未来には情報分析官は不用になるのか!

テククロジーの進化が目覚ましいなか、これまで人間にしかできないと思われていた仕事がAIやロボットなどに代わられるだろう、と予測されています。

英オックスフォード大学でAI(人工知能)などの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授は、今後10~20年程度で、米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高いという、研究結果を発表しています。

▼ 「雇用の二極化」現象が発生

実際、18世紀から19世紀にかけて、綿織物の機械化に端を発したイギリス産業革命では多くの機織職人が職を失いました。そして、怒り狂った失業者たちが機械を破壊する運動まで起きました。こういうこともあってか、ICTやAIが人間の職業を奪うという予測が、現在はややセンセーショナルな話題となっています。

たとえば、自動運転技術の実用化によって、タクシー運転手、宅配業者、引っ越し業者は職を失い、事故が激減することで板金業者も職を失うなどと言われています。

その一方で、AIによっても人間労働者のニーズはなくならない、またAIが新たな職業を生み出す可能性もあるという見方もあります。ICTがAIがどのような職業を奪うのかについてはさまざまな権威が予測しています。

AIなどが現在の多くの仕事を奪うことはほぼ確実とみられますが、それがどの程度なのか、何時ごろなのかについては、十人十色という感じです。

ただし、全体の方向性としては、中スキル層の雇用シェアが減少し、低スキル層と高スキル層での雇用シェアが増加するようです。つまり、事務・管理などの中スキル層の仕事は次第になくなり、ごく少数が高スキル層に移行する。ほとんどどの中スキル層は、手足を使う低スキルに移行すると予測されています。すでにOECD諸国においては、 こうした「雇用の二極化」現象が確認されているようです。

▼情報分析官も商売あがったりか?

ところで情報分析官あるいは経営コンサルタントという仕事も必要なくなるのでしょうか?

近い未来、初めての外国旅行でも、データを見れば、危険な地域を避けて、最短なルートで目的地に行って、観光やビジネスを 楽しむようになると予測されています。

これは、AI、ビッグデータと統計学などで、「いつ、いかなる場所、どのようなテロ事 件が生起するか?」といったことが瞬時に解析されてしまうとい うことです。

つまり、AIによるビッグデータの解析があれば、人による情報分析などは必要ないということです。 

▼すでにビッグデータは身近に浸透

すでに現在、AI、IoT、ビッグデータの発達により、筆者が過去にどんなものを検索したか、注文したかなどの情報はクラウドに保存されています。それを基に、アマゾンメールなどが購入商品の推薦をするようになってきました。

でもアマゾンメールは私の欲しくないものを紹介してきます。時には筆者の著書を購入するよう推奨してきます。私は買おうとして、自分の著書を検索しているのではなく、「どの程度売れているのかな」など考えて検索しているのです。しかし、AIはこのことを認識 していないようです。  

つまり、AIやビッグデータは、人の行動パターンは読めても、 人の心や意図までは読めないということなります(未来はわかりませんが)。そして心や意図は容易に変化します。

また、世の中の出来事は、善人による無意識なデータの積み上げばか りでは対応できません。たとえば、テロリストは自らの作戦が失敗 したならば、自らの行動パターンが察知されているとして、かな らず対抗策を講じようとするでしょう。

つまり、行動パターンを変える、データに偽情報を混入して操作する、 データを保有するクラウドに対してサイバー攻撃を仕掛けるなどが考えられます。敵対国家もまたしかりです。

▼情報分析官のスキルアップが必要となる

だから、安全保障の世界では依然として人間臭い、アナログ的な情報分析が必要であるし、情報分析官の仕事もなくならないと考えます。いや、なくならないと信じています。

しかし、これまでのように情報を集めてその傾向を見出すだけの分析手法に固執しているわけにはいきません。こうした分野においては、AIがどんどんと活用されていくとみられます。

だから情報分析官には、AIの対応できない多層的かつ多角的な視点での分析が求められます。そして分析の失敗を解明するために、常に複次の仮説を立てる柔軟性が求められます。

また、AIが読めない相手側の意図を探ることが求められます。このため、歴史、文化、心理、哲学などに立脚された重層な思考法を磨かなければならないと考えます。

▼佐藤一斎の格言に触発

筆者は、すでに組織の情報分析官をリタイアした身であり、まもなく60歳を迎えようとしています。しかし、「老(お)いて学べば、則ち死して朽(く)ちず。 」を座右の銘に勉強を続けたいと思います。


これは「少(わか)くして学べば、則(すなわ)ち壮にして為(な)すこと有り。壮にして学べば、 則ち老いて衰(おとろ)えず。老(お)いて学べば、則ち死して朽(く)ちず。 」の 佐藤一斎の『言志四録』からの抜出です。

つまり、老年にな ってからも学習することをやめなければ、死んだ後も自分の業績は後世にも引き継が れていく、という意味です。 筆者はインテリジェンス・リテラシーを後世に少しでも残したいのです。

佐藤一斎が42歳の時に書き始め、82歳になるまで 『言志四録』133条を書き続けたといいます。 佐藤一斎、佐久間象山、吉田松陰の師弟系譜から学ぶこと極めて多し。彼らに大いに触発されます。

インテリジェンス関連用語を探る(その3)「宣伝」及び「謀略」について


▼ 謀略の淵源

 「謀略」という言葉は中国では古代から用いられていたとみられます。ただし、中国における研究においても「謀略」という言葉の淵源には様々な見方があるようです。

 もともと「謀略」という言葉がいきなり登場したのではなく、「謀」と「略」が異なる時代に登場し、いつのまにか一体化して用いられるようになったとされます。 

中国の『説文大字典』によれば、謀の登場は略の登場よりも一千年早く登場したようです。

 同字典では、「謀」は「計なり、議なり、図なり、謨なり」とされ、古代ではこれらの言葉は非常に似通った意味で使用されました。『尚書』で謨が登場しますが、この字の形と読音が謀と似通っており、謨が謀に発展したとみられています。 

 なお「謀」が中国において最初に使用されたのは『老子』の「不争而善勝、不言而善応、不召而自来、繟然而善謀」です。

 『孫子』における「計」、「智」、「略」、「廟朝」、『呉子』における「図」などは謀の別称といえます。(以上、柴宇球『謀略論』、藍天出版社から取り纏め)

▼わが国において謀略という兵語の使用はいつから?

 総力戦研究所所長などを歴任した飯村譲中将によれば、「謀略は西洋のインドリーグ(陰謀)の訳語であり、参謀本部のロシア班長小松原道太郎少佐(のちの中将)の手によるものであって、陸大卒業後にロシア班に入り、始めて謀略という言を耳にした」ということです。

 そして、飯村中将は「日露戦争のとき、明石中佐による政治謀略に関する毛筆筆記の報告書がロシア班員の聖典となり、小松原中佐が、これらから謀略の訳語を作った」と推測しています。

 しかし、「謀略」の用例については、1884(明治17)年の内外兵事新聞局出版の『應地戰術 第一巻』「前哨ノ部」に「若シ敵兵攻撃偵察ヲ企ツルノ擧動ヲ察セハ大哨兵司令ハ其哨兵ノ報知ヲ得ルヤ直チニ之ヲ其前哨豫備隊司令官ニ通報シ援軍ノ到着ヲ待ツノ間力メテ敵ノ謀略ヲ挫折スルコトヲ計ルヘシ」という訳文があります。

 また「偕行社記事」明治25年3月第5巻の「參謀野外勤務論」(佛國將校集議録)に「情報及命令ノ傳達 古語ニ曰ク敵ヲ知ル者ハ勝ツト此言ヤ今日モ尚ホ真理タルヲ失ハサルナリ何レノ世ト雖モ夙ニ敵ノ謀略ヲ察知シ我衆兵ヲ以テ好機ニ敵ノ薄弱點ヲ攻撃スル將師ハ常ニ赫々タル勝利ヲ得タリ」という訳文があります。

 したがって、どうやら飯村中将の説は誤りのようですが、いずれにせよ日露戦争以後に謀略と言う言葉は軍内における兵語として普及したとみられます。

 ▼『陣中要務令』において「宣伝」が登場

 1889年に制定され、 日露戦争の戦訓を踏まえて1907年(明治40年)に改訂された 『野外要務令』では、「情報」及び「諜報」はわずかに確認できますが、「謀略」や「宣伝」という用語は登場しません。

 しかし、『野外要務令』の後継として、大正期に制定された『陣中要務令』では、以下の記述があります。

第3篇「捜索」第73
「捜索の目的は敵情を明らかにするにあり。これがため、直接敵の位置、兵力、行動及び施設を探知するとともに、諜報の結果を利用してこれを補綴確定し、また諜報の結果によりて、捜索の端緒を得るにつとめざるべからず。捜索の実施にありては、敵の欺騙的動作並びに宣伝等に惑わされるに注意を要する。」

第4編「諜報」第125「諜報勤務は作戦地の情況及び作戦経過の時期等に適応するごとく、適当にこれを企画し、また敵の宣伝に関する真相を解明すること緊要なり。しかして住民の感情は諜報勤務の実施に影響及ぼすこと大なるをもって上下を問わない。とくに住民に対する使節、態度等ほして諜報勤務実施に便ならしむるごとく留意すること緊要なり。」

 ここでの宣伝は、我の諜報、捜索活動の阻害する要因であって、敵によって行われる 宣伝(プロパガンダ)を意味しているとみられます。

 ▼ 「宣伝」「謀略」 がわが国の軍事用語として定着


 「宣伝」「謀略」 がわが国の軍事用語として定着したのは、1928年に制定された『諜報宣伝勤務指針』及び『統帥綱領』だとみられます。

 『諜報宣伝勤務指針』 の第二編「宣伝及び謀略勤務」では、宣伝、謀略について、用語の定義、実施機関、実施要領、宣伝及び謀略に対する防衛などが記述されています。

 同指針では、以下のように記述されています。

「平時・戦時をとわず、内外各方面に対して、我に有利な形成、雰囲気を醸成する目的をもって、とくに対手を感動させる方法、手段により適切な時期を選んで、ある事実を所要の範囲に宣明伝布するを宣伝と称し、これに関する諸準備、計画及び実施に関する勤務を宣伝勤務という。」 

「間接あるいは直接に敵の戦争指導及び作戦行動の遂行を妨害する目的を持って公然の戦闘員もしくは戦闘団体以外の者を使用して行う行為もしくは政治、思想、経済等の陰謀並びにこれらの指導、教唆に関する行為を謀略と称し、これが為の準備、計画及び実施に任ずる勤務を謀略勤務とする。」

一方の『統帥綱領』では以下のように記述されています。

第1「統帥の要義」の6
「巧妙適切なる宣伝謀略は作戦指導に貢献すること少なからず。宣伝謀略は主として最高統帥の任ずるところなるも、作戦軍もまた一貫せる方針に基づき、敵軍もしくは作戦地域住民を対象としてこれを行ない、もって敵軍戦力の壊敗等に努むること緊要なり。殊に現代戦においては、軍隊と国民とは物心両面において密接なる関係を有し、互いに交感すること大なるに着意するを要す。敵の行う宣伝謀略に対しては、軍隊の志気を振作し、団結を強固にして、乗ずべき間隙をなからしむるとともに、適時対応の手段を講ずるを要す。」

時代はやや下り、1932年の『統帥参考』では以下のように記述されています。

第4章「統帥の要綱」34
「作戦の指導と相まち、敵軍もしくは作戦地の住民に対し、一貫せる方針にもとずき、巧妙適切なる宣伝謀略を行ない、敵軍戦力の崩壊を企図すること必要なり」

以上のように、「捜索」あるいは「諜報」のように、敵に対する情報を入手するだけでなく、敵戦力の崩壊を企図する、敵の作戦指導などを妨害する、あるいは我に有利な形成を醸成する機能を持つ「宣伝」及び「謀略」が軍事用語として一般化されました。

その背景には、第一次世界大戦において、戦争が総力化、科学化、非戦場化して平時及び軍事、戦場及び非戦場において、「戦わずして勝つ」をモットーとする秘密戦が重要な要因になったことが挙げられます。

(次回に続く)

わが国の情報史(26)  昭和のインテリジェンス(その2)   ─『作戦要務令』の制定と重要「情報理論」の萌芽─       

▼『作戦要務令』の制定  

 前回は、昭和期になって作成された『統帥綱領』および『統帥 参考』を引き合いに、情報収集の手段が軍隊の行なう捜索勤務と 諜報に分けられ、戦術的情報は捜索により、戦略的情報は航空部 隊および諜報によって収集する、などについて述べた。

 今回はもう一つの軍事教典である『作戦要務令』を取り上げる。 これは、陸軍の、戦場での勤務や作戦・戦闘の要領などについて 規定した行動基準であり、少尉以上の軍幹部に対する公開教範で あった。  

 綱領、第1部、第2部、第3部、第4部に区分され、1938 (昭和13)年から1940年にかけて編纂された。  1938年9月、日中事変(1937年7月)から得た教訓を 取り入れ、『陣中要務令』(大正3年)と『戦闘綱要』の重複部 分を削除・統合して、対ソ連を仮想敵として『作戦要務令』の綱 領、第1部と第2部が制定された。1939年には第3部、19 40年には第4部がそれぞれ制定された。

▼『作戦要務令』の沿革  

 ここで簡単に『作戦要務令』の歴史を回顧しておこう。  

 徳川幕府以来、陸軍はフランスの陸軍将校を顧問として着々と した兵制の建設を行なってきたが、参謀次長・川上操六らの尽力 により、1882(明治15)年にこれを一挙にドイツ式に切り 替えた(前坂俊之『明治三十七年のインテリジェンス外交』)。  

 こうした動きにともない、陸軍教範もフランス式からドイツ式 に切り替わった。1887年、ドイツの「野外要務令」を翻訳し た『野外要務令草案』が作成され、1889年に『野外要務令』 が制定された。  

 なお、同要務令はのちに参謀次長として日露戦争の準備を取り 仕切る田村怡与造が中心になって作成し、この要務令のお蔭で日本はロシアに勝利できたとされる。

『野外要務令』は第1部「陣中要務」と第2部「秋季演習」か らなる。陣中要務とは「軍陣での勤務」、すなわち戦場勤務のこ とである。  

 第1部では、司令部と軍隊間の命令・通報・報告の伝達、捜索 勤務、警戒勤務、行軍、宿営、行李、輜重(兵站)、休養、衛生 などの実施要領などが記述された。第2部では、演習の要領、演 習の構成、対抗演習や仮設敵演習、演習の審判、危害予防などに ついて記述された。  

 同要務令は日露戦争(1904年)の戦訓を踏まえての190 7(明治40)年の改訂を経て、大正期に入り、第1部「陣中要 務」と第2部「秋季演習」がそれぞれ分離独立した。1914 (大正3)年6月に第1部が『陣中要務令』となり、これが『作 戦要務令』の基礎となったのである。 『作戦要務令』のもう一つの基礎である『戦闘綱要』について みてみよう。『戦闘綱要』は個人の徒歩教練、射撃、歩兵として の部隊の戦闘法などを記述する教範である。  

 これは1871年に「フランス式歩兵操典」として定められた ものが、まず1891年に「ドイツ式歩兵操典(1888年版)」 に翻訳したものに改訂された。この『歩兵操典』は1909年 (明治42年)に日露戦争の教訓を踏まえて再度改訂された。  1926(大正15)年に『歩兵操典』の基本事項をもとに 『戦闘綱要草案』が示され、1929(昭和4)年に『戦闘綱要』 が制定された。これが、もう一つの『陣中要務令』と合体して 『作戦要務令』になったという次第である。

▼1909年の『歩兵操典』の改正に注目  

 1909年の『歩兵操典』の改訂においては日露戦争の勝利に 自信を深めた陸軍が精神主義を強調し、攻撃精神と白兵銃剣突撃 を核とする歩兵戦術を確立した(NHK取材班『敵を知らず己を 知らず』)として、この教範改定がしばしば情報軽視によって太平洋戦争に敗北した原因として引き合いに出されるのである。  

 これに関して、筆者は明治期のインテリジェンスの総括でも述 べたが、情報は戦略情報と作戦情報に分けて論じなければなら ない、と改めて指摘しておきたい。  

 かのクラウゼヴィツは「戦争中に得られる情報の大部分は相互 に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何 らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っ ている」(『戦争論』)と述べていることをもう一度思い起こし てほしい(わが国の情報史(21))。  

「精神主義が情報軽視を生み、それが日中戦争、太平洋戦争へ 進み、ガダルカナルでは情報を無視して玉砕した。ここでの教範改定から軍事の独断専行が強まり、先の太平洋戦争は敗北した」  

 このように、何らかの原因を特定することで歴史に決着をつけ るといった恣意的かつ浅薄な分析が横行している点は非常に残念 である。  

 ここで精神主義は、戦場における陸軍基準としての教範改定に論をあてている。戦場における編成や装備および戦術・ 戦法の近代化を精神主義が妨げたという検証結果ならば十分な価値はある。  

 しかし、精神主義と情報軽視という短絡的な連接では何 らの教訓も生まれない。 繰り返すように情報は戦略情報と作戦情報に区分される。『統帥参考』などで示すとおり、戦略情報は国家の戦争指導や作戦指導の全局面に活用されるものである。

 だから、国家がなぜ先の無 謀な戦争に向かったのかは、軍人のみならず国家全体で作成すべ きであった戦略情報がどうだったのかの分析が第一義的に必要で あろう。  

 精神主義、白兵銃剣突撃といった一局面をとらえ、それと情報軽視を結びつけて、「軍人が精神主義によって無謀な戦争に駆り 立て、敗北した」と結論付け、すべての原因を軍人独走に押し付ける のは“お門違い”ではないだろうか?  

 戦略情報を作成すべき内閣、外務省はどうだったのか? そしてマスコミや国民はどうだったのか? これらの点もよくよく分析しなければならない。

▼情報関係の記述  

 情報関係の記述は『野外要務令』から『陣中要務令』の系譜に求められる。  明治期の『野外要務令』では、捜索という用語は随所にみられ るが、情報、諜報はそれぞれ1か所である。  

 大正期の『陣中要務令』では「情報」の使用は『野外要務令』 と比べると多少増えてはいるが、「情報」の定義および内容など を直接的に説明した箇所は見当たらない。他方で同要務令では、 「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述された点は 注目に値する。

 同要務令は計13編の構成になっているが、その第3編が「捜 索」、第4編が「諜報」となっており、「捜索」と「諜報」がそ れぞれ編立てされた。このような経緯を踏まえて、先述の『統帥 綱領』および『統帥参考』では、情報が捜索と諜報から構成され る、ということが体系的に整理されたのである。  

 では、『作戦要務令』では情報関連の記述はどうなっているだろうか? 『作戦要務令・第1部』(1938年版)では第3編 「情報」を編立てにし、第1章「捜索」と第2章「諜報」をそれ ぞれ章立てしている。

 記述内容は『陣中要務令』および『統帥参考』の、ほぼ“焼き 直し”という状態であり、特段に注目する条文があるわけでない。 ただし、72条に「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定するを要す。これがため、まず各情報の出所、 偵知の時機及び方法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと 関係諸情報とを比較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ 判決を得た情報いえども更に審査を継続する着意あるを要す」の条文がある。

 ここでの「情報を審査して、比較総合し、判決する」というこ とは、今日のインフォメーションからインテリジェンスへの転換 のことを述べている。すなわち、情報循環(インテリジェンンス・ サイクル)という今日のもっとも重要な「情報理論」の萌芽を 『作戦要務令』に求めることができるのである。

 この点は大いに 注目すべきである。 しかし、実はこの『情報理論』の萌芽にはもう少し時代を遡る 必要がある。すなわち、ある「軍事極秘」の軍事教典に着目する 必要がある。それは1928年に作成された、幻の軍事教典とも いうべき『諜報宣伝勤務指針』である。

インテリジェンス関連用語を探る(その2) 諜報と『諜報宣伝指針』   

「諜報」という用語の源流

諜報や間諜という言葉の歴史は古く、中国では『孫子』の13編において間諜について記述しています。

わが国においても「諜報」と「間諜」の歴史は日本書紀まで遡ります。山本石樹が『間諜兵学』(1943年)に記すように、「間諜」は狭くみれば「敵情を探りてその主に報ずるもの」ということになりますが、「敵勢を不利に導き、味方を有利にならしむべき隠密行動を為すもの」という解釈が一般的でした。
[1]

「情報」は1882年の『野外陣中軌典』において初登場しますが、間諜はそれよりも古くから旧軍において登場します。1871年(明治4年)に参謀本部の前身である兵部省陸軍参謀局が設置され、その下の間諜都督使が間諜隊を統括しました。 また、同参謀局の職責は「機務密謀に参画し、地図政誌を編纂し、並びに間諜通報等の事を掌る」とされました。

1874年6月に制定された参謀局条例は、参謀局の任務と権限について[2]、諜報堤理佐官[3]を置くことが定められ、その任務として「戦時諜報の事を総理せしむ、平時に在りては事の視察すべきあるに臨んで諜を発す」と定められました[4]

つまり、「情報」が登場する以前に「諜報」は軍隊用語として存在していたのです。

海軍においても、1896年(明治29年)3月、海軍軍令部に第1局、第2局のほかに牒報課が新設されました。なお「 牒報 」は1897年(明治30年)勅令第423号から「諜報」に改められました。

 このように、わが国の参謀本部機構が形成されるなかで、「諜報」は早くからその骨格を現し始めていました。

しかし、1907年の『野外要務令』では、第13条において「諜報勤務」との用語が一ケ所出てくるだけであり、「諜報」の具体的な内容は言及されていません。

つまり、「情報」と同じく「諜報」も、明治期においては馴染みの薄い用語であったといえます。

『諜報宣伝指針』について

前回は、1914年(大正3年)の『陣中要務令』[5] と1932年の『統帥参考』及び『作戦要務令』を根拠に、情報捜索、諜報の関係が明確になったことを述べました。今回は、1928年(昭和3年)2月に陸軍参謀本部が作成した『諜報宣伝指針』を見てみましょう。

同指針は当時の諜報及び宣伝謀略などのことを専門的に記述した「軍事極秘」書であり、参謀本部第8課(謀略課)が保管していました。のちに陸軍中野学校の教範として使用されました。

構成は、第1編「諜報勤務」で、第2編「宣伝及び謀略勤務」からなります。第1編は5編からなり、計175の条文があります。そのなかに以下の条文があります。

「敵国、敵軍そのほか探知せんとする事物に関する情報の蒐集(しゅうしゅう)、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務を情報勤務と総称し、戦争間兵力もしくは戦闘器材の使用により、直接敵情探知の目的を達せんとするものは、これを捜索勤務と称し、平戦両時を通じ、兵力もしくは戦闘器材の使用によることなく、爾(じ)多の公明なる手段もしくは隠密なる方法によりて実施する情報勤務はこれを諜報勤務と称す。」

 ここでは、情報勤務、捜索勤務、諜報勤務の意義が定義されています。前回、『統帥参考』(1932年)及び『作戦要務令・第2部』(1936年)において、情報を得る手段が諜報と捜索からなることについては既述しました。ただし、『諜報宣伝指針』は両教典に先行していますので、『諜報宣伝指針』において、情報、諜報、捜索の関係が整理されたと見るべきでしよう。

 ここでは情報勤務は「敵国等に関する情報の収集、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝達普及に任ずる一切の業務である」とされますが、査覈とは「調べる」という意味です。今日では使われない用語です。

中野学校卒業生・平館勝治氏によれば、参謀本部第8課から中野学校に派遣された教官である矢部中佐の謀略についての講義のなかで、講義中「査覈」と黒板に書き、「誰かこれが読めるか」と尋ねったが、誰も読める者がいなかったといいいます。

『作戦要務令』では以下の条文があります。

「収集せる情報は的確なる審査によりてその真否、価値等を決定するを要す。これがため、まず各情報の出所、偵知の時機及び方法等を考察し正確の度を判定し、次いでこれと関係諸情報とを比較総合し判決を求めるものとす。また、たとえ判決を得た情報いえども更に審査を継続する着意あるを要す。

敵情の逐次変化する過程を系統的に討究するときは、その状態、企図等を判断するの憑拠を得ることすくなからざるをもって連続的に情報を収集すること緊要なり。

既得の情報により、的確なる判決を求め得ざる場合においても、爾後速力に偵知すべき事項を判定し、もって情報収集に便ならしむるを要す。」(72条)

「情報の審査にあたりて先入主となり、或は的確なる憑拠なき想像に陥ることなきを要す。また、一見瑣末の情報いいえど全般より観察するか、もしくは他の情報 と比較研究するときは重要なる資料を得ることあり。なお局部的判断にとらわれ、あるいは 敵の欺騙、宣伝等により、おうおう大なる誤謬を招来することあるに注意するを要す。」(74条)

査覈を現代の言葉で説明すれば、その情報(インフォメーション)の情報源の信頼性や情報の正確性などを調べて評価することに相当するとみられます。

今日、インテリジェンスの世界では、情報サイクル(循環)という概念が「情報理論」として定着しています。『諜報宣伝指針』の記述内容には、すでに情報サイクルの概念、理論が盛り込まれていることに驚かされます。

わが国の軍事情報においても、戦後、米軍の教範『MILITARY INTELLIGENCE』をもとに、情報教範が作成され、そこではインテリジェンスとインフォーメーションを明確に区分し、インフォーメーションを情報資料、インテリジェンスを情報と呼称するようになりました。そして、情報資料を情報循環の過程のなかで処理して得た有用な知識が情報であり、これが伝達・配布されます。

戦後、米軍の「情報教範」から陸上自衛隊の「情報教範」を作成した、元陸上自衛隊幹部学校研究員であった松本重夫氏(陸士53期)は次のよう述べています。

「戦後、米軍の「情報教範」が理論的、体系的に記述されていたことに対し、旧軍の情報教育は“情報”をというものを先輩から徒弟職的に引き継がれていたもの程度にすぎず、「情報学」や「情報理論」と呼ばれるような教育はなかったということである」(松本重夫『自衛隊「影の部隊」情報戦)。

前出の平館氏は、以下のような発言をしています。

「私が自衛隊に入ってから、情報教育を自衛隊の調査学校でやりましたが、同僚の情報教官(旧内務省特高関係者)にこの指針を見せましたが反応はありませんでした。

 私が1952年7月に警察予備隊(後の自衛隊)に入って、米軍将校から彼等の情報マニュアル(入隊一か月位の新兵に情報教育をする一般教科書)で情報教育を受けました。その時、彼等の情報処理の要領が私が中野学校で習った情報の査覈と非常によく似ていました。

 ただ、彼等のやり方は五段階法を導入し論理的に情報を分析し評価判定し利用する方法をとっていました。それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などというものは万国共通のものなんだな、とひとり合点していましたが、第四報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめてなぞがとけると共に愕然としました。

 ドイツは河辺少佐に種本をくれると同時に、米国にも同じ物をくれていたと想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改良工夫を加え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、日本はその種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしていました。

 この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたものと察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであったと感じました(『諜報宣伝勤務指針』の解説、2012年12月22日)。

 時代は遡りますが、日露戦争時、日本海海戦の大勝利の立役者・秋山真之少佐が米国に留学し、米国海軍においては末端クラスまでに作戦理解の徹底が図られていることを学習しました。

しかし、秋山は帰国後の1902年に海軍大学校の教官について教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していないことに驚いたといJます。なぜならば、秘密保持の観点から、戦術は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからです。

 秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るるよりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官にしたためました。

 なんでもかんでも秘密、秘密にする風潮は結局、昭和の軍隊においては改められなかったのです。『諜報宣伝指針』というすばらしい情報教範があったのにもかかわらず、それが改良と工夫され、情報教育の普及に反映されなかったのは残念といえます。


[1] (小野「情報という言葉を尋ねて(2)」)

[2] 「参謀局長は陸軍卿に属し、日本総陸軍の定制節度をつまびらかにし兵謀兵略を明らかにし、もって機務密謀を参画するをつかさどる。平時にあり地理をつまびびらかにし政誌をつまびらかにし、戦時に至り図を案じ部署を定め路程をかぎり戦略を区画するは、参謀局長の専任たり」とされた。大江士乃夫『日本の参謀本部』(中公新書、一九八五年)

[3] なお、初代の諜報堤理は桂太郎である。桂は1870年から3年間ドイツに留学し、帰国後に陸軍大尉に任官し、第6局勤務、ついで少佐に進級し参謀局の設置とともにその諜報堤理の職につき、75年間からドイツ公使館附武官として海外赴任し、帰国して、78年7月に再び諜報堤理に補職された。

[4] 有賀傳『日本陸海軍の情報機関とその活動』、

[5] 『野外要務令』は大正期に入り、第1部「陣中要務」と第2部「秋季演習」が分離独立し、1914年(大正3年)6月に、この第1部を基に軍隊での勤務要領を定めたものが『陣中要務令』となった。同要務令は1924年(大正13年)に改訂された。

[6]同章は第一節「騎兵集(旅)団」、第二節「師団騎兵」、第三節「斥候」に区分。

わが国の情報史(25)  昭和のインテリジェンス(その1)   ─軍事教範の制定─

▼大正期から昭和へと移行

 大正天皇は1926年(大正15年/昭和元年)12月25日
に崩御された。この時、新たな元号は「光文」と報じられたが、
誤報として「昭和」に訂正された(わが国の情報史(23))。

大正期におけるわが国の対外情勢の大きな変化の一つは、ロシ アで社会主義革命が起きて共産主義国家ソ連が誕生したことである。そのソ連はコミンテルンを結成して世界に対する共産主義革命の輸出に乗り出した。

それに対する地政学上の防波堤となったのが満洲であり、国内における共産主義の浸透を食い止める活動が諜報・防諜であった。こうした活動の中心となったのが陸軍であった。

 大正期におけるもう一つの重大な対外情勢の変化は、アメリカによる日本に対する封じ込めが顕著になったことである。アメリカは、米国内における日本人移民の排斥、海軍艦艇をはじめとする軍縮、わが国による中国進出に対する容喙(ようかい)など、さまざまな対日圧力を仕掛けてきた。

 このアメリカを仮想敵国の第1位として、将来の対米決戦を視野において準備を開始したのが海軍であった。つまり、日本陸軍と日本海軍は、異なる情勢認識の下で、軍事力の整備や軍事戦略および作戦計画を立案していったのである。

▼陸軍教範の制定

 昭和期に入り、新たな陸軍教範が制定された。つまり、いかなる戦いをするのかという用兵思想、すなわちドクトリンが固まったのである。その傑作は『統帥綱領』『統帥参考』および『作戦要務令』である。

 『統帥綱領』は1928年(昭和3年)に制定された。同綱領は日本陸軍の将軍および参謀のために国軍統帥の大綱を説いたものである。

 また『統帥綱領』を陸軍大学で講義するために使用する参考(解説)書として『統帥参考』があり、こちらの方は1932年に作成された。

 一方の『作戦要務令』は軍隊の勤務や作戦・戦闘の要領などについて規定したものである。これは少尉以上の軍幹部に対する公開教範である。

 『作戦要務令』は1938年(昭和13年)9月に制定された。これは大正期に編纂された『陣中要務令』(大正3年)と『戦闘綱要』(昭和4年)の重複部分を削除・統合するとともに、1937年の日中戦争の戦訓を採り入れ、対ソ連を仮想敵として制定された。

 なお、海軍にも『海戦要務令』があり、こちらの方は1901年に制定され、その後の日露戦争のときの連合艦隊参謀・秋山真之が改正し、大艦巨砲による艦隊決戦の思想を確定した。その後、大正期に2回、昭和期に2回改正されたが、全体が海軍機密に指定されていたので、一般には知られていない。

▼『統帥綱領』および『統帥参考』の概要

 統帥綱領や統帥参考は、将帥、すなわち将軍と参謀の心構えを規定し、国軍統帥の大綱、つまりわが国の戦略や作戦遂行の在り方を定めたものである。

 『統帥綱領』は、第1「統帥の要義」、第2「将帥」、第3「作戦軍の編組」、第4「作戦指導の要領」、第5「集中」、第6「会戦」、第7「特異の作戦」、第8「陸海空軍協同作戦」、第9「連合作戦」の全9篇176条からなる。

 『統帥綱領』は「軍事機密」書であったので、陸軍大学校卒の一部のエリートのみしか閲覧ができなかった。むろん『作戦要務令』のような公開本ではなかった。

 この綱領は、一部のエリート将校の集まりであった参謀本部が、天皇の有する統帥権を逸脱して「超法的」に日中戦争などを遂行した根拠になったという批判が強い。一方、部下統率の在り方などについては参考すべき点が多々あり、戦後のビジネス本などとしても活用されている。

 もう一つの『統帥参考』は、第1篇「一般統帥」と第2篇「特殊作戦の統帥」に分かれ、さらに第1篇は第1章「将帥」、第2章「幕僚」、第3章「統帥組織」、第4章「統帥の要綱」、第5章「情報収集」、第6章「集中」、第7章「会戦」の195条からなる(なお、第2編については割愛)。

 こちらの方は「軍事機密」に次ぐ「軍事極秘」という扱いになっている。さすがに参考書という位置づけなので『統帥綱領』に比して記述内容の具体性が随所にうかがえる。

▼インテリジェンスの視点からの注目点

 『統帥綱領』の第4「作戦指導の要領」の以下の条文が注目される。

・25、捜索は主として航空部隊及び騎兵の任ずるところとす。両者の捜索に関する能力には互いに長短あるをもって、高級指揮官はその特性及び状況に応じて、任務の配当を適切ならしめ、かつ相互の連携を緊密にならしむること肝要なり。(以下、略)

・26、諜報は捜索の結果を確認、補足するほか、縷々(るる)捜索の端緒を捉え、捜索の手段を持ってならし得ざる各種の重要なる情報をも収集し得るものにして、捜索部隊の不足に伴い、ますますその価値を向上す。(以下、略)

 つまり、この2つの条文から、捜索と諜報がともに情報を収集する手段であることがわかるのである。

 ただし、1914年の『陣中要務令』(計13編)の中の第3編「捜索」、第4編「諜報」において、すでに「捜索」と「諜報」の定義や、その内容は具体的に規定されている。

 『統帥綱領』の25条と26条は、『陣中要務令』の「捜索」と「諜報」の記述内容の要旨を抽出し、それを方面軍の統帥に適用したものであり、内容に何ら目新しさはない。

 他方の『統帥参考』では第5章「情報収集」があり、ここには次のような趣旨の内容が記述されている。要点を抜粋し、要約する。

◇「情報収集において敵に優越することが勝利の発端」「情報収集は敵情判断の基礎にして」と情報収集の重要性について記述している。しかしその一方で「情報の収集は必ずしも常に所望の効果を期待できないので、高級指揮官はいたずらにその成果を待つことなく、状況によっては、任務に基づき主導的行動に出ることに躊躇してはならない」として、敵情を詳しく知りたいがために戦機を逃してならない旨の戒(いまし)めを記述している。

◇情報を戦略的情報と戦術的情報に区分している。方面軍は主として戦略的情報、軍団は戦略的情報と戦術的情報の両者、軍内師団は主として戦術的情報を収集するとしている。

◇情報収集の手段には諜報勤務と軍隊の行なう捜索に分けている。戦術的情報は主として捜索により、これは騎兵、航空部隊、装甲部隊、第一線部隊などを使用するほか、砲兵情報班、無線諜報班、諜報機関などを適宜使用するとして、一方の戦略的情報は主として航空部隊および諜報による、と規定している。

◇諜報についてはとくに紙面を割いて規定している。「最高統帥の情報収集は作戦の効果によるほか、専(もっぱ)ら諜報による」としているほか、作戦軍においても諜報の価値は大きい旨を規定している。

◇諜報勤務の要領について、脈絡一貫した組織の下に行なう、作戦軍のための諜報機関といえどもその骨幹は開戦前より編成配置して開戦後速やかに捕捉拡張するように準備するなどを規定している。

◇諜報勤務は宣伝謀略および保安の諸勤務と密接なる関係があるとして、これらの機関に資料を提供するとともに、その成果を利用することの必要性を規定している。

明治時期以降において形成されてきた情報収集、捜索、諜報の個々の内容や相互の関係性などが、『統帥参考』の作成により、ようやく体系的に整理したといえる。

インテリジェンス関連用語を探る(その1)    

▼はじめに  

2016年1月、拙著『戦略的インテリジェンス入門』を発刊して以来、ビジネスパーソンの方々から情報分析についてお聞きしたいとの依頼が何度かありました。  

同著は、国家安全保障に携わる初級の情報分析官を読者として想定し、執筆したものです。筆者としては、できるだけ内容を簡潔に、かつインテリジェンスの全領域を網羅することに着意いたしました。

しかしながら、入門書という立場上、参考文献の記述から大きく逸脱するわけにはいきません。そのため少し説明が杓子定規になってしまい、読みづらい点があったことを残念に思っています。

ビジネスパーソンの方々にインテリジェンスや情報分析のお話ししてみて、改めて、これまで当たり前のように使用してきた「情報」「インテリジェンス」「情報分析」という言葉の意味はなんだろうか?と、自問しました。

そしてビジネスパーソンなどの方々にそれら内容を伝えるには、用語の意味や内容をさらに咀嚼し、身近な例に置き換えるなどの努力をする必要があると認識しました。

そこで、このシリーズではインテリジェンス関連用語について、できるだけわかりやすく述べてみたいと思います。なおすでに筆者の他の題目ブログにて述べたことと一部重複する個所もありますが、ご容赦下さい。

▼「情報」のルーツを探る  

現在は情報学、情報処理、情報システム、情報公開、情報戦など、情報に関連する用語が日常的に氾濫しています。すなわち「情報」は日常語になっていると言えるかと思います。

しかし、わが国における「情報」という言葉は、もともとは「敵情報告」の略語として明治時代に生まれた軍事用語です。また、他の多くの言葉のように「情報」も中国からの流入語と思われがちですが、そうではありません。ただし、「情」という言葉は、孫子の「敵の情」という用例が示すとおり、中国からの流入語となります。しかし、「情報」は、中国人自身が認めているように日本から中国に輸出されたのです。

その初出例は、1876年(明治9年)に酒井忠恕陸軍少佐が翻訳した『佛國歩兵陣中要務實地演習軌典』(内外兵事新聞局)です。同著では、情報は「情状の知らせ、ないしは様子」という意味で使用されました。つまり、情報は敵の「情状の報知」を縮めたものでした。

1901年にはドイツから帰国した森鴎外が、ナポレオンの軍事将校として勤務したクラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳(大戦学理)した際、「情報とは、敵と敵国に関する我が智識の全体を謂ふ」という訳をしました。

1882年に『野外演習軌典』(陸軍省)において「情報」が初めて陸軍の軍事用語(兵語)として採用されました。 『野外演習軌典』で「情報」が使われるようになった以降、他の兵書でも「情報」という言葉が使われるようになります。それと同時に「状報」という言葉も使用されます。

小野厚夫『情報ということば-その来歴と意味内容』によれば、情と状は次のとおりの違いがあります。

「情」と「状」は、いずれも「ありさま、ようす」という意味を共通にもっているが、それぞれの漢字が意味するところは微妙に違っている。

簡野(かんの)道明編の『字源』(1923年、北辰館)で「情状」を引くと、「情は心の内に動く者、状は其の外に著るる者」とあり、情は内に隠れて外に見えないもの、状は外見でわかるものを指すと解釈できる。(引用終わり)

したがって、敵の兵力や装備等の状況(事実)を斥候などによって明らかにする場合は「状報」が適しており、敵の感情の動きや意図、内部のそれぞれの事情を含めた士気・規律・団結の状況などについては「情報」が適しているという解説もできます。

ただし、上述のような用例の違いはあったとしても、両用語は明確な区別なく使用されていました。

「情報」と「状報」は、しばらく混在していましたが、1890(明治23)年頃から「状報」の用例が急減し、ほどなく「情報」に一本化されました(前掲『情報ということば-その来歴と意味内容 』)。

1891年(明治24年)、わが国最初の体系的な陸軍教範『野外要務令』が制定されました。

同要務令は日露戦争後の1907年に改定されますが、同要務令をひも解きますと、情況、情状、敵情、事情などの「情」がつく言葉は随所に登場します。しかし「情報」が登場する箇所はわずか二箇所です(筆者の検証ミスがあったらお許しください)。

ここでの使用法を抜粋します。

・「……このごとき情報を蒐集(しゅうしゅう)するは主として最前線にある騎兵の任務に属す。……」

・ 「情況を判決するには直接に敵を探偵観察して得たる情報と他の諸点より得たる認識推測を集めてなれる証迹(しょうせき、証跡)とをもってするを最も確実なるものとする。・・・・・・」

つまり、「情報」は、上述のとおり、敵や地域に関する「状」や「情」であって、戦場において敵及び地域と直接接触して得ることがおおむね認識されていたと考えられますが、軍内に広く定着する軍事用語ではなかったと判断されます。

1914年(大正3年)には、『野外要務令』を基礎に『陣中要務令』が制定されました。ここでの「情報」の使用は『野外要務令』と比べると多少増えています。しかし、「情報」の定義及び内容などを直接的に説明した箇所は見当たりません。

他方、同要務令では、「捜索」と「諜報」の定義とその内容が具体的に記述されました。同要務令は計13編の構成になっていますが、その第3編が「捜索」、第4編「諜報」となっています。つまり、「捜索」と「諜報」がそれぞれ章立てされたということになります。

そして、「捜索」とは、戦場において、主として騎兵などの第一線部隊が敵と接触して得る「敵の状・情」である旨の記述がなされています。 一方の「諜報」は、主として諜報専門部隊が住民の発言、新聞、信書、電信、その他の郵便物、俘虜などから得る「敵の状・情」である旨が記述されています。

つまり、「捜索」は戦時における戦場において第一線部隊が獲得するもの、「諜報」は戦時・平時及び戦場・非戦場を問わず諜報専門部隊が獲得するものとして、大まかに区分されたと解釈できます。

さらに昭和期に至り、1932年(昭和7年)に『統帥参考』が制定されました。同書では「情報収集」の手段を「諜報勤務」と「軍隊に行う捜索」に区分する、としています。また、同年制定の『作戦要務令』の第3編「情報」では、第1章「捜索」、第2章「諜報」に区分して、その意義や内容を具体的に記述しています。

つまり、昭和期に至ってようやく「情報」が「捜索」と「諜報」の上位概念であり、「捜索」と「諜報」を網羅するものであることが明確に規定されたのです。

(次回に続く)

わが国の情報史(24)

大正期のインテリジェンス(その2)

▼一時しのぎの「石井・ランシング協定」

第一次世界大戦は明治末期からの不況と財政危機とを一挙に吹き飛ばした。日本は英・仏・露などの連合軍に軍需品を、欧州列強が撤退したアジア市場には綿織物を、アメリカには生糸を輸出して大幅な輸出超過となった。

また、大戦により世界的な船舶不足になり、日本はイギリス・アメリカに次ぐ世界第三位の海運国となった。こうした日本の大躍進に警戒したのが、ほかならぬアメリカであった。

第一次世界大戦が開始した頃から、中国大陸における日米両国の利権問題やアメリカ国内での日本人移民排斥運動の動きなど、日米間には緊張した空気が流れていた。

1917年(大正6年)11月2日、日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官・ランシングとの間で「石井・ランシング協定」が締結された。 この協定は、中国の領土保全・門戸開放と、地理的な近接性ゆえに日本は中国(満州・東部内蒙古)に特殊利益をもつとする公文書であった。さらに付属の秘密協定では、両国は第一次世界大戦に乗じて中国で新たな特権を求めることはしないことに合意した。

つまり、日米双方は第一次世界大戦の最中であったので、無用な衝突を回避するために双方の妥協点を見出すという、一時しのぎの“苦肉の策”に出たのであった。

▼シベリア出兵によってアメリカの対日警戒が増大  

第一次世界大戦の最中の1917年、レーニンの指導するボリシェヴィキにより世界最初の社会主義革命が起き、1918年にロシア帝国は崩壊した。 1918年3月、ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト=リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。

連合国側としてドイツと戦っていたソ連が裏切ったのである。 そのためドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に振り向けることができた。これに慌てた連合国は、ドイツに再び東部戦線に目を向けさせるとともに、社会主義国家の誕生を恐れて、シベリアのチェコスロバキア軍救援を名目として内戦下のロシアに干渉戦争を仕掛けた。

しかし、英・仏はすでに西部戦線で手一杯で、大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵の主力になるように打診した。

1918年7月になってアメリカがチェコスロバキア軍救援のために日米共同で限定出兵することを提起すると、寺内正毅内閣は1918年8月、シベリア・北満州への派兵を決定した(シベリア出兵)。

しかし、アメリカと日本の派兵目的は異なっていた。日本は共産主義の浸透が満州、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒していた。そのため、オムスクに反革命政権を樹立することを目的に出兵兵力をどんどんと増大させた。

一方のアメリカの出兵目的は日本の北満州とシベリアの進出に抵抗することであった。アメリカは共産主義を脅威だとは認識していなかった。だから、ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力せず、かえってボルシェビキに好意を示す有様だった。

▼パリ講和条約における日米の軋轢

第一次世界大戦は1918年11月に休戦が成立した。両国とも連合国の一員として、戦勝国として1919年のパリ講和会議に参加した。 パリ講和会議のヴェルサイユ条約では、日本は山東省の旧ドイツ権益の継承が認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。

しかし、その少し前に朝鮮で起きた「三・一独立運動」の影響もあって、日本のドイツ利権の継承に対して、北京の学生数千人が1919年5月4日、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をし、デモ隊は暴徒化した(五・四運動)。 この五・四運動が中国共産党の設立を促し、やがて泥沼の日中戦争へとわが国は向かうことになる。

山東還付問題については会議中からアメリカが反対した。我が国は戦勝国として臨んだ講和会議であったが山東還付問題でアメリカから批判されたことで、講和会議に参加した外交官や新聞各紙の記者は衝撃を受けた。

▼ペリー来航の目的

このように大正期において日米対立が顕著になるが、その対立の歴史はさらに遡る。 1853年のベリー来航の第一の目的は、アメリカは日本を捕鯨船団の寄港地にすることであった。当時、太平洋を漁場にした捕鯨の最盛期でもあった。日本近海には、アメリカの捕鯨船がひしめきあい、灯火の燃料にするため盛んにクジラをとっていた。

しかし、アメリカのもっと大きな狙いは中国(清)利権の獲得であった。つまり、当時4億人の市場を持つ中国への市場拡大を狙っていた。そのための寄港地が日本というわけである。

米国のアジア大陸の進出の目論みは南北戦争(1861~65年)によって、いったん中断されたが、この戦争が終わり、米国は本格的にアジア・太平洋の支配を狙いにスペインとの戦争を開始した。 1898年にハワイ、次いでフィリピンを獲得し、1902年までにフィリピン独立戦争に勝利してここを植民地として、加えてウェーク、サモア、ミッドウェー等を押さえ、南太平洋上に日本を取り巻く形で、太平洋の支配に乗り出した。

そして、いよいよ中国への進出である。しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど中国分割が進んでいた。 そこで、アメリカの国務長官ジョン=ヘイは、1899年と1900年の二度にわたり、「清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきである」として、中国に関する門戸開放(もんこかいほう)・機会均等の原則を求めた(門戸開放宣言)。さらに1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。

▼アメリカのオレンジ計画

1904年、満州利権をめぐって日露戦争が生起した。この時、イギリスとアメリカはロシアの満州占領を反対して、日本支持を支持したが、日本がロシアに勝利したことで、アメリカは日本に対する脅威を増大させていった。

アメリカは1904年、陸海軍の統合会議を開催して、世界戦略の研究に着手した。ドイツを仮想敵国にしたのがブラックプラン、イギリスに対してはレッドプラン、日本に対してはオレンジプランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したのである。

オレンジ計画では、日本はフィリピンとグアムに侵略することが想定された。つまり、アメリカが占領した太平洋の拠点を防衛する上で、日本は想定敵国に位置付けられた。日露戦争の日本勝利によってオレンジ計画はより具体化されていった。

▼白船事件

オレンジ計画の具体化のひとつともいうべき事象が白船事件である。アメリカは1907年に大西洋艦隊を西海岸のサンフランシスコへ回航すると議会で発表した。この時にはまだ世界一周航海であることは伏せられていた。

同年12月16日、大西洋艦隊は出港し、翌1908年の3月11日にメキシコのマグダレナに到着すると、3月13日にルーズベルトは航海の目的が世界一周だと発表した。 つまり、アメリカは大西洋艦隊を大挙して太平洋に回航させ、日本近海に近づけるということ行動に出たのである。

日本の連合艦隊の2倍の規模もある大艦隊の接近は日本に恐怖をもたらした。船は白いペンキが塗られていたのでかつての黒船と区別して「白船」と言われた。

米国は、海軍力を誇示することでロシアのバルチック艦隊を破った日本海軍を牽制したのである。 アメリカのハースト系新聞その他は、日本軍がこれを迎え撃った場合は大戦争が始まるということで、世界に一斉に煽情的な報道を流した。 これに対して、日本政府とマスコミは「白船歓迎作戦」に出た。この作戦が奏功し、何事もなくアメリカ艦隊はサンフランシスコへ去っていった。

▼日本人移民排斥運動

日米関係の悪化のもう一つの背景には、アメリカ国内における日本人の移民問題があった。 1848年1月、カルフォルニア州で金鉱山が発見されると、鉱脈開発や鉄道工事で多数の中国人労働者が受け入れられた。

しかし、中国人労働者の入植によって自分たちの地位が奪われるとして、カルフォルニアの白人労働者が1860年代から脅威を覚えるようになった。そこで、1882年に中国人の移民が禁止された(排華移民法)。

他方、日本からのハワイへの移民は明治時代初頭から開始されていた。上述の排華移民法の成立と1898年のアメリカによるハワイを併合が、日本人による米大陸本土への移民を促した。

こうして日本人移民は1900年代初頭に急増した。急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で、日本人移民は現地社会から排斥されるようになり、1905年5月に日本人・韓国人排斥連盟が結成された。

1906年4月、サンフランシスコ大地震が発生した。この際、大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、サンフランシスコ当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じた(日本人学童隔離問題)。

この事件を契機に、アメリカでは「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。 その後も、アメリカ合衆国の対日感情は強硬になり、1924年7月(大正13年)、排日移民法が制定されたのであった。

▼ワシントン会議における対日圧力

1921年11月12日から 翌22年2月6日かけて、第一次世界大戦後のアジア太平洋地域の新秩序を形成するための国際会議がアメリカのワシントンで行われた。 この会議には、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国(中国)・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加したがソ連は会議に招かれなかった。

同会議では、重要な三つの条約が締結された。第一は「四か国条約」(1921.12月)である。これは米・英・日・仏が参加した太平洋の平和に関する条約であり、これによって日英同盟は破棄された。

第二は「9か国条約」(1922.2)である。これは中国問題に関する条約であり、中国の主権尊重、門戸開放、機会均等などが約束され、「石井・ランシング協定」は破棄された。 つまり、この条約締結により、日本の中国に置ける特殊地位は否認され、た。山東省における旧ドイツ権益を中国へ還付することになった。

第三は「海軍軍縮条約」(1922.2)であった。この条約により、主力艦保有はアメリカ・イギリスが各5、日本3、フランス・イタリア各1.67として、今後10年間は老朽化しても代艦を建造しないことが約束された。 日本国内では、この軍縮条約をめぐって、海軍軍令部が対英米7割論を強く主張したが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が部内の不満を押さえて調印した。

▼帝国国防方針の改定

こうした情勢下、わが国は1918年(大正7年)と1923年(大正12年)に帝国国防方針を改定した。 1918年の第一次改定では、海軍の対米作戦計画は、「敵海軍を日本本土近海沿岸に引き付けて集中攻撃を行う」こと本旨とする守勢作戦であった。

これがため、米艦隊の現出を硫黄島西方海域やフィリピン島東方海面に予想し、我が根拠地を奄美大島、沖縄に求めることにしていた。 しかし、1923年の第二次改定では、「開戦劈頭、まず敵の東海における海上兵力を掃討し陸軍と協同してその根拠地を攻略し、西太平洋を制御して帝国の通商貿易を確保するとともに敵艦隊の作戦を困難にならしめ、然る後、敵本国艦隊の進出を待ちこれを邀撃し撃滅する」と改められた。

つまり、陸海軍は対米戦の場合、フィリピン島攻略を本格的に取り組むことになった。また、毎年実施された海軍大演習はこれに準拠して訓練の向上に努力させられたが、陸軍部隊の南洋委任統治領に使用することなど全然考慮されていなかった。

▼ワシントン条約からの撤退

1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約は日本で政治問題化し、海軍内では艦隊派(条約撤退)と条約派の対立が生起した。当初は条約派が主導してようやく締結にこぎ着けたが、32年からは艦隊派が優勢になった。 1931年の満州事件とともに、海軍軍縮条約を締結するかいなかの重大な案件が持ち上がった。

元老、重臣は国力からして国際協調路線であった。陸軍も満州国建設や対ソ作戦準備の点から条約維持を主張した。 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、1876年~ 1943年)陸軍大臣は、大角岑生(おおすみ みねお、1876年~1941年)海軍大臣に対して条約継続を強く希望した。

岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年~ 1952年)総理も、軍縮会議の存続を望み五相会議で論議されたが、大角大臣は、「それでは部内が収まらない」として、ワシントン会議よりの脱退を主張した。かくして、海軍出身の岡田総理は1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約脱退通告を米政府にいたした。

とかく陸軍が引き起こした満州事変及び日中戦争が太平洋戦争を招いたとの文脈で捉えられるが、太平洋戦争の遠因はペリー来航から始まっていた。そして、大正期の軍縮条約を是としない海軍艦艇派は対米戦に向けて準備を進めたのである。 そこには、陸海軍を統制する国家の情報機関の不在と、国際問題を大局的に分析するインテリジェンスが欠如していた。

未来において必要とされる能力と資質!  

我々の未来の環境はさまざまですが、AI(ITC含む)環境とグローバル環境に集約されます。

総務省はAI環境に必要な能力と資質について、人間的資質、企画発想力や創造性、対人間能力、業務遂行能力、基礎的素養に区分して、以下の能力や資質をあげています。

◇人間的資質:チャレンジ精神、主体性、行動力、洞察力

◇企画発想力や創造性 ◇対人間能力:コミュニケーション能力、コーチングなど

◇業務遂行能力:情報収集力、課題解決力、論理的思考力など

◇基礎的素養:語学力、理解力、表現力など  

他方、文部科学省はグローバル人材の定義に関して、要素Ⅰ、要素Ⅱ、要素Ⅲに区分して、以下の能力や資質をあげています。

◇要素Ⅰ:語学力、コミュニケーション能力

◇要素Ⅱ:主体性、積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感

◇要素Ⅲ:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー

また、文部科学省は、以上のほか、幅広い教養と深い専門性、課題発見・解決能力、チームワークと(異質な者の集団をまとめる)リーダーシップ、公共性・倫理観、メディア・リテラシー等が重要であるとしています。  

筆者は20数年前、陸上自衛隊調査学校(現在の情報学校)の新米の情報教官でした。当時、1992年の自衛隊カンボジア派遣などを契機に、“情報化”と“国際化”に対応する人材育成が喫緊の課題として認識されていたように記憶しています。

そうしたなか、陸上自衛隊の情報要員に対して「養成すべき資質や能力は何か?」というテーマが“侃侃諤々”と論議されていました。

筆者は現職時、教官業務の一環として相当数の「教育課目表(レッスンプラン)」を作成してきました。 これは簡略化すれば、上級司令部が示す教育基準、学校長の教育指針、前年度の成果、内外情勢及び教育環境などを踏まえ、基本的に修得すべき能力及び資質と、内外情勢の変化を対応して修得すべき能力及び資質について、それらの具体的な内容やバランス(配当時間)を明確にします。

次に、それらの能力及び資質を明らかにしたうえで、それらを達成するための課目及び課目内容を案出して、教育基準で示された精神教育、知識教育、実習、研修などの大項目区分に従って、課目と課目内容を割り当てていくことになります。

この作成過程において、もっとも苦心するのが、養成すべき能力及び資質を案出することですが、20年前の「教育課目標」の作成過程において、上述の総務省や文科省が列挙する項目はほぼ網羅されていたように記憶しています。

当時のAI環境、グローバル環境に比べて、現在は相当に進化しています。そ して、「今後10~20年程度で米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化さ れるリスクが高い(英オックスフォード大学でAIなどの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授)」、「2045年にAIが人間の能力を超えるシンギュラリティが訪れる(AI分野における世界的権威であるレイ・カーツワイル、ソフトバンク会長兼社長の孫正義氏など)」などの予測もあります。

また、グローバル化においては「ヒト」「モノ」「カネ」のボーダレスな流通が恒常化され、ITC発展とあいまって外国人労働者の流入、キャッシュレス社会、消費社会からシェア社会といった生活環境の変化がすでに起きいています。これが未来はさらに急速に進展すると予測されます。

このような環境変化に関する予測を受けて、多くの人が「10年先はわからない」、「私たちの仕事がAIに奪われる」といった不安感が次第に蔓延しつつあります。また「どのようなスキルを身に着けるべきか」などの暗中模索の思考がおこなれています。

たしかに、今後、これまでの職業がAIにとって代わられたりするといった状況が起こることは間違いないでしょう。つまり、ドライバーが自動運転技術にとって代わられた、精密技工や外国語の翻訳などがAIにとって代わられることになるでしょう。

「時代は流れる」「環境は変化する」、これは自然の法則です。そして結局のところ、先行きは 不透明であり、未来をずばっと言い当てることなど、神様でもなければ不可能です。

だから、「万物は流転する」といった自然の法則を受け入れ、そのうえで未来のシナリオを複数想定して、 基本的に必要とされる識能と資質をベースに、 自らが修得すべき識能と資質に磨きを掛けることが求められます。

ただし、筆者は上述の経験から、基本的に必要とされる能力・資質はいつの時代においても大きく異なるものではないと考えています。もちろん、それらの能力及び資質のうち、どれがより重視されるか、どの程度の語学レベルが求められるのかといった点には変化はあるでしょう。

環境の変化に柔軟に対応する(環境は変化するという事実を受け入れて、周囲の意見を聞いて自分の出来ることをやる)、リスクを恐れずに主体的・積極的に物事に取り組む、多様な仲間達と協調して困難を克服する、これらの基本的な能力及び資質があれば、「どのような環境であれ、世界であれ、領域であれ、やっていける」のではないでしょうか?

韓国海軍艦艇のレーダー照射事件について思うこと!

日韓レーダー照射問題で対立

現在、「P1哨戒機が火器管制レーダー照射による威嚇を受けた」とする日本側の主張に対して、日韓両国が真っ向から対立しています。

わが国の見識者は、「事実関係の解明が重要だ」としています。しかし、韓国側が完全否定している以上、事実関係を対外的に明らかにするためには決定的な証拠を公開して第三者の公的判断を仰ぐ以外にはありません。

つまり、P1哨戒機が解析しているであろう、『異常かつ不明』な電磁波信号を公開する必要があります。しかし、これは、自らの技術を明かし、そうでなくても先行きが不透明な韓国軍に火器管制レーダーの改良を促し、そうした情報が他の第三国に流れる懸念もあります。

こんなことは到底不可能です。その足元を見透かすかのように、韓国は逆に、「哨戒機が威嚇的低空飛行をしてきた」などと反論し、日本に対して謝罪を要求しています。他方、韓国は実務協議で問題解決を図る姿勢をちらつかせていますが、これはP1哨戒機が収集した電波情報の共同分析の提案という“魔の一手”(要は、日本側の電波情報だけが提示される)になる可能性があります。

思い起こされる大韓航空機007便撃墜事件

1983年9月に発生した「大韓航空機007撃墜事件」では、あくまでも事実を否認するソ連に対し、米国は国連の場において陸上幕僚監部調査部別室(当時)が行なった傍受交信の記録テープを証拠に「ソ連軍機が007便を撃墜した」と発表しました。

このテープの公開については、当時の中曽根総理や後藤田官房長官は当初、了承していなかったといいいます。

米国はわが国のインテリジェンスを利用することで、ソ連による航空機撃墜の事実を証明しました。しかし、わが国が長年かけて蓄積した、対ソ連のシギント収集のための指向周波数が公表され、ソ連はそれまで使用していた通信暗号を全面的に変更した。

その結果、わが国の傍受器材や傍受要領が通用しなくなり、シギント基盤は大打撃をこうむり、その再構築には多大な経費と時間を要したといいいます。

つまり、今回のような事案では、わが国は韓国に決定的な証拠を突きつけることは困難なのです。結局は事実関係の対外的公表はできないことになります。

国内向けに宣伝戦を続ける両国

日本は懸命に韓国側の危険行為の事実と、韓国側の主張の正当性のなさを主張しています。しかし、上述のように決定的な証拠が出せないのですから、あまり対外的な効果はありません。

国民に対して、粛々たる対応姿勢をアピールすることが狙いかもしれませんが、その国民からは「韓国側に明確な抗議を示せ」「具体的な措置を取れ」といった厳しい意見も多いようです。

韓国は完全に開き直って、韓国政府の立場をまとめた日本語を含む計6カ国語の動画を追加公開して、自国の立場を国際社会にアピールしています。

これに対して、日本では、「ほとんどは日本側の映像だ」とか、「こんな根拠のない主張は国際的には認めらないし、宣伝は効果はない」と、高をくくっていますが、はたしてそうでしょうか?

世界にとって日韓問題は極東アジアの些末な問題であり、どうでもよいことなのでしょう。たくさん目にしたもの、耳にしたものを批判なく信じ、利益を与えてくれるものに味方し、世論が少しづつ形成されて、固定観念になっていきます。それは、慰安婦問題などの歴史問題をみればよくわかります。

つまり、事実が正しいかどうかではなく、なりふり構わないロビー活動などにしてやられているのが現状です。

情報分析して何をするのか?

この問題については自衛官OBも含めて専門家などがコメントされています。主な意見は次のように整理できます。

◇現場サイドによる恣意的な判断でレーダーを照射したのであろう。

◇謝罪すれば済む話であった。ただし国防部は、南北関係の重視と歴史問題で支持率維持を狙う文在寅政権に対する忖度によって謝罪に応じられなくなっている。

◇日韓の軍事関係は以前として良好である。韓国海軍は実務協議で問題解決のメッセージを送ってきている。

つまり、現在の日韓関係のほとんどの問題は、文政権という不正常な一時的な状態に起因しているという見解です。

それにしても、事実関係の解明だとか、韓国側の意図だとか、情報分析ばかりしているような気がします。

筆者に言わせれば、「事実は日本側の主張どおり。でも、そんなことはもういい。それよりも、何ゆえに韓国側の意図を分析しようしているのか、情報分析の結果をどのような戦略・戦術に反映するのか、明確なスタンスを持ってほしい」ということです。

韓国はほんとうに友好国なのか?

上述のような専門家のコメントには隠れた前提があります。つまり、「日韓関係は基本的に変化がなく、韓国は依然としてわが国の友好国である。だから、昨今の北朝鮮情勢や中国情勢を踏まえた場合、韓国との緊密な軍事関係を維持する必要があるのだ」というものです。

これでは、いくら情報分析しても戦略・戦術は変わりません。すなわち、戦略・戦術にインテリジェンスを反映できません。

しかし、本当にこの前提が本当に正しいのか、一度考え直す時期に来ていると筆者は考えます。

中・韓・北VS日・米という地殻変動はすでに起きているのではないか?その背景には地政学的な力学のほかに地経学的な力学が働いているのではないか?日韓の軍事関係は良好であったのは過去、あるいは一部の高級幹部に限られているのであって、韓国軍の中堅幹部は反日・親中に傾斜しているのではないか?

これらのことを慎重に判断して、韓国との軍事関係のスタンスを見直すことが重要なのではないでしょうか。

筆者は日・米・韓の軍事関係がどの程度変化しているのかはわかりません。また、韓国の指導層にもさまざまな意見や派閥が存在することは間違いないでしょう。

ただし、インテリジェンスの視点からは「日・米・韓が協力して中国の台頭や北朝鮮の突発行動に対処すべき」との前提論に固執しすぎると、情報分析を誤りかねない、このことを申し上げておきます。

この点、有村香氏は相手の意図を分析することに終始して対応が遅れることの問題点を指摘されています。まことに拝聴の価値があります。

韓国と中国の相似性

それにしても、このような問題をめぐる韓国と中国の相似性には驚くべきものがあります。これは儒教文化など歴史的にも起因するのでしょうが、中国、北朝鮮、韓国はまさに双生児といってもよいかもしれません。

ここにはまったく日本的な禅譲、謙虚、誠実といった文化はありません。それでも、新聞等をみますと、文大統領が日本に対して“謙虚”になれ、といっているようですが、これはおそらく翻訳の誤りでしょう。中国や韓国に謙虚という言葉があるとは思えません。

第七計「無中生有」(むちゅうしょうゆう)―捏造 される領有権 問題

以下は、筆者の2016年に出版した『中国戦略悪の教科書』からの抜粋です。

― 「でっちあげ」の計略 -

「無中生有」は「無の中から有を生ず」と読む。語源は「万物は無から生ずる」との『老子』からの引用であるとされる。 本来はなかった物をあるようにみせ、その間に着実に実態を整える計略である。いわゆる「でっちあげ」「はったり」の計略である。

「無中生有」は中国の常套手段だ

二〇一二年九月、わが国による尖閣諸島国有化の以降、日中間の軋轢が急上昇した。中国国内での反日デモはまもなく収まったが、「海監」および「漁政」などの法執行船による尖閣諸島領海内への侵犯が常態化した。

二〇一三年一月一三日、尖閣諸島北方の東シナ海公海上で、中国海軍のフリゲート艦が海上自衛隊護衛艦に対し、約三キロ離れた所から、約三分にわたって射撃管制用レーダー(FCレーダー)を照射した。

わが国が中国側に対し二月五日、中国側がFCレーダーを使用したことを公表して、「危険きわまりない」と抗議した。 翌二月六日、中国外交部(外務省に相当)の定例記者会見で華春瑩(女性)・副報道局長は「外交部は日本から抗議されるまで知らなかったのか」との質問に対し、「そう理解してもよい」と返答した。

二月八日、国防部は「照射したのは監視レーダーだ」とし、FCレーダーの使用を完全否定した。そして副報道局長が「日本側の無中生有だ」と言い放った。 開き直りともいうべき完全否定は、FCレーダーを照射することの重大性を認識できる国際常識は持ち合わせていたことを示すものであろうが、一方、中国指導部は予期しない事態の対応に迫られたことで、「無中生有」だと居直り、完全否定を押し通すしかなかったと推察される。 また、副報道局長の「無中生有」発言は、中国がこの計略を常套手段として、平素から多用している証左であろう。

抗議には逆抗議で居直る

二〇一四年五月二四日、中国の戦闘機二機(Su-27)が東シナ海上空で自衛隊の情報収集機(YS-11EB)に約三〇メートまで接近した。同年六月一一日に、オーストラリアの国防相と外務相が来日中に、中国の戦闘機二機がふたたび自衛隊の情報収集機に接近した。

小野寺防衛大臣(当時)が、「こうした危険な飛行を行なわないよう」に外交ルートを通じて抗議した。これに対し六月一二日、中国国防部は「東シナ海の中国の防空識別圏で定期哨戒飛行中のTu-154型機が日本のF-15戦闘機二機に三〇メートルの距離に異常接近された」として、〝証拠〟の動画を公表した。

この動画を分析したわが国の専門家によれば、日中双方の航空機の距離は十分に保たれており、中国側の主張はまったくの捏造であった。 中国国防部は、わが国の抗議に対して居直り、逆に「自衛隊機の異常接近」をでっち上げることで、わが国を逆牽制するとともに、諸外国に対して、自らの正当性をアピールする国際宣伝戦に出たものとみられる。

尖閣諸島の領有権は〝でっちあげ〟

最近の日中間対立の直接原因は尖閣問題にある。これについても、中国側による「無中生有」であることを指摘しておかねばならない。

わが国は一八八五年から尖閣諸島に対する現地調査を開始し、台湾割譲が合意される下関条約の締結以前に、同諸島が占有者のいない土地、すなわち国際法上の無主地であることを確認し、わが国領土に編入した。 これに対し、当時の清国からは、なんらの異議申し立てはなかった。

その後、尖閣諸島は一九五一年の「サンフランシスコ平和条約」で沖縄本島とともに一時的に米国施政下に置かれ、七一年に、「沖縄返還協定」に基づき、沖縄とともに施政権が返還された。

この間、中国は尖閣諸島の領有権を公式に主張したことは一度もない。中国が五八年に発表した「領海声明」においても、尖閣諸島は中国の領土だと主張されていない。

ところが、中国は一九七一年、「尖閣諸島は中国古来の領土である」との領有権主張を開始した。これは、国連アジア極東経済委員会が同海域の海洋調査を実施し、六八年に「同海域には大規模な石油・ガス田が存在する可能性が高い」こと発表したことに対応したものである。

その後、「日中平和友好条約」の締結が大詰めに近づいていた一九七八年四月、中国の武装漁船が同諸島付近に集結し、日中に一挙に緊張が高まった。この際、鄧小平(とうしょうへい)・副主席が「問題を後代に委ねよう」と「棚上げ」を提唱し、尖閣問題は一応の沈静化をみた。 

しかし一九九二年、中国は「領海法」を制定し、南沙諸島などに加え、尖閣諸島の領有権を明記した。つまり、中国はいったん自ら「棚上げ」を提唱しておきながら、一方的にそれを放棄した。 中国は尖閣諸島の領有権を〝でっち上げ〟、そして「棚上げ」論でわが国を油断させ、その間に尖閣諸島が「自らの古来の歴史的領土」であることを正当化する文献の収集と、自国にとって都合の悪い日本側の文献・地図の棄却を行ない、「領海法」という国内法でもって外堀を固めた。

明代に著された書物に釣魚台の文字が記述されてあったとの主張を中心に、領有権の存在を国内外に喧伝していく一方で、尖閣諸島と記述されている『中国地図集』は都合が悪いため、中国政府が躍起になって回収しているといわれている。 まさに「無中生有」の実践が行なわれているのである。(以上、引用終わり)

さいごに

今回のレーダー照射事件はおそらく、今後の日韓関係の未来に起こり得ることの氷山の一角なのでしょう。

事実関係や直接的な原因を追求することも重要ですが、一角の現象はどこから来ているのか?地理、歴史、文化など、さまざな根底要因を洞察することが重要です。そして、大きな変化はとらえることが重要です。

その分析手法を氷山分析といいます。興味のある方は検索してみてください。

外国人労働者はわが国に幸運をもたらすか!

人口構造の変化

わが国は少子高齢化に急速に向かっており、労働人口の現象、地方における限界集落など、さまざまな悪影響が懸念しています。他方、世界では未だに人口が増加して、アジアやアフリカにおいては多くの余剰労働力があります。

そこで、わが国の少子高齢化の対策を考えるうえで、世界における爆発的な人口増加は何がもたらしたのか?この要因をPESTで分析してみましよう。

政治(P)では政府の政策に作用される側面が大きいと考えます。

中国は第二次世界大戦後に爆発的な増加の道を辿ります。これは中国政府が「人口が多いのは重要な国家財産である」と楽観的な思想の下で人口増加政策を推し進めたことにあります。

その反動から1979年から「一人子政策」を開始しましたが、2016年から労働者人口が減少に転じたために、一人子政策を廃止しました。

経済的(E)には工業化による経済成長が大きく左右していると考えられます。

世界的な人口爆発は、18世紀の農業革命とその後の産業革命時期に起きます。つまり、大量の食糧や商品を生産して消費する消費経済が人口増に適していたわけです。  

社会的(S)には戦争との関係が大きいとみられます。

第二次世界大戦後、世界各国にはベビーブームが訪れますが、これは終戦による安堵感から沢山の子供が出来たとみられます。   

技術的(T)には、テクノロジーによる食糧や物の生産力の向上があげられます。

農業分野におけるテクロノジーの導入は穀物生産量の大幅増となり、これが人口増加に直結しました。また、医療技術の進歩によって安定出産と長寿化が図られました。

日本の第一次ベビーブームの到来

わが国の第二次大戦後に第一次ベビーブーム期(1947年~1949年)を迎えます。つまり、終戦による社会の変化、安心感が人々に子供を持つ希望と勇気を与えました。

1949年には年間出生数は約270万人の最高値を記録しました。第一次ベビーブーム期の3年間に生まれた人たちが「団塊の世代」と呼ばれます。これは約800万人に達していました。

やはり、人口増の背景には政府の政策が大きく作用しました。第二次世界大戦後、経済復興のための政府は「生めよ、育てよ」をスローガンにした 子供の出生を奨励しました。この政策と、社会的な平和、そして飛躍的な経済発展による景気感が第一次ベビーブームの到来となったのです。

このように出生率が向上して、テクロノジーの恩恵によって医療技術がもたらす長寿化が、わが国の人口を急激に押し上げたのです。

わが国の出生率は早くから低下した

しかしなが、わが国の出生率は意外にも、第一次ベビーブームが終わるとすぐに低下することになります。

第一次ベビーブーム期から約20年後の1970年代初頭、第二次ベビーブーム期(1971年~74年)が訪れます。この時期には毎年約200万人、計800万人の子供が生ました。これは「団塊ジュニア」と呼ばれます。

このベビーブームは、第一次ベビーブームの「団塊世代」による“ボーナスの配当”です。実は、女性一人の少生率に限ってみれば、それ以前から減少していたのです。

合計特殊出生率(15歳から49歳までの女性1人の出産率)は第一次ベビーブーム期には4.3を超えていました。しかし、その後、特殊出生率は急激に落ち込んでいき、第二ベビーブーム期には約2%になっていました。

人口を維持できる合計特殊出生数の水準は2.07とされることから、すでに未来の危機となる少子化の傾向は始まっていたたわけです。 このように、出生数の低下という現象は穏やかに始まっていましたが、「団塊の世代」という大きな分母が「団塊ジュニア世代」という大きな分子を生んだのです。このことが、政府は国民の未来への楽観視へとつながったのかもしれません。

1975年以降の出生数はほぼ減少し続けていきました。合計特殊出生率も漸減していき1989年には1.57まで落ち込み、「1.57」ショックと呼ばれました。なお、この影響には、この年にあたる「丙午(ひのえうま)」に生まれた子供は縁起が悪いというジンクスの影響が加算されました。

合計特殊出生率の低下により、団塊ジュニア世代が結婚適齢期になる1990年代の前半になっても、第三次ベビーブームは起こりませんでした。合計特殊出生率は2005年には過去最低の1.26まで落ち込みました。

その後はやや持ち直し、最近では1.5弱を維持していますが、2016年以降また減少傾向にあります。

出生数の方も1975年以降、減少の一途をたどり2016年からは毎年100万人を下回っています。第二次ベビーブーム期の約半分まで落ち込んだことりなります。

しかし、それでも人口全体の数はずっと増え続けていました。なぜならば医療技術などによって平均寿命が大幅に伸びたからです。このことが、人口構成の変化がもたらす危機についての認識欠如に繋がりました。

平均寿命は戦後ほぼ一貫して伸び続け、1990年と2017年を比較すると、男女ともに5歳以上を伸長しています。 しかし、長寿化の速度を少子化の速度が上回ったことから、わが国は2010年から歴史上初の人口減少を迎えました。

この場に及んでようやく人口の問題がクローズアップされます。しかし、その問題の原因ははるか昔に発生していました。政府や国民の楽観視が問題解決の本質に気づかなかった、気付こうとしなかったといえます。

日本の人口予想

人口減少の傾向は、2010年の1億2806万人が、2040年には1億728万人になると推測されています。 また65歳以上の高齢者が社会全体に占める割合は、2010年には23%であったが、2035年には33%を超えて3人に1人が高齢者となります。2042年には高齢者3878万人でピークを迎えますが、高齢者率はその後も増え続け、2060年には約40%に達すると予測されています。

このようにわが国は少子高齢化に向かって進んでいますが、高齢化の波を押しとどめることは道徳的、倫理的な観点から不可能です。 したがって少子化の改善が急務となっています。つまり直接的な人口減少原因である出生率の低下に歯止めをかける必要があるのです。

先に見てきましたように、世界的な人口増加は終戦、政府の政策、経済発展、テクノロジーの進化がもたらしましたが、これからは消費社会からシェア社会へと移行していきますので、世界的に人口増加という方向には向かうわけではありません。

しかし、わが国における少子高齢化という歪な体制を解消するためには、当面の出生率を回復・上昇することは不可欠です。

その出生率の低下は女性の高学歴化や社会進出の影響が大きいとされます。1950年代の後半から日本は高度成長期に入り、経済の中心は農業から工業・サービス業へと移り、学校を終えた女性が外で働くことが一般的となりました。1967年には、初めて女性雇用者の数が1千万人を超えました。

さらに政府による女性の労働奨励(1986年の男女雇用機会均等法)、中絶合法化、男女同権などの政策が出生数にブレーキをかけていきました。

また人口減少が地方都市での産業の空洞化を生み、大都市に人口流出が起きたことも少子化の原因です。都市部への人口集中が起きると、そこでは経済の過当競争が起こり、共働き家族が増えます。すなわち女性の社会進出によって、ますます少子化が加速することになるのです。

女性の社会進出が少子化につながるという悪循環

わが国は世界でも類をみない少子高齢化社会の到来を迎えて、労働力不足のための外国人労働者の受け入れや、高齢者の活用、さらにはAI(人工知能)などを模索しながら、少子化の根源原因の改善に努めなければならないとみられます。

少子化が直面する喫緊の課題が労働力不足です。この対策の一つとして、政府は女性の活用を挙げています。しかし、 しつかりとした対策を講じなければ、 先述のように女性の社会進出が少子化の原因となったのですから、負のスパイラルに陥る可能性があります。

政府は女性の活用を促進しつつ少子化を抑制するために、子育て支援、働き方改革などを推進する方向を示しています。しかしながら、女性の社会進出によって女性の結婚観、人生観にも変化が見られています。このような価値観の変化には政府による各種の優遇策は無力であるかもしれません。

ただし、同様に少子化で苦労していたフランスでは、金銭的な子育て支援策のほかに、結婚に縛られない出産環境を整えました。現在で50%以上がシングルマザーとなり、合計特殊出生率も2.07%を上回っています。 このことは、わが国にも一縷の希望をもたらすことになるかもしれません。

外国人労働者の問題

労働力不測の対策のもう一つの対策である外国人労働者についてはどうでしょうか?

これについては賛否などについて侃侃諤々の議論がなされていますが、昨年(2018年)暮れに、筆者はある出版社の社長さんと、銃器の世界的な権威であるT氏と会食する機会があり、その時にT氏がお話しされたことがとても有益だったので、皆様に紹介します。  

T氏はドイツと日本で計50年生活されている国際人です。そ の方から見る、現在の日本人や日本の在り方論には大いに感銘を 受けました。

よく未来予測は「すでに起きている現実に着目せよ」と いわれますが、ドイツは少子高齢化の先進国です。 つまり、日本が労働力不足解消のために外国人労働者の受け入れることが、どのような未来を引き起 こすかを予測するには、ドイツですでに起きている現象を知ることが重要なのです。  

ドイツはその労働力不足の解消や、グローバル化の世界的な影響を受けて、どんどん移民を受け入れています。 T氏によれば、ドイツではイスラム系トルコ人が移民として移 り住んでおり、とくに問題となるのが、ドイツ国籍を取得したトルコ系二世のドイツ人なのだそうです。  

最初に父親たちがトルコからドイツに移住します。彼らはドイ ツ人女性とは結婚せずに、トルコ人女性との結婚が主流のようです。父親は仕事に就くために、努力して語学を修得します。でも、 遅れてドイツにやって来る母親(恋人)は生活に必要なドイツ語 しか修得しようとしません。  

だから、その両親によって育てられる二世は、言語でドイツ人 と障壁を持つことになります。また、風貌もドイツ人とは異なっていますし、宗教はイスラム教です。つまり、ドイツ社会では法 や規則ではわからない、知らず知らずの差別化が生まれているの だそうです。

こうした若者は自分のアイデンティティーに疑問やジレンマを抱くことになります。そして集団に属さない、行き場のない若者が生まれるのだそうです。

おそらく、そこにテロ組織が目をつけて、彼らの所属先を提供 し、これがテロ組織の勢力拡大や、ローンウルフ型のテロを生む原因となっているのだと思います。  

また、イスラムでは4人まで妻を持つことができるようです。 成功したトルコ人は複数の妻を養おうとして、それがドイツ政府との間で問題となっているようです。こんなことはドイツでは当然許されません。

また、心のよりどころが欲 しくなり、成功したトルコ人はモスクを立てようとします。しか し、ドイツとしては、どこでもかしこでも宗教的建築物を建築してもらつてはこまります。だから、それを拒否する政府とイスラム系トルコ人との軋轢という問題が起きているようです。  

つまり、宗教、文化といった障壁が、トルコ人とドイツ人の拭い切れない内部対立を生んでいるようです。  

さらには、一部のドイツ人がトルコ人になりすまし、「いかに差別された労働環境で働かされたか」といったドキュメンタリー記事を書いて、大注目されるといったことも生起したようです。  

どの世界でも、反政府派は存在します。彼らは現政権を打倒す るために、差別や“ブラック”を意図的に用いて大衆の不満に訴 えるというのが常套なのです。

T氏のわが国の未来への警鐘 

そのほかにも、T氏からはさまざまな有益なお話を賜りましたが、わが国の政策についてのT氏の懸念をいつくか紹介します。

○歴史的に民族の往来があるドイツでもこういう状況です。島国である日本に、たとえばインドネシアからイスラム系の外国人労働者がたく さん入国したらどうなりますか?多神教のわが国が、どの程度イスラム教を容認できますか?

○徴用工の問題がありますよね。彼らは自主的に日本での仕事に 志願したにせよ、目に見えない仲間内の差別は当然あったでしょ う。これと同じようなことが、あらたな外語人労働者との問題と して起こる可能性はあります。徴用工のような問題がふたたび未来に起こる、それを政府は理解しているのでしょうか?

○外国人労働者を5年間も日本で働かせて、「ハイ、さよなら」 とはいきません。彼らが自国に帰っても、すでに生活基盤はあり ません。結局は、日本に住むことになります。そうしたことを考 えていますか?都合の良い弥縫的な政策でお茶を濁そうとしていませんか?

○外国人による刑事事件が生じれば、警察には特殊言語の専門家が必要です。また行政の窓口にも特殊言語の専門家がいります。 それも規模が拡大すれば市町村レベルまで必要になります。こ ういう点を考えると、労働力不足の解消にはつながりません。もっとA Iの導入などをしっかりとやるべきでしょう。  

まさに、ドイツの現状を知る人ならではの貴重なお話でした。