わが国の情報史(23)

大正期のインテリジェンス(その1)

▼光と影の大正期  

1912年(明治45年/大正)7月30日、明治天皇崩御の報が日本列島を駆けめぐった。ここに「明治」の御代は終わり大正が始まる。実際は、明治天皇は前日の29日の午後10時4 3分に崩御されたが、公式には2時間遅らせて30日の0時43 分とされた。  

その大正天皇は1926年(大正15年/昭和元年)12月2 5日に崩御された。この時、元号は「光文」と報じられたが、誤報として「昭和」に訂正された。おおらかな時代ではあった。  

大正はわずか14年半と短かかったこともあり、明治と昭和の 激動期に挟まれ、ともすれば注目度が薄い。しかし、インテリジェ ンスの歴史において、シーメンス事件、シベリア出兵、ワシント ン海軍軍縮会議など、決して無視してはならない事件・事案があ る。

大正は明治末の重苦しい時代から解き放たれて、「大正デモク ラシー」「大正ロマン」に象徴されるように社会全体は解放的で軽快なイメー ジがある。たしかに、そこにはサラリーマンを中心とした中間層の文化的な生活欲求によって生み出された明るい生活があった。  

しかし、社会のさまざまな局面で矛盾や問題が露呈していった。 中間層の生活の豊かさと、その影で深刻化する矛盾や問題の進行 という、“光と影”に彩られた大正期を駆け足で眺めてみよう。

▼世界史的には激動の時代  

世界史的にはまさに激動期といえるだろう。20世紀初頭の欧州は、英・仏・露などからなる三国協商と、独・墺・伊からなる三国同盟との両陣営の対立を軸として、複数の地域的対立を抱える複雑な国際関係を形成していった。  

そこに、1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がサ ラエボで銃撃された。これが第一次世界大戦の幕開けとなった。  

各国は英・仏・露からなる連合国と、独・墺・伊およびオスマ ン帝国からなる同盟国との両陣営に分かれ総力戦を展開した。中立を宣言していたアメリカまでもが1917年にドイツに宣戦布告する。

この戦争は1918年まで続き、おびただしい惨劇を出 して、やがて連合国の勝利で終わることになる。

わが国は日英同盟に基づき、連合国側に参戦し、中国大陸と太平洋地域のドイツ支配地(膠州湾の青島、マーシャル、マリアナ、 パラオ、カロリンのドイツ領北太平洋諸島)を攻撃したほか、ま た一部艦隊を地中海に派遣した。  

ドイツ権益を奪ったかたちの日本は、「対華21カ条の要求」 を出し、袁世凱政府にほぼその要求を呑ませた。これにより、日 本は山東半島などに中国大陸侵出の足場を築いた。また太平洋方 面でもドイツ領を委託統治領として獲得した。

しかし、このような大陸進出の本格的な動きを、アメリカ・イ ギリスが警戒して、日本の大陸政策をめぐる英米との対立の出発 点となったのである。

▼第一次世界大戦で戦訓を学ばなかった日本  

この大戦では、戦車戦や砲兵戦の重視、歩兵における機関銃の役割、炊事車の導入、隊員の休養、家族とのつながり、精神的ケ アなど、多くの学ぶべき戦訓があった。  

海上作戦においては、潜水艦戦と対潜作戦が重視された。この作戦とともに、敵の潜水艦の位置を突き止める熾烈な情報戦、とくに暗号解読戦が繰り広げられた。

空中作戦では新兵器として航空機が登場した。開戦時にはよう やく飛ぶのが精いっぱいであった戦闘機は、わずか4年の大戦中 に大きく進歩した。これにより、偵察飛行、水上機による基地攻 撃、爆撃機による都市爆撃が可能となった。このため、イギリス、 フランス、ドイツでは陸軍航空隊が組織として誕生した。

航空機のもたらす偵察情報はしばしば戦闘に大きな役割を果た し、砲兵観測は既存の直接射撃主体の砲兵の戦術を一新するなど、 航空機は陸戦の勝敗を決する上で非常に重要な兵科となった。

このように、第一次世界大戦は戦訓の宝庫であったが、わが国はあくまでも補助的な限定参加であったこともあり、真摯にその教訓を得ようとはしなかった。また、明治維新の功労者は一人、また一人と第一線を退き、こ の世を去ろうとしていた。つまり、そこには羅針盤のない“昭和丸”の暴風における船出が待っていたことになる。

▼第一次世界大戦で繰り広げられたスパイ戦  

第一次世界大戦を経験し、世界各国は軍事のみならず政治、経済、 思想などを総合的に駆使する総力戦の重要性を認識するに至った。  

戦争が総力戦になるにともない、スパイ戦も熾烈化していった。 この大戦では、ドイツと英・仏との間でも熾烈なスパイ戦争が繰 り広げられた。ドイツは英・仏に対してスパイを潜入させる工作を活発化させた。有名なところで、女性スパイのマタハリが世界 的に注目された。  

ドイツは中立国スペインなどを拠点に英・仏に対するスパイ活動を展開した。 他方、英国は優れたシギント(信号情報)機能を駆使するとと もにロシアの協力を得てドイツの暗号解読に成功し、大戦のほぼ全期間にわたってドイツの艦隊に関する情報を把握していた。  

中東方面では、イギリスから派遣された「アラビアのローレンス」こと、トーマス・エドワード・ローレンスは、オスマントル コに対するアラブ人の反乱工作を展開して、有名になった。  

しかし、わが国は専門の国家中央レベルの情報機関を設置するでもなし、日露戦争後からずっと諜報・謀略を組織的に管理するという方向も示さなかった。

昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯で あった。参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになった のは1926年(大正14年)末のことである。

▼シベリア出兵と日ソ基本条約  

大正期にはわが国とソ連との緊張と修復の関係が続いた。第一次世界大戦の末期、1917年に十一月革命(旧:10月革命)が勃発した。革命政府がドイツとの停戦に乗り出すことにな ると、アメリカ・イギリスなど連合国はロシア革命に干渉して革 命政府を倒し、対ドイツ戦争を継続する勢力を支援しようとした。

日本も同調し、1918年には日本軍もシベリア出兵を行ない、 シベリアで革命政府のパルチザンと戦い、途中、ニコライエフス ク事件で日本軍守備隊が全滅するなど、成果を上げられないまま、 22年までシベリアに留まった。  

1917年のロシア革命によって、日ソ両国は国交を断絶した。 しかし、ソビエト連邦の安定化とともに、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。  

基本条約の内容は、外交・領事関係の確立、内政の相互不干渉、 日露講和条約の有効性再確認、漁業資源に関する条約の維持確認および改訂、ソ連側天然資源の日本への利権供与を定めたものであった。日本は、軍を北樺太から撤退させる一方、北樺太の漁業 権と石油・石炭開発権を獲得した。  

当時、日本は共産主義への敵視が強かったため、シベリアから の撤兵後も国交正常化の動きには国内の右翼や外務省は反対した。 外務大臣の幣原喜重郎は、共産主義の宣伝の禁止を明文化して、 国交回復を実現した。

また1924年から、イギリスやイタリアがソ連と国交を回復 した。こうしたことから、1925年1月20日、日本はソ連と 日ソ基本条約を締結して、国交を正常化させた。  

他方、1921年のワシントン海軍軍縮会議の結果調印された 四カ国条約成立に伴って、日英同盟が1923年8月17日に失 効した。このことも、第二次世界大戦での敗戦の原因となった。

▼特務機関の設立  

わが国は米英の要請でシベリアに出兵した(1918~22年)。19 19年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、関東都督府 の陸軍部が、台湾軍、朝鮮軍、駐屯軍と同じく、関東軍として独 立した。  

じ来、満洲地方が日本の大陸進出の拠点として本格的に活用さ れるようになった。また、満洲は経済資源の宝庫であり、満洲事 変にはじまる日中戦争の発火源ともなった。  

陸軍史上初めて特務機関なる名称が登場したのはシベリア出兵 時に設立されたハルビン特務機関である。 初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、特務機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部付として発令された。

当初はウ ラジオストク、ハバロフスクなどに設置され、改廃・移動を繰り 返しながらシベリア出兵を支援した。  

黒沢準(くろさわひとし)少将が率いるハルビン特務機関はイ ルクーツク、ウラジオストク、ノボアレクセーエフカ、満洲里、 チチハルなどに駐在していた情報将校グループを統轄し、シベリ ア撤退後も現地に残って終戦まで情報収集にあたった。  

ハルビン特務機関の設置以降、わが国は中国大陸において諜報・ 謀略などの特殊任務(秘密戦)を担当する機関を次々と設置し、 これを特務機関と呼称した。なお、特務機関の名称の発案者は、 当時のオムスク機関長であった高柳保太郎(たかやなぎやすたろ う)陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳 とされる。 こうした特務機関を中心にした諜報・謀略活動は、昭和期の土 肥原賢二(どいはらけんじ)大佐などの特務活動へとつながるこ とになる。

中国の統一戦線工作(3)

はじめに

前回は、中国共産党が掲げる統一戦線とは何か、それがどのように日本に持ち込まれたか、統一戦線の国際版である国際統一戦線がどのような理論で進められたか、などについて言及しました。 今回は、その最終回です。

▼日本共産党を通じた指導工作

1950年6月の朝鮮戦争勃発によりGHQから赤旗が発刊停止処分を受けます。この苦境から脱するために徳田球一と野坂参三は中国に密航し、在外組織「北京機関」を創設します。 同機関は『自由日本放送』を開始し、1955年12月末まで、北京から同放送を通じて日本共産党に対して平和運動などに関する革命戦術指導を行ないました。

朝鮮戦争が一段落した1951年、中国は中央対外連絡部を設立し、世界の共産党との間に対外交流関係を樹立し、さらなる革命運動支援を展開します。 対外連絡部の初代部長は、かつての八露軍総政治部主任として対日工作に携わっていた王稼祥です。

彼は1949年の建国後は初代のソ連大使として赴任し、同地でコミンフォルムから影響を受けました。彼によってソ連共産党の統一戦線と中国の伝統的な統一戦線との理論的結合がなされ、それが対外工作や対日工作に活用されていきます。

副部長には廖承志、李初梨などの日本留学組が就きました。この陣容からみても、当時の中国共産党がいかに国際統一戦線の一環としての対日工作を重要視していたかがうかがえます。

中国共産党は日本共産党に対して、工作のための資金援助も行いました。米政府による「機密指定」が解除された『CIA報告書』によれば、1950~60年代、日本共産党は旧ソ連や中国から多い年で年間40万ドルの資金提供を受けたとされます。

これは、当時の日本共産党の年間資金額の4分の1に達しました。日本共産党への資金提供は日本当局の監視を逃れるために様々な偽装工作が施され、香港経由で受け渡されたといいます。

▼中国共産党による帰還兵の運用

さらに中国共産党による革命工作の驚くべき実態に目をむけてみましょう。

中国共産党は中国国内に教育機関を設置し、そこで立場の弱い日本軍の帰還兵を洗脳的に教育し、帰還兵を日本国内における革命遂行の中核とする戦術を採用しました。

そして日本国内に対日工作組織を設置し、米軍などに関する情報収集と日本共産党への指導・監視を行う一方、日本共産党に対する資金と武器提供を行ったというのです。

また、帰還兵を使って米軍施設に侵入させて米軍情報を入手させたほか日本国内における武装蜂起準備などを指示したといいます。

1953年から57年4月までの間、北京郊外にマルクス・レーニン主義学院が設立され、ここでは中国に抑留されていた日本人や密出国した日本共産党党員に対する革命教育が行われた模様です。

1956年から57年にかけて日本各地で交番襲撃、火炎瓶闘争、山村ゲリラ闘争などの非合法闘争が展開されますが、その首謀者はマルクス・レーニン主義学院の教育修了者であったとされます。

▼人事交流を通じた革命支援基盤の形成

では「統一戦線」の表のソフト部分を構成する人事交流についてみてみましよう。

1954年10月の国慶節に際し、日中友好協会の学術代表団と婦人代表団が民間旅券で中国に訪問しました。これにより正式な人事交流が開始されました。その後、超党派の国会議員からなる総勢100名近い日本代表団が訪中しました。

中国側からは1954年10月に中国紅十字会代表の李徳全(馮玉祥夫人)以下10名が、戦争犯罪人名簿などを携行して来日しました。この来日の表向きの目的は、日中戦争後なお中国にとらわれていたB、C級戦犯1000人を日本に速やかに帰国させることでした。

李氏は日中友好の使者として来日します。女性代表、赤十字といった、おおいに友好ムードを装いました。しかし、この訪日には対日工作専門家である廖承志と呉学文が随行しました。彼らは日本共産党との連絡調整に当たりました。つまり、日本共産党がこの来日のお膳立てに関わっていました。

そして、背後では中国において多くの帰還兵が革命教育を受けていたのです。すなわち、帰還兵を通じての暴力革命の準備が行われていたのです。つまり、表では日中友好交流というソフト戦術を繰り広げ、その水面下では暴力的な革命工作が着々と仕掛けられていたのです。

これが「統一戦線」工作の実態なのです。

▼親中派、左翼勢力の取り込み 

統一戦線工作は日本共産党以外の親中派の取り込みにも余念がありません。統一戦線工作はあらゆる勢力をターゲットする。これも統一戦線工作の特徴です。

日米関係を重視する岸信介内閣が1957年に誕生しました。これにより日中関係は急速に悪化します。 岸内閣が日米安保条約改定に動き出すやいなや、中国はこれを「敵視政策」「日本軍国主義の復活」として攻撃しました。また、条約改定反対闘争を画策することを目的として、反政府側要人の招聘工作に乗り出したのです。

1959年には日本共産党代表、社会党代表、日本原水協代表及び総評の代表者がこぞって訪中しました。浅沼稲次郎・社会党書記長による訪中においては、中国人民外交学会代表団との間で「米国帝国主義は中日両国人民の共同敵であり、米帝国主義の支配から抜け出し、共同して戦う」ことをうたう共同声明が発表されました。

一方の中国側は1960年8月の第15回総評大会及び第6回原水禁世界大会に10名の訪問団を来日させました。1961年以降は労働者、青年、作家、法律家、婦人などの各種の人民団体を来日させ、その引き換えに日本の親中派、左翼勢力を中国に続々と招聘しました。

中国がこうした対日工作を強化した背景には、中ソ対立という国際秩序の変化がありました。中国共産党は日本国内でソ連勢力が浸透しないように、原水禁世界大会などに中国代表団を日本に送りました。

同時に、ソ連路線に近い社会党、総評及び労組の代表者を中国に招聘して、親中・反ソの宣伝工作と洗脳教育を行なおうとしたのです。

▼日中貿易を通じた指導、援助

中国による対日工作は人事交流のほかに経済も活用されました。あらゆる手段を総合的に駆使するのが統一戦線のさらなる特徴の一つです。その動向を見てみましょう。

岸内閣から池田隼人内閣に移行して、日中関係は雪解けへと向かいました。その結果、1962年からLT貿易(日中の責任者である廖承志、高碕達之助の頭文字)が開始されます。

しかしながら、経済交流とは名ばかりでした。LT貿易の基本的構造は日本の「友好商社」と、中国対外貿易部傘下の「輸出入公司」との間で行われる、特定間の交流にすぎなかったのです。

友好商社とは、中国側から「政治的に合格」と認められた一部の中小企業のことです。当然、日本共産党及び社会党などの親中政党と強い結びつきがありました。
たとえば、当時の友好商社の御三家といわれていた睦、羽賀通商及び三進交易の3社の社長及び幹部社員はいずれも日本共産党の党員でした。  

 日中貿易は中国共産党による革命政党の拡大を支援する構図となっていました。つまり中国共産党が友好商社に対して取引条件などの特別優遇措置を与えます。この引き換えに、取引額、利益の中から一定額を友好商社が日本共産党や日中友好協会に献金する仕組みが作られたことが、判明しています。

また友好商社による日中貿易は政治思想教育の場でもありました。友好商社と「輸出入公司」の商談は、友好商社代表が毎年春秋2回、広州で行われる広州交易会に出張し、中国側の代表と協議するというスタイルでした。

広州交易会においては毛沢東語録の朗読や、「米帝国主義打倒」「ソ連修正主義打倒」などのプラカード掲げたデモ行進などが義務付けられたのです。  

LT貿易に伴い、1964年、中国展が東京と大阪で開催されました。同開催場では毛沢東を賛美する写真、刺繍、展示物が飾られ、中・小学校の社会科見学や、一般市民や零細企業の労働者などの参観が行われました。さながら政治学集会の様相を呈したのです。

▼各種出版物等を通じた大衆宣伝

統一戦線工作において手段としての宣伝工作は極めて重要です(中国の統一戦線工作(2)参照)。 中国共産党は日本の一般大衆に対する宣伝工作にも余念がありませんでした。

このための宣伝武器として大いに活用されたのが『人民中国』、『中国画報』及び『北京週報』のいわゆる対日宣伝三誌でした。 これら宣伝紙は、1950年代から60年代末にかけて、日本の一般大衆に向け、中国の歴史文化などを紹介しました。

この傍らでは、反米・反帝国主義闘争の体験談、社会主義の成果、各国人民との親善交流、毛沢東主義に対する賛歌、中国共産党の内外政策に関する論文などを織り交ぜた記事を発信しました。

当時の主要三誌の販売においては、日中友好協会が積極的な役割を果たし、その誌代は日中友好協会自体の収入源となっていたといいます。

このほかの対日宣伝工作として観光事業が挙げられます。1964年半ばから、中国共産党は日本からの観光団の受け入れを開始しました。そのため、中国旅行を取り扱う日本側の旅行会社が設立されました。これは、いうまでもなく日本共産党系列です。

かくして1965年から日本人観光団の訪中が行われたのです。 中国側は、旅行者に対して中国各地の都市や革命遺跡などを見学させ、社会主義中国の発展振りや、雄大な自然と長大な歴史を誇示しました。

旅行日程には毛沢東思想の勉強、日本による対米従属への非難、民間レベルの国交回復運動などの政治カリキュラムが組まれていました。

友好貿易と同様に日本側の旅行会社に対しては、旅行費用の一部がキックバックされ、日本共産党の資金に運用されたようです。

▼日本共産党以外の政党に対する接近

1966年、中国共産党と日本共産党との関係は宮本顕治・書記長の訪中(1966.2~66・4)により決裂しました。 中国共産党にとって革命同士であった日本共産党を失ったことは大きな痛手となりました。

しかし、中国共産党は傷心を振り払うかのごとく、日本共産党を分裂させ親中勢力を取り込む工作に打ってでました。 これは、まさしく「敵を分裂させ、その中から味方を取り込む」という統一戦線の応用であったわけです。

中国共産党は、まず日本共産党及びその外郭団体の内部分裂を画策しました。そして、そこから除名、除外された親中派人物や団体の取り込みを図ったのです。 その成果が表れ、日本共産党系の「日中友好協会」を分裂させ、新たに非日本共産党系の「日中友好協会(正統)本部」を結成することに成功します。

日中貿易の窓口であった日本共産党系の「日中貿易促進会」を解散させ、もう一方の窓口「日本国際貿易促進協会」は日本共産党系を排除し、親中派の元日本共産党党員らで構成される組織として再結成しました。

中国共産党は日本共産党分裂工作に加え、社会党左派勢力に対して接近しました。同派の国会議員団を招待し、社会党が毛沢東路線の下で一体化するよう教導・感化しました。こうした訪中議員団は『毛沢東語録』を日本に持ち帰り、日本版『毛沢東語録』として日本国内で販売するなどの活動を行いました。

中国共産党は保守派政治家への接近も図りました。親米派の保守本流に対しては「反動派」として徹底した闘争方針をとりましたが、反主流派に対しては親睦を名目とした接近や招待工作を強化しました。

1961年1月の社会党黒田寿男の訪中に際して、毛沢東は次のように述べます。

「日本政府の内部は足並みがそろっていない。いわゆる主流派と反主流派があって彼らは完全に一致していない。たとえば、松村、石橋、高碕などの派閥はわれわれの言葉でいえば間接の同盟軍である。あなた方にとって、中国の人民は直接の同盟軍であり、人民党内部の矛盾は間接の同盟軍である。彼らの割れ目が拡大し対立し衝突することは人民に有利だ」

そのほか中国は創価学会への接近を開始しました。当時、創価学会は既に1000万近い膨大な会員数を抱えていました。その利用価値を認識し、周恩来総理は廖承志に対して創価学会を最大限に利用すること指示したといいます。

▼中国の統一戦線工作に対する戦いが開始

以上、3回にわたって「統一戦線」とは何か、中国共産党が「国際統一戦線」理論をもとにいかなる対日工作を展開したのか、などをざっと述べてきました。 ここで注意すべきは、中国共産党による「国際統一戦線」の発想は現在も健在だということです。

中国共産党はかつて「親ソ反米」から「反ソ親米」に転換しました。今日は再びロシアとの戦略的パートナーシップを確立して対米牽制に出ています。 その一方で、歴史認識問題などにおいては、中国は米国とも統一戦線を模索して日本を牽制する動きも見せています。 さらには広範囲の結集を狙いに欧州にも働きかけを行っています。

たとえば習近平主席は2014年3月のドイツ訪問時、ベルリンのホローコスト記念館への視察を打診しました(これはドイツ側から断られた)。 おそらく、習主席は同記念館を訪問し「ナチスの歴史を深く反省したドイツ」を賞賛し、それと対比し「軍国主義と侵略の歴史を反省しない日本」との違いを浮き彫りにする狙いがあったのでしょう。 

中国は現在、孔子学院の世界的な展開や「一帯一路」を掲げて経済力を梃子など、ソフト戦略を前面に出して広範囲に友人関係を構築しようとしています。 しかしその影では非合法な諜報活動によって米国などの最新技術の取得によってテクロノジーでの優位に立つことを狙っています。そして巧みな政治工作によって米国の一強支配を打破しようとしています。すなわち、統一戦線工作によって優位に立とうとしています。

こうした動きが、ついに今日の貿易戦争とよばれる米中対立となって噴出し始めたのです。

今日の米中対立は「米国ファースト」を掲げるトランプ大統領が、貿易不均衡を是正して米国の労働者を擁護するという、表面上は貿易戦争の様相がみられます。

しかし、これは単なる経済戦争にとどまるものではありません。中国によるAI、ビッグデータ、自動走行車、集積回路、3Dの技術盗用によって、中国が米国の技術的地位を脅かしている。さらには米国やその他におけるあらゆる階層にチャイナロビーを浸透させて、米国の政治的地位を脅かしている。これを放置しておくと、米国主導の国際秩序は崩壊しかねない。 「今対処しなければ、とんでもないことになる。中国の『ユナイテッド・フロント』に飲み込まれてしまう」

このような危機感が米国指導者の共通認識となっているとみられます。つまり、“中国覇権主義”という世界的な浸透への防波堤をいま築かねばならないということなのです。

そうはいっても米国も中国も全面的対決には至らないでしょう。表面的には、その都度、丁々発止のやり取りが行われ、外交合意はなされていくでしょう。それが相互依存関係、グローバル化の特質というものです。

だからこそ、水面下での優位性を追求するインテリジェンス戦争が展開されます。これが「統一戦線」工作をめぐる米中の対立の兆しというわけです。

米国は世界的な規模での孔子学院の追放、世界第2位の携帯電話会社ファーウェーの締め出しを開始しました。これらは、米国が中国の統一戦線工作に対して多面的な戦いが開始した、一つの兆候といえそうです。

▼わが国が注意すべきこと

米中関係がきな臭くなると中国は早速日本に秋波を送ってきます。これが、現在の日中関係の改善の兆しとなっています。 こうした中国のやり方は、まさに古森氏が指摘する統一戦線の理論実践にほかなりません。

わが国は、今後も中国の多面的・多角的な対日工作に留意することが重要です。とくにソフトイメージ戦略のもとにすすめられる思想・文化の対日浸透、あらゆる階層と領域に対する、大容量の人力とサイバーを活用した諜報活動、これによるテクノロジー盗用にはとくに注意が必要です。

また、日本共産党に対しても注意を怠らないことが必要でしょう。 日本共産党が政党として、行き過ぎた独裁政治を牽制するために政治活動を行っている限りでは問題はありません。しかし、その行動の先にある真の狙いに対して常に注視する必要があります。

日本共産党は1966年に中国共産党と分裂しました。それ以降、独自路線の推進を強調しています。1998年の関係修復以後も一定の距離を置いています。 中国共産党が自らの領土であると主張する尖閣諸島についても日本領土との姿勢を堅持しています。党綱領においても暴力革命の言及はみられません。

しかしながら革命の戦略・戦術である統一戦線を堅持しています。日本共産党の委員長の演説のなかでは、しっかりと統一戦線を堅持することが謳われています。 こうした根本的な理論を享有するかぎり、日本共産党は中国共産党との過去の歴史や今後の連携を完全に断ち切ることはできないでしょう。

中国は尖閣、沖縄などの略取、あるいは在沖縄米軍の撤退を図ることを狙いに対日戦略・戦術を立てている節が随所にみられます。その好機が訪れた場合、戦略・戦術を発動する前提となるのが保守政党を潰すことです。そのためにも、中国にとっては日本共産党と連携強化を画策することは理にかなっています。 

一方、日本共産党が党勢を拡大していくためには、あらゆる領域に及ぶ中国のマネーや政治力を利用することは得策です。政権奪取の好機が到来したとみるならば強力な後ろ盾として中国共産党に接近する可能性は排除されないとみるべきでしょう。

それが、日本共産党が現在も堅持している「統一戦線」理論の真実の意味なのかもしれません? (以上、終わり)

わが国のインテリジェンスは遅れていないか!

▼戦略がビジネスの世界に浸透

世の中では、経営(競争)戦略、企業戦略などの用語が頻繁に紙面を賑わしています。ただし、戦略は言葉の言い回しからして、もともとは軍事用語です。

戦略の定義は諸説多く約200あるといわれています。この詳細はさておき、第二次世界大戦以前の共通した戦略の定義はおおむね軍事的要素に限られていました。 しかし第一次世界大戦以降、軍事力のみならず国家総力で戦争に応ずる必要性が認識されました。

一方で、戦禍の犠牲を最小限にするため軍備管理などの重要性が高まりました。このため、戦略は単なる戦場の兵法から国家の向かうべき方向性や対応策まで含む幅広い概念へと拡大するようになったのです。

戦争の様相の変化とともに、戦略も必然的に非軍事的要因、すなわち経済的・心理的・道徳的・政治的・技術的要因をより多く加味する必要がでてきました。

よって今日は、軍事戦略だけでなく国家戦略、外交戦略および経済戦略などの用語が定着するようになっています。つまり、戦略の概念は武力戦のみならず外交・経済・心理・技術などの非武力戦を包含したものに拡大したのです。

他方、ビジネス社会では20世紀になり企業が膨張・多角化し、競争がグローバルに拡大しました。そのため、「相手に勝つ」ことを本義とする軍事戦略が、経営に活用・応用されるようになり、それに伴い経営戦略などの造語が登場するようになりました。

21世紀に入り、グローバル化、メガコンペティション化、IT化などの急速な進展により、企業間の競争は一段と鮮烈化しています。さらに、ビジネスを取り巻く環境の変化が急速であり、新たなライバイ会社の登場や予想もしなかったような代替品の出現によって企業の存続が危ぶまれるといった事態が恒常化しています。

疾風怒涛の競争の中を優位な状況で勝ち抜き、新たな事業の展開をはかっていくためには、よりダイナミックな経営手法、積極果敢な戦略、機知を捉えた巧みな戦術が要求されています。

▼インテリジェンスの進化と拡大

軍事の領域で使用された戦略・戦術がビジネスの世界に普及・浸透するにつれて、軍事情報理論も逐次にビジネス界に浸透しつつあります。

軍事の領域では、早くから敵対国や戦場のことを先に知る、敵側の部隊、兵器の現在地を知るなど、すなわち情報優越の必要性が認識されてきました。いまから2500年前の戦略書である『孫子の兵法』では、すでに戦勝を獲得するための情報の重要性が説かれています。

他方、経済の世界において情報が大きな役割をもった最初の例は19世紀初頭のフランスのナポレオン時代にさかのぼります。

当時、ナポレオンはヨーロッパ大陸の征服を目指していました。一方、当時のヨーロッパ大陸で大きな権益を誇っていたのがイギリスです。

ナポレオンは1814年にプロシアに敗れ、地中海のエルバ島にいったん流されますが、島から脱出して再起をかけます。ナポレオンはフランス軍を率いてブリュセル郊外の「ワーテルローの戦い」でプロシアに決戦を挑みます。

この時、イギリスは工業力を背景にヨーロッパで大きな貿易取引をしていたので、ナポレオンが勝つか負けるかが最大の関心事でした。つまり、ナポレオンのフランス軍が勝てば、イギリスの欧州大陸における利権は一気に失われることになります。

当時、イギリスのロンドンに世界最大規模の証券取引所があり、そこでは国債が販売されていました。国債の価格はナポレオンが負ければ暴騰し、ナポレオンが勝てば暴落します。

そのため、投資家たちは、ロンドンからはるか離れた「ワーテルローの戦い」の勝敗を、固唾をのんで見守りました。つまり、この戦いの勝敗を告げる情報が決定的な力を持ったのです。

この時に情報をいち早く入手して、国債の価格を意図的に変動させて、大もうけした人物がいます。この人物がユダヤ系のロスチャイド家のネイサン・ロスチャイルドです。 ネイサンは欧州各国に展張した情報網を駆使してナポレオン敗退の情報を誰より早く的確に入手しました。これはイギリス政府が知るより、一日早い情報だったといわれています。 

ネイサン・ロスチャイルド

ナポレオンが負けたのだからイギリスの国債は上がります。だから国債を買えば儲かります。しかし、ネイサンは、ぎゃくに国債の売りに出ます。

これを見た他の投資家は、ネイサンの行動から「イギリスは負けた」「イギリス国債は大暴落する」と判断して、大量の国債が二束三文でたたき売られました。そこでネイサンはこの大暴落した国債を買い占めたのでした。  

その後、証券取引所にも「ナポレオン敗北」のニュースが飛び込み、ネイサンの思惑どおりイギリス国債の価格は跳ね上がりました。こうしてネイサンは莫大な富を得ました。

この結果、世界各国で情報の力と重要性が認識され、情報処理技術が加速度的に進歩し、モールス信号や電話が開発されました。

さらに第一次、第二次世界大戦を経て、情報の収集・伝達手段がさらに高度になり、レーダーやコンピューターなどが発明されました。かくして情報力が戦勝を支配するようになりました。 また、これらの戦争を通じて、米国ではインフォメーションとインテリジェンスとの区別、インテリジェンス・サイクルなどの情報理論を確立していきました。

当時日本軍は、情報を収集することでは決して引けを取っていなかったのですが、インフォメーションをインテリジェンスに高める理論を欠いていました。戦後、自衛隊で情報教範の作成に従事する松本重夫は、このことが情報戦に敗北した原因との見方を提示しています。

なお、インフォメーションとインテリジェンスの意味について後述しますが、ここでは生情報がインフォメーション、インフォメーションを加工して作成した、戦略・戦術の立案や意思決定に直結する情報がインテリジェンスと理解しておいてください。

▼欧米ではビジネス・インテリジェンスが活性化  

インテリジェンスは戦略などと同様に、本来は国家の組織が行う国家機能です。しかし、米国ではすでに1970年代に、それがビジネスの世界に取り入れられ、ビジネス・インテリジェンスの研究と企業における実践が開始されました。  

この経緯については、北岡元著『ビジネス・インテリジェンス』に詳しく記述されていますが、ここでは他の資料も加味してその要点について紹介します。

1980年、マイケル・ポーターが『the study Competitive strategy(競争戦略)』を出版したことが、ビジネスの世界におけるCI(Competitive Intelligenceの略語)の源流となりました。なおCIは今日、競合インテリジェンスあるいは競合情報分析などと翻訳されています。

CIは、企業が企業間あるいは国際間での競争優位に立つことを目的としています。これは、単なる競合(ライバル)会社を分析するコンペティター分析ではありません。自社を取り巻く未来環境を把握し、そのなかで自社の勝ち目を見出すものです。 米CIAのOBであるジャン・ヘリングは「我々を取り巻く環境に対する知識と未来予想で、マネジメントの判断・行動の前提」と定義しています。

1985年、国家インテリジェンス組織で培われたノウハウが、ビジネスの世界に導入されました。この立役者がモトローラ社のCEOを務めたロバート・ガルバンと、前述のヘリングです。

1970年代当時、カルバンはモトローラ社のビジネスマンであり、「アメリカ大統領対外インテリジェンス諮問委員会」の委員を兼任していました。彼はCIAなど政府インテリジェンス組織のプロたちが、インフォメーションを収集し、分析してインテリジェンスを作り、未来を予想することで安全保障政策の立案・執行に役立てていることに注目しました。

1980年代になって、ガルバンはモトローラ社内で情報のプロたちによるインテリジェンス部門の立ち上げを提唱しました。当初、その提案に対する社内の反応は冷ややかでしたが、やっとのことでその提案が承認されます。そして、そのインテリジェンス部門の責任者として、ヘリングがモトローラ社にやってきました。それが1985年のことです。

1986年には、CIの専門家による協会であるSCIP(スキップ。競合情報専門家協会。Society of competitive Intelligence professionals)が、米国・バージニア州に設立されました。

1990年代には、同協会は会員数が6000名規模までに拡大し、米国のみならず、カナダ、イギリス、オーストラリアへとその範囲を拡大しました。なお、SCIPは2009年の金融危機により、他の組織と統合され、組織名も「Strategic & Competitive Intelligence Professionals」に変更されました。

1996年、レオナード・ファルド氏、ベン・ギラド氏、ジャン・ヘリング氏が、ACI(CIアカデミィー,「The Fuld-Gilad-Herring Academy of Competitive Intelligence(ACI)」をケンブリッジに設立しました。

CIアカデミーは、CI専門家を育成する機関ですが、近年ではCIアカデミーが行うプログラムの参加者の中に、CI部門以外のマネージャーの参加が増えてきたそうです。これは、企業全体のCI能力の向上が必要であるとの認識がビジネス界全体に芽生えていることの証拠です。

このように欧米諸国ではインテリジェンスをビジネスの世界に積極導入しています。そして企業内のCI能力を高めるための各種の啓蒙・普及活動にはめざましいものがあります。

▼わが国のビジネス・インテリジェンスの現状  

残念ながら、わが国におけるビジネス・インテリジェンスは欧米に比して大いに遅れをとっているといわざるをえません。

2001年4月に前田健治元警視総監らによる「SCIP Japan」の設立を経て、2008年2月に「日本コンペティティブ・インテリジェンス学会」が発足しました。しかしながら、いまだに学問的研究が主体であり、CIの概念がビジネスの世界で普及したとは言い難い実情にあると思われます。

大企業においてインテリジェンス部門を設置したという話題も聞きませんし、政府組織の情報分析官が企業のインテリジェンス部門に採用されるといったケースは皆無でしょう。

これにはいくかの原因が考えられますが、筆者が思い当たるものは以下のようなものです。

第一に、政府情報組織におけるインテリジェンス理論や情報分析手法などが未確立であり、インテリジェンス要員の育成も未熟である。政治、経済といった複眼的思考から、現状分析、未来予測を行い、戦略設定や危機管理に対して助言できる人材が育っていない。したがって企業ニーズに応えられない。

第二に、ビジネス界では戦略・戦術、インテリジェンスなどの理論や本質が十分に理解されていない。企業全体としてインテリジェンスの重要性に対する認識が確立されていない。

第三に、わが国のビジネスパーソンは、安全保障への関心や、地政学的リスクに対する意識が希薄である。中国の海洋進出、北朝鮮の核ミサイル問題、米中貿易戦争関連のニュース報道は盛んに行われるが、それらの政治リスクが企業経営にどのような影響を及ぼすのかまでブレークダウンして考える気風がない。

上述した問題点を是正していくことは容易ではありません。ですが、まずは官民がインテリジェンスの基礎理論などについて共通の認識を持ち、その理論の活用などに関する知見をともに高めることが必要だと、筆者は考えています。

わが国の情報史(22) 日露戦争におけるインテリジェンスの総括

わが国の情報活動に問題はなかったのか

日露戦争においてわが国は、日英同盟を背景とするグローバルな情報収集と的確な情勢判断によって、日露に対する世界の思惑を見誤ることなく、戦争前からの和平工作とあいまってロシアに辛勝した。

しかし、すべてのインテリジェンスに問題がなかったわけではない。  大江志乃夫氏は自著『日本の参謀本部』において、日露戦争における情報活動の問題点を以下のとおり指弾している。

◇「ドイツの大井中佐と英国の宇都宮中佐が軍源として活躍したが、総司令部がその情報を活用した形跡はあまりない。瀋陽会戦後の沙河の会戦の初期、黒溝台の会戦の際、宇都宮中佐及び大井中佐から、ロシア軍による兵力集中や大攻勢に関わる真相情報が総司令部に伝えられたにもかかわらず、総司令部はそれらの情報を無視した。

◇参謀本部第二部は韓国、清国に情報網を張り巡らしていたが、第二部の情報将校はロシア軍に関する知識と戦術的な判断能力にかけていたため、作戦情報の役に立たなかった。シベリア鉄道の輸送能力に関する情報は、判断資料たりえなかった。

◇ 作戦部は情報部の活動に信頼をおくことができず、作戦に必要な軍事情報 活動を作戦部自身がおこなうことになった。すなわち、情報活動は、情報部が行う謀略活動と作戦部が行う軍事情報活動に二分化し、作戦部は主観にもとづく情報無視の作戦を行い、作戦面における苦戦を招いた。作戦部系と情報部系の情報組織が対立して派閥争いまで演じ、情報作戦に反映されることを困難にした。

外務省の暗号がロシアに筒抜け

このほか、当時のわが国の暗号解読の能力は、西欧列強やロシアに比べて格段に劣り、ロシアの軍暗号や外交暗号は解読できなかった。逆に日本の外暗号は完全に解読されていたとの指摘がある。

開戦日の1904年2月6日、ペテルスブルクで栗野慎一朗公使がロシア外務省を訪れ、ラムズドルフ外相に国交断絶の公文書を手渡したとき(明石が同行)は、同外相は口を滑らして「ニコライ皇帝は日本が国交断絶をすることをすでに承知している」旨のことを述べたとされる。  

明石は日記のなかで、「ロシアは既に日本の暗号解読に成功し、この国交断絶の通告以前から、日本の企図の大部分はロシアに筒濡れであったものと判断する」と明記している(島貫『戦略・日露戦争』)。

パリの本野一郎公使によれば、日露戦争の前年、ロシアと本国との暗号通信がロシアの手に渡ったとされる。その事件現場はオランダの日本公使館であった。 在オランダの日本公使は独身であったので、ロシアの情報機関はロシア人美女をオランダ人と偽って女中として住み込ませた。

この女中が公使の熟睡中に、公使の机から合鍵を使って暗号書を盗み出し、それを諜報員に手渡し、諜報員が夜明けまでに写真を撮って、女性が暗号書を金庫に戻しておくという方法であった。 この方法により、五日間で暗号書の全ページを複写されてしまったのであるが、公使は盗まれたことを全く気づかなかったという。

この秘密は、暗号書を盗み出させたロシアの諜報主任が開戦直後、こともあろうに、パリの本野公使のところへ、それを五千フランで売りに来たことから発覚した。外務省は慌てて暗号書を更新し、それ以降、在外公館では特殊な金庫に保管させるようにした。

しかし、この新暗号も今度はフランス警察庁によって解読された。同警察庁の警視で片手間に暗号解読作業に従事していたアベルナが、たった二か月の作業で千六百ページにわたる日本外交暗号書のほとんどを再現した。親ロ中立国であったフランスはそのコピーを日露戦争後半にロシア側に手渡したという。

戦略情報は知る深さが重要

安全保障及び軍事の情報は、使用者と使用目的によって、戦略情報(戦略的インテリジェンス)と作戦情報(作戦的インテリジェンス)に区分できる。

前者は、国家戦略等の決定者が国家戦略等(政略、国家政策を含む)を決定するために使用し、後者は作戦指揮官が作戦・戦闘のために使用する。 両者にはインテリジェンスとしての共通性はあるが、その特性はやや異なる。

戦略情報では、「相手国がいかなる能力をもっているか」「いかなること意図を有しているか」「将来的にいかなる行動を取るのか」「中立国がどのような思惑を有しているか」、などを明らかにする必要がある。 だから時間をかけて、慎重に生情報(インフォメーション)を分析してインテリジェンスを生成する必要がある。戦略情報には「知る深さ」が必要といわれる所以である。

作戦情報は知る速さが重要

他方、作戦戦場では作戦指揮官は刻一刻と変化する状況を瞬時に判断して、意思決定をおこなわなくてはならない。したがって、作戦指揮官は完全なインテリジェンスを待っている余裕などない。だから、正確なインテリジェンスよりも、生情報の迅速かつ正確な伝達の方がより重要となる。すなわち作戦情報には「知る速さ」が求められる。

現代戦は双方の歩兵が徒歩前進して戦闘を交えるといった様相にならない。航空機、ミサイルなどが大量出現した。偵察衛星、航空機、無人機、地上監視レーダーなど、さまざまな敵状監視システムが開発された。また無線、衛星電話などの情報伝達機器も発達した。

これらにより、戦況速度は格段に速くなり、意思決定にはさらなる迅速性が求められるようになった。そこには敵の意図的な欺瞞や、我の錯誤が生じる。迅速性の要請から、戦場指揮官は様々な真偽錯綜の生情報から、戦闘の“勝ち目”を判断することが増えていく。つまり、独断専行が求められるのである。

かのクラウゼヴィツは、「戦争中に得られる情報の大部分は相互に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、その他のものとても何らかの意味で不確実だ。いってしまえばたいていの情報は間違っている」(『戦争論』)と述べている。 これは基本的には日露戦争当時も現代も変化はないということである。

「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向はいいのか

太平洋戦争における失敗の原因を「情報無視の独断専行」という一言で片づける傾向にある。政略・戦略の立案では、これは絶対に回避すべきである。回避することもできる。しかし、作戦・戦闘では必要な情報が入手できない、あるいは真偽錯綜する情報のなか独断専行的に作戦指導することもあるということである。 結果論で言えば、「おろかな無謀な戦い」ということになるが、致し方のない面もある。

戦略情報こそが重要

日露戦争においては「戦略情報が勝利した」といっても過言ではない。つまり、官・軍・民が一体となってグローバルな情報活動により、良質のインテリジェンスを生成して、それを「6分4分」の戦闘勝利で即時停戦という国家戦略に生かしたのである。

他方、戦術情報の面では、通信網などの組織化が不十分なために必要な情報を得られなかったなどという状況が、さまざまな局面で生起したことが伝えられている。また、大江氏の指摘するような問題点もあったのであろう。 つまり、日露戦争では作戦情報では問題もあったが、戦略情報では勝利した。太平洋戦争の敗因は、戦略情報と作戦情報の両方の失敗である。ここが違っていた。

戦略情報が成功すれば、作戦情報の失敗は挽回できる。しかし、戦略情報が失敗すれば、作戦情報が成功しても意味はない。作戦情報の成功が、誤った戦略の遂行を助長し、やがては墓穴を掘ることにもなりかねない。

日清・日露戦争においては、日英同盟にもとづくグローバルな情報収集体制と、獲得した情報をインテリジェンスに昇華させる国家・軍事指導者の国際感覚と戦略眼があった。無謀な泥沼戦争に突入させないために、戦争の潮時を心得ていた。このことは現代日本にとっての重要な教訓である。

昨今、中国の台頭、北朝鮮の暴走、ロシアの不透明な行動などが安全保障上の脅威になっている。こうしたなか、わが国が進路を誤ることなく、万一の侵略事態に適切に対応するためには、安全保障・軍事常識に裏打ちされた戦略情報が不可欠である。 是非とも、国家を挙げての戦略情報を強化していただきたいし、今日、陸上自衛隊(かつての調査学校は廃止となり、戦略情報課程はなくなった。現在の新設の情報学校は作戦情報にほぼ特化している)にもこのことを申し述べたい。  

情報と作戦の分化の問題

明治期の参謀本部の沿革をみるに、情報と作戦の分離独立という問題にはいろいろと紆余曲折があったようである。 日露戦争では、満州軍司令部の作戦課と情報課を分離独立したが、松川敏胤作戦課長は部下の田中義一少佐(後の首相)の進言を受け入れ、満州・朝鮮の作戦地域における情報活動は作戦課で担当することを主張した。 作戦課の情報活動は、敵情に関する詳細な情報を収集しその活躍は明治天皇に上奏され、感状まで授けられた(柏原『インテリジェンス入門』)。

しかし、ここでは情報将校に松川系と福島(安正)系の両派が生じ、暗闘、反目するという結果を生んだという。 松川派は「福島派の情報など、しょせん馬賊情報に過ぎない。戦術眼のない馬賊のもたらした情報など、およそ不正確でタイミングも遅すぎ、とても作戦の役に立たないと」主張した。福島派も「諜報には長い経験が必要なのだ。速成の情報将校が役に立つか」と反発した。 その結果、日本軍の情報には、拮抗する二種類が存在することになり、状況判断の上で混乱が生じる一因ともなった、という。

よく、「情報部が作戦部から独立しないことの弊害は、とかく作戦担当者が、自ら策案した作戦に都合がいいような情報ばかりを選択して、主観的で独りよがりなものになりがちな傾向を生むことである」とされる。よって「組織構造から、情報部と作戦部は分離されるのが望ましい」とされている。

この主張は戦略レベルではまったく異論がない。戦略情報の作成には歴史観に裏打ちされた情報分析力や国情情勢に対する専門的知識などが不可欠である。いくら偵察衛星やシギント(通信情報)機能が発達したからといっても、敵対国の意図までは洞察できない。それらの解明には、情報部署に所属する専門の情報分析官の力が必要である。まさに「諜報には長い経験が必要だ」との福島派の言葉が身にしみる。

また、「インテリジェンスの政治化」(※)という問題もある。仮に、作戦部がインテリジェンスを独自に生成するとなれば、作戦部は作戦指揮官の作戦構想に合致したインテリジェンスを提供する傾向が強まり、インテリジェンスの客観性は失われる。

しかし、作戦戦場における作戦・戦術レベルでは、第一線部隊を指揮する作戦部がもっとも最新の状況を認知しているのが通常である。無人機やレーダーなどの戦場監視機器が発達し、それを管理・運用する者の専門的知識も必要ではあるが、戦略レベルの情報分析官のような長年の経験と広範な知識の蓄積は必要とされない。基本的には、あったこと、見たことを、諸元にもとづいて処理すればよいのである。

しかも、上述のように、現代戦は戦況速度が格段に速まり、戦場監視がデジタル化している。 つまり、戦場では過去にもまして、作戦部と情報部の垣根がなくなっている。作戦指揮官がインフォメーションに基づき、独断専行的に意思決定を行い、作戦部にその実行を命じるという状況が増えると考えられる。

日露戦争後の軍事の流れのなかで、情報部門と作戦部門の未分化が作戦部門の唯我独尊、自閉的集団化を引き起こし、ノモンハン事件以降はまったくの情報軽視が生起して、それが太平洋戦争の敗北に向かったという。

しかし筆者は情報と作戦の分化という問題は、戦略レベルと作戦・戦術レペルに分けて、よくよく考える必要があると考える。 実務においては、通り一遍の情報と作戦の分化論は危険である。

作戦戦場における情報部門の独立、すなわち現在の陸上自衛隊の情報科の新編独立(2010年3月26日、陸上自衛隊に情報科職種が新設)についても、この日露戦争の戦史をひも解き、問題点を創造的に見出し、改善していくことが必要であると考える。

(※)インテリジェンスの政治化 政策決定者がその政策や好みに合致した情報を出すよう圧力、誘導をし、情報機関の側にも権力におもねって、それに取り入ろうとする動き。情報分析官個人が自分の利益のために政策決定者が好むインテリジェンスを意識、無意識に生成することなどをいう。

謀略の問題

前出の大江氏は、「情報操作・情勢作為によって自己の政治的地位を高めてきた山県(有朋)のもとで育った情報将校たちは、正確な軍事情報の入手よりも、情勢を作為するための謀略に重きを置く傾向を強めた」と厳しく指弾している。

この問題についても、筆者の私見を述べたい。 明石工作については、最近の戦史研究によって明石の自著『落花流水』には相当の事実相違があることが判明している。 稲葉千晴氏が北欧の研究者として共同して行った最近の歴史検証では、「明石の大半の工作は失敗に終わった」とされている。 稲葉氏は「明石がおこなった反ツァーリ抵抗諸党への援助は、ロシア1905年革命に、そしてツァーリ政府の弱体化に、ほとんど影響を及ぼしていない。勿論、日露戦争での日本の勝利とはまったく結びつかなかったのである。」(稲葉千晴『明石工作』)と述べている。

稲葉氏の緻密な研究成果に異を唱えるものではないが、謀略の成果があったのか、なかったのかを検証するという作業には非常に困難性がともなうと考える。それを断定的に述べることは学問では是とされても、それを実務に取り入れることには注意が必要だと考える。

作家の佐藤優氏は、稲葉氏の研究資料となったパヴロフ・ペトロフ共著[左近毅訳]『日露戦争の秘密-ロシア側資料で明るみに出た諜報戦の内幕』(成文社、1994年)について、「そもそもロシア側の原資料は、明石工作はたいして意味がなかったというように情報操作している」と指摘している。

もちろん、これも佐藤氏の思い込みだと排斥することも可能であるが、諜報・謀略の世界では情報操作は当たり前である。日本軍のマニュアルにも謀略宣伝のやり方が書かれていたし、英国の首相チャーチルが国家的な謀略に手を染めていたこともほぼ明らかとなっている。

筆者は、次のことにも付言したい。謀略は心理戦の様相が大勢を占めるということである。つまり、緻密な歴史研究をもってしても、いかなる経緯や事象が民衆心理に対して、どの程度の影響をもたらしたのかなどは解明が困難であるということである。

暴動やパニックは一つの嘘から引き起こされる場合もある。この嘘が偶然だったのか、それとも情報機関が周到に仕組んだ偽情報だったのかは知る由もない。現在のテロが起こるたびに、ISは犯行声明を発出するがその関係性もよくわからない。ただし、ITCによって心理面の影響を受けている可能性は否定できない。 だから、謀略やテロといった代物は、因果関係が立証できなくても、因果を一応の前提として、その対処を研究する必要があるのである。

日露戦争後、日本は謀略を組織的に管理するという方向に向かわなかった。昭和初期まで諜報、謀略を担当する部署はまったくの小所帯であった。 参謀本部第5課第4班でやっと謀略を扱うようになったのは1926年(大正14年)末のことである。 参謀本部に謀略課(第8課)が設置されたのは支那事変後の1937年10月である。

謀略によって泥沼の日中戦争に向かい太平洋戦争に敗北したとする、のであればそれは謀略自体を悪と決めつけることによってのみ問題を解決するのは一面的である。むしろ適切に謀略を管理する組織体制がなかったことに問題の所在をおくべきだと考える。 

今日、「専守防衛」を基本とするわが国には、日露戦争当時に明石工作や青木工作のような謀略は不向きである。しかしながら、南京事件などをみるにつけ、中国が謀略、宣伝戦を仕掛けていると思われる節がいくつもみえる。 謀略を阻止するという観点からも、軍事部門を司る組織において、謀略の研究がなされる必要はあると考える。

AI環境下での自衛隊における要員確保の道は!

わが国は少子高齢化にまい進中

日本は2010年から有史以来初の人口減少に向かい始めたようです。少子化の方は、それよりもずっと早くから始まっていました。しかし、医療技術の発達や栄養状態の改善、健康指導などによって長寿化が進み、それが人口減少を食い止めていました。  つまり、少子高齢化は2010年のずっと前から始まっていました。

人口減少の傾向は、2010年の1億2806万人が、2040年には1億728万人になると推測されています。

また65歳以上の高齢者が社会全体に占める割合は、2010年には23%であったが、2035年には33%を超えて3人に1人が高齢者となります。2042年には高齢者3878万人でピークを迎えますが、高齢者率はその後も増え続け、2060年には約40%に達すると予測されます。

このようにわが国は少子高齢化に向かって進んでいますが、高齢化の波を押しとどめることは道徳的、倫理的な観点から不可能です。だから、少子化の対策、すなわち、出生率を上げることが喫緊の課題となっています。

少子高齢化は労働人口不足を招く

少子高齢化は、都市への人口集中と地方の空洞化などの副次的な影響をもたらしますが、なんといっても最大の問題点は労働市場における人手不足です。 この対策には、女性の雇用、高齢者の雇用、外国人労働者の雇用、そしてAIの雇用などの対策があげられています。 しかし、女性の雇用を進む一方で、子育て支援といった政府対策、男性の育児休暇などの職場の理解がなければ、さらなる少子化の原因となります。つまり、負のフィード・バック・ループに陥ることになります。

高齢者の雇用については、確かに50年前の65歳と現在の65歳を比べるのは問題ですが、そうはいっても企業側としては健康面でのリスクを抱えることになります。ましてや、防衛・消防・警察といった面においては、一部のスーパー高齢者は別にして、有事を想定した場合も60歳以上を正規雇用するなどといったことは筆者の経験からして「あり得ない」と考えます。

外国人労働者あるいは移民政策についても、治安問題、社会における受け入れ体制、言葉の障碍など、早急には改善できない問題が山積しています。先に移民政策を取ったヨーロッパにおいては、移民政策が誘因となるテロなども問題となっています。

AIの導入如何によっては、世の中の労働市場は高度専門技術者と肉体労働者を残し、今日の大部分を占める中間層の事務・管理などの業務は淘汰されるとされています。 これら中間層のほとんどは肉体労働に向かうしかない、といわれています。

しかし、問題は中間層が自分の能力を過大評価している点です。つまり、多くの中間層がうまくシフトができないで、無職になって世捨て人になってしまう可能性があります。 かつての蒸気機関の発明による産業革命時期のように、労働者による暴動が起こる可能性も懸念されるわけです。    

自衛隊の要員確保が深刻な問題

さて、世の中が、こういう状況に移っているのですから、自衛隊における要員確保が困難になっているのも頷けます。

他方、世界秩序の多極化、経済を中心としたグローバル化、ITの拡大により、わが国周辺では中国の覇権主義的な台頭が起こり、世界各地では地域紛争、民主化デモやテロ活動の兆しが生起しています。このため、わが国の防衛、警備上のニーズは将来的にさらに高まる事が予想されます。
 

また世界的規模で進む気候変動が、風水、津波被害を頻発させることが予見され、このことが防衛上の所要を高めるとみられます。。

このように将来的に防衛・警備の所要が増大する中、自衛隊の募集は困窮を極めています。そこで、防衛省は新隊員の採用年限を32歳まで引き上げるなどの応急策を取ろうとしていますが、はたして、どうなることでしょうか?これが、どのような悪影響を及ぼすかについては、あまり検討されていないようです。

幹部自衛官の処遇は他の公務員よりも悪い!


私の娘は地方公務員です。8年前に陸上自衛隊の幹部候補生にも合格しました。入隊を進めましたが、自衛隊の幹部候補生は生涯賃金などを他の公務員と比較したら、高卒対象の初級職公務員より待遇が悪い、という評価のようです。それを言われると、納得せざるを得ません。 

私も55歳で自衛隊を定年退職しましたが、幹部自衛官といっても2佐以下であれば、損保、警備職がほとんどです。年収は半分以下になり、自衛隊で修得した指揮・運用能力の活用などは望めません。

かつての自衛隊は60歳から共済年金が支給されていましたが現在は65歳です。つまり、10年間は新たな職業によって生活を保持し続けなければなりません。ここで、一般公務員との待遇格差が生じることになります。

また、ほとんどの幹部自衛官は高度専門職ではなく、どちらかといえば事務・管理職です。だから、AIが導入されれば、ますます潰しが効かず、再就職には不利です。 しかも、自衛隊は秘密保全などの理由から、積極的に外部社会と関わる環境を推進しているとは言い難い状況にあります。 つまり、人脈を増やしたり、他の領域においてスキルアップができる有利な環境にあるとはいえません。

一般社会のどの階層と比較するのかという問題はありますが、少なくとも一般幹部候補生を、他の大卒の一般公務員と比較した場合、その処遇は見劣りするといってよいでしょう。

それでも自衛隊に入隊するとしたら国民からの信頼と誇りが支えとなります。今日の自衛隊は災害派遣などで国民から高い信頼と評価を受けています。これは防衛基盤の育成としては重要なことですが、災害派遣のために自衛隊を選択する者はほとんどいません。あくまでも、他国の侵略やその他の脅威から国民の生命・財産を国防という第一義的任務を全うすることを誇りに入隊します。

一般自衛官の処遇改善が急務

幹部自衛官がこのような状況ですから、ましてや一般の自衛官の募集はさらに困難でしょう。それに加え、これからIT社会、AI導入により、自衛隊の職場環境や、未来の戦場環境は変わってきます。

ますます質の高い要因の確保が求められますが、高質の要員を確保・育成するためには処遇改善が不可欠です。つまり、 職場環境や居住環境の改善が必要不可欠です。現代青年に不可欠な隊員個室、ワイファイ環境、こういった整備を整えなければ現代青年は定着しません。そして、AI環境下における戦士の育成はできません。

私の現役時代、厳しい生活環境で隊員を鍛えるといった上級指導者がいましたが、時代錯誤です。生活環境はゆとりを、訓練は厳しく、そのメリハリが重要であることは、米軍、ドイツ軍などでは伝統的になっています。

かりに一般社会に先駆けて、ドローン操縦、自動運転などの技術が修得できるとすれば、それは新たな魅力になるかもしれません。一般社会とは違う、先験的な魅力化政策と、処遇改善、それが要員確保の本質であると考えます。

わが国の情報史(21) 日露戦争の勝利の要因その3 -諜報・謀略工作-

大橋武夫氏による日露戦争の6つの勝因

兵法家の大橋武夫氏は、日露戦争の勝利の要因を(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利 と総括している。以下、(4)と(5)を中心に考察したい。

明石大佐による諜報網の構築

明石元二郎は1864年に福岡藩で生まれ、陸軍大学を卒業後、ドイツ留学など を経て、フランス、ロシアで公館付陸軍武官などを歴任した。日露戦争後は台湾総督を歴任し、最終的には陸軍大将になった。

明石は1901年にフランス公館付武官として赴任、1902年にロシアのサンクトペテルブルクに転任し、その後、ロシアの膨脹主義に反発するスウェーデンに駐在武官として移動した。同地にて旧軍の特務機関の草分け的存在である「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派「ボルシェビキ」への活動を支援した。

1904年1月12日の御前会議で戦争準備の開始が決定されると、児玉源太郎参謀次長は、駐ペテルスブルク公使館付陸軍武官の明石元次郎(当時、中佐)に対し、ロシアの主要都市に非ロシア系外国人の情報提供者を獲得するよう命じた。

明石大佐は日露戦争では参謀本部からの工作資金100万円を活用し、地下組織のボスであるシリヤクスと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献したとされる。 当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額となり、明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。  

明石の活動について、児玉の後の参謀次長である長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある。

また一説には、明石がレーニンと会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出たことや、明石の工作が内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与し、後のロシア革命の成功へと繋がっていったとされる。

さらに、レーニンが「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と述べたとの説もある。 ただし、こうした明石の活動は、明石自身が著した『落花流水』や、司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』によるいささか誇張的な評価がもたらしたようである。

稲葉千晴氏は、『明石工作』(丸善ライブラリー、平成7年5月)において、明石がレーニンに会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されていない、と結論付けた。 また、稲葉氏によれば、現地でも日本のような説は流布していないことが示された上、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動確認をしており、大半の工作は失敗に終わっていたとされる。

一方で稲葉氏は、工作(謀略)活動の成果については否定するものの、日露戦争における欧州での日本の情報活動が組織的になされていたことに注目している。その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについて評価している。 稲葉氏によれば、明石による諜報網の構築は、現地の警察当局のきびしい監視によって阻まれるが、日露開戦までに明石は少なくとも三名のスパイを獲得することに成功した。

明石の諜報網が日露戦争の終戦まで維持されたこと、明石がロシア革命諸党の扇動工作(謀略工作)に着手することが容認されたことは、すくなくとも明石の設置した諜報が無用ではなかったことの証であるといえよう。 また明石の謀略工作は陸軍中野学校の授業でも題材として取り上げられるなど、当時の日本軍の秘密工作に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

青木大佐による諜報網の構築

日本が満州において、ロシア軍に勝利するためには、戦場でロシア軍に上回る戦力集中しなければならない。そのためには、極東ロシア軍の総戦力を正確に判定することが必要となる。

満州軍総司令部は、敵陣奥深くに蝶者や斥候を派遣するとともに、欧州駐在の陸軍武官に命じて、唯一の兵站線であるシベリア鉄道の兵員、物資の輸送量を把握することに決した。 参謀次長・児玉源太郎は、日露戦争が早晩開戦を迎えることは必至と判断し、主戦場となる北支方面の守備を強化する必要性を認識した。

そこで、児玉が参謀本部作戦部長の福島安正に相談したところ、袁世凱を説得できる人物として青木宣純(あおきのりずみ、1859~1924)が推薦された。 青木は1897年から90年にかけて、清国公使館付武官として天津に赴き、ここで袁世凱の要請で軍事顧問に就任し、袁との信頼関係を構築していたのである。

1904年7月、青木は満州軍総司令部附として北京に派遣された。青木は、北京で特別任務班を組織し、袁の配列下にある呉佩孚(ごはいふ)を動かして満洲とシベリアの国境一帯に諜報網を組織してロシア軍の動向を監視した。 こうして得られた情報は、青木の後任として袁世凱の軍事顧問の任にあたった坂西利八郎(ばんざいりはちろう)大佐を通じて、天津駐屯地司令官の仙波太郎少将に手渡され、そこから東京の参謀本部に転送されていった。

石光真清らの活躍

このほか日露戦争においては、「花大人」こと花田仲之助(はなだちゅうのすけ、1860~1945)中佐が、本願寺の僧侶となって1897年にウララジオストクに潜伏、日露戦争時には満洲に潜入し、スパイ活動に従事した。

石光真清(いしみつまきよ,1868~1942)大尉は陸軍士官学校を卒業したものの軍人を退職し、一般人の菊池正三に変装して1899年にシベリアに渡り、スパイ活動に従事した。石光は花田帰国後のシベリアの諜報活動において活躍したのである。

このほか民間人としては、日清戦争時に従軍記者として活動した横川省三(※(よこかわしょうぞう、1865~1904)が日露戦争の開戦にあたって、清国公使の内田康哉(うちだこうさい、のちの外務大臣)に誘われ、特別任務班第六班班長となり、沖禎介(おきていすけ)とともにスパイ活動に従事した。横川はロシア軍の輸送鉄道の爆破を試み、ラマ僧に変装して満洲に潜伏するが、ハルビンで捕らわれ、1904年に銃殺刑となった。

旧軍随一の女性スパイ「河原操子」

こうした日本軍の特務活動において、河原操子(かわはらみさこ、1875~1945)が多大な活躍をした。

大本営は青木宣純大佐を長とする諜報謀略機関の特別任務班(計71人)を北京に配置し、次の任務を与えた。 一、日支(日本、中国)協力して敵状をさぐる。 二、敵軍背後の交通線を破壊する。 三、馬賊集団を使って敵の側背(そくはい)を脅威する。

この特別任務班はロシア軍の側背地域を広く、そして縦横に活躍しているが、その足跡をたどってみると、各班の多くが内蒙古の喀喇沁(カラチン)王府(北京東北二五〇キロ、承徳と赤峯の中間)を経由しているのが目をひく。(大橋武夫『統帥綱領』) なぜならカラチンの宮廷には河原操子がいたからである。

彼女は1875(明治八)年、信州(長野県)松本市で旧松本藩士・河原忠の長女として生まれた。父親は明治維新後、私塾を開き漢学を教えていた。父の忠と福島安正は幼なじみという関係にある。  

長野県師範学校女子部を卒業したあと、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学したが、病のため翌年中退し帰郷した。1899年に長野県立高等女学校教諭になるが、清国女子教育に従事したいと思うようになった。

1900年夏、実践女子学園の創設者で教育界の重鎮である下田歌子が信濃毎日新聞を訪れた時、操子は下田に「日支親善」のために清国女子教育への希望を申し述べた。

1900年9月、下田歌子の推薦により、操子は横浜の在日清国人教育機関「大同学校」の教師となった。ここで二年間の教師生活を終えて、操子は上海の務本(ウーベン)女学堂に赴任した。ここでは彼女は「生徒と起居を共にしてこそ教育がなせる」との信念のもと、女学堂の衛生環境の改善に取り組みつつ、女生徒の指導に力を尽くしたのである。

1902年の内国勧業博覧会を視察したカラチン王より、カラチンで女子教育にあたるべき日本女性の招聘が要請された。操子の上海での勤務ぶりに注目していた内田公使が、1903年に内蒙古カラチンに初めて開設された女学校「毓正(いくせい)女学堂」の教師として、彼女を派遣した。

操子は1903年12月、驢馬の旅を九日間続けて、カラチンに赴任した。カラチン王府は、操子の手になる毓正女学堂を支援し、王妹と後宮(こうぐう)の侍女、官吏の子女を学ばせた。女学堂の校長は王妃善坤であり、彼女は粛親王善耆(川島芳子の父)の妹だった。 王妃の授助もあり、女学堂はやがて60人の生徒を数えるまでになる。

学科は、読書、日本語、算術、歴史、習字、図画、編物、唱歌(日本、蒙歌)、体操で、読書は日本語、蒙古語、漢語からなっていた。操子は地理、歴史、習字の一部を除き、その他の全教科を受け持った。 

1907年まで毓正女学堂で教鞭をとり、あとの女子教育を鳥居きみ子(夫は考古学者の鳥居龍蔵)に託し、日露戦後の1906年2月に帰国。帰国の際には女学堂の生徒三人を連れ、実践女子学園に留学させている。

帰国後、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一宮鈴太郎と結婚し渡米。1945年に熱海市で死去した。

操子のカラチン赴任には、内蒙古の戦略的要衝の地に親日勢力を扶植(ふしょく)する、日本人が常駐せずに生じていた工作網の間隙を埋めるという日本側の思惑があった。その赴任には北京からカラチンまでの沿道地図を作成するために参謀本部の軍人が同道していたように、国家の密命をおびた派遣であった。

日清戦争後の三国干渉によって日本を譲歩させたロシアは、満洲に軍事力を展開し、さらには朝鮮半島に触手を伸ばし始めていた。それに対し、日本はロシアのライバルであるイギリスとの同盟締結に成功してロシアに備えた。 

日露戦争が迫り来る過程で、内蒙古にもロシアの手が伸びていたが、日本を訪れたことのあるカラチン王だけは日本に好意的であった。カラチンには日本の軍事顧問も派遣されていたが、戦争が勃発すれば武官の滞在は認められない。そこで、粛親王の顧問を務める川島浪速(かわしまなにわ、1866〜1945)や陸軍の福島安正ら松本の同郷人の思惑が内田公使を動かし、カラチンに民間人の操子を派遣することになった次第である。

操子は教育活動とは別に、カラチン王府内の親露勢力の動向を探る「沈」としての使命を果している。諜報・秘密工作の使命を受けた横川省三などは途中カラチンに立ち寄り、その際は操子が彼らの世話をした。それぞれ潜入中の特別任務班員とのやりとりは、王府内に親露派が多くいたので苦心があった。

中国名での秘密の情報交換ほか、操子はカラチン王夫妻にも守られ任務を果たすことができた。 操子は、この頃続々と入り込むロシア工作員たちの猛烈な働きかけを排して、カラチンの親日政策を守りとおし、常にロシア軍の動静を北京に報告するとともに(彼女には文才があった)、この地を経由する特別任務班員に対し、物心両面にわたる非常な援助を与えた。(大橋武夫『統帥綱領』)

愛国心の泉「からゆきさん」  

そのほか日清・日露戦争時期においては、東アジア・東南アジアに渡って娼婦として働いた日本人女性「からゆきさん」が、日本軍の貴重な情報源となった。  

日露戦争では、マダガスカルに入ったバルチック艦隊の所在を電報で送ったのも遠い異国に送られた「からゆきさん」であったという。マラッカ海峡を四十数隻のバルチック艦隊が通過しているのを見て、「からゆきさん」たちは現地領事館に駆け込み、金銭、着物、かんざしなどを提供し、「お国のために使って下さい」と言ったという逸話もある。

前出の石光真清は1899年にシベリアに渡り、90年2月、寄宿先のコザック連帯騎兵大尉ポポフにともなわれて愛暉に入り、そこで諜報活動の得難い担い手となる水野花(お花)と出会う。彼女は馬賊の頭目の妾であった。

ハルビンに潜入する際には、お君という女性の計らいで馬賊の頭目増世策に会い、その手引きで中国人の洗濯夫人に化けてハルビンに到着した。 彼女たちは「シベリアのからゆきさん」で、1883(明治16)年ごろにウラジオストクに現れたという。九州天草地方の出身者が多く、その数は増えていった。

お花とお君も馬賊の頭目の妾などとなっていたが、二人とも中国語、変装術、人事掌握術など、どれをとっても天下一品であった。やがて彼女たちは石光真清のスパイ活動に協力して大活躍する。そこには馬賊に対するむごい仕打ちを行なったロシア軍への反感と、故郷日本に対する愛国心が満ち溢れていた。 彼女たちの交流は石光真清の自伝『曠野の花―石光真清の手記2』に詳述されている。

このように日清・日露戦争においては、名もない女性たちの活躍があった。彼女たちは出自に恵まれず、高等教育を受ける機会もなく、貧乏がゆえに親元を離れて遠い異国に渡ったが、日本を愛していた。故国のためなら犠牲もいとわず、その愛国心の泉はいつも満ち溢れていたのである。

“SNS・ブログメディア”はマスメディアの監視機構になれるか?

安田純平氏、無事に解放

2018年10月24日、 内戦下のシリアに2015年6月、トルコ南部から陸路で密入国し、武装勢力に拘束されていたとされるフリージャーナリスト安田純平氏(44)が無事解放されました。

このことは、日本人の一人として大いに喜ぶべきことですが、SNSやブログでは「自己責任」論を展開するバッシングで盛り上がりました。これも、安田氏の記者会見などにおける真摯な謝罪などにより、ようやく下火になったようです。

今日のSNSやブログでは過激な意見も多々散見されます。ただし、筆者はこれまで情報発信力を持たなかった“サイレントメジャー”の意見を見る上で、ブログの存在は重要であると、思います。

なかには、自由に匿名での書き込みが行われるため、SNSやブログが大衆世論を反映したものではないとの批判もあります。しかし、私の言いたいこと、思っていることを、結構、ずばっと代弁してくれているような気がします。

SNSやブログによる意見の内訳

今回の安田氏の行動をめぐっては批判と擁護の両論が生起しました。

マスメディアには擁護派が多いように思われます。マスメディアは報道を商売としていますので、当然に取材活動や報道の自由を主張し、取材の価値を高く評価します。ある意味、安田氏の行動を肯定的に評価するのは当たり前なのかもしれません。

一方のSNSやブログでは、批判派と擁護派に分かれていたようです。批判派は安田氏の行動を批判し、さらに安田氏の行動を擁護するマスメディアに対して批判の目を向けました。擁護派は安田氏を“英雄”視し、日本政府の過去3年間の“無為無策”を批判しました。

ただし、私が見る限りでは、ブログメディアの趨勢は、圧倒的に批判派によるバッシングで占められていたように思います。それだけ、今回の安田氏の行動に対して、日本国民の多くが疑問を感じていたように思います。

なぜ、バッシングが起きたのか?

日本政府は、邦人保護という直接的な政府課題や、国際テロ協調、さらには国内政治などにおける間接的デメリットが発生する可能性を懸念して、安田氏に対して、再三にわたり、渡航を自粛するよう注意喚起していました。

これにもかかわらず安田氏が渡航し、“案の定”ともいうべきか、武装勢力に拘束されたのですから、日本政府としては、これを“迷惑事件”だと考えていたとしても不思議ではありません。しかし、日本政府が「自己責任」を理由に、邦人保護の義務を怠ることはありえません。

他方、今回の安田氏の解放に対して、日本政府は終始、淡々と対応していた様子がうかがえました。まるで“火中の栗”は拾わないといったような、冷静で抑制的なコメントが続けられました。

そうした一方で、SNSやブログでは「日本政府の注意喚起を無視して危険地域に行って武装勢力に拘束された。自業自得だ。「自己責任」だから解放にかかった費用を払うべきだ」など、さまざまなバッシングを繰り広げました。

これに対して、いつものように反政府批判を繰り返す、マスメディア(正確には一部マスメディア)が、「自己責任」論を捕えて、攻撃の矛先をブログメディアに向けました。これに対して、SNS上では、コメンティターの発言に批判の大合唱を展開するという事態が生起しました。つまり、ここ最近見られる新しい形の“メディア戦争”が勃発したのです。

一部マスメディアの論調

今回の事件に関して、テレビ朝日解説員の玉川徹氏は、「自己責任」を主張するブログバッシングをとらえて、「未熟な民主主義だ!」と断じたり、安田氏を「英雄と迎えよう」などと主張しました。

玉川氏:「兵士は国を守るために命を懸けます。その兵士が外国で拘束され、捕虜になった場合、解放されて国に戻ってきた時は『英雄』として扱われますよね。同じことです。民主主義が大事だと思っている国民であれば、民主主義を守るためにいろんなものを暴こうとしている人たちを『英雄』として迎えないでどうするんですか」

これに対し、ジャーナリストの江川紹子氏は次のようにコメントしました。

「国の命を受けて戦地に赴く兵士と、自分の意志で現場に向かうジャーナリストは、本質的に異なる。それをいっしょくたにした物言いは、安田氏を非難したい人たちに、格好の攻撃材料を提供した。「ひいきの引き倒し」「親方思いの主倒し」とは、こういうことを言うのだろう。」

「ひいきの引き倒し」「親方思いの主倒し」はさておき、江川氏の論じるように、本質が異なるものを無理無理に類似するする見識の低さにはあきれました。

「自己責任」論は政治的案件なのか?

他方、江川氏は次のような論説を展開しています。

◇「自己責任」が言われるようになったのは、2004年にイラクで日本人の若者3人が武装勢力に拘束された事件においてであった。

◇当時の小泉政権で環境相だった小池百合子氏が「危ないと言われている所にあえて行くのは、自分自身の責任の部分が多い」と発言したのを機に、「自己責任」の大合唱となった。

◇当時、政府・与党の政治家があえて「自己責任」を持ち出して3人を非難する世論を誘導したのは、この事件が金目当ての誘拐事件や遭難などの事故とは異なり、政治的案件だったからだ。

こうした江川氏の論説の展開に対し、過去における「自己責任」論の生起の経緯を起点に、「自己責任」論が政府の「公的責任回避」論を結びく危険性という論理を掲げ、現政府への間接的攻撃を加えようとしている。そこには、今回の「自己責任」論の沸騰のなかで、一般大衆による反政府批判が十分に熟さないことに焦りを感じている様相がうかがえる、といったら、いささか穿った見方でしょうか?

海外における安全対策においては「自己責任」は常識

「自己責任」とは何か?について私見を述べます。筆者は1992年から95年まで、在バングラデシュ大使館で邦人保護の業務に従事したことがあります。当時の外務省『安全対策マニュアル』では、海外における安全対策においては「自己責任」が基本的原則であると明記されていたように記憶しています。

筆者も「自己責任」論に基づいて邦人の安全対策指導に従事していました。 また、他国の安全対策専門家とも多くの意見交流を持つ機会がありましたが、彼らも、海外における安全対策は自己責任が原則であるとの認識を有していました。

つまり、上述の小池氏が述べたようなことは、海外の安全対策においては至極当たり前のことなのです。

ただし、誤解しないでください。「自己責任」は、政府が邦人保護の責任を回避するというものではまったくありません。海外において邦人が不測の事態に遭遇したならば、全力でその生命や財産を守ることは当然のことです。

しかしながら、海外ではわが国の警察権などは及びません。在住する外国人の安全を守る第一義的責任は任国政府にあります。ここが国内とは大いに違います。

だから、邦人が海外で危険な目に遭遇したとしても、日本政府ができることは限定されます。現地では邦人の安否を確認し、その救出などの措置を任国政府に要請する、これらのことしかできないのです。この点はペルー人質事件が良い例です。

だから、政府は事前に関連情報を収集して、危険な地域に対して、渡航注意喚起や渡航自粛勧告などを発出しますが、邦人に対して、明確な犯罪行為などは別として、「行くな!」という権利はありません。

だから、危険な地域に行く、行かないの判断を含めて、海外に行く邦人には、原則は「自己責任」であることを認識してもらうしかないのです。

こうした背景により、「自己責任」論が確立されているのです。国民は、政府から守られる権利がありますが、公共の福祉に従うことや、政府の政策を擁護する責任もあります。

日本国民として海外に赴任する、あるいは旅行する上で、なるべく政府に迷惑をかけてはならないことは当たり前の常識であり、そのことを、政治的案件と結びつけるのも短絡的であると考えます。

一部邦人の行動が全体の公共サービスを低下させる

私のバングラデシュでの勤務時代のことです。1994年から95年にかけて任国の政治情勢が悪化したため、3カ月以上に及ぶ「渡航注意喚起」を継続的に発出していました。本省に対しては、一段上の「渡航自粛勧告」への引き上げも要請しましたが、これは発出されませんでした。

現地在住の邦人に対しては毎日定時に治安情報や安全対策情報を提供し、緊急連絡網を整備し、安否確認を行いました。この際における邦人安全対策においては、できるだけ自主的に日本への帰国や第三国への出国を奨励して、現地の在住の邦人数を減少することがキモとなります。なぜならば、政府専用機による出国などの最終想定で退避できる出国者数を限られているからです。

このような最終的なオペレーションを念頭に、現地の情勢変化を日々判断して、邦人安全対策の措置を検討します。だから、現地大使館としては邦人に対して不用な入国は控えてほしいわけです。

しかし、「渡航注意喚起」にもかかわらず、一部の邦人旅行者や自営業者などの何人かは確実に入国していました。 それら邦人は、ホテルなどを利用するよりも、簡易なゲストハウスに宿泊・滞在するために、安全対策情報を如何にして提供するのかを思案しました。その時に、渡航注意喚起などがいかに無力なものかということを、つくづく感じました。

こうした状況下、邦人からのトラブルの通報を受けました。「それ見たことか」というわけにはいきません。公的機関は日本国民に対してひとしくサービスを提供しなければなりません。しかし、自らの恣意的な使命感、冒険的、野心的なかれられた一部邦人の予期しない事件が起きれば、全体としての公的サービスは低下してしまうのです。

安田氏に対するバッシングの背景

今回の安田氏の拉致及び解放事件は、残念ながら利敵行為になってしまいました。だから、税金を支払い公的サービスを受益する権利がある国民は、「結果的に自分たちに不利益が生じた」と主張する権利もあります。

つまり、日本国民が「やさいしくないとか思いやりがない」などの議論はさておき、政府のさいさんの警告に反して行動して、予想どおりに拘束された安田氏に対して「自己責任」論を主張することは特段に不思議な現象ではないと考えます。

民主主義とはなにか

むしろ、それを「未熟な民主主義である!」などと報じる、上述のコメンテーターや、民主主義を大上段に構えて自らの主義主張をとなえる、一部のマスメディアに対して、筆者は異常性を感じます。

一部のマスメディアは、自らが民主主義の“番人”かのように「民主主義」を連呼しますが、ここで「民主主義とは何か?」、この美名の背後に存在するものを冷静に考えてみる必要があります。ちなみに朝鮮民主主義人民共和国も「民主主義」をかたっています。

筆者は今回のマスメディアの主張に対して、次のような疑問を改めて思い起こしました。◇そもそも民主主義に未熟、成熟はあるのか? 本当に欧米の民主主義が理想なのか?ほんとうに絶対無比の民主主義の理想はあるのか?

◇中国は民主主義ではないから崩壊するという仮説は正しいのか?民族、文化、国家体制の実情に即したさまざまなな形があるではないか?日本には日本独自の民主主義があり、それを欧米と短絡的に比較することはいかがなものか?

◇マスメディアが主張する民主主義とは政府などの権力機構を監視することに矮小化されていないか?民主主義は国民優先の原則であり、国民の自由なさまざまな発言を容認する“懐の深さ”こそが民主主義ではないのか?

マスメディアの役割

ここ最近まで、マスメディアはスーパー的な存在であったと考えます。マスメディアが時の権力構造の腐敗を暴き、社会正義を保持した功績は大であったと思います。

他方で一部のマスメディアが誤った歴史認識を国内外に流布して国益に重大な損害を与えたり、捏造記事に手を染めて視聴率を稼いだ歴史もあります。

こうしたマスメディアによる“光と影”がほぼ独占的に横行したのは、ほとんどの国民が情報発信の手段をまったく持っていなかったからです。しかし、IT化が進展した今日、マスメディアは、権力を監視して、世論を形成する絶対無比の存在でありません。つまり、一般人の無知を愚弄するかのような驕り、恣意的な判断の下での報道はもはや許されません。

マスメディアが誤った報道をすれば、たちまちSNSやブログでのバッシングを起こります。上述のようなコメンティターの発言に対しても、ただちに反撃が展開され、それが増幅され、一つの力を形成します。

安田氏の事件で生起したバッシングに対して、一部のマスメディアは「日本で起きているバッシングは信じられない」といった欧米のメディア人のコメントを引き合いにして、わが国の異常性を浮き彫りにしようとしています。

しかし、“虎の威を借る“ような方法で、自分たちの主張にとって都合の良い情報だけをを使って、民衆の無知に付けこむかのようなな、旧態依然のやり方では、たちまちSNSやブログバッシングの反撃が起こるでしょう。

マスメディアが、これまでのような特権意識に立ち、民主主義や社会正義を振りかざし、“社会の権力悪”と戦っていることを自尊しているならば、ますます国民はメディアから離れていくと思います。

ジャーナリズムに求められる質の高さ

今回の安田氏が自ら紛争地帯に入って拘束されたことを非難する声の背景には、「シリアについての情報なんか、自分の人生や生活に関係ない、特に興味もない」という多数派の意見が根底にあります。

他方で、わが国のジャーナリストが危険な現地に行かなくても、わが国のマスメディアが報道しなくても、CNNなどがほぼ十分すぎることは報道してくれる点も見逃せません。おそらく国民の知的ニーズとしては、それで十分満足なのです。

もちろん、わが国が他国に依存しない情報収集力や取材力を持つことの重要性を否定はしません。また、紛争地域に命を懸けて潜入し、渾身のルポ記事を書くことが必要ないとはいいません。多くの日本人も、このような懇親ルポが発表されれば、日本人として誇りに思うし、感動するでしょう。

しかしもう一度繰り返しますが、危険地域での取材や情報活動は非常に困難である一方、 人工衛星、インターネットなどがIT技術が発達するなか、国際社会におけるさまざま場所と領域における有力情報を入手できる可能性は高まっています。そして、これらのオシント(公的情報)をしっかりとウォッチしておけば相当なことは分かります。

それでも、マスメディアやジャーナリストが、「日本人にとって、現地に行って密着した取材によって得た情報が必要だ!」「危険をおかして、日本に対して不利益をもたらす可能性を差し引いても現地情報が必要なのだ!」というのであるならば、そのことを国民に対して真摯に説明して理解を得る必要があるのではないでしょうか?

そのためには成果の積み上げが必要となります。 それがなくして「日本人は世界のことを知るべきだ」的な発見は、まさに“上から目線”のマスメディアの自己擁護論と主張の押しつけだと言わざるをえません。

諜報員が危険地域に潜入して、その行動が暴露されれば、おそらくニュースにもならずに殺害されてしまうでしょう。武装集団にとっては諜報員もジャーナリストも区別はつきません。危険地域におけるジャーナリストは諜報活動と同程程度の情勢判断と慎重な活動が求められます。 

かりに、諜報員のような訓練を受けていないジャーナリストが危険地域に潜入してすばらしい情報を入手したとしても、インテリジェンスの世界では、その情報はすぐには真実とはみなされません。そこには、「武装集団がその人物に対してメッセンジャーや広告塔としての価値を見出したからではないか?その情報は真実か?」などの信頼性評価の問題が生じます。

このように貴重な情報を得るということは様々な危険性に直面しています。現在のIT社会においてジャーナリズムが成果を挙げるためには、行き当たりばったりの“成果主義”に駆られることなく、十分な事前勉強を行い「何を明らかにすべき」「何が明らかにできるか」などを事前に検討する必要があります。

その上で事前準備、行動の慎重性などが過去以上に求められると考えます。つまり、たとえばシリアに行くジャーナリストであれば、知識一つをとっても中東専門家に負けないだけの事前勉強が必要になるということだと考えます。

“SNS・ブログメディア”はマスメディアの監視機構になれるか?

たしかにウェブ上にはさまざまな扇動的、差別的な発言があります。また、必ずしも“サイレントメジャー”の意見を反映するものではないとの批判もある意味正しいと思います。こうした一方でウエブ上には「群衆の叡智」を反映した秀逸な論評が多々見られます。一部のコメンテエイターの勉強不足を一刀両断するような鋭い見識があることに、筆者は驚きを隠せません。

今回の安田氏に対するSNSやブログ上でのバッシングに対して、一部のマスメディアが民主主義を掲げて攻撃したことから、ブーメランのようにメディアバッシングが生起しました。ここに、筆者はブログメディアが権力の監視機構として台頭しつつる状況を感じます。

これまで政府という権力集団を監視するのがマスメディアでした。今度は、そのマスメディアに対して国民、すなわち“SNS・ブログメディア”が監視する力を持ち始めたのです。これは、まさしく新しい変化です。

この“SNS・ブログメディア”が政府、マスメディアを監視する第三の勢力として成長するためには、国民が真摯に勉強する、ウソやデマを流さない、愛国心に立った意見を誠実に発信するなどを心がけて、さらに「群衆の叡智」を高める必要があります。

わが国の情報史(20-後段) 日露戦争の勝利の要因その2 -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール-

高橋是清

高橋是清の資金獲得

軍事と経済との連携においては高橋是清の活躍が特筆される。いうまでもなく、戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠である。この資金を調達したのが、当時の日本銀行副総裁の高橋である。

高橋は、日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。日清戦争において相当の戦費が海外に流失したので、その穴埋めのためにも膨大な外貨調達が必要であった。 しかし、開戦とともに日本の外債は暴落しており、外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。 つまり、国際世論は日本の勝利の見込みうすしと判断した。

日露戦争が勃発した直後の1904年2月24日、高橋是清はまず米国に向かった。高橋はニューヨークに直行して、数人の銀行家に外債募集の可能性を諮ったが、米国自体が産業発展のために外国資本を誘致しなければならない状態で、とうてい起債は無理とのことであった。

そこで、高橋は米国を飛び立ち英国に向かった。しかし、ロンドン市場での日本公債に対する人気は非常に悪かった。一方、ロシア政府の方は同盟国フランスの銀行家の後援を受けて、その公債の価格はむしろ上昇気味だった。 英国の銀行家は、日本がロシアに勝利する可能性は極めて低いと分析して日本公債の引き受けに躊躇していたのである。

また、英国はわが国の同盟国ではあったが、建前としては局外中立の立場をとっており、公債引受での軍費提供を行えば中立違反となるのではないかと懸念していた。 それを知った高橋は、日本にも勝ち目があることを英国側に理解させるよう、宣伝戦略に打って出た。つまり、このたびの戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり、日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存であることを主張した。

中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例があることを説いた。  高橋の説得が徐々に浸透して、1ヶ月もするとロンドンの銀行家たちが相談の上、公債引受けの条件をまとめてきた。ただし、関税担保において英国人を日本に派遣して税関管理する案を出してきた。 これに対して高橋は、「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」ときっぱりと拒絶した。交渉の結果、英国は妥協して、高橋の公債募集は成功し、戦費調達が出来た。

クラウゼヴイィツの『戦争論』の影響とシビリアンコントロール

わが国の勝利の要因は政治、経済、軍事が一体となってロシアに立ち向かったことにある。そこには、政治が軍事を統制するシビリアンコントロールが機能したといえよう。

そのシビリアンコントロールの思想的底流にはドイツから流入したクラウゼヴイィツの『戦争論』の影響があったとみられる。 『戦争論』では、「戦争とは他の手段をもっておこなう政治の継続である」「戦争は政治の表現である。政治が軍事よりも優先し、政治を軍事に従属させるのは不合理である。政治は知性であり、戦争はその手段である。戦争の大綱は常に政府によって、軍事機構によるのではなく決定されるべきである」と述べられている。 つまり、政治が軍事に優先すること、すなわちシビリアンコントロールが強調されている。

前述の川上や田村はドイツにおいてクラウゼヴイィツの思想を学んだ。これが日露戦争前の帝国陸軍の戦略・戦術思想を形成していったとみられる。このことから、大筋において、当時の一流の軍人がシビリアンコントロールの重要性を理解したのではないだろうか。

総理の桂太郎も軍人であり、元老の山県有朋も軍人であった。いわば当時の軍政は軍人と文人が混在していたが、そこには政治優位の思想が確立されたとみられる。時には軍事優先による日露開戦論が先走ったが、大筋において抑制がきいていたというへきであろう。

つまり、明治期の一流の軍人は、大局的な物の見方と、国家レベルの情勢判断力、政治優位の底流思想を持っていたと判断できる。児玉らのインテリジェンス能力に長けた軍人が、国家レベルの視点から物事を判断して、シビリアンコントロール(政治優先)を維持していった。 この点が、軍事という狭い了見から情勢判断を行い、政治を軽視し、軍事の独断専行に走った昭和期の軍人との最大の相違ではないだろうか?

わが国の情報史(20-前段) 日露戦争の勝利の要因その2 -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール

前回から日露戦争における勝利の要因についてインテリジェンスの視点から考察しています。 前回においては、兵法家の大橋武夫氏の説を取り上げ、以下の6つの勝利の要の同盟に焦点を当てた。

(1)英国との同盟(1902年) (2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作 (3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇  (4)明石元二郎(大佐)の謀略工作 (5)特務機関の活動(青木宣純) (6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

今回は、(2)の金子堅太郎の活躍を中心に、若干(3)の高橋是清の活躍についても触れつつ、日露戦争の勝利の要因を考察する。

日露戦争に向けた政治指導体制

日清戦争後、桂太郎(1848年~1913年)は第三次伊藤内閣(1898年1月~同年6月)で陸軍大臣として初入閣し、その後も出世街道を驀進した。 そして明治34年(1901年)6月、第一次桂太郎内閣が誕生することになる。

この内閣は、海軍大臣・山本権兵衛(1852年~1933年)と陸軍大臣・児玉源太郎(1852年~1906年)の留任を除いては、その他は初めて大臣になるという官僚が大半であった。 しかも、その多くが内務省出身の山県(有朋)閥の官僚であったため、世人は「小山県内閣」「第二流内閣」と揶揄した。 しかし、この桂内閣が日露戦争を戦い、わが国の歴史上の大勝利をもたらしたのである。

桂は1901年9月に小村寿太郎を外相に起用して日英同盟の締結を目指した。二人にとって、その先にあるものはロシア問題の解決にほかならなかった。 当時、ロシア問題をめぐっては日本政府内では山県、桂、小村らの対露主戦派と、伊藤、井上馨らの戦争回避派との論争が続いていた。 桂はこれらの元老たちの意向を汲み、微妙に調整しつつ、わが国の生存・発展戦略を模索しなければならなかった。  

1902年に成立した日英同盟を背景に山県・桂らの主戦派は、伊藤らの戦争回避派に対する分裂工作を仕掛けるなど、政界における影響力の増大に努めた。 1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山県の別荘で両派による対ロ方針に関する会議が行われた。

この会議において桂は、満洲に対してはロシアの優越権を認める、そのかわりに、朝鮮においては日本の優越権を認めさせる、これらが貫徹できなければ戦争も辞さない、との対ロ交渉方針を掲げ伊藤と山県の同意を得た。

しかしながら、桂の予測どおりともいうべきか、ロシアの南下政策は一向にとどまることない。ついに1904年(明治37年)、桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月4日に日露戦争の火ぶたが切って落とされることになる。

日露戦争に向けた軍事指導体制

他方、日露戦争までの軍事指導体制に焦点をあててみることにしよう。1998年に川上操六(1848年~1899年)が参謀総長に就任し、作戦を司る第一部長に田村怡与造(1854年~1903年)、情報を司る第二部長に福島安正(1852年~1919年)を登用した。これにより作戦と情報の両輪体制が整い、ロシアとの対立を視野においた軍事指導体制が確立された。

しかし1899年5月に頼みの綱であった川上操六が急死する。まさに日本は“飛車堕ち”の危機的状況に瀕した。その応急的措置として、長老の大山巌(1842年~1916年)が参謀総長に就任し、同次長には寺内正毅(てらうち まさたけ、1852年~1919年)が就任した。

ただし、参謀本部の実権は徐々に川上の申し子である田村へと移っていく。田村は1900年4月に陸軍少将に進級し、第1部長兼ねて参謀本部総務部長となり、その存在感を陸軍内にとどろかせていた。

一方、第一次桂内閣において陸軍大臣に留任した児玉は、1902年3月に陸軍大臣の職を解かれ、まもなくして内務大臣に転任した。 その陸軍大臣の後任には参謀本部次長の寺内が就任した。これにより、1902年4月、田村が寺内の後任として参謀本部次長に就任した。つまり、ロシアに対する軍事作戦の責任が田村に任されたのである。

田村自身は、大山総参謀長と同じく日露開戦には慎重であったが、ロシアとの戦争を想定して戦略・戦術を練った。これが、まもなく生起する日露戦争において功を奏したことはいうまでもない。 しかし、その田村も川上と同様に過労のため、日露戦争開戦の前年の1903年10月に死去してしまうのであった。享年50歳であった。なお、田村は同日に陸軍中将に進級した。

川上、田村という陸軍の英傑を相次いで失ったわが軍の憔悴振りは、いかばかりであったろうか? この“火中の栗”を拾うとばかりに立ち上がったのが児玉である。児玉は内務大臣から二階級降格(親任官から勅任官の下の奏任官)の形で(ただし、親任官の台湾総督を兼任したままであったので実質的な降格ではなかった)して参謀本部次長に就任した。

田村と違って児玉は日露開戦の積極派である。当時、田村と海軍の山本権兵衛はそりが合わなかったが、児玉が参謀本部次長に就任したことで、陸・海において協同の気風が生まれ、日露開戦へと一歩近づくことになる。 日露戦争の開戦の直後の1904年2月11日、陸軍参謀本部のほぼそのままの陣営を維持して、戦時大本営が設置された。大本営参謀総長には参謀総長の大山(元帥)、同次長には児玉(大将)が就任した。

一方、現地の作戦指揮を一元的に行うことを狙いに1904年6月に満州軍総司令部が設置された。その総司令官には参謀総長であった大山があてられ、満州軍総参謀長には児玉が就任した。 そして、高級参謀として作戦を司る第1課の課長に松川敏胤(参謀本部第1部長、歩兵大佐)、同主任に田中義一(歩兵少佐、のちの総理大臣)、情報を司る第2課の課長に福島安正(同第2部長、少将)、後方を担当する第3課の課長に井口省吾(同総務部長、少将)が就任した。

また、大山及び児玉の満州軍への派遣により、大本営総参謀長には山県有朋(1838年~1922年)、同次長には新たに長岡外史(1858年~1933年)が就任した。

わが国は「6分4分」の勝負を戦略とする

事前に「勝利は間違いなし」と判断した日清戦争とは異なり、日露戦争では明治天皇は戦争決断に際して落涙されたと伝えられている。当時のロシアは、日本の約10倍の国家予算と軍事力を誇り、国際の見方はロシアの圧倒的な有利であった。

相澤邦衛『「クラウゼヴィッツの戦争論」と日露戦争の勝利』では、次のように述べている。 「日露戦争当時のわが国の指導者は、ロシアと日本との国力差を認識し、完全勝利はできないし、長期戦になれば、日本に勝ち目がないと判断していた。 そこで、ロシア軍の情勢を分析するなかで、開戦時期を「シベリア鉄道が完全に完成せず、欧州ロシアから送られてくる同国の満州派遣軍の主力が到着する以前とする」とした。

そして日本側の条件は、「武器弾薬の自前生産が可能な大阪砲兵工廠などの軍需工場の完成、八幡製鉄所等工業力の充実、袁世凱の協力を得ての豊富な資源を埋蔵する満州からの石炭の調達、など戦闘準備を終えてから日本軍は一挙に大軍を韓半島・満州へ兵力を送るべく、戦場予定地への動員体制をとっていく。

そして満州において日本軍が優勢な内に、宣戦布告と同時に緒戦において一気に満州在住のロシア軍を撃破しておく」という練りに練った作戦構想を立てた。」 つまりわが国は、敵の準備未完の好機を捕捉し、ロシア側を上回る大軍を要事要点に集中して緒戦において勝利する。

これにより、国際世論において日本の地位を高めて、戦争遂行に必要な外債募集を容易にすることを狙ったのである。 児玉源太郎・満州軍総参謀長の腹積もりは短期決戦、すなわち「6分4分」の勝負に持ち込むというものであった。そこで児玉は、開戦と同時に盟友の杉山茂丸や中島久万吉(桂太郎首相秘書官)に終戦工作を依頼した。 奉天会戦の勝利後は、児玉は元老や閣僚たちに対して終戦を説いて回った。

戦略的インテリジェンスの勝利

開戦とともにわが陸軍は連戦連勝して北進し、1905年3月には奉天会戦で大勝利を得た。しかしながら、大局的にみれば、ロシア軍は外国領内を約300キロ後退させたにすぎず、軍そのものも致命的な打撃は受けていない。

1905年5月27日の日本海海戦の完勝により、わが海軍は見事に大挙来攻するバルチック艦隊の進撃を粉砕して、ロシアの戦意を挫折させた。しかし、進んでその首都を占領するまでの力はわが国にはなかった。

つまり、わが国はロシア領土内に一寸も侵攻しておらず、米国による和解仲介によってやっとのことで辛勝したのである。 そのため、戦争の緒戦に勝利して有利な体制で終戦に持ち込む、それが、わが国の国家戦略であった。ここには「戦わずして勝つ」「計量的思考」「速戦即決」を信条とする「孫子兵法」が縦横無尽に応用されたとみるべきであろう。

それにもまして、こうした戦略を可能にならしめたのが的確な情勢判断であった。当時の指導者はロシアを取り巻く国際情勢を知悉し、「世界列強は日露両国のいずれが勝ちすぎても、負けすぎても困る」という事情を的確に判断していた(大橋武夫『統帥綱領』)。

的確な情勢判断を支える唯一無比なものが戦略的インテリジェンスである。わが国は、そのインテリジェンス能力を過分なく発揮し、英国との同盟をよく維持し、米国を和解仲介へと引き摺り込んだのであった。

金子賢太郎の終戦工作

金子堅太郎
1853~1942

政治と軍事の連携という点では、金子堅太郎(かねこ けんたろう、1853年~1942年)の活躍が特筆される。 金子は明治の官僚・政治家である。彼は1871年、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、のちの三井財閥の総帥となる團琢磨(だんたくま,1858~1932)とともに米国に留学した。彼が18歳の時のことである。

1878年9月、金子は25歳で帰国する。その後まもなくして、内閣総理大臣・伊藤博文の秘書官として、伊東巳代治(いとうみよじ,1857~1934年)、井上毅(いのうえこわし,1844~1895)らとともに大日本帝国憲法の起草に尽力した。

彼は伊藤博文から厚く信頼され、第2次伊藤内閣の農商務次官、第3次伊藤内閣の農商務大臣、第4次伊藤内閣の司法大臣を歴任した。 また教育者でもあり、日本法律学校(現・日本大学)の初代校長を歴任した。

金子は米国に留学して、はじめはボストンの小学校に入学するが、飛び級で中学に進学し、最終的にハーバー大学で法学士の学位を受領した。 ハーバードにおける修学では、のちの外務大臣となる小村壽太郎(1855~1911)と同宿し勉学に励んだ。

またハーバード大学における修学が縁で、日露戦争時の米大統領となるセオドア・ルーズベルト(1858~1919)の知己を得ることができた。 ルーズベルトも同大学の卒業生であり、のちに彼が弁護士となり日本を訪れた時に二人は知り合い、金子が議会制度調査のために再び渡米するなどして、両者は厚く親交を結ぶようになった。

上述のようにわが国の戦略は、「緒戦勝利、早期終戦」であったため、第3国に終戦工作をおこなわせることが課題であった。その命運を枢密院議長の伊藤博文によって託されたのが、ルーズベルト大統領にもっとも親しい日本人であった金子であった。

金子は、伊藤の説得を受けて日露戦争勃発の直後に単独で渡米した。彼は日露戦争終結後のポーツマス講和会議(1905年8月)が終了する1905年10月までずっと米国に滞在して、ルーズベルト大統領に常に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく親日世論工作を展開した。 ポーツマス会議においては、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求めて講和の成立に貢献した。

金子の米国における大活躍

この時の金子の活躍振りは、前坂俊之著『明治三七年のインテリジェンス外交』(祥伝社新書))に詳述されている。 そのなかからいくつかのエピソードを拾ってみたい。

・日露戦争の開戦を決定した御前会議を終えた伊藤博文は、官邸に帰ると、すぐ電語で腹心の金子堅太郎(前農商務大臣、貴族院議員)を呼んだ。  伊藤は「ついに開戦が決まった。戦争は何年続くかわからない。私も鉄砲かついでロシア兵と戦う覚悟だ。君は直ちにアメリカにとび、親友のルーズベルト大統領に和平調停に乗り出すよう説得してもらいたい」と告げた。

・密命を帯びた金子は(1904年)3月26日、ホワイトハウスに大領を訪ねた。数十人の客が待っていたが、大統領は自ら廊下を走って出てきて「君はなぜもっと早く来なかったか。僕は待っていたのに」と肩を抱きあって大喜びし、執務室へ招き入れた。 開口一番、「今回の戦争で米国民は日本に対して満腔の同情を寄せている。軍事力を比較研究した結果、必ず日本が勝つ」と断言したのには金子の方が驚いた。

・金子はルーズベルト大統領、ハーバード人脈をフルに活用して、全米各地を回って世論工作、外債募集にと獅子奮迅の活躍が見せた。ルーズベルト大統領も「日本の最良の友!」として努力することを金子に約束した。

・全米での日露戦争への関心は高く、金子は政治家、財界人、弁護士、大学人らのパーティーなどに引っ張りだこで、講演依頼が殺到する。英語スピーチの達人の金子は大聴衆を前に日本軍の強さ、武士道精神を説明して感銘をあたえ、日本びいきを増やしていった。

・〝勝った、勝った〝の日露戦争も38年3月10日、奉天での勝利までが限界。弾薬も尽き果てて、兵隊も金もなく、戦争継続はもはや困難な状況となった。一方、ロシアは強大な兵力、武器を温存、これ以上戦えば日本はひとたまりもない。 参謀総長・山県有朋は絶体絶命のピンチを桂首相へ報告し、ル大統領の和平調停の望みを託した。大統領はここぞと腰を上げて仲介、ポーツマス会議となった。仲介役の大統領は「日本の弁護士のようだ」といわれるほど交渉の秘密文書も金子に自由に見せるなど逐一情報をいれて、交渉決裂寸前に「条件に金銭を要求せず、名誉を重んずる」講和条件で、何とか平和にこぎつけた。

金子の思想的背景に武士道精神あり

実際、日露戦争末期、日本の国家財政は軍事費の圧迫により破綻寸前であった。日露戦争には19億円の戦費を費やしたが、これは当時の国家予算の約3倍にも上った。 日本兵の死傷者数も甚大であった。とくに陸軍では士官クラスがほとんど戦死するという壮絶な状況まで追い込まれていた。とても組織的な戦闘継続は不可能に近い状態となっていた。  

金子は終戦工作を成功裏に収めることができたのは、彼が米国留学の経験から米国民の国民性をよく理解していたことや、彼の英語能力と弁術の優秀さがあげられる。 それにもまして、武士道精神を体現した金子の言動が多くの米国人の信頼を得たのである。

ルーズベルト大統領は「日本人の精神がわかる本を教えてほしい」と依頼し、金子は新渡戸稲造の『武士道』の英訳本を贈った。 大統領はこれを読んで感激し、30冊を購入して知人に配布し、5人の子供にも熟読するように指示するなど、一層、日本びいきになった、という。(前述、前坂『明治三七年のインテリジェンス外交』)

『孫子』から学ぶインテリジェンス講座(7-最終回)▼

情報組織を運用するには経費を惜しむな

 『孫子』は戦いには金を惜しんではならないと次のように説いている。

「およそ師を興すこと十万、師を出すこと千里なれば、百姓の費、公家の奉、日に千金を費やし、内外騒動して事を操(と)るを得ざる者、七十万家。相い守ること数年にして、以て一日の勝を争う。而るに爵禄百金を愛(おし)んで敵の情を知らざる者は不人 の至りなり。……故に明主・賢将の動きにて人に勝ち、成功の衆に出づる所以の者は先知 なり。先知は鬼神に取るべからず。事にかたどるべからず。度に験(もと)むべからず。必ず人に取りて、敵の情を知る者なり。

これを訳すると以下のとおりとなる。

戦争には莫大な国家予算がかかり、国民に犠牲を強いる非常事態を数年間も続けることになるが、勝敗は一日の決戦で決まる。こうした費用を出し惜しみせずして、初めて七十万の軍隊を動かすことができる。

情報を取るためのスパイの活用にお金を惜しむことは、戦いに負けて結果的に民衆を苦しめることなる。 それなのに金を使うのを惜しんで、敵に関するインテリジェンスを得ようとしないのは、まったく愚かなる行為である。

ゆえに、聡明な君主や賢い将軍が兵を動かせば、敵に勝ち、成功を得ることで衆人よりも優れているのは、間者を利用して先に知るからである。先知は、祈祷や占などではなく、かならず人によってこそ、敵情を知ることができる。

諜報員をもっとも優遇せよ

また、『孫子』は「故に三軍の事、間より親しきは莫(な)し賞は間より厚きは莫(な)し、事は間より密なるはなし」(用間編)と述べている。

これは、だから、君主や将軍は、全軍の中でも間者(スパイ)を最も親愛し、恩賞は間者に最も厚くし、仕事上の秘密は間者にもっとも厳しく守らせる、という意味である。

戦国武将の織田信長は諜報・謀略を重視した。彼の名を世に知らしめたのは、なんといっても今川義元との桶狭間の戦いにおける大勝利である。

この戦いでは、信長は、なかなか義元の現在地が掴めなかった。そこに、梁田政綱(やなだまさつな)から「義元、ただいま、田楽狭間に輿(こし)をとどめ、昼食中」との情報を越した。これにより、信長は義元を奇襲により討つことに成功した。

信長は、功名第一は梁田、第二は義元に一番槍をつけた服部小平太、第三は義元の首をとった毛利新助(義勝)とした。奇襲のお膳立てをした梁田の諜報・謀略を最も重視したのである。まさに信長は『孫子』を実践したのである。

インテリジェンスは金がかかる

諸外国は情報機関の運用に膨大な費用を掛けている。米国の国家情報機関の予算は500億ドル以上(5兆円以上)。現在のわが国の国家情報機関の費用に関する具体的な情報は不明であるが、おそらく米国とは比べようもない。

情報機関の運用には不透明性がつき物であり、使途不明金もある。エージェントの運用資金などの詳細を明らかにすることはできない。使途不明金は許されないからとして、インテリジェンスにかかる経費が切り詰められれば、「爵禄百金を愛(ほし)んで、敵の情を知らざる者は不人の至りなり」ということになりかねない。まずは国家指導者には「インテリジェンスには金がかかる」ことを認識していただきたい。  

旧軍においては明石元二郎大佐の工作活動に百万円の国家予算を充当して、自由に使わせた。明石大佐は地下組織のボスであるコンヤ・シリヤクスなどと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献しようとした。

当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額であった。明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。

翻って、今日はわが国はどうだろうか? 十分に情報活動に経費を配当しているだろうか?情報活動に経費を配当し、情報要員を重視しているだろうか?

昭和期の日本軍において作戦重視、情報軽視の風潮が蔓延していたという。現在の自衛隊においてもしかりである。このことを深く認識しているようには思われない。

さいごに 

『孫子』が最も強調する点は「勝算もないのに戦うな」ということ、すなわち「戦わずして勝つ」ことである。このための不可欠な要素がインテリジェンスである。

インテリジェンスの役割は無用な争い回避する、あるいは「戦わずして勝つ」ことに寄与すること。つまり、相手国の意図、彼我の能力、環境条件などを把握し、外交によって相手国の譲歩を引き出すための条件を作為することである。

歴史に「仮に」ということはタブーであるが、先の大戦では旧軍が『孫子』を忠実に守り、インテリジェンスを軽視しなければ、敗戦を回避できたかもしれない。すなわち「五事七計」に基づいて、彼我の戦力分析を行えば、無用な戦争はしなかったかもしれない。

日清・日露戦争における勝利以後、わが国では攻勢・攻撃精神が強調され、インテリジェンス軽視という風潮が生起した。日清・日露戦争後の1907年の『国防方針』『用兵綱領』では「攻勢を本領」と確定し、かつ、1909年の『歩兵操典』においても攻撃精神が強調された。

こうした風潮のなかで『孫子』の解釈にも変化が生じたとして、大阪大学・大学院教授・湯浅邦弘氏は以下のように述べる。

「昭和初期から『孫子』を超えた『孫子』解釈が進められ、軍国日本が『孫子』に決別を告げた。……徹底した合理主義に貫かれた『孫子』を曲解し、誤読し、また無視しつつ、精神主義偏重の気風の中で『孫子』の名だけが担がれた。……『孫子』の「君命も受けざるところあり」(九変)が綱領や操典が記す独断専行の肯定に使われ、現実の旧軍の行動に則さない『孫子』の条文は部分否定された」と(湯浅『軍国日本と「孫子」』)。

さらに湯浅氏は、『昭和天皇独自録』から、昭和天皇の戦争分析、「大東亜戦争の遠因」の第一に「兵法の研究が不十分であった事、即(すなわち)、孫子の敵を知り、己を知らねば、百戦危(あや)うからずという根本原理を体得していなかったこと」をあげている。

兵法はその時代、時代に応じた解釈があってしかりであり、また実情に則して応用する必要がある。兵法をビジネスの世界に生かすことも大いに結構であろう。

しかし、必要なことは『孫子』の最大の本質は何かということである。すなわち、本質は「戦わずして勝つ」、次いで「勝ち易きに勝つ」ということであり、そのためにインテリジェンスを重視せよ、インテリジェンスにかかる経費を惜しむなということなのである。インテリジェンスを志す有為な諸氏には、是非このことを肝に銘じてほしい。

以上、『孫子』から、インテリジェンス関連の記述を抜粋しつつ、若干の解説を加えておいた。皆様におかれては、これ以外にも『孫子』からインテリジェンスに関する多くの知見を得ることができると思う。(了)