英首相への辞任要求が示したもの

――エプスタイン事件から読む民主主義社会の変化

英国で、スターマー首相に対する辞任要求が出ています。発端は、首相が駐米大使に任命したピーター・マンデルソン氏の過去の交友関係にあります。マンデルソン氏は、性犯罪事件で知られるジェフリー・エプスタインと親密な関係を持っていました。この事実を前提に行われた人事が、英国民の強い反発を招きました。

エプスタイン事件が持つ意味

エプスタイン事件は、米国の富豪が未成年者に対する性的虐待と人身取引を長期間にわたり行っていた事件です。この事件が社会に強い衝撃を与えた理由は、犯罪の深刻さに加え、エプスタインが各国の政治家、金融関係者、学界関係者、王室関係者と広範な人脈を築いていた点にあります。

事件は、拘置所内でのエプスタインの死亡によって終結しました。その過程で、誰がどの段階で何を把握し、どのような行為を行ったのかという点が整理されないまま残りました。事件処理が完結しない状態が続く中で、昨年末、トランプ政権がエプスタイン事件に関連する情報を開示しました。これが、英国における首相辞任要求という政治問題につながりました。

何が批判されているのか

マンデルソン氏は、すでに駐米大使を解任されています。それでも英国民の怒りは続いています。スターマー首相が、マンデルソン氏とエプスタインの関係という重要な事実を把握した上で、国民に説明を行わず、解任という事後対応によって事態を収束させようとしたと受け止められているためです。

この反応の背景には、英国の経済状況があります。生活費の上昇が続き、多くの国民が日々の暮らしに不安を抱えています。その状況下で、政治家や富裕層が、国民の視界に入らない私的な人脈を長期間維持し、その内部で地位や機会を回してきた実態が、この大使人事を通じて浮かび上がりました。

民主主義社会で起きている共通の構造

現在、世界ではグローバル主義の進展により、国境を超えたエリート層の連携が強まっています。巨大テック企業は国家を超える影響力を持ち、富は一部の層に集中しています。社会は二極化し、生活の実感と意思決定の距離が広がっています。

エプスタイン事件は、国境を越えた資金、人脈、影響力が、限られた空間で循環してきた現実を示しました。マンデルソン氏の大使任命への反発は、こうした構造に対する不満の表れです。

国民は、エリート層に対抗する姿勢を示す政治家を強く支持します。同時に、エリート層と近い距離にある政治家に対して厳しい視線を向けます。熱狂的な支持と強い不満が同時に存在し、一つの事件が社会を大きく揺さぶります。この構図が、現代の民主主義社会に共通して見られる特徴です。

日本への波及

この構造は、英国や米国に限られたものではありません。民主主義社会全体に共通する変化です。日本でも、政治に対する国民の評価は大きく揺れています。生活に不安を抱える国民の不満を受け止めきれず、方向性を示せない政治勢力は支持を広げられていません。

日本のリベラル政治家もエリート層に属します。現在の対立軸は、保守とリベラルの対立よりも、エリート層と一般国民の距離にあります。その不満は、国内政治だけでなく、中国などの外国にも向かいます。

日本では、人事の背景や私的な関係が表に出にくい傾向が続いています。その結果、重要な決定が、判断の理由や思考過程が示されないまま進む場面が多く残っています。

メッセージ

――情報分析思考として何を読むか

エプスタイン事件から読み取るべき点は、民主主義社会に内在する構造です。グローバル主義が生み出した社会の二極化という基盤構造が、各国の政治や世論の反応として表れています。この構造は、個別の事件を通じて可視化され、やがて大きな潮流として現れます。

情報分析において重要なのは、出来事そのものに反応することではなく、その出来事がどのような構造の中で生じたのかを読むことです。一国の政治スキャンダルとして捉える視点では、変化の本質を読み取れません。

異なる国で起きた出来事を、共通の構造の中で捉えます。この読み方がアナロジー思考です。エプスタイン事件と英国首相への辞任要求は、民主主義社会に共通する変化を示す一つの事例です。この変化は、時間差を伴いながら日本にも影響を及ぼします。

個別の事件を追い続けるだけでは、社会の動きは見えてきません。行為の主体、行為が行われた背景、行為が受け取られた社会環境を整理します。その積み重ねが、情報分析における思考の精度を高めます。(了)

インテリジェンス思考術(第17回)

ヒューミントとは何か

前回はオシントについて述べました。今回はヒューミントです。

国家情報機関に所属する者は、通信傍受によるシギント(SIGINT)や、偵察衛星によるイミント(IMINT)などの技術情報を扱います。しかし、ビジネスパーソンが実務で活用できる手段は、主にオシントとヒューミントです。

ヒューミントは人的情報と訳されます。人を介して情報を収集する手段、あるいはそこから得られたインテリジェンスを指します。

ヒューミントというと、スパイ活動を連想する人もいるでしょう。しかし、それだけではありません。国家レベルでいえば、外交官が赴任国で現地要人と会話を重ね、その国の意図や政策の方向を把握することもヒューミントです。

聞き取りだけではありません。現地に赴き、直接観察することもヒューミントに含まれます。ビジネスに置き換えれば、店舗に足を運び、売れ行きを確認すること、顧客に感想を尋ねることもヒューミントです。

ヒューミントは最も古い情報収集手法です。歴史上、各国は人を通じて相手の意図を探ってきました。対象の本音や兆候に迫れる点が、この手法の強みです。

ヒューミントの強みと限界

前回、オシントで全体像の90パーセントは把握できると述べました。ただし、それは十分な公開情報が存在するという前提が必要です。

これに対し、信頼できる人物から「その会社は近く新商品を出す」と聞けば、膨大な資料を分析せずとも核心に近い情報を得ることができます。これがヒューミントの力です。

しかし、ヒューミントは万能ではありません。

情報の信頼性は話し手に依存します。誤解や思い込みが含まれることもあれば、意図的な誤情報である場合もあります。また、聞き手の先入観が入りやすいという弱点もあります。

ヒューミントは強力ですが、常に検証が必要です。

ビジネスにおけるヒューミント

ビジネスの現場で使われるヒューミントには、主に三つの形があります。

聞き込み

聞き込みでは、情報を持っている人物に当たることが原則です。ただし、核心にいる人物が直接語るとは限りません。

競合企業の新規事業に関する情報は、一部の経営層しか知らないかもしれません。その場合、いきなり核心に迫るのではなく、まず周辺から状況を押さえます。取引先、元社員、関連業界などから情報を集め、全体像を描き、そのうえで徐々に核心に近づいていきます。

外縁から内側へ。これが原則です。

観察

観察も重要なヒューミントです。店舗の来客数、商品の陳列状況、従業員の動き、顧客の滞在時間などは、現場に行かなければ分かりません。

しかし、観察には落とし穴があります。

人の印象は、時間帯、曜日、季節、天候といった環境条件に左右されます。平日の昼間と休日の夕方では、まったく違う景色が見えます。

また、一部の特異な事象を全体傾向だと誤って解釈する危険があります。たまたま混雑していた、たまたま閑散としていた、という可能性を排除できません。

そのため、観察は一度きりでは不十分です。
継続して見ること、できる限り同じ条件で見ることが重要です。
観察とは印象を持つことではなく、変化を捉えることです。

アンケート・対面調査

アンケートやインタビューは、人の内面や意志を引き出す手段です。なぜその商品を選んだのか、何に不満を持っているのかといった情報は、外からは見えません。

しかし、アンケートは準備が難しい手法です。

母数が少なければ、全体傾向を示すことはできません。対象を誤れば、偏った結果になります。設問の作り方によっても、回答は誘導されます。

アンケートは強力ですが、設計を誤れば正確な情報は得られません。

オシントとの関係

オシントは広く全体像を把握するために有効です。ヒューミントは意図や兆候をつかむために有効です。

両者は対立するものではありません。公開情報で全体を押さえ、人的情報で空白を埋める。人的情報で得た仮説を、公開情報で裏づける。

この往復が、実務における情報分析の基本です。

今回はここまで

今回はヒューミントについて整理しました。
人から聞く、現場で見る、意志を引き出す。どれも強力な手段ですが、誤解や思い込みが入り込む余地もあります。

重要なのは、手段に頼りすぎないことです。
得た情報をそのまま信じるのではなく、検証し、組み合わせることが求められます。

次回は、集めた情報をどのように処理し、意味づけるかについて述べます。

3. 国際情勢ニュースを題材に

スパイ史を読み直す

最近、高市早苗政権のもとでスパイ防止法をめぐる議論が高まっています。私はその流れのなかで、改めてウィンストン・チャーチルの戦時回顧録と情報史の資料を読み返しました。そこには、彼がいかに巧妙に二重スパイを運用したかが具体的に記されています。

チャーチルは、摘発したドイツ工作員を処刑しませんでした。彼らを転向させ、あえてドイツ本国と通信させ続けました。

その際に彼が重視した第一の点は、二重スパイに成果をあげさせることでした。英国は彼らに本物の情報も与えました。すべてを偽るのではありません。大半は事実です。だからドイツ側は信じ続けました。成果を出す人物は疑われにくいからです。組織は有能な者を守ります。成功が続くと、疑念は後退します。

第二の点は、距離を取らせることでした。英国は二重スパイに、自国への批判も報告させました。軍の弱点、政府内の混乱、指導部への不満もあえて書かせました。露骨な擁護は不自然です。むしろ批判を混ぜることで、相手国に忠実に見せました。強硬な論調や辛辣な評価は、偽装の一部になり得ます。

二重スパイの本質はここにあります。成果をあげ、しかも相手に迎合して見えない。その二つが揃うと、疑いは消えます。チャーチルはその心理を利用しました。制度を議論する今こそ、いわゆる優秀で赴任国に対して強硬派と言われる人物にも注意を払う必要があります

確定申告まもなく

確定申告の時期が近づいてきました。毎年のことですが、資料整理が十分にできておらず、この時期になると慌てます。以前は机の引き出しに領収書が山のようにたまっていましたが、いまは様子が少し違います。領収書の多くがデータです。パソコンの中に保存され、メールに添付され、クラウドに残っています。これから一つ一つ印刷して、税理士のところへ持っていく予定です。

例年であれば、アマゾンで購入した書籍の領収書を大量に印刷します。しかし今年は、その枚数が明らかに少ないことに気づきました。あまり本を買っていないのです。

その理由ははっきりしています。ChatGPTでの調べ物が増え、Kindle Unlimitedで済ませることが増え、さらにインターネット記事からのインプットも増えました。紙の本を購入する頻度が確実に減っています。

便利になりました。検索は速く、要点はすぐに整理されます。しかし同時に、「本離れ」が自分の生活の中でも静かに進んでいるのではないかと感じます。

私は本を書く立場にあります。読者に本を手に取っていただくことで成り立っています。その私自身が本を買わなくなっているとすれば、これは小さくない変化です。技術の進歩は歓迎すべきものですが、書き手としては複雑な気持ちになります。

確定申告の準備をしながら、そんなことを考えています。

インテリジェンス思考術(第16回)

オシント情報とは

オシントで90パーセント以上のことがわかる

前回は、オシント情報をインターネットなどで集める方法について述べました。今回は、情報収集の手段を整理したうえで、オシント情報とは何かをあらためて説明します。

情報がどこから出てきたか、その出所のことを情報源といいます。たとえば、日々接しているニュースの情報源は、新聞、テレビ、インターネットなどです。これらの情報源は、大きく公開情報源と非公開情報源に分けられます。

非公開情報源は、さらにヒューミント(HUMINT:人的情報源)と、テキント(TECHINT:技術的情報源)に区分されます。一方、オシント(OSINT)は、オープンソース・インテリジェンスの略で、公開情報源から得られる情報を指します。

非公開情報源は、政府の情報機関や軍の情報部門などに属する人しか扱えません。一般の企業人や研究者が接することは、ほとんど不可能です。しかし、それを過度に気にする必要はありません。実務の世界では、オシントだけで全体像の90パーセント以上を把握できるとされています。

実際、オシントから重要な判断が行われた例は少なくありません。1962年のキューバ危機では、ケネディ米大統領が『タス通信』の報道を手がかりに、ソ連がキューバからミサイルを撤去したかどうかを判断しました。1990年の湾岸戦争でも、米国はイラクの内部状況を把握する際にCNNの報道を重視しました。

インターネットの発達によって、世界中の公開情報に容易にアクセスできるようになりました。国際情勢の分析でも、企業分析でも、有力なオシントに触れる機会は飛躍的に増えています。

第一次情報にアクセスする

オシントを扱ううえで、もう一つ重要な考え方があります。それは、できる限り第一次情報源に遡るということです。

第一次情報源とは、ある事象について最初に情報が発せられた出所を指します。第一次情報源から得られた情報を第一次情報と呼びます。それに対して、第一次情報をもとに編集や解釈が加えられた情報は、数次情報と呼ばれ、一般にはまとめて第二次情報として扱われます。

一般に、第一次情報とは「本人が直接見たもの、聞いたもの」だと言われます。この説明だけを見ると、第一次情報を得るには、現場に行ったり、当事者に話を聞いたりする必要があるように思えます。すると、それはオシントではなく、ヒューミント(人的情報源)ではないか、という疑問が生じます。では、オシントで得られる情報は、すべて第二次情報なのでしょうか。

ここで注意すべき点は、第一次情報か第二次情報かと、オシントかヒューミントかは、同じ区分ではないということです。
第一次情報か第二次情報かは、情報がどれだけ加工されているかという「距離」の問題です。一方で、オシントやヒューミントは、情報をどのような手段で得たかという区分です。

公開情報であっても、加工されていない原資料に当たれば、それは第一次情報に近いオシントになります。つまり、第一次情報=ヒューミント、オシント=第二次情報、という対応関係が成り立つわけではありません。

たとえば、新聞記事は記者の判断や編集が加えられた二次情報ですが、記者会見の全文記録、公式声明文、統計の原表などは、公開情報でありながら第一次情報源に位置づけることができます。

書籍についても同様です。書籍そのものは、著者の整理や解釈が加わった情報であり、厳密には一次情報とは言えません。しかし、書籍には統計資料や公的文書、当時の記録などの引用元が明示されていることが多く、その引用元に当たることで、第一次情報に遡ることが可能です。数字や事実関係を確認する際には、本文よりも注や参考文献の方が重要になる場合もあります。

ウィキペディアについても、同じ考え方が当てはまります。ウィキペディアの記述自体は編集を重ねた二次情報であり、そのまま分析に使うことは適切ではありません。しかし、多くの項目では引用文献や出典が明示されています。活用すべきなのは本文ではなく、そこに示された一次に近い資料です。

逆に、第三者の解説や論評が重ねられた情報は、たとえ内容が詳しく見えても、第三次、第四次情報になっている場合があります。インターネット上に見られる多くの記事やまとめ情報は、複数の媒体を経由した伝言情報です。

情報は、伝わる過程で削られ、強調され、ときに歪められます。そのため分析では、どこで誰の判断や解釈が加えられたのかを意識しながら、情報の出所をたどる必要があります。

事実か、意見かを確かめる

情報を扱う際、最後に確認すべきなのは、その情報が事実なのか、それとも意見や評価なのかという点です。

第一次情報源に近いからといって、その内容がすべて事実であるとは限りません。公式声明や記者会見で語られる内容も、多くの場合は当事者の認識や主張です。出来事そのものと、出来事についての意見は、明確に分けて考える必要があります。

オシントでは、事実の記述と意見や評価が同じ文脈で語られることが少なくありません。そのまま受け取ってしまうと、分析は容易に誤った方向へ進みます。

重要なのは、「これは何が起きたという事実なのか」「これは誰の意見や評価なのか」
を一つひとつ切り分けることです。

オシントの実務で求められるのは、情報を大量に集めることではありません。事実と意見を見分けること。まずは、そこから始めるべきです。

今回はここまで

今回は、オシントを用いた情報収集について整理しました。
公開情報であっても、どこまで加工されているのか、事実と意見がどう混ざっているのかを意識するだけで、見える景色は大きく変わります。

オシントは、単に「ネットで調べること」ではありません。公開情報の中から、一次に近い情報を探し出し、事実と評価を切り分けて読むこと。それだけで、状況の大枠は十分に把握できます。

次回は、現地で見る、聞くといったヒューミントについて述べます。オシントとヒューミントは対立するものではありません。それぞれに役割があり、使いどころがあります。
その違いと注意点を整理していきます。

中国軍高官2人の失脚が示すもの

――習近平の軍権掌握と台湾有事をどう読むか

事象関係

1月24日、中国国防部は、中央軍事委員会(CMC)副主席の張又侠と、同委員で連合参謀部参謀長の劉振立について、「重大な規律違反および法律違反の疑い」で調査していると発表しました。
人民解放軍の制服組トップ層2人が同時に調査対象となるのは、きわめて異例です。

翌25日、米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは、軍内部の高官向け説明の内容として、張又侠が核兵器計画に関する機密情報を米国に漏らした疑い、昇進をめぐる贈収賄、軍内での派閥形成などが指摘されたと報じました。
ただし、中国当局はこれらの具体的な容疑を公式には認めていません。

一方、人民解放軍の機関紙『解放軍報』は社説で、両名が「中央軍事委員会主席責任制を踏みにじった」と厳しく批判しました。
ここで問題とされたのは、金銭的不正そのものよりも、党、とりわけ習近平国家主席による軍統帥に悪影響を与えた点でした。

背景

近年、中国軍では装備調達部門や政治工作部門を中心に粛清が続いてきました。
しかし今回の特徴は、現職の軍事委副主席と参謀総長級が同時に外れた点にあります。
これは個別の不正摘発というより、軍上層部の権力配置そのものに手が入ったことを意味します。

また、張又侠は習近平の側近であり、長年にわたり軍内部で強い影響力を持ってきた人物と見られてきました。
その人物が排除されたことは、中国軍内部で何らかの深刻な認識のずれ、あるいは緊張が生じていた可能性を示唆します。

分析――二つの仮説

今回の粛清をどう評価するかは、「習近平は軍権を掌握しているのか」「台湾侵攻の蓋然性は高まったのか」という二つの問いに集約されます。
この二つの問いは切り離せません。軍権の掌握度合いが、そのまま台湾侵攻の現実性に影響するからです。

現時点で考えられる見方は、大きく二つあります。

仮説A

習近平は軍権掌握を進め、台湾侵攻を妨げる要因を排除した

第一の仮説は、張又侠と劉振立の失脚が、台湾侵攻をめぐる軍事判断の対立と関係していたという見方です。

複数の海外報道では、張又侠は台湾侵攻に対して慎重だったとされています。
理由は軍事的な合理性です。
台湾侵攻は、海峡を越える上陸作戦、補給の維持、制空・制海の確保、さらに米国の介入可能性という複数の不確定要素を同時に抱えます。
職業軍人にとって、勝敗の見通しが立たない作戦は避けたい対象です。

一方、米国側では、習近平が「2027年までに台湾侵攻が可能な軍事能力を整えるよう命じた」との情報が繰り返し示されています。
これは開戦命令ではありませんが、期限を伴う政治的要求です。

この構図に立てば、張又侠は、政治が設定した期限と、軍事が見積もる準備期間の間に立ち、慎重論を唱える存在だったと考えられます。
その張又侠を排除したことは、習近平が軍事的慎重論よりも、自身の政治目標を優先する体制を整えたと読むことができます。

この仮説に立つ場合、今回の粛清は台湾侵攻の蓋然性を下げたとは言えません。
むしろ、軍内のブレーキ役が弱まり、演習や威圧行動を含めた対台湾行動が、政治主導で進みやすくなった可能性があります。

仮説B

軍権を完全には掌握できておらず、その事実が露呈した

もう一つの仮説は、今回の粛清を「軍権掌握の完成」ではなく、「軍権掌握が未完だった証拠」と捉える見方です。

解放軍報が強調した「主席責任制」は、裏を返せば、それが十分に機能していなかったことを示します。
もし軍が完全に統制されていれば、あえてここまで強く強調する必要はありません。

この見方では、張又侠は、形式上は副主席でありながら、実質的には軍事作戦や能力評価において大きな影響力を持っていたと考えます。
つまり、軍内では、習近平の意向よりも、張又侠の判断が効いていた場面があった可能性があります。

その場合、今回の粛清は、軍の統制が揺らいでいたことを示す出来事です。
高官を排除することで指揮権は形式上集中しますが、統合作戦能力や実務の蓄積が即座に向上するわけではありません。

参謀総長級と副主席級を同時に欠いた状態で、台湾侵攻のような大規模作戦を短期間で整えることは困難です。
忠誠心の高い人物を据えたとしても、作戦準備には時間がかかります。

この仮説に立つ場合、今回の粛清は、台湾侵攻を早めるというより、当面は内部再編を優先せざるを得ない状況を示しています。

メッセージ

今回の出来事は、「習近平が軍権を掌握した結果なのか、それとも掌握できていなかった証拠なのか」という、正反対の解釈を許します。
そしてその違いが、「台湾侵攻の蓋然性は高まったのか」という問いへの答えを分けます。

現段階では、どちらかに断定できる材料はありません。
重要なのは、特定の仮説を前提に情報を集めるのではなく、
どの事実がどの仮説を強め、どの仮説を弱めるのかを丁寧に見極めることです。

断定的な結論と、それを補強する情報ばかりに目がいく確証バイアスを排除し、
軍内人事、演習の質と頻度、指揮系統の再編速度といった具体的な変化を積み重ねて判断する姿勢が、今後ますます重要になります。

(了)

トランプ米大統領のグリーンランド発言をどう読むか

――「何を言ったか」ではなく「なぜ今言ったか」を見る

事実関係と報道の整理

2026年1月9日、ドナルド・トランプ米大統領は、アメリカがグリーンランドを「所有」する必要があると述べました。理由として大統領は、ロシアと中国がグリーンランドを取るのを防ぐためだと説明しました。

大統領は、「国は所有権を持ち、それを守るのであって、リースを守るものではない」と語り、「簡単な方法」と「難しい方法」があるとも付け加えました。ホワイトハウスは、購入の可能性を否定しなかった一方で、武力行使の可能性についても明確には否定しませんでした。

グリーンランドの現状

グリーンランドは、デンマークの準自治領です。外交と防衛はデンマーク政府が担い、自治政府が内政を担当しています。

デンマーク軍は規模が小さく、北極圏において単独でロシアや中国からの軍事行動を防衛できる能力は持っていません。

もっとも、中国はグリーンランドに軍事基地を保有しているわけではありません。過去にはインフラ投資や研究活動を通じて関与を試みてきましたが、軍事的に進出する兆候は見られません。ロシアも北極圏を軍事空間として重視していますが、グリーンランドの排他的経済水域(EEZ)と直接重なる海域を持つわけではありません。また、すでに北極経由で米国本土に到達するミサイル能力を有しており、グリーンランドが特段、新たな軍事的価値を持つ状況でもありません。

一方、米国はすでにグリーンランドに軍事拠点を置き、弾道ミサイル警戒や宇宙監視を行っています。米国自身も、今すぐに中露に対して安全保障上の空白を埋めなければならないという状況にはありません。

また、グリーンランドを米国が実際に「所有」するための現実的な手順は示されていません。売却交渉には時間がかかります。仮に軍事行動と呼ばれる事態があったとしても、それは軍事力をもってグリーンランド軍と戦うことではなく、既存の米軍基地を拡大し、港湾管理を強化し、ミサイル防衛を強化するといった措置にとどまります。それでも、NATO加盟国同士の関係を損なうため、すぐに実行できる話ではありません。

トランプ大統領は、あえて「難しい方法」という強い言葉を使いました。

それは実行計画を示すためではなく、政治交渉の文脈で意図的に選ばれた表現と見る方が自然です。ウクライナをめぐる交渉が続き、さらに年内に米中首脳会談を控えるこの時期だからこそ、こうした言い方が用いられたと考えられます。

トランプの意図

報道では、トランプ大統領のベネズエラやイランへの軍事的関与、石油輸出国への圧力といった視点から、北極圏の資源獲得が狙いだとする主張が多く見られます。

たしかに、グリーンランドのレアアースは注目されがちですが、採掘条件、インフラ整備、環境規制といった制約は大きいのが実情です。米国が中国依存を減らす手段としては、豪州や南米の方が即効性があります。

北極圏の資源獲得が狙いであるとの見方は否定できませんが、それだけでは、この発言の強さやタイミングを十分に説明できません。

また、トランプ大統領は国家安全保障戦略や国家防衛戦略において、いわゆるドンロー主義に基づく西半球での支配圏強化を打ち出し、特に中国抑止を重視してきました。今回の発言でも、ロシアと中国がグリーンランドを取るのを防ぐためだと説明しています。

将来の安全保障上の懸念を予期し、中露を牽制するために早期に布石を打つという見方も成り立つかもしれません。しかし、実務重視、駆け引き重視のトランプ大統領の政治手法を考えると、長期的な戦略構想を丁寧に積み上げるタイプとは言いにくい面があります。また、安全保障戦略や国家防衛戦略を見ても、欧州への冷淡な対応や、米露間の直接的な対立を回避しようとする意図がにじんでいます。

この発言は誰にどう響くのか――欧州と中国

今回の発言には、「いきなり言った」という印象が強くあります。グリーンランドの問題が、ほとんど焦点化していない局面で、トランプ大統領があえて極端な言葉を投げ込んだ真意はどこにあるのかを考える必要があります。

この発言は、グリーンランドやデンマークに向けた言葉というよりも、まず欧州に向けた発言と見ることができるでしょう。欧州の政権や世論は、必ずしもイランやベネズエラでの強硬な軍事行動を支持していません。一方で、ロシア・ウクライナ問題では、米国の関与提言を警戒しつつ、トランプ大統領主導で中露との直接交渉が進むことを牽制し、協議への関与を求めています。

トランプ大統領は、中露との交渉に欧州は不要であり、大国間関係は独断で進めるという姿勢を示してきました。今回の発言は、欧州に対して、その立場をあらためて示す牽制と読むこともできるでしょう。

もう一つは、中国に向けた発言です。今年は米中首脳会談が予定されています。

中国は北極圏を将来の活動空間と見なし、研究や投資を通じて関与の余地を探ってきました。今回の発言は、北極圏を後から交渉で切り分ける対象にしないという事前通告として機能する可能性があります。

あるいは、中国に対して、イラン、ベネズエラ、そしてグリーンランドといった複数の論点で圧力を高め、それらを正面の議題にはせず、交渉全体の力関係を動かす材料として使う可能性もあります。つまり、交渉の場では圧力を下げ、その見返りとして経済的な譲歩を引き出そうとする意図が含まれている可能性も否定できません。

我が国への影響とメッセージ

この発言が、米国による同盟国への揺さぶりや、中国との交渉を意識したものであるなら、日本にとっても他人事ではありません。

日本国内の基地問題や世論の動きが、米国から見て反米的と映り、それが中国との大国間関係において取引材料とされるのであれば、かつてのニクソン・ショックを想起させる事態になりかねません。今年は米中首脳会談を控えています。

今回のような発言を読む際には、発言の正しさや現実性だけを見るのでは不十分です。発言が出た時点、そのタイミング、その必要性の有無を見ることが重要です。発言や行動の内容以上に、「なぜ今なのか」という視点を持つことが求められます。

時期的な特性を読み取ること。それが、情報分析の基本です。(了)

インテリジェンス思考術(第15回)

情報を収集し、整理する

――「集める」前に、何を集めるかを決めよ

これまで、情報分析では最初に枠組みを設定することが重要だと述べてきました。
今回は、その枠組みに沿って行う情報収集を扱います。

多くの人は、分析の第一歩は「とにかく情報を集めること」だと考えます。
企業でも、新規事業や競合分析を始めるとき、まず大量の資料を集める場面をよく見かけます。
筆者が防衛省や陸上自衛隊で接してきた情報担当者も、同じ発想を持っていました。

しかし、この考え方は正確ではありません。

情報収集とは、
あらかじめ設定した問いと枠組みに沿って集め、不要な情報を切り落とす作業です。
集めること自体が目的ではありません。

ここでは、企業分析でも利用頻度が高いオープンソース情報、
いわゆる「オシント」を前提に考えていきます。

キーワード検索は「問い」を投げる作業である

枠組みを設定したら、次に行うのは二つです。
一つは、枠組みに入れる情報を集めること。
もう一つは、すでにある情報を、枠組みの各要素に振り分けることです。

企業分析で使う情報源は、新聞、業界誌、決算資料、書籍、そしてインターネットです。
インターネットは、低コストで膨大な情報に触れられる一方で、真偽が混在しています。

ここで重要になるのが、キーワード検索です。
このキーワードは、先に設定した問いや枠組みを、そのまま言葉にしたものです。

たとえば、
「ある中国企業がEV市場でなぜ急成長しているのか」を知りたいとします。

最初に「中国 EV 企業名」で検索して、十分な情報が得られなくても、そこで止めてはいけません。

  • 「EV」を「電池」「車載半導体」「サプライチェーン」に広げる
  • 「中国」を「地方政府 補助金」「産業政策」に置き換える
  • 企業名を、創業者名、出身大学、過去の事業に分解する

このように、
少し上位の概念に広げる、あるいは切り口を変えることで、必要な情報に近づけます。

市場の実態に近づくほど、検索語は直接的でなくなります。
キーワード検索とは、発想力を使って問いを投げ直す作業だと考えるべきです。

検索要領を工夫する

検索には、知っておくだけで効率が大きく変わる基本的な技法があります。
ここでは、実務で使いやすいものを紹介します。

「〜とは」検索
新しい分野を理解するときに有効です。
「生成AI とは」「炭素国境調整措置 とは」と入力すると、定義や背景を整理した解説に当たりやすくなります。

AND(+)検索
複数の条件を同時に含む情報を探す方法です。
「半導体+台湾+地政学」と入力すれば、技術解説だけでなく、リスクや戦略に触れた記事が抽出されます。

OR(−)検索
どちらか一方を含む情報を広く集めたいときに使います。
新規事業の初期段階で、関連情報を漏れなく確認する際に有効です。

NOT検索
特定の話題を意図的に除外する方法です。
「EV NOT 中国」と入力すれば、中国以外の事例に絞って情報を集められます。

実務では、
問いを分解し、三〜四語のキーワードに落として検索する方法をよく使います。
これは、頭の中の分析を、検索という形で外に出す作業でもあります。

ネット情報の利点と欠点を理解して使う

ネット情報の扱い方については、ジャーナリストの 池上彰 氏と、作家の 佐藤優 氏が、
「『ネット検索』驚きの6極意」(東洋経済)という記事で示唆的な指摘をしています。

両氏の主張を要約すると、
ネットは便利だが、依存すると判断を誤る、という点に集約されます。

理由は、企業の情報分析でもそのまま当てはまります。

  • デマや思い込みが混じりやすい
  • 情報が時系列で並び、重要度が見えにくい
  • 引用や孫引きが多く、一次情報に行き着きにくい
  • 関心分野だけを追い、視野が狭くなる
  • ネット上の声を社会全体の声だと誤解する

とくに注意すべきなのは、
ネット上の盛り上がりが、市場全体の動きと一致するとは限らない点です。

SNSで酷評されている製品でも、
実際の売上は堅調、という例は珍しくありません。
声を上げない多数の顧客は、ネットには現れないからです。

一方で、ネットには他では代替できない強みもあります。

  • 低コストで大量の情報に触れられる
  • 情報源が明記された資料も多い
  • 図書館に行かなくても事前に絞り込める
  • 既存メディアにはない視点に出会える

重要なのは、使い方を誤らないことです。

ネット情報を使う際には、
情報源がどこかいつ書かれたものか
この二点を必ず確認する。
それだけで、情報の信頼度は大きく変わります。

今回はここまで

情報収集とは、量を集める作業ではありません。
問いを立て、問いに合わない情報を捨てる作業です。

企業の意思決定で、
「情報は集めたが、結局よくわからない」という状態になる場合、
多くは、問いや枠組みが曖昧なまま収集に入っています。

次回は、情報収集における着眼点について述べます。

衆議院選挙の感想

今年も1か月があっという間に過ぎていきました。「光陰矢の如し」とは、月日の流れが矢のように速く感じられることを言います。慌ただしく年が明け、気がつけばひと月が過ぎていました。今年は干支でいえば午年で、十干十二支では丙午です。丙午に生まれた女性は気性が激しいとされ、この年の出生率が下がった、という話がよく語られてきました。実際、前回の丙午である1966年には出生数の減少が統計に見られましたが、これは迷信が社会に影響した面が大きいと考えられています。科学的根拠があるわけではありません。

一方で、少子高齢化が進む日本の現実は、迷信ではなく深刻な人口動態の問題です。衆議院議員総選挙が2026年2月8日投開票に行われました。 この選挙では、外国人政策や安全保障がしばしば論点のひとつにはなりましたが、少子化対策については、主要な争点として十分に論じられているとは言い難い状況でした。結婚や出産といった家族形成の問題は重要ですが、価値観が多様化する社会において、それらのテーマは扱いにくさから、政治や社会の正面の議論の場では後回しにされているのかもしれません。

衆議院選挙について、高市自民党政権の圧勝でした。私自身は先週木曜日に期日前投票を済ませました。自宅から会場が近いこともあり、最近は期日前投票を利用することが多くなっています。今回も同じ会場で投票しましたが、先週土曜日、その会場前の道路に、これまで見たことのない投票待ちの列ができているのを目にしました。

少なくとも過去の選挙と比べて、有権者の関心が高まっていることは確かだと感じました。それにもかかわらず、マスメディアときたら、午後4時現在の投票率は前回より○○%下回っている、との報道。おかしいな、と思ってよくみると、期日前投票の数値を入れていないのです。今や、期日前投票が当たり前。選挙制度に報道の設計が追随できていないのか、メディアの意図的なものなのでしょうか。

すつての立憲民主党議員は軒並み落選、比例区は、かつての公明党議員ばかり。公明党は陰の勝者でした。いろいろな敗因はあるでしょうが、「勝には不思議な勝ちあり、負けには不思議な負けあり」、立憲民主党の親中路線、高市政権批判、自らの政策が不透明、これでは支持は得られなかったのかもしません。

以前、私は、中道が結成された時、1+1-?=?、?が知りたいと謎のツイートをしたのですが、?は1.5と言う印象でしたね。

日本政府の退避勧告が示したもの――イラン情勢はどこまで来たのか

レベル4が発出

日本政府は16日、イラン全土に対する危険情報をレベル4(退避勧告)へ引き上げました。外務省が理由として挙げたのは、インターネット及び国際電話の不通、国際航空便の相次ぐ停止や減便によって、出国が困難になる可能性です。
一部では、日本がレベル4に引き上げた背景として、米国政府から軍事攻撃を示唆する情報があったのではないか、という憶測も流れました。というのも、2025年には、日本政府がイラン全土にレベル4を発出した5日後に、米海空軍によるイランへの軍事行動が実施された経緯があるためです。
では、今回も米国の軍事行動はあり得るのでしょうか。以下、1月18日現在の公開情報に基づき整理します。

イラン情勢をめぐる最近の経緯

イランでは、バイデン政権下で経済制裁が継続する中、経済停滞や物価上昇、若年層の将来不安が広がっていました。こうした状況下で、2022年9月の女性の服装規制をめぐる事件を契機に、都市部を中心とする反政府デモが拡大し、治安部隊との衝突が常態化しました。
国内の不安定化が続く中、2023年10月以降、イスラエルとハマスの戦闘が激化し、ハマスやヒズボラを支援するイランとイスラエルの直接衝突が懸念される状況となりました。2024年1月には、イスラエルがシリア・ダマスカスのイラン大使館関連施設を空爆し、イスラム革命防衛隊幹部が死亡しました。イランはこれを国家への直接攻撃と位置づけました。
同年4月、イランは弾道ミサイルやドローンでイスラエルに報復し、イスラエルもイラン本土を攻撃しましたが、双方の攻撃はいずれも限定的で、大規模な戦闘には発展しませんでした。その後も核・ミサイル問題を背景とする緊張は続き、2024年秋にはイスラエルによるイラン軍事施設への攻撃が断続的に行われました。これを受け、10月26日、日本政府はイランの大部分をレベル3、一部をレベル4とする危険情報を発出しました。
2025年に入っても緊張は緩和せず、6月13日にはイスラエルがイランの核関連施設や軍事施設を攻撃しました。これを受け、6月17日、日本政府はイラン全土をレベル4に引き上げました。さらに6月22日には、米海軍・空軍がイラン国内の核施設を空爆しましたが、6月23日に停戦合意が成立し、情勢は一時的に落ち着きました。
その後、7月下旬にレベル3、11月下旬に一部レベル2へ引き下げられましたが、12月28日、テヘランで経済悪化に対する抗議行動が発生し、各地に拡大、一部は暴動化しました。これを受け、2026年1月16日、日本政府は再びイラン全土をレベル4としました。

見落とせない起点――2024年の黙認

イラン情勢は2022年頃から不安定化の度合いを高めていましたが、状況が質的に変化した契機は、イスラエルとイランの直接対決が始まった2024年4月に遡ります。
この時、イスラエルはイラン本土の核関連拠点を攻撃しました。ただし、核施設そのものを大規模に破壊したわけではなく、イランの核開発を恒久的に阻止するという点では不十分な攻撃だったとされています。
この攻撃に対し、米国は事前関与を否定し、公開支持も行いませんでした。一方で、強い非難や制止も行わず、結果としていわゆる消極的容認の姿勢を取った形となりました。
当時のバイデン政権にとって最優先事項は、イスラエルの軍事行動が拡大し、中東全体が戦争状態に陥ることを防ぐことでした。そのため、イスラエルを公然と支持することも、強く抑え込むことも避ける判断が取られました。
結果として、この攻撃に対する国際社会の反発は限定的なものにとどまりました。核拡散を阻止するという名目の下で行われた核関連施設への攻撃は、国際社会の枠内で黙認され得るという前例が形成されました。要するに、核施設に対する軍事行動への敷居が事実上引き下げられたといえます。
その後もイランは核開発を継続し、施設の地下化や分散化が進んだとみられています。一方、国内では経済停滞と制裁の長期化を背景に、社会的な不満が蓄積し続けました。
バイデン政権は一貫して、外部から軍事的に圧力を加えることは、かえって国内のナショナリズムを刺激し、体制を引き締める結果を招くとの認識を持っていました。

▼ 2025年の転換――イスラエル自制から米国主導の核開発阻止へ

しかし、政権がトランプ政権に移行すると、米国の対イラン政策の方向性は明確に変化しました。トランプ政権は、バイデン政権のようにイスラエルに自制を求めつつ、その結果として報復リスクや地域不安定の管理責任を負い続ける立場を回避しようとしました。
また、イランの核施設の地下化・分散化がさらに進む前に、核施設そのものに実質的な損害を与える必要があるとの判断が強まりました。抑止と管理を続けるよりも、行動によって主導権を確保するという選択が優先されたといえます。
こうして2025年6月、イスラエルによる核関連施設への攻撃が行われる中で、米国はこれを傍観する立場を取らず、自らが主導してイランの核関連施設を攻撃する選択に踏み切りました。これは、イスラエルとイランの対立を単純に拡大させるものではなく、国際社会がイランの核開発を阻止するという構図へ転換させる意図を伴うものでした。
米国による空爆は、イランの核開発を完全に止めたわけではありませんが、いくつかの重要な効果をもたらしました。
第一に、空爆は大きな国際的批判を招くことなく、核開発が地域に与える脅威を管理するための手段として一定程度容認される形となりました。
第二に、イラン政府の統治能力は大きく削がれました。防空、核施設防護、対外調整を同時に行う必要が生じ、国内治安に集中できていた統治資源が分散しました。
第三に、国内の反政府的な市民層において、国家権力は米国というさらに強大な軍事力の前では万能ではないという認識が広がりました。
その結果、従来は政権によって抑え込まれていた不満が、暴動へと転化しやすい環境が形成されました。つまり、現在の暴動の拡大は、2025年6月の米国による空爆を一つの起点として理解することができます。

では、さらに軍事行動はあるのか

現時点において、米国による新たな軍事介入の蓋然性は高くないと考えます。主な理由は、次の三点に集約されます。
第一に、軍事介入には大義が必要です。核開発阻止を名目とする軍事行動には一定の国際的許容がありますが、他国の治安維持を理由とする軍事介入について、国際社会の容認を得ることは困難です。
第二に、軍事行動の効果が見込みにくい点です。外部からの武力行使は、体制内部の分裂を促すよりも、統治側の結束を強める方向に作用しかねません。
第三に、中東全体の不安定化につながるリスクがあります。イランの統治が崩れた場合、その後の混乱を外部が制御する手段は乏しく、報復や対外攻撃を誘発する恐れがあります。
一方で、空母の展開、日本政府による危険情報レベル4の発出、トランプ大統領の強硬な発言など、軍事行動を示唆する兆候を無視することはできません。

メッセージ――兆候と妥当性の両面からの評価

インテリジェンスでは、行動を予測する際、兆候と戦略的妥当性の両面から評価します。
ロシアによるウクライナ侵攻では、軍事的兆候が存在していたにもかかわらず、多くの専門家は「侵攻は起きない」と判断しました。合理性を重視した結果、実際の行動を予測できなかったのです。
今回のイラン情勢でも、思い込みによる決め打ちは禁物です。兆候を一つ一つ拾い上げ、妥当性と突き合わせながら評価していく作業が重要です。(了)