三人集まれば文殊の知恵?

グループシンク(集団浅慮)の弊害

▼  「群衆の叡智」

前回、『ウキペディア』を例に「群衆の叡智」について述べました。これは、ジェームズ・スロウィッキー著の『「みんなの意見」は案外正しい 』(角川書店)の中に出てくる、「Wisdom of Crowds(WOC)」という概念で、「群衆の叡智」あるいは「集合知」と呼ばれています。 つまり、これは少数の権威による意思決定や結論よりも、多数の意見の集合による結論や予測の方が正しいということを意味しています。

実際、集団で合議を行うことは、想像力を向上させ、個人のバイアスを回避するなど、プラスの効果をもたらすことが多々あります。まさに、「三人集まれば文殊の知恵」といえそうです。

▼ 集団思考の危険性とは

しかし、ぎゃくに集団合議は個人で考えるよりも大きな失敗を起こす危険性が高いとのマイナス面の影響も指摘されています。

これを、一般的に集団思考、グループシンク、集団浅慮(しゅうだんせんりょ)といいます。 集団浅慮とは、集団で合議を行う場合、少数意見や地位の低い者の意見を排除し、不合理な意思決定を行うというものです。

集団浅慮の研究の第一人者である、心理学者のアービング・ジャニスは、 1961年のビッグス湾事件(キューバ侵攻)や62年のキューバミサイル危機につながった意思決定を分析し、「小さな結束の強い集団に所属する者は『集団精神』を保持する傾向がある。
この結果、集団内で不合理あるいは危険な意思決定が容認されることになる」と指摘しています。

▼ ビッグス湾事件の失敗

1961年、アメリカのCIAは、在アメリカの亡命キューバ人部隊をキューバに侵攻させ、フィデル・カストロ革命政権の打倒を試みました。しかし、上陸部隊はビッグス湾で待ち受けていたキューバ兵によって一網打尽にされました。この作戦において事前の空爆に正規軍が関与していたことが明らかになり、アメリカは世界から非難を受けて、ケネディ政権は出足からキューバ政策で大きく躓いたのです。

ジャニスは、のちにキューバ侵攻に至る意志決定などについて研究しました。そこでわかったことは、ケネディ政権の側近は、侵攻の極秘計画がニューヨーク・タイムズ紙の一面に暴露されても、「アメリカ兵を上陸させず、アメリカの関与さえ否定できればればよい。世界は我々の言い分を信じるだろう」と考えた、ということです。誰ひとりとして、キューバ侵攻に異論を唱える者はいなかつたのです。

計画が大失敗に終わったのち、ケネディは失敗の原因追及を命じました。その結果、居心地のよい全会一致主義が根本原因であるとの指摘がなされました。

キューバ危機における意思決定

ビッグス湾事件の翌年の1962年夏、ソ連とキューバは極秘に軍事協定を結び、ソ連がキューバに密かに核ミサイルなどを運搬しました。アメリカは戦略偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見し、アメリカがキューバを海上封鎖し、各未済基地の撤去迫り、一触即発の危機的状況に至りました。これがキューバ危機です。

キューバ危機においては、ビッグス湾事件の反省から、礼儀作法や上下関係は自由な議論の妨げになるため排除されました。新たな視点を取り入れるために新たなアドバイザーが招聘されました。側近たちに徹底的に議論をさせるために、ジョン・F・ケネディが会議の席をはずこともあったとされます。

ケネディ自身は少なくともソ連のミサイル発射装置への先制空爆は承認せざるを得ないとの危機感を持っていましたが、 議論に影響を与えないよう誰にも言いませんでした。その結果、10の選択肢が徹底的に議論され、大統領の意見も変わり始めました。かくして核戦争が回避され、交渉による平和がもたらされました。

集団浅慮はどのようにして起こるのか

ジャニスによれば、集団浅慮は時間的制約、専門家の存在、特定の利害関係の存在などによって引き起こされ、以下の8項目の兆候があると指摘しています。

①無敵感が生まれ、楽観的になる。 ②自分たちは道徳的であるという信念が広がる。 ③決定を合理的なものと思い込み、周囲からの助言を無視する。 ④ライバルの弱点を過大評価し、能力を過小評価する。 ⑤みんなの決定に異論をとなえるメンバーに圧力がかかる。 ⑥みんなの意見から外れないように、自分で自分を検閲する。 ⑦過半数にすぎない意見であっても、全会一致であると思い込む。 ⑧自分たちに都合の悪い情報を遮断してしまう。

集団浅慮からの脱却

集団合議が「群衆の叡智」になるのか、それとも「集団浅慮」になるのか、集団は賢明にも愚かにも、その両方になれます。ケネディの側近たちが示したように、集団のメンバーできまるのではありません。合議の進め方ひとつで、個人の独立性を保持して、活発で自由な議論は可能なのです。

とくに注意しなければならないのは、権力者、声の大きい者、弁の立つ者、権威者、専門家です。これらの者が集団をリードして、個人たちの独自の意見を放棄させていきます。第4次中東戦争においても、イスラエル軍情報部においてエリ・ゼイラ将軍による独断横行と集団浅慮が見られました。

キューバ危機、第四次中東戦争のような事例は、我々の周辺においても珍しいことではありません。いま一度、集団浅慮になっていないか検証してみることが重要です。

なお、キューバ危機、第四次中東戦争は、拙著『情報戦と女性スパイ』にて興味深い記事を収録していますので、ご参照ください。

わが国の情報史(11) 

洋学の隆盛と対外インテリジェンス

▼ 洋学の魁(さきがけ)、新井白石

新井白石

18世紀になると、学問・思想の分野では幕藩体制の動揺という現実を直視して、これを批判し、古い体制から脱しようとする動きもいくつか生まれた。その一つが洋学である。 

鎖国の影響により、西洋の学術・知識の吸収は停滞していた。しかし、18世紀はじめに天文学者である西川女見(にしかわじょけん1648~1724)や、儒学者の新井白石(あらいはくせき1657~1725)が世界の地理・物産・民族などを説いて、洋学の魁となった。

なかでも新井白石は当代随一の博識家であり、洋学や対外インテリジェンスの面において後世に大きな影響を及ぼした。

ただし白石は洋学者ではない。1686年、白石は朱子学者・木下順庵(きのしたじゅんあん)に入門して朱子学を学んだ。93年、順庵の推挙で甲府藩主・徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)の儒臣となる。白石37歳の時である。

1704年、白石は幕臣にとりたてられ、家宣(いえのぶ)の将軍就任(1709年)後は家宣を補佐し、幕政を動かす重要な地位を占めた。
家宣が12年に病死した翌年、家宣の子供の家継(いえつぐ)が、わずか4歳で7代将軍に就任した。

白石は御用人・間部詮房(まなべあきふさ)とともに幼将軍・家継(いえつぐ)を補佐した。しかし、その家継はわずか8歳で夭折し、1716年に8代将軍に吉宗が継位すると、白石は詮房とともに失脚する。失脚後の白石はひたすら著作活動に没頭した。

政治家としての白石は儒学思想を根本とし、教化・法令などによって世をおさめる文治政治(「正徳の治」)をおこなった。外交面では朝鮮使節の待遇改め(簡素化)、経済面では財政再建のために良質貨幣の鋳造などの改革を行った。
しかし、極端な文治主義であったため、幕臣の反対が多く、しかも根本的な経済政策を欠いたため、一種の理想に終わった。

それよりも真骨頂なのは学者としての白石である。白石がとくに力を注いだのが歴史学の研究である。『読史余論』(とくしよろん)などの優れた書籍を多く執筆し、国体思想における啓蒙の師となった。

1708(宝永5)年、白石を洋学の魁として世に知らしめた事件が発生する。シドッチ密航事件である。イタリア人宣教師シドッチがキリスト教布教のため屋久島に潜入して捕らえられた。彼は江戸小石川のキリシタン屋敷に幽閉され、5年後に死ぬことになる。

1709年、白石は江戸で計4回にわたり、シドリッチに尋問した。これにより、彼の東洋来訪の経緯のほか、西洋の世界地理・歴史・風土人情、世界情勢及び西洋における自然科学の発展趨勢などに関する広範な知識を得た。

このほか、1712年初、白石は江戸に参府するオランダ商館長などからも、さまざまな海外事情を得た。こうして得た知識をもとに書かれたのが『西洋紀聞』と『采覧異言』である。

『西洋紀聞』は1715年頃に完成したとされるが、鎖国下のためになかなか公表されなかったが、1807年以来、広く流通し、鎖国下における世界認識に大いに役立った。

『采覧異言』は、日本最初の体系的な世界地理の学術書として評価が高い。これは、単に地理学への影響にとどまらず、各国の軍事制度への考察も踏まえており、のちのわが国の海防論や富国強兵論の根拠となった。

つまり、白石の書籍が後世に西洋に対するインテリジェンスの関心を切り開き、のちの国防体制の礎を築いたのである。

▼ 蘭学の隆盛

洋学と言えば、江戸時代初期にはスペインやポルトガルから日本に伝わってきた学問が中心であった。したがって「南蛮学(蛮学)」と呼んでいた。

しかし、徳川吉宗(1684~1751)の享保年間(1716~1736)において、蘭学が隆盛することになる。つまり洋学は蘭学として発達し始めた。

蘭学はその字面(じづら)から「オランダ学」を意味する。しかし、それは片面的な解釈であるといえよう。
本来の蘭学は、江戸時代から幕末の開国にかけての西洋に関する学問、技術、西洋情勢に関する知識および研究である。主としてオランダ語を媒体として研究されたので蘭学という。

8代将軍・吉宗は漢訳制限をゆるめて、青木昆陽(あおきこんよう1698~1769)および野呂元丈(のろげんじょう1694~1761)にオランダ語を学ばせた。彼らはオランダ通詞からオランダ語を学び、『和蘭話訳』(1743年成立)や『和蘭文字略考』(1746年成立)を著した。

これが蘭学を学ぶ者の語学的基礎となったのはいうまでもない。

蘭学はまず医学の分野において発達した。1774年、昆陽からオランダ語を学んだ前野良沢(まえのりょうたく1723~1803)、町医者の杉田玄白(すぎた1733~1817)が、共同で西洋医学の解剖書を記述した『解体新書』を著した。

その後、蘭学は急速に隆盛し、医学から天文学、本草学(博物学)、兵学、物理学、化学などの分野へと拡大した。

蘭学隆盛の立役者には大槻玄沢(おおつきげんたく1757~1827)や宇田川玄随(うだがわげんずい1755~97)、平賀源内(1728~79)らがいる。

玄沢は『蘭学階梯』という蘭学の入門書を著し、江戸に芝蘭堂(しらんどう)を開いて多くの門人を育てた。

玄随はもともと漢方医であったが、杉田玄白や前野良沢らと交流するうちに蘭学者へと転じ、芝蘭堂で学び、のちに西洋の内科書を訳して『西洋内科撰要』を著した。

源内は長崎でオランダ人・中国人とまじわり本草学を研究した。のちに江戸に出て、学んだ科学の知識をもとに物理学の研究で成果を収めた。今日は、江戸の大天才、異才、発明王、日本のダ・ヴィンチなどと呼ばれ、巷で有名である。

▼ 地理学の発展

蘭学の影響により発達した学問の一つに地理学である。地理学とインテリジェンスの関係は深い。

なぜならば、他国の情勢を正確に知るために地図が必要である。国土を防衛するためにも地図が不可欠である。その地図を作成するために天文・測量・観測などの地理学が要求されたからである。

わが国の地図の作成における最大の功労者が、高橋至時(よしとき 1764~1804)、その子景保(かげやす1785~1829)、そして伊野忠敬(いのうただたか1745~1818)である。

幕府天文方の至時は、西洋歴を取り入れた寛政暦を1797年に完成した。また、天文方に「蛮所和解御用(ばんしょわげごよう)」を設け、景保を中心に洋書の翻訳に当たらせた。景保は語学の達人であり、オランダ語、ロシア語、満州語に通じており、多くの洋書を翻訳した。

なお、「蛮所和解御用」は幕末期に洋学の教育機関である蛮所調所となり、近代以降における大学の前身となった。

1804年、景保は至時の跡を次いで幕府天文方に就任した。当時、西洋諸国の東洋進出によって日本近海に異国船が出没し始めた。幕府は国策上の必要に迫られ、07年に世界地図の作成を景保に命じたのである。

景保は1780年製のイギリス、アーロスミスの世界図を『世界図』に基づいて、東西の多くの資料や、間宮林蔵(まみやりんぞう)の樺太への調査報告なども取り入れて、1810年に『新訂万国地図』を作成した。

▼ 伊能忠敬による日本地図の完成

一方、忠敬は隠居後に学問を本格的に開始し、全国を測量して歩き、最初に日本地図を作製した人物として有名である。

1795(寛政7)年に上京し、江戸にて幕府天文方の至時に師事し、測量・天文学などをおさめた。この時、忠孝は50歳、師匠の至時が31歳であったが、学問において年功序列は無用ということである。

至時は、自らが完成した寛政暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。
そこで、至時と忠敬は、江戸から蝦夷地までの各地の経度・緯度を図ることにした。

その頃1792年にロシアの特使アダム・ラクスマンが、伊勢国の漂流民大黒屋光太夫を連れて、根室に到着した。
その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。これが蝦夷地の調査や地図作成の必要性を認識させた。

至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。なかなか、幕府の許可は下りなかったが、苦心の末、忠敬が第一次測量のため蝦夷地へ向かった。時は1800年、忠敬が55歳の時である。

忠敬の測量は1800年から16(文化13年)まで及び、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。

ただし、忠敬が死亡(1818年)時には、実際には、地図はまだ完成していなかった。そこで忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められ、1821年に『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成したのである。

▼ 景保とシーボルト事件

この地図が新たな事件を呼ぶことになる。それがシーボルト事件である。

シーボール(1796~1866)はドイツの医師である。江戸時代後期の1823年長崎オランダ商館の医師として来日した。翌年長崎郊外の鳴滝に診療所を兼ねた学塾(なるたきじゅく)を開き、伊藤玄朴、高野長英、黒川良安ら数十名の門下に西洋医学及び一般科学を教授した。

シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行し、半年間の江戸滞在で天文方を勤める景保と知り合いになる。そして忠敬が作成した『大日本沿海與地図』の縮図を景保から受領した。
景保はシーボルトの持つ貴重な情報が欲しくて、禁制品の地図を渡したのである。つまり、景保もまた、インテリジェンスの人であった。

5年の任期を終えたシーボルトは1828年9月、帰国の途につく。しかし、その際に禁制品である日本地図が発見された。地図の発見経緯については、暴風雨にあった乗船の積荷から発覚した、景保と確執のあった間宮林蔵が密告した、などの説がある。

シーボルトはスパイの容疑を受けて糾問1ヵ年の末29年10月に海外追放となり、再入国禁止を宣告された。景保は翌年獄死し、多数の関係者、洋学者が逮捕された。

いつの世も、地図は常に守るべきインテリジェンスであり、国家の禁制品であった。我が国では現在、1/5万や1/2.5万の地図が市販されているが、多くの国ではこのような地図は禁制品であり、所持すればスパイ罪に問われることもあるので要注意である。

▼ 蘭学の衰退

天保年間(1830年代)には「天保の飢饉」が象徴するように、米不足による治安が乱れ、一揆が発生した。大塩平八郎による武装蜂起など、幕府や諸藩に大きな影響を与えた。

国内問題ら加え、対外問題も続いていた。1837年、アメリカ商戦モリソン号が浦賀に接近し、日本人漂流民7人を送還して日米交易を図ろうとしたが、幕府は異国船内払い令(1825年)に基づいてこれを撃退した。

この事件について、1838年、渡辺崋山(わたなべかざん1793~1841)は『慎機論』を、高野長英(たかのちょうえい1804~1850)は『母戌夢物語』を書いて、幕府の対外政策を批判した。

しかし、翌年、幕府はこれに対して、きびしく処罰した。なお、この処罰事件は「蛮社の獄」と呼ばれるが、高野らの潮流は旧来の国学者たちからは「蛮社」と呼ばれていたためである。

この事件後、蘭学は衰退傾向を辿ることになる。しかし、蘭学がわが国における対外インテリジェンスの萌芽を導いたことは間違いない。

▼洋学への発展と佐久間象山

佐久間象山

これまで述べたように、洋学は江戸時代初期の「蛮学」が中期には蘭学へと発展した。そして、ペリー来航(1853年)による開国以降、オランダ人以外の諸外国人もどんどんと渡来するようになった。

イギリスやフランスなどの学術・文化が、それぞれの国の言語とともに渡来した。もはや洋学は蘭学に止まらず、この時期以降に洋学という用語が一般化した。

洋学は自然科学・社会科学・人文科学の広い分野で西洋の知識・学問を移入するのに力を発揮したが、ことに英学が蘭学にかわって主要な地位を占めた。
また、洋学はわが国の国防体制への啓蒙となり、高島秋帆や佐久間象山(さくまぞうざん1811~1864)らの軍事思想に大きな影響を与えた。

 とくに象山は横浜開港を具申した立役者であり、のちに幕末の志士たちにより徳川幕府が倒され、明治の代が到来するきっかけを作った人物である。福沢諭吉や勝海舟も象山の影響を受けた。

吉田松陰は、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗北すると、西洋兵学を学ぶために九州に遊学し、その後江戸に出て象山の門を叩くことになる。

山鹿流兵学師範である松陰は、先師の山鹿素行の思想的影響を受けていたが、松陰に直接的な影響を及ぼした人物としては象山をおいて他はないといえよう。

さくらももこさん、ご冥福をお祈りします

相関関係と因果関係

さくらももこさん、お亡くなりになる

漫画家のさくらももこさんが、さる8月15日、乳がんのため亡くなられました。53才でした。

さくらさんは、10年近く乳がんと闘病されていました。40代半ばでのがん発覚後も治療を続けながら、近しい人以外にはがん闘病のことは明かさず、たんたんと仕事されていたそうです。

日本禁煙学会による、ある指摘

さくらさんは、健康おたくである一方で、ヘビースモーカーであったそうです。これに関連して、 日本禁煙学会の作田学理事長が「タバコと乳がんについての最新知見」として、さくらさんの死について、「タバコと乳がんとの関連をまったくご存じなかったとしか思えません」と述べられています。

同学会のパンフレットによれば、 若い女性の乳がん(閉経前乳がん:日本のデータ)について、次のように掲載されているようです。

  • タバコを吸うと3.9倍、受動喫煙で2.6倍
  • タバコを吸わなければ、乳がんの75%が予防できます。すぐに禁煙を!
  • 禁煙と受動喫煙防止をしっかり実行したなら、日本の若い女性の乳がんを半減できます!

喫煙と肺がんは因果関係なの?

 たばこと癌との関係はよく論じられます。とくに、肺がんと喫煙の因果関係が指摘されています。 
  禁煙協会などは、「喫煙と肺がんの因果関係はすでに複数の集団において明確に立証されている 。これを反証するデータは、存在しない 」 と指摘する傾向にあります。
 他方、「喫煙と肺がんとの直接の因果関係は、科学的に立証されていない」「喫煙者はストレスが多い。ストレスが死亡につながる」といった反対意見もあります。

生存バイアスとは何か

さらには、 「私の祖父は二人ともヘビースモーカーで、どちらも90歳まで生きた。だから、ヘビースモーカーが寿命を縮めるというのはウソだ」との自己流の判断を下す人さえいます。

これは、「 生存バイアス」という認知バイアスです。生存とは生き残っているという意味です。つまり、一部の表面化している情報(サンプル)のみを利用して物事を判断する、水面下に隠れている情報を無視するために、判断を誤るというバイアスです。 実際にヘビースモークにより肺癌になって早死にした人を探せば、たくさんいるはずです。 

因果関係を巡る論争

最近、統計データを基に「喫煙率が下がったのに肺がん死亡者が増えた」という指摘をもって、喫煙と肺がんの因果関係の切り崩しを行う論調があるようです。

これに対して禁煙派は、「喫煙から肺がんが生じるのには20~30年の時間間がかかり、喫煙率が低下したからといって即座に肺がんが減るわけではない。肺がんリスクが変わらなくても人口が増えたら、肺がん死亡者数は増える。高齢者の割合が増えるとそれだけで、肺がん死亡率(粗死亡率)は大きくなる」などと反論します。

因果関係と相関関係は異なる

ここで因果関係の厳密な意味を見てみましょう。 
「Aという原因があればBという結果が生じる」ことを「AとBは因果関係にある」といいいます。これには「Aが増加すればBも増加する」という正の因果関係と「Aが増加すればBは減少する」といった負の因果関係があります。

一方、因果関係とはいえないものの、「AとBにはなんらかの関係がある」ことを「AとBは相関関係にある」といいます。

相関関係と因果関係はしばしば混用されます。交通事故の数が増えれば交通事故死者の数は増える。したがって両者が因果関係にあることはほぼ間違いありません。しかし、実際には因果関係と思っていたことが、単なる相関関係にすぎないことがしばしばあります。

野菜を食べる人は長生き?

高原野菜で有名な長野県は日本一の長寿県です。長野県民は高原野菜をよく摂取します。

ただし「高原野菜をたくさん食べる人に長寿が多い」からといって、高原野菜の摂取と長寿に直接的な因果関係があるとまでは断定できません。

なぜならば長野県には「きれいな空気」や「理想的な生活習慣」などがあり、これらが長寿にプラスの影響を及ぼしている可能性があるからです。

因果関係の成立要件

因果関係には、 原因が先で結果が後であるという時系列的な関係が必要です。そして、その関係には別の原因が存在していないことが必要です。

肺がん患者には喫煙者の比率が多いことは、統計上はほぼ間違いがありません。つまり、両者は相関関係にあります。しかし、肺がんの増加は喫煙だけが原因ではありません。ここに、喫煙と肺がんの因果関係の立証が困難な点があります。だから、別の要因であるストレスなどが影響していることを指摘するなど、いろいろな議論が生まれているのでしょう。

因果関係の立証はインテリジェンスの要諦

因果関係が立証されれば、それは近未来を予測する手助けとなります。原因がわかれば結果が予測でき、対策も取ることができます。

しかし、相関関係では不十分です。喫煙率を減少させることが肺がん死亡率を低下させる決定打とまでいえない点もここにあります。

国際情勢における情報分析では、因果関係の立証がとても重要です。そのためには、
「まず相関関係にありそうな事象をアトランダムに列挙する。列挙した事象のなかから、原因が先で結果が後であるという時系列的な関係がある事象に着目する。その関係には別の原因が存在していないことを証明する。」ということが重要になります。すなわち、因果関係の立証はインテリジェンスの要諦なのです。

吸いすぎにご注意

社会科学においては、因果関係の立証は非常に難しいとされます。まことしやかな因果関係を疑って見ることが、情報分析では極めて重要です。

「喫煙と肺がんの因果関係はすでに複数の集団において明確に立証されている」など断定的に言われると、「え、本当?」と考える。このことは重要です。

ただし、やはり喫煙は多くの病気の原因であることは間違いありません。 筆者は喫煙はしませんが、嫌煙派といわけではありません。
喫煙者の方々、吸いすぎには注意しましょう。

わが国の情報史(9) 

幕藩体制を支えた忍者集団

幕藩体制の確立

1615年、大阪の役の直後、幕府は大名の居城を一つに限り(一国一城令)、さらに武家諸法度を制定して、大名を厳しく統制した。

三代将軍の徳川家光の時には、大名が国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代制度を義務付け、大名の妻子は江戸に住むことを強制した。

かくして、将軍と諸大名との主従関係が確立され、強力な領主権を持つ将軍と大名(幕府と藩)が、土地と人民を統治する支配体制、すなわち幕藩体制が確立された。

▼忍者を最も愛した徳川家康

こうした体制確立の一方で、諸国の大名が謀反を行なえように水面下での情報収集を強化した。ここで活躍したのが、隠密と呼ばれる忍者集団であった。

ここで少し、忍者の歴史をざっと振り返っておこう。

忍者・忍術は飛鳥・源平時代に発祥し、鎌倉時代には荘園の中で発生した「悪党」が「伊賀衆」を形成し、楠木正成はこれらの衆を使って後醍醐天皇をお守りした。

戦国時代に「伊賀衆」と呼ばれる者たちが、「忍び」と呼ばれるようになり、やがて「忍び」は、各地の大名に召し抱えられて、敵国への侵入、放火、破壊、闇討ち、待ち伏せ、情報収集などを行うようになった。(我が国の情報史(2))
 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人はともに「インテリジェンス・リテラシー」に長けた人物であった。ただし、忍者の活用については三者三様であつた。

信長は伊賀忍者の集団的謀反性を警戒し、もう一つの忍者集団である甲賀忍者を使って、1581年に伊賀忍者を討伐した(第二次天正伊賀の乱)。

秀吉は、非常に小さい時から忍術というものに慣れていたようであるが、1580年の、織田信長と石山本願寺勢力との戦い(石山合戦)の時、忍者の裏切りによって、四苦八苦したことから、あまり忍者を愛さなかった。

これに対し、家康は忍者を召し抱え、隠密として利用した。すなわち、忍者を愛した人物という意味では家康が一番である。こういう点も、家康が、他の二人より一歩抜き出ていた、と筆者は思う。

▼家康の伊賀越え

これを家康は、信長の死を泉州の堺で知った。この時の家康のお供は、本多忠勝、服部半蔵、武田氏の旧臣の穴山梅雪等のわずか30人余りであった。

家康と忍者との関係は深い。
1582年6月2日、明智光秀による「本能寺の変」が起きた。 この時、家康は信長の招聘によって畿内各地を見学中であった。

家康は、日頃恩顧をこうむった信長のために、光秀と一戦を交えることも覚悟した。   それができなければ、知恩院で腹を切るまでだと、家康はわずかな軍勢を本能寺に向けようとした。

しかし、それを知った忠勝が今いっては危ないから一度三河まで帰って準備を整えて兵をあげてからでも遅くないと、家康を諭した。

そのため家康一行は、伊賀越えをし、伊勢の海から三河に帰ることにした。しかし、最大の難所は伊賀の山中である。そこには、地侍や土豪による一揆の恐れが潜んでいた。実際、家康一行から遅れて出発した穴山梅雪は、土豪に襲われて殺害された。家康、生涯における大きなピンチの一つであった。

▼ 服部半蔵の大活躍

その時、最大の功労者となるのが服部半蔵(はっとりはんぞう)である。彼は伊賀出身であった。半蔵はその地縁・血縁を生かし、伊賀衆と甲賀衆からなる200名の忍者を招いた。

これら忍者を山中の要点に配置し、家康一行を警護し、伊勢の山中を無事踏破し、三河に帰るつくことができた。

こうした縁から、家康は1590年、江戸に居城を構えた際、服部半蔵以下200人の忍者を召し抱え、江戸城下に住まわせ、大奥や無人の大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察、全国各地のなどを行うせるようになった。

現在の四谷の伊賀町、神田の甲賀町の地名は、伊賀者、甲賀者が居を構えた名残である。その首領である服部半蔵が護っていた麹町御門が半蔵門となった。むかし、バスツアーガイドが、「この半蔵門はむかし将軍様に象をご覧にいれようとして、ここまで連れてきたが、この門を半分しか入らなかったのでそれで半蔵門といった」という笑い話しがあるが、真っ赤な嘘ということになる。

▼ お庭番制度の確立

200名の忍者集団はやがて、8代将軍の綱吉の時代には、お庭番制度へと発展する。お庭番は幕府の役職であり、将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密である。

時代劇や小説などでは、将軍が庭を散歩すれば、お庭番として入っている隠密がすっと近寄って来る。将軍が隠密に諸国の情勢を見てくるように命じる。するとお庭番は、その場に箒を捨てて、2~3年間の猶予をもらって諸国の情勢を取りに行くといった、描写がよく描かれている。

こうした描写は、脚色された作りものであるが、お庭番は遠国に実状調査に出かけた、これを遠国御用という。テレビドラマのような派手な間諜行動はなかったとみられるが、地方に対する隠密調査が行われた。この調査は多くの支援組織によって支援され、お庭番が隠密となり、地方の実情を調査した。

かくして、現在の警察網のようなネットワークが全国に展開された。このように、江戸時代の平和な時代が訪れると、かつて忍者は、幕府の命で情報を得たり、幕府警護をすることが主な任務となった。お庭番は、その土地の人と仲良くなって情報を聞き出し、幕府にその実情を伝えたのである。孫子でいう「郷間」の活用が行われた。

こうした忍者集団の存在が、徳川260年の太平を保ったと言ってよい。

▼ インテリジェンス・サイクルの確立

 インテリジェンスの理論の中で、インテリジェンス・サイクルという用語がある。これは、使用者が情報要求を発し、収集機関が情報を収集し、集めた情報(インフォメーション)を分析し、インテリジェンスを生成し、使用者に提供する。使用者をインテリジェンスに基づいて、政策決定などの判断を行うというものである。

 我が国の情報体制の欠点でよく指摘されているのが、このサイクルが機能不十分ということである。とくに、国家指導者(総理大臣)から、具体的な情報要求が発出されることがないと言われる。

インテリジェンスに詳しいジャーナリスト・作家の手島龍一氏によれば、この情報要求を実際に発出していた歴代総理は橋本龍太郎氏ぐらいだったらしい。

残念なことに、その橋本総理も一方では、中国女性によるハニートラップ疑惑があるのだか・・・・。

すでに綱吉の時代には、国家トップが情報要求を発出し、これを受けて、忍者集団が隠密として全国における情報収集活動を展開していた。そして、それを下に、幕藩体制の維持に活用した。この点から、江戸時代には国家的なインテリジェンス・サイクルが確立されていたと言えるかもしれない。

たどすれば、もっとインテリジェンス・サイクルは日本の文化として定着してもよかったのではないだろうか?

この点は、今後の一つの検証課題かもしれない。

想定外と不確実性の低減

北海道大地震の発生

9月6日未明、北海道胆振東部を震源とする震度7の地震が発生しました。亡くなられた方、行方不明者の関係者、負傷者、そして家屋損害やインフラ断絶などの被害にあわれた方、心よりご冥福並びにお見舞い申し上げます。

北海道において震度7の地震は初めてであり、予想外の感はあります。しかし、気象庁はすでに以前から、北海道に震度7クラスの地震が起きる可能性はある、との予測を発表していました。ですから、想定外とは言えません。ただし、何時起こるかは分かりませんし、これという予報もなかったので予想外ではありました。また、一つの発電所の被害によって北海道全域が停電になることは想定外であったのかもしれません。つくづく人間の想像力の欠如というものを思い知らされます。

想定外とは何か

想定外という言葉は、2011年の東日本大震災において流行しました。これは事前に想定した範囲を超えていることです。人間は物事を考えるうえで、一定の条件、すなわち枠を設けて考えます。これは情報分析の基本であり、想定のことを前提という言い方もします。

たとえば、中国の将来情勢を分析する上で、当面は共産党の一党独裁が継続するという前提(想定)で、その将来動向を見積もることになります。こうした前提がないと、分析の焦点が定まらず議論が発散し、政策や行動に活用できるインテリジェンスを作成することはできません。

わがくにの地震対策では、最大の地震は「東海」「東南海」「南海」の3地震が連動して起こるマグニチュード9クラスを想定しています。当然、これ以上の地震が起こる可能性は排除できませんが、キリがないので、最大規模をマグニチュード9としているのにすぎません。

想定外はなぜ起こるのか

物事を考える上で“考察の枠”を仮に設定しているだけなので、想定外は必ず起こります。しかし、ここで問題なのは、その事象が起こり得る蓋然性はかなりあるにもかかわらず、これを想定外として考察しない場合です。

こうした不注意な想定外は、思い込み、希望的観測、想像力の欠如、思考停止などで起こります。なかでも、自分にとって都合の悪いシナリオが浮かんで気分が滅入る、どうせ考えても自分では対策は取れないなど、起こり得るシナリオを考えようとしない思考停止がよく起こります。つまり、「なるようになるさ」「なってから考えればいいやる」という諦念感と開きなおり、「なるはずはない」「信じる者は救われる」的な希望的観測などが心理を支配します。

不確実性の低減

想定外とよく似た概念で不確実性という言葉があります。また、情報分析の目的は不確実性の低減にある、ともよくいわれます。

不確実性とは「確実性(絶対確実)」の反対語であり、事象が起きるか起きないか分からないという、意思決定者の不確かな精神状態のことをといいます。ただし、より厳密にはリスクと(真の)不確実性に区分することができます。 リスクは起こりうる事象が分かっていて、それが起きる確率もわかっているもの。つまり、測定可能な不確実性のことです。    一方、(真の)不確実性とは、起こりうる事象が分かっているが、それが起きる確率が事前には分からないもの。つまり、測定不可能な不確実性をいいます。

厳密な意味での不確実性とは起こり得る事象が分かっているものであるので、いずれも想定内です。つまり、不確実性の低減とは、第一に不確実性の領域を拡大する、すなわち想定内の領域を拡大し、想定外の領域を縮小することです。つまり、想像力を発揮して、想定外の事象を可能な限り想定内に組み込み、対応策を考えることです。ただし、なんでもかんでも組み込むと情報分析はできなくなるし、一方、組み込み不足は本来は想定内である危機やその兆候を見落すことになるので、その兼ね合いが重要です。

シナリオの蓋然性を提示

第二に、未来におけるいくつかの対応すべき起こり得る事象(シナリオ)と、そのシナリオがどの程度の確立で起こるかを提示することです。

シナリオが起りえる確立のことを、蓋然性あるいは確度(確証レベル、INTELLIGENCE CONFIDENCE LEVEL)、といいます。それは、通常は%をもって示されます。たとえば、天気予報において以下の予報があったとしましょう。

① 明日、雨が降る可能性0%、100%

② 明日、雨が降る可能性は50%

③ 明日、雨が降る可能性は80%、20%

①のように、国家政策や企業経営において、関連する事象の発生率が0%、100%ということは一般的にほとんどありません。では、②の50%ではどうかというと、これは「降るかどうかわからない」「降るかどうかいえない」ということであり、これでは判断や意思決定に役に立ちません。

よって、③のように50%を中心に上・下の幅の確度として提示する、これにより意思決定を支援することが情報分析の目的です。

たとえば雨が降る可能性が40%ならば、「少々のリスクはあるが、予定どおり屋外で行事を実施しよう」、あるいはその可能性が60%ならば「明日の行事は体育館に変更しよう」、そして80%ならば「中止にして別の行事に切り替えよう」などと判断することになります。

 なお、わが国では、確度を明確に示した国家的なプロダクトは稀ですが、米国のプロダクトには以下の確度に基づいたプロダクトが作成されています。

また、二〇〇三年のインク戦争では、「サダム・フセインは大量破壊兵器を隠している」という誤った判断を下したという反省から、CIAは確度を評価する必要性を再認識しているとされます。

不確実性を低減するためには確度の評価に臨まなければなりません。

群衆の叡智

私が年間購読している某雑誌

私は、ある雑誌を年間購読しています。この雑誌は、筆者がかつて組織に所属していた時には、持ち回りで読むことができました。なかなか鋭い分析記事が多々あり、「なるほどな」と感心していました。でも、組織を離れると、情報収集もすべて自己負担となったので、購読紙を厳選しなければなりません。当該雑誌はしばらく読むのを止めていました。

この雑誌は完全宅配制度を採用し、書店では購入できません。だから、年間購読予約しか、読む方法がありません(図書館でも読めますが)。なお、宅配制度の定期購読は値段も高いのですが、なかなか良い雑誌があります。

この雑誌の特徴は、執筆者は原則として無記名となっていることです。誰しも著名人が書いたものとなると、つい信じたくなります。でも、現実の事実をうまく文脈に落とし込んでいるからといっても、情報の信憑性が高いかどうかは別の問題です。

無記名だからこそ、作者は所属組織に箍に縛れずに良質の情報を伝えることができるという利点があります。また、読者はバイアスにとらわれず、白紙の状態で情報(記事)に接し、「その情報には妥当性があるか?」などの視点を持って読むことができます。

ネット情報について

ネット上では、ジャーナリストの池上彰氏と作家の佐藤優氏による『「ネット検索」驚きの6極意(東洋経済)』という記事が掲載されています。

そこでは、以下の6つの極意が述べられています。

  • グーグル検索は効率が悪い
  • 有料辞書サイトを活用する
  • ウィキペディアは、見ても「参考程度」にする
  • 語学ができる人は「外国語のウィキペディア」もチェックする
  • 電子辞書で済まされるものは、それで調べる
  • 情報の新たらしさは「冥王星」

これらの極意から読み取れるように、両氏ともにネットへの過度な依存を警戒し、ネットよりも新聞の方が効率的であるなどの見解を述べられています。その理由を両氏の共著『僕らが毎日やっている最強の読み方』(東洋経済、2016年12月)からいくつか拾ってみましょう。

  • ネット情報はノイズ(デマ、思いつき、偏見)が過多
  • 記事が時系列に並ぶためにその重要度がわかりにくい
  • ネットで入手できる情報の多くが二次情報、三次情報である
  • 知りたいことだけを知ることになり、その他のことに関心が薄れ視野が狭くなる
  • ネットの論調が社会全体の論調だと錯覚する

以上の中でもっとも重大な問題点として認識すべきは、ネットは各人の自由な書き込みができるためにデマ、偏見などの巣窟となりやすいという点でしょう。

ネット上では、一人の人が何度も書き込んだり、情報を操作したり、視聴率・支持率を上げ下げしたりすることもできます。だから、ネットの論調が社会の声(世論)を客観的に反映したものではないとの指摘もたしかに当たっています。

しかし、こうした反面、格安経費でさまざまな情報が入手できるという、他では代替できない利便性があります。また、ネット上にも情報源をしっかりと明記した確かな情報も多数掲載されています。

図書館などに行かなくても、検索を基に情報を絞り込めるという点もインターネットならではの利点です。そのほか、新聞記事にはみられないようなネットユーザーの斬新な視点によって、新たな分析起点を得ることもできます。ネット情報の功罪を認識した上で有効活用に心掛けたいものです。

『ウィキペディア』の正確性はどうか

ネット情報の代表ともいえる『ウィキペディア』の正確性どうでしょうか。『ウィキペディア』は、しばしばその記事の正確性に対する疑義が提起されます。前述の佐藤優氏も、『ウィキペディア』は参考程度にする、と注意を発しています。これは不特定のボランティアによって書かれているという点にあるようです。すなわち、情報源の信頼性が低いということです。

これに関して、正確性において定評のある『ネイチャー』誌は、2005年12月のオンライン版にて、次のような記事を掲載しました。「ボランティアによって書かれた400万近い項目を擁するオンライン百貨事典『ウィキペディア』は、「科学分野の話題を扱った項目の正確性において『ブリタニカ百科事典』に匹敵する」との趣旨の記事を掲載しました(AP通信、2005年12月19日)。

筆者の体験からしても、『ウィキペディア』にはときどきは不確実な情報がありますが、『現代用語の基礎知識』や『知恵蔵』などの出版物と比べて正確性が劣るという印象はありません。

『ウィキペディア』には「群衆の叡智」という恩恵がある

『ウィキペディア』には、さまざまな人がこの記事に目にして、誤りを指摘するなど、常に衆目を浴びているという利点があります。

ジェームズ・スロウィッキー著の『「みんなの意見」は案外正しい 』(角川書店)では、「Wisdom of Crowds(WOC)」という概念が述べられています。これは、「群衆の叡智」あるいは「集合知」と呼ばれています。つまり、少数の権威による意思決定や結論よりも、多数の意見の集合による結論や予測の方が正しいというものです。つまり、『ウィキペディア』には、「群衆の叡智」という恩恵もあることを理解する必要があります。

情報源の信頼性と情報の正確性は異なる

『ウィキペディア』の話は別としても、一概に、権威があるその道の専門家が書いたから正確である、名もないボランティアが書いたから不正確である、という判断は禁物です。

情報の処理の一環に情報を評価するという作業があります。これは、情報の「良し悪し」を評価することです。誤った情報、偽情報(ディスインフォメーション)、意図的な情報操作が横行しているなかで、インテリジェンスの正確性を高めるためには情報の評価が重要となります。

情報の評価は大きくは、情報源の信頼性(Reliability)の評価、情報自体の正確性(Viability)の評価に分けられます。

まず情報源の信頼性ですが、これは情報を発信した情報源が信頼できるかどうか、複数の情報源から裏づけが取れるかどいうかということです。一方の情報の正確性とは妥当性、一貫性、具体性、関連性という4つの尺度で評価します。

情報源の信頼性が高ければ、一般的には情報の正確性も高いのですが、この両者には直接的な関連性はありません。

なぜならば、いくら権威のある信頼性の高い情報源であっても、「群衆の叡智」に勝てないことや、または情報源が意図的に嘘をつくことがあるからです。また、信頼性の高い情報源の情報であったとしても伝達段階における媒体の介在により誤った情報に転化することも珍しくありません。

だから、情報源が信頼できるかどうかということと、情報が正確かどうかということは別個に判断する必要があります。要は、情報源の信頼性にかかわらず、正しい情報もあれば誤った情報もあります。権威者の情報を無秩序に信じることには要注意です。「信頼できるあの人の情報にも間違いはある」ということです。

わが国の情報史(8) 

鎖国体制の確立と三大風説書

▼ イギリスから来た諜報員

1598年、オランダ商船団は新たな貿易相手国を求めて大西洋を渡り、マゼラン海峡を通ってチリに向かった。しかし、折からの暴風、食糧欠乏と病気で、チリを出港する頃には衰弱の極に達していた。

1600年2月、そのようなオランダ商船団が帰国の途にいている頃、1隻の船が船団から離れて日本に向かった。その乗組員は日本については一片の知識もなかったが、日本において毛織物の需要があることは知っていた。その船とはリフーデ号である。

リフーデ号は逆風にあおられ、重大な損傷を受けたまま日本沿岸を漂流した。そして、日本漁船によってその漂流船とオランダ船員が保護されることになった。その中に水先案内人のイギリス人であるウィリアム・アダムズがいた。彼はのちに日本人女性と結婚して三浦按針(みうらあんじん)と名乗ることになる。

  リフーデ号が保護されて数日後、幕府はイエスズ会の宣教師を連れて漂流者の下を訪れた。宣教師はすぐにアダムズに注目して、彼に対する事情聴取を行った。アダムズは宣教師に対し、日本側に毛織物を渡すかわりに、船の修理が終わったら本国に帰れるように食糧や水を提供してほしいと伝えた。

ところが、それ以前から少数ながら日本にいたスペイン・ポルトガル人はイギリスやオランダが交易に割り込んでくるのを警戒した。また、カソリックの普及を試みるスペイン、ポルトガルからすれば、プロテスタントのイギリス、オランダは排除すべき存在であった。だから宣教師は、「交易はポルトガルの代表を通して行わなければならない」と応じた。しかし、アダムズは日本人以外の誰とも交渉しないと明言した。

  これに激怒した宣教師は、アダムズの話の要点をスペイン、ポルトガルの両代表者に伝えた。二人は結託し、幕府がアダムズやオランダ人の船員を即刻追放するか、あるいは処刑するよう企んだ。

しかし、家康は別の世界からきたアダムズを客人としてもてなし、新しい知識を吸収することが、幕府の繁栄につながると判断した。だから、スペイン・ポルトガルの両代表者の助言を一蹴した。洞察力鋭い家康は、両代表者に潜む邪悪のたくらみをたちまち見抜いたのである。ただし、天下統一を巡って鎬を削る西軍との戦いを間近に控えていた家康は、すぐには決断を下さず、オランダ船員らの処刑はしばらく待つように命じた

家康は関ヶ原の合戦(1603年)に勝利し、意気揚々自城に凱旋した。オランダ船の乗員が家康の前に引き出されたとき、またしてもスペイン人とポルトガル人は、彼らを処刑するか、さもなければ国外追放すべしと要求した。しかし、家康はこれに断固として応じなかった。ぎゃくに家康はアダムズの頭脳明晰さに感銘を受け、彼を江戸に招いて外交・貿易の顧問としたのであった。

家康は、アダムズが帰国することは許さなかったが、アダムズを厚遇し、最高の助言者にして情報提供者としてもてなした。彼は家康に航海術や数学などさまざまな知識を伝授した。また、スペインやポルトガルが何かを企んでいると察知した場合、アダムズに複数の日本人配下につけて、スペイン・ポルトガル人らの意図や動向を探らせた。家康はアダムズを諜報員として運用し、スペイン・ポルトガルの動向を探った。一方で、アダムズを使ってイギリス・オランダという新たな世界の扉を開放したのであった。

▼ 鎖国状態の完遂

こうしたアダムズの活躍があって、オランダは1609年に、イギリスは1613年に幕府から許可を得て平戸に商館を開いた。一方、家康は朝鮮や琉球王国を介して明との国交回復を交渉したが、明からは拒否された。

家康は当初、スペインやポルトガルとの貿易にも積極的であった。しかし、貿易を通じて西国の大名が富強になることや、キリスト教の布教によってスペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れを感じるようになった。またキリスト教の信徒が信仰のために団結することを懸念し、家康は1612年にキリスト教の禁令を発出した。

家康が死亡する1616年には、中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に制限した。23年に将軍職に就いた三代将軍・徳川家光は閉鎖主義を強めた。24年にはスペイン船の来航を禁じた。

さらに35年には日本人の海外渡航を禁止した。島原の乱(1637年)の後にはポルトガル船の来航を禁止(1639年)し、欧州の国で残ったのはオランダとなった(イギリスは1923年にオランダとの競争に敗れ商館を閉鎖して引き上げたが、これは幕府による措置ではなかった)。1941年には、そのオランダの商館を出島に移し、長崎奉行が厳しく監視する“軟禁状態”においた。こうして幕府は“鎖国状態”を完遂した。

以後、日本は200年余りのあいだ、オランダ商館(出島)、中国の民間商船、朝鮮国・琉球王国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになったのである。鎖国により貿易は長崎(出島)に絞られ、それも中国とオランダに限定された。そのため、中国とオランダは、徳川幕府が世界について知見を得るための重要な情報源となった。

▼ 唐船風説書

当時、長崎奉行が中国人やオランダ人から得た情報をまとめたのが「風説書」(ふうせつがき)である。風説書は、長崎から江戸に送られ、厳重に保管・管理され、大老、老中、若年寄らの一部の高級武士しか閲覧が許されなかった。特別に重要な風説書は将軍のみにしか閲覧が許されなかった。すなわち、幕府にとって貴重な秘密の海外情報であった。

中国人から得た情報を纏めたものを「唐人風説書」あるいは「唐船風説書」という。学者である浦兼一著『華夷変態解題』(1955年3月)によれば、唐人(船)風説書は1644年(正保元年)から1724年(享保9年)にかけて現存したようである。

江戸時代においては中国人を「唐人」、中国船を「唐船」、中国との貿易を「唐船貿易」や「唐人貿易」と称していた。中国人との通訳にあたったのが「唐通詞」という役人であった。唐通詞は唐船が入港してから寄港するまでの過程においてさまざま業務に携わった。唐人から海外情報を収集し「風説書」を書くのも唐通詞の仕事であった。なお唐通詞は中国語を話せなくてはならなかったため、原則的に唐人あるいは唐人の子孫が就いた。

唐風説書には一定の形式があってわけではなく、口述のメモ書きが大部分であった。これがのちの1732年に、林春勝、信篤父子によって『華夷変態』(かいへんたい)として編纂された。なお、この著の由来は、漢民族の王朝である明が、満州族(女真族)の清に打倒(1662年)されたことを、中華が夷狄(いてき)に打倒されて変貌を余儀なくされているととらえたものである。

 幕府は唐人風説書から中国の政治、経済、社会情勢のほか、医学、薬学、植物、動物などの科学知識も入手した。

▼ オランダ風説書

一方、オランダ船の来航のたびにオランダ商館長が提出するものを「オランダ風説書」という。この風説書は、商館長(カピタン)が口述したものを、通詞(通訳)が日本語に翻訳して作成した。これが海外の情報を知るための貴重な情報源となった。1644年(正保元年)から1856年(安政3年)までの213年間には、計250件の「オランダ風説書」が現存した。

同風説書の内容で最も重要なものはスペインとポルトガルに関する情報であった。なぜならば、幕府はスペイン・ポルトガルがキリスト教の布教によって日本を侵略することを強く警戒していたからである。その後は逐次に情報関心が欧州、インド、中国などに拡大して、これらの内容もオランダ風説書に含まれていった。

  オランダ風説書は唐人風説書よりも重要度が高く、オランダ船が入港するとすぐに飛脚を飛ばし、その情報は江戸に伝えられた。幕府はオランダ風説書によって、西欧の情報を知った。

また、オランダ商館長が自ら将軍の下に参上する機会を設定し、幕府はこれにより西欧の情報を得た。1633年からオランダ人の江戸参府(さんぷ)が定期的に行われ、それ以降、あわせて167回の参府のうち150回くらいまでは、毎年1回の参府であった。

▼ 別段風説書

長崎で作られるオランダ風説書のほかに、パタヴィア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)の植民地政庁で作られた風説書を「別段風説書」という。この風説書は、植民地政庁がアヘン戦争の影響を幕府に知らせて方が良いと判断したことから、1840年から提供された。

別段風説書はオランダ語で作成され日本語に翻訳された。1845年までの別段風説書は主としてイギリスと清国とのアヘン戦争の関連情報が書かれていた。しかし、46年からは、アヘン戦争関係に限らず、世界的な情報が提供されるようになった。

以上のように、日本は1639年のポルトガル船入港禁止以来、ペリーの黒船が来航(1853年)し開国を迫るまで、ずっと鎖国を続けたが、アダムズ、カビタン、風説書などによって海外情報を入手する努力は続けていた。

▼ 鎖国時代においても世界の重大事件のことは知っていた

むろん、主な情報源は中国、オランダといった限定的なものではあったが、1789年のフランス革命のこともオランダ風説書により知っていた。そして1952年には、アメリカのペリーが翌年に来航(1953年)することも知っていた。

海外への大いなる関心はあったが、キリスト教の普及によって日本が侵略されること、そして海外貿易によって各地の大名が権力基盤を増大させて、幕府の安定を損なうことを警戒し、鎖国主義を取らざるを得なかった。

結果、260年の安定政権が継続し、国内では絢爛たる日本文化が栄えたことを見るならば、江戸幕府は決してインテリジェンス音痴ではなかったということがわかろう。

体操界に走った激震

度重なるスポーツ界の不祥事

昨年から、大相撲、ラグビー、レスリング、ボクシング、そして今回の体操とスポーツ界が揺れています。いずれも、暴力やパワハラがらみです。大相撲を除いては、権力を握っている体制派の方がマスコミやインターネットで叩かれて敗北しています。

宮川選手の「勇気」ある行動

今回の宮川紗江(18歳)選手の事件は少し変わっています。彼女のコーチである速水佑斗氏が暴力を振ったということで、体操協会側の塚原夫妻が、同コーチを無期限登録抹消にしました。

今日、格闘技といえどもスポーツ指導における暴力行為は“絶対悪”です。ですから、暴力を振ったコーチは体操界から追放、ということで一見落着をみるのが普通だったのかもしれません。塚原千恵子・女子強化本部長も、暴力追放という時流を捉え、ここぞとばかりに速水コーチと宮川選手の関係を引き裂き、将来有望な彼女に対するコーチングの主導権を握ろうとしたのかもしれません。

しかし、宮川選手は、暴力振るわれたことは事実であるが、速水コーチに対する協会側処分は重い、私は速水コーチに対する処分を求めていないし、これまでどおり速水コーチの指導を受けたい、旨の発言をしました。

さらに、塚原夫妻に「あのコーチから指導を受けるのはだめ。・・・・・・これでは五輪にも出れなくなる」などの強圧的な発言を受けた旨を明らかにして、「これは権力を使ったパワハラだった」旨を訴えたのです。

これに対し、一部(?)の体操関係者や元選手が宮川選手に対する支持を表明し、マスコミや世論は「18歳の少女の勇気ある行動」と挙って賛辞を送りました。

一方の塚原夫妻は当初、宮川選手の発言をほぼ全面的に否定して、徹底抗戦の構えさえ見せていました。しかし、関係者や世論がアンチ塚原で結集し、体制不利になりつつあることに恐れをなしてか、自らの非を認めて、謝罪する方向に戦術を転じました。

これまで、たびたび見てきた食品偽装問題のように、次第に立場が悪くなると、小出しに謝罪するといった“歯切れの悪さ”を、塚原夫妻の対応には感じました。

一方の、宮川選手の態度はまことに堂々としており、発言の論旨も明快です。前回のラグビー事件においても、悪質タックルを行った日大選手の謝罪態度がりっぱであったため、問題を起こした行為者でありながらも、ぎゃくに世間の評価を受けました。今回はこれと似たものがありました。

インテリジェンスの視点から考える

誤解のないように先に言っておきますが、私は宮川選手に心情的に味方するものです。また、私自信は今回の事件の真相はおそくらく、塚原夫妻のパワハラなんだろうなと思っています。しかし、インテリジェンスの視点から言えば、情報分析の客観性を保持するためには、「18歳の女の子が嘘をつくとは思えない」といった、固定観念に支配された見方には気付けなければなりません。

18歳といえば、2016年の法改正により選挙権もあり、まもなく民法上の成人になる予定です。今回の事件はさて置き、物事を「大人」対「子供」、「悪代官」対「善良な市民」といった構図に単純化することは客観的ではありません。18歳でもしっかりと物事を判断できる人、ぎゃくに20歳を超えた成人でも無責任な言動しか取れない者は存在します。

一方の塚原夫妻、とくに千恵子・女子強化本部長の恰幅、どうどうたる態度はまさに女帝を思わせます。こうした外見が、世間をして、よりいっそう権力を使ったパワハラを連想させます。過去のさまざまな経緯からも、塚原夫妻に対するイメージはよくありません。ただし、真実を追求し、問題解決を図るためには、第三者委員会などによる客観的な検証は必要だということでしょう。

ハロー効果とは

内実が分からない者が第一印象をもって、物事の判断をすることを「ハロー効果」といいます。これは社会心理学の現象で「認知バイアス」と呼ばれるものの一つに該当します。物事の真実の解明を歪める要因であり、情報分析を行う上で回避すべきものとされています。とかく、日本人は「ハロー効果」のバイアスに陥りやすいとされます。

ハロー効果とは、ある対象を評価する際、対象者が持つ目立ちやすい特徴にひっぱられ、その他についての評価にバイアスがかかり歪んでしまうことです。なお、「ハロー」とは絵画で聖人やイエスキリストの頭上や後ろに描かれる後輪のことです。

ハロー効果には、ネガティブ効果とポジティブ効果があります。高学歴、高身長、ハンサムなどをポジティブに評価して、「仕事ができる」「パートナーとしてやっていける」など判断する。逆に、服装や態度がよくないと、「仕事ができない」とみられるケースが多いようです。第一印象が大事ということですが、これが単なる思い込みで、失敗したというケースは多々あります。

国際情勢の分析においても、ハロー効果における誤りが多々みられます。金正恩氏が叔父を粛清した、実兄を殺害したとのニュースが飛び交うと、「何をするかわからないやつだ、核実験を強行し、ミサイルを装備する。こんなやつとの外交交渉はあり得ない」との判断が横行します。

ぎゃくに、金正恩氏が李雪主(リソルジュ)夫人同伴で腕を組みながら、国際社会の場に登場すると、たちまち、「正恩氏は賢明で普通の常識を持った指導者だ。外交交渉による非核化の実現の可能性がある」などといったような評価に一変します。

今回の体操事件はさておき、人物評価においては外見を見て惑わされるのではなく、しっかりとした人物研究や過去の行動研究こそが重要であることを認識しましょう。

わが国の情報史(7)

260年の安定した江戸時代を築いた徳川家康

▼ 徳川家康は「泣かぬなら、殺してしまえホトトギス」

徳川家康は「泣かぬなら、泣くまで待とうホトトギス」で有名である。織田信長が「泣かぬなら、殺してしまえホトトギス」、豊臣秀吉が「泣かぬなら、泣かせてみようホトトギス」であるから、家康は辛抱強く、温厚な人物であるかのような錯覚に陥る。

たしかに、家康は幼少期に今川家や織田家の人質として預けられ、成年になってからは“忍の一字”で辛抱した苦労人ではある。しかし、家康を世の不動な地位に高めた「関ヶ原の合戦」などの戦い方をみると、臨機における決断は鋭く、その合理的かつ非常な指揮ぶりからは、「家康こそが「泣かぬなら、殺してしまえホトトギス」であった」とさえいわれている。

生誕年は信長が1534年、秀吉が37年、家康が43年となっている。信長は「桶狭間の戦い」(1560年)で今川義元(1519~60)を破って天下に名を成したが、その時の齢(よわい)は26歳である。

一方の義元は41歳であるから、現在の自衛隊に例えるならば、幹部になりたてのペイペイの新米小隊長が、脂の乗り切った、歴戦練磨の中隊長に勝利したようなものである。まさに、伏兵が大物を仕留めたのである。

そして、その最大の勝因がインテリジェンスであったことはすでに述べたとおりである(わが国の情報史(5))。

一方の秀吉は当時24歳であり、その2年前に今川家から出奔(しゅっぽん)して信長に仕え、この「桶狭間の戦い」に参加した。秀吉は、作戦戦場となっていた駿河と三河といった今川領の事情に詳しかったため、おそらくは対今川の情報収集の担い手の一人として活躍したとみられる(わが国の情報史(6))。

つまり「桶狭間の戦い」は、のちに天下人となる信長と秀吉がインテリジェンスを駆使して、天下取りに最も近いとされていた義元を破ったということだ。すなわち、インテリジェンスが、兵力や戦術・戦法を凌いだ戦いであった。

さて「桶狭間の戦い」で、今回の主人公である家康はどうしていたのか?彼はこの頃松平元康を名乗り、なんと若干17歳にして、三河勢を率いる今川軍の先鋒隊として、織田軍の城壁を次々と陥落させていたのである。

家康の初陣はさらにその2年前の15歳の時である。信長、秀吉でもなく、家康こそが“早熟の天才軍事指揮官”だったのである。

家康は、その後もたびたび戦場に赴く。武田信玄との「三方ケ原の合戦」(1573年)では完膚なきまでに叩かれた(わが国の情報史(4))。その後も、数々の危機状況に瀕したが、しぶとい負けない戦いをして、のし上がっていくことになる。

徳川家康、豊臣の5大老のトップになる

 「桶狭間の戦い」で今川義元が討死にしたことを契機に、家康は今川氏から独立して信長と同盟を結び、三河国・遠江に版図(はんと)を広げた。

1582年、「本能寺の変」において信長が明智光秀に討たれ死ぬと、家康は甲斐

国・信濃国を収めた。

信長の死後は豊臣秀吉(羽柴秀吉)が台頭する。1584年の「小牧・長久手の戦い」では、家康は織田信雄(おだのぶかつ、信長の子供)と連合して豊臣軍と戦い、かろうじて引き分けに持ち込む。ただし、この戦いで家康は秀吉に臣従(しんじゅう)することになる。

小田原征伐(1590年)を秀吉から託された家康は、北条氏政(氏康の子)を滅ぼし、関東に移り住み、約250万石の領地を支配する大名となった。

かくして豊臣家の五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)の筆頭地位を得ることになったのである。

▼石田三成の挙兵

 秀吉は1598年の朝鮮出兵の最中に発病した。病床から五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)を呼び寄せ、「自分の死後は宿怨を捨てて、息子の秀頼を盛り立ててくれ」と命じた。しかし、5奉行の中には「私怨は解きがたい」と述べる者もいたほど、仲が悪かった。

こうしたなか秀吉はついに死亡する。慶長3年(1598年)8月18日のことである。この時、愛息の秀頼はわずか6歳であった。

家康の求心力が急速に高まった。それでも徳望においては前田利家にかなわなかった。だから利家の生存中には家康は隠忍自戒に努めた。しかし、その利家が死亡(1599年4月)すると、家康は各種の手段を講じて秀吉にとって代わろうとした。

これに対し、石田三成が家康の台頭に抵抗した。しかし、上述のように5奉行は一枚岩ではない。しかも三成は嫌われ者であって、豊臣家の武将7名(福島正則、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長)によって暗殺未遂事件を起こされる始末であった。

この内紛を仲裁したのも家康であった。ますます家康の勢力が強まった。三成が暗殺未遂事件で失脚すると、家康は豊臣家の中枢であった大阪城に入城し、自ら政務を司った。このため、家康と五奉行の対立が深まることになった。

そうこうしているうち、前田利長(前田利家亡き後の前田家の頭首)と浅野長政による「家康暗殺未遂事件」が起きる。これが発覚し、前田家と浅野家は家康に従うことになった。

さらに家康は、五大老の一人である上杉景勝が反抗的であるとみるや、5万人の兵を率いて会津にいる景勝の討伐(会津攻め)を開始した。時は慶長5年6月のことである。

家康の会津攻めで大阪城には徳川派がいなくなった。これを千載一遇のチャンスとみた三成は、増田長盛、小西行長などと相談し、家康打倒のための有力諸兵を集めて挙兵する。これは、家康が福島らとともに会津に向かう途上の慶長5年(1600年)7月15日、関ヶ原の合戦の2か月前のことであった。

▼会津の上杉景勝との情報戦

三成の家康打倒の狼煙を受けて、中国地方を収めていた毛利輝元(元就の子)が1万の兵を率いて、秀頼のいる大阪城に入城した。たちまち各国の大名や武将がこれを支持し、三成が組織した西軍は10万人に膨れ上がった。

三成の挙兵を聞いた家康は、想定外の事態ではなかったが、さすがに10万の軍勢には大いなる危惧心を覚えた。しかも、秀頼を表に立てて、政権の正統性を世に訴え、家康を謀反者の地位に貶めたのであるから尋常ではない。

しかし、類まれな家康のインテリジェンス・リテラシーがこの窮地を脱することになる。

家康軍は慶長5年(1960年)7月24日、小山(現在の栃木県小山市)で作戦会議を開いた(小山評定)。福島正則、黒田長政、細川忠興、山内一豊らが三成の討伐を決断し、兵を反転させ、西へと向かうことを決断した。

この時の最大の懸念が、西に反転した家康の軍勢を上杉景勝が背後から追跡し、家康軍は三成軍と景勝軍によって挟撃されることであった。

しかし、景勝は結局、徳川相手に何もしなかった。実は、上杉景勝は動くにも動けなかったのである。なぜならば、会津の背後には、仙台の伊達正宗と、山形の最上義光がいたからである。

家康は連絡員を派遣し、伊達、最上と連絡を取り合っていた。つまり、家康は景勝が政宗や義光を警戒して南進しないと判断し、一挙に軍勢を西に向けたのである。

これは、のちにスターリンの情勢判断と共通するものがある。1940年代初頭、スターリンはゾルゲの日本における情報活動などを通して、日本軍が南進すると判断し、一挙にヒトラー軍との決戦をおこなうために極東の兵力を欧州方面に転用した。

如何にして二正面作戦を回避するかはいつの時代も戦勝の要訣である。そのためには、卓越したインテリジェンス・リテラシーと的確な情勢判断が重要なのである。

▼関ヶ原の合戦を前にした心理作戦

慶長5年8月1日、西軍は家康の家臣が守る京都の伏見城を落とし、岐阜の大垣城へと向かった。

 一方の東軍は、福島正則が先方隊となり、東海道を西進し、岐阜の清州城へ入城した。しかし、家康は江戸城に籠もって一向に動こうとしなかった。

これに腹を立てた正則は、自ら戦果を得るべく、8月21日、清州城を出て、難攻不落と言われた岐阜城をわずか半日で攻め落とした。さらには、西軍が陣取る大垣城まで4㎞の美濃赤坂に兵力を展開した。

その頃、家康は約1か月の間、江戸城に籠もっていた。そこで何をしてかというと、諸国の大名や福島、黒田、細川ら一人一人に書状を書いていたのである。

というのは、福島、黒田らは徳川派の武将ではなく、秀吉に忠誠を誓った豊臣派の大名である。福島、黒田らが三成と仲が悪いのを利用して、家康に加担したに過ぎない。だから、家康は彼らが寝返る可能性があると懸念していた。

そのため、家康は一人一人に対する書状によって彼の離反を防ぐとともに、彼らの真意を見極めていた。また、戦勝の暁には十分な報償を与えることを約束し、彼らの懐柔工作に余念がなかった。つまり、心理戦によって豊臣派の武将を三成軍と戦わせるよう仕向けたのである。

▼戦場の関ヶ原に集結

慶長5年9月1日、家康は徳川約3万の兵を率いて江戸城を出発した。東海道を西進し、同月11日、清州に到着した。清州において、徳川の主力部隊36000を率いて中仙道を西進する秀忠(家康の次男)軍と合流し、西軍との決戦に臨むという計画であった。

しかし、ここで予想外のことが起きた。秀忠軍は信州上田において、小山評定の後に忽然と姿をくらました真田昌幸(さなだまさゆき)の軍勢に進軍を妨害されていたのである。だから、家康がいくら待ってもて、秀忠は清州に到着しなかったのである。

このままでは西軍が数の上でも有利であり、しかも戦場に先に到着して、東軍を包囲する体制を敷いていた。

家康は、秀忠軍のさらに到着を待つか、それとも現在の集結兵力で決選に臨むか、思案に暮れた。そこで家康の出した結論は決選に臨むであった。

ここに「天下分け目の戦い」と呼ばれる関ヶ原の合戦が生起した。三成率いる西軍は総勢8万人、家康率いる東軍は総勢7万人である(資料によりかなりバラツキあり)。

東軍の主力は福島正則、黒田長政、細川忠興、池田長政らである。一方の西軍は毛利輝元、宇喜田秀家、大谷吉継、小早川秀秋らである。

正則の部隊が秀家の部隊に発砲したことで、戦いの火蓋はきられた。軍勢では西軍有利かに見られた。しかし、実は戦争開始になったら東側に寝返るよう小早川秀秋、脇坂安治、吉川広家らは調略を受けていたのである。

つまり、家康が秀忠の到着を待たずして決戦に臨むことを決断したのは、秀秋らの寝返りを算定していたからである。

小早川秀秋は15000人の兵をつれ戦場の緊要地形を支配していた。だから彼が西軍の脇腹を突く形で攻撃すれば形成は一挙に変わる。しかし、戦いの火ぶたが切られても秀秋は一向に動こうとしない。というのは、予想外にも三成軍が健闘し東軍と“五分五分”の戦いを演じていたからである。つまり、秀秋は勝ち馬に乗ろうと企んでいたのである。

この様子をみて激怒した家康は、鉄砲隊に秀秋の陣を目がけては発砲するよう命じた。この発砲が“導火線”となり、秀明は西軍を裏切って、大谷吉継の陣に突撃した。脇坂や吉川もこれに続いた。

かくして戦況は一挙に東軍有利に傾き、まもなく西軍は総崩れとなった。戦いはわずか半日にして東軍の大勝利となったのである。

 このように関ヶ原の合戦はわずか半日で終わったが、実は家康が戦勝した要因は情報戦にあった。上述のような寝返り工作に加え、三成とともに西軍の軍事計画を立てた増田長盛を内通者として獲得していた。家康は長盛を通じて、西軍の軍事計画や事前の動きを入手していたのである。

大阪の夏の陣

徳川家康は関ヶ原の合戦で勝利した。東軍とした戦った豊臣派の武将には多大な領地を報酬として分け与えた。家康は信長や秀吉の中央集権型の国家ではなく、地方分権型の国家の創設を目指した。

1603年、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。家康は、娘の千姫を秀頼の下に嫁がせ、豊臣家の懐柔策を取った。

しかし、秀頼の母である淀が家康に抵抗した。淀を後ろ盾にした秀頼の権威が一向に落ちることはなかった。1613年頃から、徳川対豊臣の対立基調になっていた。

 秀頼を生かしておいては将来に禍根を残すと判断した家康は、1614年冬から1615年夏にかけての大阪の陣を引き起こし、ついには秀頼に自害を強要した。

ここに、徳川260年の安定政権の礎が確立されたのである。

わが国の情報史(6)

天下統一を達成した豊臣秀吉

▼情報家として出世街道を歩み始めた豊臣秀吉

豊臣(羽柴)秀吉は、尾張の地侍の家に生まれた。織田信長に仕えて次第に才能を発揮し、出世魚のように木下(藤吉郎)→羽柴→豊臣と苗字を改め、どんどんと出世し、やがて信長の有力家臣になった。

秀吉は、まず今川家に仕えるが出奔(しゅっぽん)し、信長に仕える。信長は1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破り、天下に名を知らしめるが、この時、織田軍のなかに秀吉がいたことは確かである。

秀吉は当時24歳、信長に仕えてまだ2年程度であり、おそらく足軽組頭をしていたとみられている。

ただ、対今川の情報収集の担い手の一人であった可能性は高い。戦国時代の史料である『武功世話』も、秀吉が駿河と三河といった今川領の事情に詳しかったことを伝えている。

つまり、秀吉が情報家として、信長の目に留まった可能性がある。これがのちのおおいなる出世の切っ掛けになったのだから、秀吉は戦における情報の価値を十分に認識したとみられる。

▼天下統一を達成した豊臣秀吉

秀吉が天下統一の歩みを開始するのは、織田信長の亡き後である。まず1582年、山城の「山崎の合戦」で、信長の敵となった明智光秀を討った。翌83年に信長の重臣であった柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで破り、大阪城を築いた。84年に尾張・長久手の戦いで織田信勝(のぶかつ、信長の次男)・徳川家康連合軍と戦った。この戦いは引き分けた。

1585年、朝廷から関白に任じられ、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)をくだして四国を平定し、86年に太政大臣に任じられ、豊臣の姓を与えられた。

そして、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を自らの裁量に従うよう強要した。これに違反したとして、87年に九州の島津義久を討った。90年に小田原の北条氏政を滅ぼし、同年に東北地方の伊達政宗を服属させ、ここに全国統一を成し遂げたのである。

▼秀吉の軍事的勝利を支えたもの

 秀吉は戦いにおける情報の価値を認識し、相手の弱点を捉え、謀略や外交交渉による「戦わずして勝つ」を追求した。

つまり、秀吉の軍事的勝利は、戦場での戦略に劣らず、敵に関する情報収集と、事前の周到な計画に負うところが大であった。彼は「孫子」の教訓に従ったが、これを独創的で巧妙極まる形に応用したのである。

 彼は、全国各地の情勢を把握するために、大勢の間諜からなる集団を組織して、全国津々浦々に間諜を派遣した。間諜はリレー方式により、秀吉のもとに最新の情報を届けた。現代でいう通信・連絡組織を確立した。

秀吉を支えた二人の有名な軍師がいる。その一人は美濃の国の竹中半兵衛(重治)である。半兵衛は当初は織田信長に敵対する斎藤家に仕えていたが、のちに信長側に寝返った。

秀吉がまだ信長の家来であった時、近江(おうみ)の浅井長政の攻めを担当した(1573年9月)。この際、半兵衛は秀吉に仕え、近江・美濃の国境に近いところの領主だった堀次郎の寝返りを成功させた。この内応が引き金となり、連鎖反応のように浅井家の家来が次々と寝返り、ついに浅井氏は戦う前から負けていたというわけである。以後、半兵衛を軍師として得た秀吉は、ますます謀略(調略)を重視するようになった。

▼秀吉、九州を平定す

 秀吉の九州征伐は、年表では1587年のことである。しかし、戦いそのものは1584年から始まっていた。

 この九州の平定においては、秀吉の諜報・謀略の才が如何なく発揮された。秀吉は間諜に命じて、より多くの情報を集めさせるだけでなく、住民の士気を挫く宣伝活動をさせるために、わざわざ進攻を1年以上も遅らせた。

また、彼が要求して入手した情報は、その土地の詳細な描写と地図、作物の収穫状況、食糧事情にとどまらず、大名とその軍隊との関係に関する報告も含まれていた。つまり、大名の家来を如何にして寝返らせるかといった視点からの内実情報を求めたのである。

この九州の平定において、1514年10月にこの地に派遣したのが、半兵衛に勝るとも劣らない、もう一人の軍師の黒田官兵衛である。

 官兵衛は、北九州の諸大名に対して、「味方になれば本領を安堵しよう」、しかし、「敵対すれば、来年、秀吉殿が大軍を率いて攻め込んでくるので、滅亡させられるだろう」と脅した。

「本領安堵」という言葉に誘われて、諸大名は早々と秀吉に投降した。しかし、これは秀吉の詭弁であった。投降した一部の大名は無情にも転封(てんぽう、所領を別の場所に移すこと)を命ぜられた。

たとえば、豊前の国(ぶぜん、福岡県東部から大分県北部)の勇猛な武将である宇都宮鎮房(城井鎮房、きいしげふさ)は、官兵衛の求めに応じて秀吉の九州平定に協力したが、豊前の治めを任されたのは官兵衛であった。秀吉は鎮房に対し、伊予の国(愛媛)に転封を命じた。鎮房はこれを不服として官兵衛に立ち向かったが、鎮房は結局、謀殺されてしまった。

このように、秀吉は諜報・謀略を駆使して全国統一を進めたのであった。

▼秀吉、キリスト教禁止令を出す

 1590年、秀吉は宿願の日本統一を果たした。その後、徳川家康と同盟を結んだあと、海外に目を向け、日本からベトナム、マニラ、シャム向けの船積みを許可しはじめた。

 その頃、1549年に日本に初渡来したキリスト教宣教師たちは次々と日本人を改宗していった。秀吉は信長と同様に最初は、宣教師たちの布教を奨励した。しかし、長崎がイエズス会領となっていることに危機感を覚え、1587年7月、筑前箱崎において伴天連(バテレン)追放令を発令する。そして「スペイン国王がキリスト教宣教師をスパイに利用して、布教により他国を制圧していく」という話を聞き及び、ついに96年にキリスト教禁止令を発令し、ヨーロッパ人宣教師6名と日本人信者20名を処刑した。

スパイを利用して布教により他国を制圧する、これはまさに秀吉が天下統一のためにとった調略そのものであった。それゆえに、誰よりも布教による間接的侵略の恐ろしさを、秀吉は熟知していたのだろう。

 とはいえ、その後も秀吉は長崎での南蛮貿易を許可し、キリシタン大名である黒田孝高(くろだよしたか、黒田如水)と小西行長(こにしゆきなが)を大いに利用した。おそらくは、秀吉は一定のパイプだけは確保し、相手側の情報を入手する必要性を認識していたのだろう。

 話はそれるが、我が国は北朝鮮に対する制裁によって、北朝鮮との人的交流を自ら遮断した。このため、北朝鮮に対する高質のヒューミント情報を得られなくなったという。つくづくインテリジェンスは奥が深い。

▼秀吉、朝鮮出兵で敗北

 秀吉は1592年から98年にかけて2度にわたって朝鮮出兵を行った(文禄・慶長の役)。秀吉は朝鮮半島を経由して明に攻め込もうとした。この計2回の出兵で、秀吉は有力な配下の武将が率いる15万以上を派兵した。

92年の文禄の役は、当初は“破竹の勢い”であり、1か月で京城(ソウル)を攻め落し、2か月で北朝鮮のほぼ全域を支配した。しかし、明軍の援軍により、侵攻は停滞した。

秀吉はいったんは「和議」を結び派遣軍を撤退させたが、再び97年に朝鮮半島に軍を派遣した。しかし、秀吉は98年に病死し、派遣軍は朝鮮半島から撤退した。

この長期に及んだ遠征は惨憺たる失敗に終わった。この無謀ともいえる朝鮮出兵をなぜ秀吉がおこなったのか、諸説あって、真実は依然として謎である。

 一つの説ではあるが、秀吉は当時のスペインをはじめとするアジアへの侵略を阻止するため、日本の支配権を拡大し、軍事力を誇示することで対抗しようとした、との見方もある。

 ただし、伝えられる秀吉の数々の奇行から察するには、私利私欲にかられた無意味な戦いであったように思われる。

ともあれ、これにより、豊臣方は膨大な資金と兵力を損耗し、勢力を温存した徳川にとってかわられることになる。

インテリジェンスに長けた武将、豊臣秀吉であっても権力を握ると周りが見えなくなる。孫子でいう敵を知ること以上に己を知ることができなくなるのである。客観性を失えば、もはや有用なインテリジェンスを生まれないということであろう。