中国の認知戦は青少年がターゲット(2025年8月22日作成)

私は母親から、そして日本昔話の数々から、多くのことを学んできました。私の子どももすっかり大きくなり、今では私の戯言には耳を貸さなくなりましたが、幼い頃は、私なりにアレンジした昔話を夢中で聞いてくれたものです。

物語は人の心に静かに染み込み、価値観や判断を形づくる力を持っています。

戦争においても「物語(ナラティブ)」は心理や認知に影響を与え、敵への憎悪を生み、戦争支持の世論を形成し、善悪を二分する枠組みを築きます。思い返せば、人類の戦いの原点は心理戦にありました。恐怖や憎悪をあおり、士気を高め、相手を萎縮させる――そこから物理的な戦いへと移り、やがて情報システムを駆使する戦いへと進みました。そして今日、再び人間の認知や心理そのものを操作する「認知戦」が前面に出ています。すなわち、心理戦→物理戦→情報戦→認知戦という流れは、一見「元に戻った」ように見えて、より精緻で高度な形へと進化してきた。これこそ、人類の歴史が「螺旋的に発展」している証左なのです。

現代の認知戦において標的となるのは、指導者やインフルエンサーです。しかし忘れてはならないのは、未来を担う青少年もまた、その矛先に晒されているという事実です。

たとえば中国共産党には青年組織(共青団)が存在し、日本のリベラル政党や宗教団体も若者を対象とした活動を展開しています。これらはいずれも、青少年への啓発教育の重要性を認識している証左と言えるでしょう。さらに中国は、国際交流の名目で日本国内の親中組織と連携し、青少年交流を盛んに企画しています。その背景には、歴史認識の形成において青少年こそが最も重要なターゲットであるという戦略的見解がはっきりと示されているのです。

では、大人はどうするべきでしょうか。いきなり「認知戦」の危うさを説いても、青少年の心には届きません。まず私たち自身がインテリジェンスを理解し、情報リテラシーを高めること。そして、自ら語り部となって、若い世代にその知を伝えていくことが不可欠です。しっかりとした知識を持ち、青少年のリテラシーを啓発する――そのために書き上げたのが、新著『15歳からのインテリジェンス』です。

本書は、青少年が直接読んでも理解できる内容になっています。しかし同時に、大人のみなさんがまず手に取り、自ら学び、語り部となって若い世代へ伝えていただくことで、より大きな力を発揮します。もちろん、もし青少年自身が関心を持ち、本書を手にしてくれるなら、それは何よりも歓迎すべきことです。――『15歳からのインテリジェンス』は、大人と青少年をつなぐ架け橋として生まれた一冊なのです。

『15歳からのインテリジェン』の発売日は9月10日、渾身の一冊『兵法三十六計から読み解く中国の軍事戦略』は9月27日です。

次週も前者に纏わるお話をし、その次の週から少し、現在の中国の台湾や尖閣における現状と日本の対応に関するお話へと発展させていきます。

9月発売の新著2冊、予約開始(2025年8月15日作成)

■はじめに――

この数年、本を書くたびに「書くこと」と「届けること」はまったく別の挑戦だと痛感しています。筆は進む。むしろ書きたいことは尽きません。しかし、伝えたい核心が読者に届くまで道のりは、想像以上に険しい――。

そんな中で、この9月、私は新たに2冊の本を世に送り出します。アマゾンでは先週から予約販売が開始されました。

『兵法三十六計で読みとく中国の軍事戦略』

――「戦わずして勝つ」思想が現代に甦る

この本は、私の過去十数冊の中でも「間違いなく渾身」と胸を張れる一冊です。中国の戦略思想を、兵法三十六計という古典から現代地政学へと橋渡しし、台湾侵攻や尖閣占有の現実的シナリオにまで踏み込みました。

実は9年前にも三十六計をテーマに本を出しましたが、その時からずっと「戦略像としての物足りなさ」が心に引っかかっていました。そこで今回は、作っては壊し、壊しては作る――そんな試行錯誤を重ね、構想が固まるまでに一年を費やしました。

計略を本来の順番に取り上げ、これは現代のこうした状況に整合するという思考ではなく、「平時」「グレーゾーン」「有事」という烈度の軸で計略を再編成。孫子や他の兵法書も織り込み、兵法を“立体的な戦略思想”として描き直しました。

台湾有事が現実味を帯び、尖閣周辺で中国公船の活動が続く今、中国の意図を読み解くための羅針盤としてあなたの手元に置いてほしい――。そんな一冊になりました。

この本は、現代中国の軍事戦略の奥深さと巧妙さ、戦に明け暮れた歴史の醍醐味、そして兵法の知恵を同時に学べる一冊です。

読み終えたとき、きっとニュースや国際情勢の見え方が一変し、事象の背後に埋もれていた意図や構図が鮮明に浮かび上がるはずです。

『15歳からのインテリジェンス』

――物語で体験する「情報の見きわめ方」

「高校教科書『情報』では、ITやコンピュータなどが扱われ、偽情報をどう見抜き、情報源をどう評価し、戦略に直結するインテリジェンスをどう作成するかがほとんど扱われていない」――この危機感こそ本書誕生の原点です。

実は、この本はアマゾンでコンピュータ・ITジャンルに分類されています(8月15日現在)。そもそも、インテリジェンスは、日本語の「情報」と同じ意味ではないし、コンピュータやITという意味はありません。ところが、日本では「インテリジェンス」を安易に「情報」と訳すために、AIがジャンルを振り分けるとはいえ、このような誤解や齟齬が生じてしまうのです。

学校や社会で教えられる「情報リテラシー」といえば、せいぜいPC操作やSNSのマナー、簡易的なファクトチェック程度。しかし現実の世界は、もっと〝性悪説〟で動いています。国家や組織は、相手の情報を盗み、意図的に偽情報を流し、認知戦を仕掛ける。そして、その格好の標的となっているのが青少年です。

本書の物語は、こうしたシビアな現実をそのまま描いてはいません。それでも、インテリジェンスの本来の意味と価値を、大人から子どもへと手渡す必要がある――その思いが、物語創作の出発点となりました。

私は、中高生にもすっと届く形で、本来のインテリジェンスとのふれあいを体験できる一冊を作り上げようと思い、その手がかりを求めて、日本昔話やアンデルセン童話、グリム童話などを渉猟しました。しかし、いずれも途中で「これでは届かない」と行き詰まりました。そんなとき、ふとひらめきました。既存の物語に頼るのではなく、自分で“昔話”の世界を創ればいい――と。

そして一気に物語が立ち上がります。切り出しは明治時代。トム・ソーヤが日本を訪れ、徳川の財宝を探す大冒険に乗り出す。物語はそこから時を超え、現代へ。主人公のひとりは、そのトム・ソーヤの子孫である日本の中学生。もうひとりは、私の娘をモデルにした少女。そして彼女の父親として登場するのは、20年前の私自身?――。

タイトルは“青少年向け”ですが、真のターゲットは大人です。トム・ソーヤをモチーフにした物語形式で、フェイクニュースや偏った情報の洪水とどう向き合うかを、読者自身が体験できる構成にしました。

情報の海を渡るための二つの羅針盤、ここに。

インテリジェンスを「歴史と計略から読み解く」か、「物語として体験する」か。その根底に流れている思いは同じ。ニュースがあふれ、真実と虚構が入り交じる現代にあって、あなたに「情報の時代を生き抜くための、自分だけの物差し」を手にしてほしい。この2冊が、そのための力添えになることを願っています。

来週号では、『15歳からのインテリジェンス』の中身を少しご紹介します。

意思なき国家は、インテリジェンスを持っていても滅ぶ(2025年8月7日作成)

はじめに――

8月6日。広島に原子爆弾が投下されたこの日、私たちは単に被害の記憶をたどるだけでなく、「なぜそれが起こったのか」「どうすれば回避できたのか」と、自らに問い直す必要があります。原爆は本当に戦争を終わらせるための手段だったのか。それとも、アメリカの冷戦戦略の一環だったのか。一面的な説明では語りきれない問題です。

しかし、確かなのは――日本にも、そのはるか前段階で、いくつもの「意思決定の岐路」が存在していたという事実です。情報はあった。警告もあった。それでも日本は、破滅的な戦争へと突き進みました。インテリジェンスの敗北だったのか? いや、正確には「情報をもとにした合理的な判断が働かなかった」というべきでしょう。

◆ 情報はあった。それでも誤った。

日本は戦前、アメリカの国力や軍事力をまったく知らなかったわけではありません。総力戦研究所では、対米戦争をシミュレーションした結果、すでに「日本は敗北する」という結論が導かれていました。山本五十六も「半年や一年は暴れてみせるが、あとの保証はできない」と語っています。

つまり、情報は存在していたのです。問題は、それを直視し、受け入れるだけの政治的意思と冷静な国家戦略がなかったことでした。陸軍と海軍、外務省と軍部、政府内の主戦派と穏健派――組織は分裂し、情報は縦割り構造の中で共有されず、都合の悪い情報は「希望的観測」によって排除されていきました。

さらに、開戦を後押ししたのは、国民世論とメディアによる「大東亜戦争」への高揚感です。情報はあっても、それが戦略や意思決定に反映されなかった。これこそが、日本がたどった「インテリジェンスの限界」であり、その結果としての「意思決定の敗北」なのです。

◆ 戦略は、国力の外には出られない

国家の戦略は、本来、「国力の範囲内」で構築されるべきです。しかし日本は、しばしばそのバランスを誤りました。日清・日露戦争の勝利は、日本に「列強の仲間入り」という幻想を与え、「国力を超えた戦略」が常態化していきました。

昭和期の軍部は、国際的孤立や資源不足という現実を直視せず、拡張的な対中戦線、さらには無謀な対米戦争に踏み出します。「一撃講和」といった非現実的な仮説を前提に、都合の良い情報だけを選び取って政策判断を下していく――そんな構図が確かに存在しました。

つまり、戦略が国力を無視し、情報はその戦略を補強する“装飾品”として扱われたのです。どれだけ高度なインテリジェンスがあっても、それを活かす戦略が国力に即していなければ無意味です。そして戦略が誤れば、インテリジェンスは無視され、あるいは歪められて利用される。その連鎖が、日本を破局へと導きました。

◆ 現代日本もまた、同じ構造を抱えている

現代の日本もまた、戦前と同様の構造的ジレンマを抱えています。国家安全保障戦略には、「日米同盟を基軸とする」方針が明記されており、外交・防衛・経済安全保障を網羅する戦略文書が存在します。

しかし、問うべきは「その戦略は日本の主体的な意思に基づいて構築されているのか?」という点です。安全保障はアメリカに、経済は中国に依存するという構造のなかで、日本が「どこを目指すのか」を明確に描けているとは言いがたいのが現実です。国民の間にも、「戦略的な選択」への理解や関心が深まっているとは言えません。

結果、日本の戦略は「同盟に従属した政策実行」にとどまり、主権的意思の表出としての戦略とは乖離しています。戦略が文書にあることと、戦略的国家であることは同義ではありません。現代日本は、「戦略を持っているようで、選べていない」国家なのです。

インテリジェンス機能が整っても、それを活かす政治的意思が欠けていれば機能しません。情報があっても、それを活かす「土壌」がなければ意味がない――これは戦前からの教訓ですが、私たちは今もそれを活かしきれていません。意思なき国家には、真の戦略はなく、そのような国家はやがて他国の戦略に巻き込まれ、「選ばされる国家」となります。日本は今、まさにその分岐点に立っています。

◆ 小国イスラエルに見る、国家の胆力

たとえばイスラエル。人口も経済規模も小さく、周囲を敵対的国家に囲まれた小国です。しかし、彼らには「生き残る」という国家意思が明確に存在し、それを支える胆力があります。だからこそ、イスラエルの戦略はシンプルかつ強靭です――「我々の生存を脅かすものは、どのような評価を受けようとも叩き潰す」。

モサドに代表されるインテリジェンス機関は、戦略を補完する手段として高度に統合されており、「情報」と「判断」は乖離していません。たとえば、イランの核開発問題では、イスラエルはアメリカに空爆を促す一方、「やらないなら我々がやる」と明確に伝え、実際に行動を示しました。それによって、アメリカの対応を“戦略的に”誘導したのです。

ここには、たとえ国力が限られていても、国家としての明確な戦略と覚悟があれば、外交も安全保障も主体的に展開できるというリアルがあります。日本と比較して見えてくるのは、「国力の大小」ではなく、「国家意思の強度」こそが国家の運命を決める、という厳然たる事実です。

◆ 今、我々に必要とされる覚悟

私はインテリジェンスを専門に研究しています。だからこそ、「どのような情報を得るか」「どれだけ正確に未来を読むか」に関心を持ち続けてきました。しかし、より根本的に大切なのは、「私たちがどのような未来を選ぶ覚悟を持っているか」という問いです。

インテリジェンス、意思、戦略、国力――この四つの要素の中で、最も見落とされがちなのが「国家意思」という、目には見えない力です。戦後の日本は、平和と繁栄の中で、この意思を少しずつ失ってきたのかもしれません。

参議院選挙の裏の構図(2025年8月1日作成)

こんにちは。今回は、先日の参議院選挙をきっかけに、ほとんど語られない“裏の構図”に注目したいと思います。

近年、各国の選挙に対して、他国による認知戦や影響力工作の存在がたびたび指摘されるようになってきました。では、今回の日本の参議院選挙ではどうだったのでしょうか。

リベラル政党が全体的に伸び悩む一方で、参政党や保守党など、新たに登場した保守系政党が大きく議席を伸ばしました。この結果を見て、多くの方はこう考えたのではないでしょうか。

「中国が裏から関与するなんて、考えすぎではないか」

あるいは

「仮に関与があったとしても、結果は中国にとって失敗だった。むしろ良かったではないか」

確かに、表向きの状況を見るかぎり、そう考えるのは自然なことかもしれません。

でも、本当にそうでしょうか?そうした見方は、表に見える情報だけを信じることによって、逆に裏にある構図を見落としているのではないでしょう。

そこで、歴史に照らして、見えにくい戦略構造を考えるという視点から、一つの見方を提示したいと思います。決して陰謀論ではありませんよ。

前回は、日本共産党が今も統一戦線の綱領を放棄していないことを紹介しましたが、今回は中国の側がこれまで日本に対して行ってきた対外工作、特に「統一戦線」の歴史を振り返ってみたいと思います。

1960年代、中国は共産主義の同志であるはずの日本共産党と決裂しました。きっかけは、毛沢東が「日本や沖縄でゲリラ戦を展開せよ」と要求したのに対し、日共がこれを拒否したことです。その後、中国は①日共に対する分裂工作等(日共外郭団体の分裂、日共から除名された親中派人物の取り組み、日共組織から除外された団体の取り込み等)、②社会党左派勢力への接近、③保守派勢力への接近、④創価学会への接近、⑤青年団体などへの接近を行いました。

保守派勢力への接近は、六〇年安保闘争の失敗を契機に、日中国交回復に向けた土壌をつくる目的で、1960年代から開始されました。親米派の保守本流に対しては反動派として徹底した闘争方針を採りましたが、一方の反主流派に対しては親睦を名目とした接近や招待工作を強化しました。

1961年1月の社会党黒田寿男の訪中時、毛沢東は次のように語りました。

「日本政府の内部は足並みがそろっていない。いわゆる主流派と反主流派があって彼らは完全に一致していない。たとえば松村、石橋、高碕などの派閥は、われわれの言葉で言えば“間接の同盟軍”である。あなた方にとって、中国の人民は“直接の同盟軍”であり、自民党(当時、中国側は“人民党”と表現)内部の矛盾は“間接の同盟軍”である。彼らの亀裂が拡大し、対立と衝突が生じることは人民に有利だ。」

ここで重要なのは、中国がイデオロギーではなく、利用できるものを使うという実利を重視していたことです。右か左かではなく、日本社会にどれだけ影響を与えられるかを基準に、接触対象を選んでいたのです。社会の認識を揺るがす、まさに“認知戦”の先駆けはとっくに開始されていたと言えるでしょう。

では、現代の日本に置き換えてみましょう。

新たな勢力の台頭により、保守陣営全体が力を増したように見えるかもしれません。ですが、もしその動きが、自民党という大きな保守基盤を内側から分裂させるような結果をもたらしているのだとしたら、それは、むしろ中国にとって都合のよい展開と言えるかもしれません。

新興政党は、保守でもリベラルでも、基盤が脆弱である分、外部からの影響を受けやすいという面もあります。中国にとって最もやっかいな相手は、強くまとまった敵です。

一枚岩の政治勢力は、外交や防衛の場でも強い交渉力を発揮し、中国の浸透や工作を跳ね返す力を持ちます。

けれども、政治的な対立が激しくなり、保守内での対立や足の引っ張り合いが生じれば、日本の判断力は鈍り、社会には分断が生まれます。

まさにそうした“内部からの弱体化”こそが、中国の統一戦線戦略の核心なのです。

ですから、「反中を掲げる政党が伸びたから良い」と短絡的に判断することには、やはり慎重さが求められます。

今は、銃弾が飛び交う時代ではありません。見えない情報と認知をめぐる戦いが進行しています。「味方の顔をした敵」「一部の真実で信頼を勝ち取る戦略」──それこそが情報戦の基本です。

「保守だから安心」「反中だから正しい」といった単純なラベルに惑わされる時代は終わりました。私たちに必要なのは、「この構図で、最も得をしているのは誰か?」という問いを持ち続ける視点です。それを見抜けなければ、私たちは知らぬ間に情報戦の舞台で“敗者の側”に立たされてしまうかもしれません。

今回の内容はやや挑戦的だったかもしれませんが、単純な構図に流されず、より広い視野で物事をとらえるための一助となれば幸いです。

統一戦線工作への警戒(2025年7月26日作成)

先日の参議院選挙の余波が続いています。参政党や保守党といった新興政党が躍進し、「日本人ファースト」という言葉が注目を集めました。一部では、排外主義につながる危険な思想であるとの批判も見られます。

こうした中で、野党が結集して自民党に政権交代を仕掛けるのかと思いきや、石破首相に対して「辞めるな」という声が上がっています。しかも、その支持者の多くは左派系の市民や野党支持層であるようです。

現在、左派野党は伸び悩んでおり、主張の異なる他の野党との連携も難航しています。こうした状況のもと、自民党内でポスト石破の体制が保守化し、右派寄りの野党と連携する事態を警戒しているのかもしれません。

このような場面で思い出されるのが、2016年8月7日に開催された共産党創立94周年記念講演での志位和夫委員長(当時)の演説です。

2016年7月10日の参議院選挙では、日本共産党が好成績を収めました。これを受けて、志位委員長は以下のように語っています。

「みなさん。今回の野党と市民の共闘は、日本共産党の歴史でも、日本の戦後政治史でも、文字通り初めての歴史的な第一歩であります。(拍手)
日本共産党は、1961年に綱領路線を確定して以降、一貫して統一戦線によって政治を変えることを、大方針に据えてきました。」

1960年代後半から70年代にかけて、共産党は国政選挙で躍進し、統一戦線も発展を見せました。ただし、この時期の統一戦線は主に地方政治、すなわち革新自治体の形成にとどまり、国政レベルでは社会党との選挙協力は限定的でした。

ところが、2016年の参院選では、安保法制(いわゆる「戦争法」)反対の運動に後押しされ、共産党が発表した「戦争法廃止の国民連合政府」構想が契機となり、全国32の1人区すべてで野党統一候補が実現。11選挙区で勝利を収めました。これは全国規模での統一戦線の初めての成功例であり、志位委員長は「大きな成果」として高く評価しました。

その後、共産党は新潟県知事選挙などで民進党との共闘を模索しますが、連合との関係をめぐって対立が生じます。志位委員長は2016年10月27日の記者会見で、連合が「共産党と一線を画すよう」民進党に求めていることに対し、民進党執行部はその要求を拒否し、共産党との共闘を続けるべきだと主張しました。

しかしその後、民進党は希望の党への合流、立憲民主党との分裂といった混乱を繰り返し、共産党との統一戦線は結果的に崩壊しました。2017年の衆議院選挙では、日本共産党は前回から大きく議席を減らす結果となりました。

現在、石破首相へのエールの中に、再び「統一戦線」的な発想を見て取ることができます。共産党はいまなお綱領に統一戦線の方針を掲げており、「敵の敵は友」として、たとえ保守系政治家であっても穏健派であれば一時的に共闘の対象とするという柔軟な戦略を持っています。

この「統一戦線」は、もともとボルシェビキ革命期の戦術として生まれ、毛沢東がより洗練させて体系化したとされています。中国は戦後、国際統一戦線の枠組みの中で、当初はソ連を友とし、アメリカを敵としながら中立国との友好関係を築くことでアメリカを包囲しました。やがて1970年代には、逆にアメリカを友とし、ソ連を敵と見なす枠組みに転換し、日本とは「友好関係」を強調するようになります。

そして現在、再び中国とロシアが接近し、BRICSを通じて反米的な統一戦線が展開されつつあります。

現在の日本共産党が政権与党となる可能性は低いかもしれません。しかし、SNS社会においては、少数の強い言論が「潮目」を変えてしまうことがあります。意図的に演出された“空気”が、多数派の沈黙によって拡大してしまう――そんな危険があるのです。

多くの国民は政治に対して無関心であり、声を上げることも少ないのが実情です。しかし、その「沈黙の海」が、強い意志を持つ少数派に潮目を許してしまう土壌となり得ます。

さらに、その背後に、強力な国家意思と資金力を持った他国が存在し、そうした動きを支援・利用する可能性があるとすれば、私たちは決して安閑としてはいられません。

中国の新型空母「福建」が24日就役?(2025年7月20日作成)

暑い日が続きますね。関東もやっと梅雨明けです。エアコン全開。ずっと前に明けたと思っていました。参院選挙は下馬評のとおり、参政党の飛躍。10年前からヨーロッパでは極右政党が伸長。反グローバリズムの動きが日本まで押し寄せているのでしょうか。

新しい『防衛白書』も先日刊行。中国の軍事活動の活発化との内容に中国が反発。これも例年通りの状況です。

先日はこんな記事も。「中国空母が日本周辺で米空母の迎撃訓練、米軍役と中国軍に分かれ対抗…台湾有事を見据え実施か」

中国海軍の空母2隻が6月に日本周辺の太平洋上などに展開した際、米空母打撃群の迎撃を想定した演習を実施していたようです。中国空母「遼寧」と「山東」は5月下旬以降、日本周辺の太平洋上に同時展開し、米軍役と中国軍に分かれて対抗する形式の訓練を行ったようです。

「中国の新型空母「福建」が24日就役か 初の電磁式カタパルト配備」という香港メディアもあります。

まず、今回の就役で中国は空母3隻体制に入るわけで、これは単純に「戦力が増えた」というより、訓練・整備・実戦のローテーションが可能になったという意味が大きい。つまり、常に1隻は外洋で運用できる体制が整ったということです。

次に、福建は中国として初めてカタパルトを搭載した空母で、しかも従来の蒸気式ではなく、電磁式(EMALS型)です。これはアメリカのフォード級空母に搭載されているのと同様の技術で、中国がこの技術を実用化したのはアメリカに次いで世界で2番目とされています。

このカタパルトの導入により、これまで中国空母が苦手としていた早期警戒機(KJ-600)などの重い航空機の発艦が可能になると見られています。技術面では、中国海軍が確実に近代化していることの象徴と言えるでしょう。

ただし、福建にはいくつかの重要な制約もあります。

最大のポイントは、福建が原子力空母ではないということです。推進方式は通常動力(ガスタービンとディーゼルの併用)であるため、航続距離や速度には限界があります。アメリカの原子力空母のように長期間にわたって高速で展開する能力はなく、燃料や艦載機用の補給に依存する構造です。つまり、外洋での長期作戦や迅速な機動性にはやや不利な立場にあると考えられます。

さらに、台湾有事のような実戦を想定した場合、福建の運用には相当なリスクが伴います。西太平洋にはアメリカや日本、台湾が展開する対艦ミサイル、潜水艦、無人偵察システムが多数存在しており、空母は最も狙われやすい目標になります。現実的には、福建が前線に進出することは難しく、後方にとどまってプレゼンスを示す「政治的兵器」としての役割が中心になると考えられます。

ちなみにアメリカは、フォード級空母(CVN-78)をすでに運用中ですが、次の艦(CVN-79以降)については慎重に進めており、急速な量産はしていません。その理由としては、

  • 単艦あたりの建造コストが非常に高額であること(1隻約130億ドル)
  • 新技術のトラブルが相次いだこと(EMALSや着艦装置の不具合など)
  • 空母という存在自体が、現代の戦場ではミサイルや潜水艦に対して脆弱になってきていること

といった背景があります。

そのためアメリカ海軍は、空母戦力を「数を増やす」よりも、「技術を成熟させながら精度高く使う」方向に舵を切っている状況です。

総合的に見れば、福建の就役は中国海軍の大きな進歩であり、戦力の「質的向上」を象徴する動きであることは間違いありません。しかし、実戦でどれだけの役割を果たせるかという点では、まだ制約も多く、慎重に評価すべき段階だと思います。

現時点ではむしろ、「空母を持った」というメッセージ自体が国際社会へのアピールであり、情報戦や政治戦の文脈で使われる兵器としての意味合いが強いのではないでしょうか。

岩屋外相との会談にみる中国の思惑(2025年7月13日作成)

7月10日、マレーシアで日本の岩屋毅外相と中国の王毅外相が会談しました。岩屋氏は、中国軍機による自衛隊機への異常接近、レアアース輸出の制限、邦人の拘束問題などに懸念を示し、福島第一原発の処理水を巡る日本産水産物の輸入制限の撤廃も要請しました。

一方、王毅外相は「日本企業の正常な需要は保証される」と応じ、関係改善に前向きな姿勢を見せました。翌11日には、中国の何立峰副首相が大阪万博の式典に出席。BSE(牛海綿状脳症)問題で停止していた日本産牛肉の輸入再開に向け、動物検疫協定の早期発効に意欲を示しました。

こうした“譲歩”の一方で、中国軍機による異常接近や東シナ海での構造物設置など、軍事的圧力は依然として続いています。このギャップに対し、「なぜ中国は譲歩しながら挑発も続けるのか」と取材されることがあります。

けれど、これは矛盾ではありません。むしろ非常に合理的な行動です。中国は「硬軟両用」という外交スタイルを徹底しています。たとえば、軍や情報部門が圧力をかけ、外交や経済部門が融和を演出する。この役割分担により、“飴と鞭”を巧みに使い分けることで、相手の批判や抵抗を抑え込み、自らに都合の良い行動を取らせようとするのです。

米中対立が続く中で、日本との経済関係を安定させておきたい――そんな意図のもと、日本に恩を売るように牛肉や水産物の“譲歩”を見せる。だがその目的は、より本質的な戦略――領有権問題などで日本の発言力を削ぐだけでなく、実際の監視活動や行動そのものを牽制・抑止することにあります。 「こちらは牛肉を買ってやっているのに、尖閣だの人権だの文句を言うとは何事か」とでも言いたげに、日本の主張を“非礼”と位置づけて封じ込める。これは中国古典兵法『三十六計』にある「抛磚引玉(レンガを投げて玉を引き出す)」や「笑裏蔵刀(微笑みの裏に刃を隠す)」とまさに同じ構図です。

ネタ探しと韓国ドラマ(2025年7月11日)

私は『日本経済新聞』はオンラインで読んでいますが、日曜日だけは朝日・読売・産経の3紙を紙で8023ます。近くのコンビニに出かけて、ちょうど500円。1か月で2,000〜2,500円の出費です。本当は毎日いろんな新聞を読む方がいいのかもしれませんが、金も時間も限られてますので、こんなスタイルに落ち着いています。

さて、7月6日(日)の朝刊一面の見出しは、「日比、護衛艦輸出で一致」「英で“日本軍が性奴隷”」「今なら残せる被爆の記憶」などなど。どの新聞がどれかは、読者のご想像にお任せします。ビッグニュースがない日は、各紙バラけるんですね。逆に、6月15日(日)は「日鉄100%子会社化、USスチール買収承認」と、3紙ともほぼ同じ(USチスール買収承認は2紙が採用)見出しでした。こういうとき、新聞社はネタに困らないってことなんでしょう。

…とはいえ、ネタ探しに苦労しているのは、新聞社だけじゃありません。私も同じです。ツイート、メルマガ、雑誌、書籍――何を書くか、常にアンテナを張っています。ネタは新聞や雑誌だけでなく、散歩中のひとことや、食事中の会話にも転がっているかもしれない。大事なのは、それを拾えるかどうか。

私の場合、外からのインプットは全体の2割くらいで、残りの8割は自分の中でこねくり回してアウトプットに仕上げていくタイプです。なので、読書量がものすごく多いというわけでもありません。

それに私は、原稿を書き終えてから他の人の本を読む派なんです。先に読むと、自分の発想がそっちに引っ張られてしまう気がして。なるべく自分の思考の純度を保ちたいので、まずは自分の頭で勝負する、そんなスタイルです。

ちなみに、月曜から金曜の朝8時15分から9時10分まで、テレビ東京で放送されている韓国ドラマ(王族もの)は、私にとってちょっとした“インテリジェンスの教材”です。
歴史描写の中に、権力闘争や心理戦、情報操作のヒントが詰まっている。わからない場面があればすぐに調べますし、見逃さないよう録画も欠かせません。

生活リズムは不規則そのもの。夜中にふと思いついてPCに向かうこともあれば、疲れたら昼間から寝てしまう。そんな日々の中で、この韓国ドラマが生活の“リズムの柱”になっているような気もします。

情念の国家指導者-ナポレオンの物語り-

―フランスにも、故郷にも愛されなかった若者―

パリの空は、怒りで真っ赤に染まっていた。1789年7月14日。バスティーユ牢獄の門が群衆によって破られた瞬間、千年続いた王政の終焉と、新しい歴史の扉が同時に開かれた。「王も神も絶対ではない」――この考えが、民衆に火をつけた。

飢えた人々が武器を取り、貴族の館が焼き払われ、断頭台(ギロチン)に血が流れる。フランス革命。それは一国の「政変」ではなく、世界の価値観をひっくり返す出来事だった。秩序は崩れ、過去の制度は激情に飲み込まれた。王権と教会が否定されると、人々は「自らの正義」を掲げて殺し合いを始める。「自由・平等・友愛」――この美しい理念が、最も血なまぐさいスローガンにもなった。

そんな混沌の中から、一人の男が現れる。無名の砲兵士官が、革命の嵐を追い風にして、やがて世界を支配する皇帝になる。ナポレオン・ボナパルトである。革命がなければ、彼は一地方出身の軍人で終わったかもしれない。激動の時代は、「情念」を持つ者にこそチャンスを与える。歴史を動かすのは、冷静な理性ではなく、内に燃える何か――そのことを彼の人生は教えてくれる。

だが、彼は革命の英雄ではなかった。その頃のナポレオンは、地中海に浮かぶコルシカ島の片隅にいた。フランスに併合されて間もない、山と森に囲まれた島――彼の故郷だ。

若きナポレオンは、島の独立を夢見た英雄パスカル・パオリに心酔し、軍人として故郷に戻った。だが、皮肉にもそのパオリから「共和国の手先」として追放される。

フランスに渡れば「田舎者」と冷笑され、故郷では「フランスかぶれの裏切り者」と非難される。行き場のない若者。彼の中に、ルサンチマン(鬱屈した怒り)が静かにたまっていく。このルサンチマンが爆発するとき、歴史は動く。

コルシカにも、フランスにも属さない若き砲兵士官は、やがてこう誓う。「ならば、そのどちらでもない“上の世界”に立つしかない」ナポレオンは、かつて憧れた“祖国の英雄パオリ”にはなれなかった。ならばパオリを超え、世界を支配する者になるしかない――

その情念が、革命という混沌の時代に乗じて、静かに、しかし確実に燃えはじめていた。

― 小さな体に“情念の火”を灯した幼少期の島の記憶 ―

ナポレオン・ボナパルトは1769年、地中海の孤島・コルシカ島に生まれた。そのわずか1年前、この島はフランス軍に敗れ、独立を失っていた。英雄パスカル・パオリが率いた独立闘争は1768年に潰えた。

“自由の父”と称えられた男の敗北とともに、コルシカはフランス領に組み込まれた。ナポレオンは、「征服された側」の子として、この世界に生を受けたのである。

父カルロは地元の小貴族であった。だが、独立運動の失敗後は一転してフランスに接近した。少年ナポレオンの目には、それが「誇りを売る生き方」に映った。

家は貧しくはなかったが、裕福でもなかった。母レティツィアは厳格で、感情を表に出さない人物である。ナポレオンが悪さをすれば、容赦なく叱りつけた。その姿勢は、まるで兵士を鍛えるようでもあった。

のちにナポレオンは語っている――「私をつくったのは母だ」。ただし、その口調にはどこか突き放すような響きがある。優しく抱きしめられた記憶も、温かな言葉をかけられた記憶も、彼にはなかったのかもしれない。この“距離のある母性”は、後年のナポレオンの女性観――たとえばジョゼフィーヌとの関係にも、影を落とすことになる。

兄ジョゼフは社交的で人あたりがよく、誰からも自然に好かれた。一方、ナポレオンは無口で内向的。だが、その内には鋭い観察力とずば抜けた頭脳を秘めていた。

母はナポレオンに大きな期待を寄せていたようだ。しかし、それが愛情として伝わったかどうかは定かではない。少年の胸には、兄への嫉妬と「自分は愛されていない」という孤独感が、静かに蓄積していった。

そして9歳。ボナパルト家には、士官学校に送れる子は一人しかいなかった。両親はその枠に、ナポレオンを選んだ。「お前に家の未来を託す」と明言されたわけではない。だが、ナポレオンは理解していた。期待だけを背負い、愛情には飢えた少年は、強くなるしかなかったのである。奨学金を得て、母や兄弟を残し、少年はコルシカ島を離れた。

向かう先は、かつて島を征服した国――フランス本土。言葉も違えば、風習も違う。その地で彼は、孤独と怒りを胸に、冷静に世界を観察し始める。

「なぜ我々は負けたのか」「なぜ父はあんなふうに生きたのか」「どうすれば、自分が島と世界を変えられるのか」

このとき、誰も知らなかった――この小さな少年が、やがて“世界を征服する男”となることを。

――「異邦人」の士官候補生、そしてトゥーロン砲撃戦

ナポレオンは9歳で、故郷コルシカを離れた。向かった先は、フランス北東部・ブリエンヌの幼年学校。山と森に囲まれた島の少年にとって、そこはまるで“異国”だった。言葉も違う。習慣も違う。彼の名は「ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ」。イタリア語訛りのこの名は、あからさまな嘲笑の的となった。「ナポレオン・ボナパルト」――のちに彼がフランス風に名を変えるのは、この屈辱の体験があってこそである。

島の田舎貴族としての出自、粗末な服、コルシカ訛りのフランス語。彼はどこまでも「異邦人」だった。だがナポレオンは歯を食いしばり、観察と読書と勉学に没頭した。孤独を力に変える才能が、すでに芽吹いていた。

15歳でブリエンヌを卒業したナポレオンは、パリ近郊の王立士官学校(エコール・ミリテール)へと進む。貴族の子弟が集う名門。進学できたこと自体、彼の秀才ぶりを示している。だが、ここでも彼は「浮いて」いた。訛りは消えず、身なりも地味。舞踏会にも誘われず、昼食のテーブルでは孤立した。それでも学業だけは誰にも負けなかった。数学、幾何、地形学、そして砲術――彼の頭脳は、冷静無比な精密機械のように冴えていた。

士官課程は通常3年を要したが、ナポレオンは1年で修了する。父カルロの急死で家計が傾いたことも理由だったが、教官たちも「これ以上教えることはない」と評するほどの実力だった。

将来の道として選んだのは「砲兵」。それは地味で、華やかさに欠け、出世にも遠い分野だったが――彼にとっては、最も論理的で、実力主義の世界だった。計算と判断だけがすべて。血筋も言葉も関係ない。ナポレオンは、己の才能だけを武器に、この世界で生きていこうと決めた。

1789年、フランス革命が勃発。王政が倒れ、共和国が誕生する。ナポレオンはこの混乱の中、休暇を使って故郷・コルシカへ戻った。憧れの英雄パスカル・パオリは、亡命先から戻り、島の実権を握っていた。ナポレオンは、彼に忠誠を誓う。かつて心酔し、理想の象徴であった男のもとで、コルシカ独立のために尽くしたい――だがパオリは冷たく言い放つ。「共和国の手先など信用できぬ」ナポレオンは、失意のうちに島を追われた。フランスでも異邦人、コルシカでも裏切り者。彼に「祖国」と呼べる場所は、もうどこにもなかった。

そして1793年、転機が訪れる。王党派とイギリス軍が占拠した南仏の港町・トゥーロン。革命政府は奪還を決し、包囲作戦を開始した。この作戦で、砲兵の配置計画を任されたのが――若き砲兵大尉、ナポレオン・ボナパルトだった。彼は地形と火力の関係を綿密に分析し、丘陵に砲台を築いていく。「トゥーロンを制するのは港ではない、丘の上だ」その言葉通り、彼の砲撃戦略は敵の補給線を断ち、勝利を決定づけた。

降伏の気配が漂い始めたトゥーロンの市街には、王政復古を望む王党派が立てこもっていた。彼らは、イギリスやスペインといった敵国の艦隊を港に招き入れ、自らの祖国を裏切ったのである。つまり、同じフランス人でありながら、祖国を裏切った「反乱者」としての姿をさらしていたのである。

ナポレオンは、その市街に対しても容赦しなかった。砲撃は、軍事施設に限らず、住宅街や避難していた民間人にも降り注いだ。正確無比な砲弾が、無数の瓦礫と悲鳴を生んだ。この徹底した砲撃には、軍の中からも「やりすぎだ」「冷酷すぎる」との声が上がった。だがナポレオンは、振り返りもしなかった。――それができたのは、彼が“異邦人”だったからだ。そう語る者も少なくない。

コルシカ出身、フランス社会に居場所を持たぬ若者。だからこそ、彼は情に流されず、無慈悲に引き金を引けたのだと。この残酷な砲撃は、単なる軍事作戦ではなかった。フランスからも、故郷からも拒絶された若き砲兵士官が、自らの存在を刻みつけるために放った、魂の咆哮でもあったのだ。

町は陥落し、ナポレオンは将軍(准将)へと一気に昇進する。無名の砲兵士官は、一夜にして共和国の英雄となった。だがその胸には、いまだ冷めやらぬ怒りと――居場所のなかった少年の、熱い「情念」が燃えていた。

―ジョゼフィーヌに 征服された皇帝ナポレオン―

1973年のトゥーロンでの大勝利を経て、ナポレオン・ボナパルトはついに将軍の座を手にした。共和国を揺るがす混乱の中、若き砲兵士官が放った弾丸の軌道が、彼の出世街道を開いたのである。

だが、その英雄譚の陰で、彼にはもうひとつの「戦い」が始まっていた。恋という、もっと複雑で、もっと不確かな戦いが――。

ナポレオンは女性には決して積極的ではなかった。

母レティツィアの厳しい教育のもとで育てられた彼は、女性に対してはどこか不器用で、ぎこちなかった。士官としての自信は日々増していたが、ひとたび私生活に目を転じれば、むしろ臆病で、踏み出すことを恐れる青年の姿があった。

そんなナポレオンが一時、心を寄せた女性がいる。タリアン夫人――テルミドール反動を主導したポール・バラスの愛人であり、若くして社交界の華となった絶世の美女。14歳で上流階級の舞踏会にデビューし、革命期フランスの「サロンの女王」と謳われた。ナポレオンより2歳若く、誰もが見とれるようなその美貌と才気に、若き砲兵将校は心を奪われた。

だが、彼の想いはあっさりと退けられる。「痩せた小男」と陰口を叩かれたナポレオンの劣等感は、さらに深まることとなる。

心のどこかで、彼は敗北を味わっていた。そんなときに出会ったのが、一人の年上の女性であった。その女性の名は、ジョゼフィーヌ。洗練された身のこなし、優雅な話しぶり、男たちを虜にするその香水のような魅力――。

当時、ナポレオンより6歳年上であり、しかも革命で処刑された貴族の未亡人。周囲からは「ばあさん」と揶揄されていた。だが彼女には、人を惹きつける魔力があった。

ジョゼフィーヌは、ナポレオンの情熱を巧みに受け止めた。時にあしらい、時に優しく包み込む。母性と官能の狭間で、若き将軍の心は翻弄され、燃え上がっていく。ナポレオンが情熱の手紙を連日送りつづけたのに対し、ジョゼフィーヌは返事すら寄越さないこともあった。

だが、彼が前線に赴くと、さりげなく優しさを示す。それがまた、ナポレオンの恋慕を掻き立てた。彼は「自分がいなければ、ジョゼフィーヌは不幸になる」と信じ込み、彼女を完全に手中に収めるまで、心の平安を得ることができなかった。

のちに彼は皇帝となり、ジョゼフィーヌを皇后に据える。だがその関係は、甘くも苦い果実のようだった。

ナポレオンは、愛する者の心に火を灯し続けたが、その火がいつか消えるのではないかという不安に、常に駆られていた。彼は終わりなき恋の戦いに突入したのである。

ジョゼフィーヌはそれを巧みにいなし、じらし続けた。年上であることを逆手に取り、あえて突き放すような態度を見せ、時に彼の部下と浮気をし、時に冷たく距離を取った。それが若き将軍の恋心を、より強く燃え上がらせることを、彼女は知っていたのだ。

ナポレオンはフランスという国家を征服した。だが、彼女の心だけは征服できなかった。

それでも最期のとき、遠く離れていても、ふたりは互いの名前を呼び合ったという。征服には至らなかったかもしれないが、愛は、ついに成就していた。

若き将軍ナポレオンが最初に征服されてしまった相手――

それは戦場の敵ではなく、「ばあさん」と呼ばれた年上の女性だった。それは砲火ではなく、甘美な誘惑によって、静かに燃え上がった情念だったのである。

 ――国家も女性も征服できないからこそ執着する――

ナポレオンが革命の寵児バラスの庇護のもとで出会った二人の“サロンの女王”――大胆不敵なタリアン夫人と、冷ややかな美貌をたたえたジョゼフィーヌ。どちらも政治と欲望の只中で生きる女。ナポレオンは、そこに権力への通路を見出し、自ら進んで飛び込んでいった。

だが、実はこのふたりに出会う少し前、彼にはもうひとり、大切な女性がいた。
それは、タリアン夫人のような戦略家でも、ジョゼフィーヌのような妖婦でもない。
無垢で、ひたむきで、ただナポレオンを愛した「普通の娘」だった。

彼女の名は、デジレ・クラリー。
マルセイユの裕福な商人の娘で、ナポレオンよりも6歳年下。
のちにスウェーデン王妃となるこの女性との短い恋が、ナポレオンの「情念の物語」のはじまりだった。

1794年──
若きナポレオン・ボナパルトは、失職中の無名の砲兵将校だった。
前年、ヴァンデミエールの反乱に加担したジャコバン派寄りとみなされ、政敵の失脚とともに軍籍を外されたためである。
テルミドールの反動により、革命の潮目が変わり、ナポレオンも「過激派の将校」として干されていたのだ。
野心は燃え盛っていたが、国家からも軍からも見放され、彼を見つめる者は少なかった。

そんな彼に、小さな明かりを灯した女性。それがデジレ・クラリーだった。
彼女はナポレオンにとって、「家庭的な幸福」の象徴であり、
ひょっとすると彼が唯一、武器を置いてもよいと思えた相手だったのかもしれない。

だが、ナポレオンは「家庭」に安住する男ではなかった。
彼の心には、戦場の鼓動が鳴り響いていた。
世界を動かしたいという情念が、穏やかな愛情を置き去りにした。

ナポレオンは突然、デジレとの婚約を解消した。
「説明なき別れ」――。それは、彼の愛が不誠実だったからではない。
デジレの優しさは、あまりに彼の野心と釣り合わなかった。

彼は、母ラエティツィアのような、強く、自立し、時に冷酷な女性を必要としていたのだ。
そして、彼が次に惹かれていくのは、
華やかなサロンの世界で男たちを手玉に取るタリアン夫人と、冷たく距離を取るジョゼフィーヌ。

どちらもバラスという革命の重鎮の愛人。
それを承知で、ナポレオンはあえて彼女たちの懐に飛び込む。
そこに、出世と権力の扉があることを、彼は見抜いていた。

ナポレオンは女性を愛したのではない。
その背後にある「国家」や「階級上昇」の回路を愛したのだ。
愛においても、征服者たることを求めたナポレオンは、
若く従順なデジレを手放し、手強く冷たい年上の女に追いすがる。

しかし、皮肉なことに、サロンの女性たちは、ナポレオンにけっして征服されなかった。
彼女たちは、彼が征服を試みる国家のように、翻弄し、甘やかし、裏切った。

征服できない女性と、征服できない国家。
ふたつへの執着が彼の心に渦を巻き、
やがてその情念は、ジョゼフィーヌとの愛へ、
そして対外戦争へと突き進んでいくことになる。

 ――戦争と恋、その両方に征服されるナポレオン――

1796年、ナポレオン・ボナパルト26歳。若き将軍は、フランス政府からイタリア方面軍の指揮権を託される。そのわずか数日前、彼は6歳年上の未亡人ジョゼフィーヌと結婚したばかりだった。

本来ならば、二線級と見なされていたイタリア戦線。ライン方面に比べ、予算も兵力も限られ、軍の士気も低かった。当時の軍司令官候補には名の知れた将軍もいたが、最終的に白羽の矢が立ったのは、若干26歳、実戦経験も乏しいナポレオンだった。

それは「抜擢」というより、むしろ「放り出された」に近い。共和国政府、とくにバラスら総裁政府の首脳にとって、イタリア戦線は実験台のようなものだった。新米の将軍を試すには、ちょうどよい“戦場”だったのだ。

だが、ナポレオンはそこで“試される側”で終わらなかった。彼は、無秩序だった軍を掌握し、驚異的な速度で北イタリアを席巻する。「一将功成りて、帝国の地図を変える」。彼の真の“征服の物語”が、ここから始まるのである。

ナポレオンは山岳を越え、敵を翻弄し、次々とオーストリア軍を打ち破っていく。戦況の全体像を把握し、情報と兵站の流れを統制し、各個撃破で戦局を塗り替える。この電撃戦の様式は、のちに“ナポレオン戦法”と呼ばれるようになる。

フランス革命という大混乱の時代。王政復古を狙う列強。だがナポレオンは、次々と戦地を制圧し、“フランスの救世主”と謳われていく。彼の野望は、軍事戦略を通じて現実化しつつあった。

だがその裏側で、もう一つの「戦い」が続いていた。それは、ジョゼフィーヌへの想いである。イタリア戦線に赴任したナポレオンは、連日、彼女に手紙を送った。甘く激しい言葉で綴られる情熱の書簡。ときに一日に何通も、彼はジョゼフィーヌを想い、筆を走らせた。だが、返ってくる手紙は少なく、短く、素っ気ないものだった。

その頃のジョゼフィーヌは、パリに残り、社交界を満喫していた。ナポレオンからの情熱的な手紙を、彼女は時に友人たちと読み合って笑ったという。しかも彼女は、ナポレオンの部下であるイポリット・シャルルとの浮気を始めていた――。

この時期、ナポレオンは、戦地で勝利を重ねるほど、ジョゼフィーヌへの執着を深めていく。遠く離れている彼女の気持ちが、手のひらからこぼれ落ちていくのを感じながら、彼は、征服するはずの愛に、逆に心を支配されていく。

ジョゼフィーヌの側から見れば、それは「仕掛けた戦争」だったのかもしれない。年下の男の情熱をコントロールし、わざと距離を取り、時に浮気という武器すら使って彼の心をつなぎ止める。その駆け引きの妙が、ナポレオンの恋をより烈しく燃え上がらせた。

彼は国家を征服した。しかし、ジョゼフィーヌの心は征服できなかった。だからこそ、彼は執着した。ジョゼフィーヌを追い続け、皇帝になってからも彼女を皇后に据えた。だがその愛は、いつまでも不安と嫉妬に揺れ続けた。

――勝ち続けても満たされない男。――すべてを得ても、愛だけは手に入らない男。ナポレオンは、ジョゼフィーヌの心と、戦場の勝利とを重ねていたのかもしれない。どちらも、油断すればすぐに手の中からこぼれ落ちる、つかの間の勝利。そしてこの恋が、彼をより多くの「征服」へと駆り立てていく。

――エジプトへ、神々の声をまといし将軍――

1798年、ナポレオン・ボナパルト29歳。
彼は突然、地中海の彼方――エジプト遠征を開始する。目的は大英帝国のインド航路を遮断するためだったが、それは建前に過ぎない。
ナポレオンの本心はもっと深く、もっと劇的だった。
それは、「征服王アレクサンドロス」への執着である。

ペルシャ遠征の途次、アレクサンドロスがトロイの古戦場に立ち寄り、ギリシャ神々に戦勝を祈ったように、ナポレオンもまた、「自らの神話」を創る旅に出た。
彼は兵士たちを前に、こう語った。

「兵士諸君、諸君の目の前に広がるのは、4千年の歴史が眠る地だ!」

歴史という“神の声”をまとい、自らを時代の寵児から永遠の英雄へと昇華させようとしたのである。心理戦の鉄則――自らの存在を神話化し、兵士の心を掌握せよ。

上陸後、ナポレオンがまず行ったのは、意外なことだった。
それは、「自分はイスラムの友である」と宣言すること。カイロで出した布告ではこう述べた。

「私はアッラーを尊ぶ者である。私はクルアーンを敬愛している。」

なぜそんなことを? それには明確な理由があった。
当時、エジプトの支配者はカソリックでもユダヤ人でもなく、オスマン帝国の地方総督とマムルーク軍、つまりイスラム圏の旧勢力である。そしてエジプトの現地住民もまた大多数がムスリムだった。

つまり、「異教徒=カソリック帝国」vs「イスラム住民」という構図が成立していた。
だからこそ、ナポレオンはあえて「反カソリック的イスラムの友」を演出し、住民の共感を引き出す政治心理戦を仕掛けたのである。
これには、クルアーンの教えを参照するムスリム学者(ウラマー)たちの中にも、「このフランス人将軍はただの侵略者ではない」と見る者も現れた。

ナポレオンのこの柔軟な「宗教戦略」は、後の宗教対立時代とは対照的である。

このエジプト遠征には、もう一つの「私的な意味」があった――それは、総裁政府、そしてその背後にいた男・ポール・バラスの影から、自らを解き放つことである。

ナポレオンは若き日、パリ社交界でバラスに見出され、軍人として頭角を現すきっかけを得た。バラスは総裁政府の実質的な権力者であり、当時のフランス政界を牛耳っていた人物である。そして、彼の愛人だったのがジョゼフィーヌ。ナポレオンが後に妻とする女性だ。さらにナポレオンが一時期心惹かれたもう一人の女性、タリアン夫人もまた、かつてバラスの情婦だった。

つまりナポレオンは、出世も愛も、つねに「バラスの残り物」を与えられる立場にあった。恋愛でも、軍事でも、政治でも――バラスは、彼の前に立ちはだかる象徴的な“壁”だったのである。

だからこそ、エジプト遠征はナポレオンにとって「単なる国外派遣」ではなかった。それは、過去の庇護から脱し、自らの力で“英雄”としての地位を確立するための脱皮の場だった。

バラスの意を受けて遠征に赴きながら、その地で“神々と対話する征服者”へと変貌する――。それは恩義や過去の因縁に囚われた存在から、己の運命を握る“新しい主”への進化だった。

ナポレオンはここで、バラスに象徴される旧体制や階級社会、そしてルサンチマン(怨恨)の束縛すら乗り越え、「自分こそが歴史を動かす存在である」ことを、世界と自分自身に示そうとしていたのだ。

帰国したナポレオンは、クーデターでバラスの総裁政府を倒し、自ら第一統領となる。1804年には皇帝に即位し、ジョゼフィーヌを皇后に据えた。

だがその関係は、すでに冷え切っていた。
ジョゼフィーヌとの間には子ができず、周囲からは「跡継ぎ」を求める声が高まっていた。
ナポレオン自身もまた、彼女の過去――浮気、社交界の軽薄な交遊、そしてバラスとの関係――をいつまでも忘れることができなかった。

それでもなお、ジョゼフィーヌを皇后にしたのはなぜか?
それは、征服できなかった愛にこそ、彼が執着したからである。
彼女が心から自分だけを愛したとは思えない。だからこそ、彼女を傍に置くことで、「愛の勝利」を証明しようとしたのだ。

ナポレオンはジョゼフィーヌを皇后に即位させた5年後、最終的に離婚する。ナポレオンは戦場でも政治でも頂点へと駆け上がった。しかし、その代償として、心の奥底に潜む「不安」と「空虚」もまた膨らんでいった。

次回はいよいよ、ナポレオンという男の内面に迫る。戦争の天才が踏み込んだ“凍てつく戦場”――ロシア遠征。そしてその果てに待っていたのは、軍事的敗北だけではなかった。栄光とともに積み上げてきた「自信」そのものが、音を立てて崩れていく。

情念に突き動かされた男が、初めてその情念を持て余したとき、何が起きたのか。次回、「ロシア遠征と崩れゆく自己像」を語ることにしよう。

―――ロシア遠征と「戦略」の崩壊――

1804年、ナポレオンは皇帝に即位し、ジョゼフィーヌを皇后に迎えた。

しかし、彼女は40歳を過ぎ、後継を望む国内外の圧力の中で、皇帝夫妻の関係には陰りが生まれていく。1809年、ナポレオンはついに離婚を決断し、ジョゼフィーヌもそれを受け入れた。そして1810年1月、フランス元老院の承認を得て正式に離婚が成立する。

その晩に開かれた発表の晩餐会で、ジョゼフィーヌが涙ながらに「私は皇帝の決定を受け入れます」と述べたとき、ナポレオンもその場で彼女の手を取り、抱き寄せ、嗚咽したという記録が残る。

その後、彼は1810年3月にハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと再婚する。この政略結婚は、「血統と正統性」への執着であると同時に、思い通りにならなかったジョゼフィーヌとの関係に終止符を打つ、ナポレオンの私的な決別でもあった。

当初、マリー・ルイーズは、親子ほども年の違うナポレオンに愛情はなく、また、彼との結婚に対して強い不安を抱いていた。オーストリア皇女として、ナポレオンを「革命の申し子」、そして父の敵とみなしていたからである。それでも、皇帝は彼女に優しく接し、マリー・ルイーズも次第に夫としてのナポレオンに従順に振る舞うようになる。

1811年には長男ナポレオン2世が誕生し、名実ともに「皇帝の後継者」が得られたことで、ナポレオンの王朝的野望はひとつの完成を迎える。表向きは安定した皇室を築いたかのように見えたが、マリー・ルイーズはナポレオンを心から愛したわけではなく、後年、彼が失脚した後には忠誠を捨て、オーストリアに留まり再婚することになる。

ナポレオンが最後まで屈服させられなかったのは、イギリスとロシアだった。

1805年、トラファルガー海戦でイギリス海軍に敗れた後、彼は陸上戦力で覇権を築こうとし、プロイセンやオーストリアを打ち破って欧州大陸を席巻していった。

1806年には、「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」を発し、イギリスおよびその植民地からの商品や船舶の大陸諸港への出入りを禁止。ヨーロッパ大陸全体からイギリスを経済的に孤立させ、干上がらせようとする壮大な「経済戦争」を仕掛けた。

封鎖令は一時的な効果を示したものの、やがてロシア皇帝アレクサンドル1世が自国経済の疲弊を理由にイギリスとの交易再開へ傾き始める。

ナポレオンは「外交圧力と経済封鎖」が効かないと判断し、ついにロシアとの直接対決――武力行使に踏み切る決意を固めた。

1812年、ナポレオンは43歳。60万を超える兵を率いてロシアへ侵攻。

この「グランド・アルメ(大陸軍)」は、フランスのみならず征服下の諸国から兵を集めた多国籍軍であった。

ナポレオンの戦略は、ロシア軍の撃滅ではなく、象徴都市モスクワを占拠することで皇帝アレクサンドルに講和を強いるというもの。

だが、ロシア軍は戦わずに撤退を繰り返し、焦土作戦で自国の町や補給拠点を焼き払っていった。モスクワにようやく到達したとき、そこは無人の廃墟だった。

講和の使者を何度送っても、アレクサンドルは交渉に応じない。ナポレオンの戦略は完全に瓦解した。冬が迫る中、モスクワに駐留し続けるのは不可能だった。

退却を決断するが、補給も退路も失われ、寒さと飢えが兵士たちを容赦なく襲う。戦って敗れたのではない。戦わずして自壊したのだった。

60万の兵のうち、生還したのはわずか数万――ナポレオンの「不敗神話」はここに終焉を迎えた。このロシア遠征は、単なる軍事的敗北ではなく、「自分なら世界を導ける」と信じていたナポレオン自身の“自信”の崩壊でもあった。

1813年のライプツィヒの戦いでは、かつての同盟国にさえ見放され、1814年にはパリが陥落し、ナポレオンはエルバ島へと追放される。

そしてその年――1814年5月29日。かつての皇后ジョゼフィーヌがマルメゾン城で亡くなる。肺炎だった。彼女は離婚後も、ナポレオンの消息に一喜一憂し、遠征先の彼に手紙を書き続けていた。病床では、「ボナパルト……」とつぶやきながら、静かに息を引き取ったという。

この報せは、エルバ島に追放されていたナポレオンのもとにも届いた。彼は側近の前で涙を流し、「私は、彼女の死によって二度目の打撃を受けた」と語ったと伝えられている。

皇位を追われ、野に下ったナポレオンが受けた“もう一つの退位”――それは、愛という名の王国からの退場でもあった。

――勝利と敗北の末に、情念だけが残った――

1814年、ロシア遠征の敗北をきっかけに、ライプツィヒの戦いで各国の連合軍に敗れ、パリも陥落。ナポレオンは皇帝の座を追われ、地中海の小島・エルバ島に追放された。だが、それで彼の情念は終わらなかった。

翌1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出。フランス本土に上陸すると、彼を裏切ったはずの兵士たちが次々と膝をつき、「皇帝万歳!」と叫ぶ。ついに彼は再びパリに入り、政権を奪還――この奇跡の復活劇が、のちに「百日天下」と呼ばれる。しかし、情念の燃え上がりは、長くは続かなかった。

ナポレオン最後の戦いとなったのは、1815年6月、ベルギーのワーテルロー。ウェリントン率いるイギリス軍と、プロイセン軍を相手に、彼はかつての戦術を駆使して猛攻を仕掛ける。

だが、それは「過去の自信」をなぞっただけの戦争だった。彼の体力も、判断力も、もはや往年の輝きには及ばず、味方の遅延や誤報も重なり、最終的に壊滅的敗北を喫する。ここに「ナポレオンという神話」は完全に終焉を迎えた。捕らえられたナポレオンは、今度は大西洋の孤島・セントヘレナへと送られる。南大西洋の絶海、セントヘレナ島――地図の片隅にようやく見つかるほどの小島だった。

彼はそこで6年を過ごす。回想録を口述し、かつての戦いを振り返り、自らの神話を語り続けた。しかしその日々は、もはや勝利者の栄光ではなく、過去の亡霊と向き合う静かな時間であった。

ナポレオンがセントヘレナに送られる1年前――1814年5月29日、元皇后ジョゼフィーヌはマルメゾン城で静かに息を引き取った。「ボナパルト……」それが彼女の最後の言葉だったという。肺炎に倒れた彼女は、最期までナポレオンを案じ続けていた。

この報せを受けたナポレオンは、側近にこう漏らしたとされる。「私は二度、破滅した。ロシアで。そしてジョゼフィーヌを失って。」政治に翻弄された愛。勝ち続けることで壊れていった自己像。そして最後に残ったのは――“たった一人の女”への想いだった。

1821年、セントヘレナ島にてナポレオン死去。享年51歳。「余の死後、ヨーロッパは退屈するだろう」と語ったという。

彼の人生は、まさに情念と野望の交錯であった。撤退できない愛、後戻りできない戦争。ナポレオンは「合理の人」でもあり、「情念の人」でもあった。

情念とは、後戻りできない感情なのだ。それは、ときに国家を動かし、人心をも巻き込む。ナポレオンが築いた帝国は滅びた。だが、彼の情念は、いまも多くの人を惹きつけ続けている。それは英雄が征服した領土よりも、遥かに広い世界なのかもしれない。

(完)