わが国の情報史(11) 

洋学の隆盛と対外インテリジェンス

▼ 洋学の魁(さきがけ)、新井白石

新井白石

18世紀になると、学問・思想の分野では幕藩体制の動揺という現実を直視して、これを批判し、古い体制から脱しようとする動きもいくつか生まれた。その一つが洋学である。 

鎖国の影響により、西洋の学術・知識の吸収は停滞していた。しかし、18世紀はじめに天文学者である西川女見(にしかわじょけん1648~1724)や、儒学者の新井白石(あらいはくせき1657~1725)が世界の地理・物産・民族などを説いて、洋学の魁となった。

なかでも新井白石は当代随一の博識家であり、洋学や対外インテリジェンスの面において後世に大きな影響を及ぼした。

ただし白石は洋学者ではない。1686年、白石は朱子学者・木下順庵(きのしたじゅんあん)に入門して朱子学を学んだ。93年、順庵の推挙で甲府藩主・徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)の儒臣となる。白石37歳の時である。

1704年、白石は幕臣にとりたてられ、家宣(いえのぶ)の将軍就任(1709年)後は家宣を補佐し、幕政を動かす重要な地位を占めた。
家宣が12年に病死した翌年、家宣の子供の家継(いえつぐ)が、わずか4歳で7代将軍に就任した。

白石は御用人・間部詮房(まなべあきふさ)とともに幼将軍・家継(いえつぐ)を補佐した。しかし、その家継はわずか8歳で夭折し、1716年に8代将軍に吉宗が継位すると、白石は詮房とともに失脚する。失脚後の白石はひたすら著作活動に没頭した。

政治家としての白石は儒学思想を根本とし、教化・法令などによって世をおさめる文治政治(「正徳の治」)をおこなった。外交面では朝鮮使節の待遇改め(簡素化)、経済面では財政再建のために良質貨幣の鋳造などの改革を行った。
しかし、極端な文治主義であったため、幕臣の反対が多く、しかも根本的な経済政策を欠いたため、一種の理想に終わった。

それよりも真骨頂なのは学者としての白石である。白石がとくに力を注いだのが歴史学の研究である。『読史余論』(とくしよろん)などの優れた書籍を多く執筆し、国体思想における啓蒙の師となった。

1708(宝永5)年、白石を洋学の魁として世に知らしめた事件が発生する。シドッチ密航事件である。イタリア人宣教師シドッチがキリスト教布教のため屋久島に潜入して捕らえられた。彼は江戸小石川のキリシタン屋敷に幽閉され、5年後に死ぬことになる。

1709年、白石は江戸で計4回にわたり、シドリッチに尋問した。これにより、彼の東洋来訪の経緯のほか、西洋の世界地理・歴史・風土人情、世界情勢及び西洋における自然科学の発展趨勢などに関する広範な知識を得た。

このほか、1712年初、白石は江戸に参府するオランダ商館長などからも、さまざまな海外事情を得た。こうして得た知識をもとに書かれたのが『西洋紀聞』と『采覧異言』である。

『西洋紀聞』は1715年頃に完成したとされるが、鎖国下のためになかなか公表されなかったが、1807年以来、広く流通し、鎖国下における世界認識に大いに役立った。

『采覧異言』は、日本最初の体系的な世界地理の学術書として評価が高い。これは、単に地理学への影響にとどまらず、各国の軍事制度への考察も踏まえており、のちのわが国の海防論や富国強兵論の根拠となった。

つまり、白石の書籍が後世に西洋に対するインテリジェンスの関心を切り開き、のちの国防体制の礎を築いたのである。

▼ 蘭学の隆盛

洋学と言えば、江戸時代初期にはスペインやポルトガルから日本に伝わってきた学問が中心であった。したがって「南蛮学(蛮学)」と呼んでいた。

しかし、徳川吉宗(1684~1751)の享保年間(1716~1736)において、蘭学が隆盛することになる。つまり洋学は蘭学として発達し始めた。

蘭学はその字面(じづら)から「オランダ学」を意味する。しかし、それは片面的な解釈であるといえよう。
本来の蘭学は、江戸時代から幕末の開国にかけての西洋に関する学問、技術、西洋情勢に関する知識および研究である。主としてオランダ語を媒体として研究されたので蘭学という。

8代将軍・吉宗は漢訳制限をゆるめて、青木昆陽(あおきこんよう1698~1769)および野呂元丈(のろげんじょう1694~1761)にオランダ語を学ばせた。彼らはオランダ通詞からオランダ語を学び、『和蘭話訳』(1743年成立)や『和蘭文字略考』(1746年成立)を著した。

これが蘭学を学ぶ者の語学的基礎となったのはいうまでもない。

蘭学はまず医学の分野において発達した。1774年、昆陽からオランダ語を学んだ前野良沢(まえのりょうたく1723~1803)、町医者の杉田玄白(すぎた1733~1817)が、共同で西洋医学の解剖書を記述した『解体新書』を著した。

その後、蘭学は急速に隆盛し、医学から天文学、本草学(博物学)、兵学、物理学、化学などの分野へと拡大した。

蘭学隆盛の立役者には大槻玄沢(おおつきげんたく1757~1827)や宇田川玄随(うだがわげんずい1755~97)、平賀源内(1728~79)らがいる。

玄沢は『蘭学階梯』という蘭学の入門書を著し、江戸に芝蘭堂(しらんどう)を開いて多くの門人を育てた。

玄随はもともと漢方医であったが、杉田玄白や前野良沢らと交流するうちに蘭学者へと転じ、芝蘭堂で学び、のちに西洋の内科書を訳して『西洋内科撰要』を著した。

源内は長崎でオランダ人・中国人とまじわり本草学を研究した。のちに江戸に出て、学んだ科学の知識をもとに物理学の研究で成果を収めた。今日は、江戸の大天才、異才、発明王、日本のダ・ヴィンチなどと呼ばれ、巷で有名である。

▼ 地理学の発展

蘭学の影響により発達した学問の一つに地理学である。地理学とインテリジェンスの関係は深い。

なぜならば、他国の情勢を正確に知るために地図が必要である。国土を防衛するためにも地図が不可欠である。その地図を作成するために天文・測量・観測などの地理学が要求されたからである。

わが国の地図の作成における最大の功労者が、高橋至時(よしとき 1764~1804)、その子景保(かげやす1785~1829)、そして伊野忠敬(いのうただたか1745~1818)である。

幕府天文方の至時は、西洋歴を取り入れた寛政暦を1797年に完成した。また、天文方に「蛮所和解御用(ばんしょわげごよう)」を設け、景保を中心に洋書の翻訳に当たらせた。景保は語学の達人であり、オランダ語、ロシア語、満州語に通じており、多くの洋書を翻訳した。

なお、「蛮所和解御用」は幕末期に洋学の教育機関である蛮所調所となり、近代以降における大学の前身となった。

1804年、景保は至時の跡を次いで幕府天文方に就任した。当時、西洋諸国の東洋進出によって日本近海に異国船が出没し始めた。幕府は国策上の必要に迫られ、07年に世界地図の作成を景保に命じたのである。

景保は1780年製のイギリス、アーロスミスの世界図を『世界図』に基づいて、東西の多くの資料や、間宮林蔵(まみやりんぞう)の樺太への調査報告なども取り入れて、1810年に『新訂万国地図』を作成した。

▼ 伊能忠敬による日本地図の完成

一方、忠敬は隠居後に学問を本格的に開始し、全国を測量して歩き、最初に日本地図を作製した人物として有名である。

1795(寛政7)年に上京し、江戸にて幕府天文方の至時に師事し、測量・天文学などをおさめた。この時、忠孝は50歳、師匠の至時が31歳であったが、学問において年功序列は無用ということである。

至時は、自らが完成した寛政暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。
そこで、至時と忠敬は、江戸から蝦夷地までの各地の経度・緯度を図ることにした。

その頃1792年にロシアの特使アダム・ラクスマンが、伊勢国の漂流民大黒屋光太夫を連れて、根室に到着した。
その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。これが蝦夷地の調査や地図作成の必要性を認識させた。

至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。なかなか、幕府の許可は下りなかったが、苦心の末、忠敬が第一次測量のため蝦夷地へ向かった。時は1800年、忠敬が55歳の時である。

忠敬の測量は1800年から16(文化13年)まで及び、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。

ただし、忠敬が死亡(1818年)時には、実際には、地図はまだ完成していなかった。そこで忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められ、1821年に『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成したのである。

▼ 景保とシーボルト事件

この地図が新たな事件を呼ぶことになる。それがシーボルト事件である。

シーボール(1796~1866)はドイツの医師である。江戸時代後期の1823年長崎オランダ商館の医師として来日した。翌年長崎郊外の鳴滝に診療所を兼ねた学塾(なるたきじゅく)を開き、伊藤玄朴、高野長英、黒川良安ら数十名の門下に西洋医学及び一般科学を教授した。

シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行し、半年間の江戸滞在で天文方を勤める景保と知り合いになる。そして忠敬が作成した『大日本沿海與地図』の縮図を景保から受領した。
景保はシーボルトの持つ貴重な情報が欲しくて、禁制品の地図を渡したのである。つまり、景保もまた、インテリジェンスの人であった。

5年の任期を終えたシーボルトは1828年9月、帰国の途につく。しかし、その際に禁制品である日本地図が発見された。地図の発見経緯については、暴風雨にあった乗船の積荷から発覚した、景保と確執のあった間宮林蔵が密告した、などの説がある。

シーボルトはスパイの容疑を受けて糾問1ヵ年の末29年10月に海外追放となり、再入国禁止を宣告された。景保は翌年獄死し、多数の関係者、洋学者が逮捕された。

いつの世も、地図は常に守るべきインテリジェンスであり、国家の禁制品であった。我が国では現在、1/5万や1/2.5万の地図が市販されているが、多くの国ではこのような地図は禁制品であり、所持すればスパイ罪に問われることもあるので要注意である。

▼ 蘭学の衰退

天保年間(1830年代)には「天保の飢饉」が象徴するように、米不足による治安が乱れ、一揆が発生した。大塩平八郎による武装蜂起など、幕府や諸藩に大きな影響を与えた。

国内問題ら加え、対外問題も続いていた。1837年、アメリカ商戦モリソン号が浦賀に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易を図ろうとしたが、幕府は異国船内払い令(1825年)に基づいてこれを撃退した。

この事件について、1838年、渡辺崋山(わたなべかざん1793~1841)は『慎機論』を、高野長英(たかのちょうえい1804~1850)は『母戌夢物語』を書いて、幕府の対外政策を批判した。

しかし、翌年、幕府はこれに対して、きびしく処罰した。なお、この処罰事件は「蛮社の獄」と呼ばれるが、高野らの潮流は旧来の国学者たちからは「蛮社」と呼ばれていたためである。

この事件後、蘭学は衰退傾向を辿ることになる。しかし、蘭学がわが国における対外インテリジェンスの萌芽を導いたことは間違いない。

▼洋学への発展と佐久間象山

佐久間象山

これまで述べたように、洋学は江戸時代初期の「蛮学」が中期には蘭学へと発展した。そして、ペリー来航(1853年)による開国以降、オランダ人以外の諸外国人もどんどんと渡来するようになった。

イギリスやフランスなどの学術・文化が、それぞれの国の言語とともに渡来した。もはや洋学は蘭学に止まらず、この時期以降に洋学という用語が一般化した。

洋学は自然科学・社会科学・人文科学の広い分野で西洋の知識・学問を移入するのに力を発揮したが、ことに英学が蘭学にかわって主要な地位を占めた。
また、洋学はわが国の国防体制への啓蒙となり、高島秋帆や佐久間象山(さくまぞうざん1811~1864)らの軍事思想に大きな影響を与えた。

 とくに象山は横浜開港を具申した立役者であり、のちに幕末の志士たちにより徳川幕府が倒され、明治の代が到来するきっかけを作った人物である。福沢諭吉や勝海舟も象山の影響を受けた。

吉田松陰は、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗北すると、西洋兵学を学ぶために九州に遊学し、その後江戸に出て象山の門を叩くことになる。

山鹿流兵学師範である松陰は、先師の山鹿素行の思想的影響を受けていたが、松陰に直接的な影響を及ぼした人物としては象山をおいて他はないといえよう。

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