米中関係の過去を振り返る

1月15日(金)のちょうど一年前、我が国で初のコロナ患者が発生しました。当時、2002年のSARSが発生してから終息するまで約半年かかったので、「コロナ禍も2020年夏頃まで続くだろう」などの予測がありました。しかし、これは今となっては楽観すぎました。現在も、コロナ禍の終着駅はいっこうに見えていません。コロナはSARSと同じく、中国を発症源とするウィルス性パンデミックですが、まったく同じではなかったいうことです。ここに類推思考(アナロジー思考)の難しさを感じます。

話はやや変わって、昨日(1月17日)のちょうど30年前(1991年)には湾岸戦争が開始されました。当時、今日のような米国の政治的混乱と中国の台頭を、いったい誰が予測できたでしょうか? つくづく未来予測の困難さを思い知らされます。

少し、過去を振り返ってみましょう。第二次世界大戦後の冷戦はまだまだ続くと見られていた1980年代中庸の頃です。ミハイル・ゴルバチョフ氏がソ連共産党書記長に就任しました。ゴルバチョフ氏は改革(ペレストロイカ)と「新思考外交」を推進しました。アフガニスタン侵攻で疲弊した国内経済を立て直すために、国内体制改革と西側との関係改善に着手しました。これにより、アフガニスタンからのソ連軍の撤退、ブレジネフ・ドクトリンの撤廃、1887年の中距離核戦力全廃条約 (INF) の調印など行われました。

ゴルバチョフの改革の一つの柱が「グラスノスチ」(「情報公開 )です。ブレジネフ時代にはマスディアは共産党の統制下にありましたが、ゴルバチョフ氏はマスメディアに報道の自由を与え、それまで機密事項とされていた国家情報も軍事関係を含め公開しようとしました。

グラスノスチは 1986年4月に起こったチェルノブイリ原子力発電所事故で加速されました。なかなか関連情報が届かないことに業を煮やしたゴルバチョフは種々の国内問題は硬直化した体制にあると判断し、言論・思想・集会・出版・報道などの自由化と民主化に乗り出しました。

ここから民主化の波が一挙に高まります。冷戦期の米ソの代理戦争となっていた世界各地の内戦が続々と終結し、東欧の民主化、ベルリンの壁崩壊を起こし、ついには冷戦が崩壊したのです。

東欧では、1980年代初頭からポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化の動きが見られていました。ポーランドでの旧政権失脚に続き、ハンガリーやチェコスロバキアでも旧政権が相次いで倒れ、1989年の夏には東ドイツ国民が西ドイツへこれらの国を経て大量脱出しました。

東ドイツは強硬手段で事態を抑え込もうとしましたが、この堰き止めに失敗し、政治・経済は崩壊状態に陥いりました。ついに1989年の11月9日にベルリンの壁が崩壊しました。ルーマニアでも革命が勃発し、チャウシェスク大統領夫妻が射殺され、共産党政権が倒されました。

この一連の東欧革命により同年12月、地中海のマルタ島で、ゴルバチョフ氏とジョージ・ブッシュ氏が会談し、冷戦の終結を宣言しました。

中国にも民主化の波が押し寄せました。1989年4月の「改革派」の胡耀邦元総書記の死亡を契機に、民主化グループが天安門広場に集まりました。同年5月、「改革派」のゴルバチョフ氏の訪中に向けて、さらに民主化運動をたかめようとしました。これに対し、鄧小平は軍隊出動による強硬措置で対処しました。つまり、中国に民主化の波は押し寄せたものの、民主化革命は失敗に終わりました。中国は西側から批判は浴びましたが、ソ連流ペレスストロイカやグラスノスチを警戒し、強硬手段を取ることで共産党体制の維持に成功しました。ここに現在の権威主義体制と自由・民主市議体制の対立の根源や、中国の執拗な情報統制の理由があります。

 

1990年代には、東欧革命、冷戦崩壊、天安門事件などの余波はいたん収まりましたが、2000年代初頭には再び東欧で「カラー革命」が起きます。さらに10年後の2010年代初頭には中東で「アラブの春」が起きます。そして最近では香港デモなど、民主化運動の波は収まることはなく、断続的に起きています。これら、民主化運動では、SNSを使ったデモ動員が注目されています。

民主化運動の背後には米CIAなどが水面下で関与していると中露は見ています。そして、依然として世界には中国共産党をはじめとする独裁政権が存在しつ続けています。ロシアでは共産主義体制は崩壊しましたが、プーチン大統領による独裁体制が強まっています。

これらの情勢を整理してみましょう。冷戦の勝者となった米国はリベラル・デモクラシー(民主主義)を推し進め、民主化革命により中国やロシアの台頭を阻止することを長期戦略としてきたように見られます。他方の中・ロは独自の権威主義体制を保持しようと懸命な抵抗をしてきたことがうかがえます。そして、今日の情勢から判断すれば、米国が目指す世界の自由・民主化はむしろ後退している状況にあります。

もう少し、米国視点で歴史を回顧してみましょう。1990年代の米国は、圧倒的な軍事力と経済力をもって、世界秩序を維持し、自由と民主主義の拡大を図っていました。1990年8月、イラクによるクウェートへ軍事侵攻しました(湾岸戦争)。この時にカダフィ政権の壊滅には至らず、一方では石油利権の支配などを目的にサウディなどに駐留しました。このことが、2001年の9.11事件や2003年のイラク戦争の引き金になりました。

湾岸戦争が極めて短期で終わり、1991年12月のソ連崩壊で、世界では「パクスアメリカーナ」いう楽観論が生まれました。つまり、米国の一強体制のもとで国際社会は協調的な関係に向かうかにみられました。しかし、ソ連の重石から解放された東欧では、ユーゴやルーマニアが内戦状態に至りました。またソマリア飢餓危機などの国際危機が増発しました。それでも米国は世界の警察官として、国際秩序の維持に関与しました。

 また欧州ではNATOの東方拡大が行われました。これは民主化の波を押し進めることで地域安全保障の強化を狙いとしました。ユーゴボスニアでは内戦が長期化し、1994年3月にNATOが初の武力行使に踏み切りました。また、セルビアにとどまったコソボ自治州では1990年代末期に内乱が激化し、セルビアによるコソボ弾圧が行われ、国連の和平を受け入れないユーゴ(セルビア)に対し、1999年2月にNATOが空爆に踏み切りました。

 1990年代の中露に目を向けてみましょう。中国は天安門事件後、西側からの民主化の動きを「硝煙のない戦争」「和平演変」と警戒し、独自の社会主義体制を維持しながら、経済では自由主義体制を目指しました。

 中国は湾岸戦争での米軍の軍事力の近代化レベルに驚愕し、軍近代化を目指しました。その途中の1996年に中台危機が起こりました。中国は台湾に対し軍事力を持って威嚇しました。これに対し、米国は空母2隻を台湾海峡に派遣して中国をけん制しました。この際、中国は〝なす術〟はなく、屈辱感を味わいました。このことが中国の空母保有を決断させた一要因との見方もあります。

 他方、ソ連崩壊後のロシアは政争に明け暮れ、その再生過程は遅延しました。エリティン政権の中に、新たに成立した新興財閥(オルガリヒ)が浸透しました。オルガリヒは、連邦レベルから地方レベルに至る政治家及び官僚機構との癒着によってその存在を拡大させていき、エネルギーとメディア支配し、政治をコントロールしました。エリティン政権はオルガリヒの影響を強く受けて主導権は停滞し、オルガリヒの背後には米国などの西側の影響力が増大していました。

 1990年代は地域紛争が頻発し、中露はそれぞれ分派勢力の台頭に直面していました。ただし、90年代の中露は世界秩序の維持に影響力を与える存在ではありませんでした。

 ところが、2000年代から様相がガラリと変わります。まず、2001年の9.11同時多発テロで米国はイスラムテロ組織(アルカイダ)という〝伏兵〟から奇襲攻撃を受けます。ここから、テロリズムとの戦いを標榜し、アフガン・イラク戦争に着手する中、国力衰退が始まります。これが2013年のオバマ米大統領の「米国は、世界の警察ではない」発言に至ります。

 中国は2001年にWTOに加盟します。このことが中国経済の飛躍の原動力となりました。世界経済のグローバル化の恩恵者となった中国は、2008年のリーマンショクでは国家主導の大型インフラ投資で「V字型回復」を成し遂げました。同時に北京オリンピックを成功させました。この時から鄧小平が掲げた「韜光養晦、有所作為」に別れを告げて、胡錦濤氏が「堅持韜光養晦、積極有所作為」を表明します。より積極的に世界に関与する姿勢を明確にしたのです。そして2010年にはGDP世界第2位に躍り出ました。成長した経済力が軍近代化の推進力となり、経済力と軍事力が対外積極戦略を生み出という連鎖構造が形成されました。ここから今日の米中対立の戦いの本格的火蓋が切られることになります。

 2012年に国家最高指導者となった習近平氏は国内での権威主義体制を強化します。対外面では2014年に「一帯一路」戦略を発表し、海洋への押出し拠点となる南シナ海への進出を強化しました。2015年には南シナ海上の人口島嶼を埋め立て軍事基地化を図りました。同年7月には「中国製造2025」を打ち出し、世界のAIやICT市場での優位性を獲得する意図を表明しました。なお、「中国製造2025」の最重視項目は次世代情報技術、とくに「5G」(次世代移動通信)です。

 ロシアは2000年にプーチン氏が大統領に就任した以降、民主化革命(カラー革命)との戦いを最重要課題とし「強いロシア」の復活を目指してきました。カラー革命により、いったんは、グルジア(ジョージア)およびウクライナには親米政権が誕生しましたが、ロシアは情報戦を主軸とするハイブリッド戦を展開して、グルジア親米政権を打倒しました。2014年にはウクライナから、黒海の進出口にあたる戦略要衝に位置するクリミアを奪還しました。

 このようなロシアを脅威とみた欧米は経済制裁を科します。このため、苦境に堕ちいたロシアは中国へ接近し、ここに欧米VS中ロという対立軸が顕著になりつつあります。このことは自由・民主主義を世界に普及するという米国の世界戦略の蹉跌と言えます。また、長期に及ぶ自由・民主主義と権威主義との対立構造の形成とも見られます。なお、ロシアの対中接近は、中国の軍近代に拍車をかけています。

 2016年、米国では「米国第一主義」を掲げるトランプ氏が大統領に就任します。この背後には、米オバマ民主党政権下で経済制裁を受けたロシアが共和党政権の誕生を水面下の画策したとの指摘もありますが、実は、トランプ政権誕生の影の〝功労者〟は中国であったかもしれません。経済グローバル化によって安価な中国商品の流入したことにより、白人労働者は職業を失われ、農産物の輸出減少によって貧困化しました。合わせて労働移民の流入が白人労働者の生活を重苦しくしています。だから、トランプ氏は移民流入に「NO」を突きつけ、中国からの輸出に関税をかけて、中国商品の流入をブロックしようとしたのです。

 これが顕在化したのが2018年からの米中貿易戦争です。ここには世界的な反グローロバリズムと、グロバリズムの恩恵者である中国との対立という構図が見られます。英国のブレグジットも反グローバリズムが生み出したと言えます。

 さらに香港問題によって権威主義vs自由・民主主義の対立が深刻化し、コロナ禍が発生した以降、米英連合さらにはファイブアイズvs中露という対立に発展しつつあります。

 米国は「中国製造2025」を米国の優位を奪う、重大な脅威と認識しています。米国政府により5Gを推進する中国ICT企業の世界市場からの締め出しという事象が起きています。つまり、米中貿易戦争はICTの主導権争いのでもあります。

 今回のコロナ禍が米中対立を深刻化させたことは間違いありません。さらに、米国主導による対中包囲網が拡大し、中立的であった独仏までもが対中包囲網に加わる動きを見せています。

ただし、米中対立の動きはコロナ禍以前、さらにはトランプ政権以前から起きています。すなわち、第二次オバマ政権からの流れが継続しているのです。このような歴史を踏まえて、バイデン新政権の誕生で米中を軸とする世界秩序に変化があるのかなどを予測する必要があります。しばし、米中の関連動向を注視したいと思います。

ツイッター、トランプ大統領のアカウント停止に思う

1月8日、ソーシャルメディア(SNS)大手のツイッターがトランプ大統領のアカウントを「さらなる暴力扇動のリスク」を理由として永久停止したようです。

私にとって、このニュースは今後の国際社会の行方を占う〝ドライバー〝であると思われますので、報道事実を中心備忘録として書き残しておきます。

事の起こりは、1月6日午後、ワシントンの連邦議会議事堂で大統領選の結果を確定させる上下両院の合同会議が開催中のことです。トランプ大統領の支持者が多数、会期場に乱入し、一時占拠しました。合同会議は中断を挟んで再開され、7日未明に大統領選の結果確認を終え、バイデン次期大統領の勝利とトランプ氏の敗北が正式に確定しました。この乱入騒ぎで警察に銃撃された女性1人を含め、4人が死亡した模様です。

この乱入事件に世界が注目しているようですが、私はツィターの停止の方に関心がありました。ツィターがトランプ氏のアカウントを停止した経緯は以下のとおりだとされています。

トランプ氏は、事前に支持者が議事堂で抗議するよう扇動していたとの批判が集まっていました[1]。これを受けて、ツイッターは6日にトランプ氏のアカウントを一時停止しました。その後、アカウントは一時解除され、ツイッターによる停止表明から24時間後の7日午後7時10分(東部時間)に、トランプ氏は暴力への批判と国民の団結を呼びかける2分41秒のスピーチ動画をツイッートしました。

さらに8日午前9時46分と午前10時44分にツィートし、この中で、トランプ氏が「20日のバイデン新大統領就任式に出席しない」などと表明し、「米国の愛国者たち」などの表現で支持者らを激励しました。

これを問題視したツィターが8日午後6時21分にトランプ大統領のアカウントを「さらなる暴力扇動のリスク」を理由として永久停止しました。

ツィターの動きを受けて、SNS各社が軒並みトランプ大統領のアカウント凍結に動いています。

フェイスブックもアカウント停止の無期限延長を表明しました。ツイッターの代替として、多くのトランプ氏の支持者が活用するソーシャルメディア・アプリ「Parler(パーラー)」については、グーグル社が8日、アップル社が9日、それぞれ自社のアプリ・ストアで凍結・削除しました。このほか、アマゾン社がホスティング・サービスから削除する決定をしました。アップルやアマゾン・ドット・コムは、右派が集まる交流サイト(SNS)「パーラー」をアプリストアやウェブサービスから削除しました。

ツィターの永久停止に対して、トランプ氏は米国大統領の公式ツイッターアカウントを使って、以下のようには表現の自由を損なうものとして反論してます。

「ずっと言い続けてきたことだが、ツイッターは表現の自由の禁止へとどんどんと突き進んできた。そして今夜、ツイッターの社員たちは民主党や急進左派と連携して私のアカウントをプラットフォームから削除し、私を沈黙させた――さらに私に投票してくれた7,500万人の偉大な愛国者の皆さんのこともだ。ツイッターは私企業だが、通信品位法230条(プラットフォーム免責)の恩恵なしには長くは存続できないはずだ。いずれそうなる。他の様々なサイトとも交渉をしてきた。いずれ大々的な発表をすることになるだろう。近い将来、我々独自のプラットフォームをつくる可能性も検討している。我々は沈黙しない。ツイッターは表現の自由とは縁もゆかりもない」[2]。(平和博「Twitter、Facebookが大統領を黙らせ、ユーザーを不安にさせる理由」)

トランプ氏は「表現の自由」という観点から、ツィター社を批判し、近い将来、独自のプラットフォームを立ち上げる可能性をちらつかせ、対抗意志を露にしました。

 一方、野党民主党は「トランプ氏が支持者らによる連邦議会での暴動を扇動した」などとして、11日、連邦議会下院にトランプ大統領を弾劾訴追する決議案を提出しました。一般の刑事事件の起訴状にあたる決議案では「トランプ大統領は政府への暴力をあおる重罪に関与した。大統領は国家安全保障と民主主義への脅威であり続ける」と非難しています。

 SNS(ソーシャルメディア)が社会的な問題を引き起こすことから、かねてよりコンテンツ管理強化を要求する声は高まっていました。これに、今夏の議事堂占拠事件が起こったのですから、今回のツィターの措置には一定の理解が示されているようです。

しかし、この問題の意味するところは小さくありません。なにしろ、トランプ氏はまもなく大統領を辞することが確定しているとしても、未だ現職の大統領なのです。一介の私企業であるツイッターがあからさまな政治活動を行っていることには、権力層への癒着という違和感さえあります。

2008年ごろからツイッター、フェイスブックなどのSNSが普及し、非民主主義の権威主義体制下の国の一部では、政府と国民との力関係が逆転する現象が起きました。2010年代のアラブの春はその記憶に新しいところです。その裏には欧米などの民主化運動への支援の影がちらついていました。他方、米国や中国などではSNSが政府などの権力と連携して、水面下で国民をコントールしているとの批判もあります。

今回のツィターのなどによる停止措置は、これまでのSNSによる水面下での政治工作が表面化したともいえます。トランプ支持派の暴力的行為は論外ですが、これにしても実態はどれほど深刻なのものかはわかりません。

香港デモでは、我々は民主化グループの活動がたとえどれほど過激であろうとも、それを〝善〟として捉え、取り締まる側を民主主義を抑圧する〝悪〟だと捉える傾向があります。香港民主化グループと、会議に雪崩れ込んだトランプ支持者はどうほど違うのでしょうか? 一方を〝善〟として、トランプ支持派を〝悪〟と認識する我々の多くは、本当はマスメディアによって操作された情報に踊らされている可能性さえあります。

今回のツィター社の行為は、国際社会がますます「国家に対する個人のエンパワーメントの増大」に向かっていることを証明しました。拡大解釈すれば、SNSなどの一部の巨大IT企業が、どこかの独裁国家と連携すれば、自らの価値観に沿った世界を構築し、支配するという懸念も出てきます。

よく「ポピュラリズム」を自由・民主主義の脅威だという声を耳にします。しかし、ポピュラリズムは直接民主主義が生んだ産物です。ポピュラリズムを一概に否定するわけにはいきません。これもメディアの操作かもしれません。

むしろ、SNSが特定の利益集団と連携して、それに反対する国民の言論や集会、結社の自由を奪うとすることの方が自由・民主主義への冒涜とはいえないでしょうか。一部の私企業における歯止めのない権力の増大こそが自由・民主主義の大きな脅威だと、私は思います。

共和党のルビオ上院議員はFOXニュースに、米国自由人権協会(ACLU)は「フェイスブックやツイッターなどの企業が、数十億人の発言に不可欠となったプラットフォームからユーザーを排除するという絶対的権力を行使することは懸念だ」との見解を示しました。

また、ドイツのメルケル首相は11日、ツイッター社の決定について、意見表明の自由を制限する行為は「法に基づくべきだ」と述べ、同社の対応を批判し、報道官を通じて、意見表明の自由を守ることは絶対的に重要だと強調しました。

メルケル氏は、多国間主義の重要性を基本理念として、トランプ氏の「米国第一」の政治姿勢に対しては批判的な立場を取っていますが、彼女には確固たる政治理念があります。だから、自国のみならずEUでもメルケル氏は大いに尊敬を集めています。

メルケル氏の発言を世界はどのように受け止めるかを注目しています。


[1]  トランプ氏は6日正午すぎにはホワイトハウス近くで演説し、「ここにいる全員が議事堂に行き、平和的に愛国的に、声を聞かせるために行進することを知っている」と議事堂での抗議を求めた。

[2]これらのツイートも、間もなくツイッターによって削除された。

半藤さんのご冥福をお祈りします

1月12日、昭和史に関するノンフィクション作品を多く手がけた作家の半藤一利(はんどう・かずとし)氏がお亡くなりなりました(享年90歳)。謹んでご冥福をお祈りいします。

昭和5年、東京にお生まれになり、東大文学部を卒業し、文芸春秋新社に入社され、1990年から本格的な作家活動に入られたとのことです。

私も半藤氏の著書はいくつか拝読しました。半藤氏の『昭和史』(平凡社ライブラリー)は、『昭和史1926-1945』と『昭和史 戦後篇 1945-1989  』の2冊がありますが、現在まで累計70万部を超えるベストセラーになっています。昭和史としては日本で最も多く読まれた書の一つといえるでしょう。

今日(1月13日1300時現在)の「アマゾンランキング軍事」で検索すると、『日本のいちばん長い日 決定版』(文集文庫)が売れ筋の第一位で、『ノモンハンの夏』が同第二位です。著名人の身上変化が出版市場を大きく動かすのはいつものことですが、半藤氏の影響力の大きさを改めて感じます。

『日本のいちばん長い日 決定版』は、昭和40年に大宅壮一編として、玉音放送までの一日を描いた「日本のいちばん長い日-運命の八月十五日」として発表されました。これが、平成7年に「決定版」として、自身の名義で改訂されました。

半藤氏の昭和史は非常に面白く、綿密な取材の跡が随所に伺えます。ただし、私が思っている歴史認識とは少し違うな、という印象ではあります。

私のような浅学な歴史認識では太刀打ちできませんので、「テンミニッツtv」で学んだ、故・渡部昇一氏の見解をここに引用しておきます。

「私は半藤氏をよく存じ上げている。彼が月刊誌『文藝春秋』の編集長を務めていた頃、企画などをよく頼まれていたのだ。半藤氏は教養あるジェントルマンで、奥さんは夏目漱石のお孫さんである。私と同い年で、大東亜戦争にも大変興味を持っており、戦後、司馬遼太郎氏をはじめ、いろいろな人と交流を持ちつつ多くの関係者に取材し聞き書きを行なっておられる。

 だから、半藤氏の『昭和史』に書かれていることは、時代の一面を非常にうまく切り取っている。口述を文章にまとめたものだから、とても読みやすく、面白いエピソードも数多く入っている。どの話も事実であろう。

 だがしかし、そうであるがゆえに、ある意味で危険ともいえる面がある。そのことを、本書の冒頭でぜひ示しておく必要がある。

 私の見るところ、半藤氏は終始、いわゆる「東京裁判史観」に立っておられる。つまり、東京裁判が日本人に示した(言葉を選ばずにいえば、日本人に「押し付けようとした」)歴史観の矩(のり)を一切踰(こ)えていない。

 戦後、占領軍の命令で、東京裁判(極東国際軍事裁判、昭和21年〈1946〉~23年〈1948〉)のためにあらゆる史料が集められた。それがあまりに膨大なものであったため、それらの史料こそが「客観的かつ科学的な歴史」の源であり、それらなしには二度と昭和史の本を書くことができないような印象さえ世間に与えた。

 だが、実はこの「客観的かつ科学的」というのが、大きな偽りなのである。

 一般にはあまり知られてこなかったことではあるが、終戦直後に、7千点を超える書籍が「宣伝用刊行物」と指定されて禁書とされ、GHQの手で秘密裏に没収されている。その状況については、現在、西尾幹二氏が著作を発表されておられる。また、当時の日本人の多くが気づかないうちに、戦後のメディア報道はきわめて厳重に検閲され、コントロールされていた。そのことについては、江藤淳氏の労作をはじめ、さまざまな研究がなされている。

 さらに、これは気をつけなくてはならない点だが、そのような状況下で「歴史観」がつくられていくと、実際に体験をした人の「記憶」も巧妙に書き換えられていくのである。なぜなら、全体を見渡せるような立場にいた人は少ないからだ。

 自分が経験したことは、大きな時代の流れの一局面にすぎない。だから、外から「実はお前がやらされていたことは、こういう動きの一部分なのだ」と指摘されると、「そんなものかなあ」と思わされてしまうことも多い。

 また、それに輪をかけて気をつけなくてはいけないのが、実際に体験した人々の話を編集したり、聞き書きする人の歴史観である。体験談は多くの場合、もちろん編集者の目を経て発表される。しかも体験者はプロの書き手ではないから、誰かに聞き書きをしてもらうことも多い。その編集者や、体験談をまとめる書き手が一定の歴史観に縛られていたとすれば、残された「記録」の方向性に大きなバイアスがかかってしまうのである。

 戦後のメディアの「言論空間」の中では、編集者や書き手の歴史観が、大きく東京裁判に影響されたことはいうまでもない。

 東京裁判以後の歴史観が、残された史料によって必然的に「東京裁判史観」に墜ちていってしまうのは、このような背景があるからだ。また、戦争の時代を生きた当事者の聞き書きだからといって、簡単に「『東京裁判史観』の影響を受けていない歴史の真実だ」と断ずることができないのも、いま指摘した通りだ」(以上、「テンミニッツTV」テキストから抜粋)

 渡部氏の指摘のポイントは、①戦後のメディア報道はGHQにより、きわめて厳重に検閲され、コントロールされた状況下にあった。そのような状況下で「歴史観」がつくられていくと、実際に体験をした人の「記憶」も巧妙に書き換えられていく。②実際に体験した人々の話を編集したり、聞き書する人の歴史観にはバイアスがかかる。GGQにより恣意的に残された史料が必然的に、編集者や聞き書きする人の歴史感を「東京裁判史観」に擦り寄せていく。以上の二点です。

 司馬遼太郎氏がノモンハン事件を執筆するための取材に、半藤氏は編集者として同行しました。しかし、司馬氏はノモンハン事件については書きませんでした。そこで、司馬氏のお別れ会で、自分がノモンハンについて書くと決めたのだとされています。

さて、ノモンハン事件は、「作戦参謀の辻正信と同作戦主任参謀の服部卓四郎によって執行され、その作戦は失敗に帰した。その責任を取る形で両名は一応左遷されたが信じられないような軽い処分で済んだ。」というのがこれまでの歴史の定説です。半藤氏の主張もこのような定説を補強するものとなっています。

ただし、ソ連崩壊後に旧ソ連時代の秘密文書が解禁となって以降、異なる歴史解釈が紹介され、実はノモンハンについても、ソ連の方が格段に損害が大きかったという見解も出て来ています。また、当時、その情報は「機密情報」としてソ連が封印していたというのです。

ジューコフ元帥が第二次世界大戦後にインタビューを受けて、「あなたの戦歴の中で最も厳しい戦況だった戦いはどこですか?」との問いがあり、インタビュアーは、「独ソ戦史の中のいずれかの戦場」との答えを期待していたようです。しかし、彼は一言「ノモンハン」と回答しました。

結局、当時の陸軍には戦闘損耗を妥当に評価できる態勢がありませんでした(なお、米軍はBDA(爆撃効果判定、Bomb Ⅾamage  Assessment)を重視している)。これに加え、GHQの意図的な情報操作があったとすれば、執筆者や編集者の著述の正確性は低下し、我々の歴史認識も変わってしまうことになります。

インテリジェンスの重要性を改めて認識します。

緊急事態宣言と危機管理

新型コロナウイルス対策で、政府は本日(1月7日)、首都圏の1都3県を対象、8日から来月7日までの期間、緊急事態宣言を再発令しました。また、本日の東京都の新たなコロナ感染者数は2447人と発表されました。

インターネットの書き込みなどを見ますと、政府のコロナ対策の遅れ、オリンピックをやめてコロナ対策費に回せ!などの、反政府批判が目立ちます。

今年の箱根駅伝では、主催する関東学連が「応援したいから、応援にいかない。」をキャッチコピーに公式サイトなどで呼びかけました。その効果があって2日間におけるコース沿道での観戦者数が、約18万人と発表。昨年の前回大会は121万人で約85%減となりました。

しかし、約18万人もの観客が駆け付けたことに対して、モラルの低下や危機意識の欠如を嘆くツィターも多いようです。

たしかに、最初の緊急事態宣言の後に〝緊張の糸〟が切れたのか、人々の危機意識はどんどんと薄らいだような気がします。「三密」も流行語の年間大賞となって、「愛の不時着」(2位)「あつ森」(3位)などと並んで、どこか、ほのぼの感さえ感じられ、緊張感がありません。

危機意識の欠如は、「喉元過ぎれば…」的な日本人特有の性質や、人間の深層心理にある、「たいしたことはない」との過小評価、「周りの人が皆町に繰り出しているから自分も大丈夫」などの同調主義といった心理バイアスが影響しているように思います。

結局、危機意識というのは個人ではなかなか高められませんし、維持できません。だから、政府、地方行政組織、企業などがある程度の強制力を持って危機の実態を具体的に説明し、注意喚起しなければなりません。

注意喚起する側が、危機意識のない行動を取れば、それは説得力をもちません。国民による反政府批判を煽るかのような、一部マスメディアの報道振りもいかがなものかとは思いますが、連日のように政府要人方の〝軽率に見える行動〟(※政治家として為すべき当然の行動も多々あり、報道される行動が自体が軽率だと私が考えているわけではありません)が報じられています。

他方、危機意識は誰のためでもありません。自分のためです。東洋大学の酒井駅伝監督の「その一秒を削り出せ」を思い起こし、政府による「GO to キャンペーン」の是非をあれこれ論じることは横に置いて、個人が少しだけ自覚ある行動を取ればコロナへの勝利が一歩近づくのではないでしょうか。

ただし、人間は生活しなければならないし、政治や経済は前に向かって進ませなければなりません。だから、どんなに自覚ある行動をとっていたとしても、コロナに感染することは不可抗力の場合があります。どんなに注意しても交通事故に巻き込まれることと同じです。コロナにかかった方を白眼視(※三国志の阮籍が元になった故事成語で、差別用語はありません)してはなりません。

さて、危機管理には一般に(狭義の)危機管理(クライシス・マネージメント)とリスク管理があるとされます。リスク管理は「危機以前のリスクが起こらないように、そのリスクの原因となる事象の防止策を検討し、実行に移すこと」です。他方、「危機管理」は「すでに危機が発生した場合に、その被害を最小限にするとともに、いち早く危機状態からの脱出・回復を図ること」です。

今回のコロナ禍を例にとりますと、集団クラスターが発生するような場所に行かない、外出時にはマスクをつけるなどがリスク管理となります。危機管理の方は、集団クラスターが発生した以降、その場所を消毒し、濃厚接触者を特定して隔離し、医療行為を行うようなことだと言えます。

リスク管理は危機発生前に専門組織または個人が予測的に行う活動ということになります。これに対して、危機管理はどちらかいえば危機発生後に総合組織または集団組織が臨機応変に行うものという違いがあります。

今回の緊急事態宣言は「危機管理」です。リスク管理に比して、費用も労力も比肩できないほど甚大です。これらの費用も我々の税金から捻出するとすれば、個人がリスク管理を怠ることで、何倍にも借金が膨れて跳ね返ってくることになります。まさに天に向かって唾を吐くことになります。

今しばらく、リスク管理的な思考で危機を乗り切る必要があります。

「医食同源」から「和製漢語」を考えた

昨晩、急に腸の具合が悪くなり、冷汗と下痢、激痛に見舞われました。最大の苦しみは、1時間ほどで過ぎましたが、いまだ腸と腰に鈍痛が少し残っています。

昨年も正月明けに同じような症状になったような覚えがあります。〝自己診断〟ですが、正月はずっと食べたり、飲んだり、寝たりで、そこに昨日(1月4日)は本年の初の外食で中華料理店で四川料理を食べたことが原因かもしれません。それに加えて部屋の暖房の暖かさを過信して、腹を出して寝たことが原因かなと思います。

ただし、自己判断の因果関係は誤謬が多いので、しばらく自重し、様子を見ようと思います。

さて、こんな症状になって、思い起こした四字熟語があります。「医食同源」です。これは、病気の治療や日常の食事も、ともに健康を保持には欠くことができないもので、源は同じだという考えです。

私は、かつてこの言葉は、中国から輸入されたものと思っていました。しかし、中国の「薬食同源」(体によい食材を日常的に食べていれば、特に薬など必要としないという考え)をもとに日本人の方が1972年に造った造語のようです。現在は、中国でも医食同源が使われています。

統計によれば、中国で今日使用されている社会・人文・科学方面の名詞・用語の実に70%が日本から輸入したものようです。その経緯を調べれば、主として明治維新以後、日本は近代化のため、西洋の文化、制度、歴史を勉強してきましたが、その際、日本にはない概念である西洋の語句を「和製漢語」として翻訳しました。

当時、中国の知識人は自国の近代化のため日本に留学していました。彼らは明治維新後の日本に学び、同時に 日本を通じて西洋文明を祖国に紹介しようとしたのです。梁啓超などが「和製漢語」を自国に持ち帰り、それが中国語の中に根を下ろしたようです。

本ブログの「インテリジェンス関連用語」(カテゴリー)の中でも解説していますが、情報も明治期になって、陸軍がフランスの軍事教範を翻訳する際、仏語の「renseignement」 (案内、情報)の訳語として「敵情を報知する」意味で情報を用いたのが最初です。これも現在、中国に逆輸入され軍事用語として用いられています。

他方は分析はどうでしょうか。分析に相当する英語はanalysisです。同語の語源は「~を(ana-)ばらばらに分解して(luo)調べること(-sis)」です。日本語の分析は、「刀で切り分ける、木で斧を切る」という二つの言葉からなると言われます。だから、日本人による「和製漢語」だと言えそうです。

しかし、漢書には『全訳(第二版)漢辞海/三省堂』によれば、漢書ですでに「分析(ブンセキ)」は「分ける。区別する。」(漢書・孔安国伝)の意味で用いたようです。なかなか、語句の語源も複雑です。

さて、民主・科学・政治・経済・自由・法律・哲学・美学・人権といった語彙はすべて日本から中国に渡ったようです。つまり、中国は欧米の制度、文化、などの修学は日本語を媒介しています。

わが国は近代化のために西欧から主導的に本質を学ぼうとしたが、他方の中国は日本の手を借りた。そこには知的エネルギーの発揚に大きな差があると思えます。また、この相違が両国の人権、民主、法律などへの解釈の違いの根底のような気がします。香港問題もこのような視点から考えることが重要であると思います。

箱根駅伝観戦から未来予測について思う

1月4日、今日から仕事始めの方もいらっしゃるのではないでしょか?しかし、コロナ禍でテレワークが新たな働き方の主流になったので、例年のような「御用始め」という状況ではないのかもしれません。私の仕事始めはまだ先ですが、頭の中ではあれこれと書き物の構想を練ったり、本を読んだりしています。

例年、私の正月三が日は駅伝観戦です。実業団駅伝、箱根駅伝、今年もドラマを見せてくれました。なかなか戦前の予想は当たりません。データやAIを駆使した予想タイムもまったく当てにならず、まだまだ「筋書きのないドラマ」にAIは無力だなあ、と思いました。

それにしても、箱根駅伝では、創価大学のあれだけの健闘を誰か予想していましたか?さらに驚いたのは最終10区で3分以上の差を覆した駒澤大学です。最終ランナーの活躍は見事でした。

実は私は外出する用事があり、9区が終わった段階で自宅を出ました。だから、劇的なシーンを見逃しました。大八木監督の歓喜のダミ声を聞けなかったのが残念です。

まさに、「一寸先の未来はわからない」ということです。協賛した報道機関や各紙は創価大学の優勝を前提に、優勝インタビューの準備や朝刊の見出しを考えていたのが大急ぎで駒澤に切り替えると言った〝ドタバタ劇〟があったのかもしれません。

それにしても未来予測はなかなか難しいものです。今年はどんな年になるのでしょうか。オリンピックは無事開催できるのでしょうか。コロナ禍はワクチン開発で収まるのでしょうか?

不透明な社会に対応する一つの秘訣は「行動しながら考える。うまくいかなければ修正する」ということです。行動をためらっては問題は発見できないし、解決もできません。

その意味では、私は政府の「GO TO キャンペーン」への決断も基本的に誤っていないと思います。また、一時的、一部地域での見直しも妥当だと思います。同キャンペーンとコロナ再ブレイクの因果関係は明らかではありませんし、素人判断での行き過ぎた政府批判を行っても問題の解決にならない気がします。

もう一つは、未来のシナリオを複数考えることです。そのためには現在の潮流を捉えて、その影響要因を見定めることが重要です。

私は一昨年、『未来予測』を刊行しましたが、現在の潮流として「グローバル化」と「環境の変化(気候の温暖化)」を挙げ、これらがもたらす未来のマイナスの側面(影)としてパンデミックを指摘しました。

『未来予測入門』から抜粋

また、ビジネスパーソンの暮らし方・働き方を論点として掲げ、「ビジネスパーソンの価値観の変化」と、「働き方改革(テレワーク)の趨勢」を現在の二つの潮流として、4つの未来シナリオを提示しました。

①在宅勤務ライフ、②デュアルライフ、③毎日通勤ライフ、④シリコンバレーライフ、です。

誰しも、「いつ、何が、どのように起きるのか」は予言できません。しかし、予言と予測は違います。自分に関係があることを少しリスク管理的に予測することは重要だし、不可能ではありません。

今回のコロナ禍でも、それを予測できる多くの事前兆候があとから注目されています。未来予測とは、そのような兆候を軽視しないということに主たる目的があると思います。

今年の朝刊各紙のトップ記事の見出しに思う

以下は、1月1日朝刊各紙の1面トップ記事の見出しです。皆様は、「どれが、どの新聞」なのか、わかりますか?

①中国「千人計画」に日本人

②脱炭素の主役 世界競う

③民主主義が消えてゆく

④吉川氏に現金 さらに1300万円

⑤戦前の東京鮮やかに

①が読売新聞、②が日経新聞、③が産経新聞、④が朝日新聞、⑤が東京新聞です。

「日経新聞」はカーボンゼロの話です。日本も昨年末、2050年までに二酸化炭素(CO2)など温暖化ガスの排出を実質ゼロにすると宣言しました。グローバルイシューを取り上げ、未来視線の新年らしい良い記事であると私は思いました。

「東京新聞」も地域性を特色とした面白い記事です。

それにしても、朝日新聞は新年早々から元政治家の献金問題とは。重要なテーマだとは思いますが、正月記事としては私は少し・・・・・です。

最近は見出しだけだ見ると、どちらが「読売新聞」か「産経新聞」かわかりませんね。両社の主張がだんだんと似通っているように思うのは私だけでしょうか。

①も③も中国脅威論が根底にあります。①は、世界レベルの理工系人材1000人を破格の待遇で国外から引き抜き、中国の経済発展に貢献させるのが狙いで、2008年から始まった国家プロジェクトのようです。

そう言えば、1990年代には、中国が海外人材を呼び戻す「百人計画」というのがありました。「千人計画」の方も対象者数はとっくに千人を超えているようですので、「万人計画」もまもなく(?)の勢いですね。

ただし、中国脅威論は認識する必要はありますが、わが国の研究開発の停滞振りに、より問題の本質があるのかも知れません。最近の研究開発費の伸び率は日本が3%に対し、中国は48%とのデータがあります。研究者数も、ここ20年間、日本が70万人程度で推移しているのに対し、中国は180万人まで急増してきたようです。

③は中国の権威主義が自由と民主主義の脅威となり、最前線のインド太平洋で「米国一強」は揺らいでいるという内容の記事です。

さて、まもなく米国では新政権が開始されます。米中関係はどうなるのでしょうか? 権威主義と自由・民主主義のせめぎ合いの中で、日本は自ら先頭に立ってインド太平洋での自由・民主主義の価値を守る方針を打ち出すのでしょうか?

「千人計画」の推進で、我が国の科学技術や高度な秘密情報が中国に流出し、中国による「軍民融合」政策のもとで安全保障上の脅威が増大しているとの指摘に、わが国はどのような具体的な答えを出すのでしょうか?

コロナ禍の終焉が見えない中、菅政権の舵取りには波乱も予想されますが、どうか我が国の国営擁護のために頑張っていただきたいと思います。

あけましておめでとうございます。

皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

昨年は私の諸般の事情がありましてブログを中断していましたが、今年は再開します。昨年はコロナ禍に見舞われましたが、雑誌取材や講演依頼などはほぼ順調でした。どうもありがとうございました。

これも、一昨年に出版した『武器になる情報分析力』と『未来予測入門』の効果のようです。昨年は、私の環境変化などで一冊も新刊を出版できなかったのですが、今年はなんとか一冊は出版したいと考えています。

四五年来の書き溜めたものをすでに整理していますので、出版もまもなくだと思います。その節には、このブログでご紹介させていただきますので、ご贔屓に願います。

今年はスマホを利用して、外出先などで気軽に近況ブログなどを書き、その後、自宅で時々修正(更新)したいと思います。

皆様、今年一年よろしくお願いします。

わが国の情報史(47) 秘密戦と陸軍中野学校(その9)

-陸軍中野学校の曲解を排斥する-

▼中野学校の過大評価は禁物  

 ともすれば、戦後の中野学校に関する映画などの影響により、同校が「秘密戦士のスーパー養成機関」のようにもてはやされる。さらに中野学校を謀略機関のように扱い、中野学校が学生を教育して謀略に差し向けたかのような誤解さえ生じている。中野学校は教育機関であって、謀略機関ではないし、特務機関でもない。  

 また戦後になって「中野学校の設立が10年早ければ」とよく回顧されたようである。しかしながら、この評価についても、もうすこし冷静に判断しなければならない。  

 8丙の加藤正夫氏は自著『陸軍中野学校 秘密戦士の実態』の中で、「歴史に『もしも……』ということはありえないが、陸軍中野学校の設立が昭和13年ではなく、それより10年早い昭和3年であったら、大東亜戦争の日本のあのような敗北はなかったのではないかとの見方もできる」と述懐している。  

 加藤氏の見解を整理してみよう。

・中野学校出身者の主流は普通の大学、高等専門学校出身者であり、柔軟な思考法で戦争に対処し、武力戦で強引に勝つこととのみは考えず、秘密戦によって難局打開を目指していた。  

・しかしながら、1期生の陸軍での最高階級は少佐であり、軍部内での影響力はなかった。  

・仮に、昭和3年であれば、将官クラスをも輩出し、軍内での影響力を有したであろうし、世界情勢を正確につかみ、正確に判断することを常に心がけていた中野学校出身者であれば、秘密戦による早期和解も可能であったであろう。  

 筆者は、これも客観的根拠のない中野学校への過大評価である。

 当時の陸軍内においては陸軍大学校出の作戦将校が幅を利かせ、同じ陸大出でも情報将校は軽視された。さらには陸軍内では東條英機率いる「統制派」あるいは「親独派」が幅を利かせ、海軍内部においても陸軍を北進から南進へと転換させ、対英米決戦に持ち込もうとする派閥もあった。 松岡洋介外務大臣も親独派で、それに追随する外務省幹部も対英戦争を指向した。  

 このように1920年代から30年代にかけてのわが国は、国家全体として戦争遂行の道を歩んでいたのである。わが国の世論の全般も戦争を支持する趨勢にあった。  ようするに、軍内では官僚主義が蔓延(はびこ)り、国家全体が戦争賛美にかられていた。中野学校がもう10年早くできようが、そしてリベラルな一般大学での卒業生が将軍ポスト就任しようが、作戦重視、親独主義という牙城を崩すことは容易ではない。  

 中野学校は「替らざる武官」を養成するために設立された。当時、情報戦に後れをとっていたわが国であったが、起死回生とばかりに中野学校の期待する者は、陸軍参謀本部のロシア課などを中心とする一部であって、陸軍参謀本部の総意ではなかった。

 たしかに当時、秘密戦の重要性に対する認識は高まったが、それも、しょせんは「“縁の下の力持ち”的な、割に合わないことはやりたくない」とする陸大出の作戦将校あるいは情報将校などのエゴにすぎなかったのではなかったのか?  

 当時の諸外国では、情報将校としてずっと同じ場所で外国勤務を続けて昇進していたという。しかしわが国の官僚制度が同一の補職や同じ勤務地では昇任条件を満たさなかった。むしろ、「替らざる武官」を新たに養成するより、官僚制度の弊害を改める努力はしなかったのか?ここにも疑問が残る。  

 ひるがえって明治の時代においては、陸大を出ずにほぼ情報一筋で海外勤務を続けた柴五郎は大将まで昇任した。桂太郎も最初は情報将校であり、川上操六参謀総長は情報将校を優遇した。この点は教訓にならなかったのか?  

 日清・日露戦争における勝利は、縁の下の力持ちに徹した情報将校の活躍があったと思われる。しかし、情報活動というか、秘密戦というものは目に見えないから、評価が難しい。あの明石大佐でさえ、情報関係者からは絶大の評価が与えられたが、凱旋帰国はなし、その復命書はホコリ塗(まみ)れ、という状態で決して評価は高くなかった。  

 結局、日清・日露の勝利の手柄は、声の大きい作戦将校に持っていかれ、情報将校やその関係者は隅におかれ、やがて情報の軽視が始まったのではないか? 『孫子』がいうように情報を成果が見えにくいので、最も手厚く報いなければならなかったが、その原則がわが国には確立できなかったのではないか?  

 この点、織田信長が今川義元を桶狭間で破った時、信長は、功名第一は、「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」と義元の居場所を伝えた梁田政綱(やなだまさつな)、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。 すなわち、我が国は日本史から学ぶ貴重な戦訓も忘れて、日清・日露の戦争にうかれた。  

 ソ連はKGB出身者が大統領になる国である。そこには、民族と地勢、そして宗教が複雑に交錯した国境線を持ち、内乱や革命を経験した情報重視の伝統が生き続けている。しかるに、わが国のような島国国家にはなかなか情報重視の気風は育たない。

 この弱点を真に認識し、国家上層部が真にインテリジェンスの重要性を理解し、情報重視の気風を育て、人材育成に予算を重点配分しなければない。でなければ、どのような時代に中野学校、いや第二の中野学校ができようとも、たいした影響はないのだと考える。  

 中野学校のスーパー性を風潮することで満足して、本質を忘れて、思考停止に陥ってはならないのである。

▼中野学校に関する曲解が横行  

 戦後になって中野卒業生がわが国において暗殺や毒殺、拉致などを働いたなどの記事が書籍や雑誌に掲載されることは多々ある。誤解ならぬ、意図的な曲解である。  

 たとえば、元公安調査庁第2部長の菅沼光弘氏の著書『ヤクザ説妓生(キーセン)が作った大韓民国-日韓国戦後裏面史』(2019年2月、ビジネス社)には、中野学校出身者が金大中拉致に関わった旨が書かれている。 しかし、これには根拠といえるようなことはなにもない。  

 また、2015年4月の雑誌『ムー』(学研パブリッシング)に「陸軍中野学校極秘ファイル:終戦直後、スパイが画策した恐るべき謀略 禁断のマッカーサー暗殺計画」と題する斉藤充功氏の記事が掲載されが、これも信憑性に欠ける。  

 さらに過去に遡れば、わが国の帝銀事件や下山事件などの歴史的事件にも、中野学校出身者の関与を匂わせるような文脈があるが、これも説得力はない。これらに対しては、すでに中野学校関係者などによる論駁がなされているので、ここでは詳細は避けたい。

▼曲解の第一は、中野学校に対する認識不足  

 こうした事件や謀略に対する中野学校の関与説を振り回す原因を考えてみれば、第一に中野学校に対する認識不足があげられる。 中野学校は秘匿された存在であったので、のちに中野学校の映画が制作された際、中野学校に隣接する憲兵学校出身者が自分たちのことを世間が中野学校出身者だと信じ込んで、撮影のアドバイザーになったとの、笑えない“笑い話”もある。  

 中野学校はまず謀略機関ではないし、たとえ中野学校出身者が特務機関に配備されたとしても、その行動の主体は特務機関であって中野学校ではない。これに関しては、当時の陸軍の軍事制度や教育制度に対する認識不足を改める必要があろう。  

 また、中野学校において“007的”な技術教育が行なわれたことも事実ではあるが、これまで述べたとおり中野学校で最も重視されたのは「誠の教育」であった。  

 筆者は、中野学校を研究して創設者の秋草氏などの思想の一端に触れ、国体学を教育した吉原教官の思想に思いを馳せるようになって、中野卒業生が、安易に謀略に手を染めたなどは信じられなくなったし、また信じたくもない。  ただし、「やっていない」ことを証明することは「悪魔の証明」といって不可能であるので、そこに勝手解釈なストーリーが蔓延ることになる。  

 そして、戦後の映画などに登場した盗聴器、マイクロカメラ、隠しインクなどの秘密戦器材や、時限式爆弾、毒ガス、開錠、暗号解読、変装などの秘密戦技術を使用した訓練状況などが、観客を引き付けるストーリー性を持った。 このことで中野学校=スパイ学校、さらには秘密戦実行機関、中野学校卒業生=スパイという認知が短絡思考によって行なわれた。  

 映画などでも「誠の教育」については強調しているが、視聴者はどうしても、わかりやすい、短絡的思考による認知へと向かわざるを得なかった。 ようするには、誠の精神教育の存在を無視して、上述のような点ばかりに注目して表層的かつ断定的な判断をしていては、なんらの教訓を得ることもできないのである。

▼中野学校を封印したことも原因  

 第二に、書籍など販売数を上げるための商売主義や、あるいは自分に注目させる売名行為から、意図的に中野学校を面白おかしく語る輩もいる。これについてあまり触れたくもない。  

 第三に、「中野学校関係者は黙して語らず」を信条として、さまざまな誤解や風説に異議を唱えてこなかった。  戦後は自虐史観が蔓延り、たとえば自衛官でも堂々と身分を名乗ることも躊躇される時代が続いた。ましてや秘密戦という、崇高であるものの、その一方で残虐性を帯びた任務に従事した秘密戦士について語ることが憚(はばか)れたのも致し方のないことである。 しかし、世の中が情報化社会になるにつれ、誤った情報は氾濫するし、容易に入手できる。他方、真実の情報は、結構、「なんだ、そんなことか!」というのが多いので、面白さに欠けてなかなか伝わらない。  

 情報化社会のなかでは、黙っていては負ける。たとえば、中国や韓国が声を大きくして嘘も喧伝したとする。それに反駁しなければ、嘘は真実になる。沈黙は金、ではないのである。

▼筆者の認識不足を大いに反省する  

 筆者は2016年に『戦略的インテリジェンス入門』を上梓した際、佐藤優氏と高永喆氏の共著『国家情報戦略』を引用して以下の記述を行なった。

「終戦後、北朝鮮は現地に残った中野学校出身者を利用してスパイ工作機関を設立していたという。これに関しては、元韓国軍の情報将校であった高永喆は佐藤優との対談において『国防省の情報本部にいた時、北朝鮮のスパイ工作機関が優れた工作活動をしているのは日本帝国時代の陸軍中野学校の教科書を使ってスパイ活動のノウハウを覚えたからだ、と教育されたことがある』との逸話を紹介している」  

 その後、中野学校出身者の親族から構成される「中野二誠会の代表者の方から、筆者は次のメールをいただいた。

「大戦後の中野学校出身者と北朝鮮との関係を結びつけるような事実はいっさい確認できていません。中野学校では教科書を使う授業の際には授業後すべて回収していたと聞いています。しかも敗戦前夜までにすべて焼却したようです。戦後、間違えて卒業生の実家宛のコオリに混入していて見つかった例や、陸軍省のある人物が隠し持っていた教本が出てきた例があるのみです。つまり『陸軍中野学校の教科書』なるものは存在しません」(増刷本では訂正した)  

 高氏がどのような根拠で上述の話をしたかは定かではないが、今日は、中野学校に対する誤った風説があまりにも多く流布している。 筆者も、そうした誤った風説を拡散してしまった。元陸上自衛官で情報に従事していた者として恥ずかしいし、中野学校関係者のみならず、さまざまな読者にご迷惑をおかけし申し訳ないと思っている。  

 「中野学校は黙して語らず」によって恣意的な中野文書が氾濫している。それに対する批判が対外的に行なわれなかったことが曲解を野放しにしていることの原因でもあろう。 慶応義塾大学の「慶応義塾大学メディア・コミュニケーション研究所」の都倉研究会の現役学生が、「陸軍中野学校の虚像と実像」という調査研究を行なっている。その論考集における学生の真摯な研究態度と客観性に配慮した分析は称賛に値する。こうしたテーマに関心を持つ学生諸氏と指導教官に深甚なる謝意を送りたい。  

 最後に申し述べたい。 「わが国の情報史」の連載は、これをもって終了するが、筆者が最も伝えたかったことは、由緒正しき日本の文化、伝統、誠を愛する日本人としての良質なDNAが、明治、大正、昭和、平成、令和へ、戦争のあるなしにかかわらず連綿として伝えられているということである。  

 日本を愛する、愛国心をすててしまったら、真実は見えなくなる。  そして情報、すなわちインテリジェンスを軽視する国は亡ぶ。だから、国家、国民のインテリジェンス・リテラシーを高めることが必要である、ということだ。  そのためには歴史勉強が必要である。その際には、さまざまな説を受け入れる柔軟な思考力と、それを批判的に論駁する二律背反的な思考力を常に持たなければならない、ということである。(おわり)

わが国の情報史(46)  秘密戦と陸軍中野学校(その8)    

-陸軍中野学校の精神養育、国体学-

はじめに

前回は中野学校卒業生に求められる精神要素について解説したが、今回はそのための精神機育、すなわち国体学について解説する。

▼吉原政巳教官による国体学とは

 第1期生から国体学の授業は行われたが、第2期生の途中からは吉原政巳教官が中野学校に赴任し、1945年8月に富岡で閉校になるまで吉原が本校での国体学の教育に携わった。  

 吉原は中野学校に来てくれないかとして勧誘された時、若干30歳(満で29歳)であった。そこで、彼は己れの未熟さを自覚したうえで全軍から選り抜きの中野学校の秀英を国士として養成する任務の重さを認識し、教育を引き受ける上で、以下の3つの提案を行った。

 1)楠公社(なんこうしゃ)を建て、朝夕ここに詣(もう)で、楠公の忠誠を偲(しのぶ)と共に、自分の魂を省察点検できるようにする。

 2)記念館(室)を設け、明治以来の先輩、秘密戦士の遺品・遺影、その他の関係資料を掲げて、ここに講堂をあてる。  

 3)単に講堂の授業で終わらず、国事に殪(たお)れた先烈の士の遺跡を訪ね、現地で精神的結晶の総仕上げを試みる。        (吉原『中野学校教育-教官の回想』)   

 以上の3つは、学校当局の賛同を得て関係者の並々ならぬ実現に向けた努力が払われた結果、予算化がなされ、めだてたく完全実施に至った。

▼楠木正成、大江氏から「孫子」を学ぶ

 楠公(なんこう)とは鎌倉時代の武将・楠木正成のことである。彼は1334年の「建武の中興」の立役者である。 当時、鎌倉幕府の長である北条高時を打倒し、天皇の権限を強化しようと後醍醐天皇が立ち上がった。そこに馳せ参じたのが、忍者の系統を持つ「悪党」のリーダー、河内の土豪であった正成であった。

 正成は、農業や商業に従事する500騎の地侍を率い、智謀を駆使して圧倒的に優勢な幕府軍に立ち向かった。そこには「孫子」の兵法を応用した悪党流のゲリラ戦法が発揮された。 正成に「孫子」は伝授したのは大江時親(ときちか、毛利時親ともいう)であるとされる。

 大江家は世々代々、兵法書を管理する家柄であった。中国からわが国に伝来した「孫子」などは、「人の耳目を惑わすもの」として大江家が厳重に管理していたのである。 大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)は930年頃に唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰った。

 大江家はこれらのほかに『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』などを門外不出の兵法書として管理した。 大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えた。兵法を伝授された義家は「前9年の役」(1056~1064年)、「後3年の役」(1083~1086)で奥羽の安倍氏を討伐した。 その後も「孫子」は大江家によって厳重に管理され、第42代の時親が、河内の観心寺で楠木正成に「孫子」の兵法を伝授したとされる。

▼正成に伝えられたもう一つの兵法

 正成が後世において敬仰されるようになるのは、「孫子」に裏打ちされた智謀だけではない。 後醍醐天皇のために殉死した湊川(兵庫県神戸市)における正々堂々の戦いや、「七生報告」(何度生まれ変わっても国のために尽力する」という意味)にみられる主君に対する忠誠心が人の心をとらえて離さなかったのである。

 正成は足利尊氏の軍に敗れて、「七生報告」を誓って、弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自刃した。 こうした正成の忠誠心滅は「兵は軌道である」と説く「孫子」の解釈では説明できない。 実は、そこには匡房が確立した、わが国古来の兵法書「闘戦経」の教えがあった。匡房は「孫子」は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識した。

 そこで自ら「闘戦経」を著し、「孫子」を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いたとされる。 大江時親が楠木正成に観心寺で兵法を伝授した時、同時に「闘戦経」も伝授したと伝えられている。つまり「孫子」のわが国風土における欠落を「闘戦経」で補完したわけである。それが楠木流兵法であった。

  「闘戦経」の特徴のひとつが、戦いに勝つために、戦場における「兵は軌道なり」はあってもよいが、戦略上はすべて謀略に頼るのではなく、時には正々堂々とよく戦うことも重要である、という点である。 こうした教えの下で「湊川に戦い」において〝負け戦〟と分かっていながら、尊氏軍に対する16度の突撃が繰り返されたのである。

▼楠木正成への敬仰

 正成の忠戦は、その死後からわずか35年後に著された『太平記』によって描かれている。 吉原は、「『太平記』は正史ではなく、記事の資料にも難があるといわれる。しかし、虚実を超えた真ともいうべきものを、強く人に訴えてやまない書であり、当時の公卿から武士、庶民にいたるまで、広く読まれて、日本人の心の中に、深く影響を残してゆくのである」(吉原『中野学校教育―教官の回想』)、と述べている。

 ようするに、史実であるかどうかということよりも、いかにのちの日本人の精神や生き方に影響力を与えたかがより重要なのである。むしろ、それを知ることが歴史の本質だと筆者は考える。 約100年後の1467年には『太平記評判』が著され、正成は兵法の神様として国民の間に尊敬を高めていく。当時、足利幕府は正成を朝敵として扱っていたが、正成の死後223年(1559年)にして、その後裔の楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願した。

 朝廷がこれを認め、正虎を河内守に復し、正五位下に除した。 江戸時代になり、水戸光圀などにより正成を敬仰(けいぎょう)する動きが全国的に起こり、楠木精神は「武士道」精神のなかに浸透していった。そして、幕末の吉田松陰を通じて志士へと受け継がれ、倒幕の精神的原動力になった。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年(明治13年)、の明治天皇御幸の際、正成は正一位を追贈された。

▼楠公社建立の願意  

 吉原は正成を秘密戦士の理想像とした。吉原の要請を受けて、学校当局者が楠公社の設立許可を陸軍省から得て、学校から派遣した使者によって湊川神社から分霊(わけみたま)が運ばれ、学内に公社が建立された。 楠公社建立の願意は、次のとおりであった。

1)醇乎(じゅんこ、混じりけのない)たる日本人の代表としての楠公を祀り、日夜その遺烈を慕い学ぶ。

2)うぶすなの神(筆者注:生まれた土地を守護する神)とし、われ等が魂の誕生を告げ、且つ生涯に亙(わた)って、ここに魂のふるさとを持つ。

3)中野学校卒業戦没殉職者を配祀し、永くこれら英霊との語らいを続け、遺烈を継承する。

4)奇策縦横の智謀を学ぶべし、大敵・大軍にたじろかぬ不適の大勇学ぶべし、そしてそれらが由って発する所の、至忠至純の精神に、最も学ぶべし。

▼記念室での正座と座禅  

 記念室には身近い先覚の遺影をかかげ、先覚の遺品が展示された。また図書室には、できるだけ多くの関係図書が揃えられた。日清戦争前における民間有志の奮起や東亜同文会などの活躍を描いた『東亜先覚志士記伝』、日露戦争時の『明石元二郎伝』、菅沼貞風の『新日本の図南の夢』などがよく閲覧された。  

 先覚の遺影には、日清・日露戦争時に大陸で情報活動に従事した、荒尾静、根津一、岸田吟香、浦敬一、菅沼貞風、沖禎介、横川省三らのほか、中野学校における秘密戦士の理想とされた明石元二郎の遺影がかかげられた。  

 記念室は畳敷きであり、ここを講堂として学生は各人が小さな机に向かって、座布団なしで正座し、国体学の教育を受講した。すなわち、吉田松陰が塾生に講義するスタイルが取られたのである。  

 吉原は、「自分は和服だし正座は慣れていたが、学生諸氏は窮屈な背広を着用し、若くて張り切った大腿であったから、不慣れな正座は苦痛そのものであったとろう」との感想を述べている。  

 その上で、吉原は「しかし私は、何の躊躇もなく正座を要求した。正座の苦痛のために、私の講義が耳に入らないこともあるのは、十分考えられることであったが、それでもあえて正座講義を行った。人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受け入れる方が大事と疑わなかったからである。」と述べている。 実際に卒業生からはこの正座の厳しさが、戦後になっても懐かしい思い出ともなり、昔話しに花を咲かせたようだ。

 他方、2期生は夏休みを利用して、自主的に三浦半島の禅寺で1週間の座禅を研修し、精神修養におおきな成果があったとされている。自ら苦行を実践して、精神修練につとめたというわけだ。

 今日、暴力や強要がタブー視される傾向がより顕著となっている。よって正座の強要などは精神修養の手段とはなりえまい。しかし、人間は安きに流れるものである。精神面の鍛錬に肉体的な苦痛を伴うことは、時と場合によっては必要なのかもしれない、このようにふっと考えることもある。

▼国体学の柱が楠木精神を学ぶこと

 国体学とは、わが国の由緒正しい国家の体制を歴史的に学ぶ学問である。  

 吉原が活用した教材には、南北朝時代において北畠親房が記した『神皇正統記』、江戸時代において日本固有の儒学を確立した山崎闇斎の『崎門学』(きもんがく)、水戸藩の藤田東湖の『弘道館記述義』、そして吉田松陰の『講孟箚記』(こうもうさつき)などがある。

 また、学生の卒業に際しては、先烈の遺跡を訪れる「国体学現地演習」が行われた。この研修では、吉野、笠置、赤坂、千早、湊川、鎌倉等の楠木正成のゆかりの地、幕末の水戸藩の史跡、吉田松陰が獄中生活を送った伝馬町獄跡や松陰の墓がある小塚原回向院(えこういん)など、幕末志士たちのゆかりの跡を訪ねて国事に殉ずる精神の陶冶がはかられた。 これら教材や研修先から、時代を超えた楠木精神の伝承を学ぶことが国体学のひとつの柱であったようにみられる。 正成の後醍醐天皇に対する忠義と永遠に変わらぬ誠の心、そして彼の生きざまは、江戸時代の「水戸のご老公」こと水戸光圀の研究対象とされて、武士の鑑としてもてはやされた。  

 光圀は、歴代天皇を扱った歴史書『大日本史』を編纂(へんさん)するなかで、南朝と北朝に天皇がそれぞれ並び立つ14世紀の南北朝時代において、南朝の後醍醐天皇を正統とする立場をとった。すなわち、北畠親房の『神皇正統記』の正統性を認めた。

 光圀は1692(元禄5)年12月、正成の墓があった湊川に墓碑(楠公碑)を建立した。碑面に自筆揮毫で「嗚呼(ああ)忠臣楠子(なんし)之墓」と刻んだ。 以後、水戸藩の学問「水戸学」を通して藩内には正成の精神がいきわたる。その中心人物が会沢正志斎(1782~1863)と藤田東湖(1806~1855)である。そのうち東湖が書いたものが、教材となった『弘道館記述義』である。 水戸藩士は尊王攘夷を掲げ、幕府の大老、井伊直弼(なおすけ)を襲撃した桜田門外の変を起こした。この際の精神的支柱になったのも正成であった。

 楠木精神の継承者として忘れてはならないのが士道を確立した山賀素行である。素行は『楠正成一巻書』(1654年)の序文を執筆し、「忠孝は武士の励む最もたる徳で、非常に難しいが、歴史上もっとも忠孝を尽したのは楠木正成・正行しかいない」 と述べた。

 素行は士道において「誠」を強調した。その思想が吉田松陰や乃木希助へと継承された。なお、松陰は著書『武教講録』のなかで素行を「先師」と尊敬しているが、松陰と素行とは時代が200年ほどことなるので直接な交流はない。 松陰もまた、湊川神社の正成の墓所を訪問(1851年)するなど、正成を敬仰した。そして松陰は水戸の会沢正志斎と藤田東湖と交流し、尊王思想に感化を受けた。 このようにして、楠木精神が山鹿素行や水戸藩によって継承され、松陰によってその精神がなお高められ、高杉晋作、桂小五郎などを動かして明治維新を成し遂げたのであった。

 こうした正成の思想が伝授されるなかで、「謀略は誠なり」の言葉の発祥とともに、正成が太平洋戦争期における秘密戦士の精神的支柱になっていったと考えられる。 かくして中野学校において楠公社が建立され、そこで学生は座禅を組み、精神修養に日夜は励んだ。こうして中野学校に教えに日本の伝統的な「誠」の精神が注入されたのである。

 米軍は太平洋戦争時、わが国に対して無差別爆撃を実施した。これは「孫子」の第12編「火攻」である。 しかし、中野学校卒業生は、アジア解放の戦士となることを目指した。彼らは、「孫子」の知恵の戦いは踏襲したが、『孫子』とは一線を画する「闘戦教」の教えに根差した「誠」の心を持ってアジアの人々と接した。 それゆえに、彼らの行動はアジアの人々の琴線に触れたのである。