――寺田寅彦の言葉から考える批判的思考の重要性
1. インテリジェンスの失敗とは何か
インテリジェンスの失敗は、情報の欠如だけではなく、情報分析官の誤った解釈や、意思決定者による拒否でも起こります。その多くは、人間の思考に内在するバイアスに原因があります。
産経新聞の「産経抄」には寺田寅彦の言葉が引用されていました。
「読書もとよりはなはだ必要である、ただ一を読んで十を疑い百を考うる事が必要である。」
知識偏重ではなく、常に批判的に考えること。これがバイアスを乗り越える第一歩です。
2. 情報分析官を惑わすバイアスの事例集
アンカーリング(修正不足)
最初に立てた仮説に固執し、後から入った情報で十分に修正できない傾向。経験豊富な分析官ほど、自らの結論に縛られやすい危うさがあります。
ミラーイメージング
「相手も自分と同じように考えるはずだ」という思い込み。
- 1998年、北朝鮮のテポドン発射は「経済制裁を恐れて発射しないはず」と誤認。
- ロシアのウクライナ侵攻も「合理的に考えれば愚策」と判断し、意図を見誤りました。
利用可能性バイアス
目に見える派手な情報ばかりに囚われる傾向。
- 中国の軍事演習に目を奪われ、同時並行で進むサイバー攻撃や偽情報拡散という“見えない戦線”を軽視する危険。
- 犯罪率低下の要因を「警察増員・厳罰化・銃規制・景気」と説明した米国の事例。しかし実際は1973年の中絶合法化により、望まない妊娠が減り、90年代に犯罪予備軍が縮小したことが大きな背景だったのです。
因果関係バイアス
「相関=因果」と誤解する傾向。
- 株価の上げ下げに単一原因を求めてしまう。
- 実際には「おむつとビール」の購買データのように、背後に夏の暑さといった第三の要因が潜んでいることも多い。
確証バイアス
仮説に合う情報ばかりを集め、反証を無視する。韓国ドラマ『チャングムの誓い』では、経験豊かな医官が誤診し、未熟なチャングムの診断が正しかったエピソードがありました。
専門家バイアス
「弁護士だから正しい」「学者だから中立」と思い込む危険。専門家も立場に応じて主張を行うため、受け手が批判的に検討する力を持たなければなりません。
現状維持バイアス
急速に進む技術変化を過小評価する傾向。AIやスマホの進化は社会を大きく変えつつありますが、人間は従来の延長線上で未来を考えがちです。
3. 歴史が示す「拒否」の罠
バイアスは分析官だけでなく、意思決定者にも影響します。
- ヒトラーはソ連侵攻の危険を進言した将校を「悲観主義」と罵倒し、殴打して解任。
- スターリンはゾルゲの情報を無視。
感情や先入観に囚われた指導者は、有用な情報そのものを拒否します。分析の成果が届かない「構造的敗北」の典型です。
4. 未来予測の難しさとバイアス
未来を正確に言い当てることは極めて困難です。その理由を、経営学者の田坂広志氏は「不連続性」「非線形」「加速度」の3点に整理しました。加えて、私自身は次の4点を強調したいと思います。
- 複雑性:些細な変化が大きな影響を生む(バタフライ効果)。
- 悲観論への傾斜:人はセンセーショナルなストーリーを好み、過剰に悲観的になる。
- 改善の影響:規制や改善策によって未来は変わりうる。たとえば地球温暖化対策。
- 技術のブレークスルー:1997年、IBMのスーパーコンピュータがチェスの王者を破った例に象徴されるように、技術革新は予測不能です。
人間は「現状維持バイアス」に縛られ、未来を過去の延長線で考えがちですが、実際には予測不能な要素が社会を動かします。
5. バイアスを克服するために
ジョン・ベイリス『戦略論』は、認知バイアスを避ける手法として以下を挙げています。
- 反論討議法
- チームA/B分析
- 競合仮説分析
- シナリオ分析
体系的な分析技術を導入しなければ、人間の思考は容易に偏ってしまいます。
6. 結論 ― 客観性と論理性
インテリジェンスを支える二本柱は「客観性」と「論理性」です。
- 客観性:感情や立場を超えて、他者も納得できる視点を持つこと。
- 論理性:前提と根拠に基づき、筋道を明確にして結論に至ること。
結論そのものの正しさよりも、結論に至るまでの筋道が合理的であるかどうかが重要です。批判的思考を怠らず、自らの思考のクセを疑い直すことこそ、インテリジェンスの失敗を減らす唯一の道なのです。
