わが国の情報史(40) 秘密戦と陸軍中野学校(その2) 陸軍中野学校の概要と創設の経緯

▼陸軍中野学校の概要  

 陸軍中野学校(以下、中野学校)は1938年7月、後方勤務 要員養成所として創設され、1945年8月の終戦時、疎開先の 群馬県富岡町および静岡県磐田郡二俣町において幕を閉じた。諜 報、防諜、謀略、宣伝からなる秘密戦に関する教育や訓練を目的 とする大日本帝国陸軍の学校であった。  

 なお中野学校という校名は、この学校の所在地が1939年4 月から45年4月まで現在の東京都中野区であったことに由来す る。  

 陸軍中野学校は創設されてから終戦による閉鎖廃校まで、わず か8年という極めて短期間の存在であったが、この間の卒業生は 2000名以上に及んだ。卒業生は世界のいたるところで情報勤 務という特殊の分野での職務に精励した。    

 当時、すべての陸軍管轄の学校は教育総監(陸軍大臣、参謀総 長と並ぶ三長官の一人)が所掌していた。しかし、中野学校は陸 軍大学校などともに教育総監部に最後まで所属しなかった数少ない異例の学校の一つであった。    

 一般軍隊においては、「百事、戦闘を以て基準とすべし」と定 められているが、中野学校においては「百事、秘密戦を以て基準 とすべし」の鉄則にもとづき、秘密戦を基準として学校全体が動 いていた。  

 秘密戦士を養成する学校が世に存在するのを秘匿するため、創 設当初の正式(勅令)の学校名は「後方勤務要員養成所」であっ たが正式名称は伏せられた。このため、同養成所の施設となった愛国婦人会別館の入り口看板は「陸軍省分室」であり、学校の存 在を秘匿するため、軍部外の教官による教育は市内随意の場所が 選定されて行なわれた。  

 中野に移転した以降も、学校の存在は秘匿され、看板は「陸軍 省分室陸軍通信研究所」とされた。教官、職員、学生の身分を欺 編、秘匿するため、校長以下の学校関係者は長髪とし、軍服を着 用せず、背広を着用した。

▼牛込に防諜機関が誕生  

 次に中野学校創設にいたる沿革について述べたい。1931年 9月の満洲事変以降、わが国は対ソ国防圏の前線を満ソ国境に推進させた。対外的には対ソ戦略の軍事力整備が要求されるとともに、対内的には国家総力戦、つまり国家総動員の整備や防諜体制の強化が行なわれた。  

 総力戦思想が普及するにともない、建軍以来の作戦第一主義で あった陸軍においても情報に対する関心が高まった。  

 まずは防諜への関心である。当時、秘密戦の一分野である防諜については、1899年に公布・施行された軍機保護法があったが現状に適さないものになっていた。このため「軍機保護法を改正すべし」との意見が軍内に起こった。  

 こうしたなか1936年3月、陸軍内の防諜を強化するために 防諜委員会が設置された。また、この頃から暗号解読が重視されるようになり、参謀本部第2部1班が暗号班となった。  同年8月、陸軍省兵務局(所属課は兵務課・防備課・馬政課) が新設され、岩畔豪雄中佐(いわくろひでお、1897年~19 70年、のちに少将)は、同年2月に生起した二・二六事件の後始末で兵務課課員として転職し、軍機保護法の改正案に着手した。 なお同改正法は1937年3月に議会を通過した。  

 兵務局設置当時、防諜業務は兵務課の業務とされたが、193 7年1月には兵務局防備課に広義の防諜業務を所管させることと して、防備課を防衛課に改編し、防諜業務を担当させた。  

 当時の兵務局長は、終戦時の陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれ ちか)少将、兵務課長は太平洋戦争開戦時の参謀本部第1部長の 田中新一(たなかしんいち)大佐であった。  

 田中大佐は、ハルピン特務機関から参謀本部第5課(ロシア課) に転属した秋草俊中佐(あきくさしゅん、1894年~不明、の ちに少将)、福本亀治(ふくもとかめじ)憲兵少佐、曽田峯一(そ だみねいち)憲兵大尉に命じ、科学的防諜機関を設立するための研究を命じた。  かくして1937年春、兵務連絡機関(兵務局分室)という防諜専門機関が牛込若松町の陸軍軍医学校の敷地奥に設置されたの である。

 初代班長は秋草であった。共産党問題研究者として省部 その他で高く評価されていた福本がこれを補佐し、十数名の組織 として立ち上げられた。  同機関の任務は国際電信電話の秘密点検、外国公館その他の信書点検や電話の盗聴、私設秘密無線局の探知などの防諜業務が主 であったが、あわせて情報収集にあたった。  

 この防諜組織の存在は省内でも一部の関係者以外には極秘とさ れ、1940年8月に陸軍大臣直轄の極秘機関である軍事資料部 となり、終戦に至るまで77名の中野学校出身者が勤務した。こ の数は、中野出身の割合から言えば、かなりの数であった。

▼後方勤務要員養成所が設立  

 防諜機関の設立とともに敵国に対して積極的な情報活動を行な うことを趣旨とする諜報・謀略機関の新設気運が高まった。しか し、当時の日本陸軍の謀略に関する考え方は「謀略は人によって 行なう」というものであり、科学性、合理性に欠けていた。つま り、「これを是正せよ」との要請が起きた。  

 そこで防諜機関設立の立役者となった岩畔、秋草、福本らを中 心に諜報・謀略要員を養成する機関の設立に向けての新たな取り 組みが開始された。  

 1937年秋、岩畔中佐は参謀本部に対し「諜報、謀略の科学化」という意見書を提出した。この意見書提出により、諜報・謀 略などの専門機関を設立するための準備が本格的に始動すること になる。  

 なお岩畔中佐は兵務局兵務課が新設された時(1936年8月) に、参謀本部第2部欧米課第4班所属替えになるが、同4班は1 937年11月に大本営の設置とともに新設された第8課(通称、 謀略課)になるので、これを見越した転属であったとみられる。  

 1937年12月、陸軍省軍務局の軍事課長・田中新一(19 37年3月に兵務課長から軍事課長に転出)が、秋草、福本、岩 畔を招き、「近代戦においては相手国からの秘密戦に対処する消 極的防衛態勢だけでは勝つことができないので、進んで相手国に 対する諜報、宣伝、防諜などの勤務者を養成する機関を早急に建 設する必要がある」として新組織の設立を検討するよう命じた。 かくして陸軍省が中心となって、かかる組織を建設するこことな ったのである。  

 秋草、福本、岩畔の3名は設立委員となり、訓育主任として満 州鉄道守備部隊から伊藤佐又(いとうさまた)少佐が馳せ参じた。 1938年1月に「後方勤務要員養成所」が設立され、同年7 月に1期生19名の入校を迎えることとなったのである。

▼中野学校の沿革は4つの段階に区分される  

 中野学校は、所属、所在地、教育目的などによって、「創設期」 「前期」「中期」「後期」の4つに区分される。

(1)「創設期(1938年1月~1940年8月)」  同期は「後方勤務要員養成所期」とも呼ばれる。1938年7月、 九段下牛ヶ淵の「愛国婦人会」本部内の集会場を使用し、甲種幹 部候補生・予備士官出身の第1期生19名(卒業生は18名)に 対する教育が開始された。第1期生は海外における長期勤務を想 定とした選抜であった。  

 秋草中佐が所長、福本中佐が同養成所の幹事に就任し、狭隘な 集会所が教室兼宿舎となり、学生が一同に起居する寺子屋式、私 塾的な体制であった。学生は陸軍兵器行政本部付兼陸軍省兵務局 付として入校させ、秘密戦の教育を開始した。そして翌年4月に は、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転した。  

 1939年7月に第1期生が卒業し、同年11月に第1期生と 同じ出身母体の第2期の乙I長40名と、現役少尉を含む第1期 の乙I短70名、これに加えて陸軍教導学校で教育総監賞などを 受賞した優秀な下士官候補生から選抜された丙1・52名が入所 した。  

 ここでの長期の学生とは第1期生と同様に海外での長期勤務を 想定した要員であり、入校と共に別名が与えられた。教育施設内 では、国内外の既存情報機関勤務を想定した短期学生や丙1とは 相互往来は禁じられ、壁をもって仕切られていた。

(2)前期(1940年8月~1941年10月)  

 1940年8月「陸軍中野学校令」が制定され、後方勤務要員 養成所は、陸軍大臣直轄の学校として名称も陸軍中野学校に変更 された。施設や教育内容が急速に整備され、当初の私塾的な体裁 から抜け出ていった時期である。  

 初代校長に北島卓美少将が就任。1941年春に北島少将が東 部軍参謀長として転任したあと、1941年6月、陸軍省兵務局 長の田中隆吉少将が二代目校長となり(形式上)、同年10月、 ロシア駐在武官や参謀本部ロシア課長の経歴を有する川俣雄人少 将が校長として赴任した。 1940年9月には1甲、同12月には乙II長・短、丙2の学生が入校し、翌41年2月には、2甲、41年9月には3丙、3 戊の学生が入校した。

 なお、甲とは陸軍士官学校卒業者であり、秘密戦への転向を命 じられた初回の学生である。そして、3丙学生および3戊学生は 従来の乙学生および丙学生のことである。これは、後述のように 1941年10月の学生種別の変更にもとづき呼称が変わったた めである。  

 校門には「陸軍通信研究所」の小さい看板がかけられ、陸軍組 織上では「東部第三十三部隊」とされた。学生の通信の発送はすべて陸軍省兵務局防衛課の名称が使用された。  1940年12月から大東亜戦争が開始されたこの時期におい ては、創設期の教育課目に占領地行政、宣伝業務が加味され、戦 争対応への意識が高まった。

(3)中期(1941年10月~1945年4月)  1941年10月、陸軍兵器行政本部付から参謀本部直轄とな った。これにより、学生の種別も改正され、甲種学生(陸士出身 者)が乙種学生、乙種学生が丙種学生(予備士出身)、丙種学生 (教導隊出身)に新編成された。  この期に入校したのは4から7までの丙種学生と4から6まで の戊種学生、それに1から4までの乙学生、このほか遊撃(1・2)、 情報(司令部情報要員)、静岡県磐田郡二俣町に開設された二俣 分校の1期および2期である。(注:二俣は1期、2期と名称す るが、乙・丙・戊種については「期」と呼ばない)  

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北により、わが国は守勢に転じ、さら1943年2月のガダルカナル島撤退により、陸 軍参謀本部は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開に踏み切ることにした。 そして1943年8月、中野学校に対して「遊撃戦戦闘教令(案)」 の起案と遊撃戦幹部要員の教育を命じ、この教令(案)は194 4年1月に配布された。  

 1944年8月、静岡県磐田郡に遊撃戦幹部を養成する二俣分 校が創設された。第1期生226名が陸軍予備士官学校を卒業等 して尉官学生(見習士官)として入校、約3か月の教育が行なわ れた。なお、この中にはフィリピンのルバング島で発見された小野田寛郎氏がいる。  

 これと前後して、1944年8月、陸軍参謀本部は中野学校に 対し、国土決戦に備えるため、教範『国内遊撃戦の参考』の起案 を命じ、1945年1月に『国内遊撃戦の参考』および別冊『偵察法、潜行法、連絡法、偽騙法、破壊法の参考』を配布した。教育内容は、残地蝶者教育、通信科目、遊撃戦などを重視するなど、 創設期および前期に比してかなり変更された。

(4)後期(1945年4月~1945年8月)  1945年2月、国内の各軍司令官に対し本土防衛任務が付与 された。同年4月、本土上空に対する空爆の激化に伴い、中野学 校(本校)は群馬県富岡町に疎開し、同地において遊撃戦幹部の 養成が行なわれた。  

 この期に入校したのは、8から10までの丙学生、7から8ま での戊学生、5乙学生、二俣分校の3期から4期の学生である。  

 遊撃戦教育とその研究に最重点がおかれ、それも外地作戦軍内 における遊撃戦にとどまらず、最悪の場合の本土決戦に備えてこ れを国内において敢行するための各種の訓練が開始された。また、 いわゆる「泉部隊」と称した国内遊撃部隊構想も一部着手された。  

 1945年8月、敗戦によって富岡町の中野学校本校と二俣分校は幕を閉じた。 (次回に続く)

『無人の兵団』の読後感

私は時々、出版社から書籍を贈呈されることがあります。執筆をする側とすれば、非常にありがたいとことです。

先日、早川書房さまより、『無人の兵団』という書籍をいただきました。私もざっと一読はしましたが、「アナログ派の私には少し難しいかな?」という印象でした。そこで、ある後輩が私のところに遊びに来てくれたので、「この本読んでみない」と渡したところ、次のような所感を送ってくれました。

上田さんお疲れ様です。 先日はお世話になりました。 お酒を酌み交わしながら示唆に富んだお話聴かせて頂き、私にとってとても意義のある時間だったと思っています。 少し遅くなりましたが、上田さんにお貸し頂きました『無人の兵団』という本を読み終わりましたので、まとめきれていない雑感ですが送らせて頂きます。

まず、率直な感想は「勉強になった」という感じです。自律型兵器に対する、軍部、技術サイド、倫理学者、規制運動家といった様々なセクションの捉え方がヒヤリングに基づき記述されており多角的な視点を付与してくれていると思いました。

自律型兵器そのものについては、その定義の曖昧さに関する話題を導入にしつつ、半自律ウエポン・システム、監督付き自律ウエポン・システム、完全自律ウエポン・システムといった区分をして、初学者の理解を助けるようになっているのは良点でした。

私にとって示唆に富んでいたのは第4部「フラッシュ・ウォー」及び第5部「自律兵器禁止の戦い」でした。 まず、第4部において、自律型兵器同士の戦いは「速度の軍拡競争」と言えるという気付きを得ることできました。

学生時代に勉強した機械学習の知識や近年のAI技術の動向等から、これらの応用が見込まれる自律型兵器の本質は、大量のデータに基づくパターンマッチングの「精度」にあると考えていましたが、第4部を読むことで、その本質は人間が絶対に辿り着けない状況、意思決定及び行動の連環の「速度」にあるかも知れないと認識を新たにした次第です。

続いて第5部では、自律型兵器をめぐる法律問題(国際法)に関する法学教授のチャールズ・ダンラップ氏の見解が述べられていますが、彼は間に合わせの禁止は不必要であるだけでなく有害と述べており、テクノロジーの一瞬の姿に基づいて兵器が禁止され、将来的にもっと人道的な兵器に発展するような技術改善の可能性が妨げられることに懸念を表明しています。

例えば地雷とクラスター爆弾には戦争終了後の爆発の危険があるという問題がどちらもイノベーションで解決されるものと論じています。彼は、これらのツールが使えないと、戦争を行うのに合法的だがより破壊的な手段が必要になるというパラドックスの生起を指摘しています。この指摘が、自律型兵器禁止を主張する人に対する私自身のこれまでの意見として「自律型兵器の方が個々の戦闘において人間より技術的に優れたパフォーマンスを発揮する可能性が高い」ことでしたが、別の角度からも自律型兵器禁止反対を主張する理論武装の資を得ることができました。

・・・ ・・ ・ 以上、本書を読んだ中で特に気付きになったと感じた内容について書かせて頂きました。 引き続き勉強していきたいと思います。

(以上、引用おわり)

近年のAI技術の動向によって、自動運転車の導入などが検討、推進されています。しかし、自動運転車が事故を引き起こすと、従前の楽観的な観測が一転してそれを危険し、計画や開発の見直しを迫る動きが出てきます。しかも、ここには自動運転車の導入を良しとしない側の恣意的な見解が加担している場合があります。

このようなことは米軍兵器導入などにおいてもみられます。例えば、米海兵隊のオスプレーが事故を起こすと、通常ヘリコプターと事故件数との比較もなしに、「オスプレーは危険だ」という批判がメディアを通じて大々的に流される傾向にあります。つまり、オスプレー問題を米軍批判に結び付けようとする利害者が意を得たりとばかり、恣意的な意見を述べることになりかねません。

今日では不可欠な交通手段である飛行機も、それが安全と呼ばれるまでにはたくさんの事故や犠牲がありました。また、AIによる技術革新、生活の利便性と、倫理的、道徳的、人道的価値の折り合いをどうつけるかという問題もあります。

しかし、テクノロジーというメガパワーはもはや押しとどめることはできません。テクノロジーのさらなる進歩によってのみ、問題解決をはかるしか方法はないと思われます。

わが国の情報史(39) 秘密戦と陸軍中野学校(その1) -秘密戦の本質とは何か- 今回から

▼はじめに

「わが国の情報史」の最終テーマとして陸軍中野学校について数回に分けて解説する。さて、陸軍中野学校では秘密戦士を育成した。秘密戦とは諜 報、防諜、謀略、宣伝のことであり、これらについてはその概要 を述べてきた。 したがって陸軍中野学校において行なわれた秘密戦の教育、秘密戦士の育成とはどういうものかは、およそイメージできると思うが、ここではもう一度整理したいと考えている。

また戦後、中野学校について、「謀略機関であった」「北朝鮮の情 報組織の母体になった」などの誤った風説が流されている。これについても追々是正していきたいと思う。

▼秘密戦の概要    

まず、復習になるかもしれないが、秘密戦という用語について解説する。なにやら、物騒な語感ではあるが、字義からすれば 「秘密の戦い」「非公然な戦い」「水面下の戦争」などというこ とになろう。  

1930年代末に創立された陸軍中野学校(以下、中野学校)で は、従来いわゆる情報活動や情報勤務といわれていた各種業務を総括して、創立後しばらくたった頃から、秘密戦と呼ぶようにな った。 ただし、その呼称は各地域により、また各軍により、必ずしも統 一的につかわれていたわけではない。(中野学校校友会編『陸軍中野学校』(以下、校史『陸軍中野学校』))

つまり秘密戦は中野学校による造語である。そこで当時の中野学校関係者が執筆した書籍などから、まずは秘密戦の全体像を把握 することとしたい。 中野学校教官であった伊藤貞利は、自著で次のように述べている。    

「秘密戦とは武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される 戦争手段であって、諜報・謀略・防諜などを包含している。諜報、 謀略、防諜が秘密戦と呼ばれるのは一体どういうわけだろうか。 それは一般的に言って秘密の「目的」を持ち、その目的を達成するための「行動」に秘密性が要請されるからだ」(伊藤貞利『中 野学校の秘密戦』) また、伊藤は次のようにも述べている。    

「謀略の場合には『目的』はあくまで秘密とするが、「行為」は 大びらに行わなければならないことが少なくない。例えばある秘 密目的を達成するためには物件を爆破・焼却したり、暴動を起こ したり、デモ行進をしたり、暴露宣伝を行ったりするなど、大び らな行動をするような場合が比較的多い」(前掲『中野学校の秘 密戦』)     伊藤著書から要点を整理すれば、秘密戦とは以下のようなもので ある。

◇目的が秘密であり、行動にも秘密性が要求される。

◇謀略のような一部の秘密戦における行動(行為)は公開されるが、 その場合でも目的は秘匿される。

◇武力を主体として行動が常に公開される武力戦とは対極をなす。 いわば非武力戦である。

◇武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される。   この中でもっとも重要な点は目的の秘匿性である。すなわち、目的が秘匿される戦い、これが秘密戦の本質である。

▼秘密戦の目的は何か?    

次に「秘密戦はいかなる目的は想定しているか、すなわち目的 は何か?」について考察したい。 校史『陸軍中野学校』によれば以下の件(くだり)がある。

「原始的な情報活動にはじまる諜報、宣伝、謀略、防諜などの各 種手法は、“姿なき戦い”として、洋間東西と如何なる国家の態 様たるとを問わず歴史と共に発達し進化し続けてきた。

これらの“姿なき戦い”は、平和な時代においては友好国間の修 好をより一層確実なものとするために、また敵性国家間との力のバランスを確保して、平和に役立つ働きをした。 ひとたび戦争を決意した場合においては、同盟国間の盟約をより 確実なものとすると共に、敵国を孤立せしめ不利な条件のもとに 誘い込むためにも役立てられた。

戦争段階における秘密戦の役割はさらに峻烈になるが、武力戦の ように戦争の主役になることはない。 武力戦よりもさらに根深く戦争のあらゆる場面の部隊裏で暗躍を 続け、ある時は敵の致命的部分に攻撃を集中し、ある時は和戦を 決する講和交渉の陰に強大な力をもって活動することになる。 だから、「秘密戦とは歴史に記録されない裏面の戦争」である。」 (校史『陸軍中野学校』)

 ここには、秘密戦が戦時も平時も行なわれるものであり、歴史の表沙汰にならない水面下で行なわれる戦争であり、戦争抑止や早期講和などにも貢献すると述べられている。 以上の記述から思い起こされるのは「孫子」の兵法である。

『孫子』第3編には、 「百戦百勝は、善の善なる者にあらず。戦わずして人の兵を屈す るは善の善なる者なり」「故に上兵は謀を伐つ。その次は交わりを伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む」との記述がある。 『孫子』によれば、武力戦で勝利を得るのではなく、謀略や外交 謀略によって「戦わずして勝つ」のが最善である。

上述のように、ひとたび戦争が決意されれば、秘密戦は武力戦と 同時並行的に行なわれるが、その場合においも「戦わずして勝つ」 は継続して追求されることになる。つまり、武力戦のように敵国 戦力を物理的に破壊するのではなく、心理工作をもって敵国内に 不協和音や厭戦気運などを生起させて、早期に講和交渉などに持 っていくことが、秘密戦の目的となるのである。

ようするに秘密戦は、平時・戦時を問わず「戦わずして勝つ」を戦 略および作戦、戦術の全局面において追求する戦いであり、その 目的は「戦わずして勝つ」ことである。 この点については、中野学校出身者であり、今日も健在にて情勢研究の会を主催する牟田照雄氏(陸士55期)は「秘密戦とは、戦わずして勝つ」 である と喝破している。

▼秘密戦と遊撃戦との違い

中野学校の創設目的は秘密戦の戦士を養成することであった。しかしながら、大東亜戦争末期においては彼我戦力の優劣差が決定的となり、日本軍が守勢に立たされた。これは、1942年6月 のミドゥエー会戦あたりが分水嶺となり、43年2月のガダルカ ナル島の戦闘で決定的となった。

すると、参謀本部は1943年8月、中野学校に対し、遊撃戦教令(案)の起案及び「遊撃隊幹部要員の教育」を命じた。つまり、 中野学校の教育が「秘密戦士」から「遊撃戦士」の養成へと転換 されたのであった。

これに関して、前出の牟田氏は「秘密戦は戦わずして勝つである。 だから、日本が米国と戦争を開始して以降(1940年12月)の 中野学校の教育は、本来目指す教育ではなかった」旨と述べてい る。(平成28年度慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研 究所都倉研究会『陸軍中野学校の虚像と実像』)

そこで、秘密戦をより明確に理解するために、遊撃戦についても言及しておこう。 校史『陸軍中野学校』は「遊撃戦」について次のように記述する。 「遊撃とは、あらかじめ攻撃すべき敵を定めないで、正規軍隊の戦列外にあって、臨機に敵を討ち、あるいは敵の軍事施設を破壊 し、もって友軍の作戦を有利に導くことである。  

したがって遊撃戦とは、遊撃に任ずる部隊の行う戦いであって、 いわゆる『ゲリラ戦』のことである。  

遊撃戦は、一見武力戦の分野に属するかのように見えるが、その内容は、一時的には武力戦を展開するが、長期的にはその準備お よび実施の方法手段を通じて主として秘密戦活動を展開する。し たがって遊撃戦の本質は、秘密戦的性格が主であって、武力戦的 性格が従である。  

遊撃部隊は、わが武力作戦の一翼を担い、少数兵力を以て、神出 鬼没、秘密戦活動と武力戦活動とを最大限に展開して、以てわが 武力戦を有利に導くのである。したがって遊撃部隊、わが綜合的 大敵戦力の増強に寄与するものである」(以上、引用終わり)  

以上から、遊撃戦は目的や行動において秘密戦的な要素が大きい、 また武力戦を有利にするなどの秘密戦との類似性がある。しかし、 以下の点が大きく異なることを理解しなければならない。

◇ 遊撃戦は平時には行なわれない。戦時において武力戦と併用 される。

◇ 秘密戦のように単独で目的を達成することはない。 わが国における現代の国土防衛戦に当てはめれば、秘密戦は平 時から単独で行なうことができるが、遊撃戦は防衛出動下令以降 に防衛作戦と連接して、その一環として行なわれることになる。

つまり、秘密戦は遊撃戦とは異なり、平時から単独で「戦わずして勝つ」との目的を達成する情報活動であるといえる。

▼秘密戦の形態

 すでに述べたとおり、中野学校では秘密戦を「諜報」「宣伝」 「謀略」「防諜」と定義した。すなわち、秘密戦はこれら4つの 形態を包含した情報活動である。 これら4つの用語については、明治以来の軍事用語としてすでに、 その淵源などを説明したが、もう一度、簡単にここで整理してお こう。

(1)諜報  相手側の企図や動性を探ること。公然諜報と非公然諜報にわけ られる。

(2)宣伝  相手側及び作戦地住民あるいは中立国などに対し、我に有利な形 成、雰囲気を醸成するために、ある事実を宣明伝布すること。

(3)謀略  相手側を不利な状態に導くような各種工作を施すこと。

(4)防諜  相手側がわが方に対して行なう諜報または謀略を事前に察知し、 これを防止すること。    

以上の4つの秘密戦の発祥や相互関係について校史『陸軍中野学校』における記述を、現代風に解釈すれば以下のとおりとなる。

情報活動とは内外の環境条件を広範囲に把握し、状況判断や意志 決定を行なうことを目的とする。この目的追求は、彼我ともに指向しているので、自ずと「敵の情報を知り、我の情報 を隠す」という情報争奪の闘いが開始される。

相手側が情報を隠 そうとするので、我は不完全な情報から総合的に判断することが必要となる。同時に非合法的な手段を用いて真相情報を入手する 必要性も生じてくる。これが諜報活動の本質である。

情報活動が平時の外交や武力的抗争の中においても重要な地位を占めるようになったことから、情報活動の多元性、複雑性が着目されるようになった。このため、情報操作による「宣伝活動」が 行なわれるようになった。またそれらの積み重ねによって、いわ ゆる「謀略活動」も可能であることが実証されるようになった。 さらに、相手国からのこれら各種の策謀を防衛するためには防諜も必要になってきた。

 ようするに、彼我の情報争奪の情報戦の中で、敵が厳重に守って いる情報を非合法手段によって獲得する必要性から諜報活動が発 達し、平時・戦時の活動において情報がより重要な役割を帯びるようになるにつれて宣伝や謀略が発達した。そして、それら活動 を守るために防諜が同時に発達したということである。

『武器になる情報分析(インテリジェンス)』 体験講座 

混迷の世界を透視する技術: 防衛省 元情報分析官 による『武器になる情報分析(インテリジェンス)』 体験講座を、2019/10/24(木)の18:00-20:30まで、PARK6(六本木ヒルズ)で開催します。

詳細は、
https://peatix.com/event/1305395/
をご覧ください。

概要を紹介します。この講座は、本年6月に上梓した拙著『武器になる情報分析力』の記念講座であり、ビジネスパーソン向けのリベラル・アーツ学習を運営されている「麹町アカデミア」さまの企画によるものです。

2016年に私は、初の単著である『戦略的インテリジェンス入門』を上梓しました。それが縁で、2018年4月に、「麹町アカデミア」さま主催のビジネスパーソン向けの情報分析講座(3日間、計10時間)を受け持ちました。その際に使用したテキストを再整理するとともに、同講座の概要についての紹介を付録にて掲載し、書籍化したものが新著『武器になる情報分析力』です。

今回は、この新著の記念講座という位置づけですが、1回限りの2時間半です。時間が限られていますので、皆様には抽出したいくつかの分析手法を使って少しだけ体験していただく、そして私の方からコメントする、どちらかいえば、講義が6割から7割になろうかと思います。

テーマは東アジア情勢の将来動向を考えていますが、まだ具体的に何をお話しするか、どのような体験をしていただくかは未定です。というのも、北朝鮮のミサイル発射、竹島上空での中ロ協同空中監視訓練、香港デモ、悪化する日韓関係など、注目する事象があまりに多く、しかも流動的であるからです。

私の講座は、「情勢がこうなります」という答えを私から提示するものではありません。週刊誌の取材などでは、私もコメントを提示しますし、情勢推移の予測などに対する私なりの答えは持っています。しかし、一般的な答えが必要であれば、テレビやインターネット記事上の専門家諸氏があれこれと解説されています。私のコメントもおおむね同じです。

しかし、自分が本当に知りたいことは、自分自身で答えをださなければなりません。そのための知的武装力を提供することが、私の著作目的であり、講座なのです。自分で苦労して考える、その中で思考法を身に着ける、これがビジネスや個人の問題解決に生かされると思います。

ご興味がおありの方は、上記のプロトコルからサイトにお入りいただき、お申込みをお願いします。

心理戦とは何か?

▼心理戦の定義 

心理戦はPsychological warfareあるいは短くしてPsywareとよばれる。ただし、これを厳密に訳せば心理戦争ということになる。しかし、第二次世界大戦が終わり、冷戦期が続くなか、「戦争」が忌み嫌われるがごとく、Psychological warfareよりも、Psychological Operationsの方が一般的に使用されるようになった。  

また、1962年の米陸軍の教範(『Dictionary of U.S.Army Terms 1961』)では、両者を次のように定義している。

Psychological Operations:

Psychological activities と Psychological War¬fare を含み敵、敵性、中立及び友好国に対し米国の政策、目標の達成に望ましい感情•態度、行為を起こさせるために計画される政治的、軍事的イデオロギー的行動。

Psychological Warfare:

戦時又は非常事態において、国家の目的あるいは目標達成に寄与するため敵、 中立、あるいは友好諸国に対し、その感情、態度、行為に影響を与えることを主目的として行なう宣伝及びその他の行動の利用についての計画的な使用。

なお、米陸軍はPsychological Warfareをinformation warefare(情報戦争)の七つの形態の一つに位置づけている。

つまり、米陸軍教範の日本語訳では、心理作戦は心理戦を包含した概念であるが、しかし、わが国では心理作戦という用語になじみがない。よって、Psychological OperationsとPsychological warfareを区別して論じる場合には、前者を「心理作戦」、後者を「心理戦」と呼称するこことし、両者を特段に区別して論じる必要がない場合は、たんに心理戦と呼ぶことの方がよいだろう。

また、心理戦を広義に捉えた場合、政治戦、外交戦、思想戦、イデオロギー戦争、国際広報などの類語に置き換えられることもしばしばある。それは、平時であるか有事であるかを問わず、国家は相手側の組織員である人間の心理に働きかけて、自らの立場を有利にしたり、利益を追求する活動を行っており、これが戦争と呼ぶにふさわしい熾烈な戦いになるからである。

ここでは心理戦とは、「広義には国家目的や国家政策、狭義には軍事上の目的達成に寄与することを目的として、宣伝その他の手段を講じて、対象(国家、集団、個人等)の意見、感情、態度及び行動に影響を及ぼす計画的な行為である」と、一応定義することにする。

▼心理戦の重要性の高まり

戦争であれ、ビジネスであれ、相手側に対して精神的に有利に立つことが、目的達成の近道となる。 古代中国では、紀元前四世紀の「孫子」の兵法において、「戦わずして勝つ」ことが最良と説かれたが、これも心理的な圧力形成によっての屈服を強要する心理戦である。

その中で心理戦の効能を端的に表すものが、第七編「軍争」の「三軍は気を奪うべく、将軍は心を奪うべし」であろう。これは、「軍隊から気力を奪えば弱くなり、将軍から心を奪えば勇猛さを失う」という意味である。 つまり、士気を喪失させれば、自ずと戦わずして戦勝を獲得できるということだ。

三国時代においても心理戦が重視された。諸葛孔明(諸葛亮)孔明が南征するとき、馬謖(ばしょく)にどんな策を取るかと尋ねた。馬謖は、「用兵之道、攻心為上、攻城為下。心戦為上、兵戦為下。」と答えた。つまり、兵法の基本は心理戦が上策であり、武力行使は下策であるということである。  

現代のようなICT化時代では、インターネットの普及とともに、心理戦の主体や活動範囲が増大している。 1999年11月の米国シアトルにおけるWTO閣僚会議の時に、経済のグローバル化に反対する大衆が世界各地から集結し、会議場外で過激な行動をとった。この呼びかけ手段は主にネットであった。つまり、大衆が国家組織に対して圧力を掛ける手段を得た。

同年 のNATO空爆作戦では、セルビアはネット上のアニメを使って、NATO軍をナチスになぞらえたり、セルビアから独立を企む武装グループのコソボ解放戦線が麻薬取引に手に染めている状況をプロパガンダしたりした。時のクリントン米大統領やオルブライト国務長官を漫画にして貶めるようなものもあった。

つまり、相手側の〝極悪非道振り〟をインターネット上で配信し、敵対勢力に対する嫌悪感を 国際の大衆に広く扶植した。

最近では、テロリストが心理戦を武器にするようになった。イスラム国が、ソーシャル・メディア上でハッシュタグなどを活用したメッセージの発信や、デジタル技術・音楽を活用した完成度の高い動画を通じ、組織の宣伝や戦闘員の勧誘、テロの呼びかけなどを巧みに行い、多数の外国人戦闘員を魅了したことは記憶に新しい。

▼心理戦はビジネス等でも有用  

国内の政治闘争、ビジネス、個人競争においても心理戦は重要だ。なぜならば、これらの主体はすべて人間であり、相手側を心理戦で屈服あるいは心服させることが、我の希望を叶える近道であるからだ。そのため、心理戦を有利に展開するための理論となる心理学はさまざまな人間活動における武器となっている。

最近では、「ビジネス心理戦」という言葉もあり、これに関する書籍も出回っている。これら書籍では、競合会社に抜きんでる、顧客を魅了する、交渉相手を納得させるなどの秘訣が述べられている。

インターネットの発達によって、企業は活発にPR戦略、マーケッティング戦略などを展開しているが、顧客に「買いたい」「欲しい」「チャンスを逃してはならない」などの心理状態を醸成することが目標である。 心理戦は歴史的には戦場における作戦や戦術の一つとして発達したが、今日ではビジネスにおける研究の方が隆盛を極めている。

だから、国家安全保障に心理戦を活用するうえではビジネス事例が参考になる。ぎゃくにビジネス心理戦においても、戦場から発生した心理戦の歴史や、歴史的に明らかにされた心理戦の特質などを理解しておくことが重要であろう。 (次回に続く)

東アジア情勢の基本構造をみる

最近は、東アジアをめぐる情勢が一段ときな臭くなってきました。

クロノロジーにしてみますと、以下のとおりです。

7/23 ロシア機が韓国竹島の領空侵犯、中露初の合同監視訓練の実施      

7/24 中国「国防白書」発表。米国を激しく批判、尖閣を固有領土と発表するも対日批判は抑制的、台湾統一のための武力行使は放棄せず           

7/25 北朝鮮、ミサイル発射                        

7/26 韓国大統領府、米韓合同演習中止せずと発表             

7/28 北朝鮮、対南宣伝サイト「わが民族同志」で、日韓の軍事 情報包括保護協定(GSOMIA)破棄を韓国に要求

8/1トランプ米大統領、北朝鮮の弾道ミサイル発射試験について、「(短距離なら)問題ない」と述べた 

8/2北朝鮮、日本海に向けて飛翔体2発発射

8/2トランプ米大統領、北朝鮮のミサイル発射に対し、米朝首脳会談の合意に違反せずとの見解を提示

8/5米韓合同演習開始

8/6北朝鮮が日本海に向けて正体不明のミサイル2発を発射

8/9トランプ米大統領、日韓首脳をやゆ、金正恩委員長との関係を誇示

8/10北朝鮮短距離弾道ミサイル2発を発射したと発表。ロシア製「イスカンデル」の北朝鮮版「KN23ミサイルの可能性」

以上のようなことから、米韓合同軍事演習に対して北朝鮮がさかんにミサイルを発射して牽制、トランプ米大統領は金正恩を刺激してこれまでの非核化の成果が水泡に帰さないよう配慮、米大統領は日韓対立を懸念して両国を牽制、日韓は北朝鮮に対する非難もできず、といった状況でしょう。

さらに、その下部構造に目を向けますと、中国、ロシア、北朝鮮が連携して、 米日韓の政治的、軍事的離間工作に着手しているように状況もかいまみれます。こうした背景には、米トランプ政権が発動した米中経済戦争、 日米安保の不公平発言、日韓の徴用工および半導体関連資源輸出規制などをめぐる対立、米朝の非核化交渉への停滞と経済苦境に苦しむ北朝鮮の内情、韓国の経済失速と国内の政権批判の高まり、 中ロのそれぞれの国内事情などが複雑に入り組んでいます。  

こうした複雑な情勢においては、さらに下部構造となる、東アジアの基本構造を押さえておくことが重要 です。まず、(1)中ロは対米において協調するが、長い国境線を接し、中央アジア等の利害対立から同盟関係には至 らない、(2)中ロ米はいずれも朝鮮半島の安定を当面は最優先してい る(変わる可能性もあるが、それはまだ見えていない)、(3)米中は経済相互依存関係から決定的な対立を回避する、とういうものです。

(3)については、最近になって「米中対立は避けられない」を 主張する書籍の出版や専門家の発言が増加しており、意見の分かれるところです。ただし、近代の歴史からみると、米国は中国と直接戦争したこともうありませんし、大戦後にお いてもさまざな対立はありますが決定的な対立を回避してきました。  

つまり、米中関係は波乱や紆余曲折がありましたが、経済のグローバル化などが要因となり、概して安定的に維持されてきたのです。筆者は現段階では、米中対立のシナリオよりも、摩擦を繰り返しながらも対立を回避するシナリオの蓋然性がやや高いと判断します。  

長期的にみれば、ロシアおよび米国との対立を上手に回避した中国はますます強大な存在になる可能性があります。そして、ロシアは人口減少などから影響力が低下して、日本も人口問題等から衰退する傾向が大との見方が一般的です。さらに米国はアジアから後退する可能性もあるということです。

このような基本構造を劇的に変化させるとすれば、やはり北朝鮮の核問題です。北朝鮮は2016年頃から核実験とミサイルを発射を繰り返し、あわや米朝軍事衝突かと懸念されました。しかし、今は2016年以前の情勢に後戻りした感があります。ただし、決定的に違うのは、北朝鮮の核ミサイル能力が格段に向上し、事実上、北朝鮮を核保有国として扱うような既成事実が生じている点です。

われわれは、基本構造、すなわちメガパワーとゲームチェンジャーが何かという視点で国際情勢を見て、わが国の国家戦略や政策の妥当性を判断していかなければならないと思います。

わが国の情報史(38)昭和のインテリジェンス(その14)   日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(4)─       

▼はじめに

さて、前回まで、諜報、防諜、宣伝のお話をした。これに謀略を加えて、秘密戦である。よって今回は「謀略」のお話をすることにしよう。 なお、太平洋戦争開始後においては、実にたくさんの戦史書籍 が出回っており、情報の失敗という切り口でも、さまざまな見解 が存在する。浅学菲才な筆者がとうてい太刀打ちはできるものではない。よって、本シリーズも太平洋戦争開始以前までに留め、あと2 回ちょうど40回をもって終了したいと考えているが、テーマ次第ではもう少し長くなるかもしれない。

▼秘密工作とは何か?

まず謀略を理解するうえで、秘密工作とは何か?について、筆者の著書『情報戦と女性スパイ』(並木書房、2018年4月) より関連記事を抜粋する。

情報活動には以下がある。 ・積極的情報活動は情報を収集(獲得)する活動 ・情報を分析してインテリジェンスを生成する活動 ・情報やインテリジェンスに基づいて公然に行なわれる政策や外 交 ・水面下で行なわれる「カバートアクション」(Covert action、 一般に秘密工作と翻訳される)に区分できる。

さらに収集する活動は、外国の新聞、書籍、通信傍受などから 公然と情報を収集する「コレクション」(Collection)と、専門 の組織によって諸外国の活動を非公然に観察して情報を獲得する エスピオナージ(Espionage)に区分できる。  

カバートアクションには「宣伝(プロパガンダ)」「政治活動」 「経済活動」「クーデター」「準軍事作戦」がある。(ローウェ ン・ソール『インテリジェンス、機密から政策へ』)  

一方の消極的情報活動は、 ・受動的で公然的に情報を守る「セキュリティ・インテリジェン ス」(Security Intelligence)、 ・非公然で能動的に情報およびインテリジェンスを守る活動まで含む「カウンターインテリジェンス」(Counter Intelligence) に区分できる。  

秘密戦士を育成するための旧軍組織である陸軍中野学校では、 秘密戦を「諜報」「防諜」「宣伝」「謀略」の四種類に区分していた。諜報がエスピオナージ、防諜がカウンターインテリジェン ス、宣伝と謀略がカバートアクション(秘密工作)にほぼ該当することになる。  

しかし諜報、防諜、秘密工作には厳密な垣根はない。たとえば、 防諜のためには相手側の動向を探る諜報が必要となる。秘密工作 を行なうにも諜報によって相手側の弱点を探り、我が利する点を 明らかにしておくことが前提となる。 フランス駐留軍総司令部の将校として、第二次世界大戦に参加 した戦史研究家のドイツ人、ゲルト・ブッフハイトは「(情報活 動の)それぞれの専門分野は密接な関係にあるので、管轄範囲を明確に区分しようとすることはほとんど不可能に近い」と述懐している。(ゲルト・ブッフハイト『諜報』)  

秘密工作を情報活動の範疇に含めるべきではないという議論は ある。しかし、これは情報組織による活動がエスカレートする過 程で生まれてきたものだ。秘密工作は非公然、水面下で行なわれ るのが原則だから公式の政府機関や軍事機関は使えない。したが って、CIAやKGBの例をあげるまでもなく、各国においては 情報組織がしばしば秘密工作を担ってきた。伝説の元CIA長官 のアレン・ダレスは、「陰謀的秘密工作をやるには情報組織が最 も理想的である」(アレン・ダレス『諜報の技術』) 以上、抜粋終わり) と述べている。

▼わが国の謀略の淵源  

わが国では秘密工作を「謀略」という言葉で総称することが多い。では、その謀略について国語辞典をひも解くと、「人を欺く ようなはかりごと」と定義し、「謀略をめぐらす」「敵の謀略に 乗る」などの適用例と、「たくらみ、はかりごと・策謀・密某・ 陰謀・秘密工作・欺瞞工作・宣伝工作・プロパガンダ」などの同義語・類語が挙げられている。

また、謀略に相当する英単語は Conspiracy、Plot、Deceptionなどとなる。 謀略は本来、旧軍の軍事用語である。総力戦研究所所長などを歴任した飯村譲中将によれば、「謀略は西洋のインドリーグ(陰謀)の訳語であり、参謀本部のロシア班長小松原道太郎少佐(のちの中将)の手によるものであって、陸大卒業後にロシア班に入 り、初めて謀略という言を耳にした」ということである。  

そして、飯村中将は「日露戦争のとき、明石中佐による政治謀略に関する毛筆筆記の報告書がロシア班員の聖典となり、小松原中佐が、これらから謀略の訳語を作った」と推測している。  

しかし、「謀略」の用例については、1884(明治17)年 の内外兵事新聞局出版の『應地戰術 第一巻』「前哨ノ部」に 「若シ敵兵攻撃偵察ヲ企ツルノ擧動ヲ察セハ大哨兵司令ハ其哨兵 ノ報知ヲ得ルヤ直チニ之ヲ其前哨豫備隊司令官ニ通報シ援軍ノ到 着ヲ待ツノ間力メテ敵ノ謀略ヲ挫折スルコトヲ計ルヘシ」という 訳文がある。  

また「偕行社記事」明治25年3月第5巻の「參謀野外勤務 論」(佛國將校集議録)に「情報及命令ノ傳達 古語ニ曰ク敵ヲ 知ル者ハ勝ツト此言ヤ今日モ尚ホ真理タルヲ失ハサルナリ何レノ 世ト雖モ夙ニ敵ノ謀略ヲ察知シ我衆兵ヲ以テ好機ニ敵ノ薄弱點ヲ 攻撃スル將師ハ常ニ赫々タル勝利ヲ得タリ」という訳文がある。 (なお、上記「謀略」の用例と、偕行記事の訳文については、 『情報ということば』の著書小野厚夫氏から提供を受けた)  

したがって、日清戦争以前から「敵の謀略」という用法はあっ た。ただし、当時の陸軍の知識人として名高い、飯村中将をもってしても「謀略」にあまり馴染がないことに鑑みれば、日露戦争以後になって、謀略という言葉が軍内における兵語として逐次に 普及するようになったとみられる。

▼軍事教典における謀略  

昭和に入り、1925年から28年にかけて作成された『諜報 宣伝勤務指針』において次のように定義された。 「間接或いは直接に敵の戦争指導及び作戦行動の遂行を妨害する目的をもって公然の戦闘若しくは戦闘団体以外の者を使用して行 なう破壊行為若しくは政治、思想、経済等の陰謀並びにこれらの指導、教唆に関する行為を謀略と称し、之がための準備、計画及 び実施に関する勤務を謀略勤務という」  

このほか、『統帥綱領』(1928年)では以下のように記述され ている。 第1「統帥の要義」の6 「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。 宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もま た一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象とし てこれを行ない、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。 殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接な る関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵 の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固に して、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を 講ずるを要す。」

『統帥参考』(1932年)では以下のように記述されている。 第4章「統帥の要綱」34 「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫 せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行ない、敵軍戦力 の崩壊を企図すること必要なり」  

以上のことから、謀略は暴力性、破壊性、陰謀性の要素が大き く、宣伝謀略という複合単語の存在から、宣伝と謀略は一体的に行な ってこそ効果があるという認識が持たれたのである。

▼謀略課の新設  

1937年7月の支那事変の勃発により、わが国は戦時体制へと移行した。しかし、近代戦には必要不可欠とされた宣伝、謀略、 暗号解読、その他の特殊機密情報を扱う機関は、課にすらなっておらず、わずか数人の参謀将校が細々と第2部第4班として、よ うやく存在を保持していた。  

そこで、1937年秋に第4班を独立の課に昇格する案が検討 された。同年11月に陸軍参謀本部及び海軍軍令部をもってその まま最高統帥機関たる大本営が設置され、その下に陸軍部及び海 軍部が設置された。  

参謀本部第2部は大本営陸軍部第2部となり、外国における諜 報機関(特務機関)を臨時増設し、外国における秘密戦を展開することになった。 大本営の設立と同時に第2部に宣伝謀略を担当する課として、 大本営陸軍参謀部第8課(宣伝謀略課)が新設された。支那事変 の早期解決を図るため、参謀本部はこのような課の設置の必要性 に迫られたのである。  

それまでは、各国に駐在する大(公)使館の武官からの報告を唯一のインテリジェンスとしていたが、8課でも独自に国際情勢の判断、宣伝、謀略の3部門を扱うことになったのである。  

初代の第8課長には中国通の砲兵大佐・影佐禎昭(陸士26期) (かげささだあき、最終階級は陸軍中将)が補せられた。なお、 谷垣禎一・元自民党総裁の母方祖父が影佐大佐である。

▼謀略の特質  

ところで、謀略とはどのような特質を有するのか? 謀略とは秘密戦の構成要素であり、それは武力戦と併用されるか、あるいは単独で行使される。  

諜報、謀略、宣伝、防諜が秘密戦と呼ばれるのは、それは秘密の「目的」を持ち、その目的を達成するための「行動」に秘密性 が要請されるからである。 ただし、謀略の場合には「目的」はあくまで秘密とするが、 「行為」は大胆に行なわなければならないことが少なくない。たとえばある秘密目的を達成するためには、物件を爆破・焼却した り、暴動やデモ行進をしたり、暴露宣伝を行なったりする必要がある。  

秘密戦の究極的な目的は、「戦わずして勝つ」ことにある。つまり、武力戦を回避するために、平時においては敵性国家間との力のバランスを確保して、戦争を抑止するとともに、開戦を決意 した場合においては、同盟国間の盟約をより確実なものとすると共に、敵国を孤立さて不利な条件のもとに誘い込む、早期の停戦 合意の契機を作為するなど、知的策謀を働かせることにある。  

秘密戦の「攻」の部分は、諜報、宣伝、謀略からなるが、諜報及び宣伝はあくまで秘密戦の前提行為としての性格を有するのであって、それ自体が独立して存在する戦闘的破砕行為ではない。  

したがって、秘密裡の戦闘においては、まず諜報をもって敵情を明らかにする、ついで宣伝により、我の有利となるよう謀略の正当性と事前に確保し、謀略の効果を助長する基盤を構築する。そのうえで謀略をも って敵を破砕することが原則なのである。 つまり、諜報、宣伝は謀略のための補助手段であって、謀略こそが秘密戦 における主体なのである。    

謀略は遥かに実力が上回る相手には通用しない。この点は歴史的に明らかである。 智慧を働かせて、敵兵力を謀略により次々と破った楠木正成であったが、大兵力を結集した足利尊氏には結局は適わなかった。

日本軍は謀略的な戦いによって真珠湾攻撃で幸先の良いスター トを切ったが、結局は米国の経済力、米軍の物量戦の前には適わなかった。 つまり、謀略は対等もしくは対等より少し上の相手には通用するが、謀略には限界があることを認識しなければならない。 なんでもかんでも謀略に依存するのは愚の骨頂である。

▼わが国の戦後における謀略に対する認識  

戦後になって、わが国では謀略がタブー視されている。日中戦 争が“卑怯なだまし討ち”、すなわち謀略によって開戦され、結局は太平洋戦争 における不幸な敗戦という結末を迎えたという認識がその根底にある。

謀略からイメージされるのが1931年の満洲事変である。 戦後の歴史認識において満洲事変は、「中央の日本政府や軍首脳 の承諾もなく、関東軍中枢の軍人によって計画され、実行された謀略であった」と語られる。  

通説によれば、「当時、関東軍は満洲にある中国軍拠点を攻撃 し、満洲全土を占領して満洲権益をより確実にしようと企んでい た。しかし、政府の承認を得るのは容易でなかったので、満洲鉄 道での爆破事件を作為し、この犯人を中国人であるかのようにでっちあげた。これによって被害者の立場を喧伝し、戦争大義を獲 得した」とされる。  

満洲事変がのちに太平洋戦争へと発展し、敗戦という憂き目に あうことになる。つまり、“卑怯なだまし討ち”である謀略が敗因の最大原因であった、という文脈で語られてきたのである。

だからこそ、謀略は二度と起こしてはならないと強くタブー視 されることには説得力がある。そして謀略を研究することはおろか、謀略を語ることだけでも“危険思想”としてみられかねない。

▼ 謀略の言葉の淵源  

しかし、中国において謀略は卑怯なもの、との認識はない。む しろ、謀略を効率的な戦法、「戦わずして勝つ」ことを実現する、 血を流さないきれいな戦い、「智慧の戦い」として称賛される傾向すらある。 されゆえに「謀略」を冠する書籍が巷に多く流通している。

「謀略」という言葉は中国では古代から用いられていた。もとも と「謀略」という言葉がいきなり登場したのではなく、「謀」と 「略」が異なる時代に登場し、いつのまにか一体化して用いられるようになったようである。なお、中国の『説文大字典』によれ ば、謀の登場は略の登場よりも一千年早く登場したようである。  

同字典では、「謀」は「計なり、議なり、図なり、謨なり」と され、古代ではこれらの言葉は非常に似通った意味で使用された ようだ。『尚書』では謨が登場するが、この字の形と読音が謀と 似通っており、謨が謀に発展したとみられている。   

なお「謀」が中国において最初に使用されたのは『老子』の 「不争而善勝、不言而善応、不召而自来、?然而善謀」である。こ こでも「戦わずして勝つ」という謀略の重要性が説かれている。

そして『孫子』謀攻篇においては、「上兵は謀を伐ち、その次 は交わりを伐つ」と記述され、「謀略」は敵を欺き、「戦わずし て勝つ」ことの意味で用いられた。なお、『孫子』における「計」 「智」「略」「廟朝」、『呉子』における「図」などは謀の別称 といえる。  

中国では古来、才能有徳の士を「君子」と尊称し、その君子が 事前に周密な計画を立てることを「謀」といった。これを政治・ 軍事面で用いた言葉が「謀略」である、との見解がある。  

つまり、謀略は策謀、智謀の代名詞であり、そこには決して卑 怯的な要素はないのである。つまり、中国はどうどうと謀略を実 施し、それは国民から称賛される。そして現在の国際政治におい て、中国は積極的に謀略工作を仕掛けることを得意としているのである。  

▼わが国においても謀略研究は必要

わが国が、謀略の失敗によって敗戦に至ったことは十分に反省 して、二度と無謀な謀略を繰り返してはならない。 しかし、近隣の大国である中国における謀略の解釈等を鑑みれ ば、わが国が謀略をタブー視して、これから目を背ける訳にはい かないだろう。 少なくとも、周辺国等による謀略に対処するための、謀略研究 は必要ではないだろうろうか。

戦争プロバガンダ10の法則で韓国を切る

『戦争プロバガンダ10の法則』とは

『戦争プロバガンタ゛10の法則』は、ブリュセル自由大学・歴史学者のアンヌ・モレリの著作です。

彼女は、1928年ロンドンで出版された、アンサー・ポンソンビーの衝撃的な著書『戦時の嘘』などを参考に、この本を書きました。ポンソンビーは、第一次世界大戦時の英国労働党議員で、イギリスの参戦に反対しました。平和主義者の彼は、「ディリー・メール」紙の社主・ノースクリフ卿の指揮のもとで行われた、第一次世界大戦におけるプロパガンダを分析し、その様相を10項目の法則に集約しました。

モレリは、この10の法則に照らし、ポンソンビーの分析を引用しつつ、第一次世界大戦から現代までの戦争におけるプロパガンダの手口を明らかにしています。

現在、日韓対立が深刻化しつつあり、なかなか着地点がみえません。韓国の言い分は『戦争のプロパガンダ10の法則』さながらです。この「10の法則」に基づき、ざっとみてみましょう。

()は10の法則です。その下記は各種報道から韓国が発言しているようなことを筆者が作文したものであり、実際に韓国側がこれを発言したわけではありません。韓国側のプロパガンダを、「10の法則」で分析することにより、韓国側の発言上の思惑や、今後に仕掛けてくる舌戦の様相を分析、推察しようとするものです。

(1)我々は戦争したくない

我々は日本と対立したくないのだ。先の火器官制レーダー照射事件は“根も葉もない”日本側の捏造であった。徴用工問題は韓国の大多数の人々の情緒に絡む問題であり、司法の判断だ。韓国政府の問題ではないのだ。我々政府は、これまで築きあげた日韓関係を重視して、「より前向きの関係を作ろう」と言っているのだ。

(2)しかし、敵側が一方的に戦争を望んだ

今回、日本が徴用工問題の復讐という卑劣な目的で、一方的に半導体関連物資の輸出規制を行なってきた。これは韓国に対する〝銃声なき経済戦争〟であり、安定した日韓関係を希求するわが国への重大な挑戦だ。

(3)敵の指導者は悪魔のような人間だ

金正恩委員長とトランプ大統領との歴史的な会談をお膳立てしたわが国への嫉妬心から「禁輸措置」に出た安倍はなんと偏狭な指導者であろうか。帝国主義者の安倍は、外交問題を国内政治に理由している。極右勢力結集のためのきっかけが欲しかったのだ。憲法改正して、再びアジア侵略の歴史を繰り返し、アジアの人々を苦しめるであろう。

(4)われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う

我々が守ろうとしているのは自国の利益といった狭小なものではない。自由貿易体制の秩序破壊という日本の挑戦に対して、わが国は世界の代表として断固として戦うというものである。

(5)われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為を行なっている

戦略物資の不正輸出はたしかにある。ただし、わが国は不正輸出を適切に摘発し、管理しているではないか。日本から輸入したフッ化水素が北朝鮮に流失した証拠はないし、ましてや意図的に流失するなどでっちあげも甚だしい。

日本こそ意図的に「韓国が、国連の対北朝鮮制裁に違反した」とのでっちあげにより、わが国の国際的立場を貶めようとしている。なんなら、事実関係を確認するために、国際機関による調査をしようではないか。

(6)敵は卑劣に兵器や戦略を用いている

政治、外交の案件に対して、経済的に優位な立場を利用して制裁しようとしている。誠に卑劣な手段であって経済大国のとるべき対外政策ではない。多くの経済発展途上国は日本の今回の軽率な行動に失望している。

(7)我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大

輸出規制による韓国の被害はむしろ小さいことが分かった。日本の輸出関連企業の被害の方が大きいようだ。韓国は輸入先の多角化と国産化の道を進める。結局は、日本経済に大きな被害を及ぶことを警告する。日本の輸出規制によって世界経済は大損害を被り、日本は経済的、政治的にも世界中に敵を廻すことになろう。

(8)芸術家や知識人も正義の戦いを支持している

我々の毅然とした対応を国民全員が支持している。わが国民は日本の不埒な行動に怒りを覚え、すでに「韓国も日本製の輸入を規制すべき」とか、「日本車などを買うのは辞めるべきだ」との反日世論が沸騰している。我々は、日韓両国の国民が互いに憎しみ合うことは欲していないが、その原因を意図的に作ろうとしているのは日本の方である。

(9)われわれの大義は神聖なものである

自由貿易体制を守る活動は全世界共通のものであり、わが国の主張は尊いものだ。しかるに今回の日本側の挑戦の不当性を国際政治の場で明らかにする。米国やWTOも韓国の正当性を支持するであろう。

(10)この正義に疑問を投げかける者は裏切者である。

わが国の一部保守勢力による軽率な反政府の発言や行動はただちに止めるべきだ。わが国政府の立場を不利にして、日本側を利することになることを理解せよ。わが国民は分裂している時ではない。分裂を画策する者は、国民から「親日派」「土着倭寇」と呼ばれて断罪されても仕方がない。

 

以上、「10の法則」で韓国側の発言および予想される発言を整理してみました。この10の法則は、相手側のブラパガンダの虚構を見破ること、およびわが国の政治宣伝、公共外交(パブリック・ディプロマシー)さらには経営戦略などにも応用できそうです。

わが国の情報史(37)  昭和のインテリジェンス(その13)   ─日中戦争から太平洋戦争までの情報活動(3)─

▼はじめに

これまで、秘密戦の要素である諜報、防諜、宣伝、謀略のうち、諜報と防諜については説明した。今回は宣伝に焦点をあてて解説する。まさに「プロパガンダ恐るべし」である。

▼宣伝という用語の軍事的使用

 宣伝という軍事用語はいつから使用されるようになったのだろうか? 

 1889年に制定され、日露戦争の戦訓を踏まえて1907年(明治40年)に改訂された『野外要務令』では、「情報」および「諜報」という用語はわずかに確認できるが、「宣伝」という用語は登場しない。

 しかし、『野外要務令』の後継として大正期に制定された『陣中要務令』では、以下の記述がある。

第3篇「捜索」第73

「捜索の目的は敵情を明らかにするにあり。これがため、直接敵の位置、兵力、行動及び施設を探知するとともに、諜報の結果を利用してこれを補綴確定し、また諜報の結果によりて、捜索の端緒を得るにつとめざるべからず。捜索の実施にありては、敵の欺騙的動作並びに宣伝等に惑わされるに注意を要する。」

第4編「諜報」第125

「諜報勤務は作戦地の情況及び作戦経過の時期等に適応するごとく、適当にこれを企画し、また敵の宣伝に関する真相を解明すること緊要なり。しかして住民の感情は諜報勤務の実施に影響及ぼすこと大なるをもって上下を問わない。とくに住民に対する使節、態度等ほして諜報勤務実施に便ならしむるごとく留意すること緊要なり。」

 ここでの宣伝は、我の諜報、捜索活動の阻害する要因であって、敵によって行なわれる宣伝(プロパガンダ)を意味しているとみられる。これは、後述のとおり、第一次世界大戦における総力戦の中で行なわれたプロパガンダの様相をわが国も取り入れるようとの思惑が契機になったのであろう。

 「宣伝」がわが国の軍事用語としてより定着するようになったのは、昭和期に入って、『諜報宣伝勤務指針』および『統帥綱領』が制定された1920年代だとみられる。

 1925年から28年にかけての作成と推定される『諜報宣伝勤務指針』の第二編「宣伝及び謀略勤務」では、謀略の定義と共に宣伝について、用語の定義、実施機関、実施要領、宣伝および謀略に対する防衛などが記述されている。ここでは宣伝と謀略が一体的に定義されている。

 同指針から宣伝関連の記述を抜粋する。

 「平時・戦時をとわず、内外各方面に対して、我に有利な形成、雰囲気を醸成する目的をもって、とくに対手を感動させる方法、手段により適切な時期を選んで、ある事実を所要の範囲に宣明伝布するを宣伝と称し、これに関する諸準備、計画及び実施に関する勤務を宣伝勤務という。」

 一方の『統帥綱領』では以下のように記述されている。

第1「統帥の要義」の6

「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象としてこれを行い、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。

殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。」

 1932年の『統帥参考』では以下のように記述されている。

第4章「統帥の要綱」34

「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行い、敵軍戦力の崩壊を企図すること必要なり。」

 以上のように、「捜索」あるいは「諜報」のように敵に対する情報を入手するだけでなく、敵戦力の崩壊を企図する、敵の作戦指導などを妨害する、あるいは我に有利な形成を醸成する機能を強化する必要性が認識され、そのことが「宣伝」を「謀略」ともに軍事用語として一般化したのである。

▼第一次世界大戦における宣伝戦

 心理戦の発祥は古来に遡るが、心理戦の重要性が認識され、組織的かつ計画的に行なわれるようになったのは第一次世界大戦からである。

 1948年に『Psychological Warfare』(邦訳名『心理戦争』)を出版したラインバーガーは、次のように述べる。

 「第一次世界大戦によって心理戦争は付随的な兵器から主要な兵器へと変容し、後には戦争を贏(か)ち得た武器とさえ呼ばれるようになった」

 心理戦の最大の武器となるのが宣伝戦である。よって心理戦はしばしば宣伝戦と呼び変えられることが多い。

第一次世界大戦における宣伝戦の主役は間違いなくイギリスであった。第一次世界大戦が開戦すると、イギリスは1914年8月、ドイツとアメリカ間の海底電線を切断した。当時、無線は使われ始めていたがまだ不十分であり、しかもイギリスが盗聴していた。つまり、イギリスは通信を独占し、アメリカにはイギリスが与える情報しか入らなくなった。

イギリスは独占した通信をもって、ドイツの誹謗中傷報道を流し、ブラック・プロパガンダにより、米国を欧州の大戦に参加させるよう画策した。イギリスの自由党議員チャールズ・マスターマンは1914年9月、戦争宣伝局(War Propaganda Bureau)、通称「ウェリントン・ハウス」を設置する。これは、外務省付属の秘密組織であった。

ここから、イギリス国内向けの戦意高揚施策や、敵国への謀略報道戦が展開された。イギリス外務省は学者、著名芸術家、文筆家を協力者として、ドイツの“絶対悪”をブラック・プロパガンダして、アメリカ人の人道感情を揺さぶり、アメリカを参戦へといざなったのである。

その後、戦争宣伝局は情報局を経て1918年には情報省へと発展し、新聞大手「デイリー・エクスプレス」紙の社主ビーヴァ─ブルック卿が情報大臣に任じられる。この時、ウェリントン・ハウスは解消されたが、主要なメンバーは残った。

また「タイムズ」紙と「デイリー・メール」紙の社主ノースクリフ卿が、彼の屋敷におかれた宣伝機関である「クルー・ハウス」からドイツに対するブラック・プロパガンダを展開した。

 クルー・ハウスは、ドイツの厭戦気運を盛り上げ、ドイツ兵の投稿を促すビラやリーフレットを大量に作成した。これらは気球などによってドイツ、敵陣営、中立国に投下された。

 とくに、ドイツが中立国に侵略して残虐行為を働いたとの虚偽のブラック・プロパガンダが展開された。また、ロイター通信が中立国に対し虚偽記事を配信し、国際世論の反ドイツ感情を煽った。

 アメリカは参戦後、新聞編集者ジョージ・クリールを委員長とする「広報委員会」、通称クリール委員会を発足させた。同委員会はイギリスと同様に新聞、パンフレットなどにより、反ドイツ感情を煽った。また、アメリカでは反ドイツ映画が作成された。かのチャップリンも反独映画の作成に協力した。

▼第一次世界大戦後のドイツ

第一次世界大戦後、宣伝戦争においては英国がドイツに圧倒的に有利であったことが明らかとなった。英国の宣伝を最も評価したのがヒトラーである。彼は『わが闘争』において、ドイツが英国の宣伝戦から学ぶべきである、とした。

ドイツでは1933年1月にナチスが政権を握ると、ただちに国民啓蒙・宣伝省を創設した(1933年3月)。ナチスで宣伝全国指導者を務めていたヨーゼフ・ゲッペルスが初代大臣に任命された。ゲッペルスは3月25日に次のような演説を行なっている。

 「宣伝省にはドイツで精神的な動員を行なう仕事がある。つまり、精神面での国防省と同じ仕事である。(中略)今、まさに民族は精神面で動員と、武装化を必要としている」

まさに宣伝戦が武力戦と同等の地位を占めるに至り、宣伝戦が国際社会を席巻する火蓋となったのである。

▼わが国が対外文化交流を推進

第一次世界大戦終了後の5月4日、わが国は北京において五四運動に直面することになる。これは、パリ講和会議(1919年1月)で、「日本がドイツから奪った山東省の権益を返還せよ」という中国の巧みな宣伝によって、山東省の権益返還が国際承認されたことに端を発している。

こうしたことから、わが国は国際宣伝の重要性に対する認識を高め、1920年4月、内外情報の収集・整理や宣伝活動を行なう「情報部」を設置(1921年8月)した。このほか、「国際通信社」や「東方通信社」といった対外通信社の強化を図った。また中国における対日感情を好転すべく、文化事業に力を入れた。

1930年代、ドイツが「ゲーテ・インスティトゥート」(1932年)、イギリスが「ブリティシュ・カウンセル」(1934年)を創設するなど、主要国が対外文化組織を設立するなか、わが国も1934年に財団法人・国際文化振興会を設立した。

同振興会は、メディア研究やプロパガンダ研究により、諸外国の文化交流を通じた親睦を深めて、対日国際理解を推進することが目的であった。文化人などの講師を海外に派遣・招聘し、日本文化の理解の普及につとめた。ニューヨークにはその出先機関として日本文化会館が置かれた。また1935年には日本放送協会による海外向けラジオ放送が開始された。

しかし、日中戦争以後の国際情勢が緊迫化すると、穏やかな「国際交流」という様相は脇に追いやられ、国内外に対するプロパガンダが重視されるようになる。

▼情報局の設立

第一次世界大戦当時、プロパガンダという言葉にまったくなじみのなかった日本は宣伝戦に大きく後れをとった。日本の新聞や雑誌にプロパガンダという言葉が現れるのは、1917(大正6)年以降である。(小野厚夫『情報ということば』)

上述のように中国の抗日宣伝に翻弄されたことや、第一次世界大戦における総力戦思想の跋扈に触発され、強力な情報宣伝の国家機関を設立しようとする動きが軍部などに生じ、陸・海軍や外務省では宣伝活動を展開する機関が設置されるようになる。

外務省は1921年8月に情報部を設置した(事務開始は1920年3月から)。他方、陸軍省は1920年1月に陸軍新聞班(1937年に大本営陸軍報道部、38年に陸軍省情報部、40年に陸軍報道部へと改編)、海軍省は1923年5月に軍事普及委員会(1932年に軍事普及部と改称)を設置した。

満洲事変以後、日本を非難する国際世論の高まりに対して、外務省は内田康哉外務大臣の下で対外情報戦略を練り直すことになった。1932年9月、陸・海・外務による情報宣伝に関する非公式の連絡機関「情報委員会」が設置された。これ以後、「情報宣伝」という複合語が盛んに用いられるようになる。

満洲事変による国際対日批判を払拭するため、日本は自らの立場を世界に訴え、国際理解を増進させる方針を選んだ。そこで武器となるのが世論を形成する新聞、その新聞にニュースを提供する通信社であった。

しかし、当時は電通(1907年設立)と聯合(1926年誕生)が激しく競争していた。1931年の満洲事変の発生では、陸軍をバックにつけた電通の一報は、事変発生後わずか4時間で入電し大スクープとなった。

両通信社による激烈な取材競争により、両社ともに経費が膨れ上がり、報道内容にも食い違いが生じた。このため政府部内や新聞界で両社を統合しようという機運が高まり、1936年(昭和11年)1月、同盟通信社が発足した。

1936年7月1日、非公式の連絡機関「情報委員会」を基に各省の広報宣伝部局の連絡調整や、同盟通信社などを監督する目的で「内閣情報委員会」が設立された。

1937年9月25日、連絡調整のみならず各省所管外の情報収集や広報宣伝を行なうために、内閣情報委員会は「内閣情報部」に改められ、情報収集や宣伝活動が職務に加えられた。

1939年、「国民精神動員に関する一般事項」が加わり、国民に対する宣伝を活発化させ、それを担うマスコミ・芸能・芸術への統制を進めた。

1940年12月6日、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課、以上の各省・各部課に分属されていた情報事務を統一化することを目指して、内閣直属機関である「情報局(内閣情報局)」が設置された。

情報局には総裁、次官の下に一官房、五部17課が置かれた。第一部は企画調査、第二部は新聞、出版、報道の取り締まり、第三部は対外宣伝、第四部は出版物の取り締まり、第五部は映画、芸術などの文化宣伝をそれぞれ担当した。職員は情報官以上55名、属官89名の合計144名からなった。

しかし、陸軍と海軍は、大本営陸軍部・海軍部に報道部を設置したほか、陸軍報道部、海軍省軍事普及部の権限を委譲しようとはせず、情報局は内務省警保局検閲課の職員が大半を占めて、検閲の業務を粛々遂行し、宣伝活動において目立った成果はなかったのである。

(次回に続く)

エルニーニョ現象がある商品を値上げした

新著が好評

筆者の新著『武器になる情報分析力』が、発売されてⅠか月以上がたちますが、おおむね「アマゾン軍事ランキングの10位以内につけています。

『武器になる情報分析力』

 ⇒ http://okigunnji.com/url/36/

メルマガ「軍事情報」寄稿者の石原ヒロアキさんの『漫画クラウゼヴィッツと戦争論』(清水多吉監修)とともに、ご愛読のほどよろしくお願いします。

『漫画クラウゼヴィッツと戦争論』

 ⇒ http://okigunnji.com/url/51/

バタフライ効果とは?

 さて、軍事ランキングが上位を維持することは本自体の魅力もさることながら、その急上昇には原因があります。著名な方が著書紹介ブログを書いてくださる、出版社などからの新聞広告が掲載されるなどです。つまり、そこに原因と結果の関係があります。

 2019年6月28日から29日に行われた大阪G20明けの株価が上昇しました。これは簡単ですね。米中両首脳が貿易協議の再開をさせることで合意したことが原因となり、結果として株価が上昇しました。

 でも、世の中には原因と結果が容易にわからないものがあります。皆さんは、「バタフライ効果」をご存じですか?

 これは、「ブラジルで蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか?」というもので、非常に些細な小さなことが、さまざまな要因を引き起こし、だんだんと大きな現象へと変化することを指す言葉です。日本の「風吹けば桶屋屋が儲かる」という諺のようなものです。

 実際には、蝶の羽ばたきとトルネードとの因果関係はありませんが、ちょっとしたことが、のちに大きなことを引き起こすことは多々あります。

 そのちょっとしたことを重大事項の兆候として感知できるかどうか、つまり、その兆候が単なる一過性の事象ではなく、大きなトレンドの上に成り立つ事象であって、他に影響を及ぼす「ドライビングフォース」となり得るかどうかを見極めることが重要です。

エルニーニュ現象の影響とは?

1972年にチリの沖合でエルニーニョ現象が発生しました。さてわが国では何が起こったでしょうか? 

実は豆腐が値上がりしたのです。

つまり、エルニーニョという海流の変化でカタクチイワシが捕れなくなった。それまでカタクチイワシは鳥や家畜の餌になっていた。それがなくなったので大豆を買う。それで日本への大豆の輸入が減って、豆腐が値上がりをしたのです。

 仮に、この因果関係にいち早く気づいたとすれば、株や先物取引でで大儲けができたかもしれません。物事を広く知っている、一片の兆候が何に影響しているか、何を引き起こすのかなど想像的に考える習慣を身につけると、困難といわれる未来予測の精度がほんの少し上がる。このほんの少しが、他の人をリードするのではないでしょうか。

米国において「なぜ犯罪率は減ったのか?

 『武器になる情報分析力』では、1990年代初頭の米国において「なぜ犯罪率は減ったのか?」という問題を扱っています。

この話は以前の本ブログ「因果関係は意外なところに!」で取り上げましたが、ここでもう一度同記事を抜粋します。

1990年代初頭の米国の事例をあげましょう。当時の米国では過去10年間、犯罪を増える一方でありました。専門家は、今後はこれよりも状況は悪くなると予測しました。しかし、実際には犯罪が増え続けるどころかぎゃくに減り始めてしまったのです。すなわち、未来予測を誤ってしまったのです。

「なぜ犯罪率は減ったのか?」という質問に対して、「割れ窓理論」に基づく警察力の増加や厳罰化、銃規制、高景気による犯罪の減少などの仮説があがりました。 しかし、そのような対策を行っていないところでも犯罪は減ったのです。

そこで調査したところ、予想もしなかった因果関係が明らかになったのです。それは「中絶の合法化」でした。 この因果関係を簡略化して示すと次のとおりです。貧しい家庭→未婚の女性の妊娠・出産が増加→貧困による子育て放棄、虐待、教育放棄→未成年者が犯罪予備軍→犯罪の増加でした。

当時の米国では長らく妊娠中絶は違法でした。 しかし、米国では1960年以降、性の解放の観点から、シングルマザーや中絶も1つの選択肢とされました。そして、歴史的に有名な1973年の「ロー対ウェイド判決」で、最高裁は7対2で憲法第14条に基づき、中絶禁止を憲法違反であると判定しました。 すなわち人工中絶法が設定されたのです。

つまり、この時期以降、貧しい未婚家庭に育った妊娠女性が子供を産まなかっくてもよくなったのです。その結果、1990年代に若者の犯罪予備軍が減り、犯罪率が減り始めたのです。

 常日頃から問題意識をもって観察力を磨く、本質を見抜く洞察力を鍛えることで、真の原因を探り、そして近未来予測が少しばかり可能になるということではないでしょうか。