「令和」元年と天皇制について思う

▼新元号は「令和」に決定  

 新元号が「令和」に決定!元号としては248個目になります。ただし、「一世一元」の制が実施されたのは1886年の慶応から明治への改元の時からであり、それ以前は天皇の在位中にも災害などさまざまな理由で改元がおこなわれていました。ぎゃくに天皇が即位しても、元号が変わらない場合もありました。

  元号は前漢に始まり、日本への導入は645年の「大化」が始めとされます。 日本の元号は、ほとんど全てが中国古典を出典としていますが、最も多く引用されたのは『書経』です。

 しかし、新元号「令和」は、わが国の「万葉集」の梅花の歌が出典です。 「万葉集」とは、奈良時代の日本最古の歌集です。 ここには、天皇や皇族、歌人、さらには農民など幅広い階層の人々が読んだ「約4,500首」の歌が収められています。

 新元号の出典を日本古来の歌集「万葉集」の梅花の歌としたのは、ICT化、グローバル化、少子高齢化に向かう世の中で、あらゆる階層や年代層が、これら環境に押し流されることなく、それぞれの目標に向けて積極的に困難に立ち向かい、大きな花を咲かせていこうとの、願いがあると思われます。 

▼「万世一系」の継続を末永く祈願

 皇太子徳仁親王は第126代目の天皇として即位されました。

 筆者は平素より、新天皇の慎ましくて勇気ある言動、慈愛に満ちた所作など、そこに日本人としての由緒正しき血統を感じています。令和におけるわが国の発展を心から願うものです。

 永久に一つの天皇の系統が続くことを「万世一系(ばんせいいっけい)」といいます。日本の国歌、「君が代」にも万世一系の永続性が謳われています。

 令和がつつがなく発展し、万世一系の安定した継続を末永く祈願します。

▼わが国にとっての天皇制とは  

 ところで、過去125代のなかで、幕府から天皇に政権が移ったことが2回ありました。まずは1333年の「建武の中興」です。これは、鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇(第96代)の執政による復古的政権を樹立したものです。

 そして1867年の大政奉還です。これは、江戸幕府の徳川慶喜将軍から明治天皇に政権が奏上されました。

 両政権移管の背景をみますと、ともに外的脅威の出現によって、国内秩序に危機が起こり、国民のなかから勇士が登場し、天皇の権威にすがって国体をようやく維持した、という構図があります。

「建武の中興」は二度の蒙古襲来(元寇)が原因です。“神風”が吹き、鎌倉幕府は蒙古軍に勝利しますが、御家人たちに多大な犠牲を払わせたばかりで、財政に窮乏し、御家人に対し、ろくに恩償を与えることもできなくなります。

 一方で幕府のトップ北条高時は、田楽や闘犬に興じ、政(まつりごと)を顧みようとはせず、農民に重税を課すばかりでありました。幕府は腐敗し、御恩と奉公の秩序は崩れ、それが農民や商人に伝播し、社会は乱れていきました。

 そこで、後醍醐天皇が秩序維持の回復のために、自ら親政をおこなうことを決意したのです。

 他方の大政奉還は、1853年のペリーの黒船来航が直接の原因になります。それ以前から、外国船が各地に出没して、列強が日本に開国を迫るという状況は生起していましたが、黒船は政治中枢である江戸に直接に開国要求を突き付けたのですから、日本としては待ったなしの決断を迫られたのです。

 幕府は大いに動揺します。一方の庶民は、本来は守ってくれるはずの武士階級の無為無策、堕落した姿に不安を覚えます。幕府としても、家柄ではなく能力主義の人材登用に着手したことで、薩摩藩や長州藩から有為な先進的人材が出てくるようになります。

 これらの先進的人材から、もはや徳川幕府では新たな時代に対応できない、だから天皇の御世への復活を図ろうとの「尊王攘夷」の思想が芽生え、やがて外国にかなわないことを自覚して倒幕に向かいます。

 外国からの未曽有の脅威が発生した場合、外敵から国家を守るためには内部が一致団結するほかありません。つまり、天皇の権威のもとに国民が結集して、愛国心を発揚して、自己犠牲を顧みずに国家存続のために一心奉仕する以外に道はなかったのです。

 国家体制が危機を迎えるなか、有志は「万世一系」の天皇制によって国体を維持した、ここにわが国の天皇制の持つ意義があるのかもしれません。

▼傑出した思想家の登場

 また、国家体制が危機を迎えると、愛国心を鼓舞する傑出した思想家が登場します。これまでの国家体制で立ち行かなくなり、そのためには体制変換だけではなく思想変換も必要ということでしょう。

 思想変革をリードしたのが「建武の中興」における楠木正成であり、明治維新における吉田松陰であったのです。

 正成と松陰もともに尊王愛国の士です。時代が愛国心を、また尊王愛国の士を必要とした。つまり、激動と変革な時代が優れた思想家を誕生させたのだと思います。

▼現在のわが国が直面している脅威

 さて筆者は現在、第三の〝脅威の波〟がわが国に押し寄せていると感じています。それは、テクロノロジーとグローバリズムです。

 この二つの潮流が今後、現実の脅威となるか、それとも日本再生の好機となるかは、我々次第でしょう。

対応を誤れば、AIと外個人労働者が人々の職業を奪って、失業者が町中に溢れる。反政府デモが頻発する。

社会では所得格差が増大し、テクロノジーとグローバル化の波に乗れない人々は、倦怠感に打ちひしがれて孤立する。社会は活性力がなくなる。

 少子高齢化という負のベクトルが、さらなる追い打ちをかける。疎外された一部の老人は、世間を注目させるためにテロを起こす。国民は治安に怯える。

 このような、〝悪の未来シナリオ〟は排除されません。

〝悪の未来シナリオ〟の方向に向かうなか、すぐれた思想家は登場するのでしょうか?

 ICT社会のなかでは、とかくカリスマ経営者などが脚光を浴びて拝金主義が横行し、なかなか優れた思想家が現れる環境ではないような気もします。

 逆に、一部の者は新興宗教やイスラム過激派などのアイデンティティ探しの活路を求めているのかもしれません。

▼象徴天皇制という問題

 時代が先行き不透明で変化が激しくなれば、「象徴天皇制」という問題がいやが上にも頭を擡げてくるでしょう。

 誰しも、自分が苦境の時は、誰かに助けてほしい、心の拠り所が欲しい、そう思うものです。このことは日本だけではありません。タイでは、政治が不安定になって収拾がつかなくなれば、国王が出てきて決着をつけます。イギリスでも似たような状況があります。

 経済苦境、増税、貧富の格差、世間との断絶、外国人の流入、そうした苦しい生活環境のなかに身をおくことになるとすれぎ、国民は、「万世一系」の天皇制に心の安寧や、アイデンティティの礎を追い求めるかもしれません。

そうしたなか、皇室の行動が自由奔放に映り、そこに節度が感じられず、一方の国民が重税や自制を強いられるとした場合、どのような発想が起こり得るでしょうか?

多くの国民は天皇制の在り方に疑問を抱くかもしれません。

 戦後、「象徴天皇制」の時代が長くなるにつれ、皇室教育は多様化し、皇室の発言や行動にも変化が生まれているように感じます。これはある意味致し方ないのかもしれませんが、ICT化によるネット情報が拡大するなか、一部皇室の行動が国民の期待値から遠くなるとすれば、さまざまな〝バッシング〟が起こるでしょう。

 それが、やがて政争の論点になるかもしれません。天皇制を否定する政党も存在します。こうした状況が進展していくなか、国民全体が「象徴天皇制」に対して、どのような判断を下していくことになるのでしょうか?

【わが国の情報史(31)】昭和のインテリジェンス(その7) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(3)─ 

▼はじめに

 前回までは、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略にもとづく河本大作の犯行であるとの定説は、戦後において首謀者とされる河本の「手記」が発表されたこと、田中隆吉元少将が極東軍事裁判(東京裁判)において、河本が首謀者であるとして、当時の犯行の情況を縷々証言したことが根拠になっていること、などを述べた。

 そして上述の「手記」については河本本人が直接書いたものではないことから、情報の正確性には疑義がある。田中の人物評価や、本人が置かれた当時の環境情勢などから、田中の情報源と しての信頼性はあまり高くない、などと述べた。 今回は最初に情報の正確性について述べることとする。

▼情報の正確性  

 情報の評価は情報源の信頼性と情報の正確性を別個に評価する。 そして情報の正確性は、「誰が言ったか」ということはいったん度外視し、情報それ自体の妥当性、一貫性、具体性、関連性という 尺度で評価することになる。  

 ここでは田中元少将が東京裁判で述べた証言内容の引用につい ては割愛するが、彼の証言には、当時の国際情勢や日本政府およ び陸軍を取り巻く環境情勢から「なるほど!」と言える妥当性がある。

 「最初の証言とあとの証言が食い違っている」といったこともな く、彼の証言内容は終始一貫性がある。  

 爆発方法や関与した人物など縷縷詳細に及び具体性もある。

 「手記」を始めとする他の情報との重要な部分が一致しており、 関連性もある。  

 つまり、彼の証言について、情報の正確性からは「ほとんど真 実である」といった高レベルの評価を下すことになるであろう。 しかし、ここで注意しなければならないのは、「巧妙な嘘は、 真実よりも一貫性があるし具体性がある」という点である。

 そして、これは情報源の信頼性に関わることであるが、田中証言の“胡散臭い”と感じるところは、あまりにも多くの主要な史実を、田中自らが第一人称で直接見た、聞いたというように語っている点なのである。  そこに〝出来ストリー〟という疑惑がかかるのである。

▼コミンテルン関与説

 田中元少将の情報源としての信頼性には疑義があったにせよ、 張作霖爆殺事件にかかる情報の正確性の評価は高い。さらに、か なりの具体的な資史料が揃えられていることから、戦後から一貫 して張作霖爆殺事件に関しては河本犯行説という定説が覆ること はなかった。  

 しかし、これから述べるコミンテルン説が2000年代になり、 急浮上したことで上述の関連性に疑義が出た。そうなると情報の正確性の評価をやり直す必要が出てくる。これがインテリジェン ス理論である。  

 ここで、コミンテルン説について言及しておこう。この仮説は、 2005年、邦訳本『マオ─誰も知らなかった毛沢東』(ユン・ チアン、ジョン・ハリディ著)が発刊されたことで俄かに注目さ れた。

 同書における記述を引用しよう。 「張作霖爆殺事件一般的に日本軍が実行したとされているが、 ソ連情報機関の史料から最近明らかとなったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計 画し、日本軍の仕業にみせかけたものだという」  

 これが契機となって張作霖爆殺事件の“謎解き”に火がついた。 まず同著の引用注釈から『GRU帝国』という著書が注目された。 そして、『正論』および『諸君』といった論壇誌が、同著の著者 であるドミトリー・プロホロフに対するインタビュー記事を引用する形で、〝コミンテルン説〟の特集を組んだのである。

▼コミンテルン関与説の根拠  

 加藤康男氏は2011年に『謎解き「張作霖爆殺事件」』を執筆した。同氏の著書をもとに〝コミンテルン説〟に関する記述 (要旨)を拾ってみよう。

・当時、ソ連政府は張作霖との間で鉄道条約を結んでいたが、両者の間で激しい抗争が進んでいた。反共主義を前面に押し出す張作霖側は、ロシアが建設した中東鉄道(旧東清鉄道)を威嚇射撃 したり、鉄道関係者を逮捕したりしたため、遂にOGPU(筆者 注:ソ連KGBの前身機関)は張作霖の暗殺計画を実行計画に移 す決定を下した。

・1回目は、1926年9月、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を設置し、爆殺する計画であり、極東における破壊工作の実力者といわれたフリストフォル・サルヌインが実行計画を立案した。し かし、爆発物の運搬を担当したサルヌインの部下工作員が爆発物 を発見されて、失敗した。

・1927年4月6日、張作霖の指示によって行なわれた北京の ソ連大使館捜索と関係者の大量逮捕が動機となり、1928年初頭に2回目の暗殺計画が行なわれた。今度は、1926年から在上海ソ連副領事をカバーとする重要な諜報員ナウム・エイティゴ ン(トロツキー暗殺の首謀者、詳細は拙著『情報戦と女性スパイ』 を参照)から、サルヌインとその補佐役のイワン・ヴィナロフと いう工作員に暗殺計画が下され、爆殺に成功した。

▼英国は当時、複数の犯行説を考察していた  

 さらに加藤氏は、1928年7月3日付けの北京駐在英国公使 ランプソンによる本国外相宛ての次の公電に着目している。そこ には以下の記述がある。 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民 党軍、張作霖の配信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた 少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分 たちの説の正しさを論証しようとしている」  

 こうした根拠をもとに加藤氏は、少なくとも以下の4つの説が ある旨主張する。 (1)関東軍の計画にもとづく河本の犯行 (2)ソ連コミンテルンの犯行 (3)張作霖の息子である張学良が、コミンテルンの指示を受けて、 もしくは親子の覇権争いの側面から実行 (4)河本大作や関東軍の上層部がコミンテルンにそっくり取り込 まれたうえで実行  

 これらのうち、どの仮説であった蓋然性が高いのかなど、その “謎解き”は加藤氏の秀逸なる著書に譲るとしよう。  

 ここで言うべきことは、結局のところ事件の謎は現在に至るも解明されていない。すなわち、関東軍の謀略にもとづく河本犯行説であったと断定するに足る明確な歴史的根拠はないのである (やったかもしれない)。

▼仮説を一つに絞ることの問題点  

 インテリジェンス上の問題は、加藤氏も指摘するように「一途 に河本犯行説と信じ切って問題を収束させようとした」という点 にある。 仮説を一つしか立てなければ、その仮説が外れてしまえば、もはや対応できなくなる。想定外だと、慌てふためくことになる。  

 また、仮説を一度立ててしまうと、とりあえずの仮説がアンカ ー(錨)のようになって、新たな情報が提供されても修正できな くなる。これを「アンカーリングのバイアス」という。

 さらに、一度仮説を立てると、それを証明する情報ばかり集め てしまう。これを「確証バイアス」という。  

 つまり、さしたる調査や検証なしに、張作霖事件が河本の犯行であるという唯一の仮説を立ててしまったことで、それを裏付け る具体的な資史料ばかり集めてしまい、河本犯行説を定説へと導 いた可能性がある。すなわち、バイアスによって河本犯行説が導 かれたかもしれないのである。

▼イラク戦争を教訓にした米情報機関  

 米国は、サダム・フセイン大統領が大量破壊兵器を保有してい るとの仮説に基づいて、それを肯定する情報ばかり集めて、強引 にイラク戦争へと向かった。

 その反省から、米国では「代替分析」という手法に着目し、当 然と思われている前提を疑問視して分析するという手法を取り入 れた。 この手法は、「イラクは大量破壊兵器を保有していない。フセ インは事実を話している」という前提で分析を行なうものである。  

 ここから学ぶことは、張作霖爆殺事件においても「河本は真実 を言っている。河本は犯行を行なっていない」という前提で調査 しなければならなかったということだ。そうすれば、英国のよう に複数の仮説にたどり着いたかもしれなかったのである。

▼発達していた英国の情報理論と情報体制   

 当時の日本においては、仮説は複数立てて、不確実性を低減するなどという情報理論も確立されていなかった。また、国家としての情報体制も未熟であった。  

 当時、英国は外務大臣指揮下のMI6を世界的に展開し、グロ ーバルな視点から新生ソ連の動向を把握し、共産主義の波及を危険視していた。だから英国は、張作霖爆発事件に対するソ連の関 与という仮説にすぐに辿りついた。  

 ただし、その一つの仮説に固執することなく、他の仮説を立て て、これらを検証しようとした。

 また中国大陸においてはMI6とは別個に極東担当の特務機関 MI2c(陸軍情報部極東課)を活動させていた。つまり、情報 を複数筋から入手しようとしていた。

 つまり、仮説を複数立てて検証する、複数の情報ルートを活用 して情報の正確性を高めるといった、今日では当たり前の情報理論を確立していたのである。

▼遅れていたわが国の情報理論と情報体制  

 一方のわが国の当時の中国大陸における情報活動といえば、南満洲鉄道株式会社(1906年設立、満鉄)の調査部(満鉄調査部)と1918年のシベリア出兵後の特務機関の存在が挙げられ る。  

 しかしながら、英国のような国家情報機関があったわけではな いし、満鉄調査部と特務機関がそれぞれの所掌範囲の情報活動を ほそぼそと行なっていたにすぎない。

 また国家全体として見るならば、外務大臣・幣原喜重郎の対外ソフ ト路線の影響により、新生ソ連の共産主義に対する脅威は薄れて いた。つまり、国家の情報要求が未確立であった。

 だから、水面下における共産主義勢力の急速な浸透が探知できなかったのであ ろう。 孫文が1923年頃から連ソ容共・工農扶助を受け入れたり、 1924年1月にコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝 いりで国民党と共産党の国共合作(第一次)が成立させたりする ことに無頓着であった。 そして、1927年末から、蒋介石がドイツの軍事顧問団を招 き、軍事的・経済的協力(中独合作)を進めていたことも分からなかったのである。

▼張作霖爆殺事件の教訓とは何か  

 張作霖爆殺事件の検証において、コミンテルン説は一顧だにさ れなかった。このことが、その後の中国大陸において、ゾルゲと尾崎秀実(おざきほつみ)の邂逅を見逃し、やがては来日するゾルゲにせっせっと国家重要情報を漏えいすることになった根本の原因があるのかもしれない。  

 実は、もっと大きな問題は戦後の歴史認識問題である。今日の わが国の主流の歴史認識は以下のとおりである。

「関東軍が張作霖爆殺の謀略を企てたが 失敗した。その失敗を教訓にして満洲事変の契機となる1931年9月8日の柳条湖事件の開戦謀略を成功させた。これが『軍の命脈』である命令・服従関係を基本とする軍機の破壊を意味し、 日本陸軍の没落の第一歩となった」  

 戦後、このような歴史認識が主流となってきたので、最近のコ ミンテルン説が出てきても、これを否定して受けつけようともしない。これが社会全体の趨勢である。  

 たしかに、定説を覆すのは容易ではない。これをインテリジェ ンス用語で「レイヤーイング」(多層化バイパス)という。前任者が利用した前提や 判断を、後任者が疑うことなく鵜呑みにして分析を行なうバイア スである。  

 分析の前提に間違いがあっても最初に戻って修正することは、 その後の分析をすべて否定することになるため、なかなか修正さ れないのである。

 米国の上級情報委員会と大量破壊兵器委員会は、 イラクの大量破壊兵器保有に関する情報分析で、この多層化バイ アスがあったと結論付けた。

 歴史学は実証を重んずる学問である。歴史家は真実を追求すればよいし、そうしてほしい。しかし、我々のような一般人は真実 を追求するほどの知識もなければ、技能もない。また、歴史の真実が分かったところで、現実問題の対処が変わるわけではない。

 では、 どうすればよいのか? インテリジェンスにおいては、仮説に妥当性があるのではあれば、“白黒をつける”のではなく、複数の仮説を同時に受け入れ ることが鉄則である。 なぜならば、そうした柔軟性こそが、対策としての戦略・戦術 における不確実性を低減することになるからだ。

 歴史を学び、そこには必ずしも定説があるわけではないことに気づく。複数 の仮説があるし、さまざまな見方があるならば、これを受容する。そして、複数の仮説を組み合わせて、いく つかの未来の発展方向を予測するうえでのヒントを得る。それが インテリジェンスに携わる者にとっての歴史を学ぶ意義なのだと、 筆者は考える。

 この点は、多くの方に賛同いただけるのでは ないかと思う。

わが国の情報史(30) 昭和のインテリジェンス(その6)      -張作霖爆殺事件から何を学ぶか(2)-     

▼はじめに

 前回は、張作霖爆殺事件が関東軍の計画的な謀略であるとの定説は、首謀者とされる河本大作の「手記」が戦後になって発表されたことが大きな根拠になっている、しかしながら、これは第三者によって書かれた第二次情報にすぎないことを述べた。 今回は、もう一つの関東軍犯行説の根拠となっている極東軍事裁判(東京裁判)における田中隆吉少将の証言について着目する。

▼ 田中隆吉少将の証言

 1946年5月3日から極東軍事裁判(東京裁判)が開かれた。ここで検察側の証人として証言台に立った元陸軍省兵務局長の田中隆吉(元少将)は、「関東軍高級参謀河本大作大佐の計画によって実行された」と証言した。また彼は、1931年9月の満州事変についても、「関東軍参謀の板垣征四郎、次参謀の石原莞爾が行った」旨の証言を行った。

  これにより、日本軍が行った計画的な謀略により、日中戦争、そして太平洋戦争へと向かわせ、国民の尊い命を奪った。その戦争責任は死刑をもって償うべしとの、国民世論が形成された。

 田中の口から直接された証言は第一次情報である。しかし、第一次情報といえども、常に正しいとは限らない(前回のブログを思い起こしてほしい)。 なぜならば、情報源(この場合は田中)が意図的に嘘をつくことがあるからだ。

 したがって、インテリジェンスにおいては、情報源の信頼性と情報の正確性という手順を踏まえて、しっかりと情報を評価しなければならない。とはいうものの、評価するための十分な情報があるわけでもないので、可能な限りという条件がつく。 すくなくとも、情報は無批判に受け入れるということだけは避けなければならない。

▼田中隆吉とはどんな人物か

 ヒューミント(人的情報)においては、「報告したのはどの組織の誰か」「報告者は意図的に自分の意見や分析を加味していないか」「過去の報告あるいは類似の報告から、報告者の履歴、動機および背景にはどのようなことが考えられるか」などを吟味していかなければならない。 これが情報源の信頼性を評価するということである。  

 そこで田中隆吉(1893年~1972年)とはどのような人物であったのかを簡単にみていこう。 彼は1927年7月に参謀本部付・支那研究生として、北京の張家口に駐在し、特務機関に所属した。当時、34歳であり、階級は大尉である。

 1929年8月には 陸軍砲兵少佐に昇級して帰国。参謀本部支那課兵要地誌班に異動になった。 田中が本格的に北支および満州で謀略に従事するのは1930年10月に上海公使館附武官として上海に赴任した以降のことである。

 ここでは著名な川島芳子(満州国皇帝・溥儀の従妹)と出会い、男女の仲になり、川島を諜報員(スパイ)の道に引き入れた。 1932年の第一次上海事変においては、「満州独立に対する列国の注意をそらせ」との板垣征四郎大佐の指示で、当時、上海公使館付陸軍武官補であった田中は、愛人の川島芳子の助けを得て、中国人を買収し僧侶を襲わせた(彼自身の発言から)。

 その後、田中は北支および満州で関東軍参謀部第2課の課員や特務機関長などを歴任し、帰国後の1939年1月には陸軍省兵務局兵務課長、そして1940年12月に兵務局長(憲兵の取り纏め)に就任して、太平洋戦争の開戦を迎えた。1941年6月には陸軍中野学校長も兼務した。 

 開戦時の陸軍大臣は東条英機である。当時、田中は東条から寵愛されていたという。陸軍大臣に仕える最要職の軍務局長には、1期上の武藤章(A級戦犯で処刑)が就いていた。ところが、1942年、田中は〝東条・武藤ライン〟から外され、予備役に編入された。なお、これには田中が武藤のポストを奪う画策が露呈して、左遷されたとの見方もある。     

 戦後に一介の民間人となった田中は、まもなく『東京新聞』に「敗北の序章」という連載手記を発表した。これは1946年1月に『敗因を衝く-軍閥専横の実相』として出版された。

 東京裁判の主席検事のジョセフ・キーナンらが、これらの著作から田中に着目して、1946年2月に田中を呼び出し、その後に尋問を開始した。

 東京裁判では田中は東條を指差して批判し、東條を激怒させた。 武藤においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と発言した。 

 ただし、武藤は、太平洋戦争の早期終結を目指し、東條とは一線を画した。つまり、田中証言がなければ、武藤の死刑はなかった可能性が高い。 田中は、東條、武藤以外にも多くの軍人に対して不利となる証言を次々とした。その状況があまりにもすさまじく、田中に対して「裏切り者」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者が多数いた。

▼張作霖爆殺事件と田中

 さて、1928年6月の張作霖爆殺事件の当時、田中はこの事件について、どれほど知り得る立場にいたか。彼は、北京に駐在して1年足らずであり、しかも階級は大尉にすぎない。いわば特務工作員の見習い的な存在であったとみられる。  

 他方、河本大作は関東軍の高級参謀であり、田中よりも10歳年長の45歳であった。 張作霖爆殺事件が、河本の計画的な謀略であったとするならば、その秘密はわずかな関係者にしか知らされていなかったであろう。 しかも、両者の階級差や所属の違いから考えても、河本と田中との直接的な交流は考えられない。

 つまり、田中は河本の犯行説を裏付ける第一証言者の立場にはなく、東京裁判における田中証言は伝言レベルのものと判断される。すなわち、情報源の評価としては「信頼性は低い」ということになる。

▼東京裁判における田中の情報源としての信頼性

 彼の著書『敗因を衝く』では「軍閥」の代表である東条英機と武藤章を執拗に非難している。他方、自分自身が日中戦争の早期解決や日米戦争の阻止に奔走したことを強調して、自分自身が行った上海での謀略については述べていない(のちに述べることになるが)。

 本書の記述内容から彼の性格を推測すると、執着心が強く、狡猾な一面が感じられる。 だから、「田中は自分が東條・武藤ラインから外されたことの逆恨みから、彼らに戦争責任を負いかぶせ、自分自身はキーナン検事との「司法取引」によって、処刑を回避して生き延びた」などの批判にも一理ある。

 また、検事たちが作り上げた筋書きに沿った証言を田中が行ったのは、天皇陛下の戦争責任を回避するためだったとの見解もある(作家の佐藤優氏は同見解を主張)。

 他方、東京裁判の終了後、田中は戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲した。ここでは、武藤の幽霊が現れたと口走るなど、精神錯乱に陥ったそうである。そして、1949年に短刀で自殺未遂を図った。その際に遺した遺書では、戦争責任の一端を感じていた記述もある。

 豪放磊落と評された田中が精神錯乱に陥ったのは、嘘の証言によって、太平洋戦争の早期終結を目指した武藤を死刑に追い込んだ、自責の念に堪えかねてのことであった可能性もある。

 いずれにせよ、田中を情報源という視点から見た場合、田中は嘘をつく、真実を秘匿する状況におかれていたことは間違いない。つまり、張作霖爆殺事件における田中の情報源としての評価は「必ずしも信頼できない」というレベルであろう。 しかしながら「彼が語った内容が真実かどうか」は、別途に「情報の正確性」という評価が必要となる。

インテリジェンス関連用語を探る(その5)戦略と情勢判断について

▼戦略とはなにか

戦略の定義は諸説多く約200あるといわれています。第二次世界大戦以前の共通した戦略の定義は、おおむね軍事的要素に限られていました。

しかし、第一次世界大戦以降、戦争の様相が変化しました。それにともない、戦略も必然的に非軍事的要因、すなわち経済的、心理的、道徳的、政治的、技術的考慮をより多く加味する必要がでてきました。 また、軍事力のみならず国家総力で戦争に応ずる必要性が認識されました。その一方で戦禍の犠牲を最小限にするため軍備管理などの重要性も高まりました。

このため、戦略は単なる戦場の兵法から国家の向かうべき方向性や対応策まで含む幅広い概念へと拡大するようになったのです。

今日、戦略は軍事だけでなく非軍事の分野へと拡大し、国家戦略、外交戦略および経済戦略などの用語が定着しています。つまり、戦略の概念は武力戦のみならず外交・経済・心理・技術などの非武力戦を包含したものに拡大したのです。そのため、現代では、「経営戦略」「企業戦略」などの言葉が定着するようになりました。

▼戦略と戦術はどう違うか

戦略の概念拡大にともない、戦略と戦術との関係も複雑化しています。 ちまたのビジネス書などでは、戦略は「企業目的や経営目標を達成するためのシナリオ」と解説されています。一方の戦術は「戦略を実現させるための具体的な手段、方策」などと定義されています。

つまり、戦略が目的・目標を決定し、戦術がそれらを達成するための手段という関係で説明されています。 こうした関係性について筆者は、戦略とは「環境条件の変化に対応して物事がいかにあるべきか(目的、What)を決定する学(Science)と術(Art)」、これに対し、戦術は「固定的な状況から物事をいかになすべきか(手段:How to)を決定する学と術」であると理解しています。

戦略は戦術に比して幅広い考察と長期的な予測を必要とします。そして、戦略が戦術の方向性を規定する関係上、戦略の失敗は戦術の成功では挽回できないのです。

▼戦略の事例列的な区分と戦略マップ

戦略は、①目標を立てる(目標設定段階)、②目標を達成するための手段・方策を考える(計画段階)、③目標を達成するために実践する(実施段階)という3段階から成り立っています。

目標はやみくもに設定すればよいわけではありません。企業経営でいえば、企業ビジョン、企業が有する能力、とりまく環境などをさまざま判断し、達成が可能で具体的な目標を一つ設定しなければなりません。 計画段階では、目標が明確になったら、目標を達成するための手段・方策を考察することになります。  

実施段階では、戦略目標達成のための方策や具体的なアクションプランを実施する。それが目標の達成に向かって齟齬がないかを検証します。また、検証の成果を踏まえながら、方策の修正や目標の再設定が行われることになります。  

計画段階において、手段・方策をアトランダムに立案すれば、「戦闘力の集中」「資源の集中」などという原則に反することになります。したがって、計画段階においては「戦略マップ」で整理されることが多いようです。

戦略マップとは、ビジョンや目標を達成するための手段・方策を図式化したものです。つまり、目的を達成するために必要と思われる具体的なアクションの因果関係や関連を図式化するのです。  

戦略マップには、①戦略目標を達成するための重要成功要因、②戦略目標を評価するためのKPI(key Performance indications 重要業績評価指標、③指標を達成する目標数値(ターゲット)、④アクションプランなどが記述されます。

▼情勢判断とは何か

まず、戦術用語としての状況判断について述べます。もともと状況判断は、米軍の作り出したものですが、その後各国でも広く利用されています。 とくに意志を有する敵との闘争の推論において、賭け(ゲーム)の理論を適用して最良の選択を行うための理論的思考の過程で使用されます。 つまり、彼我が対峙する賭け(ゲーム)において、彼我が取り得る選択肢(可能行動)を列挙して、各組合せにおける帰趨を推論して、最後にこれらを比較して最良の選択を得ようとするためものが状況判断です。

状況判断は、指揮官が任務達成のため、最良の行動方針を「決心」するために行います。 状況判断の実施要領は(1)任務 (2)状況および行動方針 (3)各行動方針の分析 (4)各行動方針の比較 (5)結論、の順で行います。

上述の「決心」とは、状況判断に基づく最良の行動方針、すなわち「結論」を指揮官が実行に移すことを決定した時に、その状況判断が決心に代わります。したがって、状況判断に責任が伴いませんが、決心には状況判断と違って責任がともなうことになります。

他方、状況判断とは異なり、情勢判断は軍事用語あるいは戦術用語ではありません。したがって、「軍事用語集」や「軍事教範」では、情勢判断の明確な定義はありません。

ただし、戦術における状況が、戦略においては情勢に相当するという解釈もあります。そして、これらは上位の戦略と下位の戦術に対応するもので、本質に大きな差異はない、との理由から、しばしば、「情勢(状況)判断」と表現することがあります。

状況判断も情勢判断も、目標の設定、手段・方策の案出、戦略あるいは戦術の修正・実行のサイクルを正常に機能させるために行います。 この際、目標の前提となるのが目的です。目的は不変であり、漠然としたものです。

一方、目的を達成するために設定される目標は具体的でなければなりません。 国家、企業を問わず、ひとたび目標を定めたら、その目標に向かって物心両面のあらゆる資源を集中することになります。ですから目標を容易に変更することは禁物です。これを「目標の不変性」といいます。

ただし、ここでいう目標の不変性は、目的から導き出される基本目標であることに注意が必要です。基本目標を達成するための中間目標については、「(中間)目標の可動性」が認められています。このことは、英国の戦略理論家リデルハートが指摘しています。

情勢判断とは、その時々において「いつ、どこで何をするか」(目標)、「いかにするか」(方法)を判断することです。このことは、突き詰めれば、中間目標の設定と中間目標を達成するための手段・方法を判断するということです。

ほとんどのインテリジェンスは、この情勢判断を支援するために存在します。 国家や企業には生存、発展といった目的やビジョンがあり、そのための基本戦略があります。そこから当面の戦略や戦術が発生します。だから、目的や基本ビジョン、基本目標を無視した情勢判断も、そこから生成されるインテリジェンスも存在価値はありません。

なお、情勢判断は(1)問題の把握 (2)戦略構想の見積状況(3)彼我の戦略構想の対比分析 (4)わが戦略構想の比較 (5)戦略構想の決定(判決)の順で行います。

わが国の情報史(29)昭和のインテリジェンス(その5) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(1)─

▼張作霖爆殺事件

 1928年6月4日、中華民国・奉天(瀋陽)近郊で、奉天軍閥の指導者である張作霖が暗殺された。当時、この事件の真相は国民 に知らされず、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。

 国民革命軍との決戦を断念した張は6月4日早朝、北京を退去して特別編成の列車で満洲に引き上げた。途中、奉天近郊の京奉線が満鉄線と交差する陸橋付近にさしかかった際、線路に仕掛けられていた火薬が爆発(?)、列車ごと吹き飛ばされ張は重傷を負い、まもなく死亡した。

 その事件の扱いは、山川出版の高校教科書『詳説 日本史B』によれば、以下のとおりである。

 「田中首相は当初、真相の公表と厳重処分を決意し、その旨を天皇に上奏した。しかし、閣僚や陸軍から反対されたため、首謀者の河本大作(こうもとだいさく)大佐を停職にしただけで一件落着とした。この方針転換をめぐって田中首相は天皇の不興をかい、1929年総辞職した」

▼河本大作について

 河本とはどんな人物か、簡単に経歴を言及する。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903(明治36)年に陸軍士官学校を卒業して翌年日露戦争に出征している。1914(大正3)年に陸軍大学校を卒業した。

 陸士の卒業順位97番、陸大の卒業順位が24番であるが、大佐昇任が17番であるので、実務において実力を発揮するタイプであったとみられる。

 そして、彼が関東軍の高級参謀であった時に、張作霖爆殺事件の首謀者とされた。しかし、軍法会議にかけられることはなく、停職処分を受けて、予備役編入された。

 その後、河本は関東軍時代の人脈を用いて、1932(昭和7)年に南満洲鉄道の理事となり、満洲炭坑の理事長、南満洲鉄道の経済調査会委員長などを歴任する。太平洋戦争中の1942(昭和17)年、日支経済連携を目的として設立された北支那開発株式会社傘下の山西産業株式会社社長にした。

 戦後、山西産業が中華民国政府に接収されたが、中華民国政府の指示により河本は同社の最高顧問に就任し、引き続き会社の運営にあたった。

 戦後、河本は閻錫山(えんしゃくざん)の中国国民党山西軍に協力して中国共産党軍と戦ったが、1949(昭和24)年に中国共産党軍によって河本は捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。そして1955年に同収容所にて病死する。

▼関東軍と張作霖との関係

 当初日本の新聞では、張作霖爆殺事件は、蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の犯行の可能性も指摘されていた。

 しかし、事件当初から関東軍の関与も噂された。奉天総領事から外相宛の報告では、現地の日本人記者の中に関東軍の仕業であると考えるものも多かったと記されているようだ。

 関東軍関与説の背景には、現地の関東軍と張作霖の対立があった。1927年に4月に設立した田中義一内閣は、北伐を進める蒋介石軍に対しては強硬策を採用した。しかし、張作霖への間接的援助による満洲利権の確保を指向していた。

 これに対して、関東軍司令官の村岡中太郎中将は、張作霖に対しての不審感を募らせており、満洲を独立させようと画策していた。これに対し、田中首相が関東軍の行動にブレーキをかけていたのである。また河本は、この事件前から、周囲に対して張作霖殺害を匂わせるような発言もしていたようである。

▼河本犯行説に至った経緯

 上述の情況から、田中首相はすぐに「関東軍の仕業ではないか」との疑惑をもった。そして西園寺公望を訪ねたところ、西園寺は「(犯人は)どうも日本の軍人らしい」と応じた。昭和天皇の側近である西園寺は、ある筋から、そのような情報を入手していたのである。

 西園寺は田中に、「断然断罪して軍の綱紀を粛正しなければならない。一時は評判が悪くても、それが国際的信用を維持する所以である」と励ました。

 田中は、事件の3か月後になって、白川義則陸相に指示して憲兵司令官を現地に派遣した。9月22日に外務省、陸軍省、関東庁の担当者らで構成する調査特別委員会を設置し、10月中に報告書を作成するよう命じた。

 10月23日、調査特別委から、事件は関東軍高級参謀の河本が計画し、実行したとの報告があった。同月8日に帰国した憲兵司令官も、河本の犯行とする調査結果を提出した。

 しかしながら、この過程において河本はずっと犯行を否認した。つまり、河本の犯行を裏付ける直接証拠は見つからず、関係者の発言などの状況証拠によって河本犯行説が判断されたのである。

▼昭和天皇による叱責

 10月10日には即位の礼が執り行なわれた。それから2か月後の12月24日、田中は昭和天皇(陛下)の御前で、張作霖事件において帝国軍人の関与が明らかとなった場合には、法に照らして厳然たる処分を行なう旨を述べた。

 陛下は、関東軍の謀略を嘆きつつ、田中の厳罰方針に深くうなずいた、とされる。

 ところが、河本犯行説の調査結果を受けて、田中首相が閣議を開くと厳罰主義に同調する者はいなかった。小川(平吉)鉄道相、白川(義則)陸相、鈴木(荘六)参謀総長が穏便に処理するよう田中に要求した。

奥保鞏(おくやすかた)、閑院宮(載仁親王:ことひとしんのう)、上原(勇作)による、天皇の最高軍事顧問である元帥会議においても、上原がリードして事件の真相の公表、責任者の軍法会議送致に強く反対した。

 このため、河本は軍法会議にかけられることなく、予備役編入という軽い処分で終わった。

 こうした経緯について、昭和天皇は田中首相を激しく叱責した。『昭和天皇独白録』は以下のとおりである。

 「たとえ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云ふ事であつた。そして田中は牧野(信顕)内大臣、西園寺(公望)元老、鈴木(貫太郎)侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考えだと云つたそうである。

……田中は再び私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云う事であつた。……私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してどうかと強い語気で云つた」(引用終わり)

▼河本犯行説の裏付けとなった資料

 今日、張作霖事件はわが国が日中戦争に突入する契機となった事件として認識されている。

 また、定説は、先述の山川出版の高校教科書が記述するとおりである。つまり、「河本の犯行であり、張作霖の殺害と、それに引き続く武力発動によって満洲を占領し、懸案であつた満蒙問題を一挙に解決しようとする計画的な謀略である」と認識されている。

 これに対して、「計画的な謀略ではなく、河本の恣意的な判断による無計画な犯行」との対立説はあるが、いずれにせよ、最近になるまで河本犯行説には揺るぎはなかった。

 しかしながら、前述のように河本犯行説を裏付ける直接的な証拠はないのであり、河本自身の自白もなかった。河本が極東軍事裁判に呼ばれて、彼の口からこの事件について発言する機会は設定されなかったのである。

 河本犯行説の大きな根拠となっているものは、戦後に発表された『河本大佐の手記』「私が張作霖を殺した」(文芸春秋・1954年12月号)である。

しかしながら、「手記」とは名ばかりで、これは河本の自筆ではないとされる。これは、河本の義弟で作家の平野零児が口述をもとに筆記したものであるようだ。

平野は1918年に東京日日新聞(毎日新聞)入社、その後、中央公論社(現在の中央公論新社)と文藝春秋社の特派員として中国に渡った。このころから作家として活動し始めた。

平野は現地に詳しい文筆家である。そして平野は、終戦直前に河本を頼り中華民国山東省太原に身を寄せた。そこで、河本とともに閻錫山の中国国民党の山西軍に協力して反共活動に従事して、中国共産党に逮捕され政治犯収容所に投獄された。彼は、河本の死亡1年後の1956年に帰国した。

 平野は、河本の発言を知り得る立場にはいたが、他方で収容所において中国共産党からの洗脳を受けていた可能性も指摘されている。

 また、1955年に河本は病死しているので、1954年12月のこの手記に対して、河本がその後に「手記」に対してコメントする機会はほとんどなかったとみられる。

▼第二次情報源の危うさ

 最初の情報源のことを第一次情報源という。第一次情報源から情報を受けた情報源を数次情報源という。また第一次情報源からの情報を第一次情報、数次情報源からの情報を数次情報と呼称する。一般的には数次情報をまとめて第二次情報として区分している。

 第一次情報とは主として本人が実際に直接、目にした耳にした情報である。これに対し、第二次情報は第三者を介して得た、あるいは第三者の思考や判断が加味された情報である。

 ここでの第一次情報とは、河本本人による極東裁判などにおける発言、あるいは河本自身が直接書いたものであった。しかし、残念ながら、それは存在していない。

 平野が書いたとされる『河本大佐の手記』は第二次情報である。インテリジェンスの視点からは、かかる第二次情報は、どのように外堀を固めようとも、情報としての正確性に欠陥があるという前提に立たなければならない。物語を作る、解釈する歴史学とはこの点が異なる。

 現在では、張作霖事件についてソ連のGRU犯行説などが出ている(なお、筆者は、この説を無批判に受け入れるものではない。これについては次回に触れる)。しかし、『河本大佐の手記』という第二次情報を根拠にして、GRU犯行説を大上段に否定するのは、著しく説得力を欠くといわざるを得ない。

 最後に、できる限り第一次情報源に接するのがインテリジェンスの原則であるが、常に第一次情報が正しくて、第二次情報が誤っているというわけではない。戦後の手記などは自分の都合のよいように脚色される、この点は注意して紐解く必要がある。

わが国の情報史(28)  昭和のインテリジェンス(その4)   満洲事変以前の情報組織とその運用─

▼わが国における共産主義の浸透

第1次世界大戦(1914~18年)後の主要な内外情勢の注 目点としては、まずわが国における共産主義の浸透が挙げられる。

第1次世界大戦が国民を戦争へと動員する総力戦として戦われ ため、欧州では労働者の権利の拡張や国民の政治参加を求める声 が高まった。日本でもロシア革命(1917年)・米騒動(19 18年)をきっかけとして社会運動が勃興した。大戦中の産業の 急速な発展により労働者の数が増加し、労働争議の件数も急激に 増加し、労働組合の全国組織も樹立された。  

こうした社会運動の勃興に油を注ぐことになったのがソ連にお ける共産党政権の誕生である。その対外組織であるコミンテルン の支部として1921年には中国共産党が設立し、22年には日本共産党が設立した。  

わが国は1911年1月の幸徳秋水事件を契機に、社会運動の取り締まりを目的に同年8月に特別高等課(特高)を設置した。 ただし、この時点では国内の社会主義の取り締まりということであり、特高も注目される存在ではなかった。

ところが、1922 年に日本共産党が成立したことにより、主要府県の警察部にも続々 と特別高等課を設置して、その取締の強化に乗り出した。

かくして1925年、わが国は治安維持法を制定する。この法 律は国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まること が目的として制定された。また、山東出兵中の1928(昭和3) 年2月、日本で最初の普通選挙が実施され、無産政党から8人の当選者が出た。

これに田中義一内閣は警戒心を強め、治安維持法 の「国体」を否定する運動に対する弾圧を強め、3月15日に地 下の共産党員およびその協力者に対する大弾圧を行なった。

▼中国における共産主義の浸透と蒋介石の台頭  

第2の注目点は、中国における共産主義の浸透と蒋介石の台頭である。1912年1月1日、三民主義をとなえる孫文を臨時大統領とする中華民国が南京に成立。ここに清朝が倒れた。

しかし、 中華民国の実権はすぐに北洋軍閥の袁世凱の手に移り、袁世凱が死亡(1916年)すると、各地で軍閥が跋扈する混沌とした状 態になった。

そこで孫文は中国を統一するために、コミンテルンの力を借り ることにする。1923年1月、孫文はソ連の代表アドリフ・ヨ ッフェとの共同声明を発表した。これは連ソ容共・工農扶助を受 け入れることであった。  

1924年1月、コミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの肝いりで国民党と共産党の国共合作(第1次)が成立。すなわちコミンテルンの浸透工作が中国大陸において本格始動する。  

孫文は1925年3月に北京で客死した以降、国民党は広東に国民政府を組織して国民革命軍を建軍した。このなかで台頭した蒋介石が1926年7月1日に北伐を開始する。  

蒋介石は当初から孫文の連ソ容共・工農扶助に反対していたた め、共産主義勢力の弾圧に乗り出した。1927年4月12日の 「上海クーデター」で共産党を排除し、同年4月18日、南京にて国民党による国民政府を樹立した。  

1928年に入り、蒋介石は北伐を再開し、6月には北京に入 城して正式に中国統一を宣言した。しかし、反蒋介石派も活動を続け、1931年5月に広州に王精衛(汪兆銘)らによって臨時国民政府が作られた。  

他方、中国共産党は1927年8月から9月にかけての武装蜂起で敗走するが、江西省の井岡山に拠点を設定して、上海などで 地下ゲリラ活動を展開した。これに対して蒋介石は1930年1 2月から囲剿戦(いそうせん)を開始するが、共産党の掃討は困 難を極めた。  

蒋介石による北伐の最中、日本は1927年以降、北伐からの居留民保護の名目で3次にわたって派兵、国民革命軍と衝突した。 1928年には済南事件が起こった。  

このような蒋介石軍の北伐は、わが国にとって南満洲権益への明確な脅威と映った。その過程や延長線において、張作霖爆殺事件(1928年6月4日)、および満洲事変(1931年9月1 8日)が生起し、それが、のちの日中戦争につながっていくので ある。

▼米国による対日牽制が顕在化  

内外情勢でもう一つ見逃してはならないのが米国の動向である。 世界最初の社会主義革命が起き、ロシア帝国が崩壊し、共産主義 国家ソ連が誕生(1922年)する過程において、わが国と米国 は共同でシベリア出兵を行なった。

しかし、日米の派兵目的は異なっていた。わが国は共産主義の浸透が満洲、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒し、オムス クに反革命政権を樹立することを目的に出兵兵力をどんどんと増 大させた。  

一方の米国の出兵目的は日本の北満洲とシベリアの進出に抵抗 することであった。米国は共産主義を脅威だとは認識しておらず、 ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力しなかった(わが国の情 報史(24))。    

わが国がシベリア出兵を継続したことが、日露戦争以後から対 日警戒を強めていた米国の警戒心をさらに増幅させた。米国は1 920年から21年にかけてのワシントン海軍軍縮会議において 日本側艦艇の保有を制限し、1924年に排日移民法制定するな ど、さまざまな対日圧力を仕掛けた。  

他方、南京国民政府の全国統一の動きに対しては、米国は国際 社会の先陣をきって、中国に対する関税自主権回復の承認(19 28年7月)に踏み切り、蒋介石の南京政府を承認(1928年 7月)した。  

米国は早くから水面下で蒋介石と日本との対立を画策していっ た。こうした行動の背後には、わが国を牽制して中国大陸におけ る利権を獲得するとの思惑があった。  

こうした米国の反日行動に対して、わが国は1923年に帝国 国防方針を改定して、米国を仮想敵国として、フィリピン攻略準 備を少しずつ開始することになるのである。

▼参謀本部第2部の改編  

1928(昭和3)年8月15日、参謀本部の改編が行なわれ た。これは第1部第4課(演習課)が、第4部第8課へ編成替え になったことによるものである。  

これにより情報を司る第2部は、第5課(支那情報を除く外国 情報)と第6課(支那情報)がそれぞれ繰り上がり、4課と第5 課となったが(正確には明治41年12月18日の編制の課番号 に戻った)、その基本業務を変わっていない。  

第4課の編制は第1班米国、第2班ロシア、第3班欧州、第4 班諜報であった。一方の第5課の担任業務に「暗号の解読及び国軍使用暗号の立案」が加わったため、第5班暗号、第6班支那、 第7班地誌となった。なお暗号業務の開始は1930年7月5日 から開始された。  

第1次世界大戦では本格的な暗号戦がドイツと英国間で行なわ れ、ドイツは暗号戦に敗れたことを教訓に1918年にエニグマ 暗号を発明した。こうしたなか、従来は第3部にあった暗号班を第2部に移し、諜報と暗号の研究との連携を強化したというわけである。この点は、第1次世界大戦の教訓を踏まえた対応として 評価できる。  

しかし、建軍以来第一の仮想敵国であるロシアに対する警戒心 は希薄であった。つまり、共産主義の浸透を警戒して1922年 までシベリア出兵を継続はしたものの、新生ソ連に対する警戒心 には緩みがみられた。  

当時、共産主義への敵視が強かったため、シベリアからの撤兵 後も国交正常化の動きには国内の右翼や外務省が反対した。外務 大臣の幣原喜重郎は、共産主義の宣伝の禁止を明文化して、国交 回復を実現(1925年1月)した。

こうした国際関係を踏まえたのか、1928年の参謀本部の改 定では、ソ連は依然として参謀本部第2部の第4課の1つの班にすぎなかった。  

上述の帝国国防方針の第二次改定において、陸海軍は対米戦の 場合にはフィリピン島攻略を本格的に取り組むことになったが、 こうした方針が陸軍参謀本部の編制に影響を及ぼすことはなく、 米国に対する情報も第4課の1つの班が担っていた。

▼満洲事変以前の対外情報体制  

第1次世界大戦(1914~18年)以後、外務省は全世界に大公使館、総領事館を設置して、世界的情報網を構成していた。  

他方、陸軍では参謀本部第2部が国防用兵に必要な各国の軍事、 国勢、外交などに関する情報を収集・評価すること、所要の兵要地理を調査し、兵用地図の収集整備にあたることなど目的に、 大・公使館付武官の派遣や、ほそぼそと秘密諜報員を海外に派遣 していた。  

陸軍は第1次世界大戦以降、大・公使館付武官の駐在先を拡大 した。それまでの主たる駐在先は、英国、ド イツ、フランス、 オーストリア、イタリア、米国、ロシア、清(1912年から支 那)、朝鮮(1897年から韓国)であったが、ソ連および米国 を取り巻くかたちで中小国にも駐在先を拡大していった。  

しかしながら外務省の情報は非軍事に限られていた。外務省、 陸軍、海軍による国際情勢判断、政戦略情報のすり合わせは不十 分であった。  

第1次世界大戦において、英国のMI5、MI6などの国家情 報組織が情報戦をリードした。しかし、英国と同盟関係(日英同 盟は1902年1月に調印され、1923年8月に失効)にあっ たわが国は、かかる貴重な教訓を学ぶことはなかった。  

北方要域においては、1918年のシベリア出兵以降、ハルビ ン、奉天、満洲里、綏芬河(すいふんが)、竜井村、吉林に特務 機関を設置して、対ソ連の情報活動の体制を維持した。  

これらの特務機関の活動は関東軍司令部(当時は情報課はなかった)が管轄した。なお関東軍は1919年4月に創設され、台湾軍、朝鮮軍、支那駐屯軍などと同列の独立軍であったが、独立守備隊6個大隊を継続し、また日本内地から2年交代で派遣され る駐箚(ちゅうさつ)1個師団という小規模な陣容であった。  

中国大陸においては、日清戦争後の1901年に、天津に清国 駐屯軍(1912年から支那駐屯軍)を設置し、約2100名の兵力を維持していた。また、北京では、青木宣純大佐の青木公館 (1904年7月~1913年8月)を引き継いだ坂西利八郎・大佐 (1917年8月、少将)が坂西公館(1911年10月~19 27年4月)を開設して、中国大陸の情報活動を行なった。  

1912年、陸軍大学校を卒業した土肥原賢二が参謀本部付大 尉として坂西公館補佐官として赴任した。以後、土肥原はここでの情報活動により、わが国の対中政策の主要な推進者となり、やがて「満蒙のローレンス」と畏怖されるようになる。 これらの情報拠点が満洲事変以後の情報活動や謀略工作の基礎 となった。

▼ドイツ顧問団の兆候を見逃し  

蒋介石は軍隊と国防産業の近代化を必要していた。他方、第1 次世界大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約により軍を 10万人に制限され、軍需産業は大幅に縮小されたため、ドイツ の工業生産は大きく減少した。

そこでドイツは工業力を立て直す ため先進的な軍事技術を輸出し、その見返りに資源の安定供給を 確保することを狙った。こうした両者の思惑が一致し、1920 年代から、両国の軍事的・経済的協力が開始された。いわゆる 「中独合作」である。  

蒋介石は1927年末、蒋介石はドイツの軍事顧問団を招き、 マークスバウア大佐が軍事顧問団長として赴任した。同大佐が1 929年4月に死亡するとヘルマン・クリーベル中佐がその交替 で赴任し、1930年8月にゲオマク・ウェトルス中将と続き、 顧問団も約70人規模に及んだ。  

満洲事変以後に起きた1932年1月の第1次上海事変におい て、蒋介石は日本軍に善戦し、ドイツ軍への信頼を高めた。そこで、蒋介石はドイツ再軍備で有名なゼークト大将を招聘した。その後、日露戦争後に在日武官として東京に駐在したファルケンハ ウゼン中将が軍事顧問団長となり、日本軍は蒋介石軍に苦しめら れることになるのである。  

太平洋戦争の情報参謀で、戦後に陸上自衛隊の幕僚長に就任した杉田一次氏は著書『情報なき作戦指導─大本営情報参謀の回想』 にて、以下のように回顧している。

「盧溝橋事件勃発するやファルケンハウゼンは保定にある中国の北区戦区司令部に派遣され、つづいて上海戦線へと派遣されて中国軍の作戦を援助して、南京陥落後は蒋介石の特命で武将になっ て蒋介石を補佐した。高級顧問団員(複数)は秘密裡に山東省や 山西省で活躍し、ある意味では支那事変は日独(軍人)間の闘争であった」  (引用終わり)

情報活動は早期に兆候を探知し、それを高所、多角的な視点から見て、向かうべき趨勢を見極め、戦略や戦術に反映しなければ ならない。中独合作の最初の兆候は満洲事変以前に遡る。

「後智慧」といえばそれまであるが、もしわが国が早期にこの兆候に気 づき、ドイツの本質を見抜いていたならば、米国との太平洋戦線 への分水嶺となった「日独防共協定締結(1936年11月)」 にわが国に向かわせたであろうか。

ここに、戦略的インテリジェンスの要諦をみるような思いがす る。  

数字のトリックに騙されるな

はじめに  

「辺野古移設に伴う埋め立ての賛否」を問う、沖縄県民投票 が2月24日に実施されました。 最終投票率は52.4%で、反対は71.8%となりました。

筆者は、これに関する全国紙報道に大いに注目しました。

案の定というべきか、『朝日新聞』と『毎日新聞』は「7割以上が移設に反対した 」との趣意の記事を掲載しました。『読売新聞』は、「投票率が52%であり、 あまり関心が高くなかった」旨を指摘しました。これも案の定と いうべきか、『産経新聞』は「有権者6割が反対しなかった」という点を強調しました。つまり、52.4%に71.3%を掛け算して3 5%が積極的な反対派とみたようです。  

これほど、いつもの全国紙の主張を端的に物語る状況には滅多にお目にかかれません。いずれの全国紙も“数字のトリック” (いいとこどり)を駆使して、自らの主張の正当性に結び付けよ うとしています。とりあえず、いろいろな見方ができるというこ とは教えてくれました。  

ただし、“数字のトリック”は説得力を持つことも事実です。 その意味では、反対勢力にとって県民投票を実施した効果はあっ たといえます。  

サンプリングバイアス

“ 数字のトリック ”で騙されやすいバイアスの一つがサンプリングバイアスです。これは統計学の用語で、標本抽出という意味です。

統計の対象が大きい場合、サンプリングします。たとえばテレビの視聴率は全国民を対象に調査しているわけではありません。ある資料によれば、関東・関西・名古屋地区は各600台、そのほかの24地区は各200台のテレビに計測器をつけて調べているそうです。

ここで重要なのは、計測器を設置するモニターに偏りがないよう、ランダム(無作為)に抽出することです。

サンプリングに偏りがあったり、標本サイズが小さすぎたりすると分析結果に誤差が生まれます。偏りのあるサンプリングから仮説や結論を導き出すことを「サンプリングバイアス」というのです。

安倍政権の支持率に関するアンケート調査がよく行なわれますが、米軍基地に強く反対する沖縄県と、東京都での調査ではその支持率は大きく異なると推量されます。仮に、両方の自治体から同数の人を抽出して統計化しても、平均的な国民の声とは言えません。

最近の「地球温暖化」に関する報道から、空気中のわずか0・04%にすぎない二酸化炭素の制限を声高に叫ぶ傾向があります。これに対して興味深いブログがありました。「昔の夏はもっと涼しかった」と思って50年前の日本の気温を調べてみたが、50年前から気温はほぼ横ばい、湿度は昔よりも下がっているというのです。

気象庁の公開データでは東京は130年あまりで2度上昇しているとされます。確かに都市部では上昇しているようですが、そのほかの地域はほぼ横ばいだそうです。

またエジプトなど赤道付近や熱帯地域の平均気温は下がっている、南極の氷も厚くなっているというデータもあります。さらに「地球は氷河期に向かって、気温は徐々に下がっていく」という学説もあります。つまり「サンプリングバイアス」を排して、日本全体、さらには地球規模で論ずると、「地球温暖化」とは一概に言えないようです。

フレーミング効果

“数字のトリック”と巧みな表現方法で都合の良いメッセージを伝達する例をあげましょう。それがフレーミング効果です。これは情報の意味する内容が同じでも、表現の仕方によって印象が変わり情勢判断や意思決定を誤ってしまうことです。

この説明によく用いられるのが、(A)「まだ半分もある」、(B)「もう半分しかない」という言い方です。実際には同じ容量でも、Aの方はあまり減っていない気分にさせられます。

このような思考心理を利用して利益を上げるなど、行動経済学の分野においてこの効果はよく説明されています。

フレーミング効果の題材として、「アジア病問題」が取り上げられます。これは、600人が死ぬと予想されるアジアの病気を撲滅するため、二つのプログラムが考案され、どちらのプログラムを選択するかというものです。

学者がまず学生に問題1(ポジティブ)を提示し、どちらのプログラムを選ぶかを答えさせました。その結果が( )内の%です。

【問題1】

対策A:200人が助かる。(72%)
対策B:3分の1の確率で600人が助かる。3分の2の確率で誰も助からない。(28%)

次に問題2(ネガティブ)を設定し、別の学生に尋ねました。

【問題2】

対策C:400人が死ぬ。(22%) 
対策D: 3分の1の確率で誰も死なず、3分の2の確率で600人が死ぬ(78%)

これらの対策の中身はすべて同じですが、それぞれ表現方法が違います。結果は200人が助かるが72%、400人が死ぬが22%と大きな違いが生じました。

つまり、表現が変わることで、人間にはある思考の枠(フレーム)が設定され、これにより判断や思考が変わってしまうのです。

この実験では、ポジティブなこと(生存)が強調されれば、ネガティブなリスク(死亡)を避ける方向に、ネガティブ(死亡)が強調されると、それ自体を回避するために、あえてリスクを引き受ける方を選択する傾向があると結論づけています。

世の中には、都合のよい情報だけをつなぎ合わせたり、“数字のトリック”と巧みな表現を使用して、都合の良いメッセージを伝達しているのです。

皆さんは、このようなトリックに引っかかることのないようにしましょう。

ある女性記者をめぐるネット騒乱

先日、ネットを見ていたら、あっと驚く記事に接しました。以下、引用します。

東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者を助けたい。中2の女子生徒がたった1人で署名活動に取り組んだ理由とは
女子生徒は、かつての自分と望月記者を重ね合わせていた

官房長官会見での質問をめぐって首相官邸側から問題視されている東京新聞の望月衣塑子記者を支援しようと、1人の女子中学生が立ち上がった。

望月記者の質問を制限しないよう官邸側に求めるインターネットの署名運動を2月に開始。活動を終えた2月28日までに、1万7000人を超える賛同者を集めた。 なぜ中学生は活動することを決意したのか。本人に聞いた。

(以下、中略)

東京都に住む中学2年の女子生徒(14)は、こうしたことをテレビのニュース番組で知ったり、官房長官会見の様子をインターネットの動画で見たりした。「これでは単なるいじめと変わらない。もう見ていられない」。女子生徒はそう思い、ネットで知ったChange.orgを使って賛同者を集めることにした。

望月記者の問題が「他人事」に思えなかったことには訳がある。自身も小学生のころ、いじめられた経験があるからだ。「私は口数の少ないタイプで、小学生のころ、人から物事を強引に進められても断れなかったことがありました。あと言葉による暴力を受けたこともあります」

かつての自分と望月記者が重なり、いてもたってもいられなくなった。Change.orgはネットで探し当て、母親の助けを借りて署名を募った。

「娘と一緒に会見の動画やニュースを見ていたんですが、望月記者に対する『妨害』がだんだんひどくなり、娘も署名を集めたくなったようです」。母親はそう打ち明ける。

ただ、誹謗中傷や嫌がらせを恐れ、「山本あすか」と仮名を使った。「安倍政権のサポーターからの攻撃は正直、怖いです」

署名集めの最中、望月記者からTwitterのダイレクトメッセージを受け取った。「ありがとう。中学生が頑張るのは心苦しい。大人が頑張るから大丈夫だよ」。中学生の自分を心配してくれていることはありがたかったが、納得できなかった。

「私はずっといじめをなくしたいと思っています。国の上のほうのことだけど、こんなこと許したら普通の人ももっと自由に発言できなくなると思って。中学生でも無関心ではいられませんでした」

当初の予定より延長し、2月いっぱいまで署名を集め続けた。(引用終わり)

この記事はハフポスト日本版ニュースエディターの関根和弘氏の記事です。関根記者は、 朝日新聞大阪社会部やモスクワ支局、北海道報道センターなどをへて2017年4月よりここに出向中のようです。

どうして筆者がこの記事に注目したかといえば、なんとなく出来すぎたストーリーを感じたからです。それに、問題のユーチューブを見ましたが、望月記者がいじめを受けたように感じる感覚についていけなかったからです(まあ、私には女子中学生の感受性は理解できないのかもしれません)。

将棋界や囲碁界においても中学生や小学生が大人以上の活躍しています。
藤井聡太7段や仲邑菫(なかむらすみれ)さんの活躍には感嘆すべきものがあります。

2014年にノーベル平和賞を受賞した 、パキスタン出身の女性であるマララ・ユスフザイ氏は 2009年、11歳の時に武装勢力パキスタン・タリバーン(TTP)の支配下にあったスワート渓谷で恐怖におびえながら生きる人々の惨状をBBC放送の依頼でBBCのウルドゥー語のブログにペンネームで投稿しました。

彼女は、タリバーンによる女子校の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続け、英国メディアから注目されました

だから、中学生が政治に関心がない、政治的な判断ができないなどと決めつけ、政治的発言をするなというわけではありません。しかし、発言をする以上は、反対意見もあるということを認識しなければなりません。中学生だから自由に意見を言っても、反対はされたくないというのでは虫が良すぎます。

中学生が書いたとされる、この記事には賛辞を送るコメントが多数散見されています。一方では「文面が子供らしくない。かつての自分と望月記者が重なり、・・・など大人目線である」 などから「ヤラセ」「なりすまし」ではないかとの批判もありました。

女子中学生が表に出てきて自分の言葉で語っているのであれば説得力はあるのですが、ネット上の記事ではどうしても人物像が見えてこないので、“架空人物”かもしれないと、ついつい思ってしまいます。

2、3日たって再びこの記事を検索してみると、 元記者であった中年女性が中学生になりすましてChange.org の記事を作成したことを裏付けるような証拠も出てきたようです。だとすれば、 ハフポスト記者がこの中学生に取材して事実確認したのかも疑わしくなります。今後、新たな展開はあるかもしれませんが、結局は女子中学生が表に出ることは困難であり、真実は明らかにはならないでしょう。

この女子中学生の母親は、ネット記事は子供の自由意志であり、それを手伝っただけだと言っているようです。しかし、反政府デモに参加したり、新聞投稿などで政治的発言をする小・中学生が現れると「本当に、どこまでが自分の意思なのかな?」と疑っています。

かつて中国の文化大革命においては、毛沢東主席の洗脳を受けた子供達が紅衛兵として政治活動をしました。彼らは政府要人のみならず、自分の両親までも攻撃対象としました。彼らはのちに自由意思ではなく、一種のマヒ状態に置かれたことに気付きました。環境に染まり易く、周囲に影響されやすいのが、この年頃の子供たちではないでしょうか?

この事件はさておき、子供、女性、障碍者などの“社会的弱者”になりすまして世論を操作することは倫理的によろしくありません。しかし、 現実の問題として、“お涙頂戴”的な視聴率狙いのマスメディアによるヤラセ記事・報道などは頻繁に行われています。

また、世界各国は情報戦、宣伝戦の名の下に、さまざま偽情報を流布して、自らの戦略的優位性を得ようとしていることも事実です。

かつて戦時中においては、熾烈な宣伝戦が繰り広げられました。 かつての日本軍の「軍事極秘」教範である『諜報宣伝勤務指針』のなかに次の条文があります。

「婦女子及び児童に対する宣伝の咸響はその鋭敏の度通常大なるものなり。しかして、これらに対する宣伝は主としてその感情を利用すべきものなることに留意すべし。なお宣伝中に婦女子及び児童に関する事実を包含せしむるときは、一般に対する感動を強調するものなるをもって、これが適用また軽視すべからず」

この条文をかつての日本軍の悪行として忌避することもできますが、日本もまた、このような宣伝戦を欧米、ソ連、中国から受けていたのです。この点を認識することが重要です。

このような宣伝戦は国際政治のなかで今も健在です。 中国や韓国は南京事件、3.11事件といった歴史戦、宣伝戦を展開しています。徴用工問題、慰安婦問題は弱者の立場を巧みに利用した宣伝戦と捉えることができるでしょう。

我々は、こうした真実を歪める行為が行われているということを自覚して、メディア社会のなかでも正しい判断できる「インテリジェンス・リテラシー」を養う必要があります。

インテリジェンス関連用語を探る(その4)防諜について

防諜は、『諜報宣伝指針』では登場していない

1925年から28年にかけて作成された情報専門の教範である『諜報宣伝勤務指針』では、諜報、謀略、宣伝という用語が登場し、その定義がなされていますが、防諜という言葉は登場しません。

1938年7月に陸軍中野学校の前身である、後方勤務要員養成所が設立され、それが中野に移転し、陸軍中野学校に発展する過程において、諜報、謀略、宣伝と、防諜が秘密戦という用語で整理されます。では、この防諜という用語はいつ登場したのでしょうか?

防諜機能は諜報機能と共に発達

インテリジェンスには積極的機能(アクティブ・インテリジェンス)と消極的機能(デイフェンシブ・インテリジェンス)があるのは太古の昔からです。誰しも秘密があります。秘密の情報をとられてはならないから、厳重に守ろうとします。

そのため、秘匿された情報を如何にして取るかということが重要となります。これが諜報活動を高度化し、組織化していくことになります。さらには、諜報活動によって相手側の弱点が明らかになれば、それに対して心理的な打撃を与えたり、偽情報を流布して判断を誤らせるといった活動が発生します。そのため、情報を守る活動はより厳重かつ組織的になります。つまり、防諜という消極的機能は諜報、防諜、宣伝といった積極的機能と同時に発達してきたわけです。

しかし、上述のように『諜報宣伝勤務指針』では防諜という用語でできません。ただし、同指針の同書についてはのちほど詳しく言及するが、第一編「諜報勤務」の第5章では「対諜報防衛」という見出しがあり、計11個の条文(165~175)が規定されています。それが、より具体化され、体系化されていくなかで防諜という兵語が生まれます。

防諜という兵語の登場

 1936年8月に陸軍省に兵務局が新設されました。兵務局は防共(のちに防衛とあらためられる)に関する業務を担当しました。これが陸軍中野学校の発足の経緯となります。

 1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條には兵務課の任務が示され、同課は歩兵以下の各兵下の本務事項の統括、軍規・風紀・懲罰、軍隊の内務、防諜などを担当することが規定されました。

  同官制改正の六では、兵務課の所掌事務として「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規定され、これが防諜の最初の用例だとみられます。

『防衛研究所紀要』第14巻「研究ノート 陸海軍の防諜 ――その組織と教育―」(インターネット上で公開)では、1938年9月9日に陸軍省韓関係部隊に通知された資料である「防諜ノ参考」、及び陸軍省兵務局が各省の防諜業務担当者に配布した資料である「防諜第一 號 」を根拠に、以下のように解説しています。

◇陸軍は、防諜を「外国の我に向ってする諜報、謀略(宣伝を含む)に対し、我が国防力 の安全を確保する」ことであると定義し、積極的防諜と消極的防諜に区分して説明してい る。

◇積極的防諜とは、「外国の諜報、若は謀略の企図、組織又は其の行為若は措 置を探知、防止、破摧」することであり、主として憲兵や警察などが行った。その具体的 な活動内容は、不法無線の監視や電話の盗聴、物件の奪取、談話の盗聴、郵便物の秘密開緘などであった。

◇消極的防諜とは、「個人若は団体が自己に関する秘密の漏洩を防止する行為若は措置」のことであり、軍隊、官衙、学校、軍工場等が自ら行うものであった。主要施策としては、①防諜観念の養成、②秘の事項又は物件を暴露しようとす る各種行為若しくは措置に対する行政的指導又は法律に依る禁止若しくは制限、③ラジオ、 刊行物、輸出物件及び通信の検閲、④建物、建築物等に関する秘匿措置、⑤秘密保持の為 の法令及び規程の立案及びその施行などがあった。

つまり、1937年7月の日中戦争以降に防諜の概念が整理され、陸軍省から関係部署に徹底されたということがわかります。
その後、1937年8月に軍機保護法が全面改訂され(10月施行)、 1937年11月10日の内務省広報誌『週報』56号 「時局と防諜」では、 防諜は「対諜防衛」または「諜者(スパイ)防止」の略称だと説明されました。

1938年には、 国防科学研究会著『スパイを防止せよ!! : 防諜の心得』 (亜細亜出版社、インターネット公開)といった著書が出版され、国民に対して防諜意識の啓蒙が図られました。

同著では、一防諜とはどんなことか、二防諜は国民全体の手で、三軍機の保護と防諜とは、四国民は防諜上どうしたらよいか、五スパイの魔手は如何に働くか、六外国の人は皆スパイか、七国民よ防諜上の覚悟は良いか、の見出しで防諜の概念や国民がスパイから秘密を守るための留意事項が述べられています。

同著では、「近頃新聞紙やパンフレット等に防諜という言葉が屢々見受けられるようになってきたが・・・・・・、又一般流行語の様に一時的に人気のある言葉で過ぎ去るべきものであるか、・・・・・・」と記述されていることから、防諜が一般用語として急速に普及したようです。

その後、防諜に関する著作、記事、パンフレットが定期的に頒布されました。 主なものは挙げると、『週報』240号 「特集 秘密戦と防諜」 (1941年5月14日)、『機械化』21号 「君等は銃後の防諜戦士」 (1942年8月) 、引間功 『戦時防諜と秘密戦の全貌』 ( 1943( 康徳9)年、 大同印書館出版)が挙げられます。つまり、終戦までずっと防諜の重要性が認識され、国民への啓蒙活動がおこなれました。

防諜という用語が登場・普及した背景

このように防諜という言葉が登場・普及した背景には、第一に共産主義国家ソ連の誕生と共産主義イデオロギーの海外輸出、1931年9月の満州事変以後のわが国の大陸進出と それに対する欧米、ソ連、蒋介石政権の対日牽制が挙げられます。

とくに満州事変、わが国の国連脱退などにより、日本への外国人渡来者数や軍事関連施設の視察者が増加したため、陸軍省は軍内の機密保護観念の希薄さを問題視するとともに、各省庁が連携して国家の防諜態勢を確立すること目指したのです。

スパイ事件が防諜の重要性を高める

また、わが国におけるスパイ事件が防諜の重要性を高めました。その代表事例がコックス事件とゾルゲ事件です。

コックスコックス事件は、1940年7月27日に、日本各地において在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙されたというものです。同月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り、死亡ます。

当時、この事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となりました。

一方のゾルゲ事件 は、ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲが組織する スパイ網の構成員が 1941年9月から1942年4月にかけて逮捕された事件です。 ゾルゲは、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実などを協力者として運用し、わが国が南進するなどの重要な情報をソ連に報告していました。

戦後に防諜は消滅

戦後、防諜と言葉は消滅します。これは、戦中の防諜が敵国のスパイに対する警戒から、わが国の国民に対する監視へと向かったことが原因だとみられます。

実際問題として、ゾルゲ事件にも見られるように、敵国等のスパイ活動はわが国の国民を利用して行いますので、防諜組織は監視対象を「敵国人か」と「日本人か」で峻別することは困難です。 それが、戦後になって戦中の“悪しき汚点”として忌避されたのです。

防諜は日本だではなく、各国も当然のこととしてずっと昔から行っています。英語ではカウンター・インテリジェンスといいます。戦後になり、陸上自衛隊研究本部の松本重夫氏が米軍教範から「情報教範」を作成する際、これを「対情報」と訳しました。

防諜には消極防諜と積極防諜がありましたが、わが国では積極防諜はこれといつた具体化、体系化はなされたなかったとようで。しかし、諸外国でのカウンター・インテリジェンスの概念は、わが国の積極防諜をさらに拡大、攻勢化した意味が含まれます。

だから松本氏は、カウンター・インテリジェンスの訳語について悩んでいたが、結局平凡な「対情報」という言葉になったようです。ただし、現在は教範には「対情報」という用語は存在していません。

(次回に続く)

 わが国の情報史(27)  昭和のインテリジェンス(その3)   ─『諜報宣伝勤務指針』

▼『諜報宣伝勤務指針』とは  
前回は1938(昭和13)年から1940年にかけて編纂 された『作戦要務令』 をインテリジェンスの視点から紐解いたが、今回は『諜報宣伝勤務指針』について述べる。

『作戦要務令』において「情報を審査して、比較総合し、 判決する」という内容の記述がある。 これがインフォメーション(情報)からインテリジェ ンスへの転換、すなわち情報循環(インテリジェンンス・サイ クル)という、今日の最も重要な「情報理論」である。  

しかし、実はこの『情報理論』の萌芽には、先行する「軍事極秘」の軍事教典の存在があった。それが1928年に作成された 『諜報宣伝勤務指針』である。  

同指針は、これまでさまざまな形で印刷されて一部に出回って きた。現在では、山本武利氏(元早稲田大学教授)が主宰するN PO法人「インテリジェンス研究所」によってデジタル化され、 インターネット上に無料公開されている。  同指針に書かれている内容と、同研究所の「第1回諜報研究会」 の資料(「諜報宣伝勤務指針」の解説、ネット上で公開)から、要点を整理するこことする。  なお同報告会の概要についても、ネット上の「礫川全次のコラ ムと名言」が関連記事を公開している。

▼『諜報宣伝勤務指針』の概要

(1)構成  第1編「諜報勤務」と第2編「宣伝及び謀略勤務」からなる、 全194条(56頁)にわたり「諜報」「宣伝」「謀略」の行動 指針などが記述されている。

(2)復刊文について  この指針は「軍事極秘」書で、一時期は参謀本部第2部第8課 (謀略課)が保管していた。終戦時、GHQによる焼却が命じら れたが、焼却せずに保管していた平館勝治氏が限定印刷したもの が、現在、さまざまな形で印刷されて出回っている。 なお平館氏は1939年12月、陸軍中野学校に入学した第2 期乙長期の学生で、卒業後ビルマ工作を行ない、第8課4班を経 て、終戦時には陸軍省軍事調査部に所属していた。

(3)本指針の作成動機  1925年12月に、参謀本部から陸軍省に対して、諜報及び 宣伝に関する研究などを徹底せよとの指示がなされている。 第1次大戦において英・米・仏・ドイツが広範囲に諜報、宣伝 を活用したことや、同戦争以降に欧州においてインテリジェンス やプロパガンダなどの言葉が軍人の中で膾炙(かいしゃ)される ようになり、諜報研究や宣伝研究が学界にも浸透するようになっていたことを背景に、日本の参謀本部での本資料作成の機運が高 まったとみられる。

(4)本指針の作成者  平館勝治氏によれば、河辺正三大将が参謀本部第4班時代(少佐)、 かつて駐独武官補佐官当時にドイツ軍から入手した種本をもとにし て編纂したものである。他方、中野学校1期生で昭和18年当時に 第八課に勤務していた井崎喜代太氏によれば、本指針の作者は建川 美次参謀本部第2部長という。いずれにせよ、参謀本部第2部の部 内作とみられている。  山本氏の研究によれば、河辺少佐がドイツ軍から種本を入手し た説を有力としている(後述)。

▼『諜報宣伝勤務指針』に対する平館氏の証言  

平館氏は『資料集インド国民軍関係者聞き書き』(研文出版、 2008年)に収録されたインタビュー(1992年11月30日) において以下の証言をしている。

「諜報宣伝勤務指針に対し、戦時中、このような本があったこと は大部分の中野学校関係者は知らなかったのではないかと思いま す。なぜなら門外不出の軍事極秘書類でしたから。第8課でも私 が保管中新任の参謀に貸出した記憶がありません。(ただし、す でに陸大で勉強されていたかもしれません)  確かに8課で指針を読まれたと思われる人は矢部中佐とその後 任の浅田三郎中佐です。矢部中佐は中野学校で我々に謀略につい て講義されましたが、この指針の内容とよく似ていました。  

特に、今でも記憶に残っていることは講義中『査覈』と黒板に 書かれ、誰かこれが読めるかと尋ねられましたが、誰も読める者 がおりませんでした。私は第8課に勤務するようになってからこ の指針を読み、指針の中にこの文字を発見し、矢部中佐のネタは これだったのかと気付きました」

 さらに平館氏の証言は次のように展開していく。

「私が自衛隊に入ってから、情報教育を自衛隊の調査学校でやり ましたが、同僚の情報教官(旧内務省特高関係者)にこの指針を 見せましたが反応はありませんでした。

私が1952年7月に警察予備隊に入って、米軍将校から彼等 の情報マニュアルで情報教育を受けました。その時、彼等の情報 処理の要領が私が中野学校で習った情報の査覈と非常によく似て いました。ただ、彼等のやり方は5段階法を導入し論理的に情報 を分析し評価判定し利用する方法をとっていました。  

それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などとい うものは万国共通のものなんだな、とひとり合点していましたが、 第4報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめてなぞがと けると共に愕然としました。

ドイツは河辺少佐に種本をくれると同時に、米国にも同じ物を くれていたと想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改 良工夫を加え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、 日本はその種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だ といって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしてい ました。

この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたも のと察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであ ったと感じました。これは私が米国の情報を学ぼうとして警察予 備隊に入った大きな収穫でした」 (引用終わり)

▼「諜報宣伝勤務指針』の記述内容

「査覈」は「サカク」と読む。「査覈」とは「調べる」という意味であるが、今日では使われない用語であるし、平館氏の証言から 当時においても一般的な用語ではない。  

同指針の第1編「諜報勤務」の総則の第二には、以下の条文が ある(なお、筆者がカタカナ表記をひらがな表記に改め、読みか なをふった)。  

第二「敵国、敵軍そのほか探知せんとする事物に関する情報の 蒐集(しゅうしゅう)、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝 達普及に任ずる一切の業務を情報勤務と総称し、戦争間兵力もし くは戦闘器材の使用により、直接敵情探知の目的を達せんとする ものは、これを捜索勤務と称し、平戦両時を通じ、兵力もしくは 戦闘器材の使用によることなく、爾(じ)多の公明なる手段もし くは隠密なる方法によりて実施する情報勤務はこれを諜報勤務と 称す」    

ここでは、情報勤務と諜報勤務の意義が定義されている。前回 までの筆者記事において、『統帥参考』(1932年)および 『作戦要務令・第2部』(1938年)において情報が諜報と捜索からなることに整理されたことについて述べた。 だが、1925年から28年にかけて作成された『諜報宣伝指 針』において情報、諜報、捜索の関係はすでに整理されていたのである。  

また前回記事では『作戦要務令』の72条を引き合いに、「情 報を審査して、比較総合し、判決する」という、情報循環という 情報理論の萌芽がここにあることを述べた。 しかし、『諜報宣伝指針』の第三章「諜報勤務の実施」の第三 節には「情報の査覈、判断」との目次が掲げられ、計8つの条文 (133~140)がある。つまり、収集した情報を処理して、 その真否や価値を評価することなどは、すでに『諜報宣伝指針』 において整理されていたのである。

▼山本武利氏の重要な指摘  

山本氏は『諜報宣伝指針』の作成経緯について、本資料の源流 はイギリスにあって、ドイツ軍が第1次大戦の敗北から英・米と くにイギリスの類書を参照にしながら、この種本を作成したとい う説が有力である、との見解をとっている。  

そして山本氏は次のように述べている。

「同じころ、これを手に入れたアメリカ軍では、一般兵士にも理 解しやすい内容のものに作り替えていた。たとえばOSSでは 『外国新聞のインテリジェンス的分析法』(山本武利編訳・解説 『Intelligence』10号、2008年)をつくり、諜報、宣伝活動での 新聞のインテリジェンス価値や方法について具体例を並べてやさ しく講義している。  

ところが、日本軍では秘密化を図るべく無理に難解なことばを 濫用して、肝心の陸軍中野学校のインテリジェンス戦士の卵にも このテキストに手を触れさせなかった。『日本はその種本に何等 改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にし まいこみ、なるべく見せないようにしていました』という平館証 言の先の言葉は日本軍幹部の情報政策を根底から痛撃して余りあ るものである。  

そのような指導者の態度は、当時のマルクス主義者が難解なこ とばを羅列して大衆の理解を妨げた高踏的、衒学的な姿勢と通じ る」 (引用終わり)

▼戦後の展開  

戦後、米軍の教範『MILITARY INTELLIGENCE』をもとに、陸上自衛隊の幹部学校研究員であった松本重夫氏(陸士53期)が陸上 自衛隊の「情報教範」を作成した。  

これにより、インフォメーションは「情報資料」、インテリジ ェンスは「情報」と呼称するようになった。そして、情報循環の過程の中で、情報資料を処理して得た有用な知識が「情報」とな って、これが使用者に伝達・配布されることなどが規定された。  

松本氏が「情報教範」を作成した経緯などは、氏の著書『自衛 隊「影の部隊」情報戦』に詳述されている。 この中で、松本氏は以下のよう述べている。

「私が初めて米軍の『情報教範(マニュア ル)』と小部隊の情報(連隊レベル以下のマニュアル)を見て、 いかに論理的、学問的に出来上がっているものかを知り、驚き入 った覚えがある。それに比べて、旧軍でいうところの“情報”と いうものは、単に先輩から徒弟職的に引き継がれていたもの程度 にすぎなかった。私にとって『情報学』または『情報理論』と呼 ばれるものとの出会いはこれが最初だった」(引用終わり) 

つまり、旧軍における過剰な秘匿性が、重要な理論の一般化や 普遍化を妨げていたのである。それにより、イギリスを源流とし てドイツを経由して輸入された『諜報宣伝指針』は、管理者が一 部情報関係者に公開したにすぎず、群衆知による改良と工夫が加 えられずに、かくたる情報理論として発展させることができなか った。  

他方の米軍は、それを基に情報教範を作成して、一兵士に徹底 させた。そこに勝敗の分かれ目があった。このような平館氏の証 言や山本氏の指摘するところは実に重い。

▼秋山真之の教訓が生かされない日本  

時代はさらに遡るが、日露戦争の日本海海戦における大勝利の 立役者・秋山真之少佐が米国に留学し、米国海軍においては末端 クラスまでに作戦理解の徹底が図られていることに驚愕した。  

しかし、秋山は帰国後の1902年に海軍大学校の教官につい て教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していない ことにさらに驚いたという。なぜなら、秘密保持の観点から、戦 術は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからだ。  

のちに秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るる よりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを 憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官に したためた。  

第2次大戦前の日本では、多くの情報を秘密にすれば、保全は 向上すると考えられていた。その結果、1937年以前の改正前 の軍事機密保護法では「何が秘密か」についても秘密にされ、秘 密指定を知っているのは軍部の限られた高官のみであった。  

この一見、厳しい秘密保護体制によって、効果的に秘密が守ら れたかといえばそうではない。むしろ逆に重要な秘密がしばしば 漏洩した。それは、秘密対象が不明確であったため、一般国民、 公務員はもちろん大部分の軍人までもが秘密情報であることを知 らずに無意識に漏らしてしまったからだ。  

また、警察当局も「何が秘密か」を明確に知らないから捜査が しにくかった。その結果、重箱の隅をつつくようなつまらぬ事犯 のみを取り締まり、重要な秘密漏洩は見逃す始末であった。さら に「秘密漏洩犯を裁く裁判官も、秘密基準が明確でないから判決 の下しようがないという奇妙な事態にしばしば直面した」という ことである。  

1937年の軍事機密機保護法の改正で、秘密指定は公表され るようになったが、秘密保護をめぐる状況は大して変わらなかっ た。秘密保護の必要性が強調され、厳しい取り締まりが行なわれ たが、重要な秘密の情報の漏洩は止まらなかった。あまりにも多 くのものを秘密指定にしたからである。

▼岐路に立つ情報保全  

今日、米国は軍事の教範類の多くをインターネットなどで公開 している。中国においても解放軍の関連機関が多くの軍事書籍を 出版している。つまり、作戦理論などは公開が原則である。 それが、国民の軍事への関心と知的水準を生み、愛国心の醸成 に一役買っていることは想像に難くない。  

筆者は以前、元中国大使・宮本雄二氏の講演を拝聴したが、こ の時に「中国の一般人はすこぶる軍事知識に詳しいし、軍事議論 が大好きである」との話を思い起こす。  

しかるに、我が自衛隊では教範はすべて非公開である。この点 に限れば『防衛白書』において「中国軍の不透明」を指摘する主 張には何らの説得力はない。  教範の非公開が守られているかといえばそうでもなく、何年か前には教範の漏洩事件が起きた。この一原因は、「実質的な秘密事項が含ま れていないので、これくらいはいいか」との関係者の甘えた自己 判断が引き起こしたと、筆者は見る。  

誤解のないように申し上げるが、内容がたいしたことであろう が、なかろうが非公開であれば漏洩など絶対にあってはならない のである。だから、漏洩事件を軽々しく扱ってよいということで はない。  

ただし、社会のICT化が進むなか、個人情報の保護とクラウ ド情報の利便性のせめぎ合いが予想される。こうした世の中の趨 勢から、防衛分野においても秘匿すべきもの、公開すべきものを いま一度精査し、情報保全と情報公開の在り方を再検と情報保全討すべきで あろう。  

筆者の個人的意見であるが、一部の教範類については(上述の 漏洩した教範も含め)、特段の保全を要しないし、国民への啓蒙 の観点から公開しても差し支えないと考える。  

いずれにせよ、なんでも秘密、秘密という情報保全の体質は改 めるべき岐路に立たされているのではなかろうか?

(次回に続く)