南北首脳会談

会議は踊る、されど進まず

第5回南北首脳会談が開催

さる9月19日から20日にかけて、今年に入って第3回目、歴史的には第5回の南北首脳会談が開催されました。 平壌で南北首脳会談が行われるのは今回で3回目となります。過去の2回は、2000年6月の金大中政権、2007年10月の盧武鉉政権の時代であり、北朝鮮側は金正日氏です。韓国側の両政権はいずれも親北朝鮮政権であり、当時は、「太陽政策」という外交的緊張緩和政策が取られていました。

いずれも南北関係の改善に向けたさまざまな取り決めがなされましたが、現在までの南北対立の継続や、北朝鮮の核ミサイル開発の経緯を見るにつけ、過去の南北首脳会談が関係改善に成果があったとは言えません。

今次の南北首脳会談は規定路線

今回の南北首脳会談の経緯は本年2月にさかのぼります。金永南・最高人民会議常任委員会委員長と金正恩委員長の実妹・金与正氏が、平昌オリンピック開催期間中に韓国を訪問し、文在寅・韓国大統領と会談を開きます。その際、与正氏は、文大統領に金委員長の親書を手渡し、近く北朝鮮を訪問するよう要請しました。

その後、4月27日に文大統領と金委員長との間で、第3回南北首脳会談が板門店(韓国側施設)で開催され、その共同宣言(板門店宣言)のなかで、本年秋に文大統領が平壌を訪問することが合意されました。

報道ぶりを見ますと、 今回の南北首脳会談が、このところの米朝関係の膠着状態を打開するために行われたかのような印象を受けますが、まずは南北が 両国関係の改善の礎石となる終結宣言、さらには南北統一のための布石を打つことに狙いがある点を押さえておく必要があります。

第2に、北朝鮮が経済再建をうたい、韓国経済が停滞するなか、両国における経済関係の進展に狙いがありました。 それは、今回の文大統領の訪朝に際し、サムスン電子副会長はじめとする4大財閥トップなど17人の経済人が同行したことからも明らかです。

今回の平壌共同宣言では、鉄道と高速道路の連結事業に関し年内に着工式を実施する、中断中の開城(ケソン)工業団地や金剛山の韓国事業を再開する、経済共同特区の創設を協議するなどがうたわれています。

平壌宣言には新味なし

今回の南北首脳会談では、文大統領は北朝鮮側の演出を凝らした大歓迎を受け、聖地である白頭山を訪問し、全世界に向けて、同一民族の融和と統一に向けた正統性を訴えました。

さらには、金正恩国務委員長が文在寅大統領の招請により、近い時機にソウルを訪問することが合意されました。また、2020年の東京オリンピックを始めとする国際競技に共同で積極的に進出し、2032年夏季オリンピックの南北共同開催を誘致するための協力が謳われました。

このように、南北の友好ムードが最高潮に演出されましたが、平壌宣言自体は、今年の過去2回の首脳会談に比べて新味があるものとはいえません。 4月の南北首脳会談では2018年内に目指して停戦協定を平和協定に転換することが話し合われ、8月13日の南北閣僚級会談において、9月の南北首脳会談の開催が決定されました。

南北朝鮮は今回の首脳会談において、敵対関係の解消と融和路線の前進を全面的にアピールし、9月下旬に予定されている国連総会での米韓首脳会談あるいは米朝外相会談において終結宣言に向けた米国の同意を得るよう画策する腹づもりなのでしょう。

しかし、終戦宣言は米国にとって、米韓同盟の在り方、在韓米軍駐留、韓国に対する核の拡大抑止といった複雑な問題に影響を及ぼすため、おいそれと応じることはできないようです。 ここには、現在の核を保有したままで南北統一を目論む北朝鮮の野心と、文大統領が率いる韓国親北朝鮮が見え隠れしているのです。

北朝鮮は8月3日と4日にわたって開かれたアセアン地域フォーラムの閣僚会合で、米国側に北朝鮮制裁の緩和と終結宣言を要求したようですが、米国は非核化が先に行われない限り制裁を継続すると応じ、終結宣言に「ノー」を突き付けたようです。

一方、北朝鮮は米国の終結宣言などが、非核化の前提であるとの立場を保持しています。しかも、北朝鮮の非核化ではなく、在韓米軍の撤退などをも長期的視野に入れた朝鮮半島の非核化を主張しています。したがって、米朝間の食い違いが鮮明となっていました。

今回の首脳会談の合意を見るかぎり、終結宣言という言葉自体も盛り込まれることがありません。この点では4月の南北首脳会談から、朝鮮戦争終結宣言はまったく進展しているとはみられません。

非核化の進展はあったのか

6月12日のシンガポールでの米朝首脳会談では、米朝双方は朝鮮半島の核の完全廃棄では合意したものの、具体的な核廃棄プロセスの合意には至りませんでした。     今回の平壌宣言では、 核の非核化について、東倉里(トムチャンリ)ミサイル発射施設を専門家の立ち合いの下で廃棄する、米国が相応の措置をとれば寧辺(ヨンビョン)核施設を廃棄することがうたわれました。

両施設はいずれも対米向けの施設です。南北の合意文書に「米国が相応に措置を取れば」という文言を入れること自体が異質であり、北朝鮮は今回の南北首脳会談において、対米懐柔を相当に意識したとみられます。

今回の平壌宣言の内容は、 核の長距離ミサイルの発射施設を専門家の立ち合いの下で廃棄する点はやや目新しさの感があります。しかし、これまで米国が要求してきた、①すべての核兵器と保存場所を公開して査察に応じる、②核兵器や大陸間弾道ミサイルの一部を早期に国外に搬出する、などの要求レベルに答えるものではありません。

また、核施設についても国内に100か所近くあると推定され、すでに35発程度あるとされる核弾頭の扱いなどはまったく不明です。

つまり、北朝鮮は、米国が終結宣言や経済制裁の解除に応じるならば、米国に指向される核ミサイルの開発は断念します、と言っているのに過ぎないのです。
これでは非核化の前進と評価することは到底できません。

北朝鮮による対中接近

米朝首脳会談が実現する見通しが立った3月以降、北朝鮮の顕著な行動の一つとして対中接近が見られました。

3月25日から26日かけて、金正恩委員長は、中国を非公式に訪問し、26日には習近平主席との首脳会談に臨みます。これは金委員長にとっての初の外遊となりました。

韓国と米国との二つの外交交渉に臨むに際し、まずは「中国ファースト」という歴史的な慣例を遵守することで、ここ最近の険悪化した中朝関係を修復するとともに、二つの歴史的会談を前に中国の後ろ盾を得たいとの思惑があったとみられます。

そして、4月27日の南北首脳会談前の4月21日には、北朝鮮は核実験とICBMの発射実験を中止して、核実験場を廃棄するという宣言を行いました(ただし、この際に非核化には言及していない)。

ところが、ポンペオ米国務長官は5月2日、北朝鮮に「恒久的かつ検証可能で不可逆的な」核廃棄を求める方針を示しました。まずアメリカが北朝鮮に対して米朝首脳会談におけるハードルを設定したとみられます。なお、これに対する北朝鮮側の回答はありませんでした。

5月7日~8日、金委員長は再び訪中します。これは、ポンペオ国務長官の訪朝の直前でした。 この時、金委員長は大連で習主席と会談しましたが、おそらく4月27日の南北首脳会談の結果などを報告したほか、米朝首脳会談における中国の支持獲得が狙いであったとみられます。

中国国営新華社が金委員長の訪中を受けて次のように報じます。

「関係国が敵視政策をやめれば、朝鮮は核を持つ必要がなくなり、非核化が実現できる。朝米対話を通じて、互いの信頼を確立し、関係国が責任を負って段階的で同時に措置を取ることを望んでいる。 習主席は、北朝鮮が核実験の停止や核実験場の廃棄などを表明したことを称賛し、その上で朝鮮が経済建設に戦略の重心を移し、発展の道を進むことを支持すると応じた」。

米国の強硬姿勢に対し、 おそらく金委員長は、朝鮮半島の非核化についての「北朝鮮プラン」(段階的、同時・並行的解決)についての中国から支持を得るとともに、米朝関係の修復ができないとしても中国から水面下での経済支援を受ける確約を取り付けた可能性があります。

すなわち、米朝交渉に臨むにあたって米国が要求する「北朝鮮の完全で検証可能かつ不可逆な非核化(CVID)」ではなく、中国の支援を受けて「段階的、同時・並行的な朝鮮半島の非核化」で応じる戦術を固めたとみられます。

北朝鮮による硬軟両用の戦術

中国の後ろ盾を得た北朝鮮は硬軟両様の駆け引きを展開します。

5月9日、ポンペオ国務長官が訪朝します。金委員長はポンペオ氏と会談し、北朝鮮が拘束していた米国人3人を解放しました。

ポンペオ氏は、「すべての核兵器と保存場所を公開し、査察に応じる。核兵器やICBMの一部を早期に国外に搬出する」ことなどを要請したとされますが、これに対する金委員長の反応は明らかとなつていません。おそらく、論点をすり替えた玉虫色の回答に終始したとみられます。 他方で6月12日シンガポールで首脳会談を正式に開くことを決定されました。

5月12日、北朝鮮外務省が豊渓里の核実験場を23~25日に廃棄する旨を発表しました。 このように、北朝鮮は対外向けのパーホーマンスも意識したソフト戦術に出ます。

一方、5月11日から、25日までの予定で、米韓合同演習「マックスサンダー」が朝鮮半島周辺で開始されました。 これに対して、北朝鮮は5月16日、この演習を批判して、南北閣僚級会談を中止すると一方的に通告します。

さらに、同日、北朝鮮、米朝首脳会談のため予定されていた米朝実務協議を無断欠席し、金桂冠第1外務次官、ボルトン米大統領補佐官を批判した上で、「首脳会談に応じるかを再考するしかない」と発言します。 これはソフト戦術を駆使しながらのハード戦術の併用だと言えます。 こうした硬軟両用の戦術が取り得たのは、中国の後ろ盾を得たという安心感があったからだとみられます。

米朝における舌戦

このような北朝鮮に対して米国も戦術を修正します。

トランプ大統領は5月17日、「中朝首脳会談の結果、「物事が変化した。正恩氏は間違いなく取引したいと思っていたが、今はしたくないいのかもしれない」との見方を示しました。 そして、17日から18日かけて行われた米中間の貿易協議において、トランプ大統領は、中国が北朝鮮への圧力を緩めれば、貿易問題などで中国の圧力を強める構えを示唆したのです。

5月22日、ペンス副大統領「金正恩氏がトランプ大統領をもてあそぶことができると考えているなら、大きな過ちとなる」「金正恩氏は取引しなければリビアの轍を踏む」と発言します。

同日、トランプ大統領は「6月12日の会談開催はうまくいかないかもしれない」と発言し、「中朝国境が最近少し開かれた。気に入らない」と不満を吐露しました。

5月24日、北朝鮮・崔善姫外務次官は、自国を核保有国と位置づけ、ペンス氏を「愚鈍な間抜け」と批判し、「会談場で会うか、核対核の対決場で会うかは米国にかかっている」と挑発的な発言をしました。

このような米朝間の舌戦の末の5月25日、トランプ大統領は米朝首脳会談の中止を発表しました。米朝首脳会談の開催がまさに危ぶまれ、米朝関係や半島情勢の緊張化が再び懸念されることになったのです。

米朝首脳会談は妥協の産物

これに対し、北朝鮮は5月26日、本年2回目の南北首脳会談を開催します。ここでは、南北が協力して米朝関係の修復と米中首脳会談に向けた努力を行うことが話し合われたとみられます。

こうした米朝間の駆け引きと紆余曲折のすえに、当初の予定どおり、6月12日に米朝首脳会談が開催されました。

米朝首脳会談では、両国指導者が相互に相手を称える友好モードが演出されました。
2017年の緊張状態が当面回避されたことは評価すべきですが、 北朝鮮と米国との非核化に関する溝が埋まるはずはなく、 結局は非核化においてなんら中身のない劇場型会談に終始しました。

紆余曲折を経つつも米朝会談が実現できたのは、まず金委員長が北朝鮮が現在の経済制裁の全面的な解除を目指すためには米国との交渉しかないと意識したからです。

第二に、トランプ大統領が先行き不透明であっても、とりあえず北朝鮮の暴挙をやめさせて〝前進〟をアピールすることで、今年11月の中間選挙の敗北、そして大統領弾劾を回避できるカードを持つ必要があつたからです。

第三に、韓国の文大統領が、経済政策の失敗で支持率が下がるなか、南北関係の改善と経済交流が起死回生の一手となることを強く認識ているからです。 このように、三国の指導者の思惑は異なれど、米朝首脳会談の開催は利するとの判断が働いたとみられます。

すなわち、米朝首脳会談は三者三様の思惑による妥協の産物であったわけです。

非核化は一向に進展せず

6月26日、「38ノース」は、米朝首脳会談から9日後に撮影された衛星写真に基づき、寧辺にある核施設のインフラ整備が急ピッチで進んでいるほか、ウラン濃縮工場の稼働も続いているとの分析結果を公表します。米国による北朝鮮に対する牽制が開始されました。

6月 7月6日から8日、北朝鮮の非核化交渉のためにポンぺオ国務長官が訪朝しました。これは6月12日に行われた米朝首脳会談のフォローアップです。

しかし、金委員長はポンペオ氏に会いませんでした。非核化交渉に訪れた米国の国務長官に会わないのは異例です。 さらに北朝鮮は、ポンペオ氏の訪朝に関し、「米国側の「強盗的」な要求を北朝鮮が受け入れざるを得ないと思っているなら、それは致命的な誤りだ」と非難します。

トランプ大統領は、7月17日、ホワイトハウスで共和党議員との会合で「非核化には期限を設けない」と発言します。北朝鮮との交渉決裂を懸念して、対北朝鮮懐柔策に出た可能性があります。

米国の北朝鮮分析サイト「38ノース」は7月23日、22日に撮影した衛星写真により、北朝鮮が、北西部・東倉里(トンチャンリ)にあるミサイル発射施設「西海(ソヘ)衛星発射場」を解体・撤去している様子が見えると、分析結果を発表しました。今度は、北朝鮮が米国に揺さぶりをかけた可能性があります。

米国が再び強硬策に転じる

しかし、この解体・撤去作業は「38ノース」によれば、この解体作業は8月3日から中断したとされます。これは先述した、8月の3日と4日にわたって開かれたアセアン地域フォーラムの閣僚会合で、米国側から終結宣言に「ノー」を突き付けられたことと関係があるのかもしれません。

8月23日、進展しない非核化の打開のため、ポンペオ国務長官は8月下旬に2回目の訪朝を行うことを公表します。 ところが、24日、金英哲(キムヨンチョル)朝鮮労働党副委員長からポンペオ氏宛てに書簡が届きます。

米ワシントン・ポスト紙は27日に報じるところによれば、複数の米政府高官の話として、予定されていたポンペオ米国務長官の訪朝が直前に中止されたのは、北朝鮮から「好戦的」な書簡が届いたからだとされます。

トランプ米大統領は8月28日、ポンペオ長官が予定している4回目の北朝鮮訪問に関し、ツイッターで「ポンペオ氏に訪朝をとりやめるよう求めた」と表明しました。 この理由について、トランプ氏は「朝鮮半島の非核化に十分な進展が見られないと感じた」と説明しました。

また米国との「貿易戦争」が激化している中国が、国連安全保障理事会の決議を受けた北朝鮮に対する制裁圧力で「かつてのように協力していない」と指摘し、中国の対応を非難しました。 さらにポンペオ氏の次回訪朝は「恐らく中国との貿易関係が改善した後になる」との見通しを明らかにしたのです。

8月28日、マティス国防長官は、記者会見で「米朝首脳会談を受けて、米国は誠意の表現として大規模演習をいくつか中止したが、現時点では、もはや追加的な演習を中止する計画はない」と述べました。 このように、アメリカは北朝鮮に対する強硬政策に転じたかのような行動を取ります。

北朝鮮が南北首脳会談を利用して対米関係を修復

9月9日、北朝鮮は建国70周年記念の軍事パレードを実施しましたが、注目されていた長距離弾道ミサイルだけでなく、短距離弾道ミサイルも登場させませんでした。これは、非核化交渉を意識したものとみられます。

そして、北朝鮮は今回の南北首脳会談を利用して、米国や世界に対して、真摯に非核化に取り組む意思を表明します。

今後の注目点

これまで述べたように、6月の米朝首脳会談はもともと米・朝、さらには韓国の打算的な妥協によっておこなれました。もともと米朝は同床異夢なのですから、非核化に向けた具体的な進展を望むのが無理なのかもしれません。

現段階では、米朝双方が硬軟両用の戦術を駆使し、相手の出方を見ているという状況です。今回の非核化に関する北朝鮮側のメッセージもその範疇ですが、 トランプ大統領が、「いくつかのすばらしい回答があった」と評価していることはやや気がかりです。
トランプ大統領が11月の中間選挙を意識して、基本路線を勝手に修正し、終結宣言に応じるなど、対北朝鮮譲歩の戦術に出る可能性がまつたくないとはいえません。

当面は、9月下旬の国連総会での米韓首脳会談の行方と、そこで第2回の米朝首脳会談についてどのような話し合いが行われるのかに注目したいと考えます。         わが国は、あわてることなく、これまでの基本路線を淡々と実行しながら、関連の動向を注視すれば良いと思われます。

わが国の情報史(14)

開国と明治維新

ペルー来航と鎖国からの撤退

ペリー

1853年のペルーの浦賀来航以降、欧米列強に対する我が国の危機意識は日増しに高まった。 江戸幕府は、こうした列強の威力に屈し、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を採択することになる。

1853年3月、わが国はアメリカと日米和親条約を締結した。次いでイギリス・ロシア・オランダとも類似の内容の和親条約を結んだ。ここに200年以上にわたった鎖国政策から完全に撤退した。

1858年6月、わが国は屈辱の不平等条約を結ぶことになる。それが、大老・井伊直弼(いいなおすけ、1815~60)の手で進められた日米修好通商条約であった。 この条約では、神奈川(下田→横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港や江戸・大坂の開市のなどが規定されたほか、わが国は日本に滞在する自国民への領事裁判権を認め(治外法権の規定)、関税についても日本に税率の決定権がない(関税自主権の欠如)などを許容した。

ひとつに妥協すると、次々と新たな圧力が襲ってくる。幕府はこのような不平等条約を、ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばざるを得なくなった(安政の5カ国条約)。

不平等条約の改正が原動力となって、わが国は国際社会の中で近代的自立国家を目指した努力を開始した。 この近代的自立国家の歩みの延長線上に出てくるのが日清、日露の二つの戦争である。

公武合体論と尊攘運動の高まり

日米通商修好条約の締結当時、第13代将軍・徳川家定(いえさだ、1824~58)は幼少から病弱で子供ができないとの懸念から、早くから跡継ぎ問題を起き、それを巡って一橋派と南紀派が対立していた。

一橋派とは一橋徳川家の慶喜(第15代将軍・徳川慶喜、よしのぶ、1837~1913)を推す派である。
一方の南紀派は紀州徳川家の藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す派である。

慶喜の父は、井伊直弼との政争で有名な徳川斉昭(なりあき、1800~60)である。斉昭は会沢正志斎(※吉田松陰が感化された人物、わが国の情報史(13)参照)のもとで水戸学を学び、藩校・弘道館を作り、学問を奨励し、藩政改革で成果を挙げるなど、聡明な指導者であった。 そして西洋の文物を取り入れることには積極的であったが、尊王攘夷、開国反対論者であった。

慶喜が将軍になれば、斉昭が大御所として権勢を振うことを明らかであった。

これを警戒したのが南紀派である。
南紀派 の筆頭である彦根藩主・井伊直弼や、老中・堀田正睦(ほったまさよし、1810~64)であった。 彼らは「日本は開国すべし」との信念を持っており、通商条約の調印を推し進めようとした。だから、斉昭の存在は彼らにとってやっかいであった。

つまり、跡継ぎ問題は「開国か非開国か」を巡る政争であったのである。

井伊と堀田は跡継ぎ問題では、慶福改め家茂(第14代将軍・徳川家茂、いえもち、1846~66)を将軍の跡継にすることに成功した。また、日米修好通商条約の調印を強行した。

しかし、日米修好条約への調印は天皇の勅許を得ない違勅調印であったために、孝明天皇が大激怒した。 堀田は孝明天皇(1831~67)から勅許を得ようとして努力したが、孝明天皇は穏健攘夷論者であり、開国には断固として反対であった。だから、井伊や堀田はやむをえずに違勅調印に走ったというわけである。

こうしたことから、一橋派の大名、そして尊王と攘夷をとなえる志士から強い非難が起こった。井伊は強硬な態度でこれらの反対派をおさえ込み、反対派の家臣たち多数を処罰したのである。これが世に有名な安政の大獄である。

安政の大獄では、斉昭、慶喜、松平慶永らが隠居・謹慎を命じられ、越前藩士の橋本左内や吉田松陰は捕えられて死刑となった。 安政の大獄以後、全国各地では下級武士による尊王攘夷論が跋扈した。

1860年、尊攘派は井伊を江戸城桜田門外で暗殺(桜田門外の変)するという暴挙に出る。 桜田門外の変ののち、幕政の中心となった老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)は、朝廷(公)を幕府(武)の融和をはかる公武合体の政策を取り、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を将軍・家茂の妻に迎えた。

しかし、この政略結婚があだとなり、尊王攘夷論者から非難される。結局、安藤は水戸藩士から襲撃され負傷し、老中を退いた(坂下門外の変)。

ここで薩摩藩が独自の公武合体論の立場から仲介を買って出た。藩主の島津忠義の父である島津久光が 1862年に江戸にくだり、幕政改革を要求した。
幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政治総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に、京都守護職をおいて会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)をこれに任命した。

他方、妥協的な公武合体運動に対立する動きも生じた。それが朝廷権力の復活運動として強力に展開されることになる。とくに尊攘派の長州藩がその急先鋒となった。 長州藩はテロ行為を含む過激な事件を起こし、幕府方と真っ向から対立した。 1863年5月、長州藩は下関海峡を通過する諸外国船を砲撃し、攘夷を実行に移した。

1863年9月、長州藩を中心とする尊攘派の動きに対し、会津・薩摩藩は穏健攘夷派である孝明天皇らとともに、朝廷の実権を握っていた長州藩勢力と過激攘夷派である三条実美らを京都から追放した(この事件は旧暦の文久3年8月18日のことで「8月18日の政変」と呼ばれる)。

この政変の“復讐劇”とばかりに、長州藩が引き起こしたのが1964年8月の禁門の変(蛤御門の変)である。長州藩は勢力を回復するために、会津藩主・京都守護職の松平容保らの排除を目指し、京都市中で大乱闘を繰り広げたのである。 この政変で長州藩は敗北した。京都市中は戦火により約3万戸が焼失したとされる。

禁門の変後、長州藩は朝敵となった。幕府は1864年8月、長州征討(第一次)を開始する。同時期、貿易の妨げになる攘夷派に一撃を加える機会を狙っていた列国は、イギリスを中心にフランス・アメリカ・オランダ四国の連合艦隊を編成して、下関の砲台を攻撃した(馬関戦争、四国艦隊下関砲撃事件)。 長州藩は幕府方に恭順を示すとともに、武力での攘夷を断念し、海外から新知識や技術を積極導入し、軍備・軍制改革に着手した。

薩摩藩は長州藩よりも早くに列国の洗礼を受けた。1863年8月、前年の生麦事件(神奈川県横浜市鶴見区生麦において、江戸から帰る島津久光の行列を横切ったイギリス人を殺傷した事件)の報復のため鹿児島湾に侵入してきたイギリス軍艦と薩摩藩が激突した(薩英戦争)。薩摩藩はイギリス軍艦の砲撃の激しさに驚愕した。

討幕運動の高まりと幕府の滅亡

薩英戦争により、薩摩藩はイギリスに接近する開明政策に転じた。西郷隆盛、大久保利通ら下級武士の改革派が藩政を掌握することになった。

一方、馬関戦争により、吉田松陰が育てた高杉晋作、桂小五郎(のちに木戸孝允、きどよしたかと改め、1833~77)は攘夷を断念した。 かくして、封建的排外主義を捨てて積極開国による富国強兵を目指す新しい反幕勢力が生まれた。

そして坂本龍馬(さかもとりょうま、1836~67)、中岡慎太郎(なかおかしんたろう、1838~67)らの仲介により薩長同盟が秘密裡に結ばれ(1866年)、反幕運動は討幕運度へと化していたのである。

徳川家茂のあと15代将軍になった徳川慶喜は、フランスの援助のもと、幕政の立て直しにつとめた。しかし、薩長両藩は1867年に武力倒幕を決意した。 このため、土佐藩士の後藤象二郎(ごとうしょうじろう、1838~97)と坂本龍馬が、前藩主の山内豊信(とよしげ、容堂)を通して、慶喜に討幕派の機先を制して政権を返還するようを進めた。 

これは、将軍からいったん政権を朝廷に返させ、朝廷のもとに諸般の連合政権を樹立する構想であった。 慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)、この策を受け入れた。これを「大政奉還」という。

しかし、薩長連合は倒幕の名分を失わせられたうえ、実質は慶喜体制が継続されるこの体制に不満を持った。そこで、新体制を樹立するためのクーデターを企てた。そして1867年12月、討幕派は「王政復古の大号令」を発して、天皇を中心とする新政府を樹立した。 これをもって江戸幕府の260年以上にわたる歴史に終止符が打たれたのである。

戊辰戦争の勃発

しかし、慶喜を擁する旧幕府側が最後の抵抗をはかることになる。1868年1月、慶喜派は大阪城から京都に進撃した。しかし、「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に敗れ、慶喜は江戸に逃れた。 新政府はただちに慶喜を朝敵として追討する東征軍を発した。

しかし、慶喜の命を受けた勝海舟(かつかいしゅう、1823~99)と東征軍参謀の西郷隆盛(さいごうたかもり、1828~77)の交渉により、1869年に江戸城は無血開城された。 さらに東征軍は東北諸藩の征伐に向かい、会津若松、函館五稜郭を攻め落とした。こうした戦いが1年半近くにわたって続いた。いわゆる戊辰戦争である。

新政府による改革

この間、新政府による政治の刷新が進められ、1868年3月の「五箇条の誓文」では、公議世論の尊重と開国和親などが新政府の国策の基本とされた。 1868年7月、江戸は東京と改め、同年9月に年号が明治と改元された。

翌1869年に京都から東京に首都を移した。 同年1月、木戸孝允と大久保利通(おおくぼとしみち、1830~78)らが画策して、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主に朝廷への版籍奉還を出願させ、多くの藩がこれにならった。

新政府は、旧大名には石高に応じた家禄を与え、旧領地の知藩事に任命した。 1871年、新政府は藩制度の全廃をついに決心し、廃藩置県を断行した。旧大名である知藩事は罷免され、東京居住を命じられ、かわって中央政府が派遣する府知事・県令が地方行政にあたることになった。

かくして、ペルーの浦賀来航から20年弱にして、江戸幕府は討幕され、国内の政治的統一が完成したのである。 歴史用語としては、黒船来航に始まり、廃藩置県に至る一連の激動の時代を総称して、明治維新と呼んでいる。

わが国の情報史(12)

武士道とは士道なり

山鹿素行と吉田松陰

武士道という言葉は明治期に新渡戸稲造の著書『武士道』で世 間に広まった。しかし、武士道は日本建国以来発達してきたものである。それが、徳川時代になって、武士の道徳的規範として確立された。その後、武士道が幕末維新を主導し、日清・日露戦争 における出征軍人の目覚ましい働きを促し、日露戦争における歴 史的勝利に貢献したとされる。

徳川時代における武士道の確立に寄与したのが、吉田松陰(1830~59)の師である山鹿素行(1622~85)である。松陰には二人の傑出した師匠がいる。その一人が兵学の師である素行、もう一人が洋学の師である佐久間象山(1811~64)というわけだ(わが国 の情報史(11)を参照)。

松陰が「家学」というのは山鹿素行の学問のことである。松陰 の著書『武教講録』のなかで「先師」と仰いでいるのは素行であ る。ただし、松陰と素行は 約200年も 時代が隔たるので、当然直接の師弟関係にはない。

松陰の祖先の吉田重矩(しげのり)が、素行の長子である山鹿 藤助の門下生にあたる。また松陰は、叔父で山鹿流兵学師範であ る吉田大助の養子となり、大助死亡後は、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)で素行の兵法を学んだとい う関係にある。

これに対して、松陰が時々「わが師」としているのが象山であ る。象山には、1850年に江戸で直接師事している。

儒学の興隆   

武士道を述べる前に、まず徳川時代の儒学の興隆について述べ る必要がある。儒学とは端的にいえば孔子・孟子の教えを学ぶ学問のことである。儒学は社会の身分秩序を重んじ、「中興・礼儀」 を尊ぶこと基本とする。だから儒学は徳川の幕藩体制の安定を支 える上で好都合であった。    

とくに朱子学(南宋の朱熹が興した学問、宋学とも呼ばれる) の思想は大義名分論(平安末期における後醍醐天皇の討幕運動の理論的根拠となった)を基礎に、封建社会を維持するための教学と して幕府に重んじられた。この系譜には林羅山、木下順庵、新井白石などがいる(朱子学派)。

一方、戦国時代に土佐で開かれたとされる南学派も朱子学の一 派である。その系譜からは山崎闇斎(やまざきあんさい、1618~ 82)や野中兼山が出た。闇斎は神道を儒教流に解釈して垂加神道 (すいかしんとう)を説いた。闇斎一門の崎門学(きもんがく) は、神の道と天皇の徳が一体であることを説き、尊王論の根拠と なった。なお、崎門学は陸軍中野学校の教材として用いられた。

朱子学に対して中江藤樹(なかえとうじゅ)や熊沢蕃山(くま ざわばんさん)らは、明の王陽明が始めた陽明学を学んだ。蕃山 は、古代中国の道徳秩序をうのみにする儒学を批判し、主著『大学惑問』などで武士土着論を説いて幕政を批判した。このため、 下総古河に幽閉され、そこで病死した。

これに対し、古学派と称せられる山鹿素行や伊藤仁斎らは、外 来の儒学にあきたらず、孔子・孟子の古典に直接立ち返ろうとす る運動を進めた。素行は朱子学を攻撃し、『聖教要録』を刊行し て孔子・孟子の古典に直接立ち戻ることを主張した。このことか ら、幕府によって播磨国赤穂(あこう)に流された。赤穂藩では 赤穂浪士の教育に携わるとともに『武教要録』『中朝事実』など を著した。  

なお、門弟の一人が赤穂藩家老の大石良雄(内蔵助、くらのす け)である。赤穂事件以降、山鹿流兵法は実践的な学問として世の注目を浴びた(「わが国の情報史(10)」)

武士道は儒学をもとに確立されたのか?

以上のように、儒学は徳川時代を支えるための思想であり、平穏な時代における武士の在り様を儒学思想でもって理念化されたのである。このことから今日、武士道は儒学をもとに確立され たとの誤解が生じている。

しかし、のちに『武士道』(1990年)を著す新渡戸稲造は、わ が国の武士道の起源は、封建制が確立した源頼朝の時代よりも先史にある旨を主張し、仏教や日本古来の神道が武士道に与えた影響性について説いている。

そして、上述のようなわが国の儒学の興隆を見れば、中国からの儒学思想を無批判には受け入れてはいない。陽明学や古学派は、当時の中国の思想を批判さえしている のである。このことは素行の著書『中朝事実』が如実に表してい る。

素行の教えこそは幕末、明治期の武士道精神の起源である。素行が他の儒学者と異なる点は、彼が兵法家であることだ。『孫子 諺義』の著書であることが象徴するように素行は孫子兵法の大家である。

一方で素行は『楠木正成一巻書』(1654年)の序文を書 いている。その正成は大江時親から、孫子とともに日本古来の兵 法である『闘戦経』を授けられていた。 つまり、素行が興した山鹿流兵法の源流には「兵は詭道なり」 をモットーとする『孫子』と、「戦い(武)を第一義とし、武は 秩序を確立する」「戦いに勝つためには謀略に頼るのではなく、 正々堂々と戦う」などを説く『闘戦経』の二つの教えがあった。  

そうした素行であったからこそ、太平天国の徳川時代において、 武士がいかに生きるべきかを、その在り様を説く上での説得力が あったのである。

▼素行の士道と『葉隠』武士道  

素行の武士道は「士道」と呼ばれる。武士(もののふ)は平安 時代に発生し、鎌倉、室町、戦国、安土・桃山時代を通じてずっ と戦いに明け暮れた。しかし、徳川時代になって戦乱の世が終わり、武士は「戦い」から解放された。

そこで素行は、百姓は町民などの身分が下の者に対する道徳的 指導者となるよう人格的な修養を努める士道を提唱した。 素行は、生産に従事しない武士たるものは、為政者として高い道徳性を備え、人倫の道を実現し、道徳の面で万民の模範になれ、 と主張した。そして、人倫の道の実現する勇気を奨励し、 (1)気を養う、(2)度量、(3)志気、(4)温籍、(5)風度、 (6)義利を弁ずること、(7)命に安んずること、(8)清廉、 (9)正直、(10)剛操、の心術を養わねばならないとした。

他方、「武士道と云は死ぬ事と見付けたり」という『葉隠』武士道がある。これは、1716年頃、佐賀鍋島藩士の山本常長が口頭で言い伝えたものを、同藩士の田代陣基(つらもと)が書き残したとされる。 『葉隠』は武士としての理想像を説いたものであり、山鹿素行な どが提唱した儒学的武士道とはやや異なる。

1941年陸軍省の東条英機によって制定された『戦陣訓』には「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」との有名な一句があるが、これは『葉隠』に代表される死生観に影響を受けたと の見方がある。

他方、素行の教えは、1882年に明治天皇から下賜された「軍人勅諭」の5箇条の徳目、すなわち、忠節、礼儀、武勇、信義、質素に反映された。この5つの徳目は、いずれも山鹿素行の士道が掲げる武士の規範であった。つまり、素行の士道が、天皇と国民の「忠義」の関係性を定義し、明治維新後の日本の秩序形成を目指したといえるのである。

武士道とインテリジェンス

畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』には次のような一文がある。

「つぎに忍者だが、これを諸大名がかかえて諜報を集めるという ことになれば、幕府の弱点や痛いところをさぐられる心配がある。 そこで、伊賀者・甲賀者の忍者をすべて幕府の直属として『お庭番』という組織をつくりあげる一方、御用学者に命じて『武士道』 なるものを盛んにとなえさせた。つまり、『内緒で人の欠点や弱点を探ることは、武士にあるまじき卑怯な行為である』とうたいあげたのである。 太平洋戦争の敗因をさぐる場合、日本の歴史家 は、明治以前にさかのぼることを忘れているが、遠因はじつにこ の徳川幕府の政策にあるのだ。幕府時代の武士道精神をそのまま うけついだから日本の軍隊は、諜報機関を卑怯なものとして、もっともそれが必要な陸軍大学にさえ、太平洋戦争がはじまるまで、 諜報を教える課目はなかったのである。(以下、略)」 

ここでの武士道が『葉隠』武士道なのか、山鹿素行の士道なのか、あるいは山岡鉄舟の唱えた「武士道」なのかは定かではない。 ただし、武士道がインテリジェンスの軽視を生んだという見方も 確かに存在している。

上述の「軍人勅諭」では、「軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ」と述べられている。 つまり、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五つの徳目の最後の締 めくくりのとして「一つの誠心」が示されている。

また「抑此五ケ条は我軍人の精神にして一つの精神は又五ケ条の精神なり」と記述された。つまり、誠は精神の精神、徳目ではな く徳目を徳目たらしめるものであると解釈されるのである。

のちに誕生する陸軍中野学校では「謀略は誠なり」が象徴され るように、「誠」の精神教育が重視された。つまり、武士道にお ける「誠」の存在が、武士道によるインテリジェンス軽視という 風潮を凌駕したとも考えられる。 ただし、軍人教育で教えられた一般的な「誠」と、陸軍中野学 校の「誠」には差異があった。このあたりについては、のちに述 べることとしたい。

わが国の情報史(10) 

江戸時代における兵法の発展

 兵法の伝来

山鹿素行

  『孫子兵法』では、「彼を知り、己を知らば百戦危うからず」と喝破し、5種類の間者(スパイ)を利用した。つまり、兵法が今日のインテリジェンスの源流であることは間違いない。

その兵法のわが国への伝来と発展の歴史については、本連載の「わが国の情報活動の起源」(連載1)と「楠木正成の思想的源流とは」(連載3)において言及したが、要点をおさらいしておこう。

わが国の『孫子』の伝来についてはおおむね三つの説があるが、今日のもっとも有力な説が、遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったとする説である。

真備は、717年に遣唐使として唐に到着し、35年までの18年間にわたり唐に滞在し、ここで『孫子』や『呉子』などを学んだとされる。帰国後、これらの文献を朝廷に献上し、その後、『孫子』の兵法研究が開始されたとみられている。

真備は754年に、二度目の渡唐から帰朝した後で大宰府に派遣されるが、ここで760年、大宰府に派遣された6人の下級武士に諸葛孔明の「八陣の法」や『孫子』の「九地」(第11編)を教えたとされる。

真備は764年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の叛乱をわずか数日で鎮圧した。ここには『孫子』の軍事情報理論が活用されたとみられる。

大江氏による兵法の管理

その後、大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)が930年頃唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰ったことが縁で、『孫子』は大江家が門外不出として管理することになった。

その後、大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えることになる。

匡房は「兵は詭道なり」とする『孫子兵法』は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識していた。

そこで匡房は自ら『闘戦経』を著し、『孫子兵法』を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いた。

その匡房の孫が大江広元(ひろもと 1148~1225)であり、彼は1184年に源頼朝に仕え、鎌倉幕府設立の立役者となった。なお、その後の大江氏は毛利氏をはじめとする武家の祖となる。

その後、大江家第42代の大江時親(ときちか ?~1341)が、河内の観心寺で楠木氏に兵法を伝授したとされる。楠木正成は幼少の頃から、時親から孫子の兵法を学んでいたとされる。

なお大江時親は一般的には毛利時親と呼ばれることの方が多い。大江広元が相模国毛利荘を四男・李光に譲り、李光の四男の経光が越後国佐橋荘と安芸国吉田荘を保持した。経光は大江家第39代となるが、李光も経光もそれぞれ毛利李光、毛利経光と呼ばれる。そして李光から佐橋荘と吉田荘を譲られたのが四男の時親である。時親は、毛利元就など安芸毛利氏の始祖とされる。

徳川幕府の兵法は武田氏の兵法が源流

戦国時代には、兵法は毛利氏のほかには武田氏などに伝えられた。その兵法は武田氏によって甲州流軍学へと発展し、これがのちに徳川に流れることになる。

甲州流軍学の創始者として名高いのは、武田氏の家臣の子として生まれた小畑景憲(おばたかげのり 1572~1663)である。

彼は、武田信玄や勝頼の戦略・戦術を研究して、甲州流軍学を確立した。

景憲の弟子が北条氏長(ほうじょううじなが 1609~1670)である。彼は、景憲から甲州流軍学を学び、それを改良して北条流兵法を開いた。

氏長の弟子が山鹿素行(1662~1685)である。素行は、甲州流と北条流の兵法を学び、山鹿流兵法を開いた。

山鹿素行が江戸時代の兵法を主導

素行は奥羽国会津の浪人の子として生まれたが、6歳で江戸に上京し、9歳のとき、大学頭を務めていた林羅山の門下に入り、朱子学を学んだ。15歳のときに、景憲や氏長の下で軍学を学んだ。素行はそのほかにも神道や歌学にも長じた類まれなる博学者であった。

素行はやがて幕府御用達の朱子学を攻撃し、『聖教要録』を刊行して孔子・孟子の古典に直接立地戻ることを主張した。このことから、幕府によって播磨国赤穂(あこう)に流された。

赤穂藩では赤穂浪士の教育に携わった。ここでの研鑽によって、素行は『武教要録』『配所残筆』『山鹿類語』『中朝事実』などの優れた多くの書籍を生み出した。

なお、門弟の一人が赤穂藩家老の大石良雄(内蔵助、くらのすけ)である。赤穂事件以降、山鹿流兵法は実践的な学問として世の注目を浴びた。

山鹿流兵法の源流には『孫子兵法』と『闘戦経』の教えが流れている。なお素行は『孫子諺義』という解説書も記している。

 山鹿流兵法は、謀略・計略・知略からなる。この考え方は『孫子兵法』に基づく。

そして、一方では『闘戦経』の流れも汲み、皇統を尊重する思想と武士道精神が貫かれている。

山鹿流の教えは、幕末期には、勝海舟、日米修好通商条約の批准で活躍する小栗上野介、そして吉田松陰へと受け継がれた。

わが国の情報史(13)

吉田松陰、間諜の重要性を説く

吉田松陰の生涯

山鹿素行と佐久間象山の二人の年代は異なるが、共に江戸時代の思想や兵法に多大な影響を及ぼした。この二人から思想的影響を受けて、さらに修学を重ねて、幕末維新の志士に多大な思想的影響を与えたのが吉田松陰である。  

松陰は優れた思想家であった。長州藩(山口県)萩の松下村塾において久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった。  早速、松陰の生涯を簡単に辿ることにしよう。

松陰は1830年(文政13年)8月、長州藩士・杉百合之助(杉常道)の次男として誕生。 1834年、5歳で叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。

1835年、6歳の時、大助が死亡したため、叔父の玉木文之進(1810~1876)に師事して『孫子』と『山鹿流兵法』を修学。 1838年、9歳の時に明倫館の山鹿流兵法師範に就任。

9歳で師範に就任とは尋常ではない。その後、松陰の驚くべき進化はさらに続く。

1841年、11歳の時、藩主・毛利慶親への御前会議で名を成す。 1842年、12歳のとき、アヘン戦争(1840~42)で清が西洋列強に大敗したことを知って、松陰はさらに西洋流兵術の重要性についても認識する。

1845年、15歳で、同じ長州藩の山田亦介(またすけ)より「長沼流兵法」を教わり、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めた。

1850年(嘉永3年)、21歳の時に九州に遊学する。 この九州遊学では、熊本で宮部鼎蔵(みやべていぞう)と知り合い、生涯の友人関係を結んだ。

1851年に江戸に出て佐久間象山に師事する。 象山はクラウゼウィッツの『戦争論』を日本ではじめて研究した人物であ り、松陰は、ここで象山門下の勝海舟、長岡藩の河井継之助、土佐藩の坂本龍馬、福井藩の橋本佐内、久留米藩の真木和泉、熊本藩の宮部鼎蔵らと交流した。

1852年、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、約束の出発日を守るため、 長州藩からの通行手形の発行を待たず脱藩した。 この東北旅行は、佐渡から弘前を経て小泊、青森、盛岡、石巻、仙台、米沢をとおり、会津若松、日光、足利を経由して江戸に帰った。まさに東北を一周の旅であった。
しかし、江戸に帰着後、脱藩の罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

 1853年、24歳のとき、諸国遊学の許可が下り、第二回の江戸遊学に出かけた。ちょ うどこの時に、ペリー艦隊の浦賀来航を知り、象山と黒船を遠望視察した。 その後、象山の薦めもあって、松陰は外国留学を決意する。同郷で足軽の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、これに失敗した。

1854年、またも金子重輔とともにペリーが乗船している旗艦ミシシッピ 号に自ら乗り込んで、アメリカへの渡航を嘆願した。しかし、残念ながら、この要求はペリーに拒絶され、目的を果たすことができなかった。(下田事件)。

幕府に自首し、萩の野山獄に幽囚され、かくして松陰の自由行動は終わる。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。

1855年、野山獄を出され、杉家に幽閉の処分となる。57年(安政4年) に叔父の玉木が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾した。以来約2年間、高杉晋作をはじめ幕末維新の指導者となる人材を多く輩出した。

1858年、29歳のとき、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したこと を知って、松陰は激怒し、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を謀るが、警戒した藩により再び投獄される。

1859年、幕命により江戸に送致。10月27日、伝馬町の獄舎で斬首刑に処 せられる。享年30歳であった。

 吉田松陰の時代背景

幕末は1853年のペリーの黒船来航から、1869年の戊辰戦争までの期間とされる。このわずか16年間は、わが国のもっとも激動な時代であった。 「西洋の衝撃」を受けた幕藩体制の動揺とナショナリズムの高まりのなか、日本が鎖国から開国へと舵取りし、「尊王攘夷」の思想の一方で西洋文明を取り入れた文明開化に向かう歴史であった。

この幕末における最大のヒーローが吉田松陰である。しかし、松陰はこの幕末期の前半6年間に生存したのみであり、30歳という若さで夭折し、これといった政治的偉業は残していない。 にもかかわらず、松陰の思想が幕末の志士たちの心を動かし、近代日本の幕開けの原動力になっていたのである。  

松陰の愛国的な生き様は当時の時代背景に求められよう。彼は30年という短い生涯のなか、旅人として生きる。それは、迫りくる「西洋の衝撃」という未曽有の危機に対し、まず孫子兵法の「敵を知り、我を知る」ことの具現から発した。 松陰が脱藩し、罪を問われた東北旅行の目的は、異国に対する北方の備えを検分するためであった。

高まる対外脅威

18世紀末から北方には、ロシアによる浸透が進んでいた。1789年(寛政元年)、国後島のアイヌによる蜂起がおこった。これは、松前藩に鎮圧されたが、幕府はアイヌとロシアの連携の可能性を危惧した。

1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、伊勢国白子の漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を届けるとともに、通商を求めた。 その際、江戸湾入港を要求されたことが契機となり、幕府は江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた。

1804年、ロシア使節レザノフが、ラクスマンのもちかえった入港許可証をもって長崎に来航した。幕府はこの正式使節に冷淡な対応をして追い返したため、1807年、レザノフの部下が樺太や択捉などの各地で略奪行為を働き、日露間を一挙に緊張化した。

わが国は1808年、間宮林蔵に命じて樺太とその対岸を探査させるなど、北方ロシアの脅威に備えた。1811年、日本に接近しつつあったディアナ号艦長であるゴローウニンが国後島に少人数で上陸した。彼らは日本の警備兵に捕えられ函館・松前に監禁された。

これに対してロシア側は翌年、択捉航路を開拓した淡路の商人・高田屋嘉兵衛を抑留した。嘉兵衛は1813年に送還され、その尽力でゴローウニンは釈放され、この事件(ゴロー人事件)は解決した。これにより、日本とロシアとの関係はいったん改善された。

しかし、1808年、イギリス軍艦フェートン号が、当時敵国となったオランダ船の拿捕を狙って長崎に入り、オランダ商館員を人質にし、薪水・食糧を強要するという事件(フェートン号事件)も起きていた。 そこで、幕府は1810年、白川・会津両藩に江戸湾の防備を命じた。

その後も、イギリス船、アメリカ船が日本近海に出没したため、ついに1825年、江戸幕府は異国船打ち払い令を出し、外国船の撃破を命じた。 37年には、アメリカ商船のモリソン号が浦賀港に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易を図ろうとしたが、幕府は異国船打払令にもとづいてこれを撃退させた(モリソン号事件)。

揺れる国内情勢

一方、国内では1833年から始まる天保の大飢饉で、農村や都市には困窮した人々が満ち溢れ、百姓一揆や打ちこわしが続発した。36年の飢饉はとくに厳しく、餓死者が全国各地であいついだ。

1937年、大阪奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、貧民救済のために門弟や民衆を動員して武装蜂起した。これはわずか半日で鎮圧されたが、大阪という重要な直轄都市で、幕府の元役人であった武士が主導して、公然と武力で抵抗したことは、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。

その波紋は全国に及び、国学者生田万(いくたよろず)が大塩門弟として称して越後柏崎で陣屋を襲撃したり、各地で大塩に共鳴する百姓一揆がおきた。

「内憂外患」の言葉に象徴される国内外の危機的状況に対し、幕府勢力が弱体化して威信を発揮できなくなると、これにとつてかわる上位の権威としての天皇・朝廷が求められ始められることになる。 こうしたなか、水戸の会沢正志斎(あいざわせいしさい)は1825年に『新論』を著し、天皇を頂点に位置付ける国体論を提示した。

松陰の思想と行動

吉田松陰は自ら弟子に送った手紙の中で「僕、孫子に妙を得たり」と書き残しているほどに、『孫子』の解釈には自信を持っていたようである。 松陰の兵法修学の中枢をなした山鹿流兵法は、謀略、知略、計策の三本柱からなるが、これらは『孫子』第1編「始計」の五事・七計・詭道に該当している。(家村和幸『図解孫子兵法』、並木書房)

さらに、松陰が生きた時代は、先述のようにロシアや欧米列強からの侵略の脅威をいかに対処するかが課題であった。 山鹿流兵法の三本柱のうちの謀略において、松陰は五事(道・天・地・将・法)のうちの道・将・法の三事に重きを置いて、これを「主本」と名づけた。そして、軍事とは、道・将・法という人のなすべき最高の道理であるのだから、いっさいの私的な思いを排して、毅然として自ら天下国家のために尽せと主張した。そして、わが国の有史以来、兵権が朝廷にあるのが武義(ぶぎ)の「盛」であり、兵権が武臣に帰したが武義の「衰」である、とした(前掲家村『図解孫子兵法』)。

つまり松陰は、天皇を中心とした道義に基づく国家を確立せよと説いたのである。そして全国で西洋人の侵寇の意図を喪失させる「武備」を完成することや、とくに皇室を中心とした精神的武備が重要であるなどを説いた。

こうした松陰の兵学思想には、山鹿素行の教えに加えて、先述の東北遊学において、水戸で正志斎と面会したことの影響が大きかった。 松陰は『東北遊日記』のなかで、「会沢(正志斎)を訪(とぶら)ふこと数次、卒(おおむ)ね酒を説(まう)く。……会々(たまたま)談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把(と)りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記した(宮崎正弘『吉田松陰が復活する!』並木書房)

松陰はほとんど酒を飲まなかったが、50歳になろうとする正志斎の流儀に合わせた、微笑ましい松陰像が浮かぶ。しかも、酒席であっても、重要な会話は筆記して備忘録を取った。

このほか、水戸では『大日本史』などから、水戸学の歴史観に強い影響を受けて、「尊王攘夷」の思想的を確立していた。また、和気清麿呂、楠木正成の偉業を知った。  

松陰の武士道

国家の国難には自らを犠牲にする松陰の精神には、武士道が影響していた。この武士道は山鹿素行の士道の影響を受けている。 新渡戸稲造は、『武士道』のなかで、吉田松陰にふれ、「武士道は一つの無意識的かつ抵抗し難き力として、国民及び個人を動かしてきた。新日本のもっとも輝かしい先駆者の一人たる吉田松陰」として、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」の松陰の辞世を紹介している。

松陰が自ら犠牲となり、間諜となり、留学を志した経緯にも武士道精神が色濃く反映していたのである。

松陰のインテリジェンス・リテラシー

山鹿流兵法の二つ目の柱である知略とは、国外の事を知って、比較し、実状を把握することである。松陰は知略には七計のみならず、その手段としての「用間」をとくに重視すべきであるとした。  

こうした思想は、松陰が師事した佐久間象山から影響を受けた。象山は1853年のペリー来航の危機に、「下田ではなく横浜をすぐに開港すべきだ」「それがいやならオランダから軍艦を輸入し、将来有為な若者をオランダへ留学させて造船を学ばせよ」として、開国論や国防論を唱えた。

1854年3月の日米和親条約の締結では、象山は、鎖国のためにアメリカの内部事情も知らないままに弱腰で外交交渉に臨んだ幕府を批判した。 インテリジェンスがなくては「尊王攘夷」であれ、「開国」であれ、戦略を立てられない。象山は「私のような身分の低い家臣ではあるが、幕府のやり方とは別に、敵の謀を失敗させることで勝つという策略がある。風船を手に入れてワシントンまで飛んでいけないものか」と願っていた。

しかし、象山には藩と日本を離れがたい事情があった。そこで、自分の代わりにこの務めを松陰に果たしてもらおうとした。松陰は武士道精神から、象山の期待に応えようとした。しかし、松陰はそれに失敗し、牢獄に入れられた。

松陰は『幽囚碌』のなかで、今こそ「用間」を世界中に派遣して、海外の事を知るべきだと指摘した。松陰は、日本にとって知っておくべき国々とは、欧米諸国、オーストラリア、シナ、朝鮮などであり、それらに関する伝聞や文書だけからの貧弱な知識に頼るのは、策を得たものではない。俊才を海外に送り、その実情を視察させるものでなければ役に立たないと主張した。 まさにヒューミントの重視である。

日本の歴史から、再び消されようとしている松陰

松陰が鎖国の禁をおかしてまでも海外渡航を企てたのは、自らが「上智」の間者となって、命を懸けて国家防衛に不可欠なインテリジェンスを得ようとしたのである。 さて、現在、わが国のインテリジェンスに携わる者が、どれほどの者が吉田松陰について知っているのだろうか? 

筆者の陸上自衛隊時代、ほとんどの者は吉田松陰の名前くらいしか知らなかった。 これも、GHQによる占領政策、戦後の左翼主義が、松陰を軍国主義として断罪し、歴史から葬りさろうとした影響なのかもしれない。筆者は「松陰を知らずして、わが国のインテリジェンスを語る資格なし」と言いたい。

高校と大学の教員らで作る「高大連歴史教育研究会」(会長=油井大三郎・東京大学名誉教授)が、大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題として、教科書の本文に乗せ、知識を入試で問う用語を現在の3500語程度から約半分にすべき、としている。

このなかで、吉田松陰の名前は、坂本龍馬や武田信玄などともに消されようとされている。彼らが果たした「実際の役割は小さい」ということが理由だそうだ。 しかし、政治的功績は残さずとも、後世に多大な思想的、精神的な影響を与えた人物を、どうして「実際の役割が小さい」といえるのか?

「高大連歴史研究会」の思想的背景を知る必要があるのではないか!

三人集まれば文殊の知恵?

グループシンク(集団浅慮)の弊害

▼  「群衆の叡智」

前回、『ウキペディア』を例に「群衆の叡智」について述べました。これは、ジェームズ・スロウィッキー著の『「みんなの意見」は案外正しい 』(角川書店)の中に出てくる、「Wisdom of Crowds(WOC)」という概念で、「群衆の叡智」あるいは「集合知」と呼ばれています。 つまり、これは少数の権威による意思決定や結論よりも、多数の意見の集合による結論や予測の方が正しいということを意味しています。

実際、集団で合議を行うことは、想像力を向上させ、個人のバイアスを回避するなど、プラスの効果をもたらすことが多々あります。まさに、「三人集まれば文殊の知恵」といえそうです。

▼ 集団思考の危険性とは

しかし、ぎゃくに集団合議は個人で考えるよりも大きな失敗を起こす危険性が高いとのマイナス面の影響も指摘されています。

これを、一般的に集団思考、グループシンク、集団浅慮(しゅうだんせんりょ)といいます。 集団浅慮とは、集団で合議を行う場合、少数意見や地位の低い者の意見を排除し、不合理な意思決定を行うというものです。

集団浅慮の研究の第一人者である、心理学者のアービング・ジャニスは、 1961年のビッグス湾事件(キューバ侵攻)や62年のキューバミサイル危機につながった意思決定を分析し、「小さな結束の強い集団に所属する者は『集団精神』を保持する傾向がある。
この結果、集団内で不合理あるいは危険な意思決定が容認されることになる」と指摘しています。

▼ ビッグス湾事件の失敗

1961年、アメリカのCIAは、在アメリカの亡命キューバ人部隊をキューバに侵攻させ、フィデル・カストロ革命政権の打倒を試みました。しかし、上陸部隊はビッグス湾で待ち受けていたキューバ兵によって一網打尽にされました。この作戦において事前の空爆に正規軍が関与していたことが明らかになり、アメリカは世界から非難を受けて、ケネディ政権は出足からキューバ政策で大きく躓いたのです。

ジャニスは、のちにキューバ侵攻に至る意志決定などについて研究しました。そこでわかったことは、ケネディ政権の側近は、侵攻の極秘計画がニューヨーク・タイムズ紙の一面に暴露されても、「アメリカ兵を上陸させず、アメリカの関与さえ否定できればればよい。世界は我々の言い分を信じるだろう」と考えた、ということです。誰ひとりとして、キューバ侵攻に異論を唱える者はいなかつたのです。

計画が大失敗に終わったのち、ケネディは失敗の原因追及を命じました。その結果、居心地のよい全会一致主義が根本原因であるとの指摘がなされました。

キューバ危機における意思決定

ビッグス湾事件の翌年の1962年夏、ソ連とキューバは極秘に軍事協定を結び、ソ連がキューバに密かに核ミサイルなどを運搬しました。アメリカは戦略偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見し、アメリカがキューバを海上封鎖し、各未済基地の撤去迫り、一触即発の危機的状況に至りました。これがキューバ危機です。

キューバ危機においては、ビッグス湾事件の反省から、礼儀作法や上下関係は自由な議論の妨げになるため排除されました。新たな視点を取り入れるために新たなアドバイザーが招聘されました。側近たちに徹底的に議論をさせるために、ジョン・F・ケネディが会議の席をはずこともあったとされます。

ケネディ自身は少なくともソ連のミサイル発射装置への先制空爆は承認せざるを得ないとの危機感を持っていましたが、 議論に影響を与えないよう誰にも言いませんでした。その結果、10の選択肢が徹底的に議論され、大統領の意見も変わり始めました。かくして核戦争が回避され、交渉による平和がもたらされました。

集団浅慮はどのようにして起こるのか

ジャニスによれば、集団浅慮は時間的制約、専門家の存在、特定の利害関係の存在などによって引き起こされ、以下の8項目の兆候があると指摘しています。

①無敵感が生まれ、楽観的になる。 ②自分たちは道徳的であるという信念が広がる。 ③決定を合理的なものと思い込み、周囲からの助言を無視する。 ④ライバルの弱点を過大評価し、能力を過小評価する。 ⑤みんなの決定に異論をとなえるメンバーに圧力がかかる。 ⑥みんなの意見から外れないように、自分で自分を検閲する。 ⑦過半数にすぎない意見であっても、全会一致であると思い込む。 ⑧自分たちに都合の悪い情報を遮断してしまう。

集団浅慮からの脱却

集団合議が「群衆の叡智」になるのか、それとも「集団浅慮」になるのか、集団は賢明にも愚かにも、その両方になれます。ケネディの側近たちが示したように、集団のメンバーできまるのではありません。合議の進め方ひとつで、個人の独立性を保持して、活発で自由な議論は可能なのです。

とくに注意しなければならないのは、権力者、声の大きい者、弁の立つ者、権威者、専門家です。これらの者が集団をリードして、個人たちの独自の意見を放棄させていきます。第4次中東戦争においても、イスラエル軍情報部においてエリ・ゼイラ将軍による独断横行と集団浅慮が見られました。

キューバ危機、第四次中東戦争のような事例は、我々の周辺においても珍しいことではありません。いま一度、集団浅慮になっていないか検証してみることが重要です。

なお、キューバ危機、第四次中東戦争は、拙著『情報戦と女性スパイ』にて興味深い記事を収録していますので、ご参照ください。

わが国の情報史(11) 

洋学の隆盛と対外インテリジェンス

▼ 洋学の魁(さきがけ)、新井白石

新井白石

18世紀になると、学問・思想の分野では幕藩体制の動揺という現実を直視して、これを批判し、古い体制から脱しようとする動きもいくつか生まれた。その一つが洋学である。 

鎖国の影響により、西洋の学術・知識の吸収は停滞していた。しかし、18世紀はじめに天文学者である西川女見(にしかわじょけん1648~1724)や、儒学者の新井白石(あらいはくせき1657~1725)が世界の地理・物産・民族などを説いて、洋学の魁となった。

なかでも新井白石は当代随一の博識家であり、洋学や対外インテリジェンスの面において後世に大きな影響を及ぼした。

ただし白石は洋学者ではない。1686年、白石は朱子学者・木下順庵(きのしたじゅんあん)に入門して朱子学を学んだ。93年、順庵の推挙で甲府藩主・徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)の儒臣となる。白石37歳の時である。

1704年、白石は幕臣にとりたてられ、家宣(いえのぶ)の将軍就任(1709年)後は家宣を補佐し、幕政を動かす重要な地位を占めた。
家宣が12年に病死した翌年、家宣の子供の家継(いえつぐ)が、わずか4歳で7代将軍に就任した。

白石は御用人・間部詮房(まなべあきふさ)とともに幼将軍・家継(いえつぐ)を補佐した。しかし、その家継はわずか8歳で夭折し、1716年に8代将軍に吉宗が継位すると、白石は詮房とともに失脚する。失脚後の白石はひたすら著作活動に没頭した。

政治家としての白石は儒学思想を根本とし、教化・法令などによって世をおさめる文治政治(「正徳の治」)をおこなった。外交面では朝鮮使節の待遇改め(簡素化)、経済面では財政再建のために良質貨幣の鋳造などの改革を行った。
しかし、極端な文治主義であったため、幕臣の反対が多く、しかも根本的な経済政策を欠いたため、一種の理想に終わった。

それよりも真骨頂なのは学者としての白石である。白石がとくに力を注いだのが歴史学の研究である。『読史余論』(とくしよろん)などの優れた書籍を多く執筆し、国体思想における啓蒙の師となった。

1708(宝永5)年、白石を洋学の魁として世に知らしめた事件が発生する。シドッチ密航事件である。イタリア人宣教師シドッチがキリスト教布教のため屋久島に潜入して捕らえられた。彼は江戸小石川のキリシタン屋敷に幽閉され、5年後に死ぬことになる。

1709年、白石は江戸で計4回にわたり、シドリッチに尋問した。これにより、彼の東洋来訪の経緯のほか、西洋の世界地理・歴史・風土人情、世界情勢及び西洋における自然科学の発展趨勢などに関する広範な知識を得た。

このほか、1712年初、白石は江戸に参府するオランダ商館長などからも、さまざまな海外事情を得た。こうして得た知識をもとに書かれたのが『西洋紀聞』と『采覧異言』である。

『西洋紀聞』は1715年頃に完成したとされるが、鎖国下のためになかなか公表されなかったが、1807年以来、広く流通し、鎖国下における世界認識に大いに役立った。

『采覧異言』は、日本最初の体系的な世界地理の学術書として評価が高い。これは、単に地理学への影響にとどまらず、各国の軍事制度への考察も踏まえており、のちのわが国の海防論や富国強兵論の根拠となった。

つまり、白石の書籍が後世に西洋に対するインテリジェンスの関心を切り開き、のちの国防体制の礎を築いたのである。

▼ 蘭学の隆盛

洋学と言えば、江戸時代初期にはスペインやポルトガルから日本に伝わってきた学問が中心であった。したがって「南蛮学(蛮学)」と呼んでいた。

しかし、徳川吉宗(1684~1751)の享保年間(1716~1736)において、蘭学が隆盛することになる。つまり洋学は蘭学として発達し始めた。

蘭学はその字面(じづら)から「オランダ学」を意味する。しかし、それは片面的な解釈であるといえよう。
本来の蘭学は、江戸時代から幕末の開国にかけての西洋に関する学問、技術、西洋情勢に関する知識および研究である。主としてオランダ語を媒体として研究されたので蘭学という。

8代将軍・吉宗は漢訳制限をゆるめて、青木昆陽(あおきこんよう1698~1769)および野呂元丈(のろげんじょう1694~1761)にオランダ語を学ばせた。彼らはオランダ通詞からオランダ語を学び、『和蘭話訳』(1743年成立)や『和蘭文字略考』(1746年成立)を著した。

これが蘭学を学ぶ者の語学的基礎となったのはいうまでもない。

蘭学はまず医学の分野において発達した。1774年、昆陽からオランダ語を学んだ前野良沢(まえのりょうたく1723~1803)、町医者の杉田玄白(すぎた1733~1817)が、共同で西洋医学の解剖書を記述した『解体新書』を著した。

その後、蘭学は急速に隆盛し、医学から天文学、本草学(博物学)、兵学、物理学、化学などの分野へと拡大した。

蘭学隆盛の立役者には大槻玄沢(おおつきげんたく1757~1827)や宇田川玄随(うだがわげんずい1755~97)、平賀源内(1728~79)らがいる。

玄沢は『蘭学階梯』という蘭学の入門書を著し、江戸に芝蘭堂(しらんどう)を開いて多くの門人を育てた。

玄随はもともと漢方医であったが、杉田玄白や前野良沢らと交流するうちに蘭学者へと転じ、芝蘭堂で学び、のちに西洋の内科書を訳して『西洋内科撰要』を著した。

源内は長崎でオランダ人・中国人とまじわり本草学を研究した。のちに江戸に出て、学んだ科学の知識をもとに物理学の研究で成果を収めた。今日は、江戸の大天才、異才、発明王、日本のダ・ヴィンチなどと呼ばれ、巷で有名である。

▼ 地理学の発展

蘭学の影響により発達した学問の一つに地理学である。地理学とインテリジェンスの関係は深い。

なぜならば、他国の情勢を正確に知るために地図が必要である。国土を防衛するためにも地図が不可欠である。その地図を作成するために天文・測量・観測などの地理学が要求されたからである。

わが国の地図の作成における最大の功労者が、高橋至時(よしとき 1764~1804)、その子景保(かげやす1785~1829)、そして伊野忠敬(いのうただたか1745~1818)である。

幕府天文方の至時は、西洋歴を取り入れた寛政暦を1797年に完成した。また、天文方に「蛮所和解御用(ばんしょわげごよう)」を設け、景保を中心に洋書の翻訳に当たらせた。景保は語学の達人であり、オランダ語、ロシア語、満州語に通じており、多くの洋書を翻訳した。

なお、「蛮所和解御用」は幕末期に洋学の教育機関である蛮所調所となり、近代以降における大学の前身となった。

1804年、景保は至時の跡を次いで幕府天文方に就任した。当時、西洋諸国の東洋進出によって日本近海に異国船が出没し始めた。幕府は国策上の必要に迫られ、07年に世界地図の作成を景保に命じたのである。

景保は1780年製のイギリス、アーロスミスの世界図を『世界図』に基づいて、東西の多くの資料や、間宮林蔵(まみやりんぞう)の樺太への調査報告なども取り入れて、1810年に『新訂万国地図』を作成した。

▼ 伊能忠敬による日本地図の完成

一方、忠敬は隠居後に学問を本格的に開始し、全国を測量して歩き、最初に日本地図を作製した人物として有名である。

1795(寛政7)年に上京し、江戸にて幕府天文方の至時に師事し、測量・天文学などをおさめた。この時、忠孝は50歳、師匠の至時が31歳であったが、学問において年功序列は無用ということである。

至時は、自らが完成した寛政暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。
そこで、至時と忠敬は、江戸から蝦夷地までの各地の経度・緯度を図ることにした。

その頃1792年にロシアの特使アダム・ラクスマンが、伊勢国の漂流民大黒屋光太夫を連れて、根室に到着した。
その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。これが蝦夷地の調査や地図作成の必要性を認識させた。

至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。なかなか、幕府の許可は下りなかったが、苦心の末、忠敬が第一次測量のため蝦夷地へ向かった。時は1800年、忠敬が55歳の時である。

忠敬の測量は1800年から16(文化13年)まで及び、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。

ただし、忠敬が死亡(1818年)時には、実際には、地図はまだ完成していなかった。そこで忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められ、1821年に『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成したのである。

▼ 景保とシーボルト事件

この地図が新たな事件を呼ぶことになる。それがシーボルト事件である。

シーボール(1796~1866)はドイツの医師である。江戸時代後期の1823年長崎オランダ商館の医師として来日した。翌年長崎郊外の鳴滝に診療所を兼ねた学塾(なるたきじゅく)を開き、伊藤玄朴、高野長英、黒川良安ら数十名の門下に西洋医学及び一般科学を教授した。

シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行し、半年間の江戸滞在で天文方を勤める景保と知り合いになる。そして忠敬が作成した『大日本沿海與地図』の縮図を景保から受領した。
景保はシーボルトの持つ貴重な情報が欲しくて、禁制品の地図を渡したのである。つまり、景保もまた、インテリジェンスの人であった。

5年の任期を終えたシーボルトは1828年9月、帰国の途につく。しかし、その際に禁制品である日本地図が発見された。地図の発見経緯については、暴風雨にあった乗船の積荷から発覚した、景保と確執のあった間宮林蔵が密告した、などの説がある。

シーボルトはスパイの容疑を受けて糾問1ヵ年の末29年10月に海外追放となり、再入国禁止を宣告された。景保は翌年獄死し、多数の関係者、洋学者が逮捕された。

いつの世も、地図は常に守るべきインテリジェンスであり、国家の禁制品であった。我が国では現在、1/5万や1/2.5万の地図が市販されているが、多くの国ではこのような地図は禁制品であり、所持すればスパイ罪に問われることもあるので要注意である。

▼ 蘭学の衰退

天保年間(1830年代)には「天保の飢饉」が象徴するように、米不足による治安が乱れ、一揆が発生した。大塩平八郎による武装蜂起など、幕府や諸藩に大きな影響を与えた。

国内問題ら加え、対外問題も続いていた。1837年、アメリカ商戦モリソン号が浦賀に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易を図ろうとしたが、幕府は異国船内払い令(1825年)に基づいてこれを撃退した。

この事件について、1838年、渡辺崋山(わたなべかざん1793~1841)は『慎機論』を、高野長英(たかのちょうえい1804~1850)は『母戌夢物語』を書いて、幕府の対外政策を批判した。

しかし、翌年、幕府はこれに対して、きびしく処罰した。なお、この処罰事件は「蛮社の獄」と呼ばれるが、高野らの潮流は旧来の国学者たちからは「蛮社」と呼ばれていたためである。

この事件後、蘭学は衰退傾向を辿ることになる。しかし、蘭学がわが国における対外インテリジェンスの萌芽を導いたことは間違いない。

▼洋学への発展と佐久間象山

佐久間象山

これまで述べたように、洋学は江戸時代初期の「蛮学」が中期には蘭学へと発展した。そして、ペリー来航(1853年)による開国以降、オランダ人以外の諸外国人もどんどんと渡来するようになった。

イギリスやフランスなどの学術・文化が、それぞれの国の言語とともに渡来した。もはや洋学は蘭学に止まらず、この時期以降に洋学という用語が一般化した。

洋学は自然科学・社会科学・人文科学の広い分野で西洋の知識・学問を移入するのに力を発揮したが、ことに英学が蘭学にかわって主要な地位を占めた。
また、洋学はわが国の国防体制への啓蒙となり、高島秋帆や佐久間象山(さくまぞうざん1811~1864)らの軍事思想に大きな影響を与えた。

 とくに象山は横浜開港を具申した立役者であり、のちに幕末の志士たちにより徳川幕府が倒され、明治の代が到来するきっかけを作った人物である。福沢諭吉や勝海舟も象山の影響を受けた。

吉田松陰は、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗北すると、西洋兵学を学ぶために九州に遊学し、その後江戸に出て象山の門を叩くことになる。

山鹿流兵学師範である松陰は、先師の山鹿素行の思想的影響を受けていたが、松陰に直接的な影響を及ぼした人物としては象山をおいて他はないといえよう。

さくらももこさん、ご冥福をお祈りします

相関関係と因果関係

さくらももこさん、お亡くなりになる

漫画家のさくらももこさんが、さる8月15日、乳がんのため亡くなられました。53才でした。

さくらさんは、10年近く乳がんと闘病されていました。40代半ばでのがん発覚後も治療を続けながら、近しい人以外にはがん闘病のことは明かさず、たんたんと仕事されていたそうです。

日本禁煙学会による、ある指摘

さくらさんは、健康おたくである一方で、ヘビースモーカーであったそうです。これに関連して、 日本禁煙学会の作田学理事長が「タバコと乳がんについての最新知見」として、さくらさんの死について、「タバコと乳がんとの関連をまったくご存じなかったとしか思えません」と述べられています。

同学会のパンフレットによれば、 若い女性の乳がん(閉経前乳がん:日本のデータ)について、次のように掲載されているようです。

  • タバコを吸うと3.9倍、受動喫煙で2.6倍
  • タバコを吸わなければ、乳がんの75%が予防できます。すぐに禁煙を!
  • 禁煙と受動喫煙防止をしっかり実行したなら、日本の若い女性の乳がんを半減できます!

喫煙と肺がんは因果関係なの?

 たばこと癌との関係はよく論じられます。とくに、肺がんと喫煙の因果関係が指摘されています。 
  禁煙協会などは、「喫煙と肺がんの因果関係はすでに複数の集団において明確に立証されている 。これを反証するデータは、存在しない 」 と指摘する傾向にあります。
 他方、「喫煙と肺がんとの直接の因果関係は、科学的に立証されていない」「喫煙者はストレスが多い。ストレスが死亡につながる」といった反対意見もあります。

生存バイアスとは何か

さらには、 「私の祖父は二人ともヘビースモーカーで、どちらも90歳まで生きた。だから、ヘビースモーカーが寿命を縮めるというのはウソだ」との自己流の判断を下す人さえいます。

これは、「 生存バイアス」という認知バイアスです。生存とは生き残っているという意味です。つまり、一部の表面化している情報(サンプル)のみを利用して物事を判断する、水面下に隠れている情報を無視するために、判断を誤るというバイアスです。 実際にヘビースモークにより肺癌になって早死にした人を探せば、たくさんいるはずです。 

因果関係を巡る論争

最近、統計データを基に「喫煙率が下がったのに肺がん死亡者が増えた」という指摘をもって、喫煙と肺がんの因果関係の切り崩しを行う論調があるようです。

これに対して禁煙派は、「喫煙から肺がんが生じるのには20~30年の時間間がかかり、喫煙率が低下したからといって即座に肺がんが減るわけではない。肺がんリスクが変わらなくても人口が増えたら、肺がん死亡者数は増える。高齢者の割合が増えるとそれだけで、肺がん死亡率(粗死亡率)は大きくなる」などと反論します。

因果関係と相関関係は異なる

ここで因果関係の厳密な意味を見てみましょう。 
「Aという原因があればBという結果が生じる」ことを「AとBは因果関係にある」といいいます。これには「Aが増加すればBも増加する」という正の因果関係と「Aが増加すればBは減少する」といった負の因果関係があります。

一方、因果関係とはいえないものの、「AとBにはなんらかの関係がある」ことを「AとBは相関関係にある」といいます。

相関関係と因果関係はしばしば混用されます。交通事故の数が増えれば交通事故死者の数は増える。したがって両者が因果関係にあることはほぼ間違いありません。しかし、実際には因果関係と思っていたことが、単なる相関関係にすぎないことがしばしばあります。

野菜を食べる人は長生き?

高原野菜で有名な長野県は日本一の長寿県です。長野県民は高原野菜をよく摂取します。

ただし「高原野菜をたくさん食べる人に長寿が多い」からといって、高原野菜の摂取と長寿に直接的な因果関係があるとまでは断定できません。

なぜならば長野県には「きれいな空気」や「理想的な生活習慣」などがあり、これらが長寿にプラスの影響を及ぼしている可能性があるからです。

因果関係の成立要件

因果関係には、 原因が先で結果が後であるという時系列的な関係が必要です。そして、その関係には別の原因が存在していないことが必要です。

肺がん患者には喫煙者の比率が多いことは、統計上はほぼ間違いがありません。つまり、両者は相関関係にあります。しかし、肺がんの増加は喫煙だけが原因ではありません。ここに、喫煙と肺がんの因果関係の立証が困難な点があります。だから、別の要因であるストレスなどが影響していることを指摘するなど、いろいろな議論が生まれているのでしょう。

因果関係の立証はインテリジェンスの要諦

因果関係が立証されれば、それは近未来を予測する手助けとなります。原因がわかれば結果が予測でき、対策も取ることができます。

しかし、相関関係では不十分です。喫煙率を減少させることが肺がん死亡率を低下させる決定打とまでいえない点もここにあります。

国際情勢における情報分析では、因果関係の立証がとても重要です。そのためには、
「まず相関関係にありそうな事象をアトランダムに列挙する。列挙した事象のなかから、原因が先で結果が後であるという時系列的な関係がある事象に着目する。その関係には別の原因が存在していないことを証明する。」ということが重要になります。すなわち、因果関係の立証はインテリジェンスの要諦なのです。

吸いすぎにご注意

社会科学においては、因果関係の立証は非常に難しいとされます。まことしやかな因果関係を疑って見ることが、情報分析では極めて重要です。

「喫煙と肺がんの因果関係はすでに複数の集団において明確に立証されている」など断定的に言われると、「え、本当?」と考える。このことは重要です。

ただし、やはり喫煙は多くの病気の原因であることは間違いありません。 筆者は喫煙はしませんが、嫌煙派といわけではありません。
喫煙者の方々、吸いすぎには注意しましょう。

わが国の情報史(9) 

幕藩体制を支えた忍者集団

幕藩体制の確立

1615年、大阪の役の直後、幕府は大名の居城を一つに限り(一国一城令)、さらに武家諸法度を制定して、大名を厳しく統制した。

三代将軍の徳川家光の時には、大名が国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代制度を義務付け、大名の妻子は江戸に住むことを強制した。

かくして、将軍と諸大名との主従関係が確立され、強力な領主権を持つ将軍と大名(幕府と藩)が、土地と人民を統治する支配体制、すなわち幕藩体制が確立された。

▼忍者を最も愛した徳川家康

こうした体制確立の一方で、諸国の大名が謀反を行なえように水面下での情報収集を強化した。ここで活躍したのが、隠密と呼ばれる忍者集団であった。

ここで少し、忍者の歴史をざっと振り返っておこう。

忍者・忍術は飛鳥・源平時代に発祥し、鎌倉時代には荘園の中で発生した「悪党」が「伊賀衆」を形成し、楠木正成はこれらの衆を使って後醍醐天皇をお守りした。

戦国時代に「伊賀衆」と呼ばれる者たちが、「忍び」と呼ばれるようになり、やがて「忍び」は、各地の大名に召し抱えられて、敵国への侵入、放火、破壊、闇討ち、待ち伏せ、情報収集などを行うようになった。(我が国の情報史(2))
 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人はともに「インテリジェンス・リテラシー」に長けた人物であった。ただし、忍者の活用については三者三様であつた。

信長は伊賀忍者の集団的謀反性を警戒し、もう一つの忍者集団である甲賀忍者を使って、1581年に伊賀忍者を討伐した(第二次天正伊賀の乱)。

秀吉は、非常に小さい時から忍術というものに慣れていたようであるが、1580年の、織田信長と石山本願寺勢力との戦い(石山合戦)の時、忍者の裏切りによって、四苦八苦したことから、あまり忍者を愛さなかった。

これに対し、家康は忍者を召し抱え、隠密として利用した。すなわち、忍者を愛した人物という意味では家康が一番である。こういう点も、家康が、他の二人より一歩抜き出ていた、と筆者は思う。

▼家康の伊賀越え

これを家康は、信長の死を泉州の堺で知った。この時の家康のお供は、本多忠勝、服部半蔵、武田氏の旧臣の穴山梅雪等のわずか30人余りであった。

家康と忍者との関係は深い。
1582年6月2日、明智光秀による「本能寺の変」が起きた。 この時、家康は信長の招聘によって畿内各地を見学中であった。

家康は、日頃恩顧をこうむった信長のために、光秀と一戦を交えることも覚悟した。   それができなければ、知恩院で腹を切るまでだと、家康はわずかな軍勢を本能寺に向けようとした。

しかし、それを知った忠勝が今いっては危ないから一度三河まで帰って準備を整えて兵をあげてからでも遅くないと、家康を諭した。

そのため家康一行は、伊賀越えをし、伊勢の海から三河に帰ることにした。しかし、最大の難所は伊賀の山中である。そこには、地侍や土豪による一揆の恐れが潜んでいた。実際、家康一行から遅れて出発した穴山梅雪は、土豪に襲われて殺害された。家康、生涯における大きなピンチの一つであった。

▼ 服部半蔵の大活躍

その時、最大の功労者となるのが服部半蔵(はっとりはんぞう)である。彼は伊賀出身であった。半蔵はその地縁・血縁を生かし、伊賀衆と甲賀衆からなる200名の忍者を招いた。

これら忍者を山中の要点に配置し、家康一行を警護し、伊勢の山中を無事踏破し、三河に帰るつくことができた。

こうした縁から、家康は1590年、江戸に居城を構えた際、服部半蔵以下200人の忍者を召し抱え、江戸城下に住まわせ、大奥や無人の大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察、全国各地のなどを行うせるようになった。

現在の四谷の伊賀町、神田の甲賀町の地名は、伊賀者、甲賀者が居を構えた名残である。その首領である服部半蔵が護っていた麹町御門が半蔵門となった。むかし、バスツアーガイドが、「この半蔵門はむかし将軍様に象をご覧にいれようとして、ここまで連れてきたが、この門を半分しか入らなかったのでそれで半蔵門といった」という笑い話しがあるが、真っ赤な嘘ということになる。

▼ お庭番制度の確立

200名の忍者集団はやがて、8代将軍の綱吉の時代には、お庭番制度へと発展する。お庭番は幕府の役職であり、将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密である。

時代劇や小説などでは、将軍が庭を散歩すれば、お庭番として入っている隠密がすっと近寄って来る。将軍が隠密に諸国の情勢を見てくるように命じる。するとお庭番は、その場に箒を捨てて、2~3年間の猶予をもらって諸国の情勢を取りに行くといった、描写がよく描かれている。

こうした描写は、脚色された作りものであるが、お庭番は遠国に実状調査に出かけた、これを遠国御用という。テレビドラマのような派手な間諜行動はなかったとみられるが、地方に対する隠密調査が行われた。この調査は多くの支援組織によって支援され、お庭番が隠密となり、地方の実情を調査した。

かくして、現在の警察網のようなネットワークが全国に展開された。このように、江戸時代の平和な時代が訪れると、かつて忍者は、幕府の命で情報を得たり、幕府警護をすることが主な任務となった。お庭番は、その土地の人と仲良くなって情報を聞き出し、幕府にその実情を伝えたのである。孫子でいう「郷間」の活用が行われた。

こうした忍者集団の存在が、徳川260年の太平を保ったと言ってよい。

▼ インテリジェンス・サイクルの確立

 インテリジェンスの理論の中で、インテリジェンス・サイクルという用語がある。これは、使用者が情報要求を発し、収集機関が情報を収集し、集めた情報(インフォメーション)を分析し、インテリジェンスを生成し、使用者に提供する。使用者をインテリジェンスに基づいて、政策決定などの判断を行うというものである。

 我が国の情報体制の欠点でよく指摘されているのが、このサイクルが機能不十分ということである。とくに、国家指導者(総理大臣)から、具体的な情報要求が発出されることがないと言われる。

インテリジェンスに詳しいジャーナリスト・作家の手島龍一氏によれば、この情報要求を実際に発出していた歴代総理は橋本龍太郎氏ぐらいだったらしい。

残念なことに、その橋本総理も一方では、中国女性によるハニートラップ疑惑があるのだか・・・・。

すでに綱吉の時代には、国家トップが情報要求を発出し、これを受けて、忍者集団が隠密として全国における情報収集活動を展開していた。そして、それを下に、幕藩体制の維持に活用した。この点から、江戸時代には国家的なインテリジェンス・サイクルが確立されていたと言えるかもしれない。

たどすれば、もっとインテリジェンス・サイクルは日本の文化として定着してもよかったのではないだろうか?

この点は、今後の一つの検証課題かもしれない。

想定外と不確実性の低減

北海道大地震の発生

9月6日未明、北海道胆振東部を震源とする震度7の地震が発生しました。亡くなられた方、行方不明者の関係者、負傷者、そして家屋損害やインフラ断絶などの被害にあわれた方、心よりご冥福並びにお見舞い申し上げます。

北海道において震度7の地震は初めてであり、予想外の感はあります。しかし、気象庁はすでに以前から、北海道に震度7クラスの地震が起きる可能性はある、との予測を発表していました。ですから、想定外とは言えません。ただし、何時起こるかは分かりませんし、これという予報もなかったので予想外ではありました。また、一つの発電所の被害によって北海道全域が停電になることは想定外であったのかもしれません。つくづく人間の想像力の欠如というものを思い知らされます。

想定外とは何か

想定外という言葉は、2011年の東日本大震災において流行しました。これは事前に想定した範囲を超えていることです。人間は物事を考えるうえで、一定の条件、すなわち枠を設けて考えます。これは情報分析の基本であり、想定のことを前提という言い方もします。

たとえば、中国の将来情勢を分析する上で、当面は共産党の一党独裁が継続するという前提(想定)で、その将来動向を見積もることになります。こうした前提がないと、分析の焦点が定まらず議論が発散し、政策や行動に活用できるインテリジェンスを作成することはできません。

わがくにの地震対策では、最大の地震は「東海」「東南海」「南海」の3地震が連動して起こるマグニチュード9クラスを想定しています。当然、これ以上の地震が起こる可能性は排除できませんが、キリがないので、最大規模をマグニチュード9としているのにすぎません。

想定外はなぜ起こるのか

物事を考える上で“考察の枠”を仮に設定しているだけなので、想定外は必ず起こります。しかし、ここで問題なのは、その事象が起こり得る蓋然性はかなりあるにもかかわらず、これを想定外として考察しない場合です。

こうした不注意な想定外は、思い込み、希望的観測、想像力の欠如、思考停止などで起こります。なかでも、自分にとって都合の悪いシナリオが浮かんで気分が滅入る、どうせ考えても自分では対策は取れないなど、起こり得るシナリオを考えようとしない思考停止がよく起こります。つまり、「なるようになるさ」「なってから考えればいいやる」という諦念感と開きなおり、「なるはずはない」「信じる者は救われる」的な希望的観測などが心理を支配します。

不確実性の低減

想定外とよく似た概念で不確実性という言葉があります。また、情報分析の目的は不確実性の低減にある、ともよくいわれます。

不確実性とは「確実性(絶対確実)」の反対語であり、事象が起きるか起きないか分からないという、意思決定者の不確かな精神状態のことをといいます。ただし、より厳密にはリスクと(真の)不確実性に区分することができます。 リスクは起こりうる事象が分かっていて、それが起きる確率もわかっているもの。つまり、測定可能な不確実性のことです。    一方、(真の)不確実性とは、起こりうる事象が分かっているが、それが起きる確率が事前には分からないもの。つまり、測定不可能な不確実性をいいます。

厳密な意味での不確実性とは起こり得る事象が分かっているものであるので、いずれも想定内です。つまり、不確実性の低減とは、第一に不確実性の領域を拡大する、すなわち想定内の領域を拡大し、想定外の領域を縮小することです。つまり、想像力を発揮して、想定外の事象を可能な限り想定内に組み込み、対応策を考えることです。ただし、なんでもかんでも組み込むと情報分析はできなくなるし、一方、組み込み不足は本来は想定内である危機やその兆候を見落すことになるので、その兼ね合いが重要です。

シナリオの蓋然性を提示

第二に、未来におけるいくつかの対応すべき起こり得る事象(シナリオ)と、そのシナリオがどの程度の確立で起こるかを提示することです。

シナリオが起りえる確立のことを、蓋然性あるいは確度(確証レベル、INTELLIGENCE CONFIDENCE LEVEL)、といいます。それは、通常は%をもって示されます。たとえば、天気予報において以下の予報があったとしましょう。

① 明日、雨が降る可能性0%、100%

② 明日、雨が降る可能性は50%

③ 明日、雨が降る可能性は80%、20%

①のように、国家政策や企業経営において、関連する事象の発生率が0%、100%ということは一般的にほとんどありません。では、②の50%ではどうかというと、これは「降るかどうかわからない」「降るかどうかいえない」ということであり、これでは判断や意思決定に役に立ちません。

よって、③のように50%を中心に上・下の幅の確度として提示する、これにより意思決定を支援することが情報分析の目的です。

たとえば雨が降る可能性が40%ならば、「少々のリスクはあるが、予定どおり屋外で行事を実施しよう」、あるいはその可能性が60%ならば「明日の行事は体育館に変更しよう」、そして80%ならば「中止にして別の行事に切り替えよう」などと判断することになります。

 なお、わが国では、確度を明確に示した国家的なプロダクトは稀ですが、米国のプロダクトには以下の確度に基づいたプロダクトが作成されています。

また、二〇〇三年のインク戦争では、「サダム・フセインは大量破壊兵器を隠している」という誤った判断を下したという反省から、CIAは確度を評価する必要性を再認識しているとされます。

不確実性を低減するためには確度の評価に臨まなければなりません。