ネタ探しと韓国ドラマ(2025年7月11日)

私は『日本経済新聞』はオンラインで読んでいますが、日曜日だけは朝日・読売・産経の3紙を紙で8023ます。近くのコンビニに出かけて、ちょうど500円。1か月で2,000〜2,500円の出費です。本当は毎日いろんな新聞を読む方がいいのかもしれませんが、金も時間も限られてますので、こんなスタイルに落ち着いています。

さて、7月6日(日)の朝刊一面の見出しは、「日比、護衛艦輸出で一致」「英で“日本軍が性奴隷”」「今なら残せる被爆の記憶」などなど。どの新聞がどれかは、読者のご想像にお任せします。ビッグニュースがない日は、各紙バラけるんですね。逆に、6月15日(日)は「日鉄100%子会社化、USスチール買収承認」と、3紙ともほぼ同じ(USチスール買収承認は2紙が採用)見出しでした。こういうとき、新聞社はネタに困らないってことなんでしょう。

…とはいえ、ネタ探しに苦労しているのは、新聞社だけじゃありません。私も同じです。ツイート、メルマガ、雑誌、書籍――何を書くか、常にアンテナを張っています。ネタは新聞や雑誌だけでなく、散歩中のひとことや、食事中の会話にも転がっているかもしれない。大事なのは、それを拾えるかどうか。

私の場合、外からのインプットは全体の2割くらいで、残りの8割は自分の中でこねくり回してアウトプットに仕上げていくタイプです。なので、読書量がものすごく多いというわけでもありません。

それに私は、原稿を書き終えてから他の人の本を読む派なんです。先に読むと、自分の発想がそっちに引っ張られてしまう気がして。なるべく自分の思考の純度を保ちたいので、まずは自分の頭で勝負する、そんなスタイルです。

ちなみに、月曜から金曜の朝8時15分から9時10分まで、テレビ東京で放送されている韓国ドラマ(王族もの)は、私にとってちょっとした“インテリジェンスの教材”です。
歴史描写の中に、権力闘争や心理戦、情報操作のヒントが詰まっている。わからない場面があればすぐに調べますし、見逃さないよう録画も欠かせません。

生活リズムは不規則そのもの。夜中にふと思いついてPCに向かうこともあれば、疲れたら昼間から寝てしまう。そんな日々の中で、この韓国ドラマが生活の“リズムの柱”になっているような気もします。

情念の国家指導者-ナポレオンの物語り-

―フランスにも、故郷にも愛されなかった若者―

パリの空は、怒りで真っ赤に染まっていた。1789年7月14日。バスティーユ牢獄の門が群衆によって破られた瞬間、千年続いた王政の終焉と、新しい歴史の扉が同時に開かれた。「王も神も絶対ではない」――この考えが、民衆に火をつけた。

飢えた人々が武器を取り、貴族の館が焼き払われ、断頭台(ギロチン)に血が流れる。フランス革命。それは一国の「政変」ではなく、世界の価値観をひっくり返す出来事だった。秩序は崩れ、過去の制度は激情に飲み込まれた。王権と教会が否定されると、人々は「自らの正義」を掲げて殺し合いを始める。「自由・平等・友愛」――この美しい理念が、最も血なまぐさいスローガンにもなった。

そんな混沌の中から、一人の男が現れる。無名の砲兵士官が、革命の嵐を追い風にして、やがて世界を支配する皇帝になる。ナポレオン・ボナパルトである。革命がなければ、彼は一地方出身の軍人で終わったかもしれない。激動の時代は、「情念」を持つ者にこそチャンスを与える。歴史を動かすのは、冷静な理性ではなく、内に燃える何か――そのことを彼の人生は教えてくれる。

だが、彼は革命の英雄ではなかった。その頃のナポレオンは、地中海に浮かぶコルシカ島の片隅にいた。フランスに併合されて間もない、山と森に囲まれた島――彼の故郷だ。

若きナポレオンは、島の独立を夢見た英雄パスカル・パオリに心酔し、軍人として故郷に戻った。だが、皮肉にもそのパオリから「共和国の手先」として追放される。

フランスに渡れば「田舎者」と冷笑され、故郷では「フランスかぶれの裏切り者」と非難される。行き場のない若者。彼の中に、ルサンチマン(鬱屈した怒り)が静かにたまっていく。このルサンチマンが爆発するとき、歴史は動く。

コルシカにも、フランスにも属さない若き砲兵士官は、やがてこう誓う。「ならば、そのどちらでもない“上の世界”に立つしかない」ナポレオンは、かつて憧れた“祖国の英雄パオリ”にはなれなかった。ならばパオリを超え、世界を支配する者になるしかない――

その情念が、革命という混沌の時代に乗じて、静かに、しかし確実に燃えはじめていた。

― 小さな体に“情念の火”を灯した幼少期の島の記憶 ―

ナポレオン・ボナパルトは1769年、地中海の孤島・コルシカ島に生まれた。そのわずか1年前、この島はフランス軍に敗れ、独立を失っていた。英雄パスカル・パオリが率いた独立闘争は1768年に潰えた。

“自由の父”と称えられた男の敗北とともに、コルシカはフランス領に組み込まれた。ナポレオンは、「征服された側」の子として、この世界に生を受けたのである。

父カルロは地元の小貴族であった。だが、独立運動の失敗後は一転してフランスに接近した。少年ナポレオンの目には、それが「誇りを売る生き方」に映った。

家は貧しくはなかったが、裕福でもなかった。母レティツィアは厳格で、感情を表に出さない人物である。ナポレオンが悪さをすれば、容赦なく叱りつけた。その姿勢は、まるで兵士を鍛えるようでもあった。

のちにナポレオンは語っている――「私をつくったのは母だ」。ただし、その口調にはどこか突き放すような響きがある。優しく抱きしめられた記憶も、温かな言葉をかけられた記憶も、彼にはなかったのかもしれない。この“距離のある母性”は、後年のナポレオンの女性観――たとえばジョゼフィーヌとの関係にも、影を落とすことになる。

兄ジョゼフは社交的で人あたりがよく、誰からも自然に好かれた。一方、ナポレオンは無口で内向的。だが、その内には鋭い観察力とずば抜けた頭脳を秘めていた。

母はナポレオンに大きな期待を寄せていたようだ。しかし、それが愛情として伝わったかどうかは定かではない。少年の胸には、兄への嫉妬と「自分は愛されていない」という孤独感が、静かに蓄積していった。

そして9歳。ボナパルト家には、士官学校に送れる子は一人しかいなかった。両親はその枠に、ナポレオンを選んだ。「お前に家の未来を託す」と明言されたわけではない。だが、ナポレオンは理解していた。期待だけを背負い、愛情には飢えた少年は、強くなるしかなかったのである。奨学金を得て、母や兄弟を残し、少年はコルシカ島を離れた。

向かう先は、かつて島を征服した国――フランス本土。言葉も違えば、風習も違う。その地で彼は、孤独と怒りを胸に、冷静に世界を観察し始める。

「なぜ我々は負けたのか」「なぜ父はあんなふうに生きたのか」「どうすれば、自分が島と世界を変えられるのか」

このとき、誰も知らなかった――この小さな少年が、やがて“世界を征服する男”となることを。

――「異邦人」の士官候補生、そしてトゥーロン砲撃戦

ナポレオンは9歳で、故郷コルシカを離れた。向かった先は、フランス北東部・ブリエンヌの幼年学校。山と森に囲まれた島の少年にとって、そこはまるで“異国”だった。言葉も違う。習慣も違う。彼の名は「ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ」。イタリア語訛りのこの名は、あからさまな嘲笑の的となった。「ナポレオン・ボナパルト」――のちに彼がフランス風に名を変えるのは、この屈辱の体験があってこそである。

島の田舎貴族としての出自、粗末な服、コルシカ訛りのフランス語。彼はどこまでも「異邦人」だった。だがナポレオンは歯を食いしばり、観察と読書と勉学に没頭した。孤独を力に変える才能が、すでに芽吹いていた。

15歳でブリエンヌを卒業したナポレオンは、パリ近郊の王立士官学校(エコール・ミリテール)へと進む。貴族の子弟が集う名門。進学できたこと自体、彼の秀才ぶりを示している。だが、ここでも彼は「浮いて」いた。訛りは消えず、身なりも地味。舞踏会にも誘われず、昼食のテーブルでは孤立した。それでも学業だけは誰にも負けなかった。数学、幾何、地形学、そして砲術――彼の頭脳は、冷静無比な精密機械のように冴えていた。

士官課程は通常3年を要したが、ナポレオンは1年で修了する。父カルロの急死で家計が傾いたことも理由だったが、教官たちも「これ以上教えることはない」と評するほどの実力だった。

将来の道として選んだのは「砲兵」。それは地味で、華やかさに欠け、出世にも遠い分野だったが――彼にとっては、最も論理的で、実力主義の世界だった。計算と判断だけがすべて。血筋も言葉も関係ない。ナポレオンは、己の才能だけを武器に、この世界で生きていこうと決めた。

1789年、フランス革命が勃発。王政が倒れ、共和国が誕生する。ナポレオンはこの混乱の中、休暇を使って故郷・コルシカへ戻った。憧れの英雄パスカル・パオリは、亡命先から戻り、島の実権を握っていた。ナポレオンは、彼に忠誠を誓う。かつて心酔し、理想の象徴であった男のもとで、コルシカ独立のために尽くしたい――だがパオリは冷たく言い放つ。「共和国の手先など信用できぬ」ナポレオンは、失意のうちに島を追われた。フランスでも異邦人、コルシカでも裏切り者。彼に「祖国」と呼べる場所は、もうどこにもなかった。

そして1793年、転機が訪れる。王党派とイギリス軍が占拠した南仏の港町・トゥーロン。革命政府は奪還を決し、包囲作戦を開始した。この作戦で、砲兵の配置計画を任されたのが――若き砲兵大尉、ナポレオン・ボナパルトだった。彼は地形と火力の関係を綿密に分析し、丘陵に砲台を築いていく。「トゥーロンを制するのは港ではない、丘の上だ」その言葉通り、彼の砲撃戦略は敵の補給線を断ち、勝利を決定づけた。

降伏の気配が漂い始めたトゥーロンの市街には、王政復古を望む王党派が立てこもっていた。彼らは、イギリスやスペインといった敵国の艦隊を港に招き入れ、自らの祖国を裏切ったのである。つまり、同じフランス人でありながら、祖国を裏切った「反乱者」としての姿をさらしていたのである。

ナポレオンは、その市街に対しても容赦しなかった。砲撃は、軍事施設に限らず、住宅街や避難していた民間人にも降り注いだ。正確無比な砲弾が、無数の瓦礫と悲鳴を生んだ。この徹底した砲撃には、軍の中からも「やりすぎだ」「冷酷すぎる」との声が上がった。だがナポレオンは、振り返りもしなかった。――それができたのは、彼が“異邦人”だったからだ。そう語る者も少なくない。

コルシカ出身、フランス社会に居場所を持たぬ若者。だからこそ、彼は情に流されず、無慈悲に引き金を引けたのだと。この残酷な砲撃は、単なる軍事作戦ではなかった。フランスからも、故郷からも拒絶された若き砲兵士官が、自らの存在を刻みつけるために放った、魂の咆哮でもあったのだ。

町は陥落し、ナポレオンは将軍(准将)へと一気に昇進する。無名の砲兵士官は、一夜にして共和国の英雄となった。だがその胸には、いまだ冷めやらぬ怒りと――居場所のなかった少年の、熱い「情念」が燃えていた。

―ジョゼフィーヌに 征服された皇帝ナポレオン―

1973年のトゥーロンでの大勝利を経て、ナポレオン・ボナパルトはついに将軍の座を手にした。共和国を揺るがす混乱の中、若き砲兵士官が放った弾丸の軌道が、彼の出世街道を開いたのである。

だが、その英雄譚の陰で、彼にはもうひとつの「戦い」が始まっていた。恋という、もっと複雑で、もっと不確かな戦いが――。

ナポレオンは女性には決して積極的ではなかった。

母レティツィアの厳しい教育のもとで育てられた彼は、女性に対してはどこか不器用で、ぎこちなかった。士官としての自信は日々増していたが、ひとたび私生活に目を転じれば、むしろ臆病で、踏み出すことを恐れる青年の姿があった。

そんなナポレオンが一時、心を寄せた女性がいる。タリアン夫人――テルミドール反動を主導したポール・バラスの愛人であり、若くして社交界の華となった絶世の美女。14歳で上流階級の舞踏会にデビューし、革命期フランスの「サロンの女王」と謳われた。ナポレオンより2歳若く、誰もが見とれるようなその美貌と才気に、若き砲兵将校は心を奪われた。

だが、彼の想いはあっさりと退けられる。「痩せた小男」と陰口を叩かれたナポレオンの劣等感は、さらに深まることとなる。

心のどこかで、彼は敗北を味わっていた。そんなときに出会ったのが、一人の年上の女性であった。その女性の名は、ジョゼフィーヌ。洗練された身のこなし、優雅な話しぶり、男たちを虜にするその香水のような魅力――。

当時、ナポレオンより6歳年上であり、しかも革命で処刑された貴族の未亡人。周囲からは「ばあさん」と揶揄されていた。だが彼女には、人を惹きつける魔力があった。

ジョゼフィーヌは、ナポレオンの情熱を巧みに受け止めた。時にあしらい、時に優しく包み込む。母性と官能の狭間で、若き将軍の心は翻弄され、燃え上がっていく。ナポレオンが情熱の手紙を連日送りつづけたのに対し、ジョゼフィーヌは返事すら寄越さないこともあった。

だが、彼が前線に赴くと、さりげなく優しさを示す。それがまた、ナポレオンの恋慕を掻き立てた。彼は「自分がいなければ、ジョゼフィーヌは不幸になる」と信じ込み、彼女を完全に手中に収めるまで、心の平安を得ることができなかった。

のちに彼は皇帝となり、ジョゼフィーヌを皇后に据える。だがその関係は、甘くも苦い果実のようだった。

ナポレオンは、愛する者の心に火を灯し続けたが、その火がいつか消えるのではないかという不安に、常に駆られていた。彼は終わりなき恋の戦いに突入したのである。

ジョゼフィーヌはそれを巧みにいなし、じらし続けた。年上であることを逆手に取り、あえて突き放すような態度を見せ、時に彼の部下と浮気をし、時に冷たく距離を取った。それが若き将軍の恋心を、より強く燃え上がらせることを、彼女は知っていたのだ。

ナポレオンはフランスという国家を征服した。だが、彼女の心だけは征服できなかった。

それでも最期のとき、遠く離れていても、ふたりは互いの名前を呼び合ったという。征服には至らなかったかもしれないが、愛は、ついに成就していた。

若き将軍ナポレオンが最初に征服されてしまった相手――

それは戦場の敵ではなく、「ばあさん」と呼ばれた年上の女性だった。それは砲火ではなく、甘美な誘惑によって、静かに燃え上がった情念だったのである。

 ――国家も女性も征服できないからこそ執着する――

ナポレオンが革命の寵児バラスの庇護のもとで出会った二人の“サロンの女王”――大胆不敵なタリアン夫人と、冷ややかな美貌をたたえたジョゼフィーヌ。どちらも政治と欲望の只中で生きる女。ナポレオンは、そこに権力への通路を見出し、自ら進んで飛び込んでいった。

だが、実はこのふたりに出会う少し前、彼にはもうひとり、大切な女性がいた。
それは、タリアン夫人のような戦略家でも、ジョゼフィーヌのような妖婦でもない。
無垢で、ひたむきで、ただナポレオンを愛した「普通の娘」だった。

彼女の名は、デジレ・クラリー。
マルセイユの裕福な商人の娘で、ナポレオンよりも6歳年下。
のちにスウェーデン王妃となるこの女性との短い恋が、ナポレオンの「情念の物語」のはじまりだった。

1794年──
若きナポレオン・ボナパルトは、失職中の無名の砲兵将校だった。
前年、ヴァンデミエールの反乱に加担したジャコバン派寄りとみなされ、政敵の失脚とともに軍籍を外されたためである。
テルミドールの反動により、革命の潮目が変わり、ナポレオンも「過激派の将校」として干されていたのだ。
野心は燃え盛っていたが、国家からも軍からも見放され、彼を見つめる者は少なかった。

そんな彼に、小さな明かりを灯した女性。それがデジレ・クラリーだった。
彼女はナポレオンにとって、「家庭的な幸福」の象徴であり、
ひょっとすると彼が唯一、武器を置いてもよいと思えた相手だったのかもしれない。

だが、ナポレオンは「家庭」に安住する男ではなかった。
彼の心には、戦場の鼓動が鳴り響いていた。
世界を動かしたいという情念が、穏やかな愛情を置き去りにした。

ナポレオンは突然、デジレとの婚約を解消した。
「説明なき別れ」――。それは、彼の愛が不誠実だったからではない。
デジレの優しさは、あまりに彼の野心と釣り合わなかった。

彼は、母ラエティツィアのような、強く、自立し、時に冷酷な女性を必要としていたのだ。
そして、彼が次に惹かれていくのは、
華やかなサロンの世界で男たちを手玉に取るタリアン夫人と、冷たく距離を取るジョゼフィーヌ。

どちらもバラスという革命の重鎮の愛人。
それを承知で、ナポレオンはあえて彼女たちの懐に飛び込む。
そこに、出世と権力の扉があることを、彼は見抜いていた。

ナポレオンは女性を愛したのではない。
その背後にある「国家」や「階級上昇」の回路を愛したのだ。
愛においても、征服者たることを求めたナポレオンは、
若く従順なデジレを手放し、手強く冷たい年上の女に追いすがる。

しかし、皮肉なことに、サロンの女性たちは、ナポレオンにけっして征服されなかった。
彼女たちは、彼が征服を試みる国家のように、翻弄し、甘やかし、裏切った。

征服できない女性と、征服できない国家。
ふたつへの執着が彼の心に渦を巻き、
やがてその情念は、ジョゼフィーヌとの愛へ、
そして対外戦争へと突き進んでいくことになる。

 ――戦争と恋、その両方に征服されるナポレオン――

1796年、ナポレオン・ボナパルト26歳。若き将軍は、フランス政府からイタリア方面軍の指揮権を託される。そのわずか数日前、彼は6歳年上の未亡人ジョゼフィーヌと結婚したばかりだった。

本来ならば、二線級と見なされていたイタリア戦線。ライン方面に比べ、予算も兵力も限られ、軍の士気も低かった。当時の軍司令官候補には名の知れた将軍もいたが、最終的に白羽の矢が立ったのは、若干26歳、実戦経験も乏しいナポレオンだった。

それは「抜擢」というより、むしろ「放り出された」に近い。共和国政府、とくにバラスら総裁政府の首脳にとって、イタリア戦線は実験台のようなものだった。新米の将軍を試すには、ちょうどよい“戦場”だったのだ。

だが、ナポレオンはそこで“試される側”で終わらなかった。彼は、無秩序だった軍を掌握し、驚異的な速度で北イタリアを席巻する。「一将功成りて、帝国の地図を変える」。彼の真の“征服の物語”が、ここから始まるのである。

ナポレオンは山岳を越え、敵を翻弄し、次々とオーストリア軍を打ち破っていく。戦況の全体像を把握し、情報と兵站の流れを統制し、各個撃破で戦局を塗り替える。この電撃戦の様式は、のちに“ナポレオン戦法”と呼ばれるようになる。

フランス革命という大混乱の時代。王政復古を狙う列強。だがナポレオンは、次々と戦地を制圧し、“フランスの救世主”と謳われていく。彼の野望は、軍事戦略を通じて現実化しつつあった。

だがその裏側で、もう一つの「戦い」が続いていた。それは、ジョゼフィーヌへの想いである。イタリア戦線に赴任したナポレオンは、連日、彼女に手紙を送った。甘く激しい言葉で綴られる情熱の書簡。ときに一日に何通も、彼はジョゼフィーヌを想い、筆を走らせた。だが、返ってくる手紙は少なく、短く、素っ気ないものだった。

その頃のジョゼフィーヌは、パリに残り、社交界を満喫していた。ナポレオンからの情熱的な手紙を、彼女は時に友人たちと読み合って笑ったという。しかも彼女は、ナポレオンの部下であるイポリット・シャルルとの浮気を始めていた――。

この時期、ナポレオンは、戦地で勝利を重ねるほど、ジョゼフィーヌへの執着を深めていく。遠く離れている彼女の気持ちが、手のひらからこぼれ落ちていくのを感じながら、彼は、征服するはずの愛に、逆に心を支配されていく。

ジョゼフィーヌの側から見れば、それは「仕掛けた戦争」だったのかもしれない。年下の男の情熱をコントロールし、わざと距離を取り、時に浮気という武器すら使って彼の心をつなぎ止める。その駆け引きの妙が、ナポレオンの恋をより烈しく燃え上がらせた。

彼は国家を征服した。しかし、ジョゼフィーヌの心は征服できなかった。だからこそ、彼は執着した。ジョゼフィーヌを追い続け、皇帝になってからも彼女を皇后に据えた。だがその愛は、いつまでも不安と嫉妬に揺れ続けた。

――勝ち続けても満たされない男。――すべてを得ても、愛だけは手に入らない男。ナポレオンは、ジョゼフィーヌの心と、戦場の勝利とを重ねていたのかもしれない。どちらも、油断すればすぐに手の中からこぼれ落ちる、つかの間の勝利。そしてこの恋が、彼をより多くの「征服」へと駆り立てていく。

――エジプトへ、神々の声をまといし将軍――

1798年、ナポレオン・ボナパルト29歳。
彼は突然、地中海の彼方――エジプト遠征を開始する。目的は大英帝国のインド航路を遮断するためだったが、それは建前に過ぎない。
ナポレオンの本心はもっと深く、もっと劇的だった。
それは、「征服王アレクサンドロス」への執着である。

ペルシャ遠征の途次、アレクサンドロスがトロイの古戦場に立ち寄り、ギリシャ神々に戦勝を祈ったように、ナポレオンもまた、「自らの神話」を創る旅に出た。
彼は兵士たちを前に、こう語った。

「兵士諸君、諸君の目の前に広がるのは、4千年の歴史が眠る地だ!」

歴史という“神の声”をまとい、自らを時代の寵児から永遠の英雄へと昇華させようとしたのである。心理戦の鉄則――自らの存在を神話化し、兵士の心を掌握せよ。

上陸後、ナポレオンがまず行ったのは、意外なことだった。
それは、「自分はイスラムの友である」と宣言すること。カイロで出した布告ではこう述べた。

「私はアッラーを尊ぶ者である。私はクルアーンを敬愛している。」

なぜそんなことを? それには明確な理由があった。
当時、エジプトの支配者はカソリックでもユダヤ人でもなく、オスマン帝国の地方総督とマムルーク軍、つまりイスラム圏の旧勢力である。そしてエジプトの現地住民もまた大多数がムスリムだった。

つまり、「異教徒=カソリック帝国」vs「イスラム住民」という構図が成立していた。
だからこそ、ナポレオンはあえて「反カソリック的イスラムの友」を演出し、住民の共感を引き出す政治心理戦を仕掛けたのである。
これには、クルアーンの教えを参照するムスリム学者(ウラマー)たちの中にも、「このフランス人将軍はただの侵略者ではない」と見る者も現れた。

ナポレオンのこの柔軟な「宗教戦略」は、後の宗教対立時代とは対照的である。

このエジプト遠征には、もう一つの「私的な意味」があった――それは、総裁政府、そしてその背後にいた男・ポール・バラスの影から、自らを解き放つことである。

ナポレオンは若き日、パリ社交界でバラスに見出され、軍人として頭角を現すきっかけを得た。バラスは総裁政府の実質的な権力者であり、当時のフランス政界を牛耳っていた人物である。そして、彼の愛人だったのがジョゼフィーヌ。ナポレオンが後に妻とする女性だ。さらにナポレオンが一時期心惹かれたもう一人の女性、タリアン夫人もまた、かつてバラスの情婦だった。

つまりナポレオンは、出世も愛も、つねに「バラスの残り物」を与えられる立場にあった。恋愛でも、軍事でも、政治でも――バラスは、彼の前に立ちはだかる象徴的な“壁”だったのである。

だからこそ、エジプト遠征はナポレオンにとって「単なる国外派遣」ではなかった。それは、過去の庇護から脱し、自らの力で“英雄”としての地位を確立するための脱皮の場だった。

バラスの意を受けて遠征に赴きながら、その地で“神々と対話する征服者”へと変貌する――。それは恩義や過去の因縁に囚われた存在から、己の運命を握る“新しい主”への進化だった。

ナポレオンはここで、バラスに象徴される旧体制や階級社会、そしてルサンチマン(怨恨)の束縛すら乗り越え、「自分こそが歴史を動かす存在である」ことを、世界と自分自身に示そうとしていたのだ。

帰国したナポレオンは、クーデターでバラスの総裁政府を倒し、自ら第一統領となる。1804年には皇帝に即位し、ジョゼフィーヌを皇后に据えた。

だがその関係は、すでに冷え切っていた。
ジョゼフィーヌとの間には子ができず、周囲からは「跡継ぎ」を求める声が高まっていた。
ナポレオン自身もまた、彼女の過去――浮気、社交界の軽薄な交遊、そしてバラスとの関係――をいつまでも忘れることができなかった。

それでもなお、ジョゼフィーヌを皇后にしたのはなぜか?
それは、征服できなかった愛にこそ、彼が執着したからである。
彼女が心から自分だけを愛したとは思えない。だからこそ、彼女を傍に置くことで、「愛の勝利」を証明しようとしたのだ。

ナポレオンはジョゼフィーヌを皇后に即位させた5年後、最終的に離婚する。ナポレオンは戦場でも政治でも頂点へと駆け上がった。しかし、その代償として、心の奥底に潜む「不安」と「空虚」もまた膨らんでいった。

次回はいよいよ、ナポレオンという男の内面に迫る。戦争の天才が踏み込んだ“凍てつく戦場”――ロシア遠征。そしてその果てに待っていたのは、軍事的敗北だけではなかった。栄光とともに積み上げてきた「自信」そのものが、音を立てて崩れていく。

情念に突き動かされた男が、初めてその情念を持て余したとき、何が起きたのか。次回、「ロシア遠征と崩れゆく自己像」を語ることにしよう。

―――ロシア遠征と「戦略」の崩壊――

1804年、ナポレオンは皇帝に即位し、ジョゼフィーヌを皇后に迎えた。

しかし、彼女は40歳を過ぎ、後継を望む国内外の圧力の中で、皇帝夫妻の関係には陰りが生まれていく。1809年、ナポレオンはついに離婚を決断し、ジョゼフィーヌもそれを受け入れた。そして1810年1月、フランス元老院の承認を得て正式に離婚が成立する。

その晩に開かれた発表の晩餐会で、ジョゼフィーヌが涙ながらに「私は皇帝の決定を受け入れます」と述べたとき、ナポレオンもその場で彼女の手を取り、抱き寄せ、嗚咽したという記録が残る。

その後、彼は1810年3月にハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと再婚する。この政略結婚は、「血統と正統性」への執着であると同時に、思い通りにならなかったジョゼフィーヌとの関係に終止符を打つ、ナポレオンの私的な決別でもあった。

当初、マリー・ルイーズは、親子ほども年の違うナポレオンに愛情はなく、また、彼との結婚に対して強い不安を抱いていた。オーストリア皇女として、ナポレオンを「革命の申し子」、そして父の敵とみなしていたからである。それでも、皇帝は彼女に優しく接し、マリー・ルイーズも次第に夫としてのナポレオンに従順に振る舞うようになる。

1811年には長男ナポレオン2世が誕生し、名実ともに「皇帝の後継者」が得られたことで、ナポレオンの王朝的野望はひとつの完成を迎える。表向きは安定した皇室を築いたかのように見えたが、マリー・ルイーズはナポレオンを心から愛したわけではなく、後年、彼が失脚した後には忠誠を捨て、オーストリアに留まり再婚することになる。

ナポレオンが最後まで屈服させられなかったのは、イギリスとロシアだった。

1805年、トラファルガー海戦でイギリス海軍に敗れた後、彼は陸上戦力で覇権を築こうとし、プロイセンやオーストリアを打ち破って欧州大陸を席巻していった。

1806年には、「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」を発し、イギリスおよびその植民地からの商品や船舶の大陸諸港への出入りを禁止。ヨーロッパ大陸全体からイギリスを経済的に孤立させ、干上がらせようとする壮大な「経済戦争」を仕掛けた。

封鎖令は一時的な効果を示したものの、やがてロシア皇帝アレクサンドル1世が自国経済の疲弊を理由にイギリスとの交易再開へ傾き始める。

ナポレオンは「外交圧力と経済封鎖」が効かないと判断し、ついにロシアとの直接対決――武力行使に踏み切る決意を固めた。

1812年、ナポレオンは43歳。60万を超える兵を率いてロシアへ侵攻。

この「グランド・アルメ(大陸軍)」は、フランスのみならず征服下の諸国から兵を集めた多国籍軍であった。

ナポレオンの戦略は、ロシア軍の撃滅ではなく、象徴都市モスクワを占拠することで皇帝アレクサンドルに講和を強いるというもの。

だが、ロシア軍は戦わずに撤退を繰り返し、焦土作戦で自国の町や補給拠点を焼き払っていった。モスクワにようやく到達したとき、そこは無人の廃墟だった。

講和の使者を何度送っても、アレクサンドルは交渉に応じない。ナポレオンの戦略は完全に瓦解した。冬が迫る中、モスクワに駐留し続けるのは不可能だった。

退却を決断するが、補給も退路も失われ、寒さと飢えが兵士たちを容赦なく襲う。戦って敗れたのではない。戦わずして自壊したのだった。

60万の兵のうち、生還したのはわずか数万――ナポレオンの「不敗神話」はここに終焉を迎えた。このロシア遠征は、単なる軍事的敗北ではなく、「自分なら世界を導ける」と信じていたナポレオン自身の“自信”の崩壊でもあった。

1813年のライプツィヒの戦いでは、かつての同盟国にさえ見放され、1814年にはパリが陥落し、ナポレオンはエルバ島へと追放される。

そしてその年――1814年5月29日。かつての皇后ジョゼフィーヌがマルメゾン城で亡くなる。肺炎だった。彼女は離婚後も、ナポレオンの消息に一喜一憂し、遠征先の彼に手紙を書き続けていた。病床では、「ボナパルト……」とつぶやきながら、静かに息を引き取ったという。

この報せは、エルバ島に追放されていたナポレオンのもとにも届いた。彼は側近の前で涙を流し、「私は、彼女の死によって二度目の打撃を受けた」と語ったと伝えられている。

皇位を追われ、野に下ったナポレオンが受けた“もう一つの退位”――それは、愛という名の王国からの退場でもあった。

――勝利と敗北の末に、情念だけが残った――

1814年、ロシア遠征の敗北をきっかけに、ライプツィヒの戦いで各国の連合軍に敗れ、パリも陥落。ナポレオンは皇帝の座を追われ、地中海の小島・エルバ島に追放された。だが、それで彼の情念は終わらなかった。

翌1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出。フランス本土に上陸すると、彼を裏切ったはずの兵士たちが次々と膝をつき、「皇帝万歳!」と叫ぶ。ついに彼は再びパリに入り、政権を奪還――この奇跡の復活劇が、のちに「百日天下」と呼ばれる。しかし、情念の燃え上がりは、長くは続かなかった。

ナポレオン最後の戦いとなったのは、1815年6月、ベルギーのワーテルロー。ウェリントン率いるイギリス軍と、プロイセン軍を相手に、彼はかつての戦術を駆使して猛攻を仕掛ける。

だが、それは「過去の自信」をなぞっただけの戦争だった。彼の体力も、判断力も、もはや往年の輝きには及ばず、味方の遅延や誤報も重なり、最終的に壊滅的敗北を喫する。ここに「ナポレオンという神話」は完全に終焉を迎えた。捕らえられたナポレオンは、今度は大西洋の孤島・セントヘレナへと送られる。南大西洋の絶海、セントヘレナ島――地図の片隅にようやく見つかるほどの小島だった。

彼はそこで6年を過ごす。回想録を口述し、かつての戦いを振り返り、自らの神話を語り続けた。しかしその日々は、もはや勝利者の栄光ではなく、過去の亡霊と向き合う静かな時間であった。

ナポレオンがセントヘレナに送られる1年前――1814年5月29日、元皇后ジョゼフィーヌはマルメゾン城で静かに息を引き取った。「ボナパルト……」それが彼女の最後の言葉だったという。肺炎に倒れた彼女は、最期までナポレオンを案じ続けていた。

この報せを受けたナポレオンは、側近にこう漏らしたとされる。「私は二度、破滅した。ロシアで。そしてジョゼフィーヌを失って。」政治に翻弄された愛。勝ち続けることで壊れていった自己像。そして最後に残ったのは――“たった一人の女”への想いだった。

1821年、セントヘレナ島にてナポレオン死去。享年51歳。「余の死後、ヨーロッパは退屈するだろう」と語ったという。

彼の人生は、まさに情念と野望の交錯であった。撤退できない愛、後戻りできない戦争。ナポレオンは「合理の人」でもあり、「情念の人」でもあった。

情念とは、後戻りできない感情なのだ。それは、ときに国家を動かし、人心をも巻き込む。ナポレオンが築いた帝国は滅びた。だが、彼の情念は、いまも多くの人を惹きつけ続けている。それは英雄が征服した領土よりも、遥かに広い世界なのかもしれない。

(完)

『情報戦の日本史』近日発売

『情報戦の日本史』が近日発売されます。

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はじめに

本書は、日本における情報戦の歴史とその現代的な意義を探るものである。

古代における中国大陸や朝鮮半島との外交や軍事的駆け引き、武家政権や戦国時代に忍者を活用した謀略、天下統一を巡る熾烈な情報戦、幕末維新期の海外密使による諜報活動、さらに明治以降の大戦における情報戦――。これらは単なる過去の物語ではなく、現代社会における情報活用や意思決定、リスク管理の在り方に多くの示唆を与える重要な事例である。

本書では、これら歴史に埋もれた知恵や教訓を掘り起こし、新たな視点を提示することを目指す。歴史愛好家に対しては、情報戦の背後に隠された人間ドラマや戦略の深奥を掘り下げ、鮮やかな歴史像を提供したい。また、安全保障や企業経営の実務者には、戦略立案やリスク管理、さらには日常の情報活用に役立つ具体的なヒントを提供する。

現代の国際社会において、AI技術やビッグデータ解析の進展が加速し、情報はかつてないほど重要な資産となっている。情報は、国家間の競争や安全保障の基盤を形成する要素として、その価値をますます高めている。しかし、日本は戦後「スパイ天国」と揶揄されるほど防諜体制の整備が遅れ、国家や企業の情報流出が繰り返されてきた。こうした問題は、単に情報を「守る」ことにとどまらず、その根底には情報を効果的に収集し、国家戦略や意思決定に活用する「攻め」の姿勢が欠如しているという構造的な課題が存在している。

日本における情報課題の本質は、「防諜」と「対外情報」の二つの柱が十分に機能しておらず、国家全体のインテリジェンス・リテラシーが低い点にある。この問題の背景には、戦後の情報文化の断絶がある。日本は独自の情報機能を確立できず、その結果、国際情勢に翻弄され続けてきた。

かつて日本は、平安時代に和歌や仮名文字を駆使し、戦国時代には情報戦を、天下を決する手段として活用していた。明治以降の戦争でも、巧みな情報戦が勝利の要因となった。しかし、大東亜戦争の敗北とその後のアメリカによる占領政策によって、過去の歴史とのつながりが断たれた。占領軍は日本の情報活動を「危険視」し、その結果、情報機能を否定的に捉える風潮や自虐史観が定着した。

現在、中国をはじめとする諸外国は、こうした状況を巧妙に利用して高度な「情報戦」を展開し、日本国内の意識形成に影響を与えつつ、国際的立場を弱体化させている。この現実を直視しないことは、日本の将来に致命的なリスクをもたらしかねない。

したがって、国際社会における情報戦で劣勢を挽回するためには、過去の歴史を情報戦の視点から再検討し、戦後の反省を未来の戦略に活かすことが求められる。

巷では、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に関する戦術的な成功や失敗が盛んに議論されている。しかし、太平洋戦争における情報戦だけを取り上げるだけでは、問題の本質を十分に理解することは難しい。

たとえば、真珠湾攻撃では、戦術情報の秘匿が功を奏し奇襲に成功したものの、アメリカを長期戦に引き込み、結果的に日本の敗北を招く要因となった。また、ミッドウェー海戦での暗号漏洩は敗因の一つとして語られるが、物量差という現実を覆すことは困難だったとする見解が広く受け入れられている。つまり、開戦後の情報戦そのものの成否を議論する以上に、太平洋戦争に至る戦略的な意思決定そのものにこそ重大な問題があったことを認識する必要がある。

本書では、「なぜ日本は無謀な大東亜戦争に突入したのか?」という問いを中心に、昭和16年以前の情報戦の歴史を掘り下げる。日中戦争から太平洋戦争に至る流れを一連の「大東亜戦争」として捉え、その過程における情報戦の成果と失敗を検証する。すなわち、戦前の日本における情報収集や分析の制度的・文化的背景を分析し、特に戦略的意思決定の欠陥に焦点を当てる。また、古代から明治時代、そして現代に至る歴史的背景との比較を通じて、現代日本が情報戦においてどのような教訓を得るべきかを明らかにすることを目指す。

本書の特徴は以下の点である。

第一に、本書は、明治以降や現代のスパイ活動に焦点を当てた従来の情報戦関連書籍とは異なり、古代から戦国時代に至るまでの日本の情報戦にも光を当てる。孫子の兵法伝来説や楠木正成の戦術、忍者の役割、武士道の精神など、日本独自の情報戦の要素を掘り下げることにより、「島国ゆえに情報に疎い」という従来の見解に新たな視座を提供する。

第二に、日清戦争や日露戦争における情報戦の成功と、大東亜戦争における敗北を対比し、情報戦が国家戦略にどのように貢献したかを検証する。この分析を通じて、現代の国際情報戦に活かせる教訓を導き出すことを目指す。

第三に、日本の外交戦や情報戦を、特に中国、アメリカ、イギリス、ソ連と比較し、敗北の原因を明らかにする。特に満州事変以降における各国の情報活動や、国家戦略と連携したプロパガンダや浸透工作を分析し、日本の情報戦が国家戦略との連携を欠いていたこと、その結果として情報戦で劣位に立ったことを明らかにする。

第四に、著者自身の防衛省情報分析官としての経験をもとに、戦史を辿りながら情報理論の観点から独自の見解を加えている。この視点により、本書は単なる歴史書にとどまらず、情報戦の歴史を学ぶと同時に、インテリジェンス理論を学ぶ手がかりを提供する内容となっている。

本書では、「情報戦」という言葉を広義に使い、情報活動や情報戦略を含む意味で使用している。これにはサイバー戦やメディア戦など、情報空間やサイバー空間での優位性を指しつつ、旧日本軍が用いた「秘密戦」(諜報、防諜、宣伝、謀略)も含まれている。

米中対立が進む現代、情報の重要性はこれまで以上に高まっている。情報は安全保障の基盤であり、その収集、分析、運用の巧拙が国家の行方を左右する。本書が、過去の情報戦の知恵と教訓を未来へとつなぐ架け橋となり、日本の戦略情報活動や防諜体制の在り方を考えるきっかけとなることを切に願う。

『情報戦の日本史』3月27日刊行のお知らせ

このたび、私の新著『情報戦の日本史』が2025年3月27日に刊行されることとなりました。

本書は、2018年1月から2019年12月まで、エンリケ氏が運営するメールマガジン「軍事情報」に連載していた拙稿「日本の情報史」を土台に、新たな視点や考察を加えて再構成したものです。

陸軍中野学校については、すでに前著『情報分析官が見た陸軍中野学校』(並木書房、2021年)で詳しく取り上げておりますので、本書では要点のみにとどめ、より広く、古代から太平洋戦争に至るまでの日本の情報活動全体を整理・考察することを目的としています。


歴史をどう読むか――「解明」と「考察」

歴史研究には、大きく分けて二つのアプローチがあります。一つは、資料の発見や仮説の検証などを通じて史実そのものを明らかにする「解明型」の研究。もう一つは、すでに知られている史実に基づき、「なぜそうなったのか」「どうすればよかったのか」を問い直す「考察型」の研究です。

本書は後者のスタンスで執筆しています。史実をただ追うだけではなく、その背後にある意図や背景を読み解き、現代に活かせる視点や教訓を引き出すことを目指しました。そのため、あえて記述の細部を調整し、読者の方にとって理解しやすく、実務や日常に応用しやすい内容となるよう工夫しています。

もちろん、どんなに広く知られた史実でも、解釈の仕方は一つではありません。また、特に情報活動のような分野では、誇張や脚色が加わりやすいことも事実です。たとえば陸軍中野学校のような題材は「スパイ学校」としてセンセーショナルに語られることが多いですが、私自身が卒業生やご家族に取材した限りでは、実際の姿とはかなり異なる面も見えてきました。


「陰謀論」の向こう側にある現実

現代では、「陰謀」や「工作」といったテーマが、時に過剰に「陰謀論」として扱われ、学術の場から排除される傾向があります。しかし、実務の視点からすれば、そうしたテーマにも真剣に向き合う必要があると私は考えています。

たとえば、米国の「赤狩り」時代にスパイ容疑で死刑となったローゼンバーグ夫妻の事件は、長年「冤罪」とされてきましたが、1995年に公開された「ヴェノナ文書」によって、ジュリアス・ローゼンバーグがソ連の諜報員だったことが明らかになりました。

こうした事例は、「陰謀論」と片づけられた話の中にも、後に真実と判明する要素があることを示しています。したがって、安易に否定するのではなく、冷静かつ多角的に検証する姿勢が重要だと思います。

本書でも、近衛文麿政権下で囁かれた「敗戦革命」――あえて敗戦を誘導し、国内体制を大きく変えようとしたのではないかという説――に触れました。証拠が乏しく、陰謀論と受け取られるかもしれませんが、歴史の背後にある「動機」や「思惑」を探る視点として、注目に値するテーマだと感じています。


歴史は「物語」でもある

歴史は単なる過去の記録ではなく、時に「物語」として、人の心に語りかけてきます。その物語が私たちに何を問いかけ、何を残すかが、歴史研究の醍醐味であり、意義でもあるでしょう。

私自身、自分の思想を一つに定めているわけではありません。さまざまな立場や価値観に触れながら、フラットな視点を心がけてきました。それでも、心を動かされたエピソードというのは確かにあります。

たとえば日露戦争の時代、将来を期待された若い将校たちが、自らの出世を捨てて身分を隠し、花田や石光のように情報の最前線で活躍しました。また、「シベリアのからゆきさん」たちが行った献身的な支援や諜報活動も、知られざる貢献として本書では取り上げています。

中野学校の卒業生たちも、滅私奉公の精神で海外の任務に赴き、国に尽くしました。もちろん、そうした愛国心が時に誤った方向へ進み、大東亜戦争へとつながった側面も否定できません。しかし、いまのような国際環境の中で、「国を守りたい」「仲間を守りたい」「文化を継承したい」という想いは、なお重要な意味を持っていると私は考えています。

本書を通して、そうした愛国心に根ざした冷静で戦略的な行動が、これからの時代の情報戦でいかに大切かを、お伝えできれば幸いです。

2025年あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。最近はスマホでX(旧Twitter)にツイートすることが多く、このウェブサイトの更新がご無沙汰になってしまいましたが、引き続き〝存続〟しています。
昨年秋以降、産経新聞に書評を執筆させていただいており、その掲載分を3件こちらに投稿しました。ご覧いただき、ご興味を持たれましたら、ぜひ該当の著書もお読みいただければ幸いです。評者として大変光栄に思います。

今年は新たに2冊の著書を刊行する予定です。
1冊目は、日本の情報戦の歴史について取り上げたもので、古代から太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)までを扱います。太平洋戦争に関する書籍は数多くありますが、真珠湾攻撃が戦術的には成功したものの、戦略的には敗北であった点を重視し、その後の情報戦の是非を論じるよりも、「なぜ無謀な大東亜戦争に至ったのか」という視点から、開戦前の情報戦を主題としています。

もう1冊は、中国の戦略をテーマにしたもので、兵法、特に「兵法三十六計」を切り口に、毛沢東から習近平まで歴代の指導者の戦略を分析します。また、未来の台湾に関する戦略についても予測を試みる内容にしたいと考えています。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2030年の台湾有事の認知戦シミュレーション(第7回=最終回)

■サイバー・認知戦が勃発

「それにしても、最近、停電や電波障害、金融システムの障害などがよく起きるが、何かの前触れなのだろうか。だが、このところの異常気象で線状降水帯による大雨が多いし、風力や太陽光発電などもエネルギー効率が高くなく、進展していないのでそのせいもある。」

最近はなんだかおかしいなと言う気配は感じても国民はあまり深刻に考えていないようです。

2030年春、中国軍が台湾対岸での合同訓練を実施しました。この訓練ではミサイル射撃訓練が行われ、日本のEEZを含む台湾周辺に航行制限区域が設定されました。

ある五月の日没後、沖縄で大規模な停電と通信障害が発生しました。停電は三日後には復旧しましたが、通信障害は完全には解消されていません。後に、これらの問題は破壊型マルウェアによるサイバー攻撃が原因であることが判明しました。

また、本土と沖縄間の通信速度が大幅に低下していることから、海底通信ケーブルの破損が懸念されています。このため、臨時の衛星回線が構築されていますが、一般市民の通信利用には制限がかかり、オンラインサービスも停止されました。

これらの影響により、政府は復旧に全力を尽くすと発表しましたが、一週間後も状況は改善されず、沖縄の市民は困惑しています。三週間後には通信は復旧しましたが、沖縄のテレビ局や自治体のウェブサイトは依然としてDDoS攻撃を受け、アクセスが困難な状況が続いています。

この中で、台湾と友好的な日本企業のウェブサイトが改ざんされ、中国の国旗とともに「戦争の原因は台湾にあり、台湾と関わりのある者は制裁を受ける」との警告文が掲載されました。これにより、台湾のコミュニティや台湾に友好的な日本人の間で動揺が広がり、日本政府は台湾政策に対する議論の増加に警戒しています。

一方、スマートフォンのソーシャルメディアは正常に機能していました。調査したところ、「米軍や自衛隊が沖縄県民を守る意思はない」「停電中に米軍兵士が商品を強奪した」といった情報が流れていました。さらに、ソーシャルメディア上では、沖縄県と沖縄電力が「今回の停電は米軍と自衛隊との共同演習で送電線の一部が破断されたことが原因である」と発表したとの記事が広まっていました。

その後、米軍兵士が少女たちをレイプしている動画が現れ、米軍基地や自衛隊駐屯地には市民による抗議デモが発生し、本土からの参加者も加わりデモは拡大していきました。

中国は、日本が非常事態になりつつあると判断し、「国防動員法」をもとに九州と沖縄にいる中国人に帰国を命じました。そのため、那覇空港や南西諸島の飛行場は大混乱となり、軍民両用であるため自衛隊機などの運用にも支障を来すことが懸念されました。

さらに数日後、尖閣諸島領海内に十数隻の海警船が侵入しました。第十・十一管区海上保安部は自力での対処が困難と判断し、他の管区からの支援を要請しました。しかし、北朝鮮によるミサイル発射のニュースや、ロシアの北方領土での軍事演習が始まったこともあり、他の管区からの支援はままならない状況でした。海上自衛隊でも同様な状況が生じていました。

数時間後、尖閣諸島の領空に中国と思われる無人機が数十機侵入しました。我が国は無人機による領空侵犯に対処を試みましたが、無人機は兵器を搭載していないため、次々と撃墜されました。無人機に対する法律が整備されていないこともあり、有人機を使っても無人機に対処することが難しく、対空ミサイルによる撃墜もできませんでした。

さらに、海上自衛隊と米軍が駐留する岩国基地や、AIWACSが駐機する浜松基地にも、誰が送ったのか分からない無人機が飛来し、電波障害が発生しました。

日本政府は有事認定についての議論を続ける中で、防衛態勢への移行には躊躇していました。

数時間後、尖閣諸島に海警船数隻が上陸し、対空ミサイルやレーダーと思われる装置を設置する状況を偵察衛星が捉えました。しかし、その後、偵察衛星の信号が遮断され、詳細はわからなくなりました。

我が国は海上警備行動をとるにとどまっていましたが、現地の自衛隊は防衛出動の準備で混乱していました。

この時、台湾の飛行場のレーダーや通信が障害を受けたというニュースが入りました。さらに、中国が台湾に対して弾道ミサイルを発射し、高雄港や台中の空軍基地に着弾したとの報道も入りました。

中国による台湾への軍事侵攻が開始された模様です。沖縄や尖閣諸島での一連の不審な動きは、この軍事行動と連動し、日米の対応を妨げるものでした。

(おわり)

2030年の台湾有事の認知戦シミュレーション(第6回)

■認知戦・AI戦争に脆弱な日本

わが国は、中国の台頭以来、北方重視から南西重視の防衛方針への転換を図ってきました。しかし、ウクライナ戦争により、ロシアがわが国の脅威であることが明確となり、防衛関係者の間で北方および日本海への備えの強化が議論されるようになりました。しかし、予算や資源の限られた中では、全面的な対処は難しく、また南西重視方針の変更は容易ではありません。

わが国は、これまで個別の事態を想定した防衛力整備を行ってきましたが、中国、ロシア、北朝鮮による複合的な攻撃や不法行動を想定したものではありませんでした。このため、複合的な事態に対応する能力が不足していました。

さらに、ウクライナ戦争の教訓から、中国は無人機やAI搭載型の自律兵器の開発を急ピッチで進めています。一方、わが国も中国の台湾周辺空域への無人機侵入に対抗すべく、無人機活用の検討を開始しています。しかし、法的な制約により、無人機は兵器未搭載型であるため、有事において十分な対処ができない状況です。

防衛関係者は、中国、ロシア、北朝鮮がサイバー・情報戦や認知戦、AI戦争の準備を進めていることを認識していますが、この脅威認識が国民にはうまく伝わっていませんでした。

また、わが国はウクライナ戦争の教訓を十分に活かすことができませんでした。ウクライナがロシアに対して善戦できたのは、2014年のウクライナ危機以降、官民挙げてファクト・チェック体制の構築、インテリジェンス・リテラシーの強化、サイバー・レジリエンスの向上などに取り組んだ成果があったからです。しかし、わが国はこの教訓を認識しても、結局は省庁間の対立や縄張り争いから、ファクト・チェック体制の構築や国民の啓発教育が進展しなかったのです。

わが国は第一次世界大戦の教訓から総力戦の重要性を認識していましたが、軍官対立によって後れをとりました。同様に、偏狭的な民族的特性が総体的な対策の実行を妨げました。

わが国の社会では、AIの普及によるネガティブな状況が広がっています。日本民族は群れを成し、同調主義に陥りやすいとされ、生成AIの普及により思考や判断を回避する傾向が強まっています。これにより、ソーシャルメディア上のインフルエンサーの意見に同調し、根拠のないデマや儲け話が拡散され、短絡的な暴力行為が増加しています。

日本社会では、右翼・左翼、リベラル・保守の主義や主張、世論の分断が見られ、それが歴史認識や政策をめぐる過激な論争に発展しています。集団自体の意見や価値観を主張し、他者との対話や妥協を困難にする傾向が強くなっています。

■リベラル思想が強まる南西方面

2010年代に入り、中国の南シナ海や東シナ海への積極的な進出が加速しました。この動きにより、沖縄・南西諸島地域では、戦後以来続いてきた反戦・リベラル・左派の立場に対抗する形で、国防・保守・右派の意見が強まり、自衛隊の誘致も進んできました。一方で、米軍撤退論は依然として根強く存在していました。

2020年代後半以降、沖縄本島や南西諸島では、米軍基地の撤去や中国との関係改善を求める声が高まり、これに対し防衛力の強化を求める意見との間で対立が生じています。政府と地域住民が一体となって南西防衛を強化してきましたが、最近ではその流れが停滞している兆候が見られます。

一部のマスメディアやソーシャルメディアでは、「中国を刺激することは危険だ」「政府は沖縄を犠牲にしている」「中国が攻撃しても米軍は守らない」「誘致した陸上自衛隊基地は地域経済に貢献しないばかりか風紀を損なう」などのネガティブな情報が広まっています。

沖縄の地方新聞では、「琉球は独立国であった」といった独立運動を促す特集が組まれています。これに呼応するかのように、小規模な独立運動が起きており、噂では運動参加者に手厚い日当が支給されていると言われています。

2030年現在、沖縄地方での国政選挙や地方選挙では、与党が軒並み敗北しています。野党候補は政権公約に米軍基地の撤去や自衛隊の縮小、中国との経済関係の構築を掲げて支持を集めています。彼らの街頭演説は従来にない盛り上がりを見せています。

(次回に続く)

2030年の台湾有事の認知戦シミュレーション(第5回)

■二〇三〇年の東アジア情勢

ウクライナ戦争は開始してから3年後に一応の停戦状態を迎えましたが、2030年現在、依然として散発的な衝突が続いています。国連は存続していますが、北朝鮮の核ミサイル問題などでは、中露が拒否権を行使するなどの問題があり、機能不全に陥っています。多くの国々は、両陣営の動向を見守りつつ、自国の国益のみを追求する傾向が強まっています。

2028年の大統領選挙でプーチンが引退したものの、新たな愛国主義的な大統領の下でロシアの権威主義体制には変化が見られません。ウクライナ戦争による経済的な疲弊は続いていますが、中国からの援助によってロシア経済は持ちこたえています。これに関して「中国の属国化」と揶揄される声もありますが、いずれにせよ、ロシアと北朝鮮は影響力を保持し続け、対米牽制を中国と連携して行っています。

ウクライナ戦争で疲弊しなかった中国は、欧州経済の救世主として「一帯一路」を推進し、約10億の海外市場を獲得しました。これらの顧客データはAIのビッグデータとして活用されています。このような状況から、中国は2017年7月に掲げた「2030年までにAIで世界をリードする」という目標をほぼ達成しています。

2027年年に習近平の第四次政権が始まりました。習は2035年までに経済規模で世界第一位を達成することを目指していますが、「台湾への軍事侵攻は得策ではない」と考えています。ただし、台湾の独立阻止のための武力統一の選択肢は放棄していません。

■習近平が中台戦争を決意

2021年の春、米軍高官が2027年頃に中国が台湾に侵攻する可能性が高まると言及しました。しかし、2024年の台湾総統選挙では民進党候補が総統に付きましたが、国民党が立法院会での議席を伸ばしました。その結果、二〇二二年の米下院議長の訪台や蔡英文総統の訪米などのような、中国を刺激する動きはなかったため、中台関係は比較的安定していました。

中国はウクライナ戦争の教訓から、十分な戦争準備を行い、米軍が本格的な介入を行う前に速戦即決を追求していました。つまり、兵員の犠牲を最小限に抑えることが重要であるとの教訓を得ました。また、米国の関与については、核保有国である中国との戦争に関与するリスクを回避する可能性があるものの、その保証はないと判断されました。

これらの教訓に基づき、中国は軍事作戦開始前に台湾社会を不安定化させることや、在日米軍の戦力発揮を妨害することが極めて重要であると認識し、サイバー・情報戦および認知戦、AI戦争の能力を高めることに力を入れました。

習近平の政権基盤は安定していましたが、経済成長率は停滞し、少子高齢化が進行し、最近では2035年に経済規模で米国を追い抜くという経済目標は遠のいていました。

2028年に行われた台湾総統選挙では、再び民進党候補が総統に選出されました。台湾は以前の蔡英文政権以上に米国や日本との連携を強め、半導体の対中輸出規制などを行うようになりました。

中国国内では経済停滞や民衆化デモが生じ、一部で習近平の退陣要求が高まり、国営メディアや軍機関紙である『解放軍報』などでは台湾に断固たる対応をとるべきだとの主張が強まっています。

2030年、習近平は七六歳の誕生日を迎えましたが、82歳で死ぬまで国家指導者であった毛沢東に倣い、2032年の党大会で後継者へのポスト譲渡を示唆する姿勢は見せていません。

しかしながら、経済での米国超えが困難である状況下で、国民の不満が高まっており、小規模な「倒習」運動が勃発しています。習近平は国民に対し、中国こそが世界のリーダーであり、中国共産党が中国の歴史上最高の指導者であることを自国民および世界に向けて強調しています。

米国の情報によれば、習近平は側近の二人の軍事委員会副主席に台湾軍事作戦の検討を命じたとされます。彼らは以下のように総括したとの情報が日本側に伝えられました。

「台湾海峡を越えて全面的な台湾上陸侵攻を行う軍事力は十分ではありませんが、潜水艦、ミサイル、爆撃機を利用して米軍の来援を阻止し、電撃戦によって政治中枢の台北市を占領することは可能です。本格的な智能化戦争を行う体制は整っていませんが、自律型兵器の導入により、台湾および日米の防衛行動を混乱させることができます。いずれにせよ、ウクライナ戦争以降重視してきたサイバー・情報戦および認知戦によって、台湾および日米の戦闘意志を事前に喪失させ、電撃戦を追求することが重要です。」

(次回に続く)

2030年の台湾有事の認知戦シミュレーション(第4回)

サイバー・認知戦の勃発の可能性大

■軍事におけるAI技術の趨勢

2030年現在、AIは既にサイバー・情報戦の領域で複数の側面で活用されています。これには、情報収集、分析、戦術的な意思決定などが含まれます。例えば、軍事作戦ではAIが情報収集のターゲットを自動的に絞り、有用な情報を大量に収集し、その中から目的に役立つものを選定し、傾向や過去との関連性を特定し、有用なインテリジェンスを作成し、戦術的な意思決定に役立てています。

また、AIは過去の戦略・戦術を研究し、実戦的なシナリオを想定した訓練を実施したことが新たな戦術や戦略を編み出す契機になっています。電子戦では、AIを活用して攻撃に最適な電波方式や周波数などを自動的に割り出し、敵の通信・電子施設などの妨害・破壊に活用しています。サイバー戦では、ボットを利用した自動的な攻撃を行なうほか、防御システムにAIを組み込むことで敵の攻撃を検出し、自動的に対策を展開するなどを行なっています。また、攻撃者が自立システムの動作やパターン認識機能を意図的に制御・操作し、攻撃者の秘匿性を高める試みが行なわれています。

サイバーセキュリティの分野では、機械学習アルゴリズム(マシンアルゴリズム)を用いてセキュリティイベントやアラートを分析し、潜在的な脅威に対処することが実用化されています。今後は、これらのAI技術がサイバー・情報戦の領域でさらに進化するとともに、認知戦やAI戦争への発展を促すと見られています。

認知戦の戦法では、サイバー空間で情報を取得して、対象となる人間の心理・認知的弱点を見つけ出し、偽情報を拡散するなどにより世論を操作し、これを武器にして真の攻撃対象である国家・軍事指導者の意思決定に影響を与えることになります。専門家は、近い将来には非人間であるAIが人間の心理の介在なしに状況を認知して意思決定を行う、アルゴリズム戦争が主流になると指摘しています。

「智能化戦争」に余念がない中国

米中のAI覇権戦争は2010年代後半から始まりました。当初は、自由・民主主義の旗印のもとで、巨大なテック企業と多数の有能なイノベーターを抱える米国が勝利することは当たり前と考えられていました。しかし、2030年現在、国際社会のAI規制に応じない中国の方がAI大国として優位に立ちつつあります。2017年、AIロボット分野の指導者たちは、国連に致死性自律型兵器の禁止を求める公開請願書に署名しました。当初は、自律型兵器の定義も各国でバラバラで、規制を巡る議論の論点が定まりませんでした。

しかし、2020年以降、ChatGPTが誕生した頃から、西側はAIの脅威を深刻に認識し始めました。G7などの国際会議では、完全自立型のロボット兵器が民間施設を攻撃すれば、その行動に誰が法的責任を有するのか、プログラマー、製造者かといった問題が議論されました。また、人間の生死に関わる決定をマシンに委ねてよいのかという倫理的な問題も提起されました。

このような議論の高まりの中で、米国はAI規制に着手し、中国にも規制に従うよう合意を求めました。これに対し、中国は規制に応じることなく、逆に欧米のテック企業の技術者などを多額の金銭で引き抜き、国営企業に多額の資本を投入して、独自のAI路線を推進しました。

現在、中国は「AIと調和して発展する中国」「無秩序なAIの発展が社会を混乱させる」などの論説が世界で増加しています。AIを使ったソーシャルメディア上の巧妙な偽情報により、民主主義国家のリーダーや国民は徐々にその影響を受け、無意識のうちに権威主義的な価値観に傾斜していくことが懸念されています。国内のソーシャルメディアでは、政権与党の批判や政府高官のスキャンダルの暴露が盛んに行われ、国民の政権批判と政治離れが顕著になっています。

中国はすでに完成したAI指揮意思決定システムを活用し、初期型の自律型兵器を誕生させています。現在、ナノエレクトロニクス、ナノセンサー、ロボットなどの軍事技術を用い、自律型AIが人間の介在なしに状況判断、意思決定、指令を行う機能を整備しているようです。これが2030年代初頭に提起された「智能化戦争」の準備であると言えるでしょう。

米国の研究者は、中台戦争では人間の認知・心理の領域を超えたAI戦争が局部、局面ならば、いつ起きても不思ではないと指摘しています。軍事専門家などが予測するAI戦争の様相は次のようなものであります。「戦場から遠く離れた作戦室では指揮官や幕僚に代わってAI指揮意思決定システムが膨大なビッグデータを処理し、最適の作戦行動を決定して  

計画と命令を起案・発令する。戦場空間では、汎用AIを搭載した小型無人機が長時間連続飛行し、自らの判断で相手国の領空に侵攻し、領土の目標を攻撃するなどの状況が生じるでしょう。」

(次回に続く)

2030年の台湾有事の認知戦シミュレーション(第3回)

社会の不安定化と影響力工作が進展する我が国

■日本社会の分断化が進展する

最近では、誤った集団心理によっていじめや極端な暴行が増加していると言われています。ある権威者によれば、「一人ではあまり過激な思想を持っていない人でも、大勢が集まると次第に思考が過激化していき、特定の誰かを攻撃する」といった事件が増えており、これを「集団極性化」と呼んでいます。

特にインターネットの世界では、思想の似通っている者同士が簡単に集団を形成しやすくなっており、「集団極小化」が起こりやすい状況です。

例として、2020年前後に猛威を振るった新型コロナ禍の中で発生した「コロナ自警団」は、その顕著な事例と言えます。ソーシャルメディアを通じて知り合った個人による連帯集団が、ウイルスの感染者が発生した大学に対して脅迫電話をかけたり、県外ナンバーの車に傷をつけたり、「感染リスクが高い」とされる職業に従事する親を持つ子どもを学校から排除しようとしたりしました。更には感染者の個人情報を無許可で公開し、集団で誹謗中傷やブラックメールを送りつけたことで、情報モラルの違反や他者への人権損害が生じました。

事件発生当時、政府の自粛要請を受け入れない「不届き者」を制裁しようとする一団が、正義の使者を装い、制裁行為をエスカレートさせました。彼らは政府に従うことで自らも小さな権威者となり、自らを正当化し、感染者を村八分にするかのような犯罪行為に手を染めたのです。

さらに、2022年からのウクライナ戦争では、「集団極小化」が一層進んでいます。一部の政治家や地域専門家が「NATO不拡大約束(1990年2月9日)」や「ミンスク合意(2014年9月5日)」などを根拠に、「欧米にも戦争責任がある」といった意見を主張すると、たちまちソーシャルメディアやマスメディアで叩かれる事態が起こりました。ロシア側の視点に立って「戦争の原因が2015年のミンスク合意を欧米が破ったことにある」と述べようものならば、「ロシアに味方するのか!」「侵略したロシアが悪いことに決まっている!」との怒号を浴びた。

2030年現在、個人が身勝手な思い込みや政府方針、有力集団の主張を盾に自己満足のために他者の人権を侵害するケースがますます増えています。

難民受け入れ問題、LGBT法案、防衛問題、宗教対策、教育保障、環境問題、デジタル化問題、年金と税金をめぐる問題は、社会を分断させる問題だと認識されています。

国民のインテリジェンス・リテラシーの低下や判断することの回避、選挙や政府の法案決定などの際に起きる集団極小化と情報モラルの違反、政府のデジタル化政策の推進と情報管理体制の杜撰さから起こる個人情報の漏洩などのデジタル社会の暗部が露呈されてきました。

多くの見識者は、このような状況が続けば、結果として社会全体の一体感や調和を揺るがすことになると指摘しています。

戦後、外部からもたらされたとはいえ民主主義を謳歌してきた日本が、それを守るために民主主義にメスを入れるのか、それとも民主主義の精神を尊重し、規制を自粛するのか岐路に立っています。

■権威主義国家がますます優位に立つ

わが国をはじめ、欧米諸国はAIが社会を分断化させることを危惧し、AIの不適切な利用を制限するため、基準を設けようとしていますが、自由・民主主義を盾にした反対勢力により、その施策は停滞しています。

一方で、権威主義国家は、自国に都合のよい法律と解釈を用いて、AIの技術開発で優位に立とうとしています。

わが国の隣国である中国は、中国共産党の許可を得た組織や個人だけが国家目的に限ってAIを利用できると定めた法律を制定しました。国民が共産党の許可なくAIを利用することを禁止したのです。

これらの措置が奏功したのか、中国国内の民主化デモは国民の「ガス抜き」程度にとどまっていると考えられています。

最近、世界では「AIと調和して発展する中国」「無秩序なAIの発展が社会を混乱させる」など、中国を賞賛し、欧米のAI政策を批判する論説が増加しています。

AIを使ったソーシャルメディア上の巧妙な偽情報により、民主主義国家のリーダーや国民が徐々にその影響を受け、無意識のうちに権威主義的な価値観に傾斜していくことが懸念されています。

わが国のソーシャルメディアでは、政権与党の批判や政府高官のスキャンダル暴露が盛んに行われ、国民の政権批判と政治離れが顕著になっています。

一方で、かつて米国にトランプ政権が誕生したように、最近の国政・地方選挙では、自主国防、米軍撤退、核兵器保有、移民反対などの右傾的な政府公約を掲げる候補が当選するケースが増えています。

こうした情勢を見て、不安定化と影響力の行使を目標とする某国の認知戦が行なわれていると警告する声も出ています。

わが国では厳しい銃規制にもかかわらず、インターネット上の知識と3Dプリンターを使って模造銃を製造するケースが後を絶ちません。

2022年には元総理大臣が銃殺される事件が発生しましたが、ソーシャルメディアはその犯人を称賛したり、刑の軽減を求める声を拡散させたりしました。

この事件では第三国による犯罪者のマインドコントロールも警戒すべきとの声が起こりましたが、わが国の国民が第三国による影響工作のターゲットになりやすい側面があるのは否定できません。

(次回に続く)