“SNS・ブログメディア”はマスメディアの監視機構になれるか?

安田純平氏、無事に解放

2018年10月24日、 内戦下のシリアに2015年6月、トルコ南部から陸路で密入国し、武装勢力に拘束されていたとされるフリージャーナリスト安田純平氏(44)が無事解放されました。

このことは、日本人の一人として大いに喜ぶべきことですが、SNSやブログでは「自己責任」論を展開するバッシングで盛り上がりました。これも、安田氏の記者会見などにおける真摯な謝罪などにより、ようやく下火になったようです。

今日のSNSやブログでは過激な意見も多々散見されます。ただし、筆者はこれまで情報発信力を持たなかった“サイレントメジャー”の意見を見る上で、ブログの存在は重要であると、思います。

なかには、自由に匿名での書き込みが行われるため、SNSやブログが大衆世論を反映したものではないとの批判もあります。しかし、私の言いたいこと、思っていることを、結構、ずばっと代弁してくれているような気がします。

SNSやブログによる意見の内訳

今回の安田氏の行動をめぐっては批判と擁護の両論が生起しました。

マスメディアには擁護派が多いように思われます。マスメディアは報道を商売としていますので、当然に取材活動や報道の自由を主張し、取材の価値を高く評価します。ある意味、安田氏の行動を肯定的に評価するのは当たり前なのかもしれません。

一方のSNSやブログでは、批判派と擁護派に分かれていたようです。批判派は安田氏の行動を批判し、さらに安田氏の行動を擁護するマスメディアに対して批判の目を向けました。擁護派は安田氏を“英雄”視し、日本政府の過去3年間の“無為無策”を批判しました。

ただし、私が見る限りでは、ブログメディアの趨勢は、圧倒的に批判派によるバッシングで占められていたように思います。それだけ、今回の安田氏の行動に対して、日本国民の多くが疑問を感じていたように思います。

なぜ、バッシングが起きたのか?

日本政府は、邦人保護という直接的な政府課題や、国際テロ協調、さらには国内政治などにおける間接的デメリットが発生する可能性を懸念して、安田氏に対して、再三にわたり、渡航を自粛するよう注意喚起していました。

これにもかかわらず安田氏が渡航し、“案の定”ともいうべきか、武装勢力に拘束されたのですから、日本政府としては、これを“迷惑事件”だと考えていたとしても不思議ではありません。しかし、日本政府が「自己責任」を理由に、邦人保護の義務を怠ることはありえません。

他方、今回の安田氏の解放に対して、日本政府は終始、淡々と対応していた様子がうかがえました。まるで“火中の栗”は拾わないといったような、冷静で抑制的なコメントが続けられました。

そうした一方で、SNSやブログでは「日本政府の注意喚起を無視して危険地域に行って武装勢力に拘束された。自業自得だ。「自己責任」だから解放にかかった費用を払うべきだ」など、さまざまなバッシングを繰り広げました。

これに対して、いつものように反政府批判を繰り返す、マスメディア(正確には一部マスメディア)が、「自己責任」論を捕えて、攻撃の矛先をブログメディアに向けました。これに対して、SNS上では、コメンティターの発言に批判の大合唱を展開するという事態が生起しました。つまり、ここ最近見られる新しい形の“メディア戦争”が勃発したのです。

一部マスメディアの論調

今回の事件に関して、テレビ朝日解説員の玉川徹氏は、「自己責任」を主張するブログバッシングをとらえて、「未熟な民主主義だ!」と断じたり、安田氏を「英雄と迎えよう」などと主張しました。

玉川氏:「兵士は国を守るために命を懸けます。その兵士が外国で拘束され、捕虜になった場合、解放されて国に戻ってきた時は『英雄』として扱われますよね。同じことです。民主主義が大事だと思っている国民であれば、民主主義を守るためにいろんなものを暴こうとしている人たちを『英雄』として迎えないでどうするんですか」

これに対し、ジャーナリストの江川紹子氏は次のようにコメントしました。

「国の命を受けて戦地に赴く兵士と、自分の意志で現場に向かうジャーナリストは、本質的に異なる。それをいっしょくたにした物言いは、安田氏を非難したい人たちに、格好の攻撃材料を提供した。「ひいきの引き倒し」「親方思いの主倒し」とは、こういうことを言うのだろう。」

「ひいきの引き倒し」「親方思いの主倒し」はさておき、江川氏の論じるように、本質が異なるものを無理無理に類似するする見識の低さにはあきれました。

「自己責任」論は政治的案件なのか?

他方、江川氏は次のような論説を展開しています。

◇「自己責任」が言われるようになったのは、2004年にイラクで日本人の若者3人が武装勢力に拘束された事件においてであった。

◇当時の小泉政権で環境相だった小池百合子氏が「危ないと言われている所にあえて行くのは、自分自身の責任の部分が多い」と発言したのを機に、「自己責任」の大合唱となった。

◇当時、政府・与党の政治家があえて「自己責任」を持ち出して3人を非難する世論を誘導したのは、この事件が金目当ての誘拐事件や遭難などの事故とは異なり、政治的案件だったからだ。

こうした江川氏の論説の展開に対し、過去における「自己責任」論の生起の経緯を起点に、「自己責任」論が政府の「公的責任回避」論を結びく危険性という論理を掲げ、現政府への間接的攻撃を加えようとしている。そこには、今回の「自己責任」論の沸騰のなかで、一般大衆による反政府批判が十分に熟さないことに焦りを感じている様相がうかがえる、といったら、いささか穿った見方でしょうか?

海外における安全対策においては「自己責任」は常識

「自己責任」とは何か?について私見を述べます。筆者は1992年から95年まで、在バングラデシュ大使館で邦人保護の業務に従事したことがあります。当時の外務省『安全対策マニュアル』では、海外における安全対策においては「自己責任」が基本的原則であると明記されていたように記憶しています。

筆者も「自己責任」論に基づいて邦人の安全対策指導に従事していました。 また、他国の安全対策専門家とも多くの意見交流を持つ機会がありましたが、彼らも、海外における安全対策は自己責任が原則であるとの認識を有していました。

つまり、上述の小池氏が述べたようなことは、海外の安全対策においては至極当たり前のことなのです。

ただし、誤解しないでください。「自己責任」は、政府が邦人保護の責任を回避するというものではまったくありません。海外において邦人が不測の事態に遭遇したならば、全力でその生命や財産を守ることは当然のことです。

しかしながら、海外ではわが国の警察権などは及びません。在住する外国人の安全を守る第一義的責任は任国政府にあります。ここが国内とは大いに違います。

だから、邦人が海外で危険な目に遭遇したとしても、日本政府ができることは限定されます。現地では邦人の安否を確認し、その救出などの措置を任国政府に要請する、これらのことしかできないのです。この点はペルー人質事件が良い例です。

だから、政府は事前に関連情報を収集して、危険な地域に対して、渡航注意喚起や渡航自粛勧告などを発出しますが、邦人に対して、明確な犯罪行為などは別として、「行くな!」という権利はありません。

だから、危険な地域に行く、行かないの判断を含めて、海外に行く邦人には、原則は「自己責任」であることを認識してもらうしかないのです。

こうした背景により、「自己責任」論が確立されているのです。国民は、政府から守られる権利がありますが、公共の福祉に従うことや、政府の政策を擁護する責任もあります。

日本国民として海外に赴任する、あるいは旅行する上で、なるべく政府に迷惑をかけてはならないことは当たり前の常識であり、そのことを、政治的案件と結びつけるのも短絡的であると考えます。

一部邦人の行動が全体の公共サービスを低下させる

私のバングラデシュでの勤務時代のことです。1994年から95年にかけて任国の政治情勢が悪化したため、3カ月以上に及ぶ「渡航注意喚起」を継続的に発出していました。本省に対しては、一段上の「渡航自粛勧告」への引き上げも要請しましたが、これは発出されませんでした。

現地在住の邦人に対しては毎日定時に治安情報や安全対策情報を提供し、緊急連絡網を整備し、安否確認を行いました。この際における邦人安全対策においては、できるだけ自主的に日本への帰国や第三国への出国を奨励して、現地の在住の邦人数を減少することがキモとなります。なぜならば、政府専用機による出国などの最終想定で退避できる出国者数を限られているからです。

このような最終的なオペレーションを念頭に、現地の情勢変化を日々判断して、邦人安全対策の措置を検討します。だから、現地大使館としては邦人に対して不用な入国は控えてほしいわけです。

しかし、「渡航注意喚起」にもかかわらず、一部の邦人旅行者や自営業者などの何人かは確実に入国していました。 それら邦人は、ホテルなどを利用するよりも、簡易なゲストハウスに宿泊・滞在するために、安全対策情報を如何にして提供するのかを思案しました。その時に、渡航注意喚起などがいかに無力なものかということを、つくづく感じました。

こうした状況下、邦人からのトラブルの通報を受けました。「それ見たことか」というわけにはいきません。公的機関は日本国民に対してひとしくサービスを提供しなければなりません。しかし、自らの恣意的な使命感、冒険的、野心的なかれられた一部邦人の予期しない事件が起きれば、全体としての公的サービスは低下してしまうのです。

安田氏に対するバッシングの背景

今回の安田氏の拉致及び解放事件は、残念ながら利敵行為になってしまいました。だから、税金を支払い公的サービスを受益する権利がある国民は、「結果的に自分たちに不利益が生じた」と主張する権利もあります。

つまり、日本国民が「やさいしくないとか思いやりがない」などの議論はさておき、政府のさいさんの警告に反して行動して、予想どおりに拘束された安田氏に対して「自己責任」論を主張することは特段に不思議な現象ではないと考えます。

民主主義とはなにか

むしろ、それを「未熟な民主主義である!」などと報じる、上述のコメンテーターや、民主主義を大上段に構えて自らの主義主張をとなえる、一部のマスメディアに対して、筆者は異常性を感じます。

一部のマスメディアは、自らが民主主義の“番人”かのように「民主主義」を連呼しますが、ここで「民主主義とは何か?」、この美名の背後に存在するものを冷静に考えてみる必要があります。ちなみに朝鮮民主主義人民共和国も「民主主義」をかたっています。

筆者は今回のマスメディアの主張に対して、次のような疑問を改めて思い起こしました。◇そもそも民主主義に未熟、成熟はあるのか? 本当に欧米の民主主義が理想なのか?ほんとうに絶対無比の民主主義の理想はあるのか?

◇中国は民主主義ではないから崩壊するという仮説は正しいのか?民族、文化、国家体制の実情に即したさまざまなな形があるではないか?日本には日本独自の民主主義があり、それを欧米と短絡的に比較することはいかがなものか?

◇マスメディアが主張する民主主義とは政府などの権力機構を監視することに矮小化されていないか?民主主義は国民優先の原則であり、国民の自由なさまざまな発言を容認する“懐の深さ”こそが民主主義ではないのか?

マスメディアの役割

ここ最近まで、マスメディアはスーパー的な存在であったと考えます。マスメディアが時の権力構造の腐敗を暴き、社会正義を保持した功績は大であったと思います。

他方で一部のマスメディアが誤った歴史認識を国内外に流布して国益に重大な損害を与えたり、捏造記事に手を染めて視聴率を稼いだ歴史もあります。

こうしたマスメディアによる“光と影”がほぼ独占的に横行したのは、ほとんどの国民が情報発信の手段をまったく持っていなかったからです。しかし、IT化が進展した今日、マスメディアは、権力を監視して、世論を形成する絶対無比の存在でありません。つまり、一般人の無知を愚弄するかのような驕り、恣意的な判断の下での報道はもはや許されません。

マスメディアが誤った報道をすれば、たちまちSNSやブログでのバッシングを起こります。上述のようなコメンティターの発言に対しても、ただちに反撃が展開され、それが増幅され、一つの力を形成します。

安田氏の事件で生起したバッシングに対して、一部のマスメディアは「日本で起きているバッシングは信じられない」といった欧米のメディア人のコメントを引き合いにして、わが国の異常性を浮き彫りにしようとしています。

しかし、“虎の威を借る“ような方法で、自分たちの主張にとって都合の良い情報だけをを使って、民衆の無知に付けこむかのようなな、旧態依然のやり方では、たちまちSNSやブログバッシングの反撃が起こるでしょう。

マスメディアが、これまでのような特権意識に立ち、民主主義や社会正義を振りかざし、“社会の権力悪”と戦っていることを自尊しているならば、ますます国民はメディアから離れていくと思います。

ジャーナリズムに求められる質の高さ

今回の安田氏が自ら紛争地帯に入って拘束されたことを非難する声の背景には、「シリアについての情報なんか、自分の人生や生活に関係ない、特に興味もない」という多数派の意見が根底にあります。

他方で、わが国のジャーナリストが危険な現地に行かなくても、わが国のマスメディアが報道しなくても、CNNなどがほぼ十分すぎることは報道してくれる点も見逃せません。おそらく国民の知的ニーズとしては、それで十分満足なのです。

もちろん、わが国が他国に依存しない情報収集力や取材力を持つことの重要性を否定はしません。また、紛争地域に命を懸けて潜入し、渾身のルポ記事を書くことが必要ないとはいいません。多くの日本人も、このような懇親ルポが発表されれば、日本人として誇りに思うし、感動するでしょう。

しかしもう一度繰り返しますが、危険地域での取材や情報活動は非常に困難である一方、 人工衛星、インターネットなどがIT技術が発達するなか、国際社会におけるさまざま場所と領域における有力情報を入手できる可能性は高まっています。そして、これらのオシント(公的情報)をしっかりとウォッチしておけば相当なことは分かります。

それでも、マスメディアやジャーナリストが、「日本人にとって、現地に行って密着した取材によって得た情報が必要だ!」「危険をおかして、日本に対して不利益をもたらす可能性を差し引いても現地情報が必要なのだ!」というのであるならば、そのことを国民に対して真摯に説明して理解を得る必要があるのではないでしょうか?

そのためには成果の積み上げが必要となります。 それがなくして「日本人は世界のことを知るべきだ」的な発見は、まさに“上から目線”のマスメディアの自己擁護論と主張の押しつけだと言わざるをえません。

諜報員が危険地域に潜入して、その行動が暴露されれば、おそらくニュースにもならずに殺害されてしまうでしょう。武装集団にとっては諜報員もジャーナリストも区別はつきません。危険地域におけるジャーナリストは諜報活動と同程程度の情勢判断と慎重な活動が求められます。 

かりに、諜報員のような訓練を受けていないジャーナリストが危険地域に潜入してすばらしい情報を入手したとしても、インテリジェンスの世界では、その情報はすぐには真実とはみなされません。そこには、「武装集団がその人物に対してメッセンジャーや広告塔としての価値を見出したからではないか?その情報は真実か?」などの信頼性評価の問題が生じます。

このように貴重な情報を得るということは様々な危険性に直面しています。現在のIT社会においてジャーナリズムが成果を挙げるためには、行き当たりばったりの“成果主義”に駆られることなく、十分な事前勉強を行い「何を明らかにすべき」「何が明らかにできるか」などを事前に検討する必要があります。

その上で事前準備、行動の慎重性などが過去以上に求められると考えます。つまり、たとえばシリアに行くジャーナリストであれば、知識一つをとっても中東専門家に負けないだけの事前勉強が必要になるということだと考えます。

“SNS・ブログメディア”はマスメディアの監視機構になれるか?

たしかにウェブ上にはさまざまな扇動的、差別的な発言があります。また、必ずしも“サイレントメジャー”の意見を反映するものではないとの批判もある意味正しいと思います。こうした一方でウエブ上には「群衆の叡智」を反映した秀逸な論評が多々見られます。一部のコメンテエイターの勉強不足を一刀両断するような鋭い見識があることに、筆者は驚きを隠せません。

今回の安田氏に対するSNSやブログ上でのバッシングに対して、一部のマスメディアが民主主義を掲げて攻撃したことから、ブーメランのようにメディアバッシングが生起しました。ここに、筆者はブログメディアが権力の監視機構として台頭しつつる状況を感じます。

これまで政府という権力集団を監視するのがマスメディアでした。今度は、そのマスメディアに対して国民、すなわち“SNS・ブログメディア”が監視する力を持ち始めたのです。これは、まさしく新しい変化です。

この“SNS・ブログメディア”が政府、マスメディアを監視する第三の勢力として成長するためには、国民が真摯に勉強する、ウソやデマを流さない、愛国心に立った意見を誠実に発信するなどを心がけて、さらに「群衆の叡智」を高める必要があります。

因果関係は意外なところに!

因果関係とは何か

物事を考える上では、因果関係という概念が重要となります。 たとえば、「Xが殺害された」という事象と、「YはXに恨みを持っていた」という関係は、原因と結果という因果関係の可能性があります。

つまり、「Xを殺害したのは誰か」という質問に対して、「Yが殺害した」という仮説を立て、それを立証するために、Yの殺害動機という証拠を探り、因果関係を立証することになります。

以前にこのブログ(「さくらももこさん、ご冥福をお祈りします」)で書きましたが、因果関係とよく似たもので相関関係という概念があります。

「AとBにはなんらかの関係がある」ことを「AとBは相関関係にある」といいます。 相関関係と因果関係はしばしば混用されます。しかし、相関関係は物事の将来を予測することも、現実の問題の原因を探ることもできません。

しかし、因果関係を探る重要な糸口を掴むことができます。 そのために相関関係から因果関係を立証することが重要なのです。

因果関係を立証する

相関関係から因果関係を立証するための手法は以下のとおりです。 ①相関関係にありそうな事象をアトランダムに列挙する。 ②列挙した事象のなかから、原因が先で結果が後であるという時系列的な関係がある事象に着目する。 ③その関係には別の原因が存在していないことを証明する。つまり、疑似相関でないことを証明する(下記参照)。

この際、AとBの2つの相関関係がある事象において①AがBが引き起こした、②BがAを引きこ起こした、③CがAとBを引き起こした、④AとBとの関係は単なる偶然である。以上の4つの関係を考察する必要があります。

ここで疑似相関には注意が必要です。上述の③が疑似相関に当たります。たとえば、アイスクリームの売り上げと、クーラーの売り上げは連動しています。しかし、 アイスクリームがクーラーの売り上げに影響を与えるのではありません。実は、 これは夏の暑さという別の要因が関係しています。

因果関係は意外なところにある

真の因果関係を見つけ出せない原因を探りますと、想像力の欠如や思い込みがしばしば原因となってり有力な仮説が立てられていないことが多々あります。

1990年代初頭の米国の事例をあげましょう。当時の米国では過去10年間、犯罪を増える一方でありました。専門家は、今後はこれよりも状況は悪くなると予測しました。しかし、実際には犯罪が増え続けるどころかぎゃくに減り始めてしまったのです。すなわち、未来予測を誤ってしまったのです。

「なぜ犯罪率は減ったのか?」という質問に対して、「割れ窓理論」に基づく警察力の増加や厳罰化、銃規制、高景気による犯罪の減少などの仮説があがりました。 しかし、そのような対策を行っていないところでも犯罪は減ったのです。

そこで調査したところ、予想もしなかった因果関係が明らかになったのです。それは「中絶の合法化」でした。 この因果関係を簡略化して示すと次のとおりです。貧しい家庭→未婚の女性の妊娠・出産が増加→貧困による子育て放棄、虐待、教育放棄→未成年者が犯罪予備軍→犯罪の増加でした。

当時の米国では長らく妊娠中絶は違法でした。 しかし、米国では1960年以降、性の解放の観点から、シングルマザーや中絶も1つの選択肢とされました。そして、歴史的に有名な1973年の「ロー対ウェイド判決」で、最高裁は7対2で憲法第14条に基づき、中絶禁止を憲法違反であると判定しました。 すなわち人工中絶法が設定されたのです。

つまり、この時期以降、貧しい未婚家庭に育った妊娠女性が子供を産まなかっくてもよくなったのです。その結果、1990年代に若者の犯罪予備軍が減り、犯罪率が減り始めたのです。

人工中絶法を巡る米国社会

しかし、それで人工中絶が米国社会から容認されたか、というとそうではありません。上記の人工中絶が犯罪率を低下させるという事実が分かったことで、ぎゃくに人工中絶がクローズアップされ、それに対する反対運動が起こりました。その結果、1990年代以降、ふたたび人工中絶の数は減っていきました。

今日、米国社会は、人工中絶を認める判定の逆方向に向かっている傾向があります。

最近では、全米で州レベルでの中絶禁止法案が 記録的な勢いで 通過しています。宗教の権利に基づき、女性の選択の権利を制限した6月30日のホビー・ロビーおよびコネストガ・ウッドの聴聞での最高裁の判定はその極端な例です。

キリスト教信者の人口層が多い米国は、社会の隅々で宗教団体が著しい影響を与えています。特に女性の避妊や中絶に関して、政治家も様々な角度から影響を及ぼしています。

トランプ米大統領は、選挙戦で人工妊娠中絶をした女性には「何らかの形で罰があるべきだ」と発言して、他の候補者たちから非難の声が上がり、同氏は発言を事実上、撤回しました。

一方、 このような社会の変化に反応し、選択の権利を主張する女性の声も高いようです。 カリフォルニアなどでは、中絶へのアクセスを拡大するため、7年ぶりの新しい州法を制定しました。

NHK連続テレビ小説 『半分、青い。』から「マザーズ」へ

NHK連続テレビ小説『半分、青い。』が終了してしばらくたちましたが、筆者はこれの“ネタバレ” をネット上で探していて、ある記事に辿りつきました。

このドラマでは、主人公の鈴愛(永野芽郁)が癌になった母・晴(はる、松雪泰子)のため、幼馴染の律(りつ、佐藤健)はなき母・和子(わこ、原田知世)に何もしてあげられなかったことから、“そよ風の扇風機”を発明し、その名前を「マザー」と命名します。

二人の母親への感謝と愛情が一杯つまったすばらしい作品でした。

一方、中京テレビ報道局が2011年から7年にわたり取材・放送してきたドキュメンタリーが「マザーズ」です。筆者は「マザー」から「マザーズ」に行きついたわけです。

マザーズの記事を引用

「マザーズ」 の記事を引用します。

「予期しない妊娠に直面したとき、あなたはどんな選択をするでしょうか。 厚生労働省のデータによると、1年間に行われる人工妊娠中絶の件数は16万8015件(平成28年度)。「育てられない」多くの命がある、残酷な現状です。

その一方で、「中絶はできない」と揺らぐ女性たちもいます。 病院のベッドに横たわる、お腹の大きな少女。中学2年生の綾香さん、14歳です(仮名・年齢は取材当時)。綾香さんのお腹の中には、出産間近の新しい命が宿っていました。 若くして母となった綾香さん。お腹の赤ちゃんの父親も、同じ中学生でした。

予期せぬ妊娠や病気、経済的な困窮で子どもを育てられない、子どもを虐待してしまうなど、様々な事情により、実の親による子どもの養育が難しいことがあります。そのようなとき、実の親に代わって、温かい家庭環境の中で子どもを健やかに育てるために、特別養子縁組や里親などの制度があります。」

特別養子縁組に注目

生みたくても産めない人、積極的に社会進出したいために子供を持つことを選択しない人、誤って妊娠して人工妊娠中絶をする人、人はそれぞれさまざまです。

残念ながら、シングルマザーズによる子育ては社会に良い面ばかりをもたらしません。しかし、わが国が少子高齢化に向かうなか、 子供は国家成長の礎であり、国の宝なのです。このことを正面から向き合ってみることが重要です。

少子高齢化の対策には、外国人労働者への入国拡大、定年の延長、AI社会への発展など、さまざま健闘されいます。一方で「育てられない」ということと、「子供ほしい」という両者の条件を、完全には程遠いとはいえ、充たすものが特別養子縁組や里親の制度 ということになるのでしょう。

シングルマーザーズに対する社会支援を充実させる一方で、特別養子縁組なと゛の制度強化に注目する必要はおおいにありそうです。

貴乃花親方の引退

インテリジェンスの視点から考察する

平成の大横綱、貴乃花引退

最近のビッグニュースの一つが貴乃花親方の引退騒ぎです。貴乃花は平成の大横綱であり、相撲界の大変な功労者です。世間には衝撃と無念さが走っています。

そもそも、今回の争議の発端は昨年10月の日馬富士暴行事件にさかのぼります。貴乃花部屋の力士である貴ノ岩が、横綱の日馬富士から暴行を受けました。この事件に対し、貴乃花親方は相撲協会ではなく、警察に届け出ました。 貴乃花としては、警察にゆだねなければ、事件がうやむやにされると判断したのでしょう。

他方、相撲協会側としては、事件を調査して公表する立場にありました。しかし、貴乃花親方が相撲協会と貴ノ岩の面会を認めないなど、調査には断固として応じませんでした。

相撲協会側は、「巡業中の事件である。相撲協会の一員であり、しかも巡業部長であった貴乃花が相撲協会に事件を報告するのは当たり前だ」などと論じました。

両者の対立が深まり、相撲協会は貴乃花親方を処分し、日馬富士は引退に追い込まれました。

理事長選挙で敗北

こうした対立が続くなか、本年2月、今後の角界を大きく左右する相撲協会の理事選の選挙が行われました。貴乃花一門は、貴乃花親方が再出馬することに反対して、阿武松(おうのまつ)親方を立てました。

しかし、貴乃花は個人で理事選に出馬します。結局、獲得票はわずか2票で落選します。

その結果、貴乃花親方は本年6月に一門を返上し、無所属になりました。一方、理事に当選した 阿武松親方は8人のグループ (阿武松グループ) を形成しました。

これで、5つの一門と、一つのグループ、そして無所属が貴乃花親方含む4人となったのです。

貴乃花親方、一兵卒からやり直す

貴乃花親方は本年3月に内閣府へ「日馬富士の事件で相撲協会が適切な調査を行わなかった」旨の告発状を提出しました。ここに、いったんは両者の政治闘争の幕が切って落とされたのです。

しかし、ここで想定外のことが起きました。貴乃花部屋の力士である貴公俊(たかよしとし)が付き人に暴力を加えたのです。

この時、すでに日馬富士は暴力事件の責任を取る形で引退しています。だから暴力を振った貴公俊も退職するのが筋ということになります。

貴乃花親方は 貴公俊に相撲を取らせていた一心で 告発状を取り下げました。つまり、貴乃花親方は相撲協会に許しを乞うたわけです。

貴乃花は理事から5階級下の年寄に降格し(理事、副理事、役員待遇、委員、主任、年寄)、「一兵卒からやり直す」と称して、相撲協会の審判部に所属してその職務に精励していました。

貴乃花、引退届を提出

しかしながら、相撲協会と貴乃花親方の対立は完全解決には至らず、水面下でくすぶっていました。

9月25日、貴乃花親方は相撲協会に引退届を提出し、都内で記者会見をしました。年寄を引退し、所属力士は千賀ノ浦部屋に所属先を変更するというものです。

これは突然の事態というわけではありません。といういのは、マスコミが「相撲協会が親方はすべていずれかの一門に入らなければならないこと決定した。その期限が9月27日になっている」などと報道していました。また、すでに 阿武松グループの8人と無所属の3人は二所ノ関一門などに所属していました。

そして、唯一所属先が未定となった貴乃花親方は9月22日、「所属先はどうするのか」という報道陣の質問に対し「それは答えられないです」と発言していました。さらにマスコミは、貴乃花親方の所属先が決まらなければ、厳罰や部屋の取り潰しなどの可能性を示唆していました。

つまり、マスコミやわれわれも貴乃花親方の去就に注目していましたし、貴乃花親方がこの理事会の決定に従わなければ厳罰がある可能性を認識していたのです。

相撲協会もこうした動向はすべて承知しつつ、貴乃花親方の次なる行動を注視していたわけです。

圧力があったと旨を主張する貴乃花

貴乃花親方の引退の理由は、相撲協会から「告発状は事実無根な理由に基づいてなされたもの」と結論付けられた揚げ句、これを認めないと親方を廃業せざるを得ないなど有形・無形の要請(圧力)を受けたというものです。

貴乃花親方によれば8月7日、相撲協会から依頼された外部の弁護士の見解を踏まえたという、 「告発状は事実無根な理由に基づいてなされたもの」との文書での書面が届けられたようです。

これに対し、貴乃花は告発状の内容は事実無根でないことを説明したが、上述のような有形・無形の要請があったということのようです。

貴乃花親方の主張の要点は次のとおりです。

相撲協会はすべての親方は一門のいずれかに所属しなければならず、一門に所属しない親方は部屋を持つことができない旨の決定がなされたようだ。

自分は一門に所属していないので、このままだと廃業になる。

一門に入るよう説得は受けたが、同時にいずれかの一門に入る条件として、告発状の内容は事実無根な理由に基づいてなされたものであると認めるよう要請(圧力)を受けた。

しかし、自分は真実を曲げて、告発は事実無根だと認めることはできない。だから引退届を提出した。

相撲協会側は圧力を否定

これに対して相撲協会側が圧力の介在をまっこうから否定しました。これも周囲の予想通りの対応です。

ここで芝田山(元横綱・大乃国)広報部長が窓口に立ちます。

芝田山親方の言い分は次のとおりです。

7月末の理事会で全親方が5つある一門に所属するという決議をした。これは、予算使用の透明性など、相撲協会のガバナンスの強化が目的である。

告発状が事実無根であることを認めないと一門にいれないということわけではない。そういったことを言って貴乃花親方に圧力かけた事実はない。

一門に所属しない親方がやめなければならないという事実はない。

5月に貴乃花から3月の告発状のコピーの提出を受け、「間違っている点があれば指摘ほしい」との貴乃花親方の発言に応じて、相撲協会が顧問契約のない法律事務所に検証作業を依頼した。

(なお、貴乃花親方から同コピーを提出したのか、相撲協会から提出を要請されたのかかは明らかにされていませんが、相撲協会は全親方に貴乃花親方の告発状を全員に配布したとの報道が以前にありましたので、相撲協会側が提出を求めたものとみられます)

その検証を踏まえ、告発状の主張は「事実無根の理由に基づいてなされた」と貴乃花親方に書面で伝達した。なお、同書面には事実無根と認めるよう貴乃花親方に要請する表現は一切ない、

さらに、報道によれば、相撲協会の意向は 、9月27日に開かれる理事会の時点で、所属一門が未定の親方がいた場合は、その日の理事会で協議する。期間をとって一門への招請を調整するというものだったようです。

本当なのかどうかはわかりませんが、いささか後付けの印象を受けます。

世間には貴乃花親方の早合点を指摘する声があるが

一部には、貴乃花親方は思い込みが強いので相撲協会の対応を勝手に圧力だと誤解した」などの意見が出ています。

これには、貴乃花親方にまだ相撲協会に残ってほしいとの、幾分かの期待値がふくまれているのでしょうが、少なくとも貴乃花親方がありもしない圧力を圧力だと誤解した、早合点したなどは、ありえないことだと考えます。

相撲協会が、貴乃花親方を相撲協会から排除しようとまでは考えていたかどうかはわかりません。しかし、相撲協会の内部において、「反協会派である貴乃花親方の行動を統制・牽制する必要がある。二度と勝手な行動はさせない」との意図があったと考えるのは極めて自然です。

「親方全員の一門所属制度」もガバナンスの強化というよりも、貴乃花親方の反協会的な行動をとらせないための措置であったと考えるほうがしっくりときます。

つまり、 8月に貴乃花親方に提出された「告発状は事実無根だった」との通知は、9月27日までに一門に所属しなければならないとの決定事項とセットであり、いわば「告発状は事実無根だ」と認めることが一門に所属するための“免罪符”であったとみられます。

すなわち、圧力は存在したと考えます。

誰が圧力を掛けたのか

親方全員が一門に入らなければならないということも、文書で通知されたわけでくなく、理事を通じての口頭伝達で行われたようです。相撲協会の言い分では、こうした決定事項は文書で行わないのが慣例なのだそうです。

おそらく貴乃花親方に対しての伝達は、以前に貴乃花一門であった阿武松理事を通じておこなわれたのでしょう。その際、 阿武松親方は貴乃花親方に一門に入るよう真摯に説得を試みたのでしょう。

この際、 阿武松親方 は圧力を掛ける気持ちはなかったと考えます。

ただし、他の理事が間接的に阿武松親方 に対し、貴乃花親方が一門に入るための条件として、「告発状は事実無根であった」ことを認めさせるよう要請した可能性は否定できません。

阿武松親方自信も親方業を続ける、さらに理事として残るために二所ノ関一門に所属しました。そのような立場にあった 阿武松親方が、「貴乃花さん、あなたも一門に入って一緒にやっていこうよう。ただし、一門に入るためには、告発状は事実無根だったと認めないと、一門の他の親方衆はなかなか受け入れてくれるないよ」くらいのことは言った可能性はあると判断します。

無論、芝田山親方が言うように相撲協会が表面的に圧力を掛けた形跡はありません。しかし、これは貴乃花親方に不満を持つ理事や親方衆が生み出した組織全体の暗黙の圧力だといえます。そもそも圧力というものは、無言の圧力がもっとも多いのであり、もっとも効果があるのです。

貴乃花親方がこうした周囲の環境を有形・無形の圧力と認識し、それをもはや回避できない脅威であると感知して、「窮鼠猫をかむ」の言葉どおりの行動に出たのでしょう。

逃げ道が閉ざされた時に、圧力を掛けられた側は乾坤一擲に反撃にでます。それが、今回の相撲協会側と貴乃花親方の対立の縮図であると考えます。

暗黙知の世界で生きた貴乃花

暗黙知とは主観的で言語化することができない知識のことをいいます。言語化して説明可能な知識(形式知)に対する対比語です。

たとえば、歩行や自転車の乗り方は言葉では容易に説明できませんが、脳がその行動を知識として記憶しています。

最近では、暗黙知はビジネスの世界でよく使われる言葉です。徒弟制度のように体で技術を覚えるのではなく、マニュアル化できるものはマニュアル化する、すなわち形式知にすることが重要であるという文脈として使われることが多いようです。

相撲界の四股はまさに暗黙知であると思います。そして相撲界は全体は、明確な規則による定めや、理論的な解釈よりも、過去の伝統や経験に基づく暗黙知が組織全体を支配してきたと考えます。

貴乃花親方は15歳の頃から相撲界に入り、四股を中心に想像を絶する稽古を重ねて横綱になりました。 つまり、貴乃花親方自身も、暗黙知が支配する世界のなかで、経験や勘に基づく生き方や判断力を蓄えてきたのです。

情報分析の世界にもある暗黙知

情報分析の世界ではアルゴリズムとヒューリスティックという言葉が存在します。前者は、
「人間やコンピューターに仕事をさせる時の手順」の意味であり、一歩ずつ手順を経て解答を導き出す思考法です。論理的思考に該当します。

他方、ヒューリスティックは「自己の直感や洞察に基づき、複雑な問題に対する、完璧ではないがそれに近い回答をえる思考法」という意味で用いられています。これは、必ず正しい答えが導きだせるわけではありませんが、ある程度に近い答えを出せる方法です。思考法としては創造的あるいは直感的思考法に該当します。

ヒューリスティクは迅速に答えを導きだすことができますが、思い込みや心理的なバイアスが介在して誤判断することがあります。だから、ヒューリスティクはバイアスの排除に努力しなければなりません。

実は、このヒューリステイクは暗黙知と非常に類似しています。つまり、経験や勘を蓄えて身に着ける思考法です。

情報分析においてはアルゴリズムとヒューリスティクの併用が重要だといわれます。つまりアルゴリズムだけで、迅速に正しい判断ができません。さらに驚くべきは、実は、専門家や経験者によるヒューリステイクの方がアルゴリズムよりも正解率が高いといわれるのです。

貴乃花親方は誤判断だったのか

今回の貴乃花親方の決断は、9月場所終了後の短期間で行われたことから、ヒューリスティクの判断だったとみられます。

上述のように、その判断は誤解である場合もありますが、多くの場合は正しい場合が多いのです。貴乃花親方が、他の事項についてヒュリスティックによる直観的な判断をしたならば、それは誤判断の可能性が大いにあると言えます。

しかし、こと勝負の世界、争いごとの判断において、勝負師の貴乃花親方がそうそう誤解をするとは到底思われません。

これは、相撲協会と貴乃花親方の政治闘争です。つまり、勝負師として類まれな感性を持つ貴乃花親方が、ありもしない圧力を掛けられたと一方的に誤解して、早まって退職を決断したなどという見解は的外れです。

貴乃花親方は、この種の圧力はもはや通常の手段では回避できないと直観的に判断して引退を決意したのでしょう。結果として早まったのかもしませんが、この段階においての貴乃花親方の決断は、取り得る最善の判断であった可能性の方が高いのです。

相撲協会側には圧力の認識はなかったのか

そもそも相撲協会側が、自分達にマイナスになるようなことを言うはずはありません。たとえ圧力があったとしても、圧力はなかったというでしょう。しかし、文書や口頭での圧力をにおわせる具体的なものはなかったとしても、上述のとおり暗黙的な圧力はあったと考えます。

相撲協会側の方々も暗黙知の世界の人たちです。彼らも自然と戦いのやり方を身に着けています。反協会派である貴乃花親方から、最初に政治闘争は仕掛けられたのですから、相撲協会側は黙ってはおれません。

戦いにおいて、心理的な圧力を掛けるのは常套手段です。相撲協会側は、このことは十分に認識し、貴乃花親方の行動を心理的に縛っていったはずです。

つまり、無所属の親方をいずれかの一門に入れ、外堀を固め、所属先の未定が貴乃花親方一人なる状況を作為しました。その状況を好機とみなし、さらに貴乃花親方に心理的に圧力を掛けていくことを意図的に行った可能性があります。

相撲協会側には貴乃花親方を完全に排除する派と、貴乃花親方の勝手な行動を諌め、軍門に下らせる派が存在していると考えます。いずれにせよ、政治闘争が継続している限り、貴乃花は相撲協会の敵であるわけです。

ただし、相撲協会側の本当の敵が貴乃花親方であったのか、それとも相撲を愛してくれるファンであったのか、さらには将来を取り巻く相撲がどのような環境に遭遇するのかというという情勢判断については、相撲界という狭い暗黙知の世界で生きてきた方々には少し難問であるのかもしれません。

思い起こす「パールハーバー」

話しは少し飛びますが、今回の両者の対立には「パールハーバー」を思い起こします。太平洋戦争の口火となる真珠湾攻撃は、日本の開戦通告が攻撃開始後の40分後になったことから、アメリカは日本の“卑怯なだまし討ち”を喧伝しました。

しかし、ルーズベルトはすでに蒋介石軍を支援し、厳しい対日経済制裁を発動し、対日決戦を行う決意を固めていました。

実は、真珠湾攻撃以前にもアメリカはわが国を攻撃するという計画もありました。これは350機会のカーチス戦闘機、150機のロッキード・ハドソン爆撃機を使用し、木造住宅の多い日本民家を焼夷弾を使用して爆撃するというものです。

実際には、欧州戦線への爆撃機投入を優先したため、この計画が遅れて真珠本攻撃となったにすぎないのです。むしろ、卑怯なだまし討ちはアメリカが行っていたかもしれません。

日本は1931年の満州事変以降、欧米からの圧力を受けました。そして国連から脱退して孤立化します。アメリカから石油をはじめとする資源の供給を停止され、じりじりと追い込まれています。そして対米戦争を最終的に決定したのが「ハルノート」です。これが提出された翌日の11月26日、日本はアメリカとの交渉の打ち切りを決定しました。

日本にも非難される点は多々ありました。しかし、欧米による歴史的なアジア侵略、迫りくるロシアの脅威、資源の枯渇などから、やむなく大陸進出を選択し、 欧米列強からのアジアの開放を目指したのです。

そこには、自らの利益追求を目的にアジアに侵略した欧米よりも十分な正統性があったと考えます。

貴乃花親方は孤立化した日本であった

まさに今回の貴乃花親方は、当時の日本の状況であると思われます。

貴乃花親方の行動には批判される点が多々あります。 しかし、ガチンコ力士であった親方が八百長につながる馴れ合い所帯の体制の撤廃、暴力の追放などを柱とした、相撲改革を目指したことは間違っていたとはいえません。

ただし、急進改革を求めるあまり、他との協調性を欠き、孤立化し、相撲協会側との関係が深刻化しました。

貴乃花の今回の行動を、私はかつての日本の状況とだぶられせてしまい、無念な感情から抜け出せないのです。

姑息な印象を受ける相撲協会

一方の相撲協会側のやり方が間違っているとは、私は思っていません。いささか反協会派の貴乃花親方の包囲網の形成を焦った感はありますが、組織としてはむしろ当然の措置だったのでしょう。

しかしながら、外堀を固めながら、じりじりと貴乃花親方を追い込んでおきながら、最後にのところで貴乃花親方の想定外の行動を受けた。

そのため、「9月27日の時点で一門に所属していない親方がいたら話し合いをする予定だった」「一門は受け入れる予定であった」などとのマスコミ報道を使った弁明は、詭弁以外の何物でもありません。

さらには引退届けが正式でない、所属力士の移動届けにも瑕疵があるなどとの芝田山親方の発言です。 そして未だに退職届は受理していないので、9月27日の番付編成会議に出るべきであるとの見解を主張しています。

そして、同編成会議に出なかったことにマスコミは「無断欠席」と書き立てるのです。すでに貴乃花親方は明確に引退の意志を明確に表示し、その理由を相撲協会の圧力だと言っているのです。少なくとも、無断であるとはいえません。

なにゆえ、貴乃花親方一人だけが無所属で、全員の親方が一門に所属した状況の会議に参加できるというのでしょうか。それこそ、明確な圧力行為ではないでしょうか?

相撲協会のこうした言動は法律的にも適正とはいえません。また、これには、日本を戦略的に追い込んで起きながら、日本の卑怯なだまし討ちを喧伝して、開戦気運を盛り上げたアメリカのやり方と非常に似た、ずるさ、いやらしさを感じます。

つまり、相撲協会のやり方は、武士道精神の潔さがまったく感じられないのです。いささか姑息手段がすぎるように感じます。

双方に望むこと

今後の貴乃花親方も、敗戦した日本のように前途は多難なのでしょう。 でも、少年に相撲を教えて、相撲界を盛り上げたい、その言におおいに賛成です。

相撲協会はもはや枝葉末節にこだわらず、早々に貴乃花親方の引退を認めていただきたいと思います。そして、同親方の行動にも一理あることを認めて、是正できることに取り組んでいっていただきたいと思います。

南北首脳会談

会議は踊る、されど進まず

第5回南北首脳会談が開催

さる9月19日から20日にかけて、今年に入って第3回目、歴史的には第5回の南北首脳会談が開催されました。 平壌で南北首脳会談が行われるのは今回で3回目となります。過去の2回は、2000年6月の金大中政権、2007年10月の盧武鉉政権の時代であり、北朝鮮側は金正日氏です。韓国側の両政権はいずれも親北朝鮮政権であり、当時は、「太陽政策」という外交的緊張緩和政策が取られていました。

いずれも南北関係の改善に向けたさまざまな取り決めがなされましたが、現在までの南北対立の継続や、北朝鮮の核ミサイル開発の経緯を見るにつけ、過去の南北首脳会談が関係改善に成果があったとは言えません。

今次の南北首脳会談は規定路線

今回の南北首脳会談の経緯は本年2月にさかのぼります。金永南・最高人民会議常任委員会委員長と金正恩委員長の実妹・金与正氏が、平昌オリンピック開催期間中に韓国を訪問し、文在寅・韓国大統領と会談を開きます。その際、与正氏は、文大統領に金委員長の親書を手渡し、近く北朝鮮を訪問するよう要請しました。

その後、4月27日に文大統領と金委員長との間で、第3回南北首脳会談が板門店(韓国側施設)で開催され、その共同宣言(板門店宣言)のなかで、本年秋に文大統領が平壌を訪問することが合意されました。

報道ぶりを見ますと、 今回の南北首脳会談が、このところの米朝関係の膠着状態を打開するために行われたかのような印象を受けますが、まずは南北が 両国関係の改善の礎石となる終結宣言、さらには南北統一のための布石を打つことに狙いがある点を押さえておく必要があります。

第2に、北朝鮮が経済再建をうたい、韓国経済が停滞するなか、両国における経済関係の進展に狙いがありました。 それは、今回の文大統領の訪朝に際し、サムスン電子副会長はじめとする4大財閥トップなど17人の経済人が同行したことからも明らかです。

今回の平壌共同宣言では、鉄道と高速道路の連結事業に関し年内に着工式を実施する、中断中の開城(ケソン)工業団地や金剛山の韓国事業を再開する、経済共同特区の創設を協議するなどがうたわれています。

平壌宣言には新味なし

今回の南北首脳会談では、文大統領は北朝鮮側の演出を凝らした大歓迎を受け、聖地である白頭山を訪問し、全世界に向けて、同一民族の融和と統一に向けた正統性を訴えました。

さらには、金正恩国務委員長が文在寅大統領の招請により、近い時機にソウルを訪問することが合意されました。また、2020年の東京オリンピックを始めとする国際競技に共同で積極的に進出し、2032年夏季オリンピックの南北共同開催を誘致するための協力が謳われました。

このように、南北の友好ムードが最高潮に演出されましたが、平壌宣言自体は、今年の過去2回の首脳会談に比べて新味があるものとはいえません。 4月の南北首脳会談では2018年内に目指して停戦協定を平和協定に転換することが話し合われ、8月13日の南北閣僚級会談において、9月の南北首脳会談の開催が決定されました。

南北朝鮮は今回の首脳会談において、敵対関係の解消と融和路線の前進を全面的にアピールし、9月下旬に予定されている国連総会での米韓首脳会談あるいは米朝外相会談において終結宣言に向けた米国の同意を得るよう画策する腹づもりなのでしょう。

しかし、終戦宣言は米国にとって、米韓同盟の在り方、在韓米軍駐留、韓国に対する核の拡大抑止といった複雑な問題に影響を及ぼすため、おいそれと応じることはできないようです。 ここには、現在の核を保有したままで南北統一を目論む北朝鮮の野心と、文大統領が率いる韓国親北朝鮮が見え隠れしているのです。

北朝鮮は8月3日と4日にわたって開かれたアセアン地域フォーラムの閣僚会合で、米国側に北朝鮮制裁の緩和と終結宣言を要求したようですが、米国は非核化が先に行われない限り制裁を継続すると応じ、終結宣言に「ノー」を突き付けたようです。

一方、北朝鮮は米国の終結宣言などが、非核化の前提であるとの立場を保持しています。しかも、北朝鮮の非核化ではなく、在韓米軍の撤退などをも長期的視野に入れた朝鮮半島の非核化を主張しています。したがって、米朝間の食い違いが鮮明となっていました。

今回の首脳会談の合意を見るかぎり、終結宣言という言葉自体も盛り込まれることがありません。この点では4月の南北首脳会談から、朝鮮戦争終結宣言はまったく進展しているとはみられません。

非核化の進展はあったのか

6月12日のシンガポールでの米朝首脳会談では、米朝双方は朝鮮半島の核の完全廃棄では合意したものの、具体的な核廃棄プロセスの合意には至りませんでした。     今回の平壌宣言では、 核の非核化について、東倉里(トムチャンリ)ミサイル発射施設を専門家の立ち合いの下で廃棄する、米国が相応の措置をとれば寧辺(ヨンビョン)核施設を廃棄することがうたわれました。

両施設はいずれも対米向けの施設です。南北の合意文書に「米国が相応に措置を取れば」という文言を入れること自体が異質であり、北朝鮮は今回の南北首脳会談において、対米懐柔を相当に意識したとみられます。

今回の平壌宣言の内容は、 核の長距離ミサイルの発射施設を専門家の立ち合いの下で廃棄する点はやや目新しさの感があります。しかし、これまで米国が要求してきた、①すべての核兵器と保存場所を公開して査察に応じる、②核兵器や大陸間弾道ミサイルの一部を早期に国外に搬出する、などの要求レベルに答えるものではありません。

また、核施設についても国内に100か所近くあると推定され、すでに35発程度あるとされる核弾頭の扱いなどはまったく不明です。

つまり、北朝鮮は、米国が終結宣言や経済制裁の解除に応じるならば、米国に指向される核ミサイルの開発は断念します、と言っているのに過ぎないのです。
これでは非核化の前進と評価することは到底できません。

北朝鮮による対中接近

米朝首脳会談が実現する見通しが立った3月以降、北朝鮮の顕著な行動の一つとして対中接近が見られました。

3月25日から26日かけて、金正恩委員長は、中国を非公式に訪問し、26日には習近平主席との首脳会談に臨みます。これは金委員長にとっての初の外遊となりました。

韓国と米国との二つの外交交渉に臨むに際し、まずは「中国ファースト」という歴史的な慣例を遵守することで、ここ最近の険悪化した中朝関係を修復するとともに、二つの歴史的会談を前に中国の後ろ盾を得たいとの思惑があったとみられます。

そして、4月27日の南北首脳会談前の4月21日には、北朝鮮は核実験とICBMの発射実験を中止して、核実験場を廃棄するという宣言を行いました(ただし、この際に非核化には言及していない)。

ところが、ポンペオ米国務長官は5月2日、北朝鮮に「恒久的かつ検証可能で不可逆的な」核廃棄を求める方針を示しました。まずアメリカが北朝鮮に対して米朝首脳会談におけるハードルを設定したとみられます。なお、これに対する北朝鮮側の回答はありませんでした。

5月7日~8日、金委員長は再び訪中します。これは、ポンペオ国務長官の訪朝の直前でした。 この時、金委員長は大連で習主席と会談しましたが、おそらく4月27日の南北首脳会談の結果などを報告したほか、米朝首脳会談における中国の支持獲得が狙いであったとみられます。

中国国営新華社が金委員長の訪中を受けて次のように報じます。

「関係国が敵視政策をやめれば、朝鮮は核を持つ必要がなくなり、非核化が実現できる。朝米対話を通じて、互いの信頼を確立し、関係国が責任を負って段階的で同時に措置を取ることを望んでいる。 習主席は、北朝鮮が核実験の停止や核実験場の廃棄などを表明したことを称賛し、その上で朝鮮が経済建設に戦略の重心を移し、発展の道を進むことを支持すると応じた」。

米国の強硬姿勢に対し、 おそらく金委員長は、朝鮮半島の非核化についての「北朝鮮プラン」(段階的、同時・並行的解決)についての中国から支持を得るとともに、米朝関係の修復ができないとしても中国から水面下での経済支援を受ける確約を取り付けた可能性があります。

すなわち、米朝交渉に臨むにあたって米国が要求する「北朝鮮の完全で検証可能かつ不可逆な非核化(CVID)」ではなく、中国の支援を受けて「段階的、同時・並行的な朝鮮半島の非核化」で応じる戦術を固めたとみられます。

北朝鮮による硬軟両用の戦術

中国の後ろ盾を得た北朝鮮は硬軟両様の駆け引きを展開します。

5月9日、ポンペオ国務長官が訪朝します。金委員長はポンペオ氏と会談し、北朝鮮が拘束していた米国人3人を解放しました。

ポンペオ氏は、「すべての核兵器と保存場所を公開し、査察に応じる。核兵器やICBMの一部を早期に国外に搬出する」ことなどを要請したとされますが、これに対する金委員長の反応は明らかとなつていません。おそらく、論点をすり替えた玉虫色の回答に終始したとみられます。 他方で6月12日シンガポールで首脳会談を正式に開くことを決定されました。

5月12日、北朝鮮外務省が豊渓里の核実験場を23~25日に廃棄する旨を発表しました。 このように、北朝鮮は対外向けのパーホーマンスも意識したソフト戦術に出ます。

一方、5月11日から、25日までの予定で、米韓合同演習「マックスサンダー」が朝鮮半島周辺で開始されました。 これに対して、北朝鮮は5月16日、この演習を批判して、南北閣僚級会談を中止すると一方的に通告します。

さらに、同日、北朝鮮、米朝首脳会談のため予定されていた米朝実務協議を無断欠席し、金桂冠第1外務次官、ボルトン米大統領補佐官を批判した上で、「首脳会談に応じるかを再考するしかない」と発言します。 これはソフト戦術を駆使しながらのハード戦術の併用だと言えます。 こうした硬軟両用の戦術が取り得たのは、中国の後ろ盾を得たという安心感があったからだとみられます。

米朝における舌戦

このような北朝鮮に対して米国も戦術を修正します。

トランプ大統領は5月17日、「中朝首脳会談の結果、「物事が変化した。正恩氏は間違いなく取引したいと思っていたが、今はしたくないいのかもしれない」との見方を示しました。 そして、17日から18日かけて行われた米中間の貿易協議において、トランプ大統領は、中国が北朝鮮への圧力を緩めれば、貿易問題などで中国の圧力を強める構えを示唆したのです。

5月22日、ペンス副大統領「金正恩氏がトランプ大統領をもてあそぶことができると考えているなら、大きな過ちとなる」「金正恩氏は取引しなければリビアの轍を踏む」と発言します。

同日、トランプ大統領は「6月12日の会談開催はうまくいかないかもしれない」と発言し、「中朝国境が最近少し開かれた。気に入らない」と不満を吐露しました。

5月24日、北朝鮮・崔善姫外務次官は、自国を核保有国と位置づけ、ペンス氏を「愚鈍な間抜け」と批判し、「会談場で会うか、核対核の対決場で会うかは米国にかかっている」と挑発的な発言をしました。

このような米朝間の舌戦の末の5月25日、トランプ大統領は米朝首脳会談の中止を発表しました。米朝首脳会談の開催がまさに危ぶまれ、米朝関係や半島情勢の緊張化が再び懸念されることになったのです。

米朝首脳会談は妥協の産物

これに対し、北朝鮮は5月26日、本年2回目の南北首脳会談を開催します。ここでは、南北が協力して米朝関係の修復と米中首脳会談に向けた努力を行うことが話し合われたとみられます。

こうした米朝間の駆け引きと紆余曲折のすえに、当初の予定どおり、6月12日に米朝首脳会談が開催されました。

米朝首脳会談では、両国指導者が相互に相手を称える友好モードが演出されました。
2017年の緊張状態が当面回避されたことは評価すべきですが、 北朝鮮と米国との非核化に関する溝が埋まるはずはなく、 結局は非核化においてなんら中身のない劇場型会談に終始しました。

紆余曲折を経つつも米朝会談が実現できたのは、まず金委員長が北朝鮮が現在の経済制裁の全面的な解除を目指すためには米国との交渉しかないと意識したからです。

第二に、トランプ大統領が先行き不透明であっても、とりあえず北朝鮮の暴挙をやめさせて〝前進〟をアピールすることで、今年11月の中間選挙の敗北、そして大統領弾劾を回避できるカードを持つ必要があつたからです。

第三に、韓国の文大統領が、経済政策の失敗で支持率が下がるなか、南北関係の改善と経済交流が起死回生の一手となることを強く認識ているからです。 このように、三国の指導者の思惑は異なれど、米朝首脳会談の開催は利するとの判断が働いたとみられます。

すなわち、米朝首脳会談は三者三様の思惑による妥協の産物であったわけです。

非核化は一向に進展せず

6月26日、「38ノース」は、米朝首脳会談から9日後に撮影された衛星写真に基づき、寧辺にある核施設のインフラ整備が急ピッチで進んでいるほか、ウラン濃縮工場の稼働も続いているとの分析結果を公表します。米国による北朝鮮に対する牽制が開始されました。

6月 7月6日から8日、北朝鮮の非核化交渉のためにポンぺオ国務長官が訪朝しました。これは6月12日に行われた米朝首脳会談のフォローアップです。

しかし、金委員長はポンペオ氏に会いませんでした。非核化交渉に訪れた米国の国務長官に会わないのは異例です。 さらに北朝鮮は、ポンペオ氏の訪朝に関し、「米国側の「強盗的」な要求を北朝鮮が受け入れざるを得ないと思っているなら、それは致命的な誤りだ」と非難します。

トランプ大統領は、7月17日、ホワイトハウスで共和党議員との会合で「非核化には期限を設けない」と発言します。北朝鮮との交渉決裂を懸念して、対北朝鮮懐柔策に出た可能性があります。

米国の北朝鮮分析サイト「38ノース」は7月23日、22日に撮影した衛星写真により、北朝鮮が、北西部・東倉里(トンチャンリ)にあるミサイル発射施設「西海(ソヘ)衛星発射場」を解体・撤去している様子が見えると、分析結果を発表しました。今度は、北朝鮮が米国に揺さぶりをかけた可能性があります。

米国が再び強硬策に転じる

しかし、この解体・撤去作業は「38ノース」によれば、この解体作業は8月3日から中断したとされます。これは先述した、8月の3日と4日にわたって開かれたアセアン地域フォーラムの閣僚会合で、米国側から終結宣言に「ノー」を突き付けられたことと関係があるのかもしれません。

8月23日、進展しない非核化の打開のため、ポンペオ国務長官は8月下旬に2回目の訪朝を行うことを公表します。 ところが、24日、金英哲(キムヨンチョル)朝鮮労働党副委員長からポンペオ氏宛てに書簡が届きます。

米ワシントン・ポスト紙は27日に報じるところによれば、複数の米政府高官の話として、予定されていたポンペオ米国務長官の訪朝が直前に中止されたのは、北朝鮮から「好戦的」な書簡が届いたからだとされます。

トランプ米大統領は8月28日、ポンペオ長官が予定している4回目の北朝鮮訪問に関し、ツイッターで「ポンペオ氏に訪朝をとりやめるよう求めた」と表明しました。 この理由について、トランプ氏は「朝鮮半島の非核化に十分な進展が見られないと感じた」と説明しました。

また米国との「貿易戦争」が激化している中国が、国連安全保障理事会の決議を受けた北朝鮮に対する制裁圧力で「かつてのように協力していない」と指摘し、中国の対応を非難しました。 さらにポンペオ氏の次回訪朝は「恐らく中国との貿易関係が改善した後になる」との見通しを明らかにしたのです。

8月28日、マティス国防長官は、記者会見で「米朝首脳会談を受けて、米国は誠意の表現として大規模演習をいくつか中止したが、現時点では、もはや追加的な演習を中止する計画はない」と述べました。 このように、アメリカは北朝鮮に対する強硬政策に転じたかのような行動を取ります。

北朝鮮が南北首脳会談を利用して対米関係を修復

9月9日、北朝鮮は建国70周年記念の軍事パレードを実施しましたが、注目されていた長距離弾道ミサイルだけでなく、短距離弾道ミサイルも登場させませんでした。これは、非核化交渉を意識したものとみられます。

そして、北朝鮮は今回の南北首脳会談を利用して、米国や世界に対して、真摯に非核化に取り組む意思を表明します。

今後の注目点

これまで述べたように、6月の米朝首脳会談はもともと米・朝、さらには韓国の打算的な妥協によっておこなれました。もともと米朝は同床異夢なのですから、非核化に向けた具体的な進展を望むのが無理なのかもしれません。

現段階では、米朝双方が硬軟両用の戦術を駆使し、相手の出方を見ているという状況です。今回の非核化に関する北朝鮮側のメッセージもその範疇ですが、 トランプ大統領が、「いくつかのすばらしい回答があった」と評価していることはやや気がかりです。
トランプ大統領が11月の中間選挙を意識して、基本路線を勝手に修正し、終結宣言に応じるなど、対北朝鮮譲歩の戦術に出る可能性がまつたくないとはいえません。

当面は、9月下旬の国連総会での米韓首脳会談の行方と、そこで第2回の米朝首脳会談についてどのような話し合いが行われるのかに注目したいと考えます。         わが国は、あわてることなく、これまでの基本路線を淡々と実行しながら、関連の動向を注視すれば良いと思われます。

三人集まれば文殊の知恵?

グループシンク(集団浅慮)の弊害

▼  「群衆の叡智」

前回、『ウキペディア』を例に「群衆の叡智」について述べました。これは、ジェームズ・スロウィッキー著の『「みんなの意見」は案外正しい 』(角川書店)の中に出てくる、「Wisdom of Crowds(WOC)」という概念で、「群衆の叡智」あるいは「集合知」と呼ばれています。 つまり、これは少数の権威による意思決定や結論よりも、多数の意見の集合による結論や予測の方が正しいということを意味しています。

実際、集団で合議を行うことは、想像力を向上させ、個人のバイアスを回避するなど、プラスの効果をもたらすことが多々あります。まさに、「三人集まれば文殊の知恵」といえそうです。

▼ 集団思考の危険性とは

しかし、ぎゃくに集団合議は個人で考えるよりも大きな失敗を起こす危険性が高いとのマイナス面の影響も指摘されています。

これを、一般的に集団思考、グループシンク、集団浅慮(しゅうだんせんりょ)といいます。 集団浅慮とは、集団で合議を行う場合、少数意見や地位の低い者の意見を排除し、不合理な意思決定を行うというものです。

集団浅慮の研究の第一人者である、心理学者のアービング・ジャニスは、 1961年のビッグス湾事件(キューバ侵攻)や62年のキューバミサイル危機につながった意思決定を分析し、「小さな結束の強い集団に所属する者は『集団精神』を保持する傾向がある。
この結果、集団内で不合理あるいは危険な意思決定が容認されることになる」と指摘しています。

▼ ビッグス湾事件の失敗

1961年、アメリカのCIAは、在アメリカの亡命キューバ人部隊をキューバに侵攻させ、フィデル・カストロ革命政権の打倒を試みました。しかし、上陸部隊はビッグス湾で待ち受けていたキューバ兵によって一網打尽にされました。この作戦において事前の空爆に正規軍が関与していたことが明らかになり、アメリカは世界から非難を受けて、ケネディ政権は出足からキューバ政策で大きく躓いたのです。

ジャニスは、のちにキューバ侵攻に至る意志決定などについて研究しました。そこでわかったことは、ケネディ政権の側近は、侵攻の極秘計画がニューヨーク・タイムズ紙の一面に暴露されても、「アメリカ兵を上陸させず、アメリカの関与さえ否定できればればよい。世界は我々の言い分を信じるだろう」と考えた、ということです。誰ひとりとして、キューバ侵攻に異論を唱える者はいなかつたのです。

計画が大失敗に終わったのち、ケネディは失敗の原因追及を命じました。その結果、居心地のよい全会一致主義が根本原因であるとの指摘がなされました。

キューバ危機における意思決定

ビッグス湾事件の翌年の1962年夏、ソ連とキューバは極秘に軍事協定を結び、ソ連がキューバに密かに核ミサイルなどを運搬しました。アメリカは戦略偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見し、アメリカがキューバを海上封鎖し、各未済基地の撤去迫り、一触即発の危機的状況に至りました。これがキューバ危機です。

キューバ危機においては、ビッグス湾事件の反省から、礼儀作法や上下関係は自由な議論の妨げになるため排除されました。新たな視点を取り入れるために新たなアドバイザーが招聘されました。側近たちに徹底的に議論をさせるために、ジョン・F・ケネディが会議の席をはずこともあったとされます。

ケネディ自身は少なくともソ連のミサイル発射装置への先制空爆は承認せざるを得ないとの危機感を持っていましたが、 議論に影響を与えないよう誰にも言いませんでした。その結果、10の選択肢が徹底的に議論され、大統領の意見も変わり始めました。かくして核戦争が回避され、交渉による平和がもたらされました。

集団浅慮はどのようにして起こるのか

ジャニスによれば、集団浅慮は時間的制約、専門家の存在、特定の利害関係の存在などによって引き起こされ、以下の8項目の兆候があると指摘しています。

①無敵感が生まれ、楽観的になる。 ②自分たちは道徳的であるという信念が広がる。 ③決定を合理的なものと思い込み、周囲からの助言を無視する。 ④ライバルの弱点を過大評価し、能力を過小評価する。 ⑤みんなの決定に異論をとなえるメンバーに圧力がかかる。 ⑥みんなの意見から外れないように、自分で自分を検閲する。 ⑦過半数にすぎない意見であっても、全会一致であると思い込む。 ⑧自分たちに都合の悪い情報を遮断してしまう。

集団浅慮からの脱却

集団合議が「群衆の叡智」になるのか、それとも「集団浅慮」になるのか、集団は賢明にも愚かにも、その両方になれます。ケネディの側近たちが示したように、集団のメンバーできまるのではありません。合議の進め方ひとつで、個人の独立性を保持して、活発で自由な議論は可能なのです。

とくに注意しなければならないのは、権力者、声の大きい者、弁の立つ者、権威者、専門家です。これらの者が集団をリードして、個人たちの独自の意見を放棄させていきます。第4次中東戦争においても、イスラエル軍情報部においてエリ・ゼイラ将軍による独断横行と集団浅慮が見られました。

キューバ危機、第四次中東戦争のような事例は、我々の周辺においても珍しいことではありません。いま一度、集団浅慮になっていないか検証してみることが重要です。

なお、キューバ危機、第四次中東戦争は、拙著『情報戦と女性スパイ』にて興味深い記事を収録していますので、ご参照ください。

さくらももこさん、ご冥福をお祈りします

相関関係と因果関係

さくらももこさん、お亡くなりになる

漫画家のさくらももこさんが、さる8月15日、乳がんのため亡くなられました。53才でした。

さくらさんは、10年近く乳がんと闘病されていました。40代半ばでのがん発覚後も治療を続けながら、近しい人以外にはがん闘病のことは明かさず、たんたんと仕事されていたそうです。

日本禁煙学会による、ある指摘

さくらさんは、健康おたくである一方で、ヘビースモーカーであったそうです。これに関連して、 日本禁煙学会の作田学理事長が「タバコと乳がんについての最新知見」として、さくらさんの死について、「タバコと乳がんとの関連をまったくご存じなかったとしか思えません」と述べられています。

同学会のパンフレットによれば、 若い女性の乳がん(閉経前乳がん:日本のデータ)について、次のように掲載されているようです。

  • タバコを吸うと3.9倍、受動喫煙で2.6倍
  • タバコを吸わなければ、乳がんの75%が予防できます。すぐに禁煙を!
  • 禁煙と受動喫煙防止をしっかり実行したなら、日本の若い女性の乳がんを半減できます!

喫煙と肺がんは因果関係なの?

 たばこと癌との関係はよく論じられます。とくに、肺がんと喫煙の因果関係が指摘されています。 
  禁煙協会などは、「喫煙と肺がんの因果関係はすでに複数の集団において明確に立証されている 。これを反証するデータは、存在しない 」 と指摘する傾向にあります。
 他方、「喫煙と肺がんとの直接の因果関係は、科学的に立証されていない」「喫煙者はストレスが多い。ストレスが死亡につながる」といった反対意見もあります。

生存バイアスとは何か

さらには、 「私の祖父は二人ともヘビースモーカーで、どちらも90歳まで生きた。だから、ヘビースモーカーが寿命を縮めるというのはウソだ」との自己流の判断を下す人さえいます。

これは、「 生存バイアス」という認知バイアスです。生存とは生き残っているという意味です。つまり、一部の表面化している情報(サンプル)のみを利用して物事を判断する、水面下に隠れている情報を無視するために、判断を誤るというバイアスです。 実際にヘビースモークにより肺癌になって早死にした人を探せば、たくさんいるはずです。 

因果関係を巡る論争

最近、統計データを基に「喫煙率が下がったのに肺がん死亡者が増えた」という指摘をもって、喫煙と肺がんの因果関係の切り崩しを行う論調があるようです。

これに対して禁煙派は、「喫煙から肺がんが生じるのには20~30年の時間間がかかり、喫煙率が低下したからといって即座に肺がんが減るわけではない。肺がんリスクが変わらなくても人口が増えたら、肺がん死亡者数は増える。高齢者の割合が増えるとそれだけで、肺がん死亡率(粗死亡率)は大きくなる」などと反論します。

因果関係と相関関係は異なる

ここで因果関係の厳密な意味を見てみましょう。 
「Aという原因があればBという結果が生じる」ことを「AとBは因果関係にある」といいいます。これには「Aが増加すればBも増加する」という正の因果関係と「Aが増加すればBは減少する」といった負の因果関係があります。

一方、因果関係とはいえないものの、「AとBにはなんらかの関係がある」ことを「AとBは相関関係にある」といいます。

相関関係と因果関係はしばしば混用されます。交通事故の数が増えれば交通事故死者の数は増える。したがって両者が因果関係にあることはほぼ間違いありません。しかし、実際には因果関係と思っていたことが、単なる相関関係にすぎないことがしばしばあります。

野菜を食べる人は長生き?

高原野菜で有名な長野県は日本一の長寿県です。長野県民は高原野菜をよく摂取します。

ただし「高原野菜をたくさん食べる人に長寿が多い」からといって、高原野菜の摂取と長寿に直接的な因果関係があるとまでは断定できません。

なぜならば長野県には「きれいな空気」や「理想的な生活習慣」などがあり、これらが長寿にプラスの影響を及ぼしている可能性があるからです。

因果関係の成立要件

因果関係には、 原因が先で結果が後であるという時系列的な関係が必要です。そして、その関係には別の原因が存在していないことが必要です。

肺がん患者には喫煙者の比率が多いことは、統計上はほぼ間違いがありません。つまり、両者は相関関係にあります。しかし、肺がんの増加は喫煙だけが原因ではありません。ここに、喫煙と肺がんの因果関係の立証が困難な点があります。だから、別の要因であるストレスなどが影響していることを指摘するなど、いろいろな議論が生まれているのでしょう。

因果関係の立証はインテリジェンスの要諦

因果関係が立証されれば、それは近未来を予測する手助けとなります。原因がわかれば結果が予測でき、対策も取ることができます。

しかし、相関関係では不十分です。喫煙率を減少させることが肺がん死亡率を低下させる決定打とまでいえない点もここにあります。

国際情勢における情報分析では、因果関係の立証がとても重要です。そのためには、
「まず相関関係にありそうな事象をアトランダムに列挙する。列挙した事象のなかから、原因が先で結果が後であるという時系列的な関係がある事象に着目する。その関係には別の原因が存在していないことを証明する。」ということが重要になります。すなわち、因果関係の立証はインテリジェンスの要諦なのです。

吸いすぎにご注意

社会科学においては、因果関係の立証は非常に難しいとされます。まことしやかな因果関係を疑って見ることが、情報分析では極めて重要です。

「喫煙と肺がんの因果関係はすでに複数の集団において明確に立証されている」など断定的に言われると、「え、本当?」と考える。このことは重要です。

ただし、やはり喫煙は多くの病気の原因であることは間違いありません。 筆者は喫煙はしませんが、嫌煙派といわけではありません。
喫煙者の方々、吸いすぎには注意しましょう。

想定外と不確実性の低減

北海道大地震の発生

9月6日未明、北海道胆振東部を震源とする震度7の地震が発生しました。亡くなられた方、行方不明者の関係者、負傷者、そして家屋損害やインフラ断絶などの被害にあわれた方、心よりご冥福並びにお見舞い申し上げます。

北海道において震度7の地震は初めてであり、予想外の感はあります。しかし、気象庁はすでに以前から、北海道に震度7クラスの地震が起きる可能性はある、との予測を発表していました。ですから、想定外とは言えません。ただし、何時起こるかは分かりませんし、これという予報もなかったので予想外ではありました。また、一つの発電所の被害によって北海道全域が停電になることは想定外であったのかもしれません。つくづく人間の想像力の欠如というものを思い知らされます。

想定外とは何か

想定外という言葉は、2011年の東日本大震災において流行しました。これは事前に想定した範囲を超えていることです。人間は物事を考えるうえで、一定の条件、すなわち枠を設けて考えます。これは情報分析の基本であり、想定のことを前提という言い方もします。

たとえば、中国の将来情勢を分析する上で、当面は共産党の一党独裁が継続するという前提(想定)で、その将来動向を見積もることになります。こうした前提がないと、分析の焦点が定まらず議論が発散し、政策や行動に活用できるインテリジェンスを作成することはできません。

わがくにの地震対策では、最大の地震は「東海」「東南海」「南海」の3地震が連動して起こるマグニチュード9クラスを想定しています。当然、これ以上の地震が起こる可能性は排除できませんが、キリがないので、最大規模をマグニチュード9としているのにすぎません。

想定外はなぜ起こるのか

物事を考える上で“考察の枠”を仮に設定しているだけなので、想定外は必ず起こります。しかし、ここで問題なのは、その事象が起こり得る蓋然性はかなりあるにもかかわらず、これを想定外として考察しない場合です。

こうした不注意な想定外は、思い込み、希望的観測、想像力の欠如、思考停止などで起こります。なかでも、自分にとって都合の悪いシナリオが浮かんで気分が滅入る、どうせ考えても自分では対策は取れないなど、起こり得るシナリオを考えようとしない思考停止がよく起こります。つまり、「なるようになるさ」「なってから考えればいいやる」という諦念感と開きなおり、「なるはずはない」「信じる者は救われる」的な希望的観測などが心理を支配します。

不確実性の低減

想定外とよく似た概念で不確実性という言葉があります。また、情報分析の目的は不確実性の低減にある、ともよくいわれます。

不確実性とは「確実性(絶対確実)」の反対語であり、事象が起きるか起きないか分からないという、意思決定者の不確かな精神状態のことをといいます。ただし、より厳密にはリスクと(真の)不確実性に区分することができます。 リスクは起こりうる事象が分かっていて、それが起きる確率もわかっているもの。つまり、測定可能な不確実性のことです。    一方、(真の)不確実性とは、起こりうる事象が分かっているが、それが起きる確率が事前には分からないもの。つまり、測定不可能な不確実性をいいます。

厳密な意味での不確実性とは起こり得る事象が分かっているものであるので、いずれも想定内です。つまり、不確実性の低減とは、第一に不確実性の領域を拡大する、すなわち想定内の領域を拡大し、想定外の領域を縮小することです。つまり、想像力を発揮して、想定外の事象を可能な限り想定内に組み込み、対応策を考えることです。ただし、なんでもかんでも組み込むと情報分析はできなくなるし、一方、組み込み不足は本来は想定内である危機やその兆候を見落すことになるので、その兼ね合いが重要です。

シナリオの蓋然性を提示

第二に、未来におけるいくつかの対応すべき起こり得る事象(シナリオ)と、そのシナリオがどの程度の確立で起こるかを提示することです。

シナリオが起りえる確立のことを、蓋然性あるいは確度(確証レベル、INTELLIGENCE CONFIDENCE LEVEL)、といいます。それは、通常は%をもって示されます。たとえば、天気予報において以下の予報があったとしましょう。

① 明日、雨が降る可能性0%、100%

② 明日、雨が降る可能性は50%

③ 明日、雨が降る可能性は80%、20%

①のように、国家政策や企業経営において、関連する事象の発生率が0%、100%ということは一般的にほとんどありません。では、②の50%ではどうかというと、これは「降るかどうかわからない」「降るかどうかいえない」ということであり、これでは判断や意思決定に役に立ちません。

よって、③のように50%を中心に上・下の幅の確度として提示する、これにより意思決定を支援することが情報分析の目的です。

たとえば雨が降る可能性が40%ならば、「少々のリスクはあるが、予定どおり屋外で行事を実施しよう」、あるいはその可能性が60%ならば「明日の行事は体育館に変更しよう」、そして80%ならば「中止にして別の行事に切り替えよう」などと判断することになります。

 なお、わが国では、確度を明確に示した国家的なプロダクトは稀ですが、米国のプロダクトには以下の確度に基づいたプロダクトが作成されています。

また、二〇〇三年のインク戦争では、「サダム・フセインは大量破壊兵器を隠している」という誤った判断を下したという反省から、CIAは確度を評価する必要性を再認識しているとされます。

不確実性を低減するためには確度の評価に臨まなければなりません。

群衆の叡智

私が年間購読している某雑誌

私は、ある雑誌を年間購読しています。この雑誌は、筆者がかつて組織に所属していた時には、持ち回りで読むことができました。なかなか鋭い分析記事が多々あり、「なるほどな」と感心していました。でも、組織を離れると、情報収集もすべて自己負担となったので、購読紙を厳選しなければなりません。当該雑誌はしばらく読むのを止めていました。

この雑誌は完全宅配制度を採用し、書店では購入できません。だから、年間購読予約しか、読む方法がありません(図書館でも読めますが)。なお、宅配制度の定期購読は値段も高いのですが、なかなか良い雑誌があります。

この雑誌の特徴は、執筆者は原則として無記名となっていることです。誰しも著名人が書いたものとなると、つい信じたくなります。でも、現実の事実をうまく文脈に落とし込んでいるからといっても、情報の信憑性が高いかどうかは別の問題です。

無記名だからこそ、作者は所属組織に箍に縛れずに良質の情報を伝えることができるという利点があります。また、読者はバイアスにとらわれず、白紙の状態で情報(記事)に接し、「その情報には妥当性があるか?」などの視点を持って読むことができます。

ネット情報について

ネット上では、ジャーナリストの池上彰氏と作家の佐藤優氏による『「ネット検索」驚きの6極意(東洋経済)』という記事が掲載されています。

そこでは、以下の6つの極意が述べられています。

  • グーグル検索は効率が悪い
  • 有料辞書サイトを活用する
  • ウィキペディアは、見ても「参考程度」にする
  • 語学ができる人は「外国語のウィキペディア」もチェックする
  • 電子辞書で済まされるものは、それで調べる
  • 情報の新たらしさは「冥王星」

これらの極意から読み取れるように、両氏ともにネットへの過度な依存を警戒し、ネットよりも新聞の方が効率的であるなどの見解を述べられています。その理由を両氏の共著『僕らが毎日やっている最強の読み方』(東洋経済、2016年12月)からいくつか拾ってみましょう。

  • ネット情報はノイズ(デマ、思いつき、偏見)が過多
  • 記事が時系列に並ぶためにその重要度がわかりにくい
  • ネットで入手できる情報の多くが二次情報、三次情報である
  • 知りたいことだけを知ることになり、その他のことに関心が薄れ視野が狭くなる
  • ネットの論調が社会全体の論調だと錯覚する

以上の中でもっとも重大な問題点として認識すべきは、ネットは各人の自由な書き込みができるためにデマ、偏見などの巣窟となりやすいという点でしょう。

ネット上では、一人の人が何度も書き込んだり、情報を操作したり、視聴率・支持率を上げ下げしたりすることもできます。だから、ネットの論調が社会の声(世論)を客観的に反映したものではないとの指摘もたしかに当たっています。

しかし、こうした反面、格安経費でさまざまな情報が入手できるという、他では代替できない利便性があります。また、ネット上にも情報源をしっかりと明記した確かな情報も多数掲載されています。

図書館などに行かなくても、検索を基に情報を絞り込めるという点もインターネットならではの利点です。そのほか、新聞記事にはみられないようなネットユーザーの斬新な視点によって、新たな分析起点を得ることもできます。ネット情報の功罪を認識した上で有効活用に心掛けたいものです。

『ウィキペディア』の正確性はどうか

ネット情報の代表ともいえる『ウィキペディア』の正確性どうでしょうか。『ウィキペディア』は、しばしばその記事の正確性に対する疑義が提起されます。前述の佐藤優氏も、『ウィキペディア』は参考程度にする、と注意を発しています。これは不特定のボランティアによって書かれているという点にあるようです。すなわち、情報源の信頼性が低いということです。

これに関して、正確性において定評のある『ネイチャー』誌は、2005年12月のオンライン版にて、次のような記事を掲載しました。「ボランティアによって書かれた400万近い項目を擁するオンライン百貨事典『ウィキペディア』は、「科学分野の話題を扱った項目の正確性において『ブリタニカ百科事典』に匹敵する」との趣旨の記事を掲載しました(AP通信、2005年12月19日)。

筆者の体験からしても、『ウィキペディア』にはときどきは不確実な情報がありますが、『現代用語の基礎知識』や『知恵蔵』などの出版物と比べて正確性が劣るという印象はありません。

『ウィキペディア』には「群衆の叡智」という恩恵がある

『ウィキペディア』には、さまざまな人がこの記事に目にして、誤りを指摘するなど、常に衆目を浴びているという利点があります。

ジェームズ・スロウィッキー著の『「みんなの意見」は案外正しい 』(角川書店)では、「Wisdom of Crowds(WOC)」という概念が述べられています。これは、「群衆の叡智」あるいは「集合知」と呼ばれています。つまり、少数の権威による意思決定や結論よりも、多数の意見の集合による結論や予測の方が正しいというものです。つまり、『ウィキペディア』には、「群衆の叡智」という恩恵もあることを理解する必要があります。

情報源の信頼性と情報の正確性は異なる

『ウィキペディア』の話は別としても、一概に、権威があるその道の専門家が書いたから正確である、名もないボランティアが書いたから不正確である、という判断は禁物です。

情報の処理の一環に情報を評価するという作業があります。これは、情報の「良し悪し」を評価することです。誤った情報、偽情報(ディスインフォメーション)、意図的な情報操作が横行しているなかで、インテリジェンスの正確性を高めるためには情報の評価が重要となります。

情報の評価は大きくは、情報源の信頼性(Reliability)の評価、情報自体の正確性(Viability)の評価に分けられます。

まず情報源の信頼性ですが、これは情報を発信した情報源が信頼できるかどうか、複数の情報源から裏づけが取れるかどいうかということです。一方の情報の正確性とは妥当性、一貫性、具体性、関連性という4つの尺度で評価します。

情報源の信頼性が高ければ、一般的には情報の正確性も高いのですが、この両者には直接的な関連性はありません。

なぜならば、いくら権威のある信頼性の高い情報源であっても、「群衆の叡智」に勝てないことや、または情報源が意図的に嘘をつくことがあるからです。また、信頼性の高い情報源の情報であったとしても伝達段階における媒体の介在により誤った情報に転化することも珍しくありません。

だから、情報源が信頼できるかどうかということと、情報が正確かどうかということは別個に判断する必要があります。要は、情報源の信頼性にかかわらず、正しい情報もあれば誤った情報もあります。権威者の情報を無秩序に信じることには要注意です。「信頼できるあの人の情報にも間違いはある」ということです。

体操界に走った激震

度重なるスポーツ界の不祥事

昨年から、大相撲、ラグビー、レスリング、ボクシング、そして今回の体操とスポーツ界が揺れています。いずれも、暴力やパワハラがらみです。大相撲を除いては、権力を握っている体制派の方がマスコミやインターネットで叩かれて敗北しています。

宮川選手の「勇気」ある行動

今回の宮川紗江(18歳)選手の事件は少し変わっています。彼女のコーチである速水佑斗氏が暴力を振ったということで、体操協会側の塚原夫妻が、同コーチを無期限登録抹消にしました。

今日、格闘技といえどもスポーツ指導における暴力行為は“絶対悪”です。ですから、暴力を振ったコーチは体操界から追放、ということで一見落着をみるのが普通だったのかもしれません。塚原千恵子・女子強化本部長も、暴力追放という時流を捉え、ここぞとばかりに速水コーチと宮川選手の関係を引き裂き、将来有望な彼女に対するコーチングの主導権を握ろうとしたのかもしれません。

しかし、宮川選手は、暴力振るわれたことは事実であるが、速水コーチに対する協会側処分は重い、私は速水コーチに対する処分を求めていないし、これまでどおり速水コーチの指導を受けたい、旨の発言をしました。

さらに、塚原夫妻に「あのコーチから指導を受けるのはだめ。・・・・・・これでは五輪にも出れなくなる」などの強圧的な発言を受けた旨を明らかにして、「これは権力を使ったパワハラだった」旨を訴えたのです。

これに対し、一部(?)の体操関係者や元選手が宮川選手に対する支持を表明し、マスコミや世論は「18歳の少女の勇気ある行動」と挙って賛辞を送りました。

一方の塚原夫妻は当初、宮川選手の発言をほぼ全面的に否定して、徹底抗戦の構えさえ見せていました。しかし、関係者や世論がアンチ塚原で結集し、体制不利になりつつあることに恐れをなしてか、自らの非を認めて、謝罪する方向に戦術を転じました。

これまで、たびたび見てきた食品偽装問題のように、次第に立場が悪くなると、小出しに謝罪するといった“歯切れの悪さ”を、塚原夫妻の対応には感じました。

一方の、宮川選手の態度はまことに堂々としており、発言の論旨も明快です。前回のラグビー事件においても、悪質タックルを行った日大選手の謝罪態度がりっぱであったため、問題を起こした行為者でありながらも、ぎゃくに世間の評価を受けました。今回はこれと似たものがありました。

インテリジェンスの視点から考える

誤解のないように先に言っておきますが、私は宮川選手に心情的に味方するものです。また、私自信は今回の事件の真相はおそくらく、塚原夫妻のパワハラなんだろうなと思っています。しかし、インテリジェンスの視点から言えば、情報分析の客観性を保持するためには、「18歳の女の子が嘘をつくとは思えない」といった、固定観念に支配された見方には気付けなければなりません。

18歳といえば、2016年の法改正により選挙権もあり、まもなく民法上の成人になる予定です。今回の事件はさて置き、物事を「大人」対「子供」、「悪代官」対「善良な市民」といった構図に単純化することは客観的ではありません。18歳でもしっかりと物事を判断できる人、ぎゃくに20歳を超えた成人でも無責任な言動しか取れない者は存在します。

一方の塚原夫妻、とくに千恵子・女子強化本部長の恰幅、どうどうたる態度はまさに女帝を思わせます。こうした外見が、世間をして、よりいっそう権力を使ったパワハラを連想させます。過去のさまざまな経緯からも、塚原夫妻に対するイメージはよくありません。ただし、真実を追求し、問題解決を図るためには、第三者委員会などによる客観的な検証は必要だということでしょう。

ハロー効果とは

内実が分からない者が第一印象をもって、物事の判断をすることを「ハロー効果」といいます。これは社会心理学の現象で「認知バイアス」と呼ばれるものの一つに該当します。物事の真実の解明を歪める要因であり、情報分析を行う上で回避すべきものとされています。とかく、日本人は「ハロー効果」のバイアスに陥りやすいとされます。

ハロー効果とは、ある対象を評価する際、対象者が持つ目立ちやすい特徴にひっぱられ、その他についての評価にバイアスがかかり歪んでしまうことです。なお、「ハロー」とは絵画で聖人やイエスキリストの頭上や後ろに描かれる後輪のことです。

ハロー効果には、ネガティブ効果とポジティブ効果があります。高学歴、高身長、ハンサムなどをポジティブに評価して、「仕事ができる」「パートナーとしてやっていける」など判断する。逆に、服装や態度がよくないと、「仕事ができない」とみられるケースが多いようです。第一印象が大事ということですが、これが単なる思い込みで、失敗したというケースは多々あります。

国際情勢の分析においても、ハロー効果における誤りが多々みられます。金正恩氏が叔父を粛清した、実兄を殺害したとのニュースが飛び交うと、「何をするかわからないやつだ、核実験を強行し、ミサイルを装備する。こんなやつとの外交交渉はあり得ない」との判断が横行します。

ぎゃくに、金正恩氏が李雪主(リソルジュ)夫人同伴で腕を組みながら、国際社会の場に登場すると、たちまち、「正恩氏は賢明で普通の常識を持った指導者だ。外交交渉による非核化の実現の可能性がある」などといったような評価に一変します。

今回の体操事件はさておき、人物評価においては外見を見て惑わされるのではなく、しっかりとした人物研究や過去の行動研究こそが重要であることを認識しましょう。