務室へ招き入れた。 開口一番、「今回の戦争で米国民は日本に対して満腔の同情を寄せている。軍事力を比較研究した結果、必ず日本が勝つ」と断言したのには金子の方が驚いた。

・金子はルーズベルト大統領、ハーバード人脈をフルに活用して、全米各地を回って世論工作、外債募集にと獅子奮迅の活躍が見せた。ルーズベルト大統領も「日本の最良の友!」として努力することを金子に約束した。

・全米での日露戦争への関心は高く、金子は政治家、財界人、弁護士、大学人らのパーティーなどに引っ張りだこで、講演依頼が殺到する。英語スピーチの達人の金子は大聴衆を前に日本軍の強さ、武士道精神を説明して感銘をあたえ、日本びいきを増やしていった。

・〝勝った、勝った〝の日露戦争も38年3月10日、奉天での勝利までが限界。弾薬も尽き果てて、兵隊も金もなく、戦争継続はもはや困難な状況となった。一方、ロシアは強大な兵力、武器を温存、これ以上戦えば日本はひとたまりもない。 参謀総長・山県有朋は絶体絶命のピンチを桂首相へ報告し、ル大統領の和平調停の望みを託した。大統領はここぞと腰を上げて仲介、ポーツマス会議となった。仲介役の大統領は「日本の弁護士のようだ」といわれるほど交渉の秘密文書も金子に自由に見せるなど逐一情報をいれて、交渉決裂寸前に「条件に金銭を要求せず、名誉を重んずる」講和条件で、何とか平和にこぎつけた。

金子の思想的背景に武士道精神あり

実際、日露戦争末期、日本の国家財政は軍事費の圧迫により破綻寸前であった。日露戦争には19億円の戦費を費やしたが、これは当時の国家予算の約3倍にも上った。 日本兵の死傷者数も甚大であった。とくに陸軍では士官クラスがほとんど戦死するという壮絶な状況まで追い込まれていた。とても組織的な戦闘継続は不可能に近い状態となっていた。  

金子は終戦工作を成功裏に収めることができたのは、彼が米国留学の経験から米国民の国民性をよく理解していたことや、彼の英語能力と弁術の優秀さがあげられる。 それにもまして、武士道精神を体現した金子の言動が多くの米国人の信頼を得たのである。

ルーズベルト大統領は「日本人の精神がわかる本を教えてほしい」と依頼し、金子は新渡戸稲造の『武士道』の英訳本を贈った。 大統領はこれを読んで感激し、30冊を購入して知人に配布し、5人の子供にも熟読するように指示するなど、一層、日本びいきになった、という。(前述、前坂『明治三七年のインテリジェンス外交』)

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