「関税で儲かった」は本当か――数字の裏で誰が負担しているのか

関税収入「過去最高」というニュース

2025年11月9日、トランプ大統領は自身のSNS「Truth Social」で、アメリカは関税で莫大な収入を得ていると主張しました。あわせて、高所得者を除く多くの国民に「一人2,000ドル以上の関税配当を支給する」と発表しました。さらに、関税に反対する人々を「愚か者だ」と批判し、自分の政策は正しいと強く訴えました。

実際に、米財務省の統計によると、2025年1~9月の関税収入は約1,950億ドルとされ、過去最高のペースです。この数字だけを見ると、「アメリカは関税で儲かった」と言いたくなる状況です。

関税負担の実際

関税がかかると、輸入品の販売価格は上がります。

たとえば、アメリカの輸入業者が中国から100ドルで仕入れた冷蔵庫を120ドルで売っているとします。アメリカ政府が25%の関税をかけると、輸入業者は政府に25ドルを支払うことになります。その分を販売価格にのせるので、店頭価格は145ドルになります。

輸入品が145ドルに上がれば、国内メーカーは「競争相手が値上げしたなら、うちも多少なら値上げしても売れる」と考えます。実際には120ドルの国内製品が130ドル、135ドルに上がることがあります。こうした動きで、同じ種類の製品は全体的に値段が上がります。

同じ現象は、衣料品、家電、家具、自動車部品などの日用品でも起きています。たとえば、20ドルのTシャツが25ドル、300ドルの掃除機が330ドルなど、少しずつ値段が上がっています。日々の買い物の価格が上がれば、たとえ関税配当を受け取っても、その分がすぐに支出に消えてしまうことがあります。

企業も負担を受けます。輸入に頼っている部品や原材料が高くなり、製品をつくるコストが増えるからです。コストが増えれば、会社は賃金を上げにくくなり、新しい機械や設備にお金を回す余裕もなくなります。こうした負担が積み重なると、企業の活動は鈍くなり、景気の勢いが弱くなります。関税がかかると、輸入品の販売価格は上がります。

中国企業の「値下げ負担」

トランプ大統領はよく「関税は中国が払っている」と主張します。この言い方は大げさに聞こえますが、実際に中国企業が関税分を肩代わりするケースはあります。

関税がかかると、アメリカの輸入業者は25ドルを政府に支払わなければなりません。輸入業者は自分の負担を増やしたくありませんし、商品をこれまでと同じように売りたいと考えます。そこで、中国企業に「仕入れ値を下げてほしい」と求めます。

中国企業はアメリカ向けの販売を維持したいので、本来100ドルで売る冷蔵庫を80ドルまで下げて輸出することがあります。輸入業者は80ドルに25ドルの関税を足して105ドルで販売できます。店頭価格が100ドル台に収まれば、アメリカの消費者は大きな値上がりを感じません。

このように、中国企業が値下げして関税分を吸収し、アメリカ側の負担を減らすことがあります。トランプ大統領が言う「関税は中国が払っている」という言葉は、このようなケースを指しています。

税収増が抱える政治的リスク

関税で税収が増えているように見えても、それは誰かがその分を負担した結果です。負担のしかたには三つあります。

① 消費者が値上がりを受け入れて買う。

② 輸入業者が原材料や部品の高い仕入れ価格を吸収し、利益を削って売る。

③ 中国企業が価格を下げて輸出し、下げた分が関税分の穴埋めになる。

税収の増加は、この三つの負担の合計にすぎません。アメリカ経済が強くなったわけではなく、誰かがその分を支払っているだけです。物価上昇と企業コストの増加が続けば、家計と企業に不満がたまります。こうした不満は政治に向かい、トランプ大統領の支持率を押し下げる可能性があります。

さらに、関税をかけても中国製品が売れ続けている現状は、アメリカ国内の企業が十分な競争力を持てていないことを示します。外国製品への依存が続いているため、関税収入が増えても産業の基盤は強くなりません。この状況では、トランプ大統領が掲げる「自国ファースト」や「強いアメリカの復活」は実現しません。

関税で税収が増えても、それだけでは国は強くなりません。負担の行き先を見ないままでは、政治も経済も安定しないということです。

メッセージ

ニュースを読むとき、目につきやすいのは税収や成長率といった数字や派手な見出しです。しかし、その数字がどのように生まれたのか、誰がどこで負担を抱えているのかを見ないと、本当の姿はわかりません。

どの政策にも、利益を得る人と、静かに負担を引き受ける人がいます。表に出てくる「良いニュース」だけで安心せず、数字の背景や前提を一つずつ確かめる姿勢が大切です。

言葉が強いと、ついそのまま受け取ってしまいますが、強い言葉ほど慎重に読む必要があります。それが、複雑なニュースを読み解き、事実を見誤らないための確かな視点になります。

(了)

インテリジェンス思考術(第7回)

■「問いの設定」とは何か

前回のニュースレターでは、インテリジェンス・サイクルの基本を短く紹介しました。国家レベルでは、使用者(政策決定者)が情報要求を出し、情報組織がその要求に基づいて情報を集め、分析し、最終的にインテリジェンスとして使用者へ渡すという流れになっています。

しかし、このサイクルは理想形です。個々の分析官がその流れを待っているだけでは、質の高いインテリジェンスは作れません。分析官は、使用者がどのような判断を迫られているか、どの情報を必要としているかを洞察する必要があります。
この「相手の立場に立って情報要求を読み取る作業」が、「問い」の設定です。

ビジネスの現場では、インテリジェンス・サイクルは確立されておらず、経営層から明確な情報要求が出されないことが多いと思われます。そこで、自ら問いを立て、経営判断に役立つインテリジェンスをつくり、相手に“売り込む”必要があります。だからこそ、問いの設定の技術が重要になります。

問いの設定とはなぜ必要か

ビジネスには戦略が必要です。戦略をつくるには知識が必要です。しかし、何でも知ろうとすると、戦略に必要のない情報まで集まってしまいます。そこで、最初に「何を知るべきか」をはっきりさせる必要があります。

この「知るべきこと」を決める作業が問いの設定です。問いの設定は、情報を集めるときの出発点であり、分析の方向を決める最も重要な過程です。問いが決まれば、余計な情報に惑わされず、必要な情報だけに集中できます。筆者は昔、ある国の情報分析官から「分析の成功の七割は問いの設定で決まる」と聞いたことがあります。

この考え方は、安全保障だけでなく、経営や研究にも当てはまります。ドラッカーは「大きな失敗は、間違った答えではなく、間違った問いに答えることだ」と述べました。情報学者の上野千鶴子氏も、「良い問いが立てば研究はほぼ成功したようなものだ」と言っています。

問いには戦略の問いと情報の問いがある

インテリジェンスは戦略判断を支えるためにあります。したがって、問いは戦略判断と直接つながっていなければなりません。

たとえば、あなたがある企業に就職したいと考えるなら、「その企業に入るために何を準備するのか」「いつまでに準備するのか」という戦略の問いが生まれます。しかし、この戦略は思いつきでは意味がありません。戦略を実行するには、その前に必要な事実をそろえる必要があります。そこで、戦略の問いを具体的な情報の問いに分けます。

その企業のビジョンは何か。どんな人材を求めているのか。どの部署を強化しているのか。どのような能力を評価しているのか――これらが情報の問いです。これらの事実を知らなければ、どんな準備をすべきかという戦略の問いに答えることができません。

このように、問いには二つの段階があります。最初に「何を、なぜ、どうするのか」という戦略の問いを立てます。次に、その戦略を実行するために必要な事実を明らかにする情報の問いを設定します。

情報の問いは、自社、競争相手、周囲の環境という三つの視点からつくります。就職でいえば、企業の方針(環境)、競争相手となる他の応募者(相手)、そして自分が備えている能力(自社)の三つです。

この三つの視点をそろえれば、戦略の問いに答えるための情報が集まります。

問いに備えるべき要件

問いには次の三つの要件があります。

有用性(その問いは使用者に役立つか)

有用性とは、その問いが使用者の判断に役立つかどうかです。
問いが役に立たなければ、どれほど丁寧に情報を集めても戦略は正しい方向に向かいません。

例として、戦略の問いが「中国に販売店を出すべきか」であるとします。この問いに答えるために、南アフリカの政治情勢を調べる必要はありません。理屈をつければ関連はあるかもしれませんが、通常は判断に直接つながりません。

販売店を出すなら、中国の政治情勢、対外政策、競合他社の進出状況など、知るべきことは多くあります。ここで問題は、どこから調べるかです。

たとえば、「中国の市場規模はどの程度か」という問いを情報の問いとして設定したとします。ここで重要なのは、「なぜ市場規模を知る必要があるのか」
そして、「市場規模を知ったら何が変わるのか」 という視点です。

市場規模は、ビジネスが成立するかどうかを判断する材料になります。もし市場が小さければ、どれほど競争環境が良くても利益が出ません。逆に市場が大きければ、リスクを取っても進出する価値があります。

つまり、問いの理由を明確にすることで、その問いが本当に役立つかどうかを検証できます。この検証こそが、有用性の判断です。

可能性(答えられる問いであるか)

問いは、自分が情報を集め、自分が分析して答えを出せるものでなければ意味がありません。ここで言う「答える」とは、本に書いてあることや、人に聞けば分かることではありません。自分の判断として結論を出せるという意味です。

たとえば、「次のパンデミックはいつ起きるか」という問いは誰も答えられません。同じように、「首都直下地震は起きるのか」という問いも専門家ですら断定できません。こうした問いは、自分がどれだけ努力しても答えにたどりつけないため、問いとして適切ではありません。

しかし、これらの問いを「自分でも答えられる問い」に置き換えることはできます。

たとえば、飲食業に関わる人であれば、
「2020年に起きた規模の感染症が再び発生した場合、客足はどこまで落ちるか」
という問いに変えれば、過去のデータを使って自分で分析できます。

地震についても同じです。
「首都圏で交通が3日止まった場合、各店舗の在庫はどこまで持つか」
という問いにすれば、物流データや過去の災害記録を基に自分で答えを出せます。

このように、答えられない問いは、前提条件を明確にすることで「自分で分析できる問い」に変えることができます。問いの可能性とは、この“問いの変換ができているかどうか”を指します。

重要性・緊急性(二つの軸を総合して、知るべき問いを決める)

問いの価値は、重要性と緊急性の二つの軸で決まります。状況の変化によって、この二つの軸は大きく動きます。そのため、どの問いに時間を使うべきかは、常に総合的に判断しなければなりません。

たとえば、あなたの会社が家電の新製品を計画しているとします。会社は顧客から高い信頼を得ており、性能にも強みがあります。この段階では次の問いが中心になります。

「市場の需要はどの方向に動いているのか」
「顧客はどの機能を求めているのか」

これらは重要です。ただし、急いで答えを出す必要はありません。

競合の動きも気になりますが、そこで「競合は将来どんな製品を出すのか」という問いを設定します。ただし、当初は自社との実力差が明確であり、大きな脅威ではありません。このため、この問いは重要ではあっても、最初の段階では顧客情報よりも優先度が低く、緊急でもありません。

ところが、状況が変われば、この二つの軸の重みも変わります。たとえば、
競合同士が合併し、技術を統合して半年後に新製品を出す可能性が高い
という情報が入ったとします。

この一報によって、これまで優先度が低かった競合の問いは、重要性と緊急性の両方が急に高くなる ことがあります。

すると、次の問いが最優先になります。

統合した競合の技術力はどこまで強化されるのか」

「自社との性能差はどこに生まれるのか」

「発売までに自社が調整できる点はどこか」

このように、問いの重要性と緊急性は固定されたものではありません。状況によって変化します。大切なのは、どちらか一方だけを見るのではなく、重要性と緊急性の両方を総合して、今の判断に最も役立つ問いを選ぶことです。

まとめ

良いインテリジェンスは、良い問いから生まれます。問いをつくることは、情報を集めることより難しい場合があります。しかし、その問いが正しく立てば、分析の道筋が見え、判断の精度が一気に高まります。

ビジネスでも安全保障でも、答えより先に問いをつくることが、最も価値のある作業です。問いこそが全ての出発点であり、終着点であるのです。

米国がG20もCOPも離れ始めた――その空白を中国が埋める

米国が不参加を明言

2025年11月7日、ドナルド・トランプ米大統領は、11月22〜23日に南アフリカ・ヨハネスブルグで開かれるG20サミットに対し、「米政府関係者は誰も出席しない」と明言しました。理由として、南ア政府がアフリカーナーに対して土地の違法没収や迫害を行っていると主張しました。

また、11月10日からブラジル・ベレンで開かれるCOP30でも、米政府は代表を送っていません。米国は、自らが主導してきた多国間協議に対し、明確に「参加しない」という姿勢を示したことになります。

制度の“所有者”から“離脱者”へ

米国は長年、G20やCOPといった国際協議を、自国が議論を主導し、自国の利益に沿う形で制度を動かすために活用してきました。しかし近年、これらの制度が米国にもたらす利得が、かつてほど大きくなくなっています。

気候変動の議論では、途上国支援や気候資金が中心となり、新興国やアフリカ諸国の発言力も増しました。米国が従来のように議題を主導する余地は狭まり、交渉の重心は“南”に移りつつあります。米国政府が「気候交渉は詐欺だ」という発言を行う背景には、制度への不信と、制度外で自国の利益を確保しようとする姿勢の強まりがあります。

今回の不参加は、米国が「制度の内側で主導を握る国」から、「制度そのものに距離を置く国」へと立場を変えつつあることを象徴しています。

空白を狙う中国とグローバル・サウス

米国が制度から離れると、そこに必ず空白が生まれます。その空白を最も積極的に埋めようとしているのが中国です。

中国は、COPやG20の場で南アフリカやブラジルを含む途上国との協力を深め、気候支援や貿易を通じて自らの影響力を広げています。米国の不在が目立つほど、中国が議論の方向性をつくりやすくなります。

さらに中国は、「米国は多国間協議に後ろ向きだ」という構図を同盟国や周辺国に示し、自らを代替的な枠組みとして提示する可能性があります。米国の不参加が単発の出来事ではなく、制度そのものから距離を置く流れの一つと見るなら、中国の動きは国際秩序の今後を考えるうえで重要な兆候となります。

日本にとっての課題

結局、今回の問題が日本に突きつけているのは、日米同盟を基軸としながら、多国間協議にどう向き合い、日本の存在感をどう維持するかという課題です。

日本は軍事面で米国と協力しつつ、外交の場では自らの発信力を落としてはなりません。国際協議で日本の立ち位置が弱まれば、国内で説明してきた「国際貢献」の内容にも説得力を持たせにくくなり、同盟を支える世論にも影響します。

さらに重要なのは、中国が国際協議の場で影響力を大きくし、それを国内外の政治に利用しようとしている点です。COPやG20での発言力は、中国が「責任ある大国」という姿勢を示し、台湾やアジアで主導権を握ろうとする際の強力な後押しになります。

中国は、米国と日本の立場の違いをよく見ています。米国が距離を置く協議の場で、日本が十分に発信できなければ、その状況を利用して「日本は地域の声に向き合っていない」といった批判を展開し、対日政策の一部として活かす可能性があります。

G20やCOP30をめぐる今回の動きは、国際協議の場が“米国が必ず中心にいる場所”ではなくなりつつあることを示しています。そして、中国がその変化をどう自国の力に変えようとしているかを読み解くことが、日本にとっての実質的な安全保障・外交上の関心事です。

メッセージ:ニュースの裏側を読む

ニュースの表面だけを見れば「米国が参加しなかった」という一行で終わります。しかし、その裏側では、主導権を争う動きが静かに進んでいます。

日本が注視すべきは、“なぜ米国が制度から距離を置き始めているのか”という点だけではありません。もっと重要なのは、その空白を中国がどのように利用し、自国の立場をどう強化し、日本にどのような圧力として跳ね返してくるのかという点です。

表側のニュースの裏側にこそ、逃してならない重要なニュースが潜んでいます

(了)

インテリジェンス思考術(第6回)

インテリジェンス・サイクルとは何か

国家安全保障の業務では、情報を集めて分析し、意思決定者に提供する一連の作業があります。この作業を「インテリジェンス・サイクル」と呼びます。米国CIAは次の55つの段階に整理しています。

  1. 計画・指示(Planning & Direction)
    使用者が求める内容を受け、どの情報が必要かを決め、収集計画を作る。
  2. 収集(Collection)
    計画に沿って、担当機関が国内外の情報源から情報を集める。通信傍受や偵察衛星もここに含まれる。
  3. 処理(Processing)
    集めた情報を読める形に整理し、必要な項目ごとに分類する。
  4. 分析・作成(Analysis & Production)
    整理された情報を基に、判断に役立つ内容へと加工し、インテリジェンスを作成する。
  5. 配布(Dissemination)
    作成したインテリジェンスを、口頭・文書・デジタルなどの形で使用者に届ける。

国家の情報機関でも、企業のインテリジェンス部門でも、この基本的な流れは変わりません。要点を簡潔にまとめれば次の4つです。

  1. 知るべきことを選ぶ。
  2. 情報を集める。
  3. 集めた情報からインテリジェンスを作る。
  4. 作ったインテリジェンスを使用者に届ける。

「鶏と卵」の問題

インテリジェンスの成否は、どれだけ多くの情報を持っているかではなく、「何を知るべきか」を正しく選べるかで決まります。イギリスの哲学者アイザイア・バーリンは『ハリネズミと狐』で「狐は多くを知るが、ハリネズミは大事なことを一つ知る」と書きました。情報要求を設定する場面では、大事な一点を見抜くハリネズミの姿勢が求められます。一方、分析や予測では、多くの要素を把握する狐の姿勢も必要です。

国家安全保障の理論では、使用者が「何を知りたいか」を示し、それを「情報要求(Intelligence Requirement)」と呼びます。しかし現場では、使用者が情報要求を出さないために作業が進まない、という問題が繰り返し起きます。使用者が要求を出さなければ、生産者は情報を集められず、インテリジェンスを作れません。

一方、使用者側も「何を知るべきか」がわからないので要求を発出できません。インテリジェンスがないため、状況の深刻さも読み取れないのです。この状態が「鶏と卵」の問題です。

生産者に求められる積極性

冷戦期の欧米の情報機関は、明確な対象(共産圏)があり、情報要求がなくても、共産圏の動きを追っていれば機能しました。しかし冷戦後は脅威が多様化し、使用者の要望だけでは対応できなくなりました。

そこで、アメリカの有名なファンドの創設者ブルース・バーコウィッツは『情報機関を立て直すには』で次のように述べています。
「インテリジェンス担当者は、積極的に使用者のところへ行き、相手を知り、自分の作ったプロダクトを売り込むくらいでなければならない」

インテリジェンスの生産者と使用者の距離感は一定ではありません。アメリカの情報機関は、政策に迎合しないために、政策判断の領域には踏み込みません。しかしイスラエルの情報機関は、大統領への報告時に政策の選択肢まで提示するとされます。

企業の場合はさらに違います。国家のような組織構造がなく、使用者と生産者の境界がはっきりしません。経営陣が具体的な指示を出さないまま、担当者に問題の整理から解決策までを求める場面も多くあります。

知るべきことを明確にする

何を知るべきかを明確にすることは、国家でも企業でも重要なことです。少し、簡略化して説明します。

例えば、首相が「台湾有事に備えて南西諸島の防衛力を強化すべきか」を検討するとします。この場合、情報機関が最初に評価すべきは中国軍と台湾軍の能力です。極東ロシア軍の動きは、判断の優先度が高いとは言えません。使用者が取り組もうとしている判断を明確にし、その判断に必要な情報を選ぶことが出発点になります。

企業でも、外食企業が「新商品の市場シェアを伸ばしたい」と考えているなら、担当者がまず調べるべきは顧客の嗜好です。競合の社内事情よりも、市場の動きに直結する情報が優先されます。

問いを多角的に見直す

最初の問いが正しいとは限りません。判断を左右する要因は、一つの領域に限られないからです。

外食企業の例でも、新商品の市場シェアを巡る主要な競争相手が同業他社とは限りません。ある企業では、新商品の市場シェアを奪っていたのは外食企業ではなく、コンビニエンスストアが売るレトルト食品でした。消費者が「自宅で簡単に食べたい」と考える場面では、外食と小売の境界は消えます。

このような場合、担当者は、最初の問い「競合他社の動きを調べるべきか」を見直し、

「消費者が代わりに選ぶ食品は何か」

「その食品を扱う企業の戦略はどう変わっているか」

という異なる角度から問いを立て直す必要があります。

問いを多角的に見直す作業がなければ、使用者が気づかない領域で競争が進んでしまいます。

問いを提案するという役割

このように、担当者は「知るべきこと」をただ確認するだけでは役割を果たせません。使用者が示した最初の方向性を踏まえつつ、状況を広く見渡し、必要だと思う問いを使用者に提案する姿勢が求められます。

担当者は、経営層に次のように働きかけます。「いま検討している判断事項は、こういう要因でも変わる可能性があります」「この判断には、こちら側の情報も必要になると思います」

これは、単に“伺いを立てる”のではなく、使用者の考えを整理し、判断に必要な問いへと翻訳する作業です。

使用者が自ら情報要求を出さない企業の環境では、この“問いの翻訳”こそがインテリジェンス担当者の重要な役割になります。

軍を掌握した指導者の脆さ――4中全会に見る習近平体制の実像

事実の解釈には両面がある

第20期4中全会が開催

中国共産党の第20期4中全会が、2025年10月下旬に開かれました。

党大会は5年に一度開催され、その中間点にあたる4中全会は、次期経済5カ年計画の起草準備や、党の執政状況を中間評価する節目にあたります。

予定どおり、経済政策や社会目標が中心議題となり、来年に決定される第15次5カ年計画の方針が話し合われました。

内容としては「自給自足」と「先進的製造業」の発展を掲げたもので、全体としては規定路線に沿ったものと見られます。

一方で、今回は開催前から人事への関心が高まりました。

とくに、習近平氏の後任問題や、空席が続いていた中央軍事委員会(CMC)の人事動向が注目されました。

さらに、軍出身の中央委員の半数近くが欠席したとも伝えられ、体制の内側に不安と緊張が広がっているのではないかとの報道もありました。

軍委改革と新しい構成

2015年、習近平氏は大規模な軍改革に踏み切りました。
長年、人民解放軍の中枢を担ってきた「四総部」(総参謀部・総政治部・総後勤部・総装備部)を廃止し、戦区制と軍委直轄制を導入。
この改革は軍の近代化を掲げつつも、実際には軍の権限を党中央に集中させる動きでもありました。

2017年の第19回党大会で、中央軍事委員会の新体制が発足します。
従来の軍委は主席、副主席2人、国防部長、四総部の長4人、海軍・空軍・第2砲兵(ロケット軍)の司令官を含む計11人体制でした。
これが2017年以降、主席、副主席2人、国防部長、統合参謀長、政治工作部主任、そして規律検査委員会書記7人体制に再編されました。

このうち、規律検査委員会書記が軍委メンバーとなったのは初めてです。
このポストは通常中将職であり、就任した張昇民氏が中将のまま委員入りしたのは異例の昇進でした。その後、張氏は上将(大将)に昇格しています。
一方、東部戦区司令官だった何衛東氏は、委員を経ずに副主席に就任しました。
いきなり副主席というのは極めて異例で、まさに「飛び級人事」でした。

粛清の連鎖と軍の統制

2018年以降、人民解放軍では汚職摘発が相次ぎました。
最初に標的となったのは装備発展部門やロケット軍で、中将級幹部が次々に処分され、軍内部には不信感が広がりました。

2021年には装備発展部長だった李尚福氏が国防部長に昇格しましたが、2023年に「重大な規律違反」で失脚。
同年、ロケット軍の司令官と副司令官も更迭され、核戦力を担う中枢部門の人事が総入れ替えとなりました。
2024年には政治工作部主任の苗華氏が消息を絶ち、軍委内部で空席が目立つようになります。
そして2025年、4中全会の直前に何衛東副主席が失脚し、張昇民氏が副主席に昇格しました。

この結果、2017年に確立された7人体制のうち4人が交代または更迭されたことになります。
軍の意思決定は、指揮よりも監察と統制を重視する構造へと傾いているように見えます。

欠席という沈黙

今回の4中全会では、軍出身の中央委員の多くが欠席したと報じられました。
一部には「粛清への異論」や「軍の反発」といった見方もありますが、出席は原則として義務です。
過去の粛清の流れを踏まえれば、欠席は招集されなかった、あるいは調査中である可能性が高いと考えられます。
党中央が「安全」と判断した人物のみを出席させたという見方もあります。

習近平氏の掌握とその限界

形式上、習近平氏は軍を完全に掌握しています。将軍人事、昇進、予算――すべての決裁が主席の承認を要し、独立した権限はほとんど残っていません。しかし、権限が集中すればするほど現場は萎縮し、指揮官は判断を避けるようになります。

粛清の連鎖は統制強化と見ることもできますが、実際には幹部が恐れを抱き、命令が現場に届かなくなっているとも考えられます。組織は上の意向をうかがうばかりで、意思決定の力を失いつつあるようにも見えます。

この構図には、二つの不信が重なっています。
ひとつは、粛清が続くなかで指揮官同士が互いを疑う軍内部の不信。もうひとつは、党中央と軍の間に生じた信頼の揺らぎです。

かつて「党が銃を指導する」と言われた関係が、いまや「銃が党の意向をうかがう」関係に変わりつつある――。その微妙なずれが、体制全体の緊張として表面化しているのです。

後継者不在と「一強体制」の行方

今回の4中全会でも、習近平氏の後継者像は示されませんでした。
このため、「2027年以降も第4次政権を狙う」「一強体制がさらに強化された」との見方もあります。

しかし、後継を定めないことは短期的な安定をもたらす一方で、将来的な混乱の火種にもなります。
毛沢東氏は華国鋒氏を、鄧小平氏は江沢民氏、さらに胡錦涛氏へと続く後継体制を整えました。強い指導者とは、次を託せる仕組みを築く指導者でもあります。

習近平氏は軍を支配しているように見えますが、その背後には二つの恐れがあるのかもしれません。ひとつは、後継を託せる人物を見いだせない「託せない不安」。
もうひとつは、権力を手放した瞬間に自らの権威が失われるのではないかという「権威を失うことへの恐怖」です。その恐れが人事を慎重にし、粛清を繰り返すという形で表れているようにも見えます。

メッセージ――ルービンの壺のように

習近平氏は軍を完全に掌握したように見えます。けれどもその姿は、裏返せば「不安定さ」の映し鏡でもあります。粛清や欠席の連鎖は、統制の強化ではなく、恐れによって動けなくなった組織の現実を映しているのかもしれません。

物事の見方は、ルービンの壺のように、どちらの面を見つめるかでまったく違って見えます。指導者の「強さ」も、角度を変えれば「脆さ」に映る。どちらが正しいということではなく、反対の像を意識して見ることが大切です。

政治も、組織も、そして自分の思考も同じです。一つの見方にとらわれず、反対側の構図を想像すること――そこに、次の一手を考える力があるように思います

(了)

インテリジェンス思考術(第5回)

守りのインテリジェンス ― 地政学リスクと企業経営

先週のニュースレターでは、ビジネス・インテリジェンスと競合インテリジェンスの関係を取り上げました。
今回はその対になる「守りのインテリジェンス」について考えてみたいと思います。

「脅威インテリジェンス」とは

まず、脅威インテリジェンスです。
この「スレット・インテリジェンス(Threat Intelligence)」という言葉は、主にサイバーセキュリティ分野で使われています。もともとはセキュリティ業界の専門用語だと言えるでしょう。

攻撃を受けた際に残るマルウェアのファイル名、通信元のIPアドレス、URL、ハッシュ値など――いわゆる侵害指標(IoC:Indicator of Compromise)を分析し、攻撃者の正体を突き止める。その成果物そのものが脅威インテリジェンスと呼ばれます。

ただし「脅威」は、意図 × 能力 × 戦略環境(機会)で定義されます。
つまり脅威インテリジェンスを字義通りに解釈すれば、相手がどんな意図と力を持ち、どのような環境で行動しているかを分析し、その全体像を明らかにする知的活動ということになります。

今日では、国家がサイバー空間を通じてスパイ活動を行い、技術情報を狙う時代です。
平時の企業諜報から戦時のインフラ破壊まで、脅威の範囲は拡大しています。
もはやセキュリティ部門だけの問題ではなく、経営そのものが脅威にさらされる時代に入っています。
脅威インテリジェンスをより広い視野で捉え直す必要があります。

「リスクインテリジェンス」という新たな視点

近年、「リスクインテリジェンス」という言葉も使われるようになりました。
企業では、AIを活用して社員の行動を分析し、内部不正や異常を検知する“内部脅威検知”の意味で使われることが多いようです。

しかし本来の意味は、潜在的なリスクを特定し、その蓋然性を評価し、リスクを軽減するための知識を指します。
その対象は、自然災害、技術、経済、社会、法規制、そして地政学まで、多岐にわたります。
これらのリスクを定量化・評価するという点で、インテリジェンスとの境界は極めて近いと言えるでしょう。

かつて軍事領域で発達したインテリジェンスは、今や企業や社会の中に拡散しています。
ビジネス・インテリジェンス、競合インテリジェンス、脅威インテリジェンス、リスクインテリジェンス――
それぞれの分野で独自の発展を遂げてきましたが、活動が広範化するにつれて、相互の境界は曖昧になりつつあります。その意味では、原点にある“知る力”をもう一度学び直す必要があります。

企業を取り巻くインテリジェンス環境

グローバル化によって企業は世界各地に拠点を持ち、国境を越えて事業を展開するようになりました。
その結果、地政学的な要因が経営に直接影響を与える場面が増えています。

象徴的なのがロシア・ウクライナ戦争です。
この戦争によって多くの企業が市場アクセスを失い、制裁による貿易障壁に直面しました。
穀物やエネルギー供給の混乱で資源価格が高騰し、企業は資産や従業員の安全確保を迫られました。
さらにSNSやメディアで流れる情報が株価や投資判断を左右し、情報そのものが経営環境を変動させる時代になっています。

同様の構造は米中対立にも見られます。
米国主導の輸出規制、半導体分野の技術統制、そして中国の「エコノミック・ステートクラフト」――
経済的手段を通じて政治的目的を達成しようとする動きが強まっています。
このため、「日・米・台 vs 中国」という構図の中で、サプライチェーンの寸断や事業撤退を検討する企業も増えています。

いま、地政学リスクの視点からインテリジェンス能力を高めることが、企業にとっての生存条件になりつつあります。

米中対立の緊張を受け、日本政府は2022年に経済安全保障推進法を制定しました。国家レベルで、先端技術や人材の海外流出を防ぎ、重要物資やインフラを保護する体制を整えています。

エネルギー、原材料、通信、金融といった経済の基盤は、いまや国家安全保障と直結しています。
企業には技術と人材を「守る力」が求められています。

地政学リスクは大企業だけの問題ではありません。
中小企業も海外取引や資源調達、人材交流を通じて国際情勢の影響を直接受けるようになりました。
岡山商工会議所が2022年春に実施した調査では、地域の中小企業の約7割がロシア・ウクライナ戦争の影響を受けたと回答しています。
もはや「遠い国の出来事」ではないのです。

つまり、今やあらゆるビジネスパーソンがインテリジェンスを求められる時代になったのです。

官民連携と企業の独自分析

この不確実な時代に、企業がとるべき方向は三つあります。

第一に、官民の情報連携です。
政府が持つ安全保障情報と企業が持つ業務知識を結びつけ、地政学リスクを共有し、相互に活用することが求められます。
電力・通信・金融といった基幹インフラを守るためには、官民の協力体制が欠かせません。

第二に、独自分析の体制構築です。
国家の情報機関が扱う分析は一般的・非公開なものが多く、個別企業のリスクには対応しきれません。
自社の事業構造に即した地政学リスク分析を行い、リアルタイムで情報を更新できる体制が必要です。

第三に、情報組織の再定義です。
AIは過去データからパターンを見出すことに長けていますが、国際政治の突発的な変化には限界があります。
データ分析に加え、人間の洞察と判断を中心に据えた「インテリジェンス部門」を設けることが今後の課題です。

結びに

企業が地政学リスクを軽視すれば、経営の持続可能性そのものが揺らぎます。
脅威やリスクを知ることは、単なる防御ではなく、意思決定を現実に即して強くする行為です。

国家安全保障と経済安全保障が重なり合う時代において、「世界を知ること」そして「自分の事業を知ること」こそが、最大の“守りのインテリジェンス”ではないでしょうか。

布教の終焉と認知戦の時代

―語りからアルゴリズムへ

近ごろ、人が「信じる」あり方が大きく変わってきたと感じます。かつて人は、物語を聞き、時間をかけて納得し、信念を育てていきました。宗教の布教も政治の支持も、語り手と聞き手が関係を築きながら、体験を共有して信じる力を育てるものでした。そこには時間の厚みと、人の温度がありました。

しかし、現代の情報空間ではそれが失われつつあります。SNSや動画が流れるスピードは、言葉よりも速く感情を動かします。現代の「認知戦」は、まさにこの特性を前提にしています。狙うのは“納得”ではなく“反応”です。注意を奪い、感情を揺さぶり、行動を誘導する。アルゴリズムの仕組みが、この瞬間的な「反応」の連鎖をさらに増幅させています。

一方で、説話の時代における布教は、まったく逆の構造をもっていました。北ベトナムの説話による思想浸透や、宗教の布教のように、人々は物語を通じてゆっくりと納得し、共同体の中で信念を共有していきました。文字よりも声、感情を共にする時間が信仰を形づくったのです。

では、サイバー空間において布教は可能なのでしょうか。

オンラインでは、語り手と聞き手の関係性が希薄になり、説話の「身体性」は失われます。けれども、連続したストーリーテリングやコミュニティ形成によって、信頼や共同幻想を再現する動きも見られます。陰謀論の拡散や、熱狂的な政治支持層の形成などは、まさにデジタル時代の「新しい布教」と言えるかもしれません。

現代日本に目を向けると、政治の世界でも「説話から認知へ」の流れがはっきり見えます。

かつての公明党は、創価学会という共同体の中で体験を語り合い、人と人の関係を通じて支持を広げてきました。これは説話の構造をもった政治活動でした。

一方、参政党はSNSを駆使して共感や“気づき”を拡散します。支持は人間関係ではなく情報空間で形成され、短期間で信念が生まれる。説得ではなく「覚醒」を促す形です。ここにはまさに、布教から認知戦への転換が見て取れます。

宗教がICT環境に適応しにくいのは、この変化にあります。説話や納得、信頼の積み上げを前提とする布教は、即時的な情報の洪水には向きません。だからこそ信仰人口は減り、共同体は細りつつあります。

しかし、イスラム過激派のように、宗教的物語を認知戦に転化させた例もあります。映像や音楽を使い、怒りや使命感を刺激し、瞬時に人を動かす。そこでは「信じる」よりも「反応する」が優先されます。

布教の終焉とは、単に宗教の衰退を意味するのではありません。

人が物語によって納得し、他者との関係の中で信じていくという、人間の学習の形そのものが変わりつつあるということです。説話の時代が終わり、アルゴリズムの時代が来た。

人はもはや「教えられて」動くのではなく、「感じ取って」動く。

信仰も、思想も、そして政治も――反応の時代の中で再び形を変えています。

米国はなぜ「麻薬戦争」に空母を動かすのか。

表向きの説明の裏にある、もう一つの仮説を読む。

■トランプ政権、空母打撃群をカリブ海へ派遣

10月25日の産経新聞は次のように報じています。

トランプ米政権は24日、最新鋭原子力空母ジェラルド・フォードを中核とする空母打撃群を、南米ベネズエラに近いカリブ海へ派遣すると発表した。米国は「麻薬テロリストによる攻撃にさらされている」と主張し、麻薬運搬船への攻撃を続けている。

米国防総省の報道官は、「米本土の安全と繁栄、西半球の安全保障を脅かす違法勢力を阻止する」と述べました。さらに同日、米国はベネズエラの隣国コロンビアのペトロ政権に対し、政府高官らが麻薬取引に関与しているとして制裁を科しています。

麻薬対策に空母を出すという違和感

報道だけを読めば、米国の目的は明快に見えます。麻薬の撲滅、そして米国の安全保障の維持です。

しかし、読者の多くもどこかに違和感を覚えるのではないでしょうか。

麻薬対策に空母を出す必要があるのでしょうか。数十人規模の犯罪組織に対し、世界最大の原子力空母を動かすのは、あまりにも釣り合いません。

それに、なぜ長年、麻薬対策や治安協力でアメリカと緊密に連携してきたコロンビア政府までも制裁対象にしたのでしょうか。

ここに、アメリカの行動原理を読み解くための“違和感”が浮かび上がります。

■アメリカの思惑を探る

トランプ政権が示す表向きの理屈は単純です。

麻薬組織は「テロリスト」であり、ベネズエラはそれを支援している。だから軍の行動は、テロに対する「自衛」だという説明です。

アメリカは1980年代以降、“麻薬戦争”と称して中南米諸国に軍事・諜報支援を行ってきました。見落としてはならないのは、その多くが反米政権の転覆支援と結びついていたことです。

1989年のパナマ侵攻では、「麻薬取引関与」を理由にノリエガ将軍を排除しました。麻薬対策はしばしば“正義の仮面”として利用され、軍事力行使を正当化する言葉になってきたのです。

冷戦終結期、ソ連の影響が薄れる中で、アメリカは自らが主導する国際秩序を築こうとしました。その延長線上にあるのが、今回の「麻薬戦争」と言えるのではないでしょうか。

「麻薬撲滅」の名のもとに、アメリカは軍を動かし、制裁を発動し、外交圧力を強めています。その矛先が反米色の強いベネズエラだけでなく、ベネズエラに接近するコロンビアの左派政権にまで及んでいる点に、単なる麻薬政策を超えた意図を感じざるを得ません。

■真の狙いはベネズエラとコロンビアの“同時包囲”

ここで、一つの仮説を立ててみます。

今回の作戦は、麻薬撲滅を目的とするのではなく、反米政権ベネズエラと、ベネズエラ寄りに傾くコロンビア左派政権を同時に包囲する戦略的動きではないかというものです。

中露はBRICSの枠組みを通じて南米への影響力を拡大しています。ベネズエラのマドゥロ政権は近年、中国やロシアとの経済的結びつきを強め、原油輸出の多くを中国に依存しています。ロシアの国営企業も採掘や軍需支援を担っています。

一方、コロンビアのペトロ政権も、再生エネルギー分野で中国企業との連携を拡大しています。つまり、南米の二つの産油国がともにBRICS圏と接近しているのです。

■米国にとっての南米の価値

アメリカにとって、南米は中東とは別の“第二のエネルギーフロント”です。

ベネズエラとコロンビアを政治的・軍事的に押さえることは、中露が南米に築こうとする資源ネットワークを断ち切ることにつながります。

トランプ政権が「パナマを取り返せ」と叫ぶのも、こうした戦略的思考の延長にあります。

この仮説に立てば、空母の派遣も、制裁の同時発動も、きわめて合理的な一手として理解されます。

■麻薬戦争は資源戦争の別名である

ベネズエラ国営石油会社PDVSAは、アメリカによる経済制裁で米系企業との取引が止まった後、中国国営石油会社CNPCと合弁事業を進めてきました。ベネズエラの石油輸出の約半分は中国向けです。

ロシアは、ベネズエラへの武器供与と軍事顧問派遣を続け、米国が「麻薬テロリスト」と呼ぶ勢力の背後にロシア製兵器が流入していることも確認されています。

さらに、コロンビアでは中国資本が港湾・鉄道・リチウム開発に進出し、ペトロ政権は環境政策を掲げながらも中国との経済協力を強化しています。

米国の視点から見れば、南米北岸に“中露の経済回廊”が形成されつつあるのです。

こうした地政学的現実を前に、アメリカが「麻薬戦争」を名目にカリブ海へ軍を派遣することは、実は資源と影響圏をめぐる争い、そして新しい国際秩序をめぐる戦いとして理解する方が自然です。

麻薬は名目にすぎず、主題は「石油」「海上ルート」「影響力」の確保なのです。

■メッセージ:異なる仮説を立てる思考と影響性を読む

国際報道の表向きの説明をなぞるだけでは、政策の意図は見えてきません。

違和感を感じたら放置せず、仮説を立てて検証してみること。

それがインテリジェンス思考の基本です。

そして、この動きが我が国の政治、外交、経済にどのような影響を持つのかを考えてみてください。

海運株やエネルギー株を持つ投資家にとっても、これは無関係な話ではありません。

国際情勢の裏にある「仮説」を読むことが、個人の判断を支える力になるのです。

(了)

インテリジェンス思考術(第4回)

ビジネスとインテリジェンス――意思決定を支える“未来の問い”守りのインテリジェンス

ビジネス・インテリジェンスと競合インテリジェンス

インテリジェンスとは、もともと国家が政策や作戦を誤らせないための知的活動でした。この考え方が民間に応用され、ビジネス・インテリジェンス(Business Intelligence:BI)と競合インテリジェンス(Competitive Intelligence:CI)という二つの概念が生まれました。

●ビジネス・インテリジェンス(BI)

ビジネス・インテリジェンスとは、「企業内部のデータを分析し、経営判断を支える知識をつくる活動」です。

売上、顧客、在庫、生産効率など、自社が日々生み出すデータを整理し、経営判断につなげます。目的は、自社の現状を正確に把握し、次の一手を可視化することにあります。

●競合インテリジェンス(CI)

一方、競合インテリジェンスとは、「企業の外で起きている変化を分析し、次に何が起こるかを読む活動」です。

対象は競合企業にとどまりません。業界の技術動向、原材料の供給、政策や規制の変化、顧客ニーズの移り変わり――こうした外部環境を読み取り、市場全体の地図を描くのがCIの役割です。

たとえば、他社の特許出願や人事異動、政府の補助金政策など、ばらばらの情報をつなぎ合わせることで、「どんな新製品が出るのか」「どの分野が次に伸びるのか」が見えてきます。これは、軍事インテリジェンスと同じ構造を持ち、「未来の行動を読む」作業です。

言い換えれば、BIは“内を読む”知であり、CIは“外を読む”知です。

BIが自社の健康診断であるなら、CIは外の天気図を読む作業です。どちらか一方では経営は成り立たず、両者を組み合わせて初めて、意思決定に深みが生まれます。

■米国と日本のインテリジェンス事情

米国では、CIの研究と実践が早くから活発に進みました。

1986年には、競合インテリジェンス分野の専門家が集う国際組織 SCIP(Strategic and Competitive Intelligence Professionals) が設立され、現在も世界的な協会として活動を続けています。

さらに1999年には、競合インテリジェンス・アカデミー(Academy of Competitive Intelligence:ACI) が発足し、CIの収集・分析・活用に関する体系的な教育プログラムを提供しています。ビジネスパーソンがACIで訓練を受け、実務に直結するスキルを磨いています。

日本でも、2008年に日本コンペティティブ・インテリジェンス学会(JCIA)が設立され、SCIPなど海外機関との連携を掲げました。しかし、活動は限定的で、CIやBIという概念がビジネス現場に十分浸透しているとは言いがたい状況です。

その背景には、「インテリジェンス」という言葉自体が、国家安全保障の文脈以外ではまだ正確に理解されていないという事情があります。

■地政学リスクと企業インテリジェンス

近年、企業が直面する最大の不確実性は地政学リスクです。

ロシア・ウクライナ戦争や米中対立は、サプライチェーン、資源、金融に直接影響を与えています。もはや地政学リスクを把握することは、国家の専属領域ではなく、企業経営の前提条件となりました。

ここで重要になるのが経済安全保障です。

経済安全保障とは、国家が自国の経済活動を外部の圧力や依存から守るための仕組みを指します。日本では2010年代後半から注目され、2022年に「経済安全保障推進法」が施行されました。表向きは国家主導の制度のように見えますが、その背景には米国の対中戦略があります。

米国は、中国の技術的台頭を抑えるため、同盟国に対してサプライチェーンの再構築と技術規制の強化を求めました。半導体やAIなどの先端分野で、中国への依存を断ち、技術優位を維持することが目的です。日本の経済安全保障政策も、この米国の圧力と協調の中で形成されました。つまり、日本における経済安全保障とは、米国主導の「対中デカップリング政策」の延長線上にあります。

同時に、中国はこれに対抗してエコノミック・ステートクラフト(経済的国家戦略)を強めています。

希少資源の輸出制限、技術標準の主導権、海外インフラ投資などを通じ、経済力を政治的影響力に変えようとしています。こうした経済的圧力は、国家間の問題にとどまらず、企業の経営環境にも直接影響を及ぼします。

経済安全保障の観点からも、官民が連携し、情報やリソースを共有することが不可欠です。しかし、国家が提供する情報だけでは、企業固有のリスクを十分に把握できません。企業は、自社の事業構造に合わせた独自の地政学分析体制を整える必要があります。

企業におけるインテリジェンス部門の役割

国家情報組織の役割を私なりに敷衍すると、企業のインテリジェンス部門にの役割りは次の四つになります。

・戦略的奇襲の回避

 競合や市場での不意打ち的な変化を予測し、備える。経営の「意表を突かれない」体制をつくる。

・専門知の長期的提供

 業界、技術、地政学に関する知見を継続的に蓄積し、経営判断を支援する。短期のデータ分析にとどまらず、長期の構造変化を見通す知を持つ。

・戦略策定の支援

 地政学リスクや市場動向を踏まえて、経営陣の意思決定を助ける。判断の根拠となる情報を整理し、選択肢を明確に示す。

・情報保全と防諜

 企業機密や技術情報を守り、サイバー攻撃や内部不正を未然に防ぐ。情報の安全が経営の基盤となる。

地政学リスクに備えるには、情報部門を「データや情報を整理する部署」から、「経営判断を支える分析部門」へと再定義する必要があります。

経営層が地政学的な視点を理解し、インテリジェンスを経営文化の一部として位置づけること。それが、企業が変化の時代を生き抜くための最も確かな力となります。

日本企業に求められるインテリジェンスの視点

日本企業の多くは、データ分析を経営に生かす段階にはありますが、地政学リスクを扱うインテリジェンス部門はまだ十分に整っていません。これまで、地政学や安全保障の知識は国家や学術の領域に属し、企業の経営課題として意識されてこなかったためです。

しかし、世界の政治構造や技術競争が急速に変化する中で、一つの地域紛争や金融危機が瞬時に企業経営へ波及します。サプライチェーン、資源、通商、金融――すべてが国際情勢と結びつき、地政学的な変動が事業の継続に直結する時代になりました。

したがって、企業は今後、少数でも地政学と国際動向に通じた専門人材を配置し、情報を判断に変える仕組みをつくる必要があります。情報過多の時代にこそ、真に意味のある情報を選び取り、経営判断につなげる力が問われています。