わが国の情報史(36)  昭和のインテリジェンス(その12)

  ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(2)─

今回は、第一次世界大戦後に、総力戦あるいは非武力戦の概念が打ち出されるなか、共産主義に対する防衛、すなわち「防諜」という言葉が登場し、わが国において官民の防諜体制の確立が強く叫ばれたことに焦点をあてることにする。

▼防諜という言葉の淵源と来歴

 1938年8月に「後方勤務要員養成所」として産声をあげた陸軍中野学校では、創立後しばらくたった頃から、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、「秘密戦」と呼称するようになった。

 その秘密戦は諜報、宣伝、謀略、防諜と定義された(※ただし、秘密戦の呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統一的に使用されていなかった)

 しかしながら、1925年から28年にかけて作成されたと推定される、情報専門の教範『諜報宣伝勤務指針』では、諜報、謀略、宣伝という用語についての定義付けがなされているが、ここには「防諜」という言葉は登場しない。

 そもそも、「孫子」の例を持ち出すまでもなく、歴史的には情報を収集する活動が開始されたと同時に、それと表裏一体である情報を守る活動は開始された。情報を守る、すなわち情報保全あるいは情報秘匿が戦勝の鍵となったのである。

 『諜報宣伝勤務指針』においても、「対諜報防衛」という用語で、その活動について規定している。

 ここには、諜報勤務者を防衛することや対諜報防衛の要領を知悉することの重要性、対諜報防衛組織の全国的統一運用、相手国(対手国)の諜報組織とその諜報勤務上の企図を諜知することの重要性、相手国の諜報勤務の取り締まりための暗号解読、写真術の応用、特殊「インキ」や封印等の対策、無線電信の窃諜の必要性などが記述されている。

 このほか、要注意人物の発見や行動の把握、国境出入り者の検査の厳正なる実施、公然諜報員の獲得などのことが記述されている。

 しかしながら、上述の繰り返しなるが、『諜報宣伝勤務指針』には「防諜」という言葉はない。では「防諜」という用語はいつ登場したのであろうか?

 これは、1936年7月24日勅令第211号陸軍省官制の改正により、兵務局が新設されたことに端を発する。兵務局は、2.26事件(1936年2月)の影響や、のちの日独防共共協の締結(1936年11月)に象徴される共産主義イデオロギーの浸透に対する警戒などを背景に設けられた。

 そして兵務局兵務課は、歩兵以下の各兵科(航空科を除く)の本務事項を統括、軍紀風紀懲罰の総元締めとして軍事警察、防諜などを担当した。同「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、6項で「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定された。おそらく、これが防諜の最初の正式の用例だとみられる。

▼防諜とはどのような情報活動か?

 1938年9月9日に陸軍省から関係部隊に通知された資料である「防諜ノ参考」、及び陸軍省兵務局が各省の防諜業務担当者に配布した資料である「防諜第一號」から、当時の防諜に関する認識を整理すれば以下のとおりである。

◇陸軍は、防諜を「外国の我に向ってする諜報、謀略(宣伝を含む)に対し、我が国防力の安全を確保する」ことであると定義し、積極的防諜と消極的防諜に区分した。

◇積極的防諜とは、「外国の諜報、もしくは謀略の企図、組織または、その行為もしくは措置を探知、防止、破摧」することであり、主として憲兵や警察などが行なった。その具体的な活動内容は、不法無線の監視や電話の盗聴、物件の奪取、談話の盗聴、郵便物の秘密開緘(かいかん)などであった。

◇消極的防諜とは、「個人もしくは団体が自己に関する秘密の漏洩を防止する行為もしくは措置」のことであり、軍隊、官衙(かんが、※役所のこと)、学校、軍工場等が自ら行なうものであった。

主要施策としては、(1)防諜観念の養成、(2)秘の事項または物件を暴露しようとする各種行為もしく措置に対する行政的指導または法律による禁止もしくは制限、(3)ラジオ、刊行物、輸出物件および通信の検閲、(4)建物、建築物等に関する秘匿措置、(5)秘密保持のための法令および規程の立案及びその施行などがあった。

(『防衛研究所紀要』第14巻「研究ノート 陸海軍の防諜 ──その組織と教育─」を参考、※インターネット上で公開)

▼防諜体制の強化

 以上のように、2.26の影響や共産主義の浸透防止を目的に兵務局が新設され、日中戦争勃発(1937年7月)以降に防諜の概念が整理されるようになり、陸軍省から関係部署に防諜体制の構築が徹底された。

 つまり、従前の「対諜報防衛」は、相手側の諜報を防衛し、軍機の漏洩を回避するといった狭義の軍事的意味で用いられた。しかし、総力戦のなかで広範囲に諜報、宣伝、謀略が展開されるようになったため、国民を広く啓蒙し、官民一体となった相手国および中立国の秘密戦に対処する必要性が生じた。そのことが「防諜」という言葉に結集したといえるのではないだろうか。

 1937年8月に軍機保護法が全面改訂され、10月に新しい軍機保護法が施行された。1938年には、国防科学研究会著『スパイを防止せよ!! : 防諜の心得』(亜細亜出版社、インターネット公開)といった著書が出版され、国民に対して防諜意識の啓蒙が図られた。

 同著では、1防諜とはどんなことか、2防諜は国民全体の手で、3軍機の保護と防諜とは、4国民は防諜上どうしたらよいか、5スパイの魔手は如何に働くか、6外国の人は皆スパイか、7国民よ防諜上の覚悟は良いか、の見出しで、防諜の概念や国民がスパイから秘密を守るための留意事項が述べられている。

 同著は、「近頃新聞紙やパンフレット等に防諜という言葉が縷縷見受けられるようになってきたが・・・、又一般流行語の様に一時的に人気のある言葉で過ぎ去るべきものであるか、・・・」と記述しており、防諜が一般用語として急速に普及したようである。

 その後、防諜に関する著作、記事、パンフレットが定期的に頒布された。主なものには、『週報』240号「特集 秘密戦と防諜」(1941年5月14日)、『機械化』21号「君等は銃後の防諜戦士」(1942年8月)、引間功『戦時防諜と秘密戦の全貌』 (1943(康徳9)年、大同印書館出版)が挙げられる。

 その後、防諜は終戦までずっと、その重要性が認識され、国民への啓蒙活動が行なわれた。

▼防諜という用語が登場・普及した背景

 防諜という言葉が登場・普及した背景には、第一次世界大戦において非武力戦あるいは総力戦の概念が登場したこと、共産主義国家ソ連が誕生して国際コミンテルンが各国に共産主義イデオロギーを輸出したこと、満洲事変(1931年9月)以後のわが国の大陸進出に対する欧米、ソ連、蒋介石政権の対日牽制が本格化したことなど挙げられる。

 第一次世界大戦において、わが国はドイツが敗北した大きな要因が総力戦対応の失敗だと認識したようであり、これは当時の軍事雑誌では以下のように記述されている。

 「・・・これは前大戦の例を見てもわかります。前大戦の時、ドイツは武力戦では連合軍をよく撃破したのでしたが、非武力戦で銃後を攪乱され、折角の前線の勝利も銃後から崩壊してあの無惨な敗北を喫したのであります。

 戦争とスパイは付き物ですが、前欧州大戦の時にも、両軍のスパイはお互いに盛んに活躍したのです。スパイの活躍がどんなに戦争に響くかということは、今更申し上げるまでもなく皆さんのよくご存知の通りです。

 例えば軍の作戦が漏れた為に敵に乗ぜられるとか兵団の移動が探知された結果、意外な逆襲にあって大損害を蒙るとか、その影響は頗(すこぶ)る大きく、一スパイの活躍よく大兵団を葬ると云うが如き例はいくらもあるのであります。

 前大戦に於いて両軍の軍事スパイは幾多の目覚ましい手柄をたてています。然し結果的に考えてみますと、ドイツ軍のスパイは軍事的にのみ片寄り過ぎて、その他に方面には及ばなかったようです。同時に防諜という点でも、軍関係の秘密は守られましたが、他の方面の秘密は敵側に漏れていたようです。

 近代の戦争が武力戦のみでなく、非武力戦も戦争であると前に述べましたが、戦争に勝つことは、武力戦に勝つと同時に非武力戦にも勝たねばならないのであります。

 前大戦に於ける連合国側の様子を見ると、武力だけではドイツを降参させることは難しいと考え、非武力戦線にも力を入れようと計画したのです。その結果ドイツの経済、社会思想、政治等をよく調べ、銃後攪乱をやったり、謀略、宣伝に力を入れ、とうとう武力戦では勝利を得ているドイツを降参させてしまったのであります。謀略宣伝がどんなに威力のあるものか、非武力戦の勝利が如何に功を奏するかがこの例ではっきり解ります。・・・・・・・」

(「機械化」21号(昭和17年8月)「君等は銃後の防諜戦士」)

 また、当時の国際共産主義の輸出、拡大の情況を整理すると次のとおりである。

 ロシア革命(1917年)後の1919年にレーニンによってつくられたコミンテルンは共産主義の思想を各国に輸出した。日本もその例外ではなく、1922年に日本共産党がコミンテルン日本支部として設立した。これを取り締まるために1925年に治安維持法が制定された。

 1931年6月、コミンテルンの国際組織であるプロファインテル極東支部のイレール・ヌーランが上海で逮捕された。この事件によって、上海を中心にアジア各地にコミンテルンのネットワークが張り巡らされていたことが暴かれ、わが国も事の重大性を認識した。

 1930年代のファシズムの台頭に対しては、欧州各国で1934年から人民戦線の動きが強まった。これを受けてコミンテルンは、1935年のコミンテルン第7回大会で「反ファッショ統一戦線(人民戦線)」路線を採択した。

 中国では、これを受けて共産党が1935年、「8.18宣言」をだし、抗日民族統一戦線を国民党に呼びかけた。この延長線に締結されたのが日独防共協定であり、また日中戦争ということになる。

 日本国内においては、満洲事変以後にわが国が国連脱退したことなどにより、日本への外国人渡来者数や軍事関連施設の視察者が増加した。この中には、正体不明の多くのスパイが混入していた。

 このため、わが国は特別高等警察(特高)と憲兵隊を強化したほか、陸軍省は軍内の機密保護観念の希薄さを改めて問題視した。そして各省庁が連携して国家の防諜態勢を確立すること目指したのである。

 すなわち、官民が一体となった防諜体制の確立が目指されたのである。

▼二大スパイ事件が防諜の重要性を高める

 また、わが国におけるスパイ事件が防諜の重要性を高めた。その代表事例がコックス事件とゾルゲ事件である。

 1940年7月27日に、日本各地において在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙された。これがコックス事件である。同月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り自殺する。

 当時、この事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となった。

一方のゾルゲ事件は、ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲが組織するスパイ網の構成員が 1941年9月から1942年4月にかけて逮捕された事件である。

 この事件についてはあまりにも有名なので、ここで詳細は述べないが、ゾルゲが近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実などを協力者として運用し、わが国が南進するなどの重要な情報を入手し、ソ連に報告していた。

(次回に続く)

群衆の英知と集団浅慮

自衛隊における情報教育とは

私は、防衛省や陸上自衛隊で情報分析官や情報幹部などの教育に長年従事してきました。

卓越した情報分析力の持ち主として著名な元外務省主任分析官の佐藤優先生や、タイ大使などを歴任され著名な外交官であった故岡崎久彦先生などのの著作を読むと、「やはり天才教育重視かな」と思ってしまいます。

私も在外大使館に3年ばかり勤務しましたので、なんなとなく外務省は個人の卓越したスキルで勝負する、いわゆる一匹狼的な組織だなと感じたことがあります。もちろん、仕事以外では仲良くしますが、専門の仕事に関しては、他に干渉させないといったある種の矜持があるように思います。

しかし、有事のための組織である自衛隊は組織集団で仕事します。情報についても有事における情報体制が基準としなければならならないと考えます。

有事にはあらゆる階層、領域の真偽混在の膨大な情報が流れてくることが予測されます。当然、大勢の者が分担して仕事を行うことになります。数人の専門家が国際情勢を予測するといった状況にはなりません。

したがって、私も自衛隊の情報教育に従事していた際、「数人の卓越した人材を生み出す(私が大した力量がないのでこれは無理)のではなく、集団のレベルアップを図ること」を信条としていました。

海軍大将・井上成美の教え

先日、ある後輩の現職自衛官数人が筆者を宴席に誘ってくれました。彼らは、拙著『戦略的インテリジェンス入門』を熟読してくれており、それを基にインテリジェンスに関する意見交換をしました。

そこで、筆者は自衛隊における情報教育の在り方について、上述のような思いを語りました。するとある自衛官が、「それは海軍兵学校の井上成美大将の言っていることですね」と、貴重な助言をしてくれました。

私は、元陸上自衛官だったので、井上大将がどんな人物かは知っていましたが、将校教育における彼の考え方は知りませんでした。そこで、是非、井上大将の発言内容をメールで教えてほしいと懇願したところ、以下メールが届きました。

昨日の井上成美大将の画一教育について、阿川弘之氏の小説に当該箇所の記述がなかったため、代わりに以下の論文をご紹介します。
「海軍兵学校教程へのドルトン・プランの導入と放棄について」(防衛研究所)

「井上は「海軍兵學校ノ敎育ハ画一敎育ニシテ、天才敎育ハ不可ナリ」と述べた上で「學校ノ努力ハ先ス劣等者ヲ無クスルコトニ注ガルベキナリ」との考えを残している(67)。

この文面のとおり兵学校では英才教育よりも底上げ教育を重視するべきと井上は説いている。戦場で勝利を得るために期待される特性の第一は、戦闘参加者の均質性である。

軍事教育は、軍種・職種といった専門性の違いや最前線の兵卒レベルから指揮官、高級参謀といった階層の違いを越えて、戦争における諸活動を統一的に考えることのできる。

知的基盤や心情的同一性を持たせるために必要な均質性を養うことを主眼にしなければならない。このことから一般に軍事教育では一斉教授法が向いており、実行上留意すべき点として全体の底上げを優先的に考えるのが妥当と考えられている。一方、戦勝を得るための主動、奇襲、陽動といった戦闘活動では発想の斬新さが重視され、そこで期待される特性は均質性の対極にある特異性である。

戦闘もしくは戦争の行方を左右するような指揮官に至るほど特異性が要求されるであろう。この特異性を得るために個別学習法を取り入れようとする動機が向上する場合がある。(67)水交会『元海軍大将井上成美談話収録』(水交会、1959 年)59-60 頁」

また、ウィキペディアの「井上成美」にも「教育思想」の項目で、画一教育について、紹介されています。

「井上は、教官たちに「自分がやりたいのは、ダルトン・プランのような 『生徒それぞれの天分を伸ばさせる天才教育』 ではない。

兵学校の教育は 『画一教育』 であるべき。兵学校では、まず劣等者をなくし、少尉任官後に指揮権を行使するのに最低限度必要とされる智・徳・体の能力を持たせて卒業させ、その見込みのない者は退校させねばならない。

兵学校教育の目標は、結果として、少尉任官に指揮権を行使する最低限度能力を持てないと見込まれる退校者を出さないよう、生徒をしっかり教育することである」という旨を示し、秀才は放っておけ、まず劣等者をなくせ、と端的に指示した。[345]
[345]井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年 366-367頁」

まさに、筆者が思っていたことを鋭く述べており、我が意を得たりの心境です。ただし、底辺の底上げについても、限られた時間での計画教育だけの成果は限定的です。結局のところ、個人の課外における自主学習が必要となります。そのためには、教科書あるいは参考書が必要です。

しかるに自衛隊の教範は原則事項から踏み出されたことは記述されておらず、いわば〝無味乾燥〟であり、それを解説する教官が必要となります。さらに、教範は厳重に管理され、自宅での学習に適しません。

私は、現職時代にこうした問題点を認識していましたので、退職後にすでに世に流通する書籍と米国の公開マニュアルなどを基に、『戦略的インテリジェンス入門』を執筆し、上梓したという訳です。

集団で仕事することの利点は「群衆の英知」を発揮すること

さて、集団で仕事をすることの最大の利点は「群衆の英知」を働かせることです。ジェームズ・スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』では、「WOC :Wisdom of Crowds」という概念が述べられています。これは「群衆の英知」あるいは「集合知」と呼ばれるものです。

つまり、少数の権威者による意思決定や結論よりも、多数の意見の集合による結論や予測が正しいということです。ここに、凡人集団が天才あるいは専門家に勝てる秘訣があります。

集団浅慮とは

集団で考えることで、個人のバイアスを回避して、プラスの効果をもたらすことが多々あります。他方、同質が高い少数の手段は集団浅慮に陥りやすい欠点もあります。 これは、グループで討議する際に、少数意見や地位の低い者の意見を排除し、不合理な意思決定を行なうことです。

結束の強い小さな集団に属する者はグループ討議する際に疑問を挟まなくなる傾向があります。この結果、集団内で不合理あるいは危険な意思決定が容認されることになります。

同質性が高く、絶対的階級社会である自衛隊の現場においてとかく集団浅慮が生じがちです。筆者も上級者に盲目的に追随する集団浅慮の場に遭遇することもありました。

集団浅慮は、米国のキューバのビッグス湾侵攻の失敗、イスラエルの第4次中東戦争の失敗を引き起こしたとして有名です。

キューバ侵攻で失敗したケネディー大統領は、集団浅慮の弊害をなくするため、意図的に会議の場から姿を消す、「(議論のために)わざと本心と反対の意見を述べる、悪魔の代弁者」を設定して、キューバミサイル危機に対処したとされます。

第四次中東戦争の失敗で学んだイスラエルの情報組織は、トップリーダーの意見に同調しないためにはどうすればよいかを考え、今日では会議に民間人を採用する施策を導入するなどして成果を挙げているといいます。

集団浅慮の兆候とは

グループシンクバイアス研究の第一人者で、キューバのピッグズ湾侵攻に至る意思決定を研究した心理学者のアービング・ジャニスは、その著書『グループシンクの犠牲者』で、集団浅慮は時間的制約、専門家の存在、特定の利害関係の存在などによって引き起こされ、以下の8項目の兆候があると指摘しています。

①無敵感が生まれ、楽観的になる。

②自分たちは道徳的であるという信念が広がる。

③決定を合理的なものと思い込み、周囲からの助言を無視する。

④ライバルの弱点を過大評価し、能力を過小評価する。

⑤皆の決定に異論を唱えるメンバーに圧力がかかる。

⑥皆の意見から外れないように自分で自分を検閲する。

⑦過半数にすぎない意見であっても、全会一致であると思い込む。

⑧自分たちに都合の悪い情報を遮断してしまう。

(以上、拙著『武器になる情報分析力から抜粋』)

異端を排除しない社会づくり

わが国は、同質性の高い民族国家です。その結束力を発揮すれば、諸外国の天才にも勝利できます。国民の全体の知的レベル高め、組織における「群衆の英知」を高めることが可能です。

しかし、AI社会におけるわが国の後進性などの現状を見ますと、わが国も天才を生み出す教育に力を入れる必要性も感じます。

AI社会における有為な牽引を生み出すために、まずは青少年を中心とする国民全体レベルの知的向上を図ることと、組織における同質性の弊害を認識し、努力している〝異端〟を排除しない社会づくりが重要だと思われます。

兆候と妥当性との関係

元農水省事務次官の事件

先日、元農林水産省事務次官(76)が長男(44)を殺害するというニュースが話題を呼びました。元次官は警視庁に対し、川崎市で児童ら20人が殺傷された事件に触れ、「長男が子どもたちに危害を加えてはいけないと思った」という内容の供述をしたようです。

この事件で筆者は、「ヒヤリ・ハット」すなわち「ハインリッヒの法則」のことを思い起しました。これは、1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常、すなわち「ヒヤリとする、ハットする」ヒヤリ・ハットが存在するというものです。

先日、池袋で87歳の旧通商産業省高官が自動車暴走し2人死亡させる事故が起きました。この事故にも軽微な事故やヒヤリ・ハットがあったと思われます。

重大な事故を防止するためにはヒヤリ・ハットを無視、軽視することなく、その対策を考えることが重要です。ここでのポイントは、上述の交通事故を例にすれば、ブレーキ動作の遅れといった交通事故の直接原因だけでなく、階段の踏み外れ→筋力の衰え→ブレーキ動作の遅れといったように想像的にヒヤリ・ハットを考えることです。

また、他の人が経験したヒヤリ・ハットを自分のものとして自覚することです。つまり、最近の高齢者による重大事故のニュースなどに接した場合、加害者やそのご家族は「自分達は大丈夫だ」と過信せず、自らのヒヤリ・ハットとして〝冷や汗〟を流して、その対策を創造的に取る必要がありました。

今回の元次官による我が子殺害事件では、おそらくまだ報道されていないヒヤリ・ハットがいくつもあったのでしょう。その意味では、元次官は川崎事件を想像して、我が子による重大事故を未然に防止しようとしたのですから、この点では、ハインリッヒの法則の良好事例ということになります。

もちろん、我が子を殺害することが唯一の対策であったのかという点は、大きな問題として考えなければなりません。

ただし、外野は「いかなる理由があろうと 殺人は許される行為ではない。行政に相談することが重要」などと、ありきたりのコメントをしますが、元次官の立場や心情に立てば、やむにやまれぬ行動であったのかもしれません。

兆候とは

ヒヤリ・ハットは重大事故の一つの兆候ととらえることもできます。国際情報を分析するうえでは、兆候を見逃さないことが重要です。

兆候は「物事の前触れ」であり予兆ともいいいます。たとえば敵が近々戦争を開始しようとすれば、物資の事前集積、情報収集機の活発な活動、通信量の増大など必ずなんらかの変化が現出します。一方、攻撃の直前ともなれば「無線封止」により通信量が激減するといった変化が現れるかもしれません。

第二次世界大戦中、米海軍で対日諜報を担当していたE・M・ザカリアス(元米海軍少将)は、日米開戦前に日本が米国を奇襲する寸前の兆候として、「あらゆる航路からの日本商船の引き揚げ」と「無線通信の著しい増加」、日本の攻撃に特徴的な兆候として「ハワイ海域における日本潜水艦の出没」を挙げましたた。

妥当性とは

他方、兆候に対峙する概念として妥当性があります。妥当性は「その戦略や戦術が目的に合致しているか?」「戦略・戦術が可能か?」ということです。いくら戦争開始を示す事前の兆候があったとしてもその戦略や戦術が著しく妥当性を欠く場合、兆候は偽情報として処理するというのが妥当性の考えです。

妥当性をはかる基準としては適合性、可能性、受容性および効果性の4つがあります。それぞれの基準の意義は以下のとおりである。

1)適合性:その戦略構想が戦略目標達成にどれほど寄与できるか?

2)可能性:自己の内部要因がその戦略行動を可能にするか?

3)受容性:戦略構想実施によってえられる損失または利益が戦略意図の要求度に対して許容できるか?

4)効果性:戦略構想が実施に移された場合、全般戦略および他の関連する戦略にどれほどの貢献ができ、またはどれほどの影響を及ぼすのか?

妥当性の評価が誤るケース は多い

妥当性の評価が誤るケースは多々あります。第四次中東戦争において、イスラエルは多くの兆候をつかんでいたものの、エジプトの軍事侵攻の可能性を否定しました。

イスラエルにしてみれば、航空優勢を確保したのちに、軍事侵攻を行なうのが原則であり、当然「エジプトもそう考えている」と思い込みました。つまり「航空優勢を確保するためエジプトは、攻撃機とスカッドミサイルをソ連から輸入しようとしている。それが配備されない状況での侵攻はない」との評価を最後まで変えませんでした。

しかし、エジプトのサダト大統領は、スエズ運河沿いの防空網の外に部隊を進出させない限定的な作戦、つまりスカッドミサイルや攻撃機に頼らない作戦を決断したのです。

人は誰でも「常識」という判断尺度をもっています。専門家や知識レベルの高い人なればなるほど、「常識」すなわち「妥当性」という判断尺度を過信して、重要な兆候を見逃してしまうことがあります。

兆候と妥当性はどちを重視するか

兆候と妥当性の評価が異なった場合、まず兆候を優先し、次に妥当性を判断するのが原則です。

つまり、「兆候上はこのような可能性がある」とはっきり述べることが重要です。そのうえで、それを反駁する情報がどの程度有力であるか、すなわち妥当性を検証します。

ただし、さまざまな兆候から、相手側の戦略・戦術が推量されても、著しく妥当性を欠く場合があります。この場合、その兆候は偽情報、すなわち欺瞞として処理する必要がでてきます。

前述した大本営参謀の堀栄三少佐は、米軍によるフィリピンへの上陸地点の予測を命じられ、「リンガエン湾、ラモン湾、バンダガスの三か所への上陸する蓋然性が高い」と判断し、まず兆候から、「リンガエン湾とラモン湾の蓋然性が高い、とくにラモン湾の蓋然性が高い」と判断しました。

しかし、堀少佐はマッカーサー司令官になったつもりで再検討します。つまり、①米軍がフィリピン島で何を一番に求めているか(絶対条件) ②それを有利に遂行するにはどんな方法があるか(有利条件) ③それを妨害しているものは何であるか(妨害条件) ④従来の自分の戦法と現在の能力で可能なものは何か(可能条件)の四つの条件に当てはめて再考したのです。

その結果、堀少佐は当初の見積りを修正して、「リンガエン湾の蓋然性大」との最終判断を下し、見事に米軍の行動を予測したのです。私たちも堀少佐の域には達しませんが、兆候を探知する感知力、妥当性を判断する想像力を養う必要があります。


わが国の情報史(35) 昭和のインテリジェンス(その11)      -日中戦争から太平洋戦争までの情報活動①-     

▼はじめに

さて、前回は、軍閥間の対立などによって2.26事件が起こったことを述べました。今回から日中戦争と第二次世界大戦に移ることにする。すでに第二次世界大戦については、〝情報の渦〟というくらい多くのことが語られている。だから、ひとつひとつの戦闘の局面を取り上げて述べるのではなく、当時の防諜体制、陸軍中野学校、秘密戦など、歴史の教科書や、通常の戦史書では触れられていないことを中心にざっと述べることにしよう。

▼2.26事件により統制派が台頭  

2.26事件が発生し、岡田啓介内閣は総辞職した。陸軍の皇道派に属する重鎮は軒並み予備役に編入された。これら皇軍派の左遷人事を行ったのが、軍務局軍事課の武藤章中佐(後述)と参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐であった。    

彼らは、相沢中佐に刺殺された永田鉄山が率いてきた「一夕会」のメンバーであり、統制派である。つまり、2.26事件により、統制派が皇道派を完全に一掃した。

ポスト岡田内閣について、最後の元老であった西園寺公望は当初、近衛文麿に組閣を命じたが、近衛は病気を名目に辞退した。そのため、斎藤内閣から岡田内閣まで外務大臣であった広田弘毅(ひろたこうき)にお鉢が回った。広田も就任を拒み続けたが、やっとのことで承諾した。

かくして、1936年3月9日、初の福岡県出身の総理広田による内閣が成立した。陸軍大臣には寺内寿一(てらうちひさいち、シベリア出兵時の寺内正毅総理の長男)が就任したが、これも武藤と石原の背後での根回しが功を奏した。

寺内は入閣を打診された際、1913年に山本権兵衛内閣で廃止された「軍部大臣現役武官制」を復活させるよう迫り、外相に予定されていた吉田茂を外させるなど、入閣と引き換えに組閣に対して容喙した。

「軍部大臣現役武官制」とは、陸軍大臣、海軍大臣は現役軍人でなければならないというものである。つまり、軍部のお墨付きがなければ組閣ができないことを意味し、政治に対する軍部の影響力が増大することになった。 このことが、やがて統制派のトップに君臨した東條英機による陸軍大臣、さらに内閣総理大臣への就任、そして太平洋戦争へと連接する道に向かわせることになった一要因とみられている。

▼3国防共協定の締結

当時、世界的にはドイツのナチズムとイタリアのファシズムが台頭していた。我が国においては「利権拡大のためドイツと軍事同盟を結ぶべし」との強硬論と、「戦争に向かいつつある欧州とは関わり合いを持たないほうが良い」とする慎重論に分かれた。広田は慎重論であった。

他方でソ連を中心とする国際共産主義運動も活発化していたことに対して多大な懸念があった。そのため、広田内閣は1936年11月にドイツとの日独防共共協の締結に踏み込んだ。ただし、欧州の情勢に巻き込まれる軍事条約の締結には反対し続けた。

翌1937年11月、イタリアがこれに参加し、日独防共協定は日独伊三国防共協定となった。かくして、わが国はドイツ、イタリアと反ソ連の立場で結束し、枢軸陣営を結成し、連合国との対立を鮮明にしていくのであった。

▼政権交代を繰り返し、混迷する日本政治

軍部と政党の対立のなかで、広田首相は指導力を発揮できず、組閣から1年もたたずに1937年1月23日に総辞職する。広田内閣の後には、宇垣一成を推す声が強かったが、宇垣が行った軍縮に恨みを持つ軍部の反対で、これは実現しなかった。

結局、2月2日に予備役大将の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)による内閣が成立した。 林内閣も、政党からそっぽを向かれて、同年6月4日に総辞職した。林内閣は短命で特に何もしなかったことから、林の名をもじって「何にもせんじゅうろう内閣」と皮肉られた。
こうした短命内閣の背後には、「軍部大臣現役武官制」を通じた軍部からの圧力の存在があったとみられている。

林内閣の後には第一次近衛文麿内閣が誕生した。 新鋭47歳の近衛公は、身長180cm以上で容姿端麗、国民人気は高く軍部および政財界からも大歓迎を受けた。また、近衛はパリ講和会議の前年「英米本意の和平思想を排す」という論文を発表し、1932年(昭和8)1月、年頭談話では、満州国の正当性を否定するリットンへの反対意見を発表するなど、軍部の革新思想と一脈通じるものがあった。

しかし、近衛は思いつきとみられるよう浅薄な発言を繰り返し、国政を混乱させ、軍部からはすぐに見限られる。また、近衛は尾崎秀実(おざきほつみ)やリヒャルト・ゾルゲとの個人的関係が取り沙汰される、彼自身が共産主義者と見られたり、要を得ない人物であった。

▼盧溝橋事件から支那事変が勃発

第一次近衛文麿内閣成立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国の衝突事件が起きた。いったんは現地で停戦協定が成立して、近衛内閣は不拡大方針を表明したが、軍部の圧力等により、兵力を増派して戦線を拡大することになる。  

参謀本部・作戦(第1)部長の石原莞爾少将は「陸軍総動員兵力30ケ師団中、日本が中国作戦に使用し得る兵力は対ソ戦備上15ケ師団(全兵力の1/2)でなければならないが、その兵力では到底広大な中国大陸を制し得られない」 と主張し、事変の不拡大を支持した。

石原は、現地の第一線のわが軍を北支一帯より撤収すべきだと考え、近衛総理が自ら南京に赴き、蒋介石と直接会談して時局の収拾にあたるべしと強調した。

しかし、軍中央部においては作戦部、第2部(情報)ならびに軍務局(陸軍省)内において事件拡大積極論を叫ぶ者があった。結局、石原はこうした軍部の圧力に屈する形で、7月10日、3個師団の動員派遣に同意するに至った。これが強硬論に拍車をかけた。

▼強硬論の中心人物、武藤章

石原は1931年の満州事変で、中央政府の不拡大方針を遵守せずに拡大を図った。だから、石原は部下の軍務課長の武藤章大佐以下の中堅幹部の積極論を押さえられなかった。

強硬論の中心人物である武藤章はのちに中将職でただ一人、A級戦犯で処刑された。武藤は1935年以降に関東軍によって推進された、華北(チャハル、綏遠、河北、山西、山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする「華北分離工作」の起草者である。

石原が中央の統制に服するよう、武藤の説得に来た際に、「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と得意の毒舌で反論して同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

武藤は2.26事件の善後処置において、石原と共に最も厳重な厳粛法案を立案して、これを実行に移した。この時以来、武藤は統制派の重鎮として影響力を持った。

盧溝橋事件が起きると、蒋介石政府を侮る武藤(この時参謀本部の編制課長)として「中国一激論」を唱え、田中新一・東條英機ら統制派の勢力を後ろ盾に石原ら不拡大派を追放(喧嘩両成敗で武藤も参謀本部を去るが、のちに軍務局長として復活)、近衛文麿内閣による日中戦争拡大と日独伊三国同盟に主導的役割を果した。

盧溝橋事件の現地部隊は事態不拡大の意向であったが、日本政府が軍の一部の圧力に影響され、事態が拡大し、日中全面構想から太平洋戦争に至った。 この点に関して言えば、満州事変が出先の関東軍の主導によって、中央政府の不拡大方針を遮って拡大路線を向かったことと線対称であった。

わが国の積極攻勢に対して、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面闘争に発展した。すなわち、泥沼の日中戦争へと発展した。

1937年9月には国民政府と共産党が再び提携し(第二次国共合作)、抗日民族統一戦線を樹立した。日本はつぎつぎと大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を占領した。国民政府は南京から漢口、さらに奥地の重慶に退いて抗戦を続けたので、日中戦争は泥沼の長期戦となった。

▼第二次世界大戦が勃発

欧州では、ナチス・ドイツが積極的にヴェルサイユ体制の打破に乗り出し、以下のとおり着々と支配権を拡大した。

・1938年3月、オーストリアおよびチェコスロバキアを併合

・1939年4月、ポーランドとの不可侵条約(1934)を破棄

・1939年9月1日、ポーランドに侵攻

これに対し、イギリス、フランスが1939年9月3日、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。 ドイツ軍の侵攻に触発され、ソ連もポーランドに侵攻した。両国は独ソ不可侵条約(1939年8月)にもとづき、ポーランドを分割した。 ソ連は1939年11月にフィンランドに侵攻、1940年にはフィンランドから領土を割譲、ついでバルト三国を併合した。

▼世界を驚愕させた独ソ不可侵条約

ソ連に対し、ドイツはのちの1941年6月22日に攻撃を仕掛けることになるが、大戦直後のドイツの攻勢は、良好な対ソ関係に支えられた。ドイツはソ連に接近することで東部戦線を安定させ、西部戦線に戦力を集中したのである。

両国の良好関係を示す最たるものが、1939年8月の独ソ不可侵条約である。イデオロギーを対立させ、個人的に〝犬猿の仲〟といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだのであるから、世界中に衝撃が走った。  

ヒトラーは1933年の政権奪取以降、イギリスとの対立を回避する外交政策を展開していた。しかし、駐英大使時代に反英感情を強めていたリッベントロップ外相は、はやくも独・伊・日・ソによってイギリスに対抗する構想を固め始めていた。1938年1月、彼はヒトラーによる反英構想の覚書を提出した。こうした反英構想が、次第にドイツを対ソ懐柔政策へと向かわせたのであった。  

1939年4月、ヒトラーはポーランドとの不可侵協定とイギリスとの海軍協定を破棄し、イギリスに対決する意志を明確にした。他方、イギリスはソ連に対して「平和戦線」への参加を求めた。ソ連は参加の条件として、英・仏・ソの三カ国による軍事同盟の締結を求めた。しかし、英仏側はそれに応じなかった。  

ソ連側の提案に、チェンバレン英首相が否定的な態度を示したことで、スターリンは、ソ連だけがドイツとの戦争に巻き込まれ、英仏がそれを傍観するという最悪の図式を懸念した。  

そこで、ソ連はドイツとの接触を開始した。ドイツのリッベントロップ外相がソ連のモロトフ外相がその交渉にあたった。モロトフがドイツとの接近に消極的であると見るや、ドイツは大胆な手を打った。

1939年8月14日、「ポーランドを含めた東欧をソ連と分割する用意がある」ことをヒトラーが表明した。同時に、リッベントロップ自らがモスクワに飛んで交渉することを申し入れたのである。  

ソ連側は、こうしたドイツ側の対応を〝誠意〟と感じ取った。8月15日、モロトフは独ソ間の不可侵条約について提案を行なった。 ヒトラーにとってこの提案は望むところであった。なぜならば、ソ連を戦争圏外に置いて安心してポーランドを攻撃できるのみならず、英仏の行動を相当委縮できるからである。かくして、8月23日、世界が驚愕する独ソ不可侵条約の成立と相成ったのである。  

▼早くも情報戦に敗北する日本  

上述のとおり、広田内閣は、ソ連の共産主義拡大を警戒し、日独防共協定、次いでを締結し、日・独・伊三国防共協定を締結した。 一方、1937年7月以降の日中戦争の勃発によって、極東のソ連が最大の軍事的脅威となった。

そして1938年7月、満洲国に駐屯して対ソ国境を警戒する日本陸軍はソ・満国境不明地帯においてソ連軍と衝突(張鼓峰事件)した。さらに、日ソの緊張度は高まり、1939年5月には、満洲国西部とモンゴル人民共和国の国境地帯で、ノモンハン事件が生起した。なおこの戦いではソ連の大戦車軍団の前に日本陸軍は大打撃を受けたのである(ただし、少ない戦力で対戦車戦闘ではソ連よりも優位な戦いをしたとの説もある)。  

こうしたなか、ドイツはソ連に加え、英仏を仮想敵国とする軍事同盟を締結することを日本に提案してきた。わが国は「同盟を結ぶべきか否か」について、何回となく会議を開くものの結論が出せなかった。そうこうしているうち、1939年8月、突如、独ソ不可侵条約が締結されたのである。   この条約の締結は、わが国がノモンハン事件を戦っている最中の出来事であり、ソ連を仮想敵国として進めてきたわが国とドイツとの同盟関係が根底から揺さぶられるものだった。 これを契機に、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なり」との有名な言葉を残し、国際情勢の急変に対応し得ないとして総辞職した。  

日本は、独ソの接近がまったく読めなかった。これに対して、ソ連情報機関(クリピッキー機関)の諜報活動により、日・独防共協定をめぐるベルリンと東京の極秘電報をスターリンに筒抜けになっていた。(三宅正樹『スターリンの対日情報工作』) つまり、当時の日本の情報関心は、直接対峙する中国、あるいは北方の極東ソ連だけに限られてはならなかった。すなわち世界の情勢推移を多面的に見る目が必要であった。

日本は、中国戦線における優勢に浮かれ、狭窄症にかられて、国際情勢をみる目も持たなければ、暗号解読をめぐるソ連との情報戦にも完敗したということになる。すでに、太平洋戦争における情報戦の敗北は始まっていたのである。

わが国の情報史(34)  昭和のインテリジェンス(その10)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(3)─   

はじめに

前回までに満洲事件後の陸軍および海軍のそれぞれの情 報体制について述べた。今日は日中戦争に向かうなかで生起 した、2.26事件など国内の主要事件の背景となった軍閥間の 対立や秘密組織の存在について述べることとする。

▼対ソ作戦計画をめぐる対立  

すでに『わが国の情報史(32)』において、1936年の 2.26事件が生起した原因のひとつに陸軍内の軍閥の存在があ ったことを指摘しておいた。ここで、もう一度、その記述内容を 少し短縮して振り返ることとしよう。  

1931年の満洲事変の勃発以後、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになる。1932年10月に、ソ連から日本に対して不可侵条約の締結申し入れがあったが、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなかった。この大きな理由というのが陸軍の強力な反対である。

不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に拡張することになる。当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1 であった。しかし、参謀本部第3部の作戦課長であった小畑敏四 郎大佐(のちに3部長)、その後任の鈴木従道大佐は極東ソ連軍の戦力を低く評価し、米・英や国民党との提携によりソ連に対す る攻撃を主張した。  

これに対し、参謀本部第2部長に赴任した永田鉄山少将は、ソ 連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、この間に軍近代化を図るべしとした。つまり、ソ連を西方に牽制するためにドイツなどとの提携を模索することを一義と し、英米や国民政府との提携には反対であった。  

国家戦略をめぐって第1部(作戦部)と第2部(情報部)が対立したが、作戦至上主義のもとで第1部の案が採用された。1933年(昭和8年)の作戦計画は「まず満洲東方方面で攻勢作戦 をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻 を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものに変更された。  

また、第2部と第1部との対立が永田、小畑両少将を中心とする対立抗争へと発展した。これが後々、世間でいわれる皇道派、 統制派の派閥抗争へとつながり、1935年8月の白昼における 永田少将刺殺事件、1936年の2.26事件を引き起こした のである。

▼陸軍の派閥の歴史  

ここで皇道派と統制派との派閥抗争に至る過程について、少々 時計の針を巻き戻して、陸軍の派閥の歴史を語ることとしよう。  

明治の初頭以来、陸軍にはいわゆる軍閥と称するものの存在が あった。それは明治維新に功労のあった薩長両派を中心とする二個の勢力である。一つは長州の大村益次郎を代表とする長州派で あり、もう一つは薩摩の西郷隆盛を代表とする薩摩派である。  

まず大村が死亡し(1869)、次いで西郷が倒れ(1877)た。 長州派は元帥・山県有朋がこれを率いた。一方の薩摩派は元帥・ 大山巌がその中心となった。両派は対立を続けたが、よく勢力の均衡を保って、日清、日露の両戦役にも勝利を得た。  

大正4年(1915年)、大山が死亡し、ここに長州陸軍の黄金時代を現出した。しかし、大正11年春(1922年)、長州派の大御所・山県が逝去する。そこに薩摩派の勢力挽回を策した 元帥・上原勇作と長州派を代表する田中義一(政友会に接近し、1918年の原内閣で陸軍大臣、1927年に総理大臣)との間に抗争が起こった。  

こうしたなか宇垣一成(うがきかずしげ)が登場する。彼は岡山出身であるが、田中の庇護のもとで陸軍中枢に躍り出る。大正 13年(1924年)に田中による工作が成功し、宇垣は清浦内閣の陸軍大臣に就任する。その後の宇垣は、加藤高明内閣、第1次 若槻礼次郎内閣で陸軍大臣に留任、濱口雄幸内閣でも陸軍大臣に再就任した。  

宇垣は、次第に田中および政友会と距離をとるようになり、憲 政会の加藤の方に接近していく。そして大正14年(1925年)、加 藤内閣時代においては、軍事予算の削減を目的とする軍縮を要求する世論の高まりを受けて、4個陸軍師団の削減を始めとする軍縮を断行した(宇垣軍縮)。  

宇垣は田中が死亡すると(1929年9月)、長州派を退けていった。しかし、上原元帥を中心とする薩摩派は宇垣の政策にこ とごとく容喙し、とくに宇垣の軍縮に対しては感情的なまでに反 抗した。  

宇垣は、こうした薩摩派の抵抗に対して、同期の鈴木荘六大将、 白川義則大将と連携して、全陸軍から優秀な人材を網羅して宇垣 派閥をつくっていたのである。  

一方の上原は、宇都宮太郎、武藤信義、荒木貞夫、真崎甚三郎 らを擁して、宇垣を牽制した。これらが、のちに皇道派と呼ばれる軍閥の基礎となった。

▼少壮将校による改革の芽生え  

こうした軍首脳部の権力争いは、少壮将校による藩閥打倒の革新的気風をもたらした。その表れが、永田鉄山(ながたてつざん)、 小畑敏四郎(おばたとしろう)、岡村寧次(おかむらやすじ)ら を中心とする「一夕会(いっせきかい)」の誕生である。    

1921年、ドイツの保養地で知られるバーデンバーデンに陸軍の秀英、永田、小畑、岡村、東条英機の4人が会した(バーデンバーデン会議)。 当時、日本は第一次世界大戦後の戦後不況と、政党間の対立に明け暮れていた。そこで彼らは、「現政府による国家の立て直しは不可能である」との結論に達し、「国家総動員体制の確立を目指 す、軍内における薩摩派、長州派の派閥を一掃する」ことが密約さ れた。  

彼らは、帰国後に他の将校との会合を開き、賛同者を獲得していった。 その結果、1927年に岡村の主導で「二葉会」が結成された。 また同年、鈴木貞一中佐が「木曜会」を結成した。そして1929年春から両組織が合併し、一夕会が結成されたのである。  

一夕会は軍内部の改革に取り組んだ。彼らは、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を中核とする陸軍建て直しと、当時、陸軍を牛耳っていた長州閥の解体を目指した。そして、1929年8月に岡村は陸軍省の人事局補任課長(大佐以下の人事を担任)になり、 1931年に荒木が犬養毅内閣の下での陸軍大臣になることで、 陸軍人事を牛耳ったのである。

こうしたなか、一夕会の議題は満蒙問題にも及んだ。この解決では満洲に日本の味方となる新勢力を樹立して利権を得ると同時 にソ連への防波堤にする政策が主流を占めた。  

満洲事変の立役者とされる石原莞爾も一夕会のメンバーであっ た。つまり、満洲事変そして満洲国建設は、現地における関東軍の独断専行というよりも、陸軍中央における一夕会の国家体制作 りという背景があったことになる。

▼海軍の秘密結社「王師会」  

満洲事変以後の5.15事件、2.26事件を見る上では軍内 の秘密結社の動きを押さえておかなければならない。 当時の秘密結社の濫觴は海軍の「王師会」設立からである。王師会は、1928年3月、霞ヶ浦航空隊の藤井斉(ふじいひとし) を中心に結成された。  

藤井は海兵53期であり、1922年8月に入校し、1925 年7月に卒業している。こま期は、1921年から22年にかけ てのワシントン海軍軍縮条約の影響で、兵学校の採用生徒数が削減された期であった。52期生は236名であったが、藤井ら 53期生は62名であった。  

このように藤井は、屈辱的ともいえる軍縮条約とその後の政党政治による軍縮、そして1920年代後半の経済不況の真っただ中の時代に、青年将校として生きた。そのことが藤井の思想に大 きな影響を及ぼした。  

藤井は、海兵入校後に思想家・北一輝の『日本改造案大綱』 (1923年敢行)を愛読するようになり、北が掲げる「アジアの解放」の思想に強く傾倒するようになる。また、藤井は兵学校 の休暇中は東京に行き、大川周明(おおかわしゅうめい)、安岡 正篤(やすおかまさひろ)らの知遇を得ている。  

海兵在校中のエピソードとして、時の軍令部長・鈴木貫太郎が 来校した際、藤井は軍縮条約を非難し、アジアの解放を訴える演説を行なったとされる。こうした行動が、藤井の求心力を高めたようだ。のちの5.15事件(1932.5)の首謀者となる三上卓(海兵54)、古賀清志(海兵55)は、こうした藤井の行動に共鳴した。  

藤井は西田税(にしだみつぎ)が結成した「天剣党」に唯一の 海軍軍人として加盟し陸軍青年将校との同志的団結を図った。なお、 退役陸軍軍人にして北一輝の第一の子分であった西田は、 2.26事件で北とともに死刑に処さられた。  

天剣党は、陸軍の隊付の青年将校や士官候補生が参加したが、 その発足は1927年5月とされる。天剣党には、北一輝の『日本改善法案大綱』を指導原理とし、世のいわゆる「軍隊の我が党化」を目指した秘密結社であった。この党の参加者には磯部浅一、 村中孝次など2.26事件の関係者が含まれた。  

しかし、西田が1927年7月に『天剣党規約』を作成して、 全国の連隊に所在する同志に配布したことが問題となり(天剣党事件)、天剣党は憲兵の執拗な監視下におかれ活動に支障を来し た。  

次第に藤井は西田らとの活動には距離を置いた。他方で藤井は、 大川周明が青年闘士を育成するために開いた「大学寮」に古賀ら とともに参加して、陸軍の青年将校などと交わり、陸・海・民の 三者による横断的団結を深める。  

藤井は1928年3月に、海軍兵学校以来の同志とともに王師会を結成した。これは、海軍初の革新行動組織であった。王師会 は発足当時の会員は10名前後であったが、1930年のロンド ン海軍軍縮会議のころは40数名に増加している。    

濱口内閣によるロンドン軍縮条約調印をめぐって、右翼や政友会は「海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統 帥権を犯すものだ」として、同内閣を攻撃した。これが政治問題化したのがいわゆる統帥権干犯問題である。  

藤井は政府に揺さぶりをかける切り口を海軍軍縮会議に見出し た。全権大使である海軍大臣・財部彪が帰国した際、「売国全権 財部を弔迎す」と書いた幟(のぼり)を突き付け、海軍大臣の下 へ直談判に押しかけた。こうした動きがやがて陸軍に波及し、これに民間右翼が呼応し、政党政治の撃滅を唱える風潮が高揚した。  

ロンドン海軍軍軍縮条約を頂点とする軍縮の動き、満蒙問題の切迫、大恐慌下の社会的不安、政党政治の腐敗堕落、社会主義運動の台頭などが、革新的軍人の結束を促進し、国家改造へと駆り立てたのであった。

しかし、王師会と陸軍青年将校との団結に軋みが生じる。藤井は陸軍との団結を強化し1931年に起きた十月事件(後述)へ の参加も考えていたが、陸軍の橋本欣五郎らに不信を抱き(後述)、 途中で離脱している。  

1931年12月に犬飼内閣が樹立し、青年将校から絶大な支 持を集める荒木貞夫大将が陸軍大臣として入閣すると、陸軍の若手将校は荒木を通じて自分たちの声を政治に反映しようとして、 王師会の活動とは連携しなかった。  

1932年1月に生起した第一次上海事変に、藤井が航空隊員 として出征し、国民党軍の対空火砲を受けて撃墜され、戦死した。 こうしたことにより、王師会の結束は綻びていった。  

1932年5月、王師会は犬養首相暗殺を試みた(5.15事件)。 しかし、首相暗殺こそ果たしものの、別働隊が起こした銀行や東京都の変電所に対する襲撃は軒並み失敗した。  

事件後、王師会のメンバーは次々に逮捕され、裁判にかけられ た。しかし、首謀者である三上と古賀の二人が叛乱罪により禁固 15年を受けたのが最高であり、死刑判決を下された者はおらず、 数年後に恩赦として釈放された。  

当時、世界恐慌の影響などでわが国は慢性的な不況状況にあり、 企業倒産、失業者が続出るなか、多くの国民はその原因を政党政 治の行き詰まりにあると考えた。そして国家の刷新を図ろうとする王師会に少なからぬ共感を抱いていた。実際、5.15事件関 与者の減刑を求める嘆願書も36万通近く寄せられており、その 中には血判や詰められた指なども同封されていたという。  

しかし、これは一国のトップを殺害しても、禁固15年程度で済むという前例となり、このことが、のちの2.26事件などを 誘発したとの見方もある。また、この事件の影響で暗殺を恐れた 政治家たちは軍への干渉を控えるようになる。そして軍部の発言力が一気に強まっていくことになったのである。

▼陸軍の秘密組織「桜会」の結成  

陸軍中央では、参謀本部ロシア班長として、トルコ大使館付武官より転任したばかりの橋本欣五郎中佐が帰朝早々から国家改造を目指した。 橋本は、ロシア語とフランス語が堪能であり、1923年に満 洲里特務機関長となる。ここでロシア特務機関員と接触してロシ ア革命を研究した。1927年にトルコ大使館付武官となり、こ こではケマル・パシャに私淑してトルコ革命を研究したとされる。  

ともあれ、トルコ再建に尽くしたケマル・パシャの偉業を目の当たりにして帰朝した橋本にとって、当時の国内状況は醜態窮ま るものであった。そこで橋本は国家革新を決意するが、革新断行 の前提として青年将校の団結を求めた。それが、秘密結社「桜会」 の結成につながった。  

一夕会が陸軍大学校のエリートで占められたのに対して、桜会 は出世コースから外れた士官学校の若手が占めていた。そうはいうものの、入校した将校には、終戦直後に北方領土でソ連軍と戦 う樋口季一郎、陸軍中野学校の創設者にしてインドの独立工作に従事した岩畔豪雄、のちの参謀本部作戦参謀・辻政信などの将来有望で決起盛んな青年将校も参加した。  

メンバーが百数十人を超えた1931年3月、桜会のメンバー は国会改造に向けて動き出す。橋本は、民間右翼の大川周明、清水行之助と共謀し、濱口内閣を打倒して、陸軍大臣の宇垣を総理大臣に担ぎ上げるクーデターを計画した。  

3月事件は失敗に終わったが橋本には何らのお咎めはなかった。 同年9月に満洲事変が生起したことで、桜会はこれに乗じて国内 でのクーデターを再び計画した。  

橋本らは、可能な兵力を総動員して国会を襲撃、首相と政府閣 僚の暗殺を企図した。政敵と武力排除した上で、桜会に同情的で あった荒木貞夫中将をトップとする改造内閣を樹立した。しかし、 決行前の10月17日に憲兵隊に先手を打たれて、橋本ら主要な メンバーは検挙された(10月事件)。  

この事件においても、陸軍首脳は検挙者に対して寛大な処置を とった。こうした国(軍)内における下剋上の風潮容認がさらなるクーデター計画である2.26事件へとつながった。

▼一夕会の分裂から皇道派と統制派との対立  

1931年の満洲事変以後、一夕会は陸軍の最大勢力となった。 しかし、冒頭のように対ソ政策をめぐって、結成時のメンバーである永田と小畑が対立することになる。さらには、石原も満洲の運営方法で、他の会員と対立していく。そして、1934年前後には、永田・小畑の対立は修復不可能な域に達するのであった。  

その背景の一つには陸軍大臣の荒木による身内贔屓の人事があ った。荒木は、かつての薩摩派、のちに皇道派と呼ばれることにな る面々を重用した。これにより、会員の不満が爆発し、一夕会は永田に味方するグルーブ(統制派)と小畑のグループ(皇道派) に対立した。荒木は小畑の後ろ盾となった。  

しかし、1932年の5.15事件や右翼団体「血盟団」による連続暗殺事件(血盟団事件)への関与疑惑から、皇道派への風当たりが強くなった。1934年1月に荒木は体調不良により辞任した。 その後任には、統制派の林銑十郎が選ばれた。林は永田の助言を受けて、重要ポストから皇道派をことごとく 排除した。

そして、軍務局長になっていた永田が皇道派の相沢三郎中佐に刺殺される。これが原因で林は陸軍大臣を辞任する。こ うしたきな臭い対立が刻一刻と2.26事件へと向かわせたのである。

私の新著『武器になる情報分析力』

新著『武器になる情報分析力』が並木書房から発売されます。
同社とは『戦略的インテリジェンス入門』(2016年1月)以来のお付き合いですが、このたびも約半年間、いっさいの妥協なく新著の完成を目指してきました。

本書は『戦略的インテリジェンス入門』と同様に「マニュアル本」ですが、できるだけ定価を押さえ、社会人向けに広く読んでいただくよう、内容を精選充実することに注力しました。元の原稿から「要点の精選→枝葉は削る→無味乾燥になる→事例を加える」 を十数回繰り返し、分量を約2/3まで絞りました。

さて、AIが仕事を奪う可能性など、予測不能な時代では“知的武装”が必要です。なかでも物事の本質を洞察し、近未来を予測する「情報分析力」こそは最も必要不可欠な技能といえるでしょう。本のタイトルは、このような意味を込めて決めました。

本書は、情報分析という視点に特化したインテリジェンス入門書です。「インテリジェンスとは何か?」「情報分析とは何か?」「どのようにしてインテリジェンスを作成するのか」などについて具体的に解説しています。

筆者が、皆さまにとくに強調してお伝えしたいのは3点です。

第1は、まず情報分析の効率化です。

なぜ、情報分析やインテリジェンスの作成ができないのでしょうか? その原因は勉強不足、知識不足ではありません。実は、 「何を知るべか?」という「質問(問題)の設定」が行なわれていないからです。

情報が氾濫している今日、いきなり手当たり次第に情報の収集を始めてはいけません。それではますます情報が溢れ、効率的な分析はできません。そこで、最初に「何を知るべきか?」という視点で質問を設定します。次にそれに対する回答の方向性を定めます。それから回答を解くためのドライバー(鍵)を特定します。
それがすんでから、そのドライバーの枠内に入る情報だけを集めて分析していきます。

このような情報分析の手順を理解し、問題の設定のやり方をマスターしていただけるよう、本書では詳細かつ平易に解説いたしました。

第2は、バイアス排除の思考法を身につけることです。

なぜ、情報分析は誤るのでしょうか? それは「バイアス」に捉われるからです。

本書では「フレームワーク」「マトリクス」「クロノロジー」 「競合仮説分析」「階層ツリー分析」など、プロの情報分析官が活用している情報分析の手法を紹介しています。当然、これらはそのままビジネスに応用できます。

ただし、情報分析にもっとも必要なものは、各分析手法の底流に流れている思考法を身につけることです。そのなかで重要なのが「バイアス排除」の思考法です。

本書では、バイアスに関する記事に多くの紙幅を割ています。バイアスの存在を意識し、バイアスを排除するために「競合仮説分析」などの手法が有効であることを学習していただければ幸いです。

第3は、共通の分析手法を使って「群衆の英知」を発揮することです。

皆さんは、国際情勢の知識がないから、政府機関の情報分析官になれないし、国際情勢の推移なんかわからないと思っていませんか?

世の専門家の知識量は膨大であり、現在に起きている事象の文脈を整理して、理論立てて解説することは群を抜いています。しかし一方で、専門家の未来予測については、ある有名な本では「チンパンジーのダーツ投げにも劣る」と揶揄されています。これは、自らの知識と経験を過信して、思い込みで結論を決めつけるからです。

他方、素人であっても、共通の手法にもとづいて、集団で情報分析や未来予測に取り組めば、その正確性は専門家をはるかに凌駕することが、よく知られています。これが「群衆の英知」です。

筆者は2018年4月、ビジネスパーソン向けに「情報分析講座(3回シリーズで計10時間)」を実施しました。本講座では「北朝鮮情勢」をテーマに、最終課題ではグループで「北朝鮮の近未来(2020年)に関する3つのシナリオ」を作成していただきました。

社会で経験を積んだ参加者の分析作業のレベルは、筆者が教官をしていた防衛省や陸上自衛隊の学生たちに「優るとも劣らない」という印象を受けました。当時から現在までの現実の情勢変化を鑑みてもみても、短時間の作業でしたがその策案はなかなかの完成度です。

つまり、国際情勢に関する知識が不十分であったとしても、しっかりとした手順を踏み「群衆の英知」を発揮すれば、相当程度の分析ができるということです。

本書の付録「情報分析の実技編」では、本講座の内容を一部修正して紹介してあります。付与した「課題」と、それに対する「指導案」および「解説」の三本立てになっています。是非これをお読みいただき、皆さまも実技講座の仮想体験をしていただければ嬉しく思います。

さて最後に、巷の“ノウハウ本”を読んで、皆さまはどのよう
に思われますか? 私は、よく安全保障における“権威”といわ
れる方々の著書を読みます。おおいに精神要素が鼓舞され知らな
い知識は増えますが、情報分析に関する限りでは、実践の書では
ないと思います。

経験、知識、環境に差がある者が、“権威”のやり方は真似るこ
とはできないし、真似ても意味がないからです。

他方、米国は従来から、世代が変化して時の“権威”が不在にな
っても、困らないように、物事のやり方を誰もが理解できるように、
基本的な手法と手順を定めるマニュアルの作成を重視しています。
これが徒弟制度の日本と大きな違いです。

筆者が自衛隊時代に学んだ多くの分析手法は、もともとは米軍の
マニュアルであり、本書も基本的には米軍や米国情報機関のマニ
ュアルにもとづいています。

不透明な時代を生き抜くためには、専門家の“ノウハウ本”を読
んで、それを鵜呑みにしたり、そのノウハウを真似ていてはダメ
だと思います。

各人が基本的かつ共通なマニュアルを理解する、そしてコミュニ
ケーション能力発揮して仲間を形成し、ダイバシティ(多様性)
という環境のもとで集団で物事を判断し、行動する。これが、こ
れからの生き方になると思われます。

本書が、皆さまの共通マニュアルの確立と「群衆の英知」を促し、
国家全体の「インテリジェンス・リテラシー」の向上にひと役買
えれば幸甚です。

(上田篤盛)

軍事情報メルマガの管理人エンリケさまの紹介

こんにちは、エンリケです。

上田さんの単著としては5冊目になるこの本は、 一般報道などを通じて得た情報を、 いかに分析し、 いかにインテリジェンスづくりにつなげるか? の手順をていねいに紹介した、まさに「プロの手ほどきになる情報分析マニュアル」といえる書です。

巷にあふれる「インテリジェンス本」は、、著者のインテリジェンススキルから得た成果を公開しているものがほとんど。

でもこの本は、、「インテリジェンスを紡ぎ出すために不可欠な情報分析の手法を、あなたが身につけ、成果を出すこと」を目的とするマニュアルです。

実践にあたって躓きがちなポイントをクリアするコツ、他では決してお目にかかれない「現実に行われた情報分析セミナーの仮想体験」も味わえる、一味違うマニュアルです。

ほかの本とどこが違うかと聞かれたら、この点を挙げることでしょう。

有機的(現実感ある話なので内容を吸収しやすい)かつわかりやすい。だから身に付く、という読後感です。まさに「情報分析能力というインテリジェンス・リテラシー」を、あなたの中に築き上げるために作られた書といえましょう。

おうおうにしてこの種の書は読むのがしんどくて一度読むとしばらく読む気は起こらないものです。軽いだけの本は、再読しようとそもそも思いませんけど、中身はあるのに重すぎる本も、再読しようとは感じませんよね。しかし、上田さんの本は、読後感は軽く、それでいて脳内に引っかかるイメージが多く、印象に残りやすい文面です。既刊本と同じく、本書もそうです。繰り返し読もう、という気をふっと起こしてくれます。

国家から個人まで、すべてのインテリジェンス活動の中核は「情報分析」です。組織だけでなく国民個人レベルの情報分析能力、インテリジェンス・リテラシーの向上は、いまのわが国に必要不可欠です。これほんとです。

文明史レベルの転換点にある今、将来の見通しは不透明です。過去の延長線上で先行きをとらえると、大やけどを負う時代です。今後、何が起こるかもわかりません。わが周辺環境も、わが国に常時緊張を強いています。

そんななか、わが国防、安全保障を確かなものとするには、国民レベルのインテリジェンス能力向上、なかでも、インテリジェンス活動の中核となる情報分析能力の向上は欠かせないのです。

あなたにこの本を手に取っていただきたい。 そう思っています。いや、願っています。

この本の全貌はつぎのとおりです。

まず第一章では、
「インテリジェンスとは何か?」が記されています。

インフォメーションとインテリジェンスの峻別の大切さ、戦略・
戦術情報とインテリジェンスの関わり、ビジネスに置き換えての
解説、見積もりインテリジェンスと動態インテリジェンス、イン
テリジェンスの究極の目的、孫子を引用しての解説も実に納得ゆ
くものです。この基盤をしっかり身につけておくと、「何やって
るんだろう?」が少なくなり、効率的な情報分析につなげられま
す。

意思決定とインテリジェンスは違う、断言することがインテリジ
ェンスではない、という点が重要な気がします。

詳細は以下のとおりです。

第1章 情報からインテリジェンスへ 13

1 インテリジェンスとは何か? 13
 インフォメーションとインテリジェンスの違い/インテリジェ
 ンスとインフォメーションを混同しない/インテリジェンスの
 三つの要件
2 インテリジェンスとはいかなる知識か? 19
 「敵」「我」「戦場」の三つを知る/敵を知ることは「戦わず
 して勝つ」ための一つ/我を知ることは敵を知るよりも重要/
 「アウトサイド・イン」思考が重要
3 インテリジェンスと戦略・戦術の関係 24
 わが国のインテリジェンス軽視の風潮/戦略と戦術の違い/
 戦略とインテリジェンスの関係
4 カスタマーとインテリジェンス担当者との関係 29
 インテリジェンスはカスタマーのもの/組織の目的や基本戦略
 を理解する/遠すぎても近すぎてもいけない
5 インテリジェンスの究極的な目標 33
 インテリジェンスの三つの種類/インテリジェンスの究極目標
 は未来予測/未来予測とは不確実性の低減にほかならない/不
 確実性に対処する二つの手法/起こりえる複数の事象とその確
 度を明示する/シナリオ・プランニングの活用


つづいては第二章です。

第二章では、組織が行うインテリジェンスサイクルと、情報分析
にかかわるインテリジェンス理論について書かれています。

CIAが行っているサイクル、情報要求を行うカスタマーとインテリ
ジェンス担当者との関わり、一般人であってもオシントのみで国
際情勢の情報分析ができるのか?、「百聞は一見に如かず」の真
理、情報処理の4分類、情報評価と情報源の評価が違う理由、分
析とは何か?、インテリジェンスに価値をもたらす2つの要素、
有用なプロダクトであるための3条件とは?といったことに言及
されています。

実際自分が作ったインテリジェンスプロダクツは、果たしてイン
テリジェンスに値するのか?という問いに応えてくれる内容です
ね。常に立ち戻るべき場所という感じがします。

詳細は以下のとおりです。


第2章 情報分析力を身につける 44

1「インテリジェンス・サイクル」44
2「計画・指示」の段階 47
 情報要求とは何か?/目標指向の弊害/「鶏と卵」の問題
3「収集」の段階 49
 オシントで90パーセント以上のことがわかる/第一次情報と第二
 次情報
4「処理」の段階 52
 情報はデータベースとして蓄積/情報は「劣化」する/情報の
 評価と情報源の評価は異なる
5「分析・作成」の段階 56
 情報分析とは何か?/分析とは事象を分類して特徴を見ること/
 統合と解釈がインテリジェンスの価値を生む/サイエンス派と
 アート派/プロダクトに必要な要件/作成するプロダクトの種
 類は?
6「配布」の段階 65


つづく第三章では、
情報分析を失敗させる各種の問題とそれへの対策、とくに、重大
な要因となる「バイアス」について広く紹介・解説されています。

集団浅慮や権威主義を排除する策、警告する際の注意点、情報分
析者が陥りやすいワナとそれへの対処策、グループ討議の大切さ
と松下村塾、意図分析への過度の傾斜を防止するには?などなど

実に詳細な「バイアス」分析と解説、対処策が本章最大の読みど
ころです。上田さんもおっしゃってましたが「「思考力を磨く」
上でこの箇所は非常に重要で欠かせないと感じます。
極端なはなし、バイアスの部分を熟読するだけでも、この本を手
に入れる買う価値はあると思います。

インテリジェンスの他者への依存は非常に危険だとも改めて感じ
ました。

余談ですが、
お笑い芸人・オードリーの若林さんが、著書「ナナメの夕暮れ」
のなかで(耳に痛いことを言ってくれる人を持つことが、人生失
敗しないためには絶対必要だ)という趣旨のことを書かれていま
す。同じ内容の言葉を、インテリジェンスのプロが書かれたこの
本で目にするとは思いませんでした。

閑話休題

詳細は以下のとおりです。


第3章 情報分析はなぜ失敗するか? 67

1 情報分析を失敗させる外的要因 67
 情報の氾濫/情報の操作/組織の縦割り「ストーブ・パイプ
 ス」/インテリジェンスの政治化/組織の硬直化と集団浅慮/
 兆候と警告─オオカミ少年症候群
2 情報分析を失敗させる内的要因 80
 想像力の欠如/意図分析への傾斜/妥当性の判断尺度を過信/
 さまざまなバイアスの存在/〝結果オーライ〟こそ失敗の本質
3 さまざまなバイアス 93
(1)一つの仮説にとらわれるバイアス 93
 サンプリングバイアス/生存バイアス/利用可能バイアス/確
 証バイアス
(2)誤った仮説を立てるバイアス 100
 希望的観測/猜疑心バイアスと敵意帰属バイアス/因果関係バ
 イアス/ハロー(後光)効果/フレーミング効果/ミラー・イ
 メージング/クライアンティズム(顧客迎合主義)/過大評価・
 過小評価/平均回帰バイアス/多数派(集団)同調バイアス
(3)一度立てた仮説や結論を修正できないバイアス 114
 アンカーリング・バイアス/レイヤーイング(多層化バイアス)/
 正常性バイアス/現状維持バイアス/後知恵バイアス


つぎはいよいよ第四章に入ります。

第四章では、情報分析担当者が効率的にインテリジェンスを作る
方法を記しています。本著最大の読みどころで、がっちりモノに
したいですね。

情報分析にあたっていかなる着眼をすると効率的にインテリジェ
ンスを作ることができるのか?という、実践にあたって一番つま
づくポイントを解決するコツも教えてくれます。

ネット検索時の注意点・コツ、兆候をつかむ方法、秘匿記事から
重要情報をとる方法、上田さんの情報整理法、クロノジーの実際
も紹介されています。類書でもよく見かける各種手法を、実際ど
のように使えばいいのか?もわかります。実践者にとってこれほ
どありがたい章もないのでは?と思わせます。


詳細は以下のとおりです。


第4章 情報分析力を高める 120

1 効率的な情報分析のための着眼 120
 ニーズを明確にする/「知らなければならないこと」は千差万別/
 「逆から考える技術」を学ぶ
2 質問を設定する 126
(1)最初の質問を設定する 126
 回答を意識する/質問は四つに分類できる/現在の質問と未来
 の質問の違い/よい質問の条件/クローズドクエスチョンから
 オープンクエスチョンへ/「5W1H」の概念で整理する/未
 来予測ではオープンクエスチョンが重要/質問は常に修正する
(2)質問を再設定する 136
 再設定によって論点を明確にする/三つの「目」を活用する/
 ブレーンストーミングを行なう
(3)質問を分解する 141
 質問をブレークダウンする/フェルミ推定を応用する/「ME
 CE」で質問を分解する/階層ツリーを利用する
3 ドライバーを設定する 147
(1)ドライバーを案出する 147
 ドライバー(鍵)とは何か?/フレームワークを活用する/関
 係図を作成する/ロジック・ツリーを活用する
(2)ドライバーを選択する 153
 ドライバーの数を制限し優先順位を判断する/ドライバーに評
 価尺度を設定する
4 情報を収集し、整理する 156
(1)情報を効率的に収集する 157
 キーワード検索を行なう/検索要領を工夫する/ネット情報の
 利点・欠点を認識して活用する/情報は積極的に取りにいく/
 第二次情報を活用する/秘匿記事から重要情報を入手する
(2)情報源と情報の評価をしっかり行なう 167
 評価のための尺度を持つ/青、黄、赤に色分けして選別する
(3)情報を体系的に整理する 170
 問題意識をもって分類する/マトリクスを活用する/クロノロ
 ジーを活用する

さあ、ついに最終章です。

最終章となる第五章では、情報分析の客観性を高め、正確なイン
テリジェンスをいかに作るか?についての要領とポイント、注意
点、対処策が書かれています。現状分析から未来分析まで対応し
ています。種々の使える手法の解説は圧巻です。

詳細は以下のとおり。


第5章 情報分析力で先を読む 178

1 前提を明らかにして仮説を立てる 178
 前提を明らかにする/「隠れた前提」を見落さない/仮説を立
 てる/アナロジー思考を活用する/ブレーンストーミングを活
 用する
2 仮説を立証し検証する 185
 仮説を証拠で立証する/仮説を因果関係で検証する
3 前提や仮説を見直す 190
 リンチピン分析で前提を見直す/「重要な前提の見直し(KA
 C)」を使う/競合仮説分析(ACH)/競合仮説分析を実践
 する
4 未来を予測する 204
 「四つの仮説立案」を使う/SWOT分析を用いる/イベント・
 ツリー分析を用いる/「仮説の見直し(HR)」を使う
5 シナリオを作成する 212
 シナリオ・プランニングの基本的な考え方/シナリオ作成の基
 本的な手順を理解する


、本著最大の特徴と言える
「ひとつの章レベル」の付録です。

付録の「情報分析の実習」では、2018年4月上田さんが講師
となって行った情報分析講座の内容が一部修正のうえ収録されて
います。実際に行われた講義の再現なので、生々しくて身近な感
じがします。これを読むと「自分にもできる」という気持ちにな
るのはなぜでしょう?

実践重視の方は、まずは付録から読むというのもいいと思います。

詳細は以下のとおりです。


付録 情報分析の実習 216

 課題1 質問を再設定する 218
 課題2 質問を細分化する 224
 課題3 ドライバーを案出する 227
 課題4 クロノロジーを活用する 230
 課題5 仮説を立案する 241
 課題6 未来仮説を立案する 244
 課題7 仮説を評価する 249
 課題8 イベント・ツリー分析を適用する 252
 課題9 シナリオを作成する 258


最後に置かれた「主要参考文献」は、
何気に重要で面白くておススメです。

強制思考とアナロジー思考を活用しよう!

▼「1県50」とは

筆者が住んでいる近隣に立ち飲み屋があります。そこに、この前から秋田出身の女性が働いています。 ここで秋田の話になったのですが、秋田と言えば、日本一深い湖の田沢湖、横手のかまくら、キリタンポ鍋、桜田淳子(古い話でごめんなさい)くらいしか出てきません。

彼女の出身は田沢湖近くの仙北市だということですが、「それどこ?」という感じです。 しだれ桜の有名な角館町と田沢湖町、それに西木村が2005年に合併して新設された市です。

筆者は、仕事やプライベートで、ほとんどの都道府県に行ったことがあります。残すところ愛媛、高知、和歌山、秋田の4県です。だから、日本の地理には結構、薀蓄がありますが、秋田は苦手の部類ではありました。

以前、私が若かりし頃に情報教育を受けた時のことを思い出しました。ある教官は「初対面で会った人とスムーズに会話するためには、○○県と言えば、最低でも50のキーワードが次々に出てくるようでなければならない」といいました。 のちに、教官になった筆者も「1県50」と称して、学生にこれを紹介し、時々授業で一緒にやったりしていました。

▼強制思考とフレームワーク

この「1県50」にはコツがあります。アトランダムに考えると、だいたい20くらいで途絶えてしまいます。そこで、政治、経済、社会、地理、人物などのフレームワークを使用します。このような思考法を「強制思考」と称し、情報分析における仮説を立てるなど、さまざまな局面で活用されています。

今日ではいくつかの既存のフレームワークが提示されています。

ビジネスにおいて外部環境を分析するためのフレームワークが「PEST」です。これは政治(Politics)、経済(Economics)、社会(Society)、技術(Technology)の頭文字をもじったものです。これは記憶しやすいための“語呂合わせ”です。

なお、最近は、社会の中に含まれる環境(Ecology)を分岐させて「SEPTEmber」(セプテンバー、9月)」と呼称されることが多いようです。

他方、内部環境を分析するためのフレームワークには「3C」(Customer、Competitor、Company)、「4C」(3Cにチャンネル(Channel)を加える)、「4P」(Product,Price, Place(販路),Promotion)などがあります。

「競合分析」(CI、コンペティティブ・インテリジェンス)の祖であるマイケル・ポーターは、自社を業界のなかに位置づけるために業界内部の環境要因を5つの要素にわけて分析する「5フォース」を提唱しました。

国家安全保障の領域では「STAMPLES」(Social、Technological、Environmental、Military、Political、Legal、Economic、Security)があります。

このほか「PMESII」(Political、Military、Economic、Social、Infrastructure、Information)、「DIME」(Diplomatic、Information、Military、Economic)などよく活用されます。

▼アナロジー思考とは

強制思考と並んで、 良質のアイデアを生み出す発想法には アナロジー思考があります。これは類似思考、類比思考ともいい、野球、サッカー、スポーツ、オリンピックというように類似したものを思い出すことです。フレームワークとアナロジー思考を組み合わせることでアイデアが生まれというわけです。

アナロジー思考はは前例、他の業界や商品などから学ぶことですが、これには縦の思考、すなわち歴史的類推法があります。これは、過去に起こった歴史的事象に基づいて未来を予測する方法です。

ハーバード大学のグレアム・T・アリソン教授は著書『米中戦争前夜』の中で「トゥキディデスの罠」について述べています。

アリソン教授はアナロジー思考により大国スパルタを現在の米国、新興するアテネを現在の中国に見立てて「米中はトゥキディデスの罠を免れることができるか?」をテーマに米中関係および国際社会の未来図を描いています。

トゥキディデスは古代ギリシャのペロポネソス戦争を描いた『ペロポネソス戦争史』を遺した歴史家です。つまり、覇権国家スパルタに挑戦した新興国アテネの「脅威」が、スパルタをペロポネソス戦争に踏み切らせたことにアリソン教授は着目し、覇権を争う国家どうしは戦争を免れることが難しいとして、それを「トゥキディデスの罠」と名づけたのです。

アナロジー思考には横の思考もあります。これは現在起きている他の類似した事物や状態に着目することで未知のことを類推する手法です。

この時、すでに生起している先行事象を探すことが重要です。たとえば地方では少子高齢化は進んでいますが、そこでは家屋の過剰、交通機関の閉鎖、市町村の合併、その一方で自動販売車の進出などが起きています。つまり、これの減少が、やがて急速に少子高齢化を迎える都市部の近未図でもあります。

▼越境とリベラルアーツ

このほか発想力を鍛える方法として、最近は〝越境〟という言葉が知友黙されます。これは池上彰氏の造語です。A1時代を生き抜くためには、一つの専門性では太刀打ちできない、でも専門性を二つ、三つと増やすことができればAIの追随を許さない。だから〝越境〟が必要ということになります。

また、学問の世界では「リベラル・アーツ」が注目を集め始めています。この語義は『ウィキペディア』などで調べていただければわかりますが、要するに、専門の世界に入る前に、いろいろなことを横断的(越境的)に学ぶということです。

▼乱読のススメ

今日、勉強はどこでもできます。しっかりと学ぼうとすれば学校に行けばよいでしょうが、経費を節約しようとすればネット講座も利用できます。私は、1か月1300円で「10mtv」を契約しています。

でも、 もっとも手っ取り早い勉強法は読書でしょう。 ある本に、ビジネスパーソンが時代に対応するためには1年に最低50冊を読むことが必要だと書かれていました。かの佐藤優氏は1か月に300冊から500冊だそうです。これは、とても凡人には無理できすが、個人で少し難しいくらいの目標を定めて挑戦したら良いと思います。

なお、筆者は1か月に30冊の読破を目標にして乱読しています。これにはキンドルの「アンリミテッド」を契約 (Ⅰか月1000円) しているので経費はあまりかかりません。ただし、アンリミテッドには制限がありますので、これはあくまでも思考の裾野を広げるための乱読用です。読みたい本や書籍や論文などの執筆用には別途購入していますので、書籍代が1か月1000円で済むという話ではありません。

わが国の情報史(33)  昭和のインテリジェンス(その9)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(2)─

▼はじめに

さて、前回は満洲事変以後の陸軍の情報体制について述べまし

たが、今回は海軍の情報体制について述べることとします。

▼海軍の想定敵国の第一位は米国  

日露戦争以後、わが国陸軍はロシアを、一方の海軍は米国を想 定敵国とした。そして、両者の対抗意識が軍備の拡充競争を引き起こすことになる。これを憂慮した元帥山県有朋は、1906年 にわが国の「国防方針」の必要性を上奏し、同年末に初の帝国国 防方針が確立した。  

この国防方針の確定に際して、山県は想定敵国の第1位ロシア、 第2位清国、第3位にロシアと清国の2国を挙げた。しかし、海軍との討議の末に、第1位ロシア、第2位米国、第3位フランス が想定敵国となった。このような経緯からしても、陸軍と海軍に は国際情勢の脅威認識における相違があったのである。  

日本海軍が米国を強く意識した背景には、1980年代末から 1990年代の諸島にかけての、ハワイ併合、フィリンピン占領 といった太平洋への進出に加えて、米国の「オレンジプラン」の存在があった。

日露開戦直後から、米国は陸海軍の統合会議を開 催して、世界戦略の研究に着手した。つまり、ドイツを仮想敵国 にしたのが「ブラックプラン」、イギリスに対しては「レッドプ ラン」、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。  

オレンジプランでは、日本はフィリピンとグアムに侵略するこ とが想定された。つまり、米国が占領した太平洋の拠点を防衛す る上で、日本は想定敵国に位置付けられたていたのである。  

そして日露戦争における日本勝利によって、オレンジプランはより具体化されていくことになる。日露戦争が終った翌年の19 06年には、セオドア・ルーズベルト大統領は、軍部に対し米海 軍をすみやかに東洋に派遣する計画を命じた。その具体化事例の 一つが、1907年から1908年にかけての「白船事件」であ る(わが国の情報史24)。

こうした米国の動向に対し、海軍は「国防方針」にもとづき米国を想定敵国とし、1907年4月「用兵綱領」を策定し、来攻 する米艦隊を我が近海に向けてこれを撃滅する方針を確立した。  

その後、国防方針は1915年(第1次改定)、1923年 (第2次改定)の二度の改定を経て1936年に第3次改定を行 なうことになる。 第1次改定は、1915年にわが国が袁世凱政権に対して行な った「対華二十一カ条要求」に対して中国の対日感情が悪化したことを背景とする。この改定では、仮想敵国は第1位ロシア、第 2位米国、第3位清国となった。  

第2次改定は、帝政ロシアの崩壊(1917年)、ワシントン 海軍軍縮条約の締結(1922年)を背景とする。この改定では、 「帝国は特に米国、露国および支那の三国に対して警戒する必要がある。なかんずく近い将来における帝国国防は、わが国と衝突 の可能性が最大であり、かつ強大な国力と兵備を有する米国を目 標として、主としてこれに備える」とされた。つまり、ロシアの 崩壊により、わが国として米国が仮想敵国の第一位となったので ある。  

第3次改定は、ロンドン軍縮会議(1930年)、満洲事変 (1931年)、国連脱退(1933年)を背景として行なわれ たが、米国、ソ連(露国)、支那、英国を仮想敵国とする用兵綱 領が規定された。

▼第一次大戦後の米国の対日情勢認識  

第一次世界大戦の結果、「ブラック」のドイツは破れ、「レッ ド」の英国は疲弊した。そして、米国にとっては「オレンジ」の 日本の脅威のみが増大することになる。  

第一次世界大戦の結果、わが国は、マーシャル、マリアナおよ びカロリンといった旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領とした。1 919年のベルサイユ会議において米国は、自らのフィリピンの防衛を損なうとして、日本の委任統治に強く反対したが、画策むなしく、日本による委任統治が認められた。  

これにより、日本は赤道以北の西太平洋を支配した。一方の米 国はハワイとアリューシャンの北東太平洋を支配し、日本の支配 した領域の西方にグアムとフィリピンを孤立した前哨拠点として 保持することになった。  

こうした情勢下、米国はますます対日脅威認識を強め、オレン ジプランの具体化を進めることになる。 1931年の満洲事変に対して米国は強く日本を批判した。1 932年1月、スチムソン国務長官は「不戦条約(ケロッグ・ブ リリアン条約)の条項と義務に反する手段によってもたらされた 事態や条約や協定を承認するつもりはない」とする方針を日中両 国に通知した。それはのちに「スティムソン・ドクトリン」と呼ばれることになる。  

ただし、米国は当面は世界恐慌への対処を重視したことから対 日経済制裁などの実力行使は行われなかった。またイギリスも事 態が満洲に限られている間は黙認するという態度をとった。これ が、わが国の満洲国の建設と地歩拡大につながった。  

そしてスティムソン・ドクトリンは、以後の米国の対日政策の 基調となり、やがてルーズベルト大統領の同ドクトリンへの支持 を表明、次いで石油と屑鉄の対日禁輸(ABCD包囲網)となり、 太平洋戦争へと向かうことになる。

▼海軍軍令部の改編  

海軍における情報を担当する機構の創設は1884年(明治1 7年)2月に遡る。当時、海軍省軍務局が廃止され、海軍省軍事 部を置いた際に、それまでに軍務局が管掌していた事務のほか、 艦隊編成(第1課)と出師準備(第2課)、海防(第3課)、諜報(第5課)を司ることになった。つまり、第5課が情報を担当 した。  

1886年には軍事部が廃止され、参謀本部海軍部が新設された。この改編にともない、海軍部第3局が諜報(情報)を担当す ることとなり、その内部構成は第1課が欧米諜報、第2課が隣邦諜報および水路地理政誌となった。このように海軍は早くから米 国に対する情報を重視した。  

その後、情報を司る海軍の機構は数回の改編を経て、満洲事変開始前には海軍軍令部第3班が情報を担当していた。第3班は第 3班長(少将)以下、第5課と第6課で編成され、第5課が欧米 列国を、第6課がソ連および支那ならびに戦史研究を担当した。  

満洲事変と上海事変を経た1932年10月、海軍軍令部の機構改編にともない、第3班は、班長直属を創設するとともに4課編成(第5、第6、第7、第8)となった。  

これにより、第3班長直属が情報計画および情報の総合などを担当し、地域別の軍事並び国情概況調査については、第5課が南北アメリカ、第6課が支那および満洲国、第7課が欧州列国を担 任することになった。なお、第8課は戦史の研究並びに編纂を担 当した。  

つまり、満洲事変以後に日米間の緊張化が高まったことで、アメリカ合衆国を含む米州を単独の課が担当することとなったのである。一方、ソ連は第7課の担当になった。  

満洲事変以後の対ソ連脅威の高まりに対しては、陸軍の情報体制の強化が図られた。1936年6月に参謀本部第2部第4課第 2班が昇格して第2部第5課となり、いわゆるソ連課が新設され た。つまり、陸軍においては、単独の課がソ連を担当することになった。

一方の米州は参謀本部第6課の、いわゆる欧米課が欧州 列国を見る一部として米国を見ていた。また、第2部長はもとよ り、欧米課長も“ソ連派”で占められ、陸軍における対米軽視の風潮があった。  このように満洲事変以後、陸軍はソ連重視、海軍は米国重視の傾向がさらに顕著になったのである。  

なお、1933年10月に海軍軍令部条令の廃止によって、従 来の班が部に改められ、第8課が廃止されたので、軍令部第3班 は軍令部第3部となり、その下に第5課、第6課、第7課がぶら 下がる体制になった。

▼米西岸における駐在員の配置  

満洲事変以後、太平洋における米艦隊の動向が、日本海軍の重 大関心事項となった。このため1932年7月、米東岸で語学の 修得や米国事情の研究に専念していた、中沢佑少佐と鳥居卓哉少佐を米太平洋艦隊の根拠地である米西岸に駐在させ、米艦隊の動 向監視、訓練状況、艦隊乗組員の対日感情の把握などを行なわせ ることとした。  

ところが、鳥居少佐は不慮の自動車事故で死亡したため、中沢少佐のみがサンフランシスコ郊外のサンマテに拠点を構えて艦隊動向の情報収集にあたった。しかし、わずか一人の駐在員が広大 な米西岸を管掌するのには無理があったため、1933年12月 から宮崎俊男少佐がロサンゼルスに着任して、中沢少佐と協力し て米艦隊の情報にあたることになった。  

その後、中沢少佐の帰国(サンマテ駐在の廃止)、シアトルへ の駐在員の新規派遣、シアトル駐在員の廃止、ロサンゼルス駐在 員の交代などを経つつ、ほそぼそと、艦隊の情報収集は継続され た。しかしながら、駐在員1名での情報収集には限界があり、め ざましい成果は確認されていない。

▼通信諜報の本格運用  

わが国の通信諜報の開始は日露戦争時期に遡る。そして海軍の通信諜報組織は、1929年初めに海軍軍令部第2班に第4課別室を新設し、きわめて少人数の暗号解読班が編成されたことが、 その濫觴(らんしょう)である。  

当時の傍受は、初め海軍技術研究所の平塚で、ついで東京通信隊橘村受信所を利用した。第4課別室の職員は、中佐×1、少佐 ×1、大尉×2、タイピスト×3であり、作業の主目標は米国と 英国の軍事通信であった。  

1932年の上海事変(第一次上海事変)において、通信諜報 の有効性が認識されことから、その組織強化が図られた。上海事 変が勃発するや、海軍は上海特別陸戦隊に対中国作業班(C作業 班)をおき、中国軍の暗号解読にあたらせた。これが上海機関 (X機関)の発端である。  

作業班は、南京政府が、わが空母を攻撃する意図のもとに、その飛行機群を杭州飛行場に集中待機させたことを探知し、我が航 空部隊をもって同飛行場を先制攻撃した。  

1933年1月、ハワイ近海で実施する大演習の通信諜報かを 実施するため、「襟裳」(タンカー)をハワイ近郊に派遣し、数 名の軍令部部員を乗艦させ、米海軍大演習に関する情報収集を実 施した。その結果、米海軍演習の構成部隊の編制や演習の経過などが判明した。  

1933年10月、海軍軍令部条令の改正によって、従来の第 2班第4課別室は第4部第10課となった。上海機関を特務機関 として同地の海軍武官の下に付属させることに改められ、A作業 班(対米)を増強した。  

1936年になると、傍受専門の受信所を新設することになり、 埼玉県大和田に大規模な受信所が開設された。当初に配置された 電信員は、予備役下士官を嘱託として採用した者がわずか9名であった。  以上、満洲事変以後の海軍の情報体制をざっと見てきたが、米 国との衝突を想定し、少しずつ対米情報体制を強化したものの、 全般的には不十分であった。

「パレートの法則」を活用しよう

▼パレートの法則とは

現在、筆者は新著出版に向けて準備を進めています。もうすでに本文を書きおわり、校正・推敲という最終段階に来ています。 いつも思うことですが、8割方が概成してから完成に持っていくまでが大変ということです。

さらには、よくよく気つけて校正・推敲しても、出版してから読者から誤字・脱字、事実関係の誤り、氏名の誤り、年代の誤りなど、いくつも指摘をいただきます。

実は、これには法則があるようです。 「パレートの法則」あるいは 「80対20の法則」あるいはといいます。 イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートが発見した法則で、経済において、全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという理論です。簡単に言えば、20%が全利益の80%を生み出している、ということです。

これは次のように応用できます。

仕事の成果の8割は、費やした時間全体のうちの2割の時間で生み出している。だから、私の著作作業の8割概成は、まだ全体の2割の時間しかかかっていない。よって著作というものは終着点が見えてからが本当に遠く感じるのも道理ある。

▼パレートの法則の一般的適用

 パレートの法則はさまざまに適用できるといいます。商品の20%が全体の売り上げの80%を引き出している。20%の社員が会社利益の80%を生み出している、などです。

 したがって、成功者の2割に入る、わずか2割が大事、あと20%の努力をすれば成果が劇的に増大する、日曜日にすこしの努力をすることで大きな成果が得られるといった教訓が導きだすことができます。

 このように、「パレートの法則」は、ちょっとした努力が自分の置かれている状況を劇的に変え、他との優位性を保持するコツであるというように、ポジティブ思考に解釈されるのが一般的です。

▼パレートの筆者的運用

でも、2割をどのように捉えるかは自由です。筆者はこの法則を次のように解釈しています。

冒頭の著作を例にとりましょう。

著作作業の完成に向けた2割は大変な時間と労力がかかります。しかし、これを専門の校正者がやったらどうでしょうか。残り2割の労力でさらに8割進むことにになり、より短時間で100%に近くなります。さらに、その残りを別の人に依頼すれば、短時間でさらに100%に近づきます。

つまり、一人で物事を100%完璧におこなうことはできません。「漢字の誤記などは人格を疑われるとか」といった批判はあまり気にせずに、8割完成に精神を注力する、そして、残り2割は人と共同してやればよい、これも一つの考えです。

編集者にとってもっとも苦手な作者は、「時間を守らない」「全部自分でやろうとする」「文書の誤りを指摘すると自分流で直そうとする」、このような人だといいます。完璧主義者の陥りやすいところだと思います。

こういうことを踏まえ、「パレートの法則」から、筆者は他の人と協調して物事の完成を目指せということを教訓としています。

▼必要なことはコミュニケーション能力

現代社会が速度が勝負です。完全性よりも創造性や柔軟性がより重要となってきます。完全性に時間がかかっても、状況がすでに変化していたということも生起します。

だから、創造性を発揮して2割の労力で8割の完成を目指す。あとの2割は仲間と協調して行う。ぎゃくに仲間の仕事の完成には2割の力で支援する。こういったことが重要になると思います。

仲間との協調を成立させる最も重要な資質や能力はコミュニケーションということです。最近、コミュニケーションの重要性が取り沙汰されていますが、予測不能で不確実な時代、変化が激しい時代だからこそでしょう。

わが国の情報史(32)  昭和のインテリジェンス(その8)   ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(1)─

▼はじめに

 前回まで、張作霖事件を題材に、主として情報の評価について述べたが、今回から、主として満洲事変がわが国の情報体制に及ぼした影響について述べることとする。

▼満洲事変から日中戦争まで

満洲事変から日中戦争までの経緯を山川出版の『詳説日本史B』より抜粋する。なお、( )内は筆者による注記である。

 関東軍は参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)を中心として、1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始して満洲事変が始まった。(中略)

 1932年9月、斎藤内閣(斎藤実、まこと)は日満議定書を取り交わして満洲国を承認した。日本政府は既成事実の積み重ねで国際連盟に対抗しようとしたが、連盟側は1933年2月の臨時総会で、リットン調査団の報告にもとづき、満洲国は日本の傀儡国家であると認定し、日本が満洲国の承認を撤回することを求める勧告案を採択した。松岡洋介ら日本全権団は、勧告案を可決した総会の場から退場し、3月に日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告した。(中略)

 1935年以降、中国では関東軍によって華北(チャハル・綏遠・河北・山西・山東)を国民政府の統治から切り離して支配しようとする華北分離工作が公然と進められた。(中略)

 関東軍は華北に傀儡政権(冀東防共自治委員会)を樹立して分離工作を強め、翌1936年には日本政府も華北分離を国策として決定した。これに対し、中国国民のあいだでは抗日救国運動が高まり、同年12月の西安事件をきっかけに、国民政府は共産党攻撃を中止し、内戦を終結させ、日本への本格的な抗戦を決意した。

 第一次近衛文麿内閣設立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生した。いったん現地で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力に屈して当初の不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大した。これに対し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した。(引用終わり)

▼対ソ作戦計画をめぐる対立

 わが国は伝統的にソ連に対する脅威を第一においた。しかし、日露戦争後にロシアが崩壊したことで、幣原喜重郎外相時代に一時的に対ロシアの脅威が薄れた。

 しかし、1928年10月に開始された第一次5か年計画と、1929年4月から始まったソ支紛争、とくに同年11月のソ連による満洲里の占領にかみがみ、日本はソ連情報の重要性を再認識した。

 満洲事変の勃発によって、一挙にソ連情報の重要性が高まった。この事変で、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになったが、ソ連から日本に対して、1932年10月に不可侵条約の締結申し入れがあった。

 しかし、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなかった。この理由には共産勢力の国内浸透を恐れたからであったが、なにより陸軍の反対が強かったことが大きな原因であった。満洲を占領した陸軍の鼻息の荒さが窺える。

 不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に増大した。関東軍の満洲全般における兵力配置に対し攻防いずれにも対応できるよう、1933年頃から狙撃師団や騎兵部隊を増強し、国境地帯におけるトーチカ陣地を構築した。1934年頃から戦車・飛行機の増加などの措置をとった。また、極東海軍の再建も図った。

 当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1であったとされる。しかし、参謀本部第1部の作戦課長であった小畑敏四郎大佐は、極東ソ連軍の戦力を低く評価し、日本軍の伝統的精神要素、統帥能力の優越、訓練等の成果等を強調した。その後任の鈴木従道大佐も同意見であった。彼らは、米英や国民政府との提携により、ソ連に対する攻撃を主張した。

 これに対し、参謀本部第2部長の永田鉄山は、ソ連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、この間に軍近代化を図るべし、と主張した。彼らは、ソ連を西方に牽制するためのドイツ等の提携を模索し、英米や国民党軍との提携には乗り気ではなかった。

 国家戦略をめぐって第1部と第2部が対立したが、作戦至上主義のもとで第1部の案が採用され、1933年(昭和8年)に作戦計画が大きく修正され、「まず満洲東方方面で攻勢作戦をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものであった。

 この作戦計画は、日本軍の戦力がソ連軍よりも優位においてこそ成り立つものであって、当初から成立しないものであった。また、第1部と第2部の対立が永田、小畑両少将を中心とする対立抗争へと発展し、後々、世間で言われる皇道派、統制派の派閥抗争へと繋がり、永田少将の暗殺事件、1936年に2.26事件を引き起こした。

▼陸軍の情報体制

満洲事変以後、陸軍の情報体制はソ連情報に対する強化が図られた。主要な変化は以下のとおりである。

1)参謀本部の組織改正

1934年初頭の参謀本部第2課の編制は以下のとおりであった。 

 第4課(欧米)

   第1班(南北アメリカおよび米国の植民地)

   第2班(ソ連、東欧、トルコ、イラン、アフガン、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、バルト3国、満洲)

   第3班(欧州各国および英仏伊の植民地、タイ、英の自治領)

  第5課

    第5班(暗号解読及び作)

    第6班(支那ただし満洲のぞく)

    第7班(兵用地誌、経済、資源の調査、陸地測量関係業務)

    第4班(総合)

 1936年6月に行なわれた改正では、第4課第2班が昇格し、第5課となった。いわゆるロシア課が新設された。この改正に伴い、従来の欧米情報担当の第4課が第6課に、支那情報担当の第5課が第7課になった。

 つまり、第2部の編制は、5課(ソ連)、6課(欧米)、7課(中国)と、第1班と暗号班から構成された。第1班は部長直属で、情勢に関する総合判断を行なったものと見られる。

2)関東軍総司令部の整備

 満洲事変以前の関東軍第2課(情報課)には、たいした情報収集能力はなく、関東軍の情報活動は南満洲鉄道株式会社(満鉄)の調査部に依存した。満鉄調査部は1907年に設立され、主たる任務は、満洲や北支の政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究である。したがって、ソ連情報については不十分であった。

 満洲事変以後も、関東軍は満鉄調査部に依存していたが、ソ連軍との対峙を想定して関東軍第2課の強化を逐次にはかった。満洲事変以前の第2課の情報関心は主として北支に向けられ、支那関係者をもって要員にしていた。しかし、参謀本部第5課の新設の動きと連動して関東軍第2課もソ連専門家をもってあたられた。

3)特務機関の増設

 日本軍は1918年のシベリア出兵以後からシベリア各地に特務機関を配置していた。しかし、1922年10月末の撤兵までには逐次閉鎖され、ハルビン、黒河、満洲里のみが残され、静かに対ソ情報を収集していた。その後、黒河は1925年3月に閉鎖された。

 他方、1928年の張作霖事件が象徴するように、北支那や満洲が混沌化していた。よって特務機関の主要関心事項は支那情報であった。

 しかしながら、満洲事変以後、ソ連情報の価値が高まり、1932年に黒河が再開され、ハイラルが新設された。1933年には琿春、密山に、1934年に富錦に特務機関が新設された。これらは、琿春を除き関東軍に直属し、業務はハルビン特務機関長が統制した。

4)在外武官の新設と配置

 満洲事変以後、ソ連は国境警備と防諜態勢を強化した。そのため、日本軍は従来の密偵諜報に行き詰まりを感じ、ソ連情報の主要手段として文書諜報、科学諜報を重視した。

 また、なるべく多くの将校を合法的にソ連邦に入れる努力をした。ソ連をめぐる隣接国における公館開設と公使館附武官の配置、ソ連国内に対する駐在員の派遣、在ソ日本領事館における情報将校の配置などを行なった。

5)文書諜報の強化

 参謀本部第2部第4課第2班(ロシア班)(のちの第5課)とハルビン特務機関(のちの関東軍情報部本部)が、それぞれ文書諜報を本格的に開始した。

 1935年3月、小野打寛大尉がハルビン機関の中に、文書諜報班を設置することで本格的な公開情報分析が始まった。

 この文書諜報班は、ソ連国内の出版物をできるだけ集め、参謀本部と分担して公開情報の分析を行った。

 主に「プラウダ」「イズベスチャ」などの中央機関紙、「チホオケアンスカヤ・ズヴェズダ」「ザイバイカルスキー・ラボーティ」などの地方紙、「クラスナヤ・ズヴェズダ」「ヴォエンナヤ・ムイスリ」などの軍事専門誌を集めて丹念に分析した。

 また同組織は無線電話の傍受も行なっており、これらは音秘・音情と呼ばれていた。(小谷賢『日本軍のインテリジェンス』)

6)暗号情報の強化

 1930年5月、第2部5課(支那情報)に「暗号ノ解読及び国軍使用暗号ノ立案」の任務が付加された。これにより、第5課は4班(総合)、5班(暗号)、第6班(支那ただし満洲除く、満洲はソ連とともに第4課第2班の所掌)、第7班(併用地誌等)となった。

 1934年に関東軍参謀部第2課に関東軍特殊情報機関を設置し、新京(長春)においてソ連軍の軍事暗号を解読する任務を開始した。

 1935年に将校2人をポーランド参謀本部に将校を派遣して、1年間の暗号解読の教育を受けさせた。

上述の1936年6月の改編で、第5課4班は、暗号班となり、第2部長の直轄となった。

 1937年3月31日、暗号班が1班と改められ、所掌業務の「暗号ノ解読及び国軍暗号ノ立案」のうち「及び国軍暗号ノ立案」が削除された。及び(なお、原文は竝)が削除されたことは、この頃から暗号解読の重要性が認識されたことを意味する。

7)防諜態勢の強化

 1936年8月に陸軍省に兵務局が新設された。兵務局は防諜に関する業務を担当した。なお、これが陸軍中野学校の発足の一つの経緯となる。

1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、同課は歩兵以下の各兵下の本務事項の統括、軍規・風紀・懲罰、軍隊の内務、防諜などを担当した。

同官制改正の六では、「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定され、これが防諜の最初の用例だとみられる。

 1937年3月に参謀本部内に、防諜態勢の強化を図るための防諜委員が設置された。

8)ドイツとの情報提携強化

 1936年11月25日、日独防共協定の調印に伴い、諜報・謀略に関して日独情報提携を約束した。従前参謀本部第2部は在ポーランド駐在武官のソ連情報を重視していたが、本協定以後、ドイツ駐在武官のソ連情報を重視するようになった。

 当時のドイツ駐在武官は、ドイツ通の大島浩大佐であった。大島は、1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐在し、1933年以降はドイツの政権を得ていたナチス党上層部との接触を深めた。

以上、満洲事変以後から、日中戦争にかけての陸軍の情報体制を概略みてきたが、次回は海軍の情報体制について少しだけ言及したい。