―語りからアルゴリズムへ
近ごろ、人が「信じる」あり方が大きく変わってきたと感じます。かつて人は、物語を聞き、時間をかけて納得し、信念を育てていきました。宗教の布教も政治の支持も、語り手と聞き手が関係を築きながら、体験を共有して信じる力を育てるものでした。そこには時間の厚みと、人の温度がありました。
しかし、現代の情報空間ではそれが失われつつあります。SNSや動画が流れるスピードは、言葉よりも速く感情を動かします。現代の「認知戦」は、まさにこの特性を前提にしています。狙うのは“納得”ではなく“反応”です。注意を奪い、感情を揺さぶり、行動を誘導する。アルゴリズムの仕組みが、この瞬間的な「反応」の連鎖をさらに増幅させています。
一方で、説話の時代における布教は、まったく逆の構造をもっていました。北ベトナムの説話による思想浸透や、宗教の布教のように、人々は物語を通じてゆっくりと納得し、共同体の中で信念を共有していきました。文字よりも声、感情を共にする時間が信仰を形づくったのです。
では、サイバー空間において布教は可能なのでしょうか。
オンラインでは、語り手と聞き手の関係性が希薄になり、説話の「身体性」は失われます。けれども、連続したストーリーテリングやコミュニティ形成によって、信頼や共同幻想を再現する動きも見られます。陰謀論の拡散や、熱狂的な政治支持層の形成などは、まさにデジタル時代の「新しい布教」と言えるかもしれません。
現代日本に目を向けると、政治の世界でも「説話から認知へ」の流れがはっきり見えます。
かつての公明党は、創価学会という共同体の中で体験を語り合い、人と人の関係を通じて支持を広げてきました。これは説話の構造をもった政治活動でした。
一方、参政党はSNSを駆使して共感や“気づき”を拡散します。支持は人間関係ではなく情報空間で形成され、短期間で信念が生まれる。説得ではなく「覚醒」を促す形です。ここにはまさに、布教から認知戦への転換が見て取れます。
宗教がICT環境に適応しにくいのは、この変化にあります。説話や納得、信頼の積み上げを前提とする布教は、即時的な情報の洪水には向きません。だからこそ信仰人口は減り、共同体は細りつつあります。
しかし、イスラム過激派のように、宗教的物語を認知戦に転化させた例もあります。映像や音楽を使い、怒りや使命感を刺激し、瞬時に人を動かす。そこでは「信じる」よりも「反応する」が優先されます。
布教の終焉とは、単に宗教の衰退を意味するのではありません。
人が物語によって納得し、他者との関係の中で信じていくという、人間の学習の形そのものが変わりつつあるということです。説話の時代が終わり、アルゴリズムの時代が来た。
人はもはや「教えられて」動くのではなく、「感じ取って」動く。
信仰も、思想も、そして政治も――反応の時代の中で再び形を変えています。
