わが国の情報史(3)

楠木正成、湊川の合戦で死す

 後醍醐天皇による建武の中興は、それまでの武士の社会で作られていた慣習を無視していたため、多くの武士の不満と抵抗を引き起こした。このような中、武士の再建を目指していた足利尊氏(あしかがたかうじ)が朝廷に反旗を翻した。

朝廷は新田義貞、楠木正成、北畠顕家(きたばたけあきいえ)らを派遣し、いったんは尊氏軍を撃退した。尊氏は九州に逃れた。だが、この際、朝廷軍から多くの将兵が尊氏に追随したのである。

正成は、尊氏の能力の高さもさることながら彼の人望を高く評価し、尊氏が再び朝廷の脅威になることを見抜き、後醍醐天皇に尊氏との和睦を奏上する。しかし、尊氏に対する勝利に浮かれた天皇や公家は、正成の忠言を一顧だにせず、正成は朝廷から不興を買ってしまった。

一方の尊氏は、九州で軍勢を建て直し、朝廷に不満を持つ勢力や民衆を引き連れ、再び京都に攻め込もうとする。その数や優に10万人を超えていた。

朝廷は新田義貞を派遣し、尊氏軍を阻止しようとした。しかし、力の差は歴然であり、すぐに天皇のもとに義貞軍退却の報が知らされると、正成に「尊氏軍を迎え討て」との命が下された。

正成は、尊氏とまともに戦っては勝目がないと考え、帝は比叡山に潜伏していただき、義貞軍とともに京都で尊氏軍を挟撃し、兵糧攻めにする案を進言した。だが、この進言も後醍醐天皇によって退けられ、正成は義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられたのであった。

1336年5月16日、正成は京都から兵庫に下向した。道中、正成は息子の正行(まさつら)に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う。自分が討死にをしても、お前は生きて帰り、いつの日か朝敵を倒せ」と述べ、桜井の宿から河内へ帰るよう正行に命じた。

これが有名な楠木父子が訣別する『太平記』に描かれる「桜井の別れ」(史実であるかどうかは不明)である。正行はこの時、数え11歳であった。

5月24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞に撤退を促すものの、義貞はこれに応じない。ついに翌25日、正成・義貞連合軍は尊氏軍と湊川(みなとがわ)で対峙することになった(湊川の戦い)。しかし、戦いが始まるとすぐに、正成と義貞の軍勢は分断され、前後を遮断された。

正成はやむなく700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に正面突撃を敢行した。正成とその弟の正季(まさすえ)はよく奮戦し、7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで攻め立てた。

直義は辛くも逃げ延びた。尊氏は直義が退却するのを見て、軍6千余騎を湊川に増援させた。

6時間の合戦のすえ、正成と正季は敵軍に16度の突撃を敢行し、最後には正成軍は73騎になっていた。疲弊した正成軍は湊川近傍の民家に駆け込み、正成は正季ともに「7度生まれ変わっても、国に忠義を尽くし、国の恩に報いろう」(七生報告)と述べ、皆の者に別れを告げた。

正成は正季と刺し違えて自害し果て、その他の一族16人、家人50余人もまた自害した。

▼正成は『孫子兵法』の達人

正成は、軍勢が圧倒的に不利であった赤坂城の戦いや千早城の戦いでは、ゲリラ戦法を駆使し、山伏(修験者)や忍者などの協力を得て、商人や農民などの民衆との広大な情報網を築き、水や食糧を調達し、民衆を蜂起させることで、幕府軍を苦しめた。

いったん戦況が有利になった際の宇都宮軍との天王寺の戦いにおいては、「一気呵成に攻撃に出ましょう」との周囲の者の進言を却下し、「良将は戦わずして勝つ」と言い放ち、民衆のかがり火で宇都宮軍を包囲し、戦いによって一滴の血も流すことなく敵を撤退へと追い込んだ。

 こうした戦い方は、とりもなおさず正成が「孫子」の兵法を知悉していたことを物語るものであろう。

では「孫子」は如何に正成に伝授されたのであろうか?家村和幸著『闘戦経』および『図解孫子兵法』(いずれも並木書房)などを基にみてみよう。

『孫子兵法』が我が国に伝来した説についてはすでに述べたが(我が国の情報史(1)を参照)、その後の『孫子兵法』は大江家によって管理されることになる。

大江家は古代の氏族である土師氏(はじし)を源流とする。平安時代には、大江千里(おおえのちさと)、大江匡衡(まさひら)、和泉式部(いずみしきぶ)などの優れた歌人を輩出した。すなわち、栄えある文人の家系としても有名である。

一方、大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)は、930年頃に唐から兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛孔明の八陣図)』を持ち帰った。

しかし、維時はこれらの兵書を「人の耳目を惑わすもの」として秘して伝えなかった。大江家はこれらのほかに『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』などを、門外不出の兵法書として大切に管理していた。

しかし、匡衡の孫である大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に請われて兵法を教えることになる。その匡房の孫が大江広元であり、彼は1184年に源頼朝に仕え、鎌倉幕府設立の立役者となった。なお、その後の大江氏は毛利氏をはじめとする武家の祖となる。

後冷泉(ごれいぜい)天皇の御代、陸奥の安倍氏が朝廷に反旗を翻した。この際に討伐を命じられたのが、当時の鎮守府将軍であった源頼義(みなもとのよりよし)である。頼義は10年近くにわたり戦うが、いっこうに安倍氏を攻め落とすことができなかった。これが「前9年の役」(1056~1064年)である。

そこで、頼義は息子の義家に命じて兵法を学ばせることにした。義家は父の命にしたがって京都の大江匡房のもとを訪れた。当初、匡房から兵法書は門外不出であるとして、その伝授を断られたが、やっとのことで伝授を許された。それが『孫子兵法』であったのである。

『孫子兵法』を伝授された義家は陸奥の戦地に復帰し、難攻不落の安倍氏を討伐し、「前9年の役」に決着をつけた。さらの「後3年の役」(1083~1086)においても『孫子兵法』によって勝利し得たのである。

その後、『孫子兵法』は大江家によって厳重に管理され続け、大江家第42代の時親(ときちか)が、河内の観心寺で楠木氏に兵法を伝授したとされる。楠木正成は幼少の頃から、時親から孫子の兵法を学んでいたとされる

▼正成の忠誠心の源流は『闘戦経』

他方、湊川における正々堂々の戦いと、「七生報告」にみられる後醍醐天皇に対する忠誠心はどこから生まれたのであろうか。これは「兵は軌道である」と説く『孫子兵法』の解釈では説明できない。

実は、大江正房が源義家に兵法を伝授した際に『孫子兵法』と同時に伝えたもうひとつの兵法書があった。それがわが国古来の兵法書・『闘戦経』であった。

匡房は「兵は詭道なり」とする『孫子』は優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲などの日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識していた。

そこで匡房は自ら『闘戦経』を著し(その先祖の大江維時の著とする説もある)、『孫子兵法』を学ぶ者は、同時に『闘戦経』を学ばなければならないと説いた。

その後も『闘戦経』は『孫子兵法』とともに大江氏が管理し、その時々において源氏や北条氏へと伝授されていった。この間、匡房の教えは家訓として伝えられた。そして、大江時親が楠木正成に兵法を伝授した時、同時に『闘戦経』も伝授したのである。

かくして兵法の天才である正成は『孫子兵法』ともに『闘戦経』の教えを実践の場で遺憾なく発揮したのであった。

『闘戦経』は53の教えからなる。その教えの第一の特徴は、『闘戦経』は『孫子兵法』を否定しているものではなく、『孫子兵法』を補完するものとしている点である。

第二の特徴は、戦い(武)を第一義とし、武は秩序を確立するものとして、そこに積極的価値を置いている点である。そして「武」の知恵と「和」の精神を結合さることの重要性を説いている。

第三の特徴は、戦いに勝つために、戦場における「兵は軌道なり」はあってもよいが、戦略上はすべて謀略に頼るのではなく、時には正々堂々とよく戦うことも重要である、という点である。

ここから、湊川に戦いにおいて、負け戦と分かっていながら、尊氏軍に対する16度の突撃が繰り返されたのである。また、のちの「謀略は誠なり」の言葉が発祥し、楠木正成の思想が、太平洋戦争期における秘密戦・戦士の精神的支柱になっていくのであった。

正成が後世に与えた影響

楠木正成の忠戦は、正成の死後からわずか35年後に著された『太平記』によって描かれている。

『太平記』は正史ではなく、記事の資料にも難があるといわれる。しかし、「虚実を超えた真ともいうべきものを、強く人に訴えてやまない書でり、当時の公卿から武士、庶民にいたるまで、広く読まれて、日本人の心の中に、深く影響を残してゆくのである」(吉原政巳『中野学校教育 一教官の回想』)。

約100年後の1467年には『太平記評判』が著され、楠木正成は兵法の神として国民の間に尊敬を高めていく。

当時、足利幕府としては、正成を朝敵として扱っていたが、正成の死後223年(1559年)にして、その後裔の楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、朝廷がこれを認め、正虎を河内守に復し、正五位下に除した。

そして、江戸時代になり、楠木正成を敬仰(けいぎょう)する動きが全国的に起こり、楠木精神は「武士道」精神の中に浸透していった。

その後、幕末の吉田松陰を通じて、幕末志士へと受け継がれ、倒幕の精神的原動力になったのである。

そして、明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年(明治13年)、の明治天皇御幸の際、正成は正一位を追贈されたのである。

わが国の情報史(2)

▼神話に登場する女性スパイ

わが国には神話の時代から、女性スパイにまつわる話がある。日本書紀などに登場する須佐之男命(スサノウ)の、娘である須世理姫(スセリビメ)は大国主命(オオクニヌシ)に出会って一目惚れした。スセリビメがオオクニヌシを父親のスサノウに紹介したところ、スサノウはヘビやハチ、ムカデのいる部屋にオオクニヌシを入れたりして嫌がらせや虐待を続けた。スセリビメは、それをオオクニヌシにいち早く知らせ、こっそりと救いの手を差し伸べた。スセリビメは惚れた男のために情報活動を行なったのである。スセリビヒメはさしずめ日本最古の女性スパイといったところである。

岩戸神話では、姉の天照大神(アマテラス)が、弟のスサノウの振る舞いに怒って天の岩戸に隠れて世界が暗闇になった。その時、岩戸の前でアメノウズメが胸乳や女陰を露わにして踊って八百萬(ヤオヨロズ)の神々を大笑いさせた。その大笑いの様子を不思議に思い、アマテラスは戸を少し開けた。そこをアメノウズメは見逃さず、アマテラスを首尾よく外に引っ張り出した。アメノウズメが仕掛けたハニートラップによる国家謀略である。

日本武尊(ヤマトタケル)が16歳で熊襲(九州の豪族)征伐に向かった際、ヤマトタケルは美少女に変装して熊襲の寝床に忍び込み、熊襲を斬り、使命を果たした。ヤマトタケルは女ではないから、女性スパイというわけではないが、女性を利用した意味では軌を一にする。(『東京=女性スパイ』など)

スパイは、娼婦につづく歴史上、二番目にふるい職業とされるが、人類の発祥と共に、男女の営みや、戦いの歴史が開始され、同時に秘密を守る重要性とそれを暴く情報活動や謀略工作が進展していったようである。

忍者と情報活動との関係

わが国の情報活動は忍者や忍術とも関係が深い。秘密戦を教育する陸軍中野学校で忍術を教えた(実際にはわずかばかりの講義であった模様)、甲賀流忍者第14世の藤田西湖は次のように、忍術とスパイとの関係を述べている。

「忍術は常に何時の時代においても行われており、忍術というものの行われない時は一日としてない、ことに現代のごとく生存競争の活舞台が層一層の激甚を加える時、人事百般、あらゆることに、あらゆる機会においてこの忍術は行われ、忍術の行われない社会はない。ただ忍術という名前において行われないだけである。忍術というものはかつての軍事偵察、今日でいう間諜の術=スパイ術である。このスパイ、間諜というものは、何時の時代においても盛んに活躍していたもので、今日支那事変や大東亜戦争が起こると、世界各国の種々なる間諜、スパイが一層活躍しているのである」(藤田西湖『忍術からスパイ戦争』、現代かな遣いに改め)

 藤田によれば、忍術が支那事変や大東亜戦争のスパイ活動に応用されたということであるが、ここで忍者の歴史などについてみてみよう。

忍者の歴史

わが国では飛鳥時代、源平時代から忍術・忍者が発祥したようである。『伊賀忍者博物館』及び『日本忍者協議会』の公式HPや、その他の文献から忍者について要点を整理しておこう。

◇忍術を使う人を忍者と呼ぶ。忍者(にんじゃ)という呼び名が定着したのは江戸時代からである(昭和30年代になってからのこととの説もある)。

◇忍術の起源には多くの説があり、始祖などもはっきりしていないが、一説には、聖徳太子に仕えた、甲賀馬杉に住む大伴細入(さいにゅう、または、さびと)という人物が最初の忍者であるともいわれている。その当時は、忍者は志能便(しのび)と呼ばれていた。

◇伊賀の忍者は、鎌倉時代に荘園の中で発生した「悪党」に起源があると考えられる。

◇戦国時代、「伊賀衆」と呼ばれる者たちが、「忍び」と呼ばれるようになった。「忍び」は、乱波(らっぱ)・透波(すっぱ)・草(くさ)・奪口(だっこう)・かまりなど、地方によりさまざまな名前で呼ばれていた。「忍び」は、各地の大名に召し抱えられて、敵国への侵入、放火、破壊、闇討ち、待ち伏せ、情報収集などを行ったが、最も重要なのは敵方の状況を主君に伝えることであった。

◇徳川家康は、伊賀者・甲賀者を取り立て、江戸城下に住まわせ、大奥や無人の大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察などを行うせたほか、寛永初年(1624)ころまでは隠密としても活動させた。

江戸時代の平和な時代が訪れると、「忍び」は情報を得たり警護をすることが主な任務となり、隣国の政治状況を知って自国の政治に活かすということもしていた。実際はその土地の人と仲良くなって情報を聞き出すことの方が多かったようである。

◇忍術おいて、女性に化けたり、女性を利用したりする方法を「くノ一」(三字を一字に合体すれば女)の術という。徳川家康は隠密網を全国に形成し、伊賀、甲賀などの忍者を活用したが、当時を語る時代劇では、「くノ一」が全身黒ずくめの装束を着て銀幕上を賑わしている。なお国民的人気を誇る『水戸黄門』では「陽炎(かげろう)のお銀」が悪者に接近し、悪事の証拠を収集するなどする場面が描かれているが、これはフィクションである。実際の「くノ一」は、対象とする屋敷の女中などとして送り込まれ、働きながら屋敷の実情を見聞きするスパイ活動を行なっていたという。

以上、忍者の歴史について述べたが、これらには諸説あって定かではないが、いずれにもしても、はるか昔から江戸時代の頃まで、戦時や平時において忍者集団が水面下での諜報活動や破壊工作などの任務に携わったようである。わが国の情報組織の一つの源流とみなすこともできよう。

忍者と山伏、悪党との関係

 忍術の基本理論は中国から伝来した『孫子』に基づき、その技術は平安時代における修験者(山伏)の活動によって発展したとみられている。

修験者とは、修験道(しゅげんどう)は実践する者のこという。修験道は中国大陸から伝来した仏教に、日本古来の山岳信仰が取り入れられた、日本独特の宗教である。その悟り得るためには、山中に籠もって厳しい修業を行うことから、修験道を行う修験者は山伏とも呼ばれた。

修験道は、奈良時代が起源とされるが、盛んに信仰されるようになったとの平安時代の頃である。さらに、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。

13世紀末の二度の蒙古襲来(元寇)に対して、運よく“神風”が吹き、鎌倉幕府は奇跡的に蒙古軍に勝利した。しかし、御家人たちに多大な犠牲を払わせたばかりで、財政に窮乏し、御家人に対しろくに恩償を与えることもできなかった。

一方で幕府のトップ北条高時は、田楽や闘犬に興じ、政(まつりごと)を顧みようとせず、農民に重税をかすばかりであった。やがて鎌倉幕府が滅亡し、建武中興、南北朝と続く時代には、伊賀忍者の起源といわれる「悪党」が勢力を拡大した。「悪党」は現在の極悪非道な人物を総称するものではなく、鎌倉幕府の秩序体系に反抗した者を総称する。

そこに播磨の国をはじめ、畿内やその周辺では、荘園領主に対抗する地頭や非御家人の新興武士たちが、武力に訴えて年貢の納入を拒否し、荘園領主の年貢米、牛馬、銭などの財産を奪うようになった。

これらの武士は当時、悪党と呼ばれた。やがて悪党は大きな勢力となり、城を構えては石つぶてを打ち、山から材木を転がしては敵を倒し、さらに荘園へ討ち入り、ものを奪いとるようになった。

また商業や運送業も営み、全国的に農民や商人に対するネットワークを拡大し、地方から地方への移動経路を熟知していた山伏とも連携を深めるようになった。こうして、悪党から伊勢の忍者集団が形成され、忍者は悪党と融合し、それが山伏とも連携し、いわば秘密結社のような、反幕府の秘密組織団体を形成していったのである。

▼日本最古の謀略家、楠木正成の登場

こうした時代、幕府の長である北条高時を打倒し、積極的に天皇の権限を強化しようとする人物が現れた。その人物が後醍醐天皇である。

後醍醐天皇は討幕の計画を進めるが、しかし、幕府の強大な軍事力におそれ、志願兵は容易に集まらなかった。そこに馳せ参じたのが、悪党のリーダーであった、河内の土豪、楠木正成であった。

正成は、農業や商業に従事する500騎の地侍を率いて後醍醐天皇の下に馳せ参上し、討幕のために、わずかな兵を従えては圧倒的に優勢な幕府軍に立ち向かった。武器や兵力に優れた幕府軍に立ち向かうには智謀が必要であった。

正成の戦いは、悪党流のゲリラ戦法や『孫子』の兵法の応用であった。まさ智謀を駆使した謀略の戦いであった。

1332年7月の宇都宮公綱軍との天王寺の戦いでは、天王寺を占拠する宇都宮公綱軍500~700人に対し、正成軍は2000人であった。正成軍の幕僚は勢いに乗じて戦うことを進言するが、正成は「良将は戦わずして勝つ」と言い放ち、何故か全軍を天王寺から撤退させた。

しかし、夜になると天王寺一体を取り囲む生駒の山々に3万のかがり火が焚かれた。宇都宮軍はこのかがり火に恐怖し、極度の緊張感が三日三晩続き、ついに4日後には、宇都宮軍は天王寺からの撤退を余儀なくされた。

実はこのかがり火は正成が生み出した幻の大軍であった。正成は5000人の民衆を動員して天王寺を取り囲むように、松明に火を灯し、宇都宮軍に大軍に包囲されているという恐怖の幻影を見せつけたのである。つまり、正成は輸送業による民衆とのネットワークを駆使して、「孫子」の「戦わずして勝つ、を実践したのである。

正成の戦いの真骨頂ともいえるのが1333年の千早城の戦いである。正成軍は約1000人、対する幕府軍は10万人(太平記では100万人)であった。千早城をいち早く落そうと戦果を焦る幕府軍の軍勢は、兵力は逐次投入となり、これが正成のゲリラ戦法の餌食となり、幕府軍は多くの死傷者を出した。

そこで、幕府軍は水源を断つ持久戦に乗り換えた。しかし、正成軍は千早城に水源を確保し、食糧も十分に蓄えていたので、なかなか降伏しない。やがて包囲する幕府軍の緊張感が薄れてくるや、種々のゲリラ戦法を駆使して、幕府軍に抵抗するのであった。

逆に兵糧が尽きたのは幕府軍のほうであった。武装した民衆が幕府軍の兵糧を奪っていたのである。実は、正成が場外の民衆に兵糧を奪うように指示していたのである。

この籠城を可能にしたのは多くの民衆の力であった。正成は包囲されていても千早城の外との連絡を可能にする連絡経路をもっていた。それは山伏や忍者の存在であった。彼らは山道を通って、千早城の内外に行き来して、民衆に指示や情報を与えたり、食糧などを調達したりしていたのである。

この予想外の抵抗によって、正成は千早城を守り、幕府の権威は一挙に崩壊した。そして正成は、城外および全国の農民、商人などの民衆に一斉蜂起を呼びかけたのである。

各地の民衆が一斉に蜂起し、やがて幕府内部からの謀反勢力も出てきた。こうした謀反勢力である足利尊氏と新田義貞が鎌倉を攻め落し、ついに100年続いた鎌倉幕府は倒れた。壱岐に流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、ここに建武中興の改革が始まったのである。

正成が鎌倉幕府を打倒したのは、まさに民衆の力であり、その民衆の力を結集できたのは情報である。情報力が幕府方の軍事力に勝利したのである。正成こそは情報活動に長じ、情報を力に変えた最初の武将であったといえよう。

わが国の情報史(1)

情報という言葉の定義

情報という言葉がわが国で初めて定義されたのは1876年(明治9年)に酒井忠恕陸軍少佐が翻訳した『佛國歩兵陣中要務實地演習軌典』(内外兵事新聞局)においてである。同書では情報は「情状の知らせ、ないしは様子」という意味で使用された。つまり、情報は敵の「情状の報知」を縮めたものであった。

 その後1882年に『野外演習軌典』(陸軍省)において「情報」が初めて陸軍の軍事用語(兵語)として採用された。1901年にはドイツから帰国した森鴎外が、ナポレオンの軍事将校として勤務したカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳(大戦学理)した際、情報とは「敵と敵国に関する我が知識の全体をいう」と訳した。

 このように、わが国における情報という言葉の登場は明治になってからであるが、情報活動というものは戦いの歴史とともに発足している。情報活動の歴史を説くものとして紀元前13世紀の『旧約聖書』がある。ここでは、古代イスラエルの民族指導者であったモーゼが、200万人のユダヤ人を引き連れてエジプトを出発し、目的地であるカナン(現シナイ半島)に入城するに際し、12人の斥候に、敵情と地形の偵察を命じた、との物語が語られている。かように、戦いと情報あるいは情報活動との関係は密接不離なのである。

わが国における情報活動の起源と八咫烏および金鵄

 わが国においても古事記や日本書紀の神話や伝説の中で情報活動の歴史が語られている。日本神話における神武天皇(じんむてんのう)の東征に際して、八咫烏(やたがらす)が、高皇産零尊(たかむすび)によって天皇のもとに遣わされ、熊野から大和の橿原まで天皇を案内したとされている。

ただし、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦が(ナガスネヒコ)との戦いで神武天皇を助けたともされるため、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同されている。八咫烏は三本脚の鳥である。戦前の1939年(昭和14年)には日中戦争の従軍徽章の意匠として採用された。なお、この時には八咫烏は三本足ではなく二本足であった。

今日では日本サッカー協会のシンボルマークとして採用されているほか、陸上自衛隊中央情報隊以下の情報部隊の部隊記章として採用されている。ゴールにボールをよく導く、戦いを情報によって勝利に導くとの願いがこめられているのであろう。

一方の金鵄は戦前には金鵄勲章などに用いられた。これは戦後に陸上自衛隊調査学校の学校徽章として採用された。この校章の意義として、「この鳥は大嘗祭において天皇を導く燭であり、また戦いの先導であって武勲の象徴である。これは情報の使命である先見洞察を意味し、特に情報の伝統的象徴と言うべきである」(ウィキペディア)と説明されている。この調査学校こそは、筆者が青年将校の時代、インテリジェンスの基礎を築いた学び舎である。すなわち、筆者自身も金鵄や八咫烏の神話には慣れ親しんできた。

このほか八咫烏、金鵄、さらには金烏(きんう)の存在などには諸説あって確かではないが、いずれにせよ、日本の神話や伝説が古代の歴史に溶け込み、それが途絶えることなく後世に語り継がれ、現在に至っているのである。このことは、戦いにおける情報活動の重要性が認識され、戦いの歴史とともに情報活動が発展してきたことを物語るものであるといえよう。

▼後世に影響を与えた『孫子』の兵法

長い世界の歴史の中で、情報活動の研究において嚆矢とされるのは『孫子』である。『孫子』は、今から2500年前、中国の激動の春秋戦国時代において、名将・孫武によって書かれたとされる。

孫武は斉(いまの山東省)の生まれで、呉(いまの江蘇省)の将軍であった。司馬遷の『史記』では「呉が楚を破り、斎や晋を脅かし、天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」と記されている。

『孫子』は「最強の兵法書」と呼ばれるに相応しく、今日、洋の東西を問わず、時代を超えて世界中の軍事理論に影響を与えている。また、組織統率論や企業経営における参考書としても活用されている。

他方で『孫子』は至高のインテリジェンス教科書でもある。『孫子』の軍事情報理論は唐代の『通典』(つてん)のなかの「兵典・間諜」篇においても引用されている。同じく唐代の著名な兵法家である李靖(りじん)が記した『李衛公問対』は『孫子』が説く情報活動を体系化したものである。清代の朱逢甲による『間書』は中国初の情報専門の兵法書であるが、これも『孫子』の軍事情報理論を基に編纂されたものである。

米国CIAの元長官アレン・ダレスや西ドイツのインテリジェンス・マスターであったラインハルト・ゲーレンの回顧録においても『孫子』が引用されている。このように『孫子』は中国のみならず世界のインテリジェンスに大きな影響を及ぼしたのである。こうした背景から、わが国の情報史を見ていくうえで、『孫子』の日本への伝来などを研究することは、日本書紀や古事記に対する研究と同じように重要なことだと考える。

▼『孫子』の伝来

第二の説は「朝鮮伝来説」である。663年の白村江の戦い以降、百済から複数の兵法家が来日し(ただし、当時は倭の国と呼称され、日本になったのは白村江以降から8世紀までの間とされる)、兵法を教授したとされるが、それが『孫子』の兵法であったとみる説である。

白村江の戦いから、57年後の720年に編纂された『日本書紀』においては、『孫子』の「始計篇」や「虚実編」に出てくる「出其不意」や「赴其所不意」の引用とみられる箇所がある。

第三の説は、遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったとする説である。吉備真備は、717年に遣唐使として唐に到着し、35年までの18年間にわたり唐に滞在し、ここで『孫子』や『呉子』などを学んだとされる。帰国後、これらの文献を朝廷に献上し、その後、『孫子』の兵法研究が開始されたとみられている。

さらに吉備真備は754年に、二度目の渡唐から帰朝した後で大宰府に派遣されるが、ここで760年、大宰府に派遣された6人の下級武士に諸葛孔明の「八陣の法」や『孫子』の「九地」を教えたとされる。吉備真備は764年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の叛乱をわずか数日で鎮圧した。、ここには『孫子』の軍事情報理論が活用されたとみられる。

その後、『孫子』は長い間の秘蔵家伝の時代を迎えることになるが、この間には、日本独自の兵法書『闘戦経』の編纂や、陸軍中野学校の精神的支柱たる楠木正成の卓越した情報活動を見ることができる。さらには、わが国の情報活動の発達の歴史においては忍者や陰陽師の存在も無視できない。