―フランスにも、故郷にも愛されなかった若者―
パリの空は、怒りで真っ赤に染まっていた。1789年7月14日。バスティーユ牢獄の門が群衆によって破られた瞬間、千年続いた王政の終焉と、新しい歴史の扉が同時に開かれた。「王も神も絶対ではない」――この考えが、民衆に火をつけた。
飢えた人々が武器を取り、貴族の館が焼き払われ、断頭台(ギロチン)に血が流れる。フランス革命。それは一国の「政変」ではなく、世界の価値観をひっくり返す出来事だった。秩序は崩れ、過去の制度は激情に飲み込まれた。王権と教会が否定されると、人々は「自らの正義」を掲げて殺し合いを始める。「自由・平等・友愛」――この美しい理念が、最も血なまぐさいスローガンにもなった。
そんな混沌の中から、一人の男が現れる。無名の砲兵士官が、革命の嵐を追い風にして、やがて世界を支配する皇帝になる。ナポレオン・ボナパルトである。革命がなければ、彼は一地方出身の軍人で終わったかもしれない。激動の時代は、「情念」を持つ者にこそチャンスを与える。歴史を動かすのは、冷静な理性ではなく、内に燃える何か――そのことを彼の人生は教えてくれる。
だが、彼は革命の英雄ではなかった。その頃のナポレオンは、地中海に浮かぶコルシカ島の片隅にいた。フランスに併合されて間もない、山と森に囲まれた島――彼の故郷だ。
若きナポレオンは、島の独立を夢見た英雄パスカル・パオリに心酔し、軍人として故郷に戻った。だが、皮肉にもそのパオリから「共和国の手先」として追放される。
フランスに渡れば「田舎者」と冷笑され、故郷では「フランスかぶれの裏切り者」と非難される。行き場のない若者。彼の中に、ルサンチマン(鬱屈した怒り)が静かにたまっていく。このルサンチマンが爆発するとき、歴史は動く。
コルシカにも、フランスにも属さない若き砲兵士官は、やがてこう誓う。「ならば、そのどちらでもない“上の世界”に立つしかない」ナポレオンは、かつて憧れた“祖国の英雄パオリ”にはなれなかった。ならばパオリを超え、世界を支配する者になるしかない――
その情念が、革命という混沌の時代に乗じて、静かに、しかし確実に燃えはじめていた。
― 小さな体に“情念の火”を灯した幼少期の島の記憶 ―
ナポレオン・ボナパルトは1769年、地中海の孤島・コルシカ島に生まれた。そのわずか1年前、この島はフランス軍に敗れ、独立を失っていた。英雄パスカル・パオリが率いた独立闘争は1768年に潰えた。
“自由の父”と称えられた男の敗北とともに、コルシカはフランス領に組み込まれた。ナポレオンは、「征服された側」の子として、この世界に生を受けたのである。
父カルロは地元の小貴族であった。だが、独立運動の失敗後は一転してフランスに接近した。少年ナポレオンの目には、それが「誇りを売る生き方」に映った。
家は貧しくはなかったが、裕福でもなかった。母レティツィアは厳格で、感情を表に出さない人物である。ナポレオンが悪さをすれば、容赦なく叱りつけた。その姿勢は、まるで兵士を鍛えるようでもあった。
のちにナポレオンは語っている――「私をつくったのは母だ」。ただし、その口調にはどこか突き放すような響きがある。優しく抱きしめられた記憶も、温かな言葉をかけられた記憶も、彼にはなかったのかもしれない。この“距離のある母性”は、後年のナポレオンの女性観――たとえばジョゼフィーヌとの関係にも、影を落とすことになる。
兄ジョゼフは社交的で人あたりがよく、誰からも自然に好かれた。一方、ナポレオンは無口で内向的。だが、その内には鋭い観察力とずば抜けた頭脳を秘めていた。
母はナポレオンに大きな期待を寄せていたようだ。しかし、それが愛情として伝わったかどうかは定かではない。少年の胸には、兄への嫉妬と「自分は愛されていない」という孤独感が、静かに蓄積していった。
そして9歳。ボナパルト家には、士官学校に送れる子は一人しかいなかった。両親はその枠に、ナポレオンを選んだ。「お前に家の未来を託す」と明言されたわけではない。だが、ナポレオンは理解していた。期待だけを背負い、愛情には飢えた少年は、強くなるしかなかったのである。奨学金を得て、母や兄弟を残し、少年はコルシカ島を離れた。
向かう先は、かつて島を征服した国――フランス本土。言葉も違えば、風習も違う。その地で彼は、孤独と怒りを胸に、冷静に世界を観察し始める。
「なぜ我々は負けたのか」「なぜ父はあんなふうに生きたのか」「どうすれば、自分が島と世界を変えられるのか」
このとき、誰も知らなかった――この小さな少年が、やがて“世界を征服する男”となることを。
――「異邦人」の士官候補生、そしてトゥーロン砲撃戦
ナポレオンは9歳で、故郷コルシカを離れた。向かった先は、フランス北東部・ブリエンヌの幼年学校。山と森に囲まれた島の少年にとって、そこはまるで“異国”だった。言葉も違う。習慣も違う。彼の名は「ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ」。イタリア語訛りのこの名は、あからさまな嘲笑の的となった。「ナポレオン・ボナパルト」――のちに彼がフランス風に名を変えるのは、この屈辱の体験があってこそである。
島の田舎貴族としての出自、粗末な服、コルシカ訛りのフランス語。彼はどこまでも「異邦人」だった。だがナポレオンは歯を食いしばり、観察と読書と勉学に没頭した。孤独を力に変える才能が、すでに芽吹いていた。
15歳でブリエンヌを卒業したナポレオンは、パリ近郊の王立士官学校(エコール・ミリテール)へと進む。貴族の子弟が集う名門。進学できたこと自体、彼の秀才ぶりを示している。だが、ここでも彼は「浮いて」いた。訛りは消えず、身なりも地味。舞踏会にも誘われず、昼食のテーブルでは孤立した。それでも学業だけは誰にも負けなかった。数学、幾何、地形学、そして砲術――彼の頭脳は、冷静無比な精密機械のように冴えていた。
士官課程は通常3年を要したが、ナポレオンは1年で修了する。父カルロの急死で家計が傾いたことも理由だったが、教官たちも「これ以上教えることはない」と評するほどの実力だった。
将来の道として選んだのは「砲兵」。それは地味で、華やかさに欠け、出世にも遠い分野だったが――彼にとっては、最も論理的で、実力主義の世界だった。計算と判断だけがすべて。血筋も言葉も関係ない。ナポレオンは、己の才能だけを武器に、この世界で生きていこうと決めた。
1789年、フランス革命が勃発。王政が倒れ、共和国が誕生する。ナポレオンはこの混乱の中、休暇を使って故郷・コルシカへ戻った。憧れの英雄パスカル・パオリは、亡命先から戻り、島の実権を握っていた。ナポレオンは、彼に忠誠を誓う。かつて心酔し、理想の象徴であった男のもとで、コルシカ独立のために尽くしたい――だがパオリは冷たく言い放つ。「共和国の手先など信用できぬ」ナポレオンは、失意のうちに島を追われた。フランスでも異邦人、コルシカでも裏切り者。彼に「祖国」と呼べる場所は、もうどこにもなかった。
そして1793年、転機が訪れる。王党派とイギリス軍が占拠した南仏の港町・トゥーロン。革命政府は奪還を決し、包囲作戦を開始した。この作戦で、砲兵の配置計画を任されたのが――若き砲兵大尉、ナポレオン・ボナパルトだった。彼は地形と火力の関係を綿密に分析し、丘陵に砲台を築いていく。「トゥーロンを制するのは港ではない、丘の上だ」その言葉通り、彼の砲撃戦略は敵の補給線を断ち、勝利を決定づけた。
降伏の気配が漂い始めたトゥーロンの市街には、王政復古を望む王党派が立てこもっていた。彼らは、イギリスやスペインといった敵国の艦隊を港に招き入れ、自らの祖国を裏切ったのである。つまり、同じフランス人でありながら、祖国を裏切った「反乱者」としての姿をさらしていたのである。
ナポレオンは、その市街に対しても容赦しなかった。砲撃は、軍事施設に限らず、住宅街や避難していた民間人にも降り注いだ。正確無比な砲弾が、無数の瓦礫と悲鳴を生んだ。この徹底した砲撃には、軍の中からも「やりすぎだ」「冷酷すぎる」との声が上がった。だがナポレオンは、振り返りもしなかった。――それができたのは、彼が“異邦人”だったからだ。そう語る者も少なくない。
コルシカ出身、フランス社会に居場所を持たぬ若者。だからこそ、彼は情に流されず、無慈悲に引き金を引けたのだと。この残酷な砲撃は、単なる軍事作戦ではなかった。フランスからも、故郷からも拒絶された若き砲兵士官が、自らの存在を刻みつけるために放った、魂の咆哮でもあったのだ。
町は陥落し、ナポレオンは将軍(准将)へと一気に昇進する。無名の砲兵士官は、一夜にして共和国の英雄となった。だがその胸には、いまだ冷めやらぬ怒りと――居場所のなかった少年の、熱い「情念」が燃えていた。
―ジョゼフィーヌに 征服された皇帝ナポレオン―
1973年のトゥーロンでの大勝利を経て、ナポレオン・ボナパルトはついに将軍の座を手にした。共和国を揺るがす混乱の中、若き砲兵士官が放った弾丸の軌道が、彼の出世街道を開いたのである。
だが、その英雄譚の陰で、彼にはもうひとつの「戦い」が始まっていた。恋という、もっと複雑で、もっと不確かな戦いが――。
ナポレオンは女性には決して積極的ではなかった。
母レティツィアの厳しい教育のもとで育てられた彼は、女性に対してはどこか不器用で、ぎこちなかった。士官としての自信は日々増していたが、ひとたび私生活に目を転じれば、むしろ臆病で、踏み出すことを恐れる青年の姿があった。
そんなナポレオンが一時、心を寄せた女性がいる。タリアン夫人――テルミドール反動を主導したポール・バラスの愛人であり、若くして社交界の華となった絶世の美女。14歳で上流階級の舞踏会にデビューし、革命期フランスの「サロンの女王」と謳われた。ナポレオンより2歳若く、誰もが見とれるようなその美貌と才気に、若き砲兵将校は心を奪われた。
だが、彼の想いはあっさりと退けられる。「痩せた小男」と陰口を叩かれたナポレオンの劣等感は、さらに深まることとなる。
心のどこかで、彼は敗北を味わっていた。そんなときに出会ったのが、一人の年上の女性であった。その女性の名は、ジョゼフィーヌ。洗練された身のこなし、優雅な話しぶり、男たちを虜にするその香水のような魅力――。
当時、ナポレオンより6歳年上であり、しかも革命で処刑された貴族の未亡人。周囲からは「ばあさん」と揶揄されていた。だが彼女には、人を惹きつける魔力があった。
ジョゼフィーヌは、ナポレオンの情熱を巧みに受け止めた。時にあしらい、時に優しく包み込む。母性と官能の狭間で、若き将軍の心は翻弄され、燃え上がっていく。ナポレオンが情熱の手紙を連日送りつづけたのに対し、ジョゼフィーヌは返事すら寄越さないこともあった。
だが、彼が前線に赴くと、さりげなく優しさを示す。それがまた、ナポレオンの恋慕を掻き立てた。彼は「自分がいなければ、ジョゼフィーヌは不幸になる」と信じ込み、彼女を完全に手中に収めるまで、心の平安を得ることができなかった。
のちに彼は皇帝となり、ジョゼフィーヌを皇后に据える。だがその関係は、甘くも苦い果実のようだった。
ナポレオンは、愛する者の心に火を灯し続けたが、その火がいつか消えるのではないかという不安に、常に駆られていた。彼は終わりなき恋の戦いに突入したのである。
ジョゼフィーヌはそれを巧みにいなし、じらし続けた。年上であることを逆手に取り、あえて突き放すような態度を見せ、時に彼の部下と浮気をし、時に冷たく距離を取った。それが若き将軍の恋心を、より強く燃え上がらせることを、彼女は知っていたのだ。
ナポレオンはフランスという国家を征服した。だが、彼女の心だけは征服できなかった。
それでも最期のとき、遠く離れていても、ふたりは互いの名前を呼び合ったという。征服には至らなかったかもしれないが、愛は、ついに成就していた。
若き将軍ナポレオンが最初に征服されてしまった相手――
それは戦場の敵ではなく、「ばあさん」と呼ばれた年上の女性だった。それは砲火ではなく、甘美な誘惑によって、静かに燃え上がった情念だったのである。
――国家も女性も征服できないからこそ執着する――
ナポレオンが革命の寵児バラスの庇護のもとで出会った二人の“サロンの女王”――大胆不敵なタリアン夫人と、冷ややかな美貌をたたえたジョゼフィーヌ。どちらも政治と欲望の只中で生きる女。ナポレオンは、そこに権力への通路を見出し、自ら進んで飛び込んでいった。
だが、実はこのふたりに出会う少し前、彼にはもうひとり、大切な女性がいた。
それは、タリアン夫人のような戦略家でも、ジョゼフィーヌのような妖婦でもない。
無垢で、ひたむきで、ただナポレオンを愛した「普通の娘」だった。
彼女の名は、デジレ・クラリー。
マルセイユの裕福な商人の娘で、ナポレオンよりも6歳年下。
のちにスウェーデン王妃となるこの女性との短い恋が、ナポレオンの「情念の物語」のはじまりだった。
1794年──
若きナポレオン・ボナパルトは、失職中の無名の砲兵将校だった。
前年、ヴァンデミエールの反乱に加担したジャコバン派寄りとみなされ、政敵の失脚とともに軍籍を外されたためである。
テルミドールの反動により、革命の潮目が変わり、ナポレオンも「過激派の将校」として干されていたのだ。
野心は燃え盛っていたが、国家からも軍からも見放され、彼を見つめる者は少なかった。
そんな彼に、小さな明かりを灯した女性。それがデジレ・クラリーだった。
彼女はナポレオンにとって、「家庭的な幸福」の象徴であり、
ひょっとすると彼が唯一、武器を置いてもよいと思えた相手だったのかもしれない。
だが、ナポレオンは「家庭」に安住する男ではなかった。
彼の心には、戦場の鼓動が鳴り響いていた。
世界を動かしたいという情念が、穏やかな愛情を置き去りにした。
ナポレオンは突然、デジレとの婚約を解消した。
「説明なき別れ」――。それは、彼の愛が不誠実だったからではない。
デジレの優しさは、あまりに彼の野心と釣り合わなかった。
彼は、母ラエティツィアのような、強く、自立し、時に冷酷な女性を必要としていたのだ。
そして、彼が次に惹かれていくのは、
華やかなサロンの世界で男たちを手玉に取るタリアン夫人と、冷たく距離を取るジョゼフィーヌ。
どちらもバラスという革命の重鎮の愛人。
それを承知で、ナポレオンはあえて彼女たちの懐に飛び込む。
そこに、出世と権力の扉があることを、彼は見抜いていた。
ナポレオンは女性を愛したのではない。
その背後にある「国家」や「階級上昇」の回路を愛したのだ。
愛においても、征服者たることを求めたナポレオンは、
若く従順なデジレを手放し、手強く冷たい年上の女に追いすがる。
しかし、皮肉なことに、サロンの女性たちは、ナポレオンにけっして征服されなかった。
彼女たちは、彼が征服を試みる国家のように、翻弄し、甘やかし、裏切った。
征服できない女性と、征服できない国家。
ふたつへの執着が彼の心に渦を巻き、
やがてその情念は、ジョゼフィーヌとの愛へ、
そして対外戦争へと突き進んでいくことになる。
――戦争と恋、その両方に征服されるナポレオン――
1796年、ナポレオン・ボナパルト26歳。若き将軍は、フランス政府からイタリア方面軍の指揮権を託される。そのわずか数日前、彼は6歳年上の未亡人ジョゼフィーヌと結婚したばかりだった。
本来ならば、二線級と見なされていたイタリア戦線。ライン方面に比べ、予算も兵力も限られ、軍の士気も低かった。当時の軍司令官候補には名の知れた将軍もいたが、最終的に白羽の矢が立ったのは、若干26歳、実戦経験も乏しいナポレオンだった。
それは「抜擢」というより、むしろ「放り出された」に近い。共和国政府、とくにバラスら総裁政府の首脳にとって、イタリア戦線は実験台のようなものだった。新米の将軍を試すには、ちょうどよい“戦場”だったのだ。
だが、ナポレオンはそこで“試される側”で終わらなかった。彼は、無秩序だった軍を掌握し、驚異的な速度で北イタリアを席巻する。「一将功成りて、帝国の地図を変える」。彼の真の“征服の物語”が、ここから始まるのである。
ナポレオンは山岳を越え、敵を翻弄し、次々とオーストリア軍を打ち破っていく。戦況の全体像を把握し、情報と兵站の流れを統制し、各個撃破で戦局を塗り替える。この電撃戦の様式は、のちに“ナポレオン戦法”と呼ばれるようになる。
フランス革命という大混乱の時代。王政復古を狙う列強。だがナポレオンは、次々と戦地を制圧し、“フランスの救世主”と謳われていく。彼の野望は、軍事戦略を通じて現実化しつつあった。
だがその裏側で、もう一つの「戦い」が続いていた。それは、ジョゼフィーヌへの想いである。イタリア戦線に赴任したナポレオンは、連日、彼女に手紙を送った。甘く激しい言葉で綴られる情熱の書簡。ときに一日に何通も、彼はジョゼフィーヌを想い、筆を走らせた。だが、返ってくる手紙は少なく、短く、素っ気ないものだった。
その頃のジョゼフィーヌは、パリに残り、社交界を満喫していた。ナポレオンからの情熱的な手紙を、彼女は時に友人たちと読み合って笑ったという。しかも彼女は、ナポレオンの部下であるイポリット・シャルルとの浮気を始めていた――。
この時期、ナポレオンは、戦地で勝利を重ねるほど、ジョゼフィーヌへの執着を深めていく。遠く離れている彼女の気持ちが、手のひらからこぼれ落ちていくのを感じながら、彼は、征服するはずの愛に、逆に心を支配されていく。
ジョゼフィーヌの側から見れば、それは「仕掛けた戦争」だったのかもしれない。年下の男の情熱をコントロールし、わざと距離を取り、時に浮気という武器すら使って彼の心をつなぎ止める。その駆け引きの妙が、ナポレオンの恋をより烈しく燃え上がらせた。
彼は国家を征服した。しかし、ジョゼフィーヌの心は征服できなかった。だからこそ、彼は執着した。ジョゼフィーヌを追い続け、皇帝になってからも彼女を皇后に据えた。だがその愛は、いつまでも不安と嫉妬に揺れ続けた。
――勝ち続けても満たされない男。――すべてを得ても、愛だけは手に入らない男。ナポレオンは、ジョゼフィーヌの心と、戦場の勝利とを重ねていたのかもしれない。どちらも、油断すればすぐに手の中からこぼれ落ちる、つかの間の勝利。そしてこの恋が、彼をより多くの「征服」へと駆り立てていく。
――エジプトへ、神々の声をまといし将軍――
1798年、ナポレオン・ボナパルト29歳。
彼は突然、地中海の彼方――エジプト遠征を開始する。目的は大英帝国のインド航路を遮断するためだったが、それは建前に過ぎない。
ナポレオンの本心はもっと深く、もっと劇的だった。
それは、「征服王アレクサンドロス」への執着である。
ペルシャ遠征の途次、アレクサンドロスがトロイの古戦場に立ち寄り、ギリシャ神々に戦勝を祈ったように、ナポレオンもまた、「自らの神話」を創る旅に出た。
彼は兵士たちを前に、こう語った。
「兵士諸君、諸君の目の前に広がるのは、4千年の歴史が眠る地だ!」
歴史という“神の声”をまとい、自らを時代の寵児から永遠の英雄へと昇華させようとしたのである。心理戦の鉄則――自らの存在を神話化し、兵士の心を掌握せよ。
上陸後、ナポレオンがまず行ったのは、意外なことだった。
それは、「自分はイスラムの友である」と宣言すること。カイロで出した布告ではこう述べた。
「私はアッラーを尊ぶ者である。私はクルアーンを敬愛している。」
なぜそんなことを? それには明確な理由があった。
当時、エジプトの支配者はカソリックでもユダヤ人でもなく、オスマン帝国の地方総督とマムルーク軍、つまりイスラム圏の旧勢力である。そしてエジプトの現地住民もまた大多数がムスリムだった。
つまり、「異教徒=カソリック帝国」vs「イスラム住民」という構図が成立していた。
だからこそ、ナポレオンはあえて「反カソリック的イスラムの友」を演出し、住民の共感を引き出す政治心理戦を仕掛けたのである。
これには、クルアーンの教えを参照するムスリム学者(ウラマー)たちの中にも、「このフランス人将軍はただの侵略者ではない」と見る者も現れた。
ナポレオンのこの柔軟な「宗教戦略」は、後の宗教対立時代とは対照的である。
このエジプト遠征には、もう一つの「私的な意味」があった――それは、総裁政府、そしてその背後にいた男・ポール・バラスの影から、自らを解き放つことである。
ナポレオンは若き日、パリ社交界でバラスに見出され、軍人として頭角を現すきっかけを得た。バラスは総裁政府の実質的な権力者であり、当時のフランス政界を牛耳っていた人物である。そして、彼の愛人だったのがジョゼフィーヌ。ナポレオンが後に妻とする女性だ。さらにナポレオンが一時期心惹かれたもう一人の女性、タリアン夫人もまた、かつてバラスの情婦だった。
つまりナポレオンは、出世も愛も、つねに「バラスの残り物」を与えられる立場にあった。恋愛でも、軍事でも、政治でも――バラスは、彼の前に立ちはだかる象徴的な“壁”だったのである。
だからこそ、エジプト遠征はナポレオンにとって「単なる国外派遣」ではなかった。それは、過去の庇護から脱し、自らの力で“英雄”としての地位を確立するための脱皮の場だった。
バラスの意を受けて遠征に赴きながら、その地で“神々と対話する征服者”へと変貌する――。それは恩義や過去の因縁に囚われた存在から、己の運命を握る“新しい主”への進化だった。
ナポレオンはここで、バラスに象徴される旧体制や階級社会、そしてルサンチマン(怨恨)の束縛すら乗り越え、「自分こそが歴史を動かす存在である」ことを、世界と自分自身に示そうとしていたのだ。
帰国したナポレオンは、クーデターでバラスの総裁政府を倒し、自ら第一統領となる。1804年には皇帝に即位し、ジョゼフィーヌを皇后に据えた。
だがその関係は、すでに冷え切っていた。
ジョゼフィーヌとの間には子ができず、周囲からは「跡継ぎ」を求める声が高まっていた。
ナポレオン自身もまた、彼女の過去――浮気、社交界の軽薄な交遊、そしてバラスとの関係――をいつまでも忘れることができなかった。
それでもなお、ジョゼフィーヌを皇后にしたのはなぜか?
それは、征服できなかった愛にこそ、彼が執着したからである。
彼女が心から自分だけを愛したとは思えない。だからこそ、彼女を傍に置くことで、「愛の勝利」を証明しようとしたのだ。
ナポレオンはジョゼフィーヌを皇后に即位させた5年後、最終的に離婚する。ナポレオンは戦場でも政治でも頂点へと駆け上がった。しかし、その代償として、心の奥底に潜む「不安」と「空虚」もまた膨らんでいった。
次回はいよいよ、ナポレオンという男の内面に迫る。戦争の天才が踏み込んだ“凍てつく戦場”――ロシア遠征。そしてその果てに待っていたのは、軍事的敗北だけではなかった。栄光とともに積み上げてきた「自信」そのものが、音を立てて崩れていく。
情念に突き動かされた男が、初めてその情念を持て余したとき、何が起きたのか。次回、「ロシア遠征と崩れゆく自己像」を語ることにしよう。
―――ロシア遠征と「戦略」の崩壊――
1804年、ナポレオンは皇帝に即位し、ジョゼフィーヌを皇后に迎えた。
しかし、彼女は40歳を過ぎ、後継を望む国内外の圧力の中で、皇帝夫妻の関係には陰りが生まれていく。1809年、ナポレオンはついに離婚を決断し、ジョゼフィーヌもそれを受け入れた。そして1810年1月、フランス元老院の承認を得て正式に離婚が成立する。
その晩に開かれた発表の晩餐会で、ジョゼフィーヌが涙ながらに「私は皇帝の決定を受け入れます」と述べたとき、ナポレオンもその場で彼女の手を取り、抱き寄せ、嗚咽したという記録が残る。
その後、彼は1810年3月にハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと再婚する。この政略結婚は、「血統と正統性」への執着であると同時に、思い通りにならなかったジョゼフィーヌとの関係に終止符を打つ、ナポレオンの私的な決別でもあった。
当初、マリー・ルイーズは、親子ほども年の違うナポレオンに愛情はなく、また、彼との結婚に対して強い不安を抱いていた。オーストリア皇女として、ナポレオンを「革命の申し子」、そして父の敵とみなしていたからである。それでも、皇帝は彼女に優しく接し、マリー・ルイーズも次第に夫としてのナポレオンに従順に振る舞うようになる。
1811年には長男ナポレオン2世が誕生し、名実ともに「皇帝の後継者」が得られたことで、ナポレオンの王朝的野望はひとつの完成を迎える。表向きは安定した皇室を築いたかのように見えたが、マリー・ルイーズはナポレオンを心から愛したわけではなく、後年、彼が失脚した後には忠誠を捨て、オーストリアに留まり再婚することになる。
ナポレオンが最後まで屈服させられなかったのは、イギリスとロシアだった。
1805年、トラファルガー海戦でイギリス海軍に敗れた後、彼は陸上戦力で覇権を築こうとし、プロイセンやオーストリアを打ち破って欧州大陸を席巻していった。
1806年には、「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」を発し、イギリスおよびその植民地からの商品や船舶の大陸諸港への出入りを禁止。ヨーロッパ大陸全体からイギリスを経済的に孤立させ、干上がらせようとする壮大な「経済戦争」を仕掛けた。
封鎖令は一時的な効果を示したものの、やがてロシア皇帝アレクサンドル1世が自国経済の疲弊を理由にイギリスとの交易再開へ傾き始める。
ナポレオンは「外交圧力と経済封鎖」が効かないと判断し、ついにロシアとの直接対決――武力行使に踏み切る決意を固めた。
1812年、ナポレオンは43歳。60万を超える兵を率いてロシアへ侵攻。
この「グランド・アルメ(大陸軍)」は、フランスのみならず征服下の諸国から兵を集めた多国籍軍であった。
ナポレオンの戦略は、ロシア軍の撃滅ではなく、象徴都市モスクワを占拠することで皇帝アレクサンドルに講和を強いるというもの。
だが、ロシア軍は戦わずに撤退を繰り返し、焦土作戦で自国の町や補給拠点を焼き払っていった。モスクワにようやく到達したとき、そこは無人の廃墟だった。
講和の使者を何度送っても、アレクサンドルは交渉に応じない。ナポレオンの戦略は完全に瓦解した。冬が迫る中、モスクワに駐留し続けるのは不可能だった。
退却を決断するが、補給も退路も失われ、寒さと飢えが兵士たちを容赦なく襲う。戦って敗れたのではない。戦わずして自壊したのだった。
60万の兵のうち、生還したのはわずか数万――ナポレオンの「不敗神話」はここに終焉を迎えた。このロシア遠征は、単なる軍事的敗北ではなく、「自分なら世界を導ける」と信じていたナポレオン自身の“自信”の崩壊でもあった。
1813年のライプツィヒの戦いでは、かつての同盟国にさえ見放され、1814年にはパリが陥落し、ナポレオンはエルバ島へと追放される。
そしてその年――1814年5月29日。かつての皇后ジョゼフィーヌがマルメゾン城で亡くなる。肺炎だった。彼女は離婚後も、ナポレオンの消息に一喜一憂し、遠征先の彼に手紙を書き続けていた。病床では、「ボナパルト……」とつぶやきながら、静かに息を引き取ったという。
この報せは、エルバ島に追放されていたナポレオンのもとにも届いた。彼は側近の前で涙を流し、「私は、彼女の死によって二度目の打撃を受けた」と語ったと伝えられている。
皇位を追われ、野に下ったナポレオンが受けた“もう一つの退位”――それは、愛という名の王国からの退場でもあった。
――勝利と敗北の末に、情念だけが残った――
1814年、ロシア遠征の敗北をきっかけに、ライプツィヒの戦いで各国の連合軍に敗れ、パリも陥落。ナポレオンは皇帝の座を追われ、地中海の小島・エルバ島に追放された。だが、それで彼の情念は終わらなかった。
翌1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出。フランス本土に上陸すると、彼を裏切ったはずの兵士たちが次々と膝をつき、「皇帝万歳!」と叫ぶ。ついに彼は再びパリに入り、政権を奪還――この奇跡の復活劇が、のちに「百日天下」と呼ばれる。しかし、情念の燃え上がりは、長くは続かなかった。
ナポレオン最後の戦いとなったのは、1815年6月、ベルギーのワーテルロー。ウェリントン率いるイギリス軍と、プロイセン軍を相手に、彼はかつての戦術を駆使して猛攻を仕掛ける。
だが、それは「過去の自信」をなぞっただけの戦争だった。彼の体力も、判断力も、もはや往年の輝きには及ばず、味方の遅延や誤報も重なり、最終的に壊滅的敗北を喫する。ここに「ナポレオンという神話」は完全に終焉を迎えた。捕らえられたナポレオンは、今度は大西洋の孤島・セントヘレナへと送られる。南大西洋の絶海、セントヘレナ島――地図の片隅にようやく見つかるほどの小島だった。
彼はそこで6年を過ごす。回想録を口述し、かつての戦いを振り返り、自らの神話を語り続けた。しかしその日々は、もはや勝利者の栄光ではなく、過去の亡霊と向き合う静かな時間であった。
ナポレオンがセントヘレナに送られる1年前――1814年5月29日、元皇后ジョゼフィーヌはマルメゾン城で静かに息を引き取った。「ボナパルト……」それが彼女の最後の言葉だったという。肺炎に倒れた彼女は、最期までナポレオンを案じ続けていた。
この報せを受けたナポレオンは、側近にこう漏らしたとされる。「私は二度、破滅した。ロシアで。そしてジョゼフィーヌを失って。」政治に翻弄された愛。勝ち続けることで壊れていった自己像。そして最後に残ったのは――“たった一人の女”への想いだった。
1821年、セントヘレナ島にてナポレオン死去。享年51歳。「余の死後、ヨーロッパは退屈するだろう」と語ったという。
彼の人生は、まさに情念と野望の交錯であった。撤退できない愛、後戻りできない戦争。ナポレオンは「合理の人」でもあり、「情念の人」でもあった。
情念とは、後戻りできない感情なのだ。それは、ときに国家を動かし、人心をも巻き込む。ナポレオンが築いた帝国は滅びた。だが、彼の情念は、いまも多くの人を惹きつけ続けている。それは英雄が征服した領土よりも、遥かに広い世界なのかもしれない。
(完)
