わが国の情報史(21) 日露戦争の勝利の要因その3 -諜報・謀略工作-

大橋武夫氏による日露戦争の6つの勝因

兵法家の大橋武夫氏は、日露戦争の勝利の要因を(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利 と総括している。以下、(4)と(5)を中心に考察したい。

明石大佐による諜報網の構築

明石元二郎は1864年に福岡藩で生まれ、陸軍大学を卒業後、ドイツ留学など を経て、フランス、ロシアで公館付陸軍武官などを歴任した。日露戦争後は台湾総督を歴任し、最終的には陸軍大将になった。

明石は1901年にフランス公館付武官として赴任、1902年にロシアのサンクトペテルブルクに転任し、その後、ロシアの膨脹主義に反発するスウェーデンに駐在武官として移動した。同地にて旧軍の特務機関の草分け的存在である「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派「ボルシェビキ」への活動を支援した。

1904年1月12日の御前会議で戦争準備の開始が決定されると、児玉源太郎参謀次長は、駐ペテルスブルク公使館付陸軍武官の明石元次郎(当時、中佐)に対し、ロシアの主要都市に非ロシア系外国人の情報提供者を獲得するよう命じた。

明石大佐は日露戦争では参謀本部からの工作資金100万円を活用し、地下組織のボスであるシリヤクスと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献したとされる。 当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額となり、明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。  

明石の活動について、児玉の後の参謀次長である長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある。

また一説には、明石がレーニンと会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出たことや、明石の工作が内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与し、後のロシア革命の成功へと繋がっていったとされる。

さらに、レーニンが「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と述べたとの説もある。 ただし、こうした明石の活動は、明石自身が著した『落花流水』や、司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』によるいささか誇張的な評価がもたらしたようである。

稲葉千晴氏は、『明石工作』(丸善ライブラリー、平成7年5月)において、明石がレーニンに会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されていない、と結論付けた。 また、稲葉氏によれば、現地でも日本のような説は流布していないことが示された上、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動確認をしており、大半の工作は失敗に終わっていたとされる。

一方で稲葉氏は、工作(謀略)活動の成果については否定するものの、日露戦争における欧州での日本の情報活動が組織的になされていたことに注目している。その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについて評価している。 稲葉氏によれば、明石による諜報網の構築は、現地の警察当局のきびしい監視によって阻まれるが、日露開戦までに明石は少なくとも三名のスパイを獲得することに成功した。

明石の諜報網が日露戦争の終戦まで維持されたこと、明石がロシア革命諸党の扇動工作(謀略工作)に着手することが容認されたことは、すくなくとも明石の設置した諜報が無用ではなかったことの証であるといえよう。 また明石の謀略工作は陸軍中野学校の授業でも題材として取り上げられるなど、当時の日本軍の秘密工作に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

青木大佐による諜報網の構築

日本が満州において、ロシア軍に勝利するためには、戦場でロシア軍に上回る戦力集中しなければならない。そのためには、極東ロシア軍の総戦力を正確に判定することが必要となる。

満州軍総司令部は、敵陣奥深くに蝶者や斥候を派遣するとともに、欧州駐在の陸軍武官に命じて、唯一の兵站線であるシベリア鉄道の兵員、物資の輸送量を把握することに決した。 参謀次長・児玉源太郎は、日露戦争が早晩開戦を迎えることは必至と判断し、主戦場となる北支方面の守備を強化する必要性を認識した。

そこで、児玉が参謀本部作戦部長の福島安正に相談したところ、袁世凱を説得できる人物として青木宣純(あおきのりずみ、1859~1924)が推薦された。 青木は1897年から90年にかけて、清国公使館付武官として天津に赴き、ここで袁世凱の要請で軍事顧問に就任し、袁との信頼関係を構築していたのである。

1904年7月、青木は満州軍総司令部附として北京に派遣された。青木は、北京で特別任務班を組織し、袁の配列下にある呉佩孚(ごはいふ)を動かして満洲とシベリアの国境一帯に諜報網を組織してロシア軍の動向を監視した。 こうして得られた情報は、青木の後任として袁世凱の軍事顧問の任にあたった坂西利八郎(ばんざいりはちろう)大佐を通じて、天津駐屯地司令官の仙波太郎少将に手渡され、そこから東京の参謀本部に転送されていった。

石光真清らの活躍

このほか日露戦争においては、「花大人」こと花田仲之助(はなだちゅうのすけ、1860~1945)中佐が、本願寺の僧侶となって1897年にウララジオストクに潜伏、日露戦争時には満洲に潜入し、スパイ活動に従事した。

石光真清(いしみつまきよ,1868~1942)大尉は陸軍士官学校を卒業したものの軍人を退職し、一般人の菊池正三に変装して1899年にシベリアに渡り、スパイ活動に従事した。石光は花田帰国後のシベリアの諜報活動において活躍したのである。

このほか民間人としては、日清戦争時に従軍記者として活動した横川省三(※(よこかわしょうぞう、1865~1904)が日露戦争の開戦にあたって、清国公使の内田康哉(うちだこうさい、のちの外務大臣)に誘われ、特別任務班第六班班長となり、沖禎介(おきていすけ)とともにスパイ活動に従事した。横川はロシア軍の輸送鉄道の爆破を試み、ラマ僧に変装して満洲に潜伏するが、ハルビンで捕らわれ、1904年に銃殺刑となった。

旧軍随一の女性スパイ「河原操子」

こうした日本軍の特務活動において、河原操子(かわはらみさこ、1875~1945)が多大な活躍をした。

大本営は青木宣純大佐を長とする諜報謀略機関の特別任務班(計71人)を北京に配置し、次の任務を与えた。 一、日支(日本、中国)協力して敵状をさぐる。 二、敵軍背後の交通線を破壊する。 三、馬賊集団を使って敵の側背(そくはい)を脅威する。

この特別任務班はロシア軍の側背地域を広く、そして縦横に活躍しているが、その足跡をたどってみると、各班の多くが内蒙古の喀喇沁(カラチン)王府(北京東北二五〇キロ、承徳と赤峯の中間)を経由しているのが目をひく。(大橋武夫『統帥綱領』) なぜならカラチンの宮廷には河原操子がいたからである。

彼女は1875(明治八)年、信州(長野県)松本市で旧松本藩士・河原忠の長女として生まれた。父親は明治維新後、私塾を開き漢学を教えていた。父の忠と福島安正は幼なじみという関係にある。  

長野県師範学校女子部を卒業したあと、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学したが、病のため翌年中退し帰郷した。1899年に長野県立高等女学校教諭になるが、清国女子教育に従事したいと思うようになった。

1900年夏、実践女子学園の創設者で教育界の重鎮である下田歌子が信濃毎日新聞を訪れた時、操子は下田に「日支親善」のために清国女子教育への希望を申し述べた。

1900年9月、下田歌子の推薦により、操子は横浜の在日清国人教育機関「大同学校」の教師となった。ここで二年間の教師生活を終えて、操子は上海の務本(ウーベン)女学堂に赴任した。ここでは彼女は「生徒と起居を共にしてこそ教育がなせる」との信念のもと、女学堂の衛生環境の改善に取り組みつつ、女生徒の指導に力を尽くしたのである。

1902年の内国勧業博覧会を視察したカラチン王より、カラチンで女子教育にあたるべき日本女性の招聘が要請された。操子の上海での勤務ぶりに注目していた内田公使が、1903年に内蒙古カラチンに初めて開設された女学校「毓正(いくせい)女学堂」の教師として、彼女を派遣した。

操子は1903年12月、驢馬の旅を九日間続けて、カラチンに赴任した。カラチン王府は、操子の手になる毓正女学堂を支援し、王妹と後宮(こうぐう)の侍女、官吏の子女を学ばせた。女学堂の校長は王妃善坤であり、彼女は粛親王善耆(川島芳子の父)の妹だった。 王妃の授助もあり、女学堂はやがて60人の生徒を数えるまでになる。

学科は、読書、日本語、算術、歴史、習字、図画、編物、唱歌(日本、蒙歌)、体操で、読書は日本語、蒙古語、漢語からなっていた。操子は地理、歴史、習字の一部を除き、その他の全教科を受け持った。 

1907年まで毓正女学堂で教鞭をとり、あとの女子教育を鳥居きみ子(夫は考古学者の鳥居龍蔵)に託し、日露戦後の1906年2月に帰国。帰国の際には女学堂の生徒三人を連れ、実践女子学園に留学させている。

帰国後、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一宮鈴太郎と結婚し渡米。1945年に熱海市で死去した。

操子のカラチン赴任には、内蒙古の戦略的要衝の地に親日勢力を扶植(ふしょく)する、日本人が常駐せずに生じていた工作網の間隙を埋めるという日本側の思惑があった。その赴任には北京からカラチンまでの沿道地図を作成するために参謀本部の軍人が同道していたように、国家の密命をおびた派遣であった。

日清戦争後の三国干渉によって日本を譲歩させたロシアは、満洲に軍事力を展開し、さらには朝鮮半島に触手を伸ばし始めていた。それに対し、日本はロシアのライバルであるイギリスとの同盟締結に成功してロシアに備えた。 

日露戦争が迫り来る過程で、内蒙古にもロシアの手が伸びていたが、日本を訪れたことのあるカラチン王だけは日本に好意的であった。カラチンには日本の軍事顧問も派遣されていたが、戦争が勃発すれば武官の滞在は認められない。そこで、粛親王の顧問を務める川島浪速(かわしまなにわ、1866〜1945)や陸軍の福島安正ら松本の同郷人の思惑が内田公使を動かし、カラチンに民間人の操子を派遣することになった次第である。

操子は教育活動とは別に、カラチン王府内の親露勢力の動向を探る「沈」としての使命を果している。諜報・秘密工作の使命を受けた横川省三などは途中カラチンに立ち寄り、その際は操子が彼らの世話をした。それぞれ潜入中の特別任務班員とのやりとりは、王府内に親露派が多くいたので苦心があった。

中国名での秘密の情報交換ほか、操子はカラチン王夫妻にも守られ任務を果たすことができた。 操子は、この頃続々と入り込むロシア工作員たちの猛烈な働きかけを排して、カラチンの親日政策を守りとおし、常にロシア軍の動静を北京に報告するとともに(彼女には文才があった)、この地を経由する特別任務班員に対し、物心両面にわたる非常な援助を与えた。(大橋武夫『統帥綱領』)

愛国心の泉「からゆきさん」  

そのほか日清・日露戦争時期においては、東アジア・東南アジアに渡って娼婦として働いた日本人女性「からゆきさん」が、日本軍の貴重な情報源となった。  

日露戦争では、マダガスカルに入ったバルチック艦隊の所在を電報で送ったのも遠い異国に送られた「からゆきさん」であったという。マラッカ海峡を四十数隻のバルチック艦隊が通過しているのを見て、「からゆきさん」たちは現地領事館に駆け込み、金銭、着物、かんざしなどを提供し、「お国のために使って下さい」と言ったという逸話もある。

前出の石光真清は1899年にシベリアに渡り、90年2月、寄宿先のコザック連帯騎兵大尉ポポフにともなわれて愛暉に入り、そこで諜報活動の得難い担い手となる水野花(お花)と出会う。彼女は馬賊の頭目の妾であった。

ハルビンに潜入する際には、お君という女性の計らいで馬賊の頭目増世策に会い、その手引きで中国人の洗濯夫人に化けてハルビンに到着した。 彼女たちは「シベリアのからゆきさん」で、1883(明治16)年ごろにウラジオストクに現れたという。九州天草地方の出身者が多く、その数は増えていった。

お花とお君も馬賊の頭目の妾などとなっていたが、二人とも中国語、変装術、人事掌握術など、どれをとっても天下一品であった。やがて彼女たちは石光真清のスパイ活動に協力して大活躍する。そこには馬賊に対するむごい仕打ちを行なったロシア軍への反感と、故郷日本に対する愛国心が満ち溢れていた。 彼女たちの交流は石光真清の自伝『曠野の花―石光真清の手記2』に詳述されている。

このように日清・日露戦争においては、名もない女性たちの活躍があった。彼女たちは出自に恵まれず、高等教育を受ける機会もなく、貧乏がゆえに親元を離れて遠い異国に渡ったが、日本を愛していた。故国のためなら犠牲もいとわず、その愛国心の泉はいつも満ち溢れていたのである。

“SNS・ブログメディア”はマスメディアの監視機構になれるか?

安田純平氏、無事に解放

2018年10月24日、 内戦下のシリアに2015年6月、トルコ南部から陸路で密入国し、武装勢力に拘束されていたとされるフリージャーナリスト安田純平氏(44)が無事解放されました。

このことは、日本人の一人として大いに喜ぶべきことですが、SNSやブログでは「自己責任」論を展開するバッシングで盛り上がりました。これも、安田氏の記者会見などにおける真摯な謝罪などにより、ようやく下火になったようです。

今日のSNSやブログでは過激な意見も多々散見されます。ただし、筆者はこれまで情報発信力を持たなかった“サイレントメジャー”の意見を見る上で、ブログの存在は重要であると、思います。

なかには、自由に匿名での書き込みが行われるため、SNSやブログが大衆世論を反映したものではないとの批判もあります。しかし、私の言いたいこと、思っていることを、結構、ずばっと代弁してくれているような気がします。

SNSやブログによる意見の内訳

今回の安田氏の行動をめぐっては批判と擁護の両論が生起しました。

マスメディアには擁護派が多いように思われます。マスメディアは報道を商売としていますので、当然に取材活動や報道の自由を主張し、取材の価値を高く評価します。ある意味、安田氏の行動を肯定的に評価するのは当たり前なのかもしれません。

一方のSNSやブログでは、批判派と擁護派に分かれていたようです。批判派は安田氏の行動を批判し、さらに安田氏の行動を擁護するマスメディアに対して批判の目を向けました。擁護派は安田氏を“英雄”視し、日本政府の過去3年間の“無為無策”を批判しました。

ただし、私が見る限りでは、ブログメディアの趨勢は、圧倒的に批判派によるバッシングで占められていたように思います。それだけ、今回の安田氏の行動に対して、日本国民の多くが疑問を感じていたように思います。

なぜ、バッシングが起きたのか?

日本政府は、邦人保護という直接的な政府課題や、国際テロ協調、さらには国内政治などにおける間接的デメリットが発生する可能性を懸念して、安田氏に対して、再三にわたり、渡航を自粛するよう注意喚起していました。

これにもかかわらず安田氏が渡航し、“案の定”ともいうべきか、武装勢力に拘束されたのですから、日本政府としては、これを“迷惑事件”だと考えていたとしても不思議ではありません。しかし、日本政府が「自己責任」を理由に、邦人保護の義務を怠ることはありえません。

他方、今回の安田氏の解放に対して、日本政府は終始、淡々と対応していた様子がうかがえました。まるで“火中の栗”は拾わないといったような、冷静で抑制的なコメントが続けられました。

そうした一方で、SNSやブログでは「日本政府の注意喚起を無視して危険地域に行って武装勢力に拘束された。自業自得だ。「自己責任」だから解放にかかった費用を払うべきだ」など、さまざまなバッシングを繰り広げました。

これに対して、いつものように反政府批判を繰り返す、マスメディア(正確には一部マスメディア)が、「自己責任」論を捕えて、攻撃の矛先をブログメディアに向けました。これに対して、SNS上では、コメンティターの発言に批判の大合唱を展開するという事態が生起しました。つまり、ここ最近見られる新しい形の“メディア戦争”が勃発したのです。

一部マスメディアの論調

今回の事件に関して、テレビ朝日解説員の玉川徹氏は、「自己責任」を主張するブログバッシングをとらえて、「未熟な民主主義だ!」と断じたり、安田氏を「英雄と迎えよう」などと主張しました。

玉川氏:「兵士は国を守るために命を懸けます。その兵士が外国で拘束され、捕虜になった場合、解放されて国に戻ってきた時は『英雄』として扱われますよね。同じことです。民主主義が大事だと思っている国民であれば、民主主義を守るためにいろんなものを暴こうとしている人たちを『英雄』として迎えないでどうするんですか」

これに対し、ジャーナリストの江川紹子氏は次のようにコメントしました。

「国の命を受けて戦地に赴く兵士と、自分の意志で現場に向かうジャーナリストは、本質的に異なる。それをいっしょくたにした物言いは、安田氏を非難したい人たちに、格好の攻撃材料を提供した。「ひいきの引き倒し」「親方思いの主倒し」とは、こういうことを言うのだろう。」

「ひいきの引き倒し」「親方思いの主倒し」はさておき、江川氏の論じるように、本質が異なるものを無理無理に類似するする見識の低さにはあきれました。

「自己責任」論は政治的案件なのか?

他方、江川氏は次のような論説を展開しています。

◇「自己責任」が言われるようになったのは、2004年にイラクで日本人の若者3人が武装勢力に拘束された事件においてであった。

◇当時の小泉政権で環境相だった小池百合子氏が「危ないと言われている所にあえて行くのは、自分自身の責任の部分が多い」と発言したのを機に、「自己責任」の大合唱となった。

◇当時、政府・与党の政治家があえて「自己責任」を持ち出して3人を非難する世論を誘導したのは、この事件が金目当ての誘拐事件や遭難などの事故とは異なり、政治的案件だったからだ。

こうした江川氏の論説の展開に対し、過去における「自己責任」論の生起の経緯を起点に、「自己責任」論が政府の「公的責任回避」論を結びく危険性という論理を掲げ、現政府への間接的攻撃を加えようとしている。そこには、今回の「自己責任」論の沸騰のなかで、一般大衆による反政府批判が十分に熟さないことに焦りを感じている様相がうかがえる、といったら、いささか穿った見方でしょうか?

海外における安全対策においては「自己責任」は常識

「自己責任」とは何か?について私見を述べます。筆者は1992年から95年まで、在バングラデシュ大使館で邦人保護の業務に従事したことがあります。当時の外務省『安全対策マニュアル』では、海外における安全対策においては「自己責任」が基本的原則であると明記されていたように記憶しています。

筆者も「自己責任」論に基づいて邦人の安全対策指導に従事していました。 また、他国の安全対策専門家とも多くの意見交流を持つ機会がありましたが、彼らも、海外における安全対策は自己責任が原則であるとの認識を有していました。

つまり、上述の小池氏が述べたようなことは、海外の安全対策においては至極当たり前のことなのです。

ただし、誤解しないでください。「自己責任」は、政府が邦人保護の責任を回避するというものではまったくありません。海外において邦人が不測の事態に遭遇したならば、全力でその生命や財産を守ることは当然のことです。

しかしながら、海外ではわが国の警察権などは及びません。在住する外国人の安全を守る第一義的責任は任国政府にあります。ここが国内とは大いに違います。

だから、邦人が海外で危険な目に遭遇したとしても、日本政府ができることは限定されます。現地では邦人の安否を確認し、その救出などの措置を任国政府に要請する、これらのことしかできないのです。この点はペルー人質事件が良い例です。

だから、政府は事前に関連情報を収集して、危険な地域に対して、渡航注意喚起や渡航自粛勧告などを発出しますが、邦人に対して、明確な犯罪行為などは別として、「行くな!」という権利はありません。

だから、危険な地域に行く、行かないの判断を含めて、海外に行く邦人には、原則は「自己責任」であることを認識してもらうしかないのです。

こうした背景により、「自己責任」論が確立されているのです。国民は、政府から守られる権利がありますが、公共の福祉に従うことや、政府の政策を擁護する責任もあります。

日本国民として海外に赴任する、あるいは旅行する上で、なるべく政府に迷惑をかけてはならないことは当たり前の常識であり、そのことを、政治的案件と結びつけるのも短絡的であると考えます。

一部邦人の行動が全体の公共サービスを低下させる

私のバングラデシュでの勤務時代のことです。1994年から95年にかけて任国の政治情勢が悪化したため、3カ月以上に及ぶ「渡航注意喚起」を継続的に発出していました。本省に対しては、一段上の「渡航自粛勧告」への引き上げも要請しましたが、これは発出されませんでした。

現地在住の邦人に対しては毎日定時に治安情報や安全対策情報を提供し、緊急連絡網を整備し、安否確認を行いました。この際における邦人安全対策においては、できるだけ自主的に日本への帰国や第三国への出国を奨励して、現地の在住の邦人数を減少することがキモとなります。なぜならば、政府専用機による出国などの最終想定で退避できる出国者数を限られているからです。

このような最終的なオペレーションを念頭に、現地の情勢変化を日々判断して、邦人安全対策の措置を検討します。だから、現地大使館としては邦人に対して不用な入国は控えてほしいわけです。

しかし、「渡航注意喚起」にもかかわらず、一部の邦人旅行者や自営業者などの何人かは確実に入国していました。 それら邦人は、ホテルなどを利用するよりも、簡易なゲストハウスに宿泊・滞在するために、安全対策情報を如何にして提供するのかを思案しました。その時に、渡航注意喚起などがいかに無力なものかということを、つくづく感じました。

こうした状況下、邦人からのトラブルの通報を受けました。「それ見たことか」というわけにはいきません。公的機関は日本国民に対してひとしくサービスを提供しなければなりません。しかし、自らの恣意的な使命感、冒険的、野心的なかれられた一部邦人の予期しない事件が起きれば、全体としての公的サービスは低下してしまうのです。

安田氏に対するバッシングの背景

今回の安田氏の拉致及び解放事件は、残念ながら利敵行為になってしまいました。だから、税金を支払い公的サービスを受益する権利がある国民は、「結果的に自分たちに不利益が生じた」と主張する権利もあります。

つまり、日本国民が「やさいしくないとか思いやりがない」などの議論はさておき、政府のさいさんの警告に反して行動して、予想どおりに拘束された安田氏に対して「自己責任」論を主張することは特段に不思議な現象ではないと考えます。

民主主義とはなにか

むしろ、それを「未熟な民主主義である!」などと報じる、上述のコメンテーターや、民主主義を大上段に構えて自らの主義主張をとなえる、一部のマスメディアに対して、筆者は異常性を感じます。

一部のマスメディアは、自らが民主主義の“番人”かのように「民主主義」を連呼しますが、ここで「民主主義とは何か?」、この美名の背後に存在するものを冷静に考えてみる必要があります。ちなみに朝鮮民主主義人民共和国も「民主主義」をかたっています。

筆者は今回のマスメディアの主張に対して、次のような疑問を改めて思い起こしました。◇そもそも民主主義に未熟、成熟はあるのか? 本当に欧米の民主主義が理想なのか?ほんとうに絶対無比の民主主義の理想はあるのか?

◇中国は民主主義ではないから崩壊するという仮説は正しいのか?民族、文化、国家体制の実情に即したさまざまなな形があるではないか?日本には日本独自の民主主義があり、それを欧米と短絡的に比較することはいかがなものか?

◇マスメディアが主張する民主主義とは政府などの権力機構を監視することに矮小化されていないか?民主主義は国民優先の原則であり、国民の自由なさまざまな発言を容認する“懐の深さ”こそが民主主義ではないのか?

マスメディアの役割

ここ最近まで、マスメディアはスーパー的な存在であったと考えます。マスメディアが時の権力構造の腐敗を暴き、社会正義を保持した功績は大であったと思います。

他方で一部のマスメディアが誤った歴史認識を国内外に流布して国益に重大な損害を与えたり、捏造記事に手を染めて視聴率を稼いだ歴史もあります。

こうしたマスメディアによる“光と影”がほぼ独占的に横行したのは、ほとんどの国民が情報発信の手段をまったく持っていなかったからです。しかし、IT化が進展した今日、マスメディアは、権力を監視して、世論を形成する絶対無比の存在でありません。つまり、一般人の無知を愚弄するかのような驕り、恣意的な判断の下での報道はもはや許されません。

マスメディアが誤った報道をすれば、たちまちSNSやブログでのバッシングを起こります。上述のようなコメンティターの発言に対しても、ただちに反撃が展開され、それが増幅され、一つの力を形成します。

安田氏の事件で生起したバッシングに対して、一部のマスメディアは「日本で起きているバッシングは信じられない」といった欧米のメディア人のコメントを引き合いにして、わが国の異常性を浮き彫りにしようとしています。

しかし、“虎の威を借る“ような方法で、自分たちの主張にとって都合の良い情報だけをを使って、民衆の無知に付けこむかのようなな、旧態依然のやり方では、たちまちSNSやブログバッシングの反撃が起こるでしょう。

マスメディアが、これまでのような特権意識に立ち、民主主義や社会正義を振りかざし、“社会の権力悪”と戦っていることを自尊しているならば、ますます国民はメディアから離れていくと思います。

ジャーナリズムに求められる質の高さ

今回の安田氏が自ら紛争地帯に入って拘束されたことを非難する声の背景には、「シリアについての情報なんか、自分の人生や生活に関係ない、特に興味もない」という多数派の意見が根底にあります。

他方で、わが国のジャーナリストが危険な現地に行かなくても、わが国のマスメディアが報道しなくても、CNNなどがほぼ十分すぎることは報道してくれる点も見逃せません。おそらく国民の知的ニーズとしては、それで十分満足なのです。

もちろん、わが国が他国に依存しない情報収集力や取材力を持つことの重要性を否定はしません。また、紛争地域に命を懸けて潜入し、渾身のルポ記事を書くことが必要ないとはいいません。多くの日本人も、このような懇親ルポが発表されれば、日本人として誇りに思うし、感動するでしょう。

しかしもう一度繰り返しますが、危険地域での取材や情報活動は非常に困難である一方、 人工衛星、インターネットなどがIT技術が発達するなか、国際社会におけるさまざま場所と領域における有力情報を入手できる可能性は高まっています。そして、これらのオシント(公的情報)をしっかりとウォッチしておけば相当なことは分かります。

それでも、マスメディアやジャーナリストが、「日本人にとって、現地に行って密着した取材によって得た情報が必要だ!」「危険をおかして、日本に対して不利益をもたらす可能性を差し引いても現地情報が必要なのだ!」というのであるならば、そのことを国民に対して真摯に説明して理解を得る必要があるのではないでしょうか?

そのためには成果の積み上げが必要となります。 それがなくして「日本人は世界のことを知るべきだ」的な発見は、まさに“上から目線”のマスメディアの自己擁護論と主張の押しつけだと言わざるをえません。

諜報員が危険地域に潜入して、その行動が暴露されれば、おそらくニュースにもならずに殺害されてしまうでしょう。武装集団にとっては諜報員もジャーナリストも区別はつきません。危険地域におけるジャーナリストは諜報活動と同程程度の情勢判断と慎重な活動が求められます。 

かりに、諜報員のような訓練を受けていないジャーナリストが危険地域に潜入してすばらしい情報を入手したとしても、インテリジェンスの世界では、その情報はすぐには真実とはみなされません。そこには、「武装集団がその人物に対してメッセンジャーや広告塔としての価値を見出したからではないか?その情報は真実か?」などの信頼性評価の問題が生じます。

このように貴重な情報を得るということは様々な危険性に直面しています。現在のIT社会においてジャーナリズムが成果を挙げるためには、行き当たりばったりの“成果主義”に駆られることなく、十分な事前勉強を行い「何を明らかにすべき」「何が明らかにできるか」などを事前に検討する必要があります。

その上で事前準備、行動の慎重性などが過去以上に求められると考えます。つまり、たとえばシリアに行くジャーナリストであれば、知識一つをとっても中東専門家に負けないだけの事前勉強が必要になるということだと考えます。

“SNS・ブログメディア”はマスメディアの監視機構になれるか?

たしかにウェブ上にはさまざまな扇動的、差別的な発言があります。また、必ずしも“サイレントメジャー”の意見を反映するものではないとの批判もある意味正しいと思います。こうした一方でウエブ上には「群衆の叡智」を反映した秀逸な論評が多々見られます。一部のコメンテエイターの勉強不足を一刀両断するような鋭い見識があることに、筆者は驚きを隠せません。

今回の安田氏に対するSNSやブログ上でのバッシングに対して、一部のマスメディアが民主主義を掲げて攻撃したことから、ブーメランのようにメディアバッシングが生起しました。ここに、筆者はブログメディアが権力の監視機構として台頭しつつる状況を感じます。

これまで政府という権力集団を監視するのがマスメディアでした。今度は、そのマスメディアに対して国民、すなわち“SNS・ブログメディア”が監視する力を持ち始めたのです。これは、まさしく新しい変化です。

この“SNS・ブログメディア”が政府、マスメディアを監視する第三の勢力として成長するためには、国民が真摯に勉強する、ウソやデマを流さない、愛国心に立った意見を誠実に発信するなどを心がけて、さらに「群衆の叡智」を高める必要があります。

わが国の情報史(20-後段) 日露戦争の勝利の要因その2 -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール-

高橋是清

高橋是清の資金獲得

軍事と経済との連携においては高橋是清の活躍が特筆される。いうまでもなく、戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠である。この資金を調達したのが、当時の日本銀行副総裁の高橋である。

高橋は、日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。日清戦争において相当の戦費が海外に流失したので、その穴埋めのためにも膨大な外貨調達が必要であった。 しかし、開戦とともに日本の外債は暴落しており、外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。 つまり、国際世論は日本の勝利の見込みうすしと判断した。

日露戦争が勃発した直後の1904年2月24日、高橋是清はまず米国に向かった。高橋はニューヨークに直行して、数人の銀行家に外債募集の可能性を諮ったが、米国自体が産業発展のために外国資本を誘致しなければならない状態で、とうてい起債は無理とのことであった。

そこで、高橋は米国を飛び立ち英国に向かった。しかし、ロンドン市場での日本公債に対する人気は非常に悪かった。一方、ロシア政府の方は同盟国フランスの銀行家の後援を受けて、その公債の価格はむしろ上昇気味だった。 英国の銀行家は、日本がロシアに勝利する可能性は極めて低いと分析して日本公債の引き受けに躊躇していたのである。

また、英国はわが国の同盟国ではあったが、建前としては局外中立の立場をとっており、公債引受での軍費提供を行えば中立違反となるのではないかと懸念していた。 それを知った高橋は、日本にも勝ち目があることを英国側に理解させるよう、宣伝戦略に打って出た。つまり、このたびの戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり、日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存であることを主張した。

中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例があることを説いた。  高橋の説得が徐々に浸透して、1ヶ月もするとロンドンの銀行家たちが相談の上、公債引受けの条件をまとめてきた。ただし、関税担保において英国人を日本に派遣して税関管理する案を出してきた。 これに対して高橋は、「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」ときっぱりと拒絶した。交渉の結果、英国は妥協して、高橋の公債募集は成功し、戦費調達が出来た。

クラウゼヴイィツの『戦争論』の影響とシビリアンコントロール

わが国の勝利の要因は政治、経済、軍事が一体となってロシアに立ち向かったことにある。そこには、政治が軍事を統制するシビリアンコントロールが機能したといえよう。

そのシビリアンコントロールの思想的底流にはドイツから流入したクラウゼヴイィツの『戦争論』の影響があったとみられる。 『戦争論』では、「戦争とは他の手段をもっておこなう政治の継続である」「戦争は政治の表現である。政治が軍事よりも優先し、政治を軍事に従属させるのは不合理である。政治は知性であり、戦争はその手段である。戦争の大綱は常に政府によって、軍事機構によるのではなく決定されるべきである」と述べられている。 つまり、政治が軍事に優先すること、すなわちシビリアンコントロールが強調されている。

前述の川上や田村はドイツにおいてクラウゼヴイィツの思想を学んだ。これが日露戦争前の帝国陸軍の戦略・戦術思想を形成していったとみられる。このことから、大筋において、当時の一流の軍人がシビリアンコントロールの重要性を理解したのではないだろうか。

総理の桂太郎も軍人であり、元老の山県有朋も軍人であった。いわば当時の軍政は軍人と文人が混在していたが、そこには政治優位の思想が確立されたとみられる。時には軍事優先による日露開戦論が先走ったが、大筋において抑制がきいていたというへきであろう。

つまり、明治期の一流の軍人は、大局的な物の見方と、国家レベルの情勢判断力、政治優位の底流思想を持っていたと判断できる。児玉らのインテリジェンス能力に長けた軍人が、国家レベルの視点から物事を判断して、シビリアンコントロール(政治優先)を維持していった。 この点が、軍事という狭い了見から情勢判断を行い、政治を軽視し、軍事の独断専行に走った昭和期の軍人との最大の相違ではないだろうか?

わが国の情報史(20-前段) 日露戦争の勝利の要因その2 -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール

前回から日露戦争における勝利の要因についてインテリジェンスの視点から考察しています。 前回においては、兵法家の大橋武夫氏の説を取り上げ、以下の6つの勝利の要の同盟に焦点を当てた。

(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

今回は、(2)の金子堅太郎の活躍を中心に、若干(3)の高橋是清の活躍についても触れつつ、日露戦争の勝利の要因を考察する。

日露戦争に向けた政治指導体制

日清戦争後、桂太郎(1848年~1913年)は第三次伊藤内閣(1898年1月~同年6月)で陸軍大臣として初入閣し、その後も出世街道を驀進した。 そして明治34年(1901年)6月、第一次桂太郎内閣が誕生することになる。

この内閣は、海軍大臣・山本権兵衛(1852年~1933年)と陸軍大臣・児玉源太郎(1852年~1906年)の留任を除いては、その他は初めて大臣になるという官僚が大半であった。 しかも、その多くが内務省出身の山県(有朋)閥の官僚であったため、世人は「小山県内閣」「第二流内閣」と揶揄した。 しかし、この桂内閣が日露戦争を戦い、わが国の歴史上の大勝利をもたらしたのである。

桂は1901年9月に小村寿太郎を外相に起用して日英同盟の締結を目指した。二人にとって、その先にあるものはロシア問題の解決にほかならなかった。 当時、ロシア問題をめぐっては日本政府内では山県、桂、小村らの対露主戦派と、伊藤、井上馨らの戦争回避派との論争が続いていた。 桂はこれらの元老たちの意向を汲み、微妙に調整しつつ、わが国の生存・発展戦略を模索しなければならなかった。  

1902年に成立した日英同盟を背景に山県・桂らの主戦派は、伊藤らの戦争回避派に対する分裂工作を仕掛けるなど、政界における影響力の増大に努めた。 1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山県の別荘で両派による対ロ方針に関する会議が行われた。

この会議において桂は、満洲に対してはロシアの優越権を認める、そのかわりに、朝鮮においては日本の優越権を認めさせる、これらが貫徹できなければ戦争も辞さない、との対ロ交渉方針を掲げ伊藤と山県の同意を得た。

しかしながら、桂の予測どおりともいうべきか、ロシアの南下政策は一向にとどまることない。ついに1904年(明治37年)、桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月4日に日露戦争の火ぶたが切って落とされることになる。

日露戦争に向けた軍事指導体制

他方、日露戦争までの軍事指導体制に焦点をあててみることにしよう。1998年に川上操六(1848年~1899年)が参謀総長に就任し、作戦を司る第一部長に田村怡与造(1854年~1903年)、情報を司る第二部長に福島安正(1852年~1919年)を登用した。これにより作戦と情報の両輪体制が整い、ロシアとの対立を視野においた軍事指導体制が確立された。

しかし1899年5月に頼みの綱であった川上操六が急死する。まさに日本は“飛車堕ち”の危機的状況に瀕した。その応急的措置として、長老の大山巌(1842年~1916年)が参謀総長に就任し、同次長には寺内正毅(てらうち まさたけ、1852年~1919年)が就任した。

ただし、参謀本部の実権は徐々に川上の申し子である田村へと移っていく。田村は1900年4月に陸軍少将に進級し、第1部長兼ねて参謀本部総務部長となり、その存在感を陸軍内にとどろかせていた。

一方、第一次桂内閣において陸軍大臣に留任した児玉は、1902年3月に陸軍大臣の職を解かれ、まもなくして内務大臣に転任した。 その陸軍大臣の後任には参謀本部次長の寺内が就任した。これにより、1902年4月、田村が寺内の後任として参謀本部次長に就任した。つまり、ロシアに対する軍事作戦の責任が田村に任されたのである。

田村自身は、大山総参謀長と同じく日露開戦には慎重であったが、ロシアとの戦争を想定して戦略・戦術を練った。これが、まもなく生起する日露戦争において功を奏したことはいうまでもない。 しかし、その田村も川上と同様に過労のため、日露戦争開戦の前年の1903年10月に死去してしまうのであった。享年50歳であった。なお、田村は同日に陸軍中将に進級した。

川上、田村という陸軍の英傑を相次いで失ったわが軍の憔悴振りは、いかばかりであったろうか? この“火中の栗”を拾うとばかりに立ち上がったのが児玉である。児玉は内務大臣から二階級降格(親任官から勅任官の下の奏任官)の形で(ただし、親任官の台湾総督を兼任したままであったので実質的な降格ではなかった)して参謀本部次長に就任した。

田村と違って児玉は日露開戦の積極派である。当時、田村と海軍の山本権兵衛はそりが合わなかったが、児玉が参謀本部次長に就任したことで、陸・海において協同の気風が生まれ、日露開戦へと一歩近づくことになる。 日露戦争の開戦の直後の1904年2月11日、陸軍参謀本部のほぼそのままの陣営を維持して、戦時大本営が設置された。大本営参謀総長には参謀総長の大山(元帥)、同次長には児玉(大将)が就任した。

一方、現地の作戦指揮を一元的に行うことを狙いに1904年6月に満州軍総司令部が設置された。その総司令官には参謀総長であった大山があてられ、満州軍総参謀長には児玉が就任した。 そして、高級参謀として作戦を司る第1課の課長に松川敏胤(参謀本部第1部長、歩兵大佐)、同主任に田中義一(歩兵少佐、のちの総理大臣)、情報を司る第2課の課長に福島安正(同第2部長、少将)、後方を担当する第3課の課長に井口省吾(同総務部長、少将)が就任した。

また、大山及び児玉の満州軍への派遣により、大本営総参謀長には山県有朋(1838年~1922年)、同次長には新たに長岡外史(1858年~1933年)が就任した。

わが国は「6分4分」の勝負を戦略とする

事前に「勝利は間違いなし」と判断した日清戦争とは異なり、日露戦争では明治天皇は戦争決断に際して落涙されたと伝えられている。当時のロシアは、日本の約10倍の国家予算と軍事力を誇り、国際の見方はロシアの圧倒的な有利であった。

相澤邦衛『「クラウゼヴィッツの戦争論」と日露戦争の勝利』では、次のように述べている。 「日露戦争当時のわが国の指導者は、ロシアと日本との国力差を認識し、完全勝利はできないし、長期戦になれば、日本に勝ち目がないと判断していた。 そこで、ロシア軍の情勢を分析するなかで、開戦時期を「シベリア鉄道が完全に完成せず、欧州ロシアから送られてくる同国の満州派遣軍の主力が到着する以前とする」とした。

そして日本側の条件は、「武器弾薬の自前生産が可能な大阪砲兵工廠などの軍需工場の完成、八幡製鉄所等工業力の充実、袁世凱の協力を得ての豊富な資源を埋蔵する満州からの石炭の調達、など戦闘準備を終えてから日本軍は一挙に大軍を韓半島・満州へ兵力を送るべく、戦場予定地への動員体制をとっていく。

そして満州において日本軍が優勢な内に、宣戦布告と同時に緒戦において一気に満州在住のロシア軍を撃破しておく」という練りに練った作戦構想を立てた。」 つまりわが国は、敵の準備未完の好機を捕捉し、ロシア側を上回る大軍を要事要点に集中して緒戦において勝利する。

これにより、国際世論において日本の地位を高めて、戦争遂行に必要な外債募集を容易にすることを狙ったのである。 児玉源太郎・満州軍総参謀長の腹積もりは短期決戦、すなわち「6分4分」の勝負に持ち込むというものであった。そこで児玉は、開戦と同時に盟友の杉山茂丸や中島久万吉(桂太郎首相秘書官)に終戦工作を依頼した。 奉天会戦の勝利後は、児玉は元老や閣僚たちに対して終戦を説いて回った。

戦略的インテリジェンスの勝利

開戦とともにわが陸軍は連戦連勝して北進し、1905年3月には奉天会戦で大勝利を得た。しかしながら、大局的にみれば、ロシア軍は外国領内を約300キロ後退させたにすぎず、軍そのものも致命的な打撃は受けていない。

1905年5月27日の日本海海戦の完勝により、わが海軍は見事に大挙来攻するバルチック艦隊の進撃を粉砕して、ロシアの戦意を挫折させた。しかし、進んでその首都を占領するまでの力はわが国にはなかった。

つまり、わが国はロシア領土内に一寸も侵攻しておらず、米国による和解仲介によってやっとのことで辛勝したのである。 そのため、戦争の緒戦に勝利して有利な体制で終戦に持ち込む、それが、わが国の国家戦略であった。ここには「戦わずして勝つ」「計量的思考」「速戦即決」を信条とする「孫子兵法」が縦横無尽に応用されたとみるべきであろう。

それにもまして、こうした戦略を可能にならしめたのが的確な情勢判断であった。当時の指導者はロシアを取り巻く国際情勢を知悉し、「世界列強は日露両国のいずれが勝ちすぎても、負けすぎても困る」という事情を的確に判断していた(大橋武夫『統帥綱領』)。

的確な情勢判断を支える唯一無比なものが戦略的インテリジェンスである。わが国は、そのインテリジェンス能力を過分なく発揮し、英国との同盟をよく維持し、米国を和解仲介へと引き摺り込んだのであった。

金子賢太郎の終戦工作

金子堅太郎
1853~1942

政治と軍事の連携という点では、金子堅太郎(かねこ けんたろう、1853年~1942年)の活躍が特筆される。 金子は明治の官僚・政治家である。彼は1871年、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、のちの三井財閥の総帥となる團琢磨(だんたくま,1858~1932)とともに米国に留学した。彼が18歳の時のことである。

1878年9月、金子は25歳で帰国する。その後まもなくして、内閣総理大臣・伊藤博文の秘書官として、伊東巳代治(いとうみよじ,1857~1934年)、井上毅(いのうえこわし,1844~1895)らとともに大日本帝国憲法の起草に尽力した。

彼は伊藤博文から厚く信頼され、第2次伊藤内閣の農商務次官、第3次伊藤内閣の農商務大臣、第4次伊藤内閣の司法大臣を歴任した。 また教育者でもあり、日本法律学校(現・日本大学)の初代校長を歴任した。

金子は米国に留学して、はじめはボストンの小学校に入学するが、飛び級で中学に進学し、最終的にハーバー大学で法学士の学位を受領した。 ハーバードにおける修学では、のちの外務大臣となる小村壽太郎(1855~1911)と同宿し勉学に励んだ。

またハーバード大学における修学が縁で、日露戦争時の米大統領となるセオドア・ルーズベルト(1858~1919)の知己を得ることができた。 ルーズベルトも同大学の卒業生であり、のちに彼が弁護士となり日本を訪れた時に二人は知り合い、金子が議会制度調査のために再び渡米するなどして、両者は厚く親交を結ぶようになった。

上述のようにわが国の戦略は、「緒戦勝利、早期終戦」であったため、第3国に終戦工作をおこなわせることが課題であった。その命運を枢密院議長の伊藤博文によって託されたのが、ルーズベルト大統領にもっとも親しい日本人であった金子であった。

金子は、伊藤の説得を受けて日露戦争勃発の直後に単独で渡米した。彼は日露戦争終結後のポーツマス講和会議(1905年8月)が終了する1905年10月までずっと米国に滞在して、ルーズベルト大統領に常に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく親日世論工作を展開した。 ポーツマス会議においては、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求めて講和の成立に貢献した。

金子の米国における大活躍

この時の金子の活躍振りは、前坂俊之著『明治三七年のインテリジェンス外交』(祥伝社新書))に詳述されている。 そのなかからいくつかのエピソードを拾ってみたい。

・日露戦争の開戦を決定した御前会議を終えた伊藤博文は、官邸に帰ると、すぐ電語で腹心の金子堅太郎(前農商務大臣、貴族院議員)を呼んだ。  伊藤は「ついに開戦が決まった。戦争は何年続くかわからない。私も鉄砲かついでロシア兵と戦う覚悟だ。君は直ちにアメリカにとび、親友のルーズベルト大統領に和平調停に乗り出すよう説得してもらいたい」と告げた。

・密命を帯びた金子は(1904年)3月26日、ホワイトハウスに大領を訪ねた。数十人の客が待っていたが、大統領は自ら廊下を走って出てきて「君はなぜもっと早く来なかったか。僕は待っていたのに」と肩を抱きあって大喜びし、執務室へ招き入れた。 開口一番、「今回の戦争で米国民は日本に対して満腔の同情を寄せている。軍事力を比較研究した結果、必ず日本が勝つ」と断言したのには金子の方が驚いた。

・金子はルーズベルト大統領、ハーバード人脈をフルに活用して、全米各地を回って世論工作、外債募集にと獅子奮迅の活躍が見せた。ルーズベルト大統領も「日本の最良の友!」として努力することを金子に約束した。

・全米での日露戦争への関心は高く、金子は政治家、財界人、弁護士、大学人らのパーティーなどに引っ張りだこで、講演依頼が殺到する。英語スピーチの達人の金子は大聴衆を前に日本軍の強さ、武士道精神を説明して感銘をあたえ、日本びいきを増やしていった。

・〝勝った、勝った〝の日露戦争も38年3月10日、奉天での勝利までが限界。弾薬も尽き果てて、兵隊も金もなく、戦争継続はもはや困難な状況となった。一方、ロシアは強大な兵力、武器を温存、これ以上戦えば日本はひとたまりもない。 参謀総長・山県有朋は絶体絶命のピンチを桂首相へ報告し、ル大統領の和平調停の望みを託した。大統領はここぞと腰を上げて仲介、ポーツマス会議となった。仲介役の大統領は「日本の弁護士のようだ」といわれるほど交渉の秘密文書も金子に自由に見せるなど逐一情報をいれて、交渉決裂寸前に「条件に金銭を要求せず、名誉を重んずる」講和条件で、何とか平和にこぎつけた。

金子の思想的背景に武士道精神あり

実際、日露戦争末期、日本の国家財政は軍事費の圧迫により破綻寸前であった。日露戦争には19億円の戦費を費やしたが、これは当時の国家予算の約3倍にも上った。 日本兵の死傷者数も甚大であった。とくに陸軍では士官クラスがほとんど戦死するという壮絶な状況まで追い込まれていた。とても組織的な戦闘継続は不可能に近い状態となっていた。  

金子は終戦工作を成功裏に収めることができたのは、彼が米国留学の経験から米国民の国民性をよく理解していたことや、彼の英語能力と弁術の優秀さがあげられる。 それにもまして、武士道精神を体現した金子の言動が多くの米国人の信頼を得たのである。

ルーズベルト大統領は「日本人の精神がわかる本を教えてほしい」と依頼し、金子は新渡戸稲造の『武士道』の英訳本を贈った。 大統領はこれを読んで感激し、30冊を購入して知人に配布し、5人の子供にも熟読するように指示するなど、一層、日本びいきになった、という。(前述、前坂『明治三七年のインテリジェンス外交』)

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(7-最終回)▼

情報組織を運用するには経費を惜しむな

 『孫子』は戦いには金を惜しんではならないと次のように説いている。

「およそ師を興すこと十万、師を出すこと千里なれば、百姓の費、公家の奉、日に千金を費やし、内外騒動して事を操(と)るを得ざる者、七十万家。相い守ること数年にして、以て一日の勝を争う。而るに爵禄百金を愛(おし)んで敵の情を知らざる者は不人 の至りなり。……故に明主・賢将の動きにて人に勝ち、成功の衆に出づる所以の者は先知 なり。先知は鬼神に取るべからず。事にかたどるべからず。度に験(もと)むべからず。必ず人に取りて、敵の情を知る者なり。

これを訳すると以下のとおりとなる。

戦争には莫大な国家予算がかかり、国民に犠牲を強いる非常事態を数年間も続けることになるが、勝敗は一日の決戦で決まる。こうした費用を出し惜しみせずして、初めて七十万の軍隊を動かすことができる。

情報を取るためのスパイの活用にお金を惜しむことは、戦いに負けて結果的に民衆を苦しめることなる。 それなのに金を使うのを惜しんで、敵に関するインテリジェンスを得ようとしないのは、まったく愚かなる行為である。

ゆえに、聡明な君主や賢い将軍が兵を動かせば、敵に勝ち、成功を得ることで衆人よりも優れているのは、間者を利用して先に知るからである。先知は、祈祷や占などではなく、かならず人によってこそ、敵情を知ることができる。

諜報員をもっとも優遇せよ

また、『孫子』は「故に三軍の事、間より親しきは莫(な)し賞は間より厚きは莫(な)し、事は間より密なるはなし」(用間編)と述べている。

これは、だから、君主や将軍は、全軍の中でも間者(スパイ)を最も親愛し、恩賞は間者に最も厚くし、仕事上の秘密は間者にもっとも厳しく守らせる、という意味である。

戦国武将の織田信長は諜報・謀略を重視した。彼の名を世に知らしめたのは、なんといっても今川義元との桶狭間の戦いにおける大勝利である。

この戦いでは、信長は、なかなか義元の現在地が掴めなかった。そこに、梁田政綱(やなだまさつな)から「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」との情報を越した。これにより、信長は義元を奇襲により討つことに成功した。

信長は、功名第一は梁田、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。まさに信長は『孫子』を実践したのである。

インテリジェンスは金がかかる

諸外国は情報機関の運用に膨大な費用を掛けている。米国の国家情報機関の予算は500億ドル以上(5兆円以上)。現在のわが国の国家情報機関の費用に関する具体的な情報は不明であるが、おそらく米国とは比べようもない。

情報機関の運用には不透明性がつき物であり、使途不明金もある。エージェントの運用資金などの詳細を明らかにすることはできない。使途不明金は許されないからとして、インテリジェンスにかかる経費が切り詰められれば、「爵禄百金を愛(ほし)んで、敵の情を知らざる者は不人の至りなり」ということになりかねない。まずは国家指導者には「インテリジェンスには金がかかる」ことを認識していただきたい。  

旧軍においては明石元二郎大佐の工作活動に百万円の国家予算を充当して、自由に使わせた。明石大佐は地下組織のボスであるコンヤ・シリヤクスなどと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献しようとした。

当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額であった。明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。

翻って、今日はわが国はどうだろうか? 十分に情報活動に経費を配当しているだろうか?情報活動に経費を配当し、情報要員を重視しているだろうか?

昭和期の日本軍において作戦重視、情報軽視の風潮が蔓延していたという。現在の自衛隊においてもしかりである。このことを深く認識しているようには思われない。

さいごに 

『孫子』が最も強調する点は「勝算もないのに戦うな」ということ、すなわち「戦わずして勝つ」ことである。このための不可欠な要素がインテリジェンスである。

インテリジェンスの役割は無用な争い回避する、あるいは「戦わずして勝つ」ことに寄与すること。つまり、相手国の意図、彼我の能力、環境条件などを把握し、外交によって相手国の譲歩を引き出すための条件を作為することである。

歴史に「仮に」ということはタブーであるが、先の大戦では旧軍が『孫子』を忠実に守り、インテリジェンスを軽視しなければ、敗戦を回避できたかもしれない。すなわち「五事七計」に基づいて、彼我の戦力分析を行えば、無用な戦争はしなかったかもしれない。

日清・日露戦争における勝利以後、わが国では攻勢・攻撃精神が強調され、インテリジェンス軽視という風潮が生起した。日清・日露戦争後の1907年の『国防方針』『用兵綱領』では「攻勢を本領」と確定し、かつ、1909年の『歩兵操典』においても攻撃精神が強調された。

こうした風潮のなかで『孫子』の解釈にも変化が生じたとして、大阪大学・大学院教授・湯浅邦弘氏は以下のように述べる。

「昭和初期から『孫子』を超えた『孫子』解釈が進められ、軍国日本が『孫子』に決別を告げた。……徹底した合理主義に貫かれた『孫子』を曲解し、誤読し、また無視しつつ、精神主義偏重の気風の中で『孫子』の名だけが担がれた。……『孫子』の「君命も受けざるところあり」(九変)が綱領や操典が記す独断専行の肯定に使われ、現実の旧軍の行動に則さない『孫子』の条文は部分否定された」と(湯浅『軍国日本と「孫子」』)。

さらに湯浅氏は、『昭和天皇独自録』から、昭和天皇の戦争分析、「大東亜戦争の遠因」の第一に「兵法の研究が不十分であった事、即(すなわち)、孫子の敵を知り、己を知らねば、百戦危(あや)うからずという根本原理を体得していなかったこと」をあげている。

兵法はその時代、時代に応じた解釈があってしかりであり、また実情に則して応用する必要がある。兵法をビジネスの世界に生かすことも大いに結構であろう。

しかし、必要なことは『孫子』の最大の本質は何かということである。すなわち、本質は「戦わずして勝つ」、次いで「勝ち易きに勝つ」ということであり、そのためにインテリジェンスを重視せよ、インテリジェンスにかかる経費を惜しむなということなのである。インテリジェンスを志す有為な諸氏には、是非このことを肝に銘じてほしい。

以上、『孫子』から、インテリジェンス関連の記述を抜粋しつつ、若干の解説を加えておいた。皆様におかれては、これ以外にも『孫子』からインテリジェンスに関する多くの知見を得ることができると思う。(了)

中国の統一戦線工作(2)

はじめに

今回は中国による統一戦線工作に基づく対日工作の歴史を語ります。なお、全体像を理解する上では、拙著『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』をお読みいただければと思います。

中国の今日の国家戦略・戦術を理解するためには、最低限、中国共産党の歴史については押さえておくことが必要であると、筆者は考えます。

▼統一戦線はソ連共産党の基本理念 

1917年11月、ホルシェビキは武力蜂起によって、権力を奪取しました(十月革命、この11月7日が、ロシア革命記念日)。 同日には最初のソビエト大会が開催され、政府である人民委員会議が成立、その議長(首相)にはウラジーミル・レーニン、外務人民委員にはレフ・トロツキー、民族問題人民委員にヨシフ・スターリンが就任します。

ソビエト政権はモスクワ近郊を制圧し、11月10日には左派社会革命党を政権に取り込みます。ここに統一戦線戦術の萌芽がみられます。そして、ボリシェヴィキは1919年に「共産党」に改称します。

1919年3月には、国際的な共産主義運動を指導する共産主義インターナショナル。コミンテルンが結成されます。これが、世界革命を指導する機関として動くことになります。   1921年のコミンテルン第3回大会において統一戦線が論議され、1922年の第4回で統一戦線が方針化します。

しかし、その後の革命輸出における進展は思わしくなく、やがて「世界革命近し」という情勢認識から、革命情勢の成熟には長い時間が必要だとの認識に変化します。そして1935年7月から8月にかけての第7回大会で、コミンテルンは「反ファシズム人民統一戦線を結成すべきである」という方針を打ち出しました。

つまり、ドイツにおけるナチスなどのファシズム(全体主義)の台頭とアジアにおける日本軍国主義による中国侵略に対し、共産党が単独で対決するのではなく、社会党や社会民主党、自由主義者、知識人、宗教家などあらゆる勢力と協力せよ、命じたのです。

この方針にもとづいて、フランスやスペインに人民戦線が結成されます。またアジアでは、中国共産党がこの路線に基づき、1935年8月の長征途中「抗日救国のため全国同胞に告げる書」という『八一宣言』を発表しました。これは、抗日民族統一戦線の結成を国民党などに呼びかけたものです。

このコミンテルンの動きを警戒した日本とドイツは1936年11月に日独防共協定を締結します。すなわち戦前のわが国は、統一戦線を明確な脅威と認識したのです。

▼中国共産党の統一戦線の歴史

1921年に産声を上げた中国共産党は、吹けば飛ぶような、ちっぽけな存在でした。だから、中国共産党は国民党に対して浸透工作をはかり、その内部を分裂させ、同調する者をシンパとして取り込むことで生存を維持するしかありません。

上述のように、コミンテルンの方針にもとづいて中国共産党1935年8月に八・一宣言を出し、抗日民族統一戦線の結成を国民党などに呼びかけます。 この方針が具体化されたのが1936年12月の西安事件です。中国共産党はこの事件を契機に、内戦停止と一致抗日で国民党と合意(第二次国共合作)しました。つまり、当面の主敵である日本軍を崩壊させるために国民党を友として結集したのです。

この一致抗日によって統一戦線に基づく対日工作が本格化します。1938年11月、毛沢東は「中国人、日本人、朝鮮、台湾人の統一戦線を設立し、日本軍国主義に対する共通の闘争を行う」との方針を決議します。

この方針が八露軍総政治部隷下の敵軍工作部に伝えられ、同工作部は日本兵捕虜を友人として扱い、自ら反戦陣営に転向させるよう画策しました。 日本軍捕虜扱いの基本方針は「日本兵は虐げられた大衆の子弟であり、日本の軍閥や財閥に騙され、強制されて我々に銃を向けているのである。したがって、いかなる殺傷ないし侮辱を行ってはならず、人道的に扱う」というものでした。

こうして人道的に扱われた捕虜のなかから自発的に反日組織が各地に続々誕生しました。これは、「少数の軍国主義と大多数の日本人民を区別せよ」とする「二分法」という戦術であり、「統一戦線」理論にもとづくものでありました。

以上をまとめますと、共産党が生存・発展していくなかでは周恩来らがソ連共産党の対外機関であるコミンテルンから学んだ統一戦線の実践がありました。それは政権を奪取する過程において巨大敵を駆逐・崩壊させるため、我が方の味方を固める、自己にとっての主敵をまず孤立・分立させて主敵から分離した者を友として広範囲に結集しようとするものです。

コミンテルンの戦術を、毛沢東が中国の実情を踏まえ、より洗練化したのが中国共産党の統一戦線工作だといえます。

▼統一戦線を支えた宣伝工作と「田中上奏文」

「統一戦線」を進めるための戦術となったのが宣伝工作です。中国共産党が国民党や地方軍閥に勝利するためには、あらゆる地位、階級、党派の区別なく「統一戦線」を結成する必要がありました。 そのため全民族の結集力を高めるための宣伝工作が重視されました。毛沢東は「全て政権を覆す者は、世論をつくり、イデオロギー面での工作を行わなければならない」と、その重要性を強調しています。

中国共産党による宣伝工作で無視できないのが、田中上奏文(たなかじょうそうぶん)です。これは昭和初期に米国で発表され、中国を中心として流布した怪文書です。 これは、第26代内閣総理大臣・田中義一が1927(昭和2年)に昭和天皇へ極秘に行った上奏文であるとされ、そこには中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙を征服する手順が説明されています。

日本では偽書とされ、当時中国で流布していることに対して中国政府に抗議したところ、中国政府は機関紙で真実の文書ではないと報じました。しかし、その後の日中関係悪化にともない1930年代に、中国は 「田中上奏文」たるもの利用して「日本は満州侵略を企図し、世界征服を計画している」との反日宣伝工作を展開しました。

この反日宣伝を展開したのが国民党中央宣伝部です。しかし、実はこれを背後で利用・画策していたのが中国共産党であるとの説が強いのです。 前述の1938年の『八一宣言』のなかで「田中上奏文によって予定された、完全に我が国を滅亡しようという悪辣な計画は、まさに着々と実行されつつある」との国際宣伝に打って出ました。

この対日宣伝工作では郭沫若が重要な役割を演じました。郭は日本に留学していましたが、1937年に日中戦争が始まると中国に緊急帰国し、南京大虐殺を世に知らしめたティンパーリ著『戦争とは何か』の中国版の序文を書きました。文化人で著名な郭が序文を書いたことで、同著は北米における反日世論の形成に大いに貢献しました。

郭の緊急帰国に際しては駐日中国大使館参事官の王梵生が協力しました。王は国民党系列に属する「国際問題研究所」の所長として対日工作を仕切っていたのですが、なんと、彼は隠れ共産党員であったとされています。これが、背後で中国共産党が国際反日宣伝を展開していた、との説を裏付けているようです。 

▼日本に対する統一戦線工作

中国共産党による対日工作は、コミンテルンの弟弟子である日本共産党と連携しておこなわれました。その中心人物が日本共産党の野坂参三です。 野坂は1940年3月にモスクワから延安に移転し、そこで毛沢東と合流しました。

同年7月、野坂は中国共産党の支援を受けて「日本人民反戦同盟」の延安支部を結成し、これを起点に1944年4月には日本人による初の反戦組織である「日本人民解放連盟」を結成しました。同連盟は兵士向けの反戦宣伝ビラの作成・配布、心理戦の研究・教育などをおこないました。

中国共産党による反日宣伝工作は敵軍工作部によって行われました。敵軍工作部は、日本軍の切り崩しのための宣伝工作が執拗 におこないました。 敵軍工作部は、活字が読めない一般大衆や、中国共産党報道機関の活動を厳しく弾圧する日本軍占領地域に対してラジオ放送を重視しました。

そのため、1941年12月30日、中国共産党は延安新華広播電台を設立しました。これが、反日宣伝のための重要な拠点となりました。 ここでは野坂らの指導を受けた日本人女性などが雇用され、日本語で反戦を促す抗日反戦宣伝放送が行なわれたのです。

▼戦後における国際統一戦線の展開

日本軍降伏後は再び国民党を敵にし、広範囲に反蒋介石の「統一戦線」を結成し、国民党に勝利しました。 いわば主敵を潰すためならば、協力できるものならば誰とでも共闘するという戦略・戦術なのです。

このような発想が建国後の中国の外交政策に活用されました。これが「統一戦線」の国際版である「国際統一戦線」です。中国はまず「向ソ一辺倒」政策を打ち出し、ソ連を「友」とし、米国を最大の「敵」としました。

毛沢東はアジア、アフリカ、南米を米帝国主義と社会主義陣営の中間に位置する「中間地帯」に分類し、これに対する「統一戦線」を展開しました。つまり「中間地帯」に対して共産主義革命を輸出し、同地帯において「中国の友」を作ることで、米ソによる中国侵攻を阻止する緩衝地帯にしようとしたのです。

▼日本に対する革命輸出

日本も「中間地帯」に位置づけられました。1950~60年代、中国共産党は日本共産党、日本社会党などの親中政党を「友」とし、日本における共産主義革命を推進するための工作活動を展開したのです。

その革命輸出のための当初の担い手となったのが野坂です。野坂は1946年に帰国しますが、「統一戦線」理論を日本に持ち帰りました。 そして、日本社会党などと党派を超えた民主戦線の樹立を画策しました。つまり、これが、現在の日本共産党が行っている民主連合政府の樹立に向けた、統一戦線戦術の淵源なのです。

野坂による統一戦線の効果が表れ、1949年2月の総選挙では日本共産党は35名の議席を獲得しました。野坂が延安で学んだ「統一戦線」の教訓が生かされたのです。 これに自信を深めた野坂は、平和革命路線を強調しました。

しかし、当時、各国共産党を指導していたコミンフォルム(1943年に解体されたコミンテルンの後継)は1950年1月、『恒久平和と人民民主主義のために』という機関誌で、野坂の平和革命路線を痛烈に批判します。

これに対して日本共産党は、「コミンフォルムの批判は、日本の実情を考慮していない」として反発したが、中国共産党も『人民日報』の社説「日本人民解放の道」においてコミンフォルムを支持しました。

結局、日本はコミンフォルム批判を全面的に受け入れ、野坂は自己批判します。 かくして日本共産党はコミンフォルムの指示に基づき、米国の占領政策に対する全面的な非合法武装革命闘争を行なうことになったのです。 

▼現在も継続される対日統一戦線工作

現在、中国共産党の直属機構として中央統一戦線工作部があります。これは中国共産党と党外各民主党派との連携を担当する機構であると謳われています。その任務は、人民政治協商会議の運営、民主諸党派に対する指導など、国内や海外の民衆党派と連携して、宗教対策や華僑対策を行うものとされます。 

これだけ読むと、実にソフトイメージです。 しかしながら、民主諸党派とは、実際には中国共産党に協力する傀儡政党であり、一党独裁との批判を回避するための存在にしか過ぎません。

また、統一戦線工作部には諜報・工作部門としての役割があります。これまで香港の返還や新疆ウィグルの中国化さらには台湾統一などの工作を行ってきたことが判明しています。つまり、「戦わずして勝つ」式の中国領土の拡張や、少数民族地域における中国化を推し進めてきたのです。

まだ、皆様の記憶に新しいと思いますが、2015年7月、わが国の国会では安保関連法が可決されました。

これに対して、中国は国営『新華社通信』で、同法案が憲法違反などと指摘しました。 さらに「多くの日本人と良識ある知識人は苦い過去と同じ轍を踏みたくなく、日本政府の軍事政策の動向に強い警戒化を持っている」「日本軍国主義の侵略戦争は中国や他のアジアの国々に深刻な災難をもたらした。軍国主義化のなかで、多くの日本人が騙され戦争の犠牲者となった」などとコメントしました。(拙著『中国戦略悪の教科書』より抜粋)

これは、毛沢東時代の二分法を現在も適用していることの証左です。統一戦線が中国共産党の歴史的かつ伝統的に重みのある戦術であることがよくわかります。

(次回に続く)

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(6)

防諜の重要性

カウンター・インテリジェンスは対情報などと翻訳されるが、いまだわが国には定着していない。しかし、旧軍では防諜という用語があり、これがカウンターインテリジェンスの実態とほぼ同様なので、以下、防諜と呼ぶことにする。

防諜は相手国の情報機関による情報活動や各種工作から我の情報機関の要員や情報活動を防護するため、非公然な活動も含む組織的かつ積極的な活動である。旧軍における防諜は、諜報、宣伝、謀略とともに秘密戦を成していた。そして、防諜には消極防諜と積極防諜があり、消極防諜が前回(5)で言及した情報保全として理解していただければ、ほぼ問題はない。

第十三編「用間」では反間(二重スパイ)を最も重視せよといっている。 なぜならば、すでに述べたとおり五間の情報源の糸口は必ず反間によって得られるからである。 しかし、反間を最大限に優遇しなければならないもっと大きな理由は、反間がカウンターインテリジェン、すなわち防諜の最大の武器だからある。

アレン・ダレスは「二重スパイは防諜の最も特徴的な道具である」と述べている。 相手国の情報機関から、水面下での諜報や秘密工作を受けている場合、我が組織を防護するためには受動・防勢的な情報保全だけでは不十分である。相手国スパイが所属している情報機関の組織、活動方法及び活動目標を能動的に解明し、相手国の情報組織を破砕する必要がある。つまり、能動的な対抗策、すなわち防諜が必要となる。

諸外国はいずれも防諜を重視し、そのための専門組織を持っている。いくら対外情報収集機能が優れていても、相手側のカウンターインテリジェンス機能が強力な場合、我の情報活動は成果を挙げられない。相手国の組織にスパイを潜入させても、防諜機関によってスパイ網が解明、摘発され、逆に偽情報によって我が組織は壊滅的打撃を被ることになるからである。

相手国が隠密裏に浸透させるスパイ網を摘発する基本は、わが組織に浸透した敵側のスパイを寝返らせ、わが組織にひっそりと蔓延するスパイ網の存在を暴露させることが基本である。すなわち、『孫子』のいう反間の運用がもっとも有用なのである。

ところで、不穏なスパイに遭遇した場合、故意か過失は問わず、インテリジェンスを漏洩したものに対してどのように遇すればよいのだろうか? 

これに関して、「用間」では「間事未だ発せざるに而も先ず聞こゆれば、其の間者と告ぐる所の者と、皆な死す」と説く。つまり、スパイを運用する諜報・謀略活動が、未だ外部に発覚するはずのない段階で、他の経路から耳に入ってきた場合に、そのスパイとインテリジェンスを伝達してきた者は死刑にすると述べているのである。この厳しい防諜体制があってこそ、組織が守ることができるのである。

先の「海軍乙事件」では、事情聴取後、福留参謀長がフィリピンの第二航空艦隊長官へ、山本中佐も連合艦隊主席参謀に栄転した。なお、この人事措置には、海軍が秘密漏洩の事実がなかったことを公式に表明する意味もあったとみられている。 『孫子』と対比するならば、当時の日本軍の寄り合い主義と情報管理の甘さは大いに責められるべきであろう。太平洋戦争敗因の大きな原因として、末長く後世の記憶に留めておく必要があるといえよう。

反間のさらなる活用が秘密工作(謀略)

秘密工作を情報活動の範疇に含めるべきではないという議論はある。しかし、それは無理なことである。秘密工作は情報機関による活動がエスカレートする過程で生まれてきたものだ。 

また秘密工作は非公然、水面下で行われるのが原則だから公式の政府機関や軍事機関は使えない。したがって、CIAやKGBの例をあげるまでもなく、各国においては情報機関がしばしば秘密工作を担ってきた。伝説の元CIA長官のアレン・ダレスは、「陰謀的秘密工作をやるには情報機関が最も理想的である」と述べている。(アレン・ダレス『諜報の技術』)

つまり、情報組織から秘密工作という活動を除外することは不可能である。

史上最大の欺瞞工作

陰謀的秘密工作の醍醐味は敵をまんまんと欺くことである。つまり、敵に誤判断や錯誤をもたらし、『孫子』がいうところの「戦わずして勝つ」「勝ち易きにして勝つ」ということである。

この欺瞞工作を最も得意としていたのが第二次世界大戦時のイギリスの首相、ウィストン・チャーチル(一八七四~一九六五)である。彼がおこなった欺瞞工作でもっとも有名なのが「ミンスミート作戦」(挽肉作戦の意味)である。

この作戦は、連合軍の真の上陸目標であるシチリア島からドイツ軍の関心を逸らすために、正体不明の死体をイギリス軍将校に偽装し、彼が不測の事故に遭遇したという体裁をとった。つまり、イギリス軍将校が重要な機密書類を携行して運ぶ途中に航空機事故にあったように見せかけたのである。

もちろん、この機密書類はまったくの偽物で、ドイツ軍の関心をシチリアからバルカン半島に向けさせるよう緻密に偽装した作戦計画であった。イギリスはこの死体を、偶然にドイツ軍が入手するように、スペインのウェルバ沖の海岸から放棄した。それにドイツ側がマンマとひっかり、防御正面の重点を誤ったのである。

さらにおおがかりな欺瞞工作の成功事例が「ダブルクロス作戦」である。この作戦を取り仕切ったのは「二〇委員会」という組織である。二〇をローマ数字にすれば、XXとなる。すなわちダブルクロスである。 この作戦は、ドイツ軍のスパイを二重スパイとして活用する、ドイツ軍の暗号を解読するなどして、ドイツ軍が連合国の計画を誤って解釈するよう仕組むものであった。

ダブルクロス作戦の最大の成果とされるのが、ノルマンディー上陸作戦(一九四四年六月)である。この作戦は簡単に言えば、ドイツ側に対し、連合国の上陸正面がノルマンディー海岸(ポーツマス対岸)ではなく、カレー海岸(ドーバーの対岸)であるかのように錯誤させるための欺瞞工作である。そのため、上陸部隊による陽動作戦のほか、ドイツ側から寝返った二重スパイによって、「本格的な攻撃はカレー正面に対して行われる」との偽情報をドイツ軍上層部に流し続けたのである。

大掛かりなダプロクロス作戦が最後まで気づかれなかったのは、イギリスがひそかに実施していた、ドイツ暗号の解読(「ウルトラ」作戦)の成果による。 イギリスはドイツ暗号を解読している事実を秘匿するために、決定的な影響を及ぼさないレベルでの作戦上のミスを意図的に行った。

また、二重スパイを介して、差し障りのない真実の情報をドイツ側に与え、スパイが寝返ったことを秘匿した。そして、ここぞとばかりに〝乾坤一擲〟の欺瞞工作に打って出たのである。

一方でイギリスは、二重スパイに転向することを承諾しない者は容赦なく処刑した。このようにイギリス側の欺瞞工作は、諜報、防諜と一体になって行われるということを物語っているのである。 なお、第二次世界大戦時におけるイギリス軍の欺瞞工作については、吉田一彦『騙し合いの戦争史 スパイから暗号解読まで』において詳述されている。

インテリジェンスとは、対象国の意図や能力を明らかにすることだと思っている傾向が強い。それは重要なことであるが、一部である。 とくに塀のなかの情報分析官は、学者や研究者のように対象国のオシントを中心に、卓越した語学力を駆使して、対象国の意図を解明したがる傾向にある。いや、解明した気になる。

しかし、歴史は、多くの情報分析が不可視的な意図を分析して失敗し、そり失敗の原因の大きな要因が相手側の欺瞞であっことはわかっている。 塀のなかにいる情報分析官も、世の中がスパイ活動によって欺瞞工作を受けていることを理解すべきである。でなければ、偽情報に踊らされて、誤った分析することになる。

わが国が対米決戦を決めた、ハルノートの作成にはソ連の影がちらさていた。これにかかわる研究も進んでいる。当時のルーズベルト政権にはソ連のスパイ網が深く浸透していた。こうした歴史をもっと知る必要がある。自分で真実を研究する必要はないが知っておくことは大切である。

インテリジェンスのなかには敵を知る、己を知る、環境を知る、そして活動には知る、守る、知らせる(ミスリードさせる)さらには、通常の外交活動では対処できない水面下での問題解決を指向する活動まであることを忘れるべきではない。 

中国の統一戦線工作(1)

はじめに

先日、中国の「『統一戦線工作』が浮き彫りに」という米国からの記事(「古森義久のアメリカノート」、産経新聞、平成30年9月23日付)が掲載されました。 この記事は現在の米中戦争の深淵をとらえたものだと感心しました。

実は筆者は、2016年に『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』を上梓しましたが、ここでもこの統一戦線工作をひとつのメインテーマとして取り上げています。なお、現在の統一戦線のやり口については、拙著『中国兵法悪の教科書』で取り上げています。

それら詳細については拙著お読みいただければ嬉しいのですが、実は『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』においては対日統一戦線工作の歴史についてはあまり言及していません。それには、理由があったのですが、ここでは触れません。

その前に、古森記者の秀逸の二つの記事を引用して、統一戦線工作とは何か、中国が仕掛けている統一戦線の実態とはいかなるものか、その概要を理解することとしましょう。 これを理解すれば、貿易戦争と呼ばれる米中戦争の実態がより浮彫になるでしょう。

▼古森義久氏の「あめりかノート」

以下は古森氏の記事の引用です。なお、段落分けは筆者が独自に行っていますので、ご了承下さい。

中国の「統一戦線工作」が浮き彫りに ワシントンではいま中国に関して「統一戦線」という用語が頻繁に語られる。中国共産党の「統一戦線工作部」という意味である。本来、共産党が主敵を倒すために第三の勢力に正体をも隠して浸透し連合組織を作ろうとする工作部門だった。

「習近平政権は米国の対中態度を変えようと統一戦線方式を取り始めました。多様な組織を使い、米国の官民に多方向から働きかけるのです」   米国政府の国務省や国家情報会議で長年、中国問題を担当してきたロバート・サター・ジョージワシントン大学教授が説明した。

そんな統一戦線方式とも呼べる中国側の対米工作の特定部分がワシントンの半官半民のシンクタンク「ウィルソン・センター」から9月上旬に学術研究の報告書として発表された。 米国全体の対中姿勢が激変したからこそ堂々と出たような内容だった。 「米国の主要大学は長年、中国政府工作員によって中国に関する教育や研究の自由を侵害され、学問の独立への深刻な脅威を受けてきた」 こんなショッキングな総括だった。

1年以上をかけたという調査はコロンビア、ジョージタウン、ハーバードなど全米25の主要大学を対象としていた。アジアや中国関連の学術部門の教職員約180人からの聞き取りが主体だった。結論は以下の要旨だった。

・中国政府の意を受けた在米中国外交官や留学生は事実上の工作員として米国の各大学に圧力をかけ、教科の内容などを変えさせてきた。 各大学での中国の人権弾圧、台湾、チベット自治区、新(しん)疆(きょう)ウイグル自治区などに関する講義や研究の内容に対してとくに圧力をかけてきた。

・その工作は抗議、威嚇、報復、懐柔など多様で、米側大学への中国との交流打ち切りや個々の学者への中国入国拒否などを武器として使う。  この報告の作成の中心となった若手の女性米国人学者、アナスタシャ・ロイドダムジャノビク氏はこうした工作の結果、米国の大学や学者が中国の反発を恐れて「自己検閲」をすることの危険をとくに強調していた。

こうした実態は実は前から知られてきた。だがそれが公式の調査報告として集大成されて発表されることが、これまでなら考えられなかったのだ。 いまの米国の対中態度の歴史的な変化の反映だといえよう。さて、わが日本でのこのあたりの実情はどうだろうか。(以上、ワシントン駐在客員特派員・古森義久氏の記事からの抜粋)

▼「アメリカを侵す中国 その1 統一戦線工作」

また、古森氏は「アメリカを侵す中国 その1 統一戦線工作」と題する記事において、10月4日のワシントンのハドソン研究所でのマイク・ペンス副大統領の重要演説を引用して、次のように述べています。

アメリカの対中国政策が歴史的な変化を画した。そのうねりのなかで、中国がアメリカに対して仕かけているさまざまな工作が明らかとなった。新時代を迎えた米中関係の実態を、主として中国によるアメリカの内外の権益や秩序への侵食という観点から報告しよう。

アメリカのマイク・ペンス副大統領はトランプ政権全体を代表して10月4日、ワシントンのハドソン研究所で重要演説をした。「アメリカ政府の中国に対する政策」とずばり題された演説だった。

同演説はこれまでのアメリカの歴代政権が関与政策の下に中国と協力し、中国が国際社会のよき一員となり、国内の経済も豊かにし、やがては共産主義独裁を薄めて民主主義や人権尊重という普遍的な価値観を受け入れていく、という期待を持ってきた経緯を説明していた。だが、ペンス副大統領はこの米側の政策が失敗だったと宣言したのだ。

副大統領はそして中国共産党政権が国内の独裁を強めながら「国家の全機能」をあげてアメリカに挑戦し、高度技術や知的財産を盗み、アメリカの国内政治にまで干渉してきたと非難した。

ペンス副大統領は中国の軍事面での侵略的、膨張的な動きとして南シナ海での拡張、尖閣諸島への攻勢、日本を含むアメリカのアジア太平洋での同盟諸国への威圧、台湾への威嚇をも糾弾した。中国は要するにアメリカをアジアから追い出し、自国の非民主的な価値観に基づく覇権を確立しようとしているというのだ。

だが同副大統領はアメリカはもう中国の軍事、経済、政治すべての領域での無法な覇権拡大は絶対に許さないと言明した。核戦力の強化を含むトランプ政権の軍事力増強によって中国の軍事がらみの膨張は阻止するとも明言するのだった。もはや「米中冷戦」という表現が陳腐に響くような二大強国の新たな衝突とさえいえる。

こうした変化を迎えたアメリカの首都ワシントンでは「ユナイテッド・フロント」という言葉がしきりに聞かれるようになった。政府や議会、あるいは民間で、とくに中国にかかわるアメリカ側の関係者たちが熱をこめて、この用語を使うのだ。 この言葉は英語では「United Front」、つまり「統一戦線」という意味である。本来は中国語の英語訳で、中国共産党中央委員会に直属する機関の「統一戦線工作部」の名称なのだ。

そんな中国共産党の組織の略称がなぜいまのワシントンで頻繁に提起されるのか。この点にこそトランプ政権下のアメリカが中国に対して前例のない強硬姿勢を固めたという実態が象徴される。同時に中国のアメリカに対する敵意に満ちた策謀が米側にとっても明らかになった、ともいえる。

トランプ政権は中国に対する政策をオバマ政権時代とは根本から変えて、中国の無法な膨張を力さえも使って抑えこむという厳しい態度をとるようになった。中国をアメリカの基本的な国益や価値観を侵す潜在敵に等しい存在だとみる認識が定着したのだ。

この中国敵視の態度はトランプ政権だけではない。連邦議会でも中国への激しい警戒や対決の気運が広まった。共和党、民主党の区別なく、トランプ政権の対中姿勢がまだソフトすぎるという声さえ出るほどである。

いまのアメリカのこうした中国に対する強固な対決姿勢は最近の日本での動きとは対照的である。日本では中国との関係に「友好」とか「蜜月」などという表現さえが使われるようになった。中国の「一帯一路」構想にすり寄る動きさえが出てきた。中国のみせかけの微笑に引き寄せられた観がある。

だがアメリカ側は正反対に中国への非難や圧力をかつてないほどに強めるようになったのだ。その結果の一つとして登場してきたのが「統一戦線」という用語なのである。

共産党委員長が統一戦線に言及

以上、古森記者の秀逸な記事を引用しましたが、以下は、統一戦線の実態について筆者なりに解釈していることを説明したいと思います。

実は、統一戦線という言葉はわが国においても決して馴染のない言葉ではありません。 まずは、日本共産党における統一戦線について言及します。

日本共産党が統一戦線を堅持していることを明言していることを認識するためには、2016年8月7日の 共産党創立94周年記念講演での志位和夫委員長による演説がもっと良い事例でしょう。

志位委員長は同講演において、2016年7月10日の参議院選挙での好結果に意気揚々として、『野党共闘』が日本共産党綱領に謳われている『統一戦線』だと明言してたのです。以下、関連個所を引用しましょう。

みなさん。今回の野党と市民の共闘は、日本共産党の歴史でも、日本の戦後政治史でも、文字通り初めての歴史的な第一歩であります。(拍手)  日本共産党は、1961年に綱領路線を確定して以降、一貫して統一戦線によって政治を変えることを、大方針にすえてきました。  

1960年代後半から70年代にかけて、日本共産党が国政選挙で躍進するもとで、統一戦線が発展しました。ただ、この時期の統一戦線は、主に地方政治――革新自治体に限られており、国政での統一戦線の合意は当時の社会党との間で最後まで交わされず、国政での選挙協力もごく限定的なものにとどまりました。  

ところが、今回の参議院選挙ではどうでしょう。安保法制=戦争法案反対をつうじて広がった新しい市民運動に背中を押され、わが党が昨年9月19日に発表した「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の「提案」が契機となって、全国32の1人区のすべてで野党統一候補が実現し、11選挙区で勝利をかちとるという、全国規模での統一戦線、選挙協力が初めて現実のものとなり、最初の大きな成果を結んだではありませんか。(「そうだ」の声、大きな拍手)  

この統一戦線は、まだ始まったばかりで、さまざまな未熟さを抱えておりますが、大いなる未来をもっているという希望を抱いてもよいのではないでしょうか。(「そうだ」の声、拍手)  

日本共産党綱領の統一戦線の方針が、国政を動かす、戦後かつてない新しい時代が始まっている――ここに確信をもって、開始された野党と市民の共闘をさらに前進させるために、あらゆる知恵と力をそそごうではありませんか。(「そうだ」「よし」の声、大きな拍手)

つまり、この時日本共産党は「統一戦線」により、民進党の内部分裂を横目にみながら、協力できる派閥を巧みに取り込み、自らの党勢拡大を推し進め、政権の座につく意気を示したのです。

統一戦線は党綱領に明記

日本共産党の綱領では、第4章「民主主義革命と民主連合政府」の(13)項に登場します。以下、引用します。

(13)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線(とういつせんせん)によって、実現される。

統一戦線は、反動的(はんどうてき)党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。(以下、中略)

日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかうことは、国民の要求の実現にとっても、また変革の事業の前進にとっても、重要である。(以下、中略)

日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。日本共産党は、「国民が主人公」を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する。(以下、中略)

 このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない。引き続く前進のなかで、民主勢力の統一と国民的なたたかいを基礎に、統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握(しようあく)し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる。(以下、略)

また、党綱領第5章「社会主義・共産主義の社会をめざして」では、さらに将来、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる段階でも、「社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持」すると明記しています。

つまり、統一戦線とは、政権を奪取するための戦術であり、必要とあれば、どのような勢力とも連携するというものです。まずは、統一戦線により、 政府・民主連合政府を樹立し、最終的には日本共産党の独裁体制を成就すると解釈できます。

以上、現在の米中戦争のなかで注目されているキーワード、すなわち統一戦線は特段の珍しい用語ではありません。わが国の政党である日本共産党の党綱領に明記された用語であり、現執行部が政権奪取に向けて保持し続けている戦術であるということです。

まずは、今回はこの点を押さえていただきたいと思います。次回は統一戦線の歴史についてお話ししたいと思います。

(次回に続く)

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(その5)

第13編用間の5つのスパイ

第13編「用間」では、「故に間を用いるに五間あり、・・・」として、以下五種類の間(スパイ)に区分している。

1)「郷間」:敵国及び第三国の一般大衆から情報収集を行うスパイ

2)「内間」:敵国の官僚、軍人などを誘惑して秘密情報を収集するスパイ

3)「反間」:敵国のスパイが我が方に寝返ったスパイ (二重スパイ)

4)「死間」:自らを犠牲にして、敵側に浸入して、偽情報を自白して、相手側を撹乱させるスパイ

5)「生間」:は、最終的に生きて敵側から重要な情報を持ち帰るスパイ

最も重要なスパイは反間

なかでも孫武が重視するのが「反間」(二重スパイ)である。 孫武は「必ず敵人の間ありて、我を関するものを索め、よりてこれを利し、導きてこれを舎す、故に反間を得て使うべきりなり」と述べている。

これは、敵の間者としてわが国の様子をうかがっている者を必ず探し出し、何らかの切欠を求めてこれと接触し、あつく賄賂を与えて、わざと求める情報を与え、よい家宅に宿泊させて、ようやく反感として用いることができる、との意味である。

さらに「五間の事、主必ず之を知る。之を知るは必ず反間に在り。故に反間は厚くせざるをべからざるなり」と述べる。これは、五とおりの間者からの情報を君主は必ず知っておかなければならないが、それらの情報源の糸口は必ず反間によって得られるから、反間をもっとも優遇しなければならない、との意味である。

情報活動の種類

情報活動はこれらの五種類のスパイを駆使して行われる。つまり、それぞれの「間」は、以下のように、情報活動の区分にもなる。

「郷間」:一般の情報収集活動

「内間」:非公然の諜報活動、すなわちスパイ活動

「反間」:敵国のスパイ(二重スパイ)を寝返らせ、我の偽情報を意図的に流し敵の誤判断や官民の離間を謀る宣伝謀略

「死間」:自らを犠牲にして、命と引き換えに敵国を油断させ真実の目的を達成する謀略

「生間」:本国と敵国と行き来し、情報を報告・通報する通信活動 このように情報活動には様々な形があるが、それは国家目的の遂行という一点に収斂される。

『孫子』ではこれらを同時に投入しなければならないとしている。しかも、その存在やそれぞれの活動を敵にも味方にもしらせないことが重要だとし、それを「神紀」(神妙で秩序正しい用い方)と称している。

元CIA長官のアレン・ダレスは、「神紀」を「多数の糸からできた魚網が結局は一本の細い綱で結ばれている」と喩えている。

 情報保全の重要性

情報活動には積極的活動と消極的活動とがある。 積極的活動には、情報を収集・処理してインテリジェンスを生成する活動のほか、相手側の意図を破砕し、我の思うとおりに誘導し、我の利する活動を積極的に行わせる秘密工作がある。

一方の消極的活動は、情報あるいはインテリジェンスを守る活動であり、厳密には情報保全(Security Intelligence)とカウンターインテリジェンス、(Counter Intelligence、以下、防諜と呼称)に区分される。

このなかで情報保全は、敵対者などから秘密文書などを窃取されないように管理するなど公然的かつ受動的な活動である。 まずは、情報保全について、『孫子』から教訓事項を汲み取ることにしよう。

目立つ行動はするな

第四編「軍形」では、「善く守る者は九地の下に蔵(かく)れ、善く攻める者は九天の上に動く。故に能く自ら保ちて勝を全うするなり」と述べている。つまり、巧みに戦うものは、大地の奥深くに潜行して、好機を見て表に出て決戦を行うのであって、自軍を敵の攻撃から保全することが重要であると説いている。むやみやたらに「目立つ行動をするな」との行動保全の戒めである。

人にはいらない情報を与えるな

同じく第八編「九地」には、「知りがたきこと陰のごとし。良く士卒の耳目を愚にして、告ぐるに言を以てすること勿れ」がある。これは、将軍が物事を整斉とおこなうためには兵士を統制して無用な混乱を避けなければならず、それゆえに「将軍が何を考えているのかなどのハイレベルな情報を兵士に与えるな」、「与えれば怖気づいて逃げる兵士もいる」という意味である。 この戒めは、米国など重視される「知る人ぞ知る」(「NEED TO KNOW」の原則)と相通じるものがある。

無形が保全の境地

第六編「虚実」では「無勢で多勢に勝つ」方法を追求している。つまり「人を致して人に致されず」として、戦い方によっては、自らが受動に陥ることなく、自らが主導権を握り、敵を意図どおりに操り、我の兵力を手中して敵を攻めることで無勢であっても多勢に勝つことができることを説いている。

このために「故に兵を勝たすの極は無形に至る。無形慣れれば、則ち深間も窺うこと能わず。形に因りて勝を錯(お)くも、衆は知ることは能ず」と述べます。つまり、主動性を発揮するためには、態勢を敵から悟られないようにしなければならない。

隠せば、深く入り込んだスパイや、智謀の優れた者でも我の企図を解明することはできないということを極意として強調している。

さらには「夫れ兵の形は水に象(かたど)る」「故に兵に常勢なく、水に常形なし。能く敵に因りて変化して勝ちを取る者、これを神と謂う」と述べている。

つまり、「軍の態勢は水のようなもので、軍の態勢は一定ではなく、水の流れは一定ではない、敵情のままに従って変化して勝つのが神業である」と説いているのである。 これらは、我の行動を無形の境地に高め、敵から保全することが、主導性を確保する秘訣であることを強調しているのである。

真珠湾は保全の勝利

そうはいうものの、我は大部隊の配置や行動のすべてを隠すことはできない。できるのは、その全貌と企図である。 1941年12月、日本海軍ははるか遠くの真珠湾を攻撃した。

艦隊は無線封止、艦船部隊の無線呼び出し富豪の変更、九州方面の基地航空部隊と艦隊による偽交信を行い、ひそかに千島択捉島単冠湾に集結し、攻撃目標と攻撃時間を保全した。

米軍は、戦争が起こるとは予想していただろうが、その場所が真珠湾だとは予測できなかった。 また、米側は日本海軍の暗号を解読できず(反対論はあり)、日本南侵(タイ、ビルマ、シンガポール)を信じていたため、ハワイだとは想像しなかった 。

つまり、真珠湾攻撃の成功は、我の全貌と企図を隠した保全の勝利であった。

敵対勢力は市政に身を隠す

毛沢東は抗日戦争で農村ゲリラを組織し、「遊撃戦」と称するゲリラ戦を展開し、「遊撃戦」論で「人民は水であり、解放戦士は水を泳ぐ魚である」と語り、人民の大会の渦の中で自己の組織を保全することを得策とした。

このことは逆に、我々の社会や組織に敵対勢力が浸透している可能性を示唆している。そして、敵対勢力は重要人物の獲得や、作戦計画などの重要書類を虎視眈々と収集しているということである。

我がその危険性に気が付き、われの重要な資源を防護しなければ、情報戦に勝利することなど論外だ、ということである。

わが旧軍のお粗末な組織保全

 これに関して、旧軍の情報管理はまことにお粗末であった。 1944年3月31日、連合艦隊がパラオからミンダナオ島のダバオに退避する古賀峯一司令長官(大将)以下が搭乗した一番機が墜落(殉職)。二番機に搭乗していた福留繫参謀長(中将)、山本祐二作戦参謀(中佐)以下は墜落を免れてセブ島沿岸不時着した(海軍乙事件)。

福留参謀は反日ゲリラの捕虜となり、作戦計画、暗号書などの機密文書を収めた鞄を奪われた。その後、機密文書はゲリラの手から米軍に渡り、米国で翻訳されたのち、前線の米太平洋艦隊やその指揮下の第三艦隊に回送され、「あ」号作戦(マリアナ沖会戦)などに活用されたという。

なお米軍は、日本軍を安心させるためか、計画書などの原紙は鞄に戻し、セブ島近海に潜水艦から投棄したという。

一方の福留参謀以下は日本陸軍の治安維持部隊に救出され帰国し、福留、山本両氏は事情聴取で「機密入りの鞄は海中に投棄した」として、紛失したことは隠匿した。 このことが、それ以降の日米戦争において、日本軍を劣勢に追いやった大きな原因の一つとなったのである。

わが国の情報史(19)   

日露戦争の勝利の要因その1 -日英軍事協商と通信網の整備- 

日露戦争の勝利の要因

日露戦争の勝利について、著名な兵法家である大橋武夫は自著『戦略と謀略』(1978年)において、以下の6つの要因を挙げている。 (1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

その後の日露戦争史の研究によって、明石大佐の謀略工作に対する否定な見方や、特務機関の活動効果に疑義を呈する意見も出てきている。 ただし以下の点についてはほぼ異論があるまい。

(1)日英同盟が、露仏同盟によるフランスの参戦とロシアに対する戦争協力を抑制した。 (2)日英軍事協商によりグローバルな戦略的インテリジェンスを獲得し、それが開戦当初から着手された終戦工作とあいまって、わが国の勝利に貢献した。  つまり、日英同盟による協力体制と、日英軍事協商による情報体制が日露戦争の最大の要因であった。

日英同盟の背景

日本が英国との間で同盟を締結できた理由について、当時の地政学的環境よりひも解けば、まずロシアの拡張主義が挙げられる。

ロシアの極東進出により、英国は清国の東北部での経済利益が阻害されることを警戒したのである。 また、ロシアによる南下政策により、英国のトルコに対する影響力が低下することも懸念された。  

こうしたロシアの拡張主義に対して、英国は当初、米国やドイツとの同盟を模索したのであるが、両国が英国との同盟に前向きでなかった。 そのため、ロシアの極東進出を警戒する日本との利害が一致し、英国はわが国との同盟へと向ったのである。 なお、日英同盟締結の陰で柴五郎中佐の八面六臂の活躍があったことについてはすでに『わが国の情報史(18)』において触れた。

日英軍事協商の締結

とくに日英同盟に基づき、水面下での日英軍事協商が締結されたことは、日露戦争勝利の大きな要因であった。 日英同盟成立から約4か月たった1902年5月14日、海軍横須賀鎮守府内で英国側からブリッジ東洋艦隊司令長官、日本側から山本権兵衛海相、陸軍からは田村怡与造参謀本部次長、福島安正同第二部次長らが出席して「日英軍事協商」の秘密会議が開催された。

続いて7月7日にはイギリス陸軍省で伊集院五郎海軍軍令部次長、福島第二部長らが出席して「日英軍事協商」が合意された。 この協商では「両国は、ロンドン・東京の日英公使館付海陸軍武官を通して、すべての情報を相互に自由に交換する」「両国の公使館付武官はいずれの任地でも自由に情報を交換する」などが規定された。

これによって、日本陸軍は、ロンドン駐在陸軍武官の対ロシア戦略情報とインド方面のロシア陸軍の情報などが人手可能となった。

この協商の具体的な合意事項は、おもに海軍の協力が中心の、次の「陸海軍協約」八項目であった。 (1)共同信号法を定めること。 (2)電信用共同暗号を定めること。 (3)情報を交換すること。 (4)戦時における石炭(日本炭、力ーディフ炭)の供給方法を定めること。 (5)戦時陸軍輸送におけるイギリス船の雇用をはかること。 (6)艦船に対する入渠修繕の便宜供与をはかること。 (7)戦時両国の官報をイギリスの電信で送付すること。 (8) 英国側は予備備海底ケーブルの敷設につとめること。

これらの協定をみてわかるとおり、過半が通信関連の事項であった。つまり日英の参謀本部のトップは、きたるべき日露戦争は、「情報戦争」「インテリジェンス戦争」であるという共通認識を持っていたのである。

児玉源太郎の活躍

児玉源太郎

当時、英国は世界の全海域に海底ケーブルを施設し、ロシア海軍の動きを察知していた。そうした英国から「日英軍事協商」により、インテリジェンスの全面協力がうけられるようになった意義は大きい。 日露戦争前には、わが国は大陸と日本の間の海底ケーブルを敷設し、インテリジェンスの連絡体制を確保した。これに最大の貢献したのが児玉源太郎である。

日本最初の海底ケーブルは1871年、大北電信会社によって長崎~上海間及び長崎~ウラジオストック間に敷設された。 さらに1883年、大北電信会社は呼子(よぶこ、佐賀県の最北端にあった町、現在は唐津市呼子町)~釜山間にも海底ケーブルを敷設した。

しかし日清戦争後、児玉は呼子~釜山間の海底ケーブルは軍が独占できなかったため、ここを切られたら通信が途絶えてしまうことを警戒した。 また、大北電信はデンマークの会社であり、その背後にロシアが存在していたため、情報が筒抜けになることが懸念された。

そこで児玉は独力で海底ケーブルを本土から台湾(基隆)、本土から朝鮮半島・中国まで施設し、世界中にはりめぐらせた英国の世界通信ネットワークとの連接はかった。同時に、無線通信の有用性を認識し、艦艇~艦艇、陸上~艦艇の間の無線通信連絡を確保した。

なお川上操六も、日清戦争直前に東京・下関間の直通電信線、釜山~京城問の電信線を最初に提案し、児玉が先頭に立って敷いた九州~台湾間海底ケーブルにも川上が深く関与した。

こうしてロンドンでもスピーデイーに日露戦争の全情報を収集できる態勢が整備された。東京とロンドン間の電報は、東京→九州(大隅半島)→台湾(キールン)→ 台湾(淡水)→福建省(復讐)と伝達され、イギリスの植民地の香港を介して、南シナ海からボルネオを経由し、マラッカ海峡を通り、インド洋を横断して紅海から地中海に抜け、 そしてロンドンへという経路で伝達された。

バルチック艦隊が喜望峰やインド洋を周回している情報はイギリスのインド府政庁により、ロシアに秘密で次々に日本に送られた。 「明石工作」の暗号電報も施設した回線を経由して東京に速報されたのであった。

日英同盟から得たインテリジェンスの恩恵

わが国は日英同盟から、いかなるインテリジェンスの恩恵を受けたのか、ここでひとまず整理しておこう。 日露が開戦すると、英国は22人の観戦武官を戦場に送り込んで情報を収集し、日英両国に伝達した。「明石工作」の暗号電報も、施設した回線を経由して東京に速報された。

英国における情報活動では、 宇都宮太郎(1861年~1922年、中佐)・在英陸軍武官と同鏑木誠(1857年~1919年、大佐)・海軍武官の活躍があった。 とくに、宇都宮中佐は当時、英陸軍参謀本部作戦部のエドワード・エドモンズ少佐と親交を深めていた。エドモンズ少佐は当時、世界中からロンドンに集まってくる各国の陸軍情報を英参謀本部内で掌握できる立場にあった。 エドモンド少佐から得たロシア陸軍部隊の動向を宇都宮中佐は逐次、東京に報告した。

宇都宮太郎

それに基づき、大本営が満州の露軍兵力を算定し、英陸軍情報は参謀本部の作戦計画策定に寄与したとされる。  宇都宮太郎・在英陸軍武官と同鏑木誠・海軍武官の活躍が顕著であった。

こうしたグローバルな情報収集・連絡態勢の確立によって、わが国は戦場、世界各国のわが国公使館、英国大使館などから、様々なレベルの情報を入手した。これらの情報を処理して得たインテリジェンスは、政府や大本営における的確な情勢判断と戦略の構築に寄与したと考えられる。

鏑木誠

グローバルな情報収集体制の確立

日露が開戦すると、英国は22人の観戦武官を戦場に送り込んで情報を収集し、日英両国に貴重な情報を伝達した。 英国における情報活動では、 日英同盟による政治協力体制と日英軍事協商によるグローバルな情報収集体制により、わが国は戦局を判断するためのインテリジェンスを獲得した。

なかでも、英国で得られた情報を迅速に大本営と満州軍総司令部に伝達するための通信連絡体制を早くから構築していた点が、日露戦争における勝利要因であった。

このほか、ロシアと同盟国にありながら複雑な思想を秘めていた独・仏の情報も得られた。 とくにロシア宮廷や軍内部の情報はこのルートから入手できた。さらには、世界中に張り巡らされているユダヤ・コネクションから貴重な情報が得られた、という。

戦争開戦後は、各国がロシア側に派遣した観戦武官、新聞・通信社を通じて貴重な戦術情報を入手した。 また、軍と官が一体となった各国の在外公館による密接な協力があった。ロンドンの林公使、パリの本野一郎公使、スペインの新井書記官などは、バルチック艦隊の極東回航の状況に対する詳細な情報に入手して日本に報告したという。