今年の朝刊各紙のトップ記事の見出しに思う

以下は、1月1日朝刊各紙の1面トップ記事の見出しです。皆様は、「どれが、どの新聞」なのか、わかりますか?

①中国「千人計画」に日本人

②脱炭素の主役 世界競う

③民主主義が消えてゆく

④吉川氏に現金 さらに1300万円

⑤戦前の東京鮮やかに

①が読売新聞、②が日経新聞、③が産経新聞、④が朝日新聞、⑤が東京新聞です。

「日経新聞」はカーボンゼロの話です。日本も昨年末、2050年までに二酸化炭素(CO2)など温暖化ガスの排出を実質ゼロにすると宣言しました。グローバルイシューを取り上げ、未来視線の新年らしい良い記事であると私は思いました。

「東京新聞」も地域性を特色とした面白い記事です。

それにしても、朝日新聞は新年早々から元政治家の献金問題とは。重要なテーマだとは思いますが、正月記事としては私は少し・・・・・です。

最近は見出しだけだ見ると、どちらが「読売新聞」か「産経新聞」かわかりませんね。両社の主張がだんだんと似通っているように思うのは私だけでしょうか。

①も③も中国脅威論が根底にあります。①は、世界レベルの理工系人材1000人を破格の待遇で国外から引き抜き、中国の経済発展に貢献させるのが狙いで、2008年から始まった国家プロジェクトのようです。

そう言えば、1990年代には、中国が海外人材を呼び戻す「百人計画」というのがありました。「千人計画」の方も対象者数はとっくに千人を超えているようですので、「万人計画」もまもなく(?)の勢いですね。

ただし、中国脅威論は認識する必要はありますが、わが国の研究開発の停滞振りに、より問題の本質があるのかも知れません。最近の研究開発費の伸び率は日本が3%に対し、中国は48%とのデータがあります。研究者数も、ここ20年間、日本が70万人程度で推移しているのに対し、中国は180万人まで急増してきたようです。

③は中国の権威主義が自由と民主主義の脅威となり、最前線のインド太平洋で「米国一強」は揺らいでいるという内容の記事です。

さて、まもなく米国では新政権が開始されます。米中関係はどうなるのでしょうか? 権威主義と自由・民主主義のせめぎ合いの中で、日本は自ら先頭に立ってインド太平洋での自由・民主主義の価値を守る方針を打ち出すのでしょうか?

「千人計画」の推進で、我が国の科学技術や高度な秘密情報が中国に流出し、中国による「軍民融合」政策のもとで安全保障上の脅威が増大しているとの指摘に、わが国はどのような具体的な答えを出すのでしょうか?

コロナ禍の終焉が見えない中、菅政権の舵取りには波乱も予想されますが、どうか我が国の国営擁護のために頑張っていただきたいと思います。

あけましておめでとうございます。

皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

昨年は私の諸般の事情がありましてブログを中断していましたが、今年は再開します。昨年はコロナ禍に見舞われましたが、雑誌取材や講演依頼などはほぼ順調でした。どうもありがとうございました。

これも、一昨年に出版した『武器になる情報分析力』と『未来予測入門』の効果のようです。昨年は、私の環境変化などで一冊も新刊を出版できなかったのですが、今年はなんとか一冊は出版したいと考えています。

四五年来の書き溜めたものをすでに整理していますので、出版もまもなくだと思います。その節には、このブログでご紹介させていただきますので、ご贔屓に願います。

今年はスマホを利用して、外出先などで気軽に近況ブログなどを書き、その後、自宅で時々修正(更新)したいと思います。

皆様、今年一年よろしくお願いします。

わが国の情報史(47) 秘密戦と陸軍中野学校(その9)

-陸軍中野学校の曲解を排斥する-

▼中野学校の過大評価は禁物  

 ともすれば、戦後の中野学校に関する映画などの影響により、同校が「秘密戦士のスーパー養成機関」のようにもてはやされる。さらに中野学校を謀略機関のように扱い、中野学校が学生を教育して謀略に差し向けたかのような誤解さえ生じている。中野学校は教育機関であって、謀略機関ではないし、特務機関でもない。  

 また戦後になって「中野学校の設立が10年早ければ」とよく回顧されたようである。しかしながら、この評価についても、もうすこし冷静に判断しなければならない。  

 8丙の加藤正夫氏は自著『陸軍中野学校 秘密戦士の実態』の中で、「歴史に『もしも……』ということはありえないが、陸軍中野学校の設立が昭和13年ではなく、それより10年早い昭和3年であったら、大東亜戦争の日本のあのような敗北はなかったのではないかとの見方もできる」と述懐している。  

 加藤氏の見解を整理してみよう。

・中野学校出身者の主流は普通の大学、高等専門学校出身者であり、柔軟な思考法で戦争に対処し、武力戦で強引に勝つこととのみは考えず、秘密戦によって難局打開を目指していた。  

・しかしながら、1期生の陸軍での最高階級は少佐であり、軍部内での影響力はなかった。  

・仮に、昭和3年であれば、将官クラスをも輩出し、軍内での影響力を有したであろうし、世界情勢を正確につかみ、正確に判断することを常に心がけていた中野学校出身者であれば、秘密戦による早期和解も可能であったであろう。  

 筆者は、これも客観的根拠のない中野学校への過大評価である。

 当時の陸軍内においては陸軍大学校出の作戦将校が幅を利かせ、同じ陸大出でも情報将校は軽視された。さらには陸軍内では東條英機率いる「統制派」あるいは「親独派」が幅を利かせ、海軍内部においても陸軍を北進から南進へと転換させ、対英米決戦に持ち込もうとする派閥もあった。 松岡洋介外務大臣も親独派で、それに追随する外務省幹部も対英戦争を指向した。  

 このように1920年代から30年代にかけてのわが国は、国家全体として戦争遂行の道を歩んでいたのである。わが国の世論の全般も戦争を支持する趨勢にあった。  ようするに、軍内では官僚主義が蔓延(はびこ)り、国家全体が戦争賛美にかられていた。中野学校がもう10年早くできようが、そしてリベラルな一般大学での卒業生が将軍ポスト就任しようが、作戦重視、親独主義という牙城を崩すことは容易ではない。  

 中野学校は「替らざる武官」を養成するために設立された。当時、情報戦に後れをとっていたわが国であったが、起死回生とばかりに中野学校の期待する者は、陸軍参謀本部のロシア課などを中心とする一部であって、陸軍参謀本部の総意ではなかった。

 たしかに当時、秘密戦の重要性に対する認識は高まったが、それも、しょせんは「“縁の下の力持ち”的な、割に合わないことはやりたくない」とする陸大出の作戦将校あるいは情報将校などのエゴにすぎなかったのではなかったのか?  

 当時の諸外国では、情報将校としてずっと同じ場所で外国勤務を続けて昇進していたという。しかしわが国の官僚制度が同一の補職や同じ勤務地では昇任条件を満たさなかった。むしろ、「替らざる武官」を新たに養成するより、官僚制度の弊害を改める努力はしなかったのか?ここにも疑問が残る。  

 ひるがえって明治の時代においては、陸大を出ずにほぼ情報一筋で海外勤務を続けた柴五郎は大将まで昇任した。桂太郎も最初は情報将校であり、川上操六参謀総長は情報将校を優遇した。この点は教訓にならなかったのか?  

 日清・日露戦争における勝利は、縁の下の力持ちに徹した情報将校の活躍があったと思われる。しかし、情報活動というか、秘密戦というものは目に見えないから、評価が難しい。あの明石大佐でさえ、情報関係者からは絶大の評価が与えられたが、凱旋帰国はなし、その復命書はホコリ塗(まみ)れ、という状態で決して評価は高くなかった。  

 結局、日清・日露の勝利の手柄は、声の大きい作戦将校に持っていかれ、情報将校やその関係者は隅におかれ、やがて情報の軽視が始まったのではないか? 『孫子』がいうように情報を成果が見えにくいので、最も手厚く報いなければならなかったが、その原則がわが国には確立できなかったのではないか?  

 この点、織田信長が今川義元を桶狭間で破った時、信長は、功名第一は、「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」と義元の居場所を伝えた梁田政綱(やなだまさつな)、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。 すなわち、我が国は日本史から学ぶ貴重な戦訓も忘れて、日清・日露の戦争にうかれた。  

 ソ連はKGB出身者が大統領になる国である。そこには、民族と地勢、そして宗教が複雑に交錯した国境線を持ち、内乱や革命を経験した情報重視の伝統が生き続けている。しかるに、わが国のような島国国家にはなかなか情報重視の気風は育たない。

 この弱点を真に認識し、国家上層部が真にインテリジェンスの重要性を理解し、情報重視の気風を育て、人材育成に予算を重点配分しなければない。でなければ、どのような時代に中野学校、いや第二の中野学校ができようとも、たいした影響はないのだと考える。  

 中野学校のスーパー性を風潮することで満足して、本質を忘れて、思考停止に陥ってはならないのである。

▼中野学校に関する曲解が横行  

 戦後になって中野卒業生がわが国において暗殺や毒殺、拉致などを働いたなどの記事が書籍や雑誌に掲載されることは多々ある。誤解ならぬ、意図的な曲解である。  

 たとえば、元公安調査庁第2部長の菅沼光弘氏の著書『ヤクザ説妓生(キーセン)が作った大韓民国-日韓国戦後裏面史』(2019年2月、ビジネス社)には、中野学校出身者が金大中拉致に関わった旨が書かれている。 しかし、これには根拠といえるようなことはなにもない。  

 また、2015年4月の雑誌『ムー』(学研パブリッシング)に「陸軍中野学校極秘ファイル:終戦直後、スパイが画策した恐るべき謀略 禁断のマッカーサー暗殺計画」と題する斉藤充功氏の記事が掲載されが、これも信憑性に欠ける。  

 さらに過去に遡れば、わが国の帝銀事件や下山事件などの歴史的事件にも、中野学校出身者の関与を匂わせるような文脈があるが、これも説得力はない。これらに対しては、すでに中野学校関係者などによる論駁がなされているので、ここでは詳細は避けたい。

▼曲解の第一は、中野学校に対する認識不足  

 こうした事件や謀略に対する中野学校の関与説を振り回す原因を考えてみれば、第一に中野学校に対する認識不足があげられる。 中野学校は秘匿された存在であったので、のちに中野学校の映画が制作された際、中野学校に隣接する憲兵学校出身者が自分たちのことを世間が中野学校出身者だと信じ込んで、撮影のアドバイザーになったとの、笑えない“笑い話”もある。  

 中野学校はまず謀略機関ではないし、たとえ中野学校出身者が特務機関に配備されたとしても、その行動の主体は特務機関であって中野学校ではない。これに関しては、当時の陸軍の軍事制度や教育制度に対する認識不足を改める必要があろう。  

 また、中野学校において“007的”な技術教育が行なわれたことも事実ではあるが、これまで述べたとおり中野学校で最も重視されたのは「誠の教育」であった。  

 筆者は、中野学校を研究して創設者の秋草氏などの思想の一端に触れ、国体学を教育した吉原教官の思想に思いを馳せるようになって、中野卒業生が、安易に謀略に手を染めたなどは信じられなくなったし、また信じたくもない。  ただし、「やっていない」ことを証明することは「悪魔の証明」といって不可能であるので、そこに勝手解釈なストーリーが蔓延ることになる。  

 そして、戦後の映画などに登場した盗聴器、マイクロカメラ、隠しインクなどの秘密戦器材や、時限式爆弾、毒ガス、開錠、暗号解読、変装などの秘密戦技術を使用した訓練状況などが、観客を引き付けるストーリー性を持った。 このことで中野学校=スパイ学校、さらには秘密戦実行機関、中野学校卒業生=スパイという認知が短絡思考によって行なわれた。  

 映画などでも「誠の教育」については強調しているが、視聴者はどうしても、わかりやすい、短絡的思考による認知へと向かわざるを得なかった。 ようするには、誠の精神教育の存在を無視して、上述のような点ばかりに注目して表層的かつ断定的な判断をしていては、なんらの教訓を得ることもできないのである。

▼中野学校を封印したことも原因  

 第二に、書籍など販売数を上げるための商売主義や、あるいは自分に注目させる売名行為から、意図的に中野学校を面白おかしく語る輩もいる。これについてあまり触れたくもない。  

 第三に、「中野学校関係者は黙して語らず」を信条として、さまざまな誤解や風説に異議を唱えてこなかった。  戦後は自虐史観が蔓延り、たとえば自衛官でも堂々と身分を名乗ることも躊躇される時代が続いた。ましてや秘密戦という、崇高であるものの、その一方で残虐性を帯びた任務に従事した秘密戦士について語ることが憚(はばか)れたのも致し方のないことである。 しかし、世の中が情報化社会になるにつれ、誤った情報は氾濫するし、容易に入手できる。他方、真実の情報は、結構、「なんだ、そんなことか!」というのが多いので、面白さに欠けてなかなか伝わらない。  

 情報化社会のなかでは、黙っていては負ける。たとえば、中国や韓国が声を大きくして嘘も喧伝したとする。それに反駁しなければ、嘘は真実になる。沈黙は金、ではないのである。

▼筆者の認識不足を大いに反省する  

 筆者は2016年に『戦略的インテリジェンス入門』を上梓した際、佐藤優氏と高永喆氏の共著『国家情報戦略』を引用して以下の記述を行なった。

「終戦後、北朝鮮は現地に残った中野学校出身者を利用してスパイ工作機関を設立していたという。これに関しては、元韓国軍の情報将校であった高永喆は佐藤優との対談において『国防省の情報本部にいた時、北朝鮮のスパイ工作機関が優れた工作活動をしているのは日本帝国時代の陸軍中野学校の教科書を使ってスパイ活動のノウハウを覚えたからだ、と教育されたことがある』との逸話を紹介している」  

 その後、中野学校出身者の親族から構成される「中野二誠会の代表者の方から、筆者は次のメールをいただいた。

「大戦後の中野学校出身者と北朝鮮との関係を結びつけるような事実はいっさい確認できていません。中野学校では教科書を使う授業の際には授業後すべて回収していたと聞いています。しかも敗戦前夜までにすべて焼却したようです。戦後、間違えて卒業生の実家宛のコオリに混入していて見つかった例や、陸軍省のある人物が隠し持っていた教本が出てきた例があるのみです。つまり『陸軍中野学校の教科書』なるものは存在しません」(増刷本では訂正した)  

 高氏がどのような根拠で上述の話をしたかは定かではないが、今日は、中野学校に対する誤った風説があまりにも多く流布している。 筆者も、そうした誤った風説を拡散してしまった。元陸上自衛官で情報に従事していた者として恥ずかしいし、中野学校関係者のみならず、さまざまな読者にご迷惑をおかけし申し訳ないと思っている。  

 「中野学校は黙して語らず」によって恣意的な中野文書が氾濫している。それに対する批判が対外的に行なわれなかったことが曲解を野放しにしていることの原因でもあろう。 慶応義塾大学の「慶応義塾大学メディア・コミュニケーション研究所」の都倉研究会の現役学生が、「陸軍中野学校の虚像と実像」という調査研究を行なっている。その論考集における学生の真摯な研究態度と客観性に配慮した分析は称賛に値する。こうしたテーマに関心を持つ学生諸氏と指導教官に深甚なる謝意を送りたい。  

 最後に申し述べたい。 「わが国の情報史」の連載は、これをもって終了するが、筆者が最も伝えたかったことは、由緒正しき日本の文化、伝統、誠を愛する日本人としての良質なDNAが、明治、大正、昭和、平成、令和へ、戦争のあるなしにかかわらず連綿として伝えられているということである。  

 日本を愛する、愛国心をすててしまったら、真実は見えなくなる。  そして情報、すなわちインテリジェンスを軽視する国は亡ぶ。だから、国家、国民のインテリジェンス・リテラシーを高めることが必要である、ということだ。  そのためには歴史勉強が必要である。その際には、さまざまな説を受け入れる柔軟な思考力と、それを批判的に論駁する二律背反的な思考力を常に持たなければならない、ということである。(おわり)

わが国の情報史(46)  秘密戦と陸軍中野学校(その8)    

-陸軍中野学校の精神養育、国体学-

はじめに

前回は中野学校卒業生に求められる精神要素について解説したが、今回はそのための精神機育、すなわち国体学について解説する。

▼吉原政巳教官による国体学とは

 第1期生から国体学の授業は行われたが、第2期生の途中からは吉原政巳教官が中野学校に赴任し、1945年8月に富岡で閉校になるまで吉原が本校での国体学の教育に携わった。  

 吉原は中野学校に来てくれないかとして勧誘された時、若干30歳(満で29歳)であった。そこで、彼は己れの未熟さを自覚したうえで全軍から選り抜きの中野学校の秀英を国士として養成する任務の重さを認識し、教育を引き受ける上で、以下の3つの提案を行った。

 1)楠公社(なんこうしゃ)を建て、朝夕ここに詣(もう)で、楠公の忠誠を偲(しのぶ)と共に、自分の魂を省察点検できるようにする。

 2)記念館(室)を設け、明治以来の先輩、秘密戦士の遺品・遺影、その他の関係資料を掲げて、ここに講堂をあてる。  

 3)単に講堂の授業で終わらず、国事に殪(たお)れた先烈の士の遺跡を訪ね、現地で精神的結晶の総仕上げを試みる。        (吉原『中野学校教育-教官の回想』)   

 以上の3つは、学校当局の賛同を得て関係者の並々ならぬ実現に向けた努力が払われた結果、予算化がなされ、めだてたく完全実施に至った。

▼楠木正成、大江氏から「孫子」を学ぶ

 楠公(なんこう)とは鎌倉時代の武将・楠木正成のことである。彼は1334年の「建武の中興」の立役者である。 当時、鎌倉幕府の長である北条高時を打倒し、天皇の権限を強化しようと後醍醐天皇が立ち上がった。そこに馳せ参じたのが、忍者の系統を持つ「悪党」のリーダー、河内の土豪であった正成であった。

 正成は、農業や商業に従事する500騎の地侍を率い、智謀を駆使して圧倒的に優勢な幕府軍に立ち向かった。そこには「孫子」の兵法を応用した悪党流のゲリラ戦法が発揮された。 正成に「孫子」は伝授したのは大江時親(ときちか、毛利時親ともいう)であるとされる。

 大江家は世々代々、兵法書を管理する家柄であった。中国からわが国に伝来した「孫子」などは、「人の耳目を惑わすもの」として大江家が厳重に管理していたのである。 大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)は930年頃に唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰った。

 大江家はこれらのほかに『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』などを門外不出の兵法書として管理した。 大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えた。兵法を伝授された義家は「前9年の役」(1056~1064年)、「後3年の役」(1083~1086)で奥羽の安倍氏を討伐した。 その後も「孫子」は大江家によって厳重に管理され、第42代の時親が、河内の観心寺で楠木正成に「孫子」の兵法を伝授したとされる。

▼正成に伝えられたもう一つの兵法

 正成が後世において敬仰されるようになるのは、「孫子」に裏打ちされた智謀だけではない。 後醍醐天皇のために殉死した湊川(兵庫県神戸市)における正々堂々の戦いや、「七生報告」(何度生まれ変わっても国のために尽力する」という意味)にみられる主君に対する忠誠心が人の心をとらえて離さなかったのである。

 正成は足利尊氏の軍に敗れて、「七生報告」を誓って、弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自刃した。 こうした正成の忠誠心滅は「兵は軌道である」と説く「孫子」の解釈では説明できない。 実は、そこには匡房が確立した、わが国古来の兵法書「闘戦経」の教えがあった。匡房は「孫子」は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識した。

 そこで自ら「闘戦経」を著し、「孫子」を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いたとされる。 大江時親が楠木正成に観心寺で兵法を伝授した時、同時に「闘戦経」も伝授したと伝えられている。つまり「孫子」のわが国風土における欠落を「闘戦経」で補完したわけである。それが楠木流兵法であった。

  「闘戦経」の特徴のひとつが、戦いに勝つために、戦場における「兵は軌道なり」はあってもよいが、戦略上はすべて謀略に頼るのではなく、時には正々堂々とよく戦うことも重要である、という点である。 こうした教えの下で「湊川に戦い」において〝負け戦〟と分かっていながら、尊氏軍に対する16度の突撃が繰り返されたのである。

▼楠木正成への敬仰

 正成の忠戦は、その死後からわずか35年後に著された『太平記』によって描かれている。 吉原は、「『太平記』は正史ではなく、記事の資料にも難があるといわれる。しかし、虚実を超えた真ともいうべきものを、強く人に訴えてやまない書であり、当時の公卿から武士、庶民にいたるまで、広く読まれて、日本人の心の中に、深く影響を残してゆくのである」(吉原『中野学校教育―教官の回想』)、と述べている。

 ようするに、史実であるかどうかということよりも、いかにのちの日本人の精神や生き方に影響力を与えたかがより重要なのである。むしろ、それを知ることが歴史の本質だと筆者は考える。 約100年後の1467年には『太平記評判』が著され、正成は兵法の神様として国民の間に尊敬を高めていく。当時、足利幕府は正成を朝敵として扱っていたが、正成の死後223年(1559年)にして、その後裔の楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願した。

 朝廷がこれを認め、正虎を河内守に復し、正五位下に除した。 江戸時代になり、水戸光圀などにより正成を敬仰(けいぎょう)する動きが全国的に起こり、楠木精神は「武士道」精神のなかに浸透していった。そして、幕末の吉田松陰を通じて志士へと受け継がれ、倒幕の精神的原動力になった。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年(明治13年)、の明治天皇御幸の際、正成は正一位を追贈された。

▼楠公社建立の願意  

 吉原は正成を秘密戦士の理想像とした。吉原の要請を受けて、学校当局者が楠公社の設立許可を陸軍省から得て、学校から派遣した使者によって湊川神社から分霊(わけみたま)が運ばれ、学内に公社が建立された。 楠公社建立の願意は、次のとおりであった。

1)醇乎(じゅんこ、混じりけのない)たる日本人の代表としての楠公を祀り、日夜その遺烈を慕い学ぶ。

2)うぶすなの神(筆者注:生まれた土地を守護する神)とし、われ等が魂の誕生を告げ、且つ生涯に亙(わた)って、ここに魂のふるさとを持つ。

3)中野学校卒業戦没殉職者を配祀し、永くこれら英霊との語らいを続け、遺烈を継承する。

4)奇策縦横の智謀を学ぶべし、大敵・大軍にたじろかぬ不適の大勇学ぶべし、そしてそれらが由って発する所の、至忠至純の精神に、最も学ぶべし。

▼記念室での正座と座禅  

 記念室には身近い先覚の遺影をかかげ、先覚の遺品が展示された。また図書室には、できるだけ多くの関係図書が揃えられた。日清戦争前における民間有志の奮起や東亜同文会などの活躍を描いた『東亜先覚志士記伝』、日露戦争時の『明石元二郎伝』、菅沼貞風の『新日本の図南の夢』などがよく閲覧された。  

 先覚の遺影には、日清・日露戦争時に大陸で情報活動に従事した、荒尾静、根津一、岸田吟香、浦敬一、菅沼貞風、沖禎介、横川省三らのほか、中野学校における秘密戦士の理想とされた明石元二郎の遺影がかかげられた。  

 記念室は畳敷きであり、ここを講堂として学生は各人が小さな机に向かって、座布団なしで正座し、国体学の教育を受講した。すなわち、吉田松陰が塾生に講義するスタイルが取られたのである。  

 吉原は、「自分は和服だし正座は慣れていたが、学生諸氏は窮屈な背広を着用し、若くて張り切った大腿であったから、不慣れな正座は苦痛そのものであったとろう」との感想を述べている。  

 その上で、吉原は「しかし私は、何の躊躇もなく正座を要求した。正座の苦痛のために、私の講義が耳に入らないこともあるのは、十分考えられることであったが、それでもあえて正座講義を行った。人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受け入れる方が大事と疑わなかったからである。」と述べている。 実際に卒業生からはこの正座の厳しさが、戦後になっても懐かしい思い出ともなり、昔話しに花を咲かせたようだ。

 他方、2期生は夏休みを利用して、自主的に三浦半島の禅寺で1週間の座禅を研修し、精神修養におおきな成果があったとされている。自ら苦行を実践して、精神修練につとめたというわけだ。

 今日、暴力や強要がタブー視される傾向がより顕著となっている。よって正座の強要などは精神修養の手段とはなりえまい。しかし、人間は安きに流れるものである。精神面の鍛錬に肉体的な苦痛を伴うことは、時と場合によっては必要なのかもしれない、このようにふっと考えることもある。

▼国体学の柱が楠木精神を学ぶこと

 国体学とは、わが国の由緒正しい国家の体制を歴史的に学ぶ学問である。  

 吉原が活用した教材には、南北朝時代において北畠親房が記した『神皇正統記』、江戸時代において日本固有の儒学を確立した山崎闇斎の『崎門学』(きもんがく)、水戸藩の藤田東湖の『弘道館記述義』、そして吉田松陰の『講孟箚記』(こうもうさつき)などがある。

 また、学生の卒業に際しては、先烈の遺跡を訪れる「国体学現地演習」が行われた。この研修では、吉野、笠置、赤坂、千早、湊川、鎌倉等の楠木正成のゆかりの地、幕末の水戸藩の史跡、吉田松陰が獄中生活を送った伝馬町獄跡や松陰の墓がある小塚原回向院(えこういん)など、幕末志士たちのゆかりの跡を訪ねて国事に殉ずる精神の陶冶がはかられた。 これら教材や研修先から、時代を超えた楠木精神の伝承を学ぶことが国体学のひとつの柱であったようにみられる。 正成の後醍醐天皇に対する忠義と永遠に変わらぬ誠の心、そして彼の生きざまは、江戸時代の「水戸のご老公」こと水戸光圀の研究対象とされて、武士の鑑としてもてはやされた。  

 光圀は、歴代天皇を扱った歴史書『大日本史』を編纂(へんさん)するなかで、南朝と北朝に天皇がそれぞれ並び立つ14世紀の南北朝時代において、南朝の後醍醐天皇を正統とする立場をとった。すなわち、北畠親房の『神皇正統記』の正統性を認めた。

 光圀は1692(元禄5)年12月、正成の墓があった湊川に墓碑(楠公碑)を建立した。碑面に自筆揮毫で「嗚呼(ああ)忠臣楠子(なんし)之墓」と刻んだ。 以後、水戸藩の学問「水戸学」を通して藩内には正成の精神がいきわたる。その中心人物が会沢正志斎(1782~1863)と藤田東湖(1806~1855)である。そのうち東湖が書いたものが、教材となった『弘道館記述義』である。 水戸藩士は尊王攘夷を掲げ、幕府の大老、井伊直弼(なおすけ)を襲撃した桜田門外の変を起こした。この際の精神的支柱になったのも正成であった。

 楠木精神の継承者として忘れてはならないのが士道を確立した山賀素行である。素行は『楠正成一巻書』(1654年)の序文を執筆し、「忠孝は武士の励む最もたる徳で、非常に難しいが、歴史上もっとも忠孝を尽したのは楠木正成・正行しかいない」 と述べた。

 素行は士道において「誠」を強調した。その思想が吉田松陰や乃木希助へと継承された。なお、松陰は著書『武教講録』のなかで素行を「先師」と尊敬しているが、松陰と素行とは時代が200年ほどことなるので直接な交流はない。 松陰もまた、湊川神社の正成の墓所を訪問(1851年)するなど、正成を敬仰した。そして松陰は水戸の会沢正志斎と藤田東湖と交流し、尊王思想に感化を受けた。 このようにして、楠木精神が山鹿素行や水戸藩によって継承され、松陰によってその精神がなお高められ、高杉晋作、桂小五郎などを動かして明治維新を成し遂げたのであった。

 こうした正成の思想が伝授されるなかで、「謀略は誠なり」の言葉の発祥とともに、正成が太平洋戦争期における秘密戦士の精神的支柱になっていったと考えられる。 かくして中野学校において楠公社が建立され、そこで学生は座禅を組み、精神修養に日夜は励んだ。こうして中野学校に教えに日本の伝統的な「誠」の精神が注入されたのである。

 米軍は太平洋戦争時、わが国に対して無差別爆撃を実施した。これは「孫子」の第12編「火攻」である。 しかし、中野学校卒業生は、アジア解放の戦士となることを目指した。彼らは、「孫子」の知恵の戦いは踏襲したが、『孫子』とは一線を画する「闘戦教」の教えに根差した「誠」の心を持ってアジアの人々と接した。 それゆえに、彼らの行動はアジアの人々の琴線に触れたのである。

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世の中には、たった1冊の本と出合ったことで、その後のビジネスや人生が大きく変わったという経験を持つ人たちが多数おられます。
しかしその一方で、
「書店で本を探すヒマがない」
「これだけ新刊書が多ければ、どれを読めばよいのかわからない」――
こんな声が多く聞かれるのも事実です。

小誌「TOPPOINT」は、忙しいあなたに代わって、
毎月大量に発行される新刊書の中から、「一読の価値ある書」を厳選して
紹介することを使命と考えております。

毎月大量に発行されるビジネス関連の新刊書や、文化、教養に関する新刊書など、100冊前後を吟味します。 熟読した書籍の中から、「切り口や内容が新鮮なもの」「新たな知恵やヒントが豊富なもの」など、おすすめのビジネス書を10冊厳選します。 (以上、引用終わり)

拙著は10月16日に出版しましたが、新書にもかかわらず、内容が少し専門的で、一般読者用にブレークダウンできていなかったかなと反省しておりましたが、非常に嬉しい知らせでした。

「TOPPOIN」は定期頒布物で書店では販売されていません。大半の読者が経営者ということで、「軽めの本」よりも、どちらかといえば「重厚な本」のほうが好まれるということでした。企業の方々にお読みいただき、私の思考法が少しでも参考になると思っていただければ、嬉しいです。

なお、拙著が紹介された12月号を送っていただき拝読しました。現在、ビジネス本も読み始めた私にとって非常に参考になる所がありましたので、来年1月から1年間定期購読することにしました。

沢尻容疑者の逮捕は、政府の陰謀?

沢尻エリカ容疑者の逮捕で、「桜を見る会」から衆目を逸らすためだという説が有識者や芸能人から起きているようです。

いつも、このような突発的な事件(捜査関係者からすれば計画的捜査?)が起きると、いわゆる“陰謀論”が沸き起こります。 「桜を見る会」と沢尻容疑者逮捕とに因果関係があったのかどうかは定かではありませんが、野党などに追及されていた困窮していた安倍政権にとって、この逮捕は“渡りに船”であったのかもしれません。

このように想像力を駆使して物事をつなげて見ることは重要です。2001年の9.11事件の前に複数の事前兆候がありました。しかし、これらの有力な兆候を個別の点として見るだけで、線を描けなかったことから、9.11事件が予測できなかったとされます。すなわち、想像力が欠如したとの反省がなされました。

ぎゃくに2003年のイラク戦争では、イラクのフセイン大統領が大量破壊兵器を保有していないにもかかわらず、保有していると決めつけて、米国はイラクを攻撃しました。 これは過去にイラクが大量破壊兵器を持っていたという事実、ドイツと米国の関係者から「カーブボール」というコードネームをつけられたイラク人科学者の情報を有力視して、当時のパウエル国務長官が、イラクは大量破壊兵器を持っていると判断したわけです。 のちに「カーブボール」はフセイン大統領を失脚させたいために嘘を言ったことを自供しました。

このように、時機をとらえた人の発言にはさまざまな意図が含まれている場合が多々あるので注意が必要です。 冒頭の発言を行った芸能人たちが何らかの意図をもって発言したのか、それとも純粋に思ったことを発したのかはわかりません。

しかし、影響力のある人の発言を我々はある種のバイアスをもって受け取ることになるので注意が必要です。この場合は、逮捕事件がなぜ起きたのかを自分自身が納得したいがために、そこに因果関係をむりむり探すことがよくあります。 そこで、桜を見る会で困窮している安倍政権と、安倍政権が国民の目をそらすために逮捕劇を仕組んだという、分かりやすい構図が提示されると、このような論理を短絡的に受け入れる「因果関係バイアス」が生じる可能性があります。

また影響力のある人が発言すると、それが大量に伝播・流布し、その情報が氾濫し、その他の情報に目が届かなくなります。 そこで目先の利用しやすい情報ばかりによって仮説を立てることになります。これを「利用可能バイアス」といいます。

さらには安倍政権の支持率を下げたいと思う側は、安倍政権による“陰謀説”に容易に飛びついて、これを批判ネタにできると考える傾向にあります。これを希望的観測といいます。

このように、さまざまなバイアスの存在が、物事の真実を見る目を曇らすしてしまうのです。よくよく注意が必要です。

なお、バイアスについて本格的に研究したい方は心理学の本を読むのが良ろしいでしょうが、拙著『武器になる情報分析力』でも一部の事例を挙げて紹介していますので、よろしければご参考ください。

わが国の情報史(45)  秘密戦と陸軍中野学校(その7)    -秘密戦士に求められる精神要素とは-

▼秘密戦士として要請される精神要素

陸軍中野学校が参謀本部直轄学校となり、教育、研究体制が整備された時点で秘密戦士の精神綱領が次のごとく示された。  

「秘密戦士の精神とは、尽忠報国の至誠に発する軍人精神にして、居常(きょじょう)積極敢闘、細心剛胆、克(よ)く責任を重んじ、苦難に堪え、環境に眤(なず)まず、名利を忘れ、只管(ひたすら)天業恢弘(かいこう)の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」。(校史『陸軍中野学校』)  

伊藤貞利氏の『中野学校の秘密戦』によれば、この精神綱領を次のようにかみ砕いている。  

「精神綱領による秘密戦士の精神とは君国に恩返しをするために私心をなくして命を捧げるという「まこごろ」から出る軍人精神である。常日頃(つねひご)、ことを行うにあたっては積極的に勇敢に、こまかく心をくばると同時に大胆に、責任をや重んじ、苦難にたえ、自主性を堅持し、物心の欲望を捨て去り、ひたすら世界人類がそれぞれ自由に幸せに生きることができる世界をつくるという天業を押し広める土台石にとなることに満足し、たとえ自分の肉体は滅びても、精神は普遍的な大きな道義の実現を通して悠久に生きるということである。」

▼至誠に発する軍人精神とは 至誠の誠とは何か?

軍人精神とは何か?について、もう少し考えてみよう。 まず軍人精神であるが、その本質は命を賭して使命に生きることにある。 「文民銭を愛し、武臣命を惜しめば国亡ぶ」という諺があるように、軍人には時として命を犠牲にすることが求められる。 これは現在でも同様であり、自衛官の服務の宣誓にも、「・・・・・・事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。」の一文がある。  

中野学校では私服で教育を受け、軍人とは思われない風姿や動作が要求された。だから、「天皇陛下」と聞いても直立不動の姿勢を取ってはならなかった。 しかし、軍人であることが否定されたわけでは決してない。むしろ軍人精神の本質はしっかりと教育されたのである。

中野学校の国体学の教官であった吉原政巳氏(1940年4月から中野学校に赴任、2期生以降を教育)は、自著『中野学校教育-教官の回想』のなかで、で次のように述べる。

「軍隊教育と中野教育とは、自(おの)ずから違う。卒業生の中には、中野の精神は、全く軍人のそれと違うのだ、といい切る人もある。事実、はじめに触れたように、両者その任務を異にしているのを、疑うことはできない。しかし深く根源を思えば、両者その核心は同じなのである。」

そして、吉原がその核心としているものが軍事勅諭における誠の精神である。 では誠とはいったい何であろうか? 1882年に明治天皇から下賜された軍人勅諭では、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の徳目が述べられている。 そして、その後で「右の五ヶ條は、軍人たらんもの暫(しばらく)も忽(ゆるがさ)にすべからず。さて之を行わんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ。抑此(そもそも)五ヶ條は我軍人の精神にして、一の誠心はまた五ヶ條の精神なり。・・・・・・(振り仮名、句濁点、現代読みに筆者改め)」とある。

ここには五箇条の徳目の最後の締めくくりのとして「一つの誠心」が提示されている。つまり、誠は「精神のなかの精神、徳目ではなく徳目を徳目たらしめるもの」、すなわち誠は一段上位の徳目であると解釈できる。 ようするに。明治の軍人の人格完成の目標は、明き・清き・直(なお)き・誠の心であり、明治天皇は軍人に勅諭を下し給い、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五徳を示し、この五徳は一誠に帰する、とのたまわれたのである。

吉原は以下のように述べる。

「誠は、軍人勅諭をしめくくられた言葉であり、軍籍に身をおいた者には、忘れぬ言葉であった。それは日本人伝統の、基本的心情が尊ぶものであり、真の日本人が目指すとき、手ごたえが確かに体認せられるべきものであった。」(前掲『中野学校教育-教官の回想』)  ようするに、真の軍人、そして真の日本人たるための修養を行うことが、真の秘密戦士になりえるのだ、ということを吉原は強調したのである。

▼中野学校教育における誠の重要性

中野学校では、軍事精神の養成に立脚しつつも、秘密戦士としてのなおいっそうの誠が要請された。 吉原は以下のように述べる。 「防諜・諜報・宣伝・謀略などという、尋常でない工作だけに、これにたずさわる精神の純度が、問われるのである。不純な動機による権謀ほど、憎くして憎むべきものは無い。中野学校において、「秘密戦士は誠なり」と強調されたのは、まことに当然のことであった。」(引用終わり)

誠の語は「マ(真)」と「コト(事・言)」からなっている。すなわち、「虚偽や偽りのないこと」である。 元来、中国の儒教という考え方のなかで「誠」は用いられるようになった。儒教では、「仁、義、礼、智、信」の5つの徳目が強調され、これらの教えを行動として表したものが「誠」である。 この考え方を日本で取り入れたのが「武士道」である。

「武士に二言はない」 という言葉が象徴されるように、正直であって主君に忠誠を誓うことが美徳と して強調された。 このような武士道は徳川幕府が封建体制を維持するためにおおいに利用された。武士道に憧れた幕末の新撰組が「誠」の字を紋章として背負って反幕府勢力の取り締まりを行ったのである。

▼武士道は秘密戦にとって都合が悪かったのか?

畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』 には次の件がある。

「・・・・・・忍者だが、これを諸大名がかかえて諜報を集めるということになれば、幕府の弱点や痛いところさぐられる心配がある。 そこで、伊賀者・甲賀者の忍者をすべて幕府の直属として『お庭番』という組織をつくりあげる一方、御用学者に命じて『武士道』なるものを盛んにとなえさせた。つまり、『内緒で人の欠点や弱点を探ることは、武士にあるまじき卑怯な行為である』とうたいあげたのである。 太平洋戦争の敗因をさぐる場合、日本の歴史家は、明治以前にさかのぼることを忘れているが、遠因はじつにこの徳川幕府の政策にあるのだ。 幕府時代の武士道精神をそのままうけついだから日本の軍隊は、諜報機関を卑怯なものとして、もっともそれが必要な陸軍大学にさえ、太平洋戦争がはじまるまで、諜報を教える課目はなかったのである。……」(畠山清行著・保坂正康編『秘録 陸軍中野学校』 )

つまり、武士道によれば諜報、謀略はまことに都合が悪いということになり、秘密戦を遂行し、秘密戦士を養成する上で、納得できる論理が必要であった。

▼武士道の真髄は秘密戦を否定せず

しかし、実は武士道とはそのような表層的な正直さのみを言うのではない。 江戸時代、儒学者、兵法家、道徳家の三つの顔を持つ山鹿素行(1622~1685年)は「士道」を表した。 士道は、太平天国の徳川時代において武士がいかに生きるべきかを、すなわち武士の道徳的な在り様を説いたものである。 のちの軍人勅諭の5箇条の徳目(忠節、礼儀、武勇、信義、質素)や、誠はいずれも素行(1622~1685)が提唱した士道が掲げる武士の規範 に基づいているとされる。

では、その素行が説く誠とは何か? 素行は「已むことを得ざる、これを誠と謂う」と言っている(『聖教要録』)。つまり、素行によれば誠は抑えようにも抑えられない自然の情である。 さらに素行は次のようにいう。 「一般に世間では、律儀に信をたてることを「誠」だとばかり心得ているらしい。もちろん、うそをついて相手をだましたり、計略を用いたりするのは君子たる者の大いに嫌うところであり、それは勢いものごとを力づくでやろうとする傾向につながるのだから、王者の道とはいえない。 だが、誠が深い場合には、偽ったとしても誠になることがあるのである。」(田原嗣郎『山鹿素行』)

素行が意味するところは実に深い。つまり目的が正しければ、その手段がたとえ卑劣にみえようとも誠を逸脱しない。すなわち誠は目的絶対性のなかにあるのである。 吉原は山鹿素行の『中朝事実』などの書き物を精神教育の教材として用いた。 日本の武士道の表層的な解釈では、諜報、謀略などの秘密戦に対する正統性はなかなか得られない。 そこで、素行の士道による真実の武士道を教示し、素行が主張する「誠」を強調することで秘密戦に対する正統性を付与したのである。

▼中野学校の目指した誠の意味

終戦時に中野学校の解散直前に富岡(本校)において卒業した8丙によれば、吉原が教えた中野学校における誠は、一般軍隊教育における誠とは、次の点が異なった。 「(軍人教育で行われた)「誠」の発露は天皇陛下に対してであり、拡大した場合でも日本国民が最大範囲であったと思われるのに対して、8丙が教えられた「誠」はその範囲が異民族まで拡大しており、一見「誠」とは正反対に考えられる謀略でも「誠」から発足したものでない限り真の成功はないと教えられた」。(校史『陸軍中野学校』) 中野教育では秘密戦士になるとともに民族解放の戦士となれ、と教えられた。 被圧迫民族であるアジア民族を植民地より解放し、その独立と繁栄を与えることが任務として求められたのである。 このため、誠の範囲は異民族まで拡大する必要があった。   

前出の精神綱領の「只管天業恢弘の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在り」とある。 戦陣訓にも「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」とある。

ただし、戦陣訓における悠久の大義とは、その対象を天皇に限定している。しかし、中野学校における悠久の大義とは数百年に及ぶ白人侵略から全アジアを解放して、アジア民族との共存共栄の道を模索することも包含している。  

アジア民族の解放を目的とする秘密戦は敵地、中立地帯の異民族の中に深く入って行わなければならない。当然、かかる秘密戦を行う者には高度かつ広範な知識技能が必要とされるが、それにまして、「真の日本人」にあらねばならない、というわけだ。

吉原は次のように述べる。 「……たとえば自分の人格が確立していないと、他の人格との真の交わりが不可能であるように、まず真の日本人になることが、風俗も信仰も異なる他民族と交わり、広く世界の人々に接するに、不可欠な要素だからである。」(『中野学校教育-教官の回想』)

ここに吉原の教える国体学の真の意味があり、歴史を通して真の日本人になることを要請したのである。 校史『陸軍中野学校』には、戦中及び戦後の状況を鑑みて、以下の件がある。 「実際に、中野学校卒業生は現地人に対する愛情と責任から、みずからの現地軍に身を投じる者すらあった。 中野学校出身者がインド、ビルマ、タイ、アンナン、マレー、インドネシア等の住民と戦後も交流が続いているのも、戦時中に異民族に示した行為や愛情が心の底から「誠」から出たもので、決して一片の謀略や、一時的な工作手段から出たものでなかったことを実証して余りがあるのではないだろうか」(引用終わり)

しょせんは侵略戦争を正当化するための屁理屈だ!といえばそれまでではある。ただし、国家であれ、個人であれ、相手と共存できないとなれば、戦いは回避できないのある。                           

結局のところ熾烈な国益や利益をめぐる死闘が繰り広げられることになる。 米国は英国と独立戦争を戦い、インデアンを駆逐し、ハワイを併合した。そして、太平洋戦争ではわが国の一般市民に対して無差別な絨毯爆撃を行った。  

そこには戦いゆえの残虐な殺生があった。 他方、中野学校においては「誠」の精神が教育され、アジア民族に対する愛情が厳然の事実として溢れていた。筆者はわが国の先の戦争行為を正当化するつもりは毛頭ないが、このことを日本人として誇りに思わざるを得ない。 「満蒙のローレンス」「希代の謀略家」と呼ばれ、A級戦犯として処刑された土肥原賢二将軍(1884~1948)は「謀略は誠なり」が信条であった。 

彼は実に温厚で、中国人に寄り添うやさしい人柄であったという。 軍人のなかには、現地の中国人を虐待する、あるいは婦女子に狼藉を働く輩が世の常としていた。土肥原はそのような輩を厳罰に処した。彼は謀略が誠から生み出されるものを知っていた。 土肥原を始め、当時の日本人には伝統的な誠の心が流れていた。そして謀略などの秘密戦を教育する陸軍中野学校にも、そのような日本人の伝統的な思想が受け継がれていたのである。

▼秘密戦士として名利を求めない精神

中野教育の原点は交替しない海外の駐在武官を育成することであった。後方勤務要員養成所の秋草所長の第1期生に対する訓示は、「本初は替らざる駐在武官を養成する場であり、諸子はその替らざる武官として外地に土着し、骨を埋めることだ」というものである。  

時代の奔流に流されて、太平洋戦争末期になると中野学校は秘密戦士から遊撃戦士の育成へと大きく舵を切ることになるが、この1期生の精神は先輩から後輩へと受け継がれて中野教育の伝統になった。 軍人は命を賭して国家・民族の自主・自立を守るという崇高な使命があるゆえに、軍人にふさわしい名誉が与えられることになる。正規の武官であれば、名誉の戦士として丁重に葬られる。 しかし、替らざる武官である秘密戦士はそうはいかない。任務の特性上、その功績を表沙汰にできないし、時として犯罪者の汚名を着せられ、ひそかに抹殺される可能性もある。 さらに「外地に土着し、骨を埋める」ことが求められた。つまり、残置諜者として黙々と水面下で生き続け、親の死に目にも会えず、やがて自身も誰にも知れずひっそりと死んでいく運命にあった。 そこには、精神綱領の「環境に眤(なず)まず、名利を忘れ」の精神が必要となるのである。 前出の8丙が受けた精神教育の大綱は、「謀略は誠なり」「諜者は死なず」「石炭殻の如くに」の三つの短句で表徴できるとある。(校史『陸軍中野学校』)

まさに「石炭殻の如く」人知られずに「悠久の大義」に生きることが求められたのである。

▼戦陣訓よりも厳しい精神要素が要求

秘密戦士には、一般軍人よりも生に対する執着が求められた。それは死生観から来るものではなく、使命感から生じる現実の要請であった。 江戸時代において、山鹿素行の士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判する、「武士道と云(いう)は死ぬ事と見つけたり」という「葉隠れ武士道」が生まれた。 これは、1716年頃、佐賀鍋島藩士の山本常長が口頭で言い伝えたものを、同藩士の田代陣基が書き残したものとされる。 「葉隠れ武士道」は、陸軍省の東条英機によって1941年に制定された『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」へと受け継がれることになる。

しかし、中野学校では任務を完了するまで死んではならないと教えられた。1期生に忍術教育を教えた藤田西湖は中野学校生に以下のように語ったようである。

「武士道では、死ということを、はなはだりっぱなものにうたいあげている。しかし、忍者の道では、死は卑劣な行為とされる。死んでしまえば、苦しみも悩みもいっさいなくなって、これほど安楽なことはないが、忍者はどんな苦しみも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、ころげても戦陣から逃げ帰って、味方に情報を報告する。生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ」 つまり、秘密戦士には「戦陣訓」では片づけられない、一般軍人よりもさらに厳しい精神要素が要求されたのである。

中露は同盟に向かうのか!

はじめに

最近、中露関係が緊密化し、中露が同盟を結ぶのではないかと、 騒がれています。  

10月29日の共同通信は、「ロシアが中国に対し、ミサイル攻撃の早期警戒システムの構築を支援していることが判明、両国 が事実上の軍事同盟締結を検討しているとの見方が強まっている。 (中略)両国が同盟関係を結べば北東アジアで日米韓との対立が 深まり、日本との関係にも影響が出るのは必至」などと報じてい ます。  

今年6月、中露両国は「包括的・戦略的協力パートナーシップ」 を発展させることで合意しました。これについて表向きには「同盟ではなく、対立もせず、第三国を標的にしない新しいタイプの国家関係」と説明しましたが、一方で中露関係の専門家であるロ シア国立高等経済学院のマスロフ教授は、「両国指導部は軍事同 盟締結の方針を決定済みだ」と発言しています。  

さて、中露は今どうなっているのか、これからどうなるのでし ょうか?  これついて、11月11日発売の週刊『プレイボーイ』に、筆者と米海軍系シンクタンクで戦略アドバイザーを務める北村淳氏 が解説していますので、よろしければご覧ください。

私は、この記事のなかでも述べましたが、「同盟か、同盟でないか」を論じることよりも、現実の中露がどのような連携にあるかを見ることの方が重要だと考えています。

そこで、これまでの中露の簡単な関係と、最近の連携状況を整理しておきます。以下、現状、経緯、親密度(内面的な不信感)などに分けて述べます。

(1) 現状

まず現状を政治、経済、軍事に分けて概観します。

ア 政 治

プーチン大統領と習近平主席は、すでに20回以上の首脳会談を行っています。米中首脳会談よりも常に米露首脳会談が優位(頻度、米中首脳会談に先行)になるよう歴史的にも配慮されてきました。

たとえば、2019年6月、米中首脳会談の開催(6月29日)前に習主席は先に訪露して、北朝鮮の非核化(平和的な解決)、軍縮分野での協力、保護主義の高まりに対抗する考えを表明しました。つまり、中露は「国連を中心とする国際体制を断固として守る」として通商問題で対立するトランプ政権を牽制し、イランに対する米国の一方的な制裁への反対を表明しました。

こうした一方、中露双方ともに米国との戦略関係の構築についても重視しています。双方ともに米国を刺激しないで、自らの核心的利益を守る、そのために中露は連携しています。

 経 済

ロシアにとっては中国は圧倒的に重要ですが、中国にとってはロシアはさほど重要でないとみられています(貿易では中国はロシアの第1位,中国にはとってロシアは10位以下)。 とくにロシアは2014年以降、G8から経済制裁を受けているので、中国との経済的な連携が重要になっています。

中国の経済力は世界第2位ですが、ロシアは世界のトップ10にも入りません。中国の経済力はロシアの6倍です。

だからロシアの中国への経済的な依存が進展しています。ロシアが天然ガスや石油などを買ってくれ、中国もエネルギー輸入の多角化から、ロシアとの経済関係を維持することは都合がよいという関係です。

つまり、中国は経済原則にあえぐロシアを政治的に引き付けようとして、ロシア原油を積極的買い入れているのです[1]。最近では中国はロシア製の大豆、鶏肉も購入する計画を示し、ロシアの歓心を得ています。

中国としては、「一帯一路」の推進、米中貿易戦争といった現状の中で対米牽制のためにロシアとの戦略的な協調を重視している。その手段として経済という牌を使っているということだと思います。

しかしながら、中露の経済関係に問題がない訳ではありません。中国の企業も欧米企業との関係から、ロシアへの取引に応じないこともありますし、ロシアに対する直接投資も不十分、中央アジアにおけるロシアの経済的権益を中国が奪うなどの情況が見られています。

この点は、「後進国が先進国に不平・不満を言うが、でもその依存から脱却できない」といった状況とよく似ています。

ウ 軍 事

(ア)条約等

中露は2001年「善隣友好協力条約」[2]を締結しています。

この条約は、旧条約のように「共同防衛」については規定していませんが、第9条で「一方が侵略の脅威などを認識した場合には、双方はその脅威を除去するために協議する」ことが定められており、軍事同盟的な性格をも一部に有していると言えます。

2019年7月、中国は新たな軍事協力協定を締結したとされます。その内容は明らかにされていませんが、軍艦の寄港、士官学校学生の相互派遣などではないかとみられています。さらには軍事秘密情報の共有、合同軍事演習に関する規定が盛り込まれている可能性もあります。

最近、INF全廃条約の破棄が決定された後の、中露による共同巡回飛行の実施(後述)などから、中露が安全保障上の連携を強化する必要性から新軍事協定を締結した可能性があります。

(イ)2019年版中国国防白書における注目点

本年7月24日、中国は4年振りの国防白書(2019年版中国国防白書)を発表しました[3]

そこで中国は「世界の安定を損ねている」と米国を名指しで批判し、米国と国際社会を対立せる構図を描き、その中で他国との連携強化を図る方向性示しています。

台湾に関しては「中国の分裂を狙ういかなる勢力も絶対に許さない」「台湾を巡っても統一のため「武力の使用を放棄しない」と主張しました。

米軍艦船の台湾海峡通過などに不快感を示し、南シナ海での人工島建設 や、東シナ海の尖閣諸島周辺の艦船航行は「法に基づく国家主権の行使だ」と明示しました。

こうした海洋正面での米中の軋轢が上昇しているといった文脈のなかで、中国はロシアとは共同軍事訓練や高官の往来などで連携を強める方針をわざわざ明記したのです。これは、我の核心的利益に米国が介入してくるならば中露の連携を強化するぞ、との政治メッセージでもあります。

(ウ)共同訓練等の実施

▼上海協力機構の枠組みでの対テロ演習

中露は2005年8月、上海協力機構の枠組みで初の中露共同軍事演習「平和の使命2005」を開催しました[4]。その後、対テロ演習を名目とした「平和の使命」演習を継続的に実施しています。。

2018年にロシアで実施された「平和の使命2018」では、中国、ロシア、カザフスタン、タジキスタン、キルギスタン、インド、パキスタンで、ウズベキスタン(オブザーバー)が参加しました。中国は700人ほど派遣しました。SCOに新たに加盟したインドとパキスタンが軍隊派遣しました。これは印パ両国の独立後初となる軍事演習の同時参加とあって広く外部の注目を集めました。

「海上協力」演習

2012年からは、中露の2国間での海上での共同演習(「海上協力」演習[5])を毎年実施しています。

その内容は次第に展示的から実戦的に進化し、演習実施地域には両国にとって政治的に機微な地域(南シナ海や東シナ海、黒海、地中海など)が選ばれるようになっています(下記)。

2013年の「海上協力2013」は、中露の共同演習がはじめて日本海側で実施されました。

2016年の「海上協力2016」は中露の海兵隊による初めて共同での島嶼奪還に関する演連が行われました。これは、東シナ海、南シナ海問題などで対立する米国をけん制する狙いがみられました。

本年の「海上協力 2019」では、初めての共同による地対空ミサイルの実弾発射と、複雑な状況下での対潜戦(ASW)の訓練を行ったとされます。

「海上協力」演習の実施地域

海上協力2012 2014年4月 山東省青島付近の黄海
海上協力2013 2013年 7 月 ウラジオストク沖の日本海
海上協力2014 2014年 5 月 上海沖の東シナ海
海上協力2015(Ⅰ) 2015年 5 月 地中海東部
海上協力2015(Ⅱ) 2015年 8 月 日本海の海空域
海上協力2016 2016年9月 南シナ海
海上協力2017 2017年9月 バルト海
海上協力2018 2018年10月 南シナ海の広東州湛江
海上協力2019 2019年4月~5月 山東省青島

▼共同巡回飛行の実施

国防白書におけるロシアとの軍事訓練の強化を裏付ける形で、白書発表 の前日の7月23日、中露は両軍機によるアジア太平洋地域での初めての共同巡回飛行を行いました。

これは、中露軍爆撃機(中国軍のH6爆撃機×2機と露軍のTU95爆撃機×2機)の飛行を露軍のA50空中警戒管制機×1機と中国軍のKJ-2000空中官制機×1が共同して支援するというものだったようです[6]

韓国側によれば、露軍のA50空中警戒管制機1機が竹島(島根県隠岐の島町)上空を2回にわたり領空侵犯したとされ、中露軍爆撃機(中国軍のH6爆撃機×2機と露軍のTU95爆撃機×2機)[7]は韓国の防空識別圏(ADIZ)内に侵入しました。

これは、日韓関係が停滞しているなか、日米同盟や米韓同目の機能を探る意図があったとみられます。

中露双方ともにA50に触れず、爆撃機の行動は正常な訓練活動である旨を主張しました。

中国国防省の呉謙報道官は24日の記者会見で「中ロは互いの核心的利益を支持し実戦を想定した訓練で協力を深める」と話しました。

また、呉報道官は今回の警戒監視活動の目的を、中ロの包括的な戦略的協力関係を深め、両国軍の合同作戦能力を高めるとともに「世界の戦略的安定性を共に守る」ことだと説明。6月の中露双方による「包括的・戦略的協力パートナーシップ」の発展の実態を具体的な行動をもって示したと言えます。

他方、「今回の作戦は中露両軍の年次協力計画に沿ったもので、第三者を標的としたものではない」と述べ、無用な詮索はするなとばかり、自らに対する批判の排除と、自らの行動の正当性を喧伝しました。

軍事的には、中露双方が宇宙や地上にあるセンサーから得たデータを共通のネットワークを通じて共有するという性格のものであり、今後は爆撃機、戦闘機、戦艦や潜水艇も含んだより大きなバトルフォーメーションの実現を予見させます。

またわが国視点では、中露爆撃機の双方2機が竹島周辺の上空で合流し、さらに編隊を組み対馬海峡上空を抜けて東シナ海に入った後、尖閣諸島に向けて針路を取り、尖閣上空において領空侵犯ぎりぎりの行動を取ったとされる[8]ことが注目されます。

日本政府内には「中露が連携し、竹島と尖閣諸島という日本の領土2カ 所に連続して挑戦してきた」(防衛省関係者)との分析もあるようです。(2019.9.28 『産経新聞』)

▼中国がロシアの演習に参加

中国軍は2018年にロシアが実施する演習に初参加し、2019年にもこれを継続したことは新たな変化として注目されます。

018年の「ヴォストーク(東方)2018」はソ連崩壊後のロシアが実施した演習としては過去最大規模となりました[9]。これに対して中国軍が初参加しました。参加兵力自体は演習全体の規模から見てさほど大きなものとはいえませんが[10]、それでも中国が外国に送った陸軍の中では最大規模です。

もともと、この演習は対中戦争演習と対日米戦争演習2本立てで構成される演習であり、中国は仮想敵として扱われてきたので、それまでの仮想敵国が「友軍」として扱われるようになったこと意味したと受け止められ、国際社会に重大なインパクトを与えました。

ロシア軍は演習に先立って北方領土の択捉島に戦闘機や攻撃機を初配備していたほか、「ヴォストーク2018」の準備演習(8月20日~25日)には国後島のラグンノエ演習場が演習エリアに含まれていましたが、結局、演習本番では北方領土はエリアに含まれませんでした。これは、ロシアの対日配慮が影響した可能性が考えられます。

2019年の「ツェントル(中央)2019」にも中国軍は参加し、2年連続で中露の軍事的連携を誇示した。なお、この演習には中露が主導する上海協力機構(SCO)加盟国のインドやパキスタン、中央アジア諸国も参加しました。

中露は安全保障や貿易問題をめぐり米国と対立を深めています。自国が大 きな影響力を持つ国際的枠組みで合同軍事演習を行うことで、結束力を大きくして米国をけん制する意図を示したとみられます。

(エ)武器輸出

1990年代からロシアから中国に対する武器輸出が行われています。ロシアからSu-27、Su-30戦闘機、キロ級潜水艦、ソブレメンヌイ級駆逐艦等の新型兵器を輸入しました。中国の軍近代化はロシアからの武器輸出に支えられてきたと言っても過言でありません[11]

 ロシアは従来からインドに対して中国よりもワンランク上の武器を輸出していました。またかつてロシア製兵器の違法コピー問題(たとえばロシアのSu-27SK戦闘機を中国がJ-11Bとして勝手にコピー・改良した事案)ことから両国間に武器輸出をめぐる軋轢も生じ、一時的にロシアから中国への武器輸出が停滞したこともありました。

しかし、2014年のロシアのクリミヤ併合以降、ロシアは中国に最先端兵器の超長距離ミサイルS-400と第5世代戦闘機Su-35を売却を開始するなど[12]、両国の軍需産業間の関係は良好です。ロシアの軍需産業は中国製兵器の開発・設計に関しても幅広い協力を行っています。

なお、ロシアから中国に対する最先端技術が解禁なっている要因の一つには、ロシアが輸出を禁止しても、ウクライナが中国に最先端技術を中国に輸出するということも挙げられます。

(2)経 緯

▼ 冷戦期の当初は友好、のちに中ソ対立へと発展

中国は建国(1949年10月)翌年の1950年2月に当時ソ連と「中ソ友好同盟相互援助条約」[13]を締結(80年に失効)します。この条約では日本を仮想敵国と名指していますが、実質的には日本の米軍基地を共同で攻撃する、すなわち真の仮想敵国が米国であったことは疑う余地もないことです。

中露は1950年代半ばからのイデオロギー対立や、同年代末にソ連が原爆供与に関する対中協力を放棄[14]したことから、両国関係は悪化に向かいます。1962年の中印紛争でソ連がインドに武器援助を行ったことから両国関係は緊張化し、1969年には国境問題をめぐってウスリー江のダマンスキー島(珍宝島)で武力衝突に至りました。

1970年代に入ると中国は米国に接近します。一方の中ソ関係は停滞し たままで、1980年には中国が一方的に条約を更新しないことを通告[15]して「中ソ友好同盟相互援助条約」が失効します。

▼ ポスト冷戦で中露は最接近

1980年代に入り、改革開放政策を重視する中国はソ連との関係回復に着手します。冷戦末期の1989年5月、ゴルバチョフ大統領の訪中によって中ソ関係は約30年振りに正常化されます。一方、中露双方は米国とも経済発展を重視する関係から比較的に良好な関係を維持します。

ポスト冷戦期においては、中国がより積極的に対露関係の強化を図りました。1989年に天安門事件が生起しますが、中国が天安門事件の背後で米国が画策していたと見なします。また米国が対中経済制裁を主導したことから、中国は米国への警戒感を強めます。

1990年代に入り、湾岸戦争(1991年)、台湾海峡危機(1996年)などにより、中国は米国の一強支配(覇権主義)を警戒します。

こうした米中関係の悪化とのバランスで、中国によるソ連(ロシア)に対する接近政策が開始されることになります。

中国はロシアとの戦略的パートナーシップ(1996.4)を確立し、ロシアから最新武器を購入して、軍の近代化をはかります。ただし、中国は米国との関係も悪化しないよう米国との戦略関係にも配慮しました。

2001年、中露は善隣友好協力条約を締結し、以後両国は頻繁に首脳会談を開催し、新条約を実現するための「共同声明」の調印や「行動計画」の承認等を行いました。しかし中露は双方ともに米国への配慮から、米国を刺激しないように関係強化には慎重でした。

2001年の「9.11事件」では、中露双方ともに対テロで米国との協調関係に配慮します。

▼ カラー革命が中露の関係強化を促進

米露関係および中露関係における最初の変化の兆しは2003年頃だとみられます。2003年にグルジアに端を発するカラー革命[16]により、ロシア周辺の3か国では親ロシア系指導者が次々と欧米系に代わるという事態が生起します。ロシアはその背後における米国の介在を強く意識します。

他方の中国も中央アジアのトルコ系民族と繋がる新疆ウイグル自治区を有している関係から、民主化ドミノの阻止を狙って中央アジアにおける米国の影響力を排除する必要がありました。ここに両者の利害が一致したとみられ、その結果、中露関係は大きく前進します。

まず長年の課題であった国境画定は、2005年に完全決着します[17]

全般的な両国関係の前進とあいまって、軍事交流も急速に進展し、定期的な防衛首脳クラスなどの往来に加えて、ロシアから中国への最新兵器の輸出が加速されました。

中露両国の「反米統一戦線」の形成は、「上海協力機構(SCO)」[18]の枠組みで、中央アジアを包摂する形で展開されていきます。

2005年7月のSCO首脳会議(アスタナ会議)では、米国によるSCOへのオブザーバー参加を拒否し、キルギスから米軍の撤退を求める方向を明確に打ち出しました。さらに、イラン、インド、パキスタンのオブザーバー参加を認めました。同年8月には初の中露共同軍事演習「平和の使命2005」が開催されました(先述)。

2010年から2012年にかけて「アラブの春」という民主化運動が起こりますが、中国とロシアは共にその波及を強く警戒するとともに、背後に米国が介在しているとみなします。

このように、中露は米国主導の民主化から自国の統治体制を維持するた めには相互連携することが有利であることを強く認識しています。

▼日米との軋轢増大が中露関係を強化

2008年に中国の胡錦濤政権は増大する経済力は背景により積極的な対外戦略方針に転換します。(韜光養晦(とうこうようかい)、有所作為→堅持韜光養晦積極有所作為)

この後、アデン湾への海軍派遣などさまざまな海外活動に従事します。また、南シナ海や東シナ海での権益擁護活動や遠洋軍人訓練を活発化させます。

この文脈において、2010年9月の尖閣諸島領海内での中国漁船衝突、2012年9月のわが国による尖閣諸島国有化などにより、日中関係は緊張化します。

こうしたなか、2012年から中露両国は海軍による初の二国間合同軍事演習(「海上協力2012」)を開始したわけです。

この演習は明らかに中国による反日米統一戦線へのロシアの取り込みの様相が見られました。同演習の実施に先立ち、中国はこれを日本海上で行うとか、中露艦隊が合同で対馬海峡を抜けるのだといった「中露連携」を強く打ちだそうとし、メディアでもこれを喧伝しました。

しかし、ロシアはこうした中国の動きには乗らず、結果的に実施場所は黄海に決定されました。

翌年の「海上協力2013」演習も、中国メディアは、中露が日本海の真ん中で演習を行うような報道を繰り返しました。しかし、実際の実施エリアはウラジオストク沖のピョートル大帝湾というごく狭い範囲に限定され、日本の排他的経済水域にはみださないように配慮されたほか、訓練内容もごく限定的なものとなりました。

つまり、中国は政治的に中露連携を強く模索したが、一方のロシアは米国や日本との関係に配慮して冷静に対処したというわけです[19]

ウクライナ危機以降、中露関係はワンステージアップ

中露関係が明らかにワンランクアップしたのは2014年から2015年のウクライナ危機が契機になったとみられます。

ロシアがクリミアを併合したことに対して、欧米は連携してロシアをG8から除外して経済制裁を発動しました。これに対してロシアは中国と連携し、日本に対しては北方領土問題という〝餌〟で揺さぶりをかけるという目論みに出ます。

中国はロシアのクリミア併合を表立っては承認せず、ロシアとの交渉ではロシアを支持し、経済制裁の発動には応じませんでした。ここには、国際社会を敵に回したくないという中国のしたたかさが垣間見られました。

他方の中国も2013年頃以降から中国の南シナ海における人工島の埋め立てを開始します。これに対して米国が2015年10月に「航行の自由作戦」を展開します。さらに、2017年には英国、2018年にフランスが南シナ海での「航行の自由」作戦に参加し、本年も米国は「航行の自由作戦」を行っています。

2016年7月に仲裁裁判所が南シナ海における中国の主張を退けます。これに対して、日本は関係国などと共に中国に対し「国際法を守るよう」主張しますが、中国は日本の行動を内政干渉と一蹴し、日本がもっとも挑発的であると批判しました。

このように、ロシアが国際的孤立を強めたことで中国への接近をもたらし、中国は南シナ海での人工島作成後の西側と対立するというなかで、急速な露中接近が軍事協力の面を中心に起こったみられます。

(3)現在の「親密度」

上述のように、中露関係は2014年のウクライナ危機、2015年頃からの南シナ海における米中対立を契機に、中露の連携度は確実に高まっています。

しかしながら、親密度は表面的な連携だけではなかなか測れません。国民心理、信頼感情など表に出ない要素の検討が重要になってきます。

この点を踏まえれば、中露関係はよく「離婚なき便宜的結婚」といわれます。つまり、双方に根深い不信感があるものの打算的利害によって成り立っているので離婚はしない。しかし、相互に不信感がある以上、かつてのようなラブラブな同盟関係には至らないというわけです。

そもそも中露は共に核を保有する超大国であって、長大な国境を接しています。互いに安全保障上の懸念があるから、中露国境沿いに軍事力を配備して睨みをきかしています。

双方にとっての戦略拠点である中央アジア、北極海航路をめぐる縄張り争いもありますし、極東に住むロシア人の人口に対して、隣接する中国東北部の人口は膨大であり、出稼ぎなどを通じた“占領”状態が起きています。

ロシアには、かつては共産主義国家の兄弟国の兄として中国を指導しましたが現在では経済的に完全に逆転され、そのプライドが傷つきました。

このようなことから、ロシアは中国に対する根深い警戒感を払拭することができません。だから、これまではインドに対して中国以上のハイスペックな兵器を輸出するなど、インドとの戦略関係を重視して中国を牽制しました。つまり、中国の軍事力をインド正面に貼り付けることで自らの軍事的圧力を牽制する狙いがあったと見られます。

こうしたやり方に対して、中国も同様にロシアに対する警戒感を緩めてはいません。

以上のことは中露関係を分析する上で十分に考慮すべき要因ですが、ただし、内面的な相互不信感などいうものは外部からは、その変化が容易に判断できないため、おうおうにして誤った判断をすることになります。

だから、まずは目に見える形で中露の連携が強化されているという事実は、しつかりと押さえておくことが重要です。


[1] 2018年度の両国の貿易日24.5%増の1080億ドル(約11兆6600億)と過去最高を記録した。

[2] 2001年7月16日、江沢民国家主席(当時)とプーチン大統領とのクレムリン首脳会談において調印。1950年2月に調印された「中ソ友好同盟相互援助」にかわる中露間の新たな条約で02年から発効。新条約の有効期間は20年。でその後、どちらかが効力停止通告をしない限り、条約は5年毎に自動更新。新条約は全25条の条文からなり、政治、経済、外交などの幅広い分野での中露間の協力強化を謳っているほか、軍事面では、相互に核兵器を先制使用せず戦略核ミサイルの照準を合わせないこと、国境地域の軍事分野における信頼および相互兵力削減を強化すること、軍事技術協力を促進することなどが明記されている。第5条でロシア側による「一つの中国」原則の支持および「台湾独立」への反対が明記されている。

[3] 領土・領海については周辺国に譲歩しない姿勢で、南シナ海の諸島や沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)は「中国固有の領土だ」と強調した。台湾を巡っても統一のため「武力の使用を放棄しない」と主張した。

[4] 中国この演習を台湾海峡に近い浙江省で実施し、台湾問題でロシアを自国の側に引き込みたかったと言われる。これに対してロシア側は内陸部の新疆ウイグル自治区での実施を主張し、最終的に山東半島が実施場所に決まった。この演習は実質的な内容に乏しい政治的ショーであるという評価が大半を占めた。

[5] 中国名で「海上連合」、日本では「海上協力」あるいは「海上連携」と翻訳されている。

[6] 両空中官制機ともロシアのイリューシンIL−76MD輸送機の派生版。

[7] Tu-95は通常、射程距離3000kmから4000kmのKh-101/102対地攻撃型巡航ミサイル(LACM)8基を搭載。これに対してH-6Kは射程距離2000kmのCJ-20対地攻撃型巡航ミサイル6基を搭載。両方のミサイルとも核弾頭を搭載可能。

[8] 「2019年版中国国防白書」では、領土・領海については周辺国に譲歩しない姿勢で、南シナ海の諸島や沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)は「中国固有の領土だ」と強調した。台湾を巡っても統一のため「武力の使用を放棄しない」と主張した。

[9] 参加兵力は合計29万7000人、戦車を含む装甲戦闘車両約3万6000両、航空機約1000機、艦艇約80隻が動員されたという。これまでにロシア軍が実施した最大規模であったのは15万5000人を動員した「ヴォストーク2014」。ソ連時代まで遡っても1981年の「ザーパド81」以来の規模。ロシア軍の総兵力は定数101万3000人、実数は95万人以下と見られているので、総兵力の3分の1程度が参加した計算になる。

[10] 中国からの参加兵力は人員約3,200人、装備品約900点、固定翼機・ヘリコプター約30機とされる。

[11]  スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によれば、2000年から2017年にかけて中国に輸出されたロシア製兵器は約278億ドル(3兆円以上)にも上る。

[12]  2018年10月にはSU-35の追加購入が決定

[13] 本条約は前文と6か条からなり、日本および日本に同盟する国の侵略を共同で阻止する(第1条)、対日全面講和の促進(第2条)、相手国に反対する同盟・集団行動・措置への不参加(第3条)、重要な国際問題の協議(第4条)、経済・文化協力の強化(第5条)、条約の有効期間30年(第6条)などを規定している。付属協定では、中ソ共同管理の中国長春鉄道、旅順(りょじゅん/リュイシュン)・大連(だいれん/ターリエン)の海運基地の早期返還、および3億ドルの対中国経済援助を約束している。交換公文は、旧条約の失効、モンゴルの独立の再確認を明記している。

[14] 中ソ間の国防用新技術協定を破棄

[15] 中ソ対立、米中および日中国交正常化などにより有名無実化し、条約の期限切れ1年前の1979年、中国がソ連に満期後の条約廃棄を通告し、1980年4月に30年間の期間切れと同時に廃棄された。

[16] 2003年のグルジア(ジョージア)での「バラ革命」、2004年のウクライナでの「オレンジ革命」、そして2005年のキルギスでの「チューリップ革命」を指す。

[17] 2004年10月のプーチン訪中により中露国境の未画定部分について最終的に確定するための追加協定が署名され、2005年6月には追加協定の批准文書を交換した。

[18] ロシア、中国、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、インド、パキスタンの8カ国の協力機構。オブザーバー国はアフガニスタン、ベラルーシ、イラン、モンゴル。1996年の上海ファイブが前身。2001年6月にウズベキスタンが加わり、上海協力機構に格上げ。2001年の米同時多発テロで米ロは一時的に接近するが、2003年のイラク戦争とその後のカラー革命を経て米国との対立基調が鮮明になる。

[19] 当時、ロシアは中国との連携を強化しつつも、アジア・太平洋地域の安全歩保障へのコミットメントを同時に強化しており、米国との二国間合同海上演習や、米国主催の環太平洋多国間演習RIMPACへの初参加(2012年)、日米韓への艦艇の寄港、日米露安全保障有識者対話(毎年)といったイニシアティブを次々と打ち出していた。

わが国の情報史(44)  秘密戦と陸軍中野学校(その6)   陸軍中野学校における教育の温度差     

▼講義内容がテンデバラバラ?  

 中野学校での教育について、乙Ⅰ長期(2期生)原田統吉氏は、 『風と雲 最後の諜報将校』において、「最初に奇妙に感じた ことは、それそれぞれの講義の内容がテンデバラバラであること だ」と述べ、次のような事例を挙げている。  

 少し、長文になるが引用したい。

  「当時参謀本部の英米課の課長の杉田参謀が(筆者注:杉田一次、  すぎたいちじ、陸士37期・陸大44期。最終階級は帝国陸軍では陸軍大佐、陸自では陸上幕僚長を歴任。当時杉田氏は少佐 に昇任したばかりであるので単なる部員)、その『英米事情』 の最初の講義の時間に、英米に対する意見をワラ半紙に書かせて、生徒全員から徴収したことがあった。 これは試験などというものではなく、教官が生徒の理解や知識 の程度を掴むための参考にするデータであって、これによって 教官は講話の内容を決めたものらしい。 甲谷さん(筆者注:甲谷悦男、こうたにえつお、陸軍大佐、陸 士35期、参謀本部ソ連課参謀、ソ連大使館付武官輔、大本営戦争指導課長、ドイツ大使館付武官輔佐官、戦後は公安調査庁参事官やKDK研究所長)などは、『ソ連要人の名前を知っているだけ書け』というような問題を出し、その場でめくって見て『うん、去年の連中よりはよく知っているな……』と軽く言  い放って、講義をはじめたものである。 しかし杉田さんの場合は違っていた。見終ると、T学生を指名して、『君の英米に対する認識および判断の理由は?』と聞く。  Tがその前日、支那事情の教官から受けた講義の線に沿って説明すると、非常に不機嫌になり、他の二、三の学生にもそれと同様の質問をし、同じような答えが返って来ると益々不機嫌になり、多少の論争の後、『本日はこれで終わる』と帰ってしま った。 まだ稚(おさな)かったわれわれは軍の画一主義から抜け出しておらず、しかも参謀本部ともあろうものは、一つの認識と一つの意志とに統一されているべきものだと思っていたのだ。 要するに『諸悪の根源は英米にして、英米やがて討つべし』という先日の教官の意見は、われわれに無批判に受け入れられていたのである。 ところが、杉田参謀はその後一度も講義に来ないのである。多少の誤解もあったのだが、『あのような、単純な反英米的教育が行われているところへ講義に行っても無駄だ…』というのが理由であったらしい。杉田さんというのは後年、自衛隊の陸幕長をつとめた杉田一次氏である。  このように、実に多様の、食い違い、相反する認識と意見が、そこの教壇ではそれぞれ強い情熱とともに語られ、われわれは新しい学び方を急速に身につけなければならなかった。 この学校の最も中心的なテーマである『情報』ということば一つにしても、各人各様の解釈があつたのである」

▼杉田参謀の心中は?  

 原田氏の発言は当時の陸軍参謀部内の情勢認識や戦略判断の相 違を裏付けるものとして興味深い。 杉田氏は戦後になって『情報なき戦争指導─大本営情報参謀の 回想』を著すが、同書では、大本営(陸軍参謀本部)で仕えた1 1人の第2部長の各時代における情報活動が描かれるとともに、 当時の国家の情勢認識や戦略判断が詳細に述べられている。

 杉田氏は米国駐在経験が豊富な知米派であって、米国の国力な どを認識していたから対米戦争絶対回避の立場をとっていた。彼 は、親独派の陸軍高官や松岡外相などが日独伊三国同盟にひた走 り、それがわが国を対米英決戦へと駆り立てたとの批判的な見方 も示している。  

 海軍の山本五十六連合艦隊司令長官については、「表面的には対米戦争回避を主張するも、その実態は真珠湾の先制攻撃がやりたく て仕方なかった」というようなトーンで、その人物像を描いてい る。  

 かいつまんで言えば、杉田氏は、米国との戦争の蓋然性が高く なっても、参謀本部第2部長には米国を知らない親独派がずっと就任し、こうした歪められた恣意的な人事が、正しい情報認識を阻害し、米国との戦争に突き進んだ原因である旨を主張しているのであ る。  

 このような杉田氏であったから、前出の中野学校での講義にお ける学生の応答に対し、激しい嫌悪感あるいは諦念感を抱いたの であろう。決して、「一つの意見や情報を無批判に受け入れるな」 との、学生に対する印象教育が狙いではない。  

 原田氏は「この道においては、すべてが参考に過ぎない。自分で考え、自分で編みだし、自分で結論せよということである」と述べており、結果的に杉田氏の教育放棄から得るものがあったと 語っている。  

 他方、原田氏はロシア課の甲谷氏の温情的なエピソードと対比 して杉田氏の事例を紹介している。ここには参謀本部による中野 学校に対する期待値あるいは温度差がバラバラであることへの悲哀感の吐露もうかがえる。  

 杉田氏の著書『情報なき戦争指導』を読む限りにおいて、筆者は戦略情報に対する杉田氏の見識の高さを覚えるが、杉田氏から、諜報や謀略など、いわゆる秘密戦への関心はほとんど感じられない。同著においては秘密戦のことや陸軍中野学校に関することはほとんど触れられておらず、おそらく杉田氏は、諜報、 謀略などいうものは“邪道”としてみていたのではないだろうか。  

 筆者は平時における戦略情報こそが最も重要であり、その情勢判断こそが国家の生存・繁栄をもたらすと考えている。しかし他方で、秘密戦ともいうべき情報活動は絶対に軽視してはならないと考えている。  

 第二次世界大戦における勝利の要訣は秘密戦にあった。当時の英国首相・チャーチルは、対独戦争を優位に展開するため、米国 を第二次世界大戦の舞台に引っ張りこんでわが国と戦わせた。秘 密戦によって日独の連携を離間させた。  

 杉田氏は戦後に陸上幕僚長に就任する。戦後、陸上自衛隊において秘密戦は忌避され、諜報、防諜、謀略などの言葉も使われな くなった。この両方の相関関係については定かではないが、杉田氏が中野学校や秘密戦についてどのような認識を持っていたか、それを陸上自衛隊の運営において何らかの教訓として活用したのか、この点を聞いてみたかったなと思う次第である。  

 むろん、筆者と杉田氏の年齢差からして物理的に不可能な話ではある。

▼中野学校の創設は陸軍の総意ではなかった  

 中野学校の入校学生は全国から選りすぐりの精鋭であった。しかし、陸軍内では総力戦の趨勢と先行き不透明な時代の“寵児” として中野学校の卒業生に大いに期待する者もいれば、そうでな い者もいた。  

 陸軍上層部と中野学校関係者とでは、卒業生あるいは学校に対 する期待値に大きな温度差があったとみられる。 また参謀本部内においても作戦部門と情報部門では温度差があ り、その情報部門を所掌する参謀本部第2部の中でも中野学校への期待値は異なっていたのである。  

 そもそも参謀本部は中野学校の創設や秘密戦士の育成には全体 として乗り気ではなかったようだ。ただ参謀本部第5課(ロシア課)だけが、共産主義イデオロギーの輸出や諜報、謀略を展開するソ連の国家情報機関の恐ろしさを認識していたので、秘密戦士 の育成に積極的であったという。  

 しかし、参謀本部の第6課(欧米課)、第7課(支那課)は 「それができれば駐在武官の必要性がなくなって困る」と考えたのか、強硬に設立反対を唱えた者もいたようである (畠山『秘録 陸軍中野学校』ほか)。  

 陸軍省内では、入校した1期生と当時の兵務局長の今村均少将 との会食が行なわれたり、1期生に対する東條英機陸軍次官の校内巡視があったりなど、中野学校を重視する傾向はうかがえた。  

 しかしながら、総じて言うならば、参謀本部第5課、そして兵務局や軍務局の一部を除いては秘密戦士の育成には無関心であっ たと言わざるを得ない。だから設立費用も乏しく、当初は愛国婦 人会の建物の一部を借りて、寺子屋式で出発したのであろう。  

 教育を担当する学校関係者と陸軍上層部の思いには大きな差が あったことは筆者の経験からも「なるほどな」と思われる節があ る。詳細は割愛するが、筆者は陸上自衛隊では初めての試験選抜の情報課程(総合情報課程)の第1期学生長として入校した。

 我々に対する、学校関係者の高い心意気と、陸上幕僚監部あるい は現場の情報部隊との冷静ともいえる対応には、やはり温度差を感じた。 教育内容ひとつをとっても、学校関係者は学生に対してできる だけ多くのことを、現地研修などを通じて、現地・現物で学ばせ ようと一所懸命に尽力する。しかし、受け入れ側の上級組織や情 報組織の現場では、「保全意識も確立していない学生に対して、 秘匿度の高いものを“おいそれ”とはみせられない」ということ になる。

▼中野学校の基礎教育が功を奏した  

 中野学校の1期生たちの活躍は総じて評価が高かったようであ る。各部署から中野卒業生を多く取ってほしいとの現場の声が止 まないという。これが、後方勤務要員養成所が認知され、陸軍省直轄の中野学校、そして参謀本部直轄の中野学校として発展を遂 げた、一つの要因でもあったろう。  

 ただ、中野学校の1期生たちの卒業後の活躍が、すなわち中野学校の教育がすぐれていたというわけではない。そもそも、1年程度の教育期間をもってして素人を一人前の秘密戦士として大化(おおば)けさせることはほぼ不可能である。  

 単純には比較することはできないが、冷戦期のソ連KGBには 海外に派遣する秘密スパイを養成するための「ガイツナ」と呼ば れる特別訓練施設があったとされる。ここでは、外国人になるき るために10年以上の訓練が行なわれたとされる。  

 それに、中野卒業生に期待する役割についても一様ではなかっ た。太平洋戦争以前の1期生や2期生長期学生に期待されたのは、 『替らざる武官』であった。 しかし、中野卒業生の任務は時代変化に翻弄され、特務機関の 要員、さらには残置諜者、国内ゲリラ戦の従事者などへと変化した。つまり、教育目的の変化に対して、教育内容が追随できたのかも疑わしい。  

 それでも、各所において中野卒業生が目覚ましい働きができた とすれば、それは優秀な学生を選抜したことにつきる。そして、 学校関係者が彼らをエリート学生として尊重し、自由闊達な気風 のなかで、彼らの自主性を重んじたからである。決して画一的な 教育が功を奏したわけではないといえよう。  

 強(し)いて言えば、教育面については、秘密戦士などとして 成長するための素地を授ける基礎教育を重視したことが功を奏したのであろう。さらに言えば、情報戦士の在り方を追求した中野 学校における精神教育が、中野卒業生の中に期を超えた同志愛を 醸成し、すすんで難局な任務にあたらせたと言えよう。

ゲリラ戦と何か

▼ゲリラ戦、遊撃戦、パルチザン戦争とは

 これらは、それぞれ言語の由来する発生地をはじめ、時代、民族、対象などがそれぞれ異なり、厳密にはその意味がことなります。しかしながら、それらの差異は、本来的かつ歴史的なものであり、すでに今日ではこの種の戦いが普遍性と国際性を帯びて世界各地で広く展開されていることから、三者を区別して使い分けることなく、おおむね同じ意味の概念として扱っています。ここではゲリラ戦、あるいはゲリラについて解説します。

▼ゲリラの発祥

 テロとよく混同して使用される言葉にゲリラがあります。ゲリラの語源はフランス革命を輸出しようとしたナポレオン軍に対し、スペインの農民が起こした「国民抵抗運動」に端を発します 。同抵抗運動は農民による小戦闘によるもので、当時ゲリリヤ(guerrilla)という用語が広く流行し、これが英語に転化しました。この点に関してはテロリズムの発祥過程とは異なり、むしろナロードニキによる「抵抗運動」と類似しています。

 第二次世界大戦以前までゲリラによるゲリラ戦は「革命軍による正規戦の補助である」として位置づけられました。当時、著名な軍事戦略家のクラウゼビッツは「ゲリラ戦のみでは政治目標を達成できない」と述べました。

 しかし、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争、アルジェリア独立戦争、キューバ革命及びインドネシア戦争などにおいて、ゲリラ戦のみ又はゲリラ戦を主体として政治目標が達成されたことから、ゲリラ戦が注目された。

▼ゲリラ戦のそれぞれの発展

 ゲリラ戦を戦略・戦術レベルに高めたのは毛沢東の「人民戦線」及び「遊撃戦」理論です。毛沢東は都市から離れた農村ないし山岳に、革命の根拠地を設定し、土地の占領と地域住民を支配することで勢力圏を維持・拡大し、最終的に日本軍と国民党を打倒して新中国を建国しました。

 彼の「遊撃戦」理論を踏襲し、共産主義革命を成功に導いたのが、ベトナムのボー・グエンザップ、キューバ革命のチェ・ゲバラです。しかし、彼らのゲリラ戦には毛沢東と異なる点がいくつか指摘されています。

  例えば、グエンザップが活動したベトナムには中国のような広大な根拠地はありません。そこで、グエンザップはまず民衆の中に秘密組織を設定することでし組織を防衛し、次に民衆のなかで暴力行為を行うことでその残虐性を宣伝することで組織拡大をはかりました。グエンザップは、敵に通じる村の有力者や警官らを公開処刑し、敵側の無力さと権威の失墜を示威し、ゲリラ側に味方しなかった場合の報復の恐ろしさを植えつけました 。

 キューバ革命を成功に導いたゲバラは、山中の村などを根拠地として革命反軍の生存をはかる一方で、ラジオ局を開設して革命軍の勇躍を宣伝し、都市部における襲撃や暗殺を繰り返すなどの活動を行いました。また「ゲリラ戦は基本的に奇襲攻撃、サボタージュ、テロの形態をとる」として、テロはゲリラ戦の一手段であると述べました。

  ゲバラと同時期のブラジル人のカルロス・マリゲーラは、都市を基盤とする「都市ゲリラ」という概念を提唱しました。彼は「ラテン・アメリカでは政府軍が海岸に多い都市を包囲する戦略をとっているため、内陸の山岳や農村地帯から都市地域へと攻める戦略は自らの補給路を立たれるので得策ではないと考えました。つまり、都市には食料の備蓄があり、銀行に金があり、警察には武器があるので、都市でのゲリラ戦が有利である」と主張したのです。

▼ゲリラとテロの共通性

 ゲリラとテロとは共に暴力を用いた反政府闘争という共通性があります。実は、毛沢東も農村地帯でのゲリラ戦を展開する一方で、上海などの都市部においては特務組織を活用して国民党要人を暗殺するなどの暴力を繰り返していました。

 さらに、マリゲーラによって「都市ゲリラ」の概念が提起されたことで、「ゲリラ戦が根拠地を中心に地域を支配し拡大する」「テロは地域を支配することなく都市部において反政府闘争のための暴力を行う」という区分概念も不明確になりました。今日では、 テロもゲリラも国際法的に明確な定義がなされていないですから、両者を区分することは困難なのです。

▼国際社会はゲリラを容認せず

 これまで暴力を「正当な暴力」と「不法な暴力」に区分する試みが行われてきました。例えば第一次世界大戦後、イタリアのファシスト党は「革命のための暴力はテロではない」「無辜の民に向けられるのがテロである」と宣伝し、革命のための暴力は正当であることを強調しました。

 第二次世界大戦中のレジスタン運動やパルチザン活動の経験から1949年の「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」は、義勇兵や民兵隊に要求されているとのと同一の条件を満たす場合の「組織抵抗運動団体」の構成員、すなわちゲリラに対して捕虜待遇を認めました。つまり、ゲリラはテロリストとは異なり、武力紛争法の適用が与えられ 、一定の条件を満たせば国際法の主体となり、戦争捕虜として扱われるようになったのです。

 無論、隠密性を有力な手段として一般文民の中に紛れ、又はその支援の下でゲリラ戦を行うゲリラは、戦争捕虜としての資格を有さず、戦時犯罪として処罰を免れません。たとえば、上述の都市ゲリラが戦闘員として認められる余地はほんどないといえます。

 今日では国家が敵対者を非合法化し、敵対者への武力行使を正当化するためにテロを定義していく傾向が強くなっています。米国防省は、テロを「政治的、宗教的あるいはイデオロギー上の目的を達成するために、政府あるいは社会を脅かし、強要すべく人または財産に対し向けられた不法な武力または暴力の行使」と定義しています。

 米連邦捜査局(FBI)も「政治的又は社会的な目的を促進するために、政府、国民あるいは他の構成部分を脅かし、強要するため、人または財産に対して向けられた不法な武力または暴力の行使」と定義しています。つまり、共に「政府等に向けられる不法な行為」である点を強調しています。

 一方で、今日の世界は敵対する過激派組織に対しゲリラとしての資格を認めない方向にあります。1980年代にIRAは自らをゲリラと呼称し、英国政府に対しても自分たちをゲリラという名で呼ぶよう要求したが、英国政府はこれを拒否しました 。つまり、テロ組織に正当な地位を与えないためにテロ組織という名に固執したのです。

 最近では、ISIL(イラク・シリアのアルカイダ)なる組織が「イスラム国」を呼称して、イラクやレバノンの政府軍に対し革命闘争を展開していました。彼らは地域の獲得と住民支配を企図し、地域内での住民行政サービスなども行いました。

 この点は、毛沢東などが展開したゲリラ戦の様相と強い類似性が認められます。しかし、米国を始めとする国際社会はISILを過激派テロ組織と断定し、対テロ戦を展開しました。 我が国としても、残虐な暴力行為を繰り返しているISILに対して国際法的な保護を与えなととの立場を取、非合法なテロ組織と認定してきました。

 現在、 米国が主導する掃討作戦や、ISIL の最高指導者であるバグダディ容疑者の殺害により、ISILは消滅する科に思われます。しかし、一時期のISILの資金獲得、統治体制、巧みな宣伝戦等などは、再びISILが復活する要因でもあります。

 バグダーディーが死亡しても、第二の指導者が名乗りを上げることとなり、指導者の死亡が組織衰退にどれほど影響したのかは定かではありません。我が国はテロや国際的テロ組織の定義を厳格にして、ゲリラとの峻別を明確にしていく必要があると思われます。