わが国の情報史(27)  昭和のインテリジェンス(その3)   ─『諜報宣伝勤務指針』

▼『諜報宣伝勤務指針』とは  
前回は1938(昭和13)年から1940年にかけて編纂 された『作戦要務令』 をインテリジェンスの視点から紐解いたが、今回は『諜報宣伝勤務指針』について述べる。

『作戦要務令』において「情報を審査して、比較総合し、 判決する」という内容の記述がある。 これがインフォメーション(情報)からインテリジェ ンスへの転換、すなわち情報循環(インテリジェンンス・サイ クル)という、今日の最も重要な「情報理論」である。  

しかし、実はこの『情報理論』の萌芽には、先行する「軍事極秘」の軍事教典の存在があった。それが1928年に作成された 『諜報宣伝勤務指針』である。  

同指針は、これまでさまざまな形で印刷されて一部に出回って きた。現在では、山本武利氏(元早稲田大学教授)が主宰するN PO法人「インテリジェンス研究所」によってデジタル化され、 インターネット上に無料公開されている。  同指針に書かれている内容と、同研究所の「第1回諜報研究会」 の資料(「諜報宣伝勤務指針」の解説、ネット上で公開)から、要点を整理するこことする。  なお同報告会の概要についても、ネット上の「礫川全次のコラ ムと名言」が関連記事を公開している。

▼『諜報宣伝勤務指針』の概要

(1)構成  第1編「諜報勤務」と第2編「宣伝及び謀略勤務」からなる、 全194条(56頁)にわたり「諜報」「宣伝」「謀略」の行動 指針などが記述されている。

(2)復刊文について  この指針は「軍事極秘」書で、一時期は参謀本部第2部第8課 (謀略課)が保管していた。終戦時、GHQによる焼却が命じら れたが、焼却せずに保管していた平館勝治氏が限定印刷したもの が、現在、さまざまな形で印刷されて出回っている。 なお平館氏は1939年12月、陸軍中野学校に入学した第2 期乙長期の学生で、卒業後ビルマ工作を行ない、第8課4班を経 て、終戦時には陸軍省軍事調査部に所属していた。

(3)本指針の作成動機  1925年12月に、参謀本部から陸軍省に対して、諜報及び 宣伝に関する研究などを徹底せよとの指示がなされている。 第1次大戦において英・米・仏・ドイツが広範囲に諜報、宣伝 を活用したことや、同戦争以降に欧州においてインテリジェンス やプロパガンダなどの言葉が軍人の中で膾炙(かいしゃ)される ようになり、諜報研究や宣伝研究が学界にも浸透するようになっていたことを背景に、日本の参謀本部での本資料作成の機運が高 まったとみられる。

(4)本指針の作成者  平館勝治氏によれば、河辺正三大将が参謀本部第4班時代(少佐)、 かつて駐独武官補佐官当時にドイツ軍から入手した種本をもとにし て編纂したものである。他方、中野学校1期生で昭和18年当時に 第八課に勤務していた井崎喜代太氏によれば、本指針の作者は建川 美次参謀本部第2部長という。いずれにせよ、参謀本部第2部の部 内作とみられている。  山本氏の研究によれば、河辺少佐がドイツ軍から種本を入手し た説を有力としている(後述)。

▼『諜報宣伝勤務指針』に対する平館氏の証言  

平館氏は『資料集インド国民軍関係者聞き書き』(研文出版、 2008年)に収録されたインタビュー(1992年11月30日) において以下の証言をしている。

「諜報宣伝勤務指針に対し、戦時中、このような本があったこと は大部分の中野学校関係者は知らなかったのではないかと思いま す。なぜなら門外不出の軍事極秘書類でしたから。第8課でも私 が保管中新任の参謀に貸出した記憶がありません。(ただし、す でに陸大で勉強されていたかもしれません)  確かに8課で指針を読まれたと思われる人は矢部中佐とその後 任の浅田三郎中佐です。矢部中佐は中野学校で我々に謀略につい て講義されましたが、この指針の内容とよく似ていました。  

特に、今でも記憶に残っていることは講義中『査覈』と黒板に 書かれ、誰かこれが読めるかと尋ねられましたが、誰も読める者 がおりませんでした。私は第8課に勤務するようになってからこ の指針を読み、指針の中にこの文字を発見し、矢部中佐のネタは これだったのかと気付きました」

 さらに平館氏の証言は次のように展開していく。

「私が自衛隊に入ってから、情報教育を自衛隊の調査学校でやり ましたが、同僚の情報教官(旧内務省特高関係者)にこの指針を 見せましたが反応はありませんでした。

私が1952年7月に警察予備隊に入って、米軍将校から彼等 の情報マニュアルで情報教育を受けました。その時、彼等の情報 処理の要領が私が中野学校で習った情報の査覈と非常によく似て いました。ただ、彼等のやり方は5段階法を導入し論理的に情報 を分析し評価判定し利用する方法をとっていました。  

それを聞いて、不思議な思いをしながらも情報の原則などとい うものは万国共通のものなんだな、とひとり合点していましたが、 第4報で報告した河辺正三大将のお話を知り、はじめてなぞがと けると共に愕然としました。

ドイツは河辺少佐に種本をくれると同時に、米国にも同じ物を くれていたと想像されたからです。しかも、米国はこの種本に改 良工夫を加え、広く一般兵にまで情報教育をしていたのに反し、 日本はその種本に何等改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だ といって後生大事にしまいこみ、なるべく見せないようにしてい ました。

この種本を基にして、われわれは中野学校で情報教育を受けたのですが、敵はすでに我々の教育と同等以上の教育をしていたも のと察せられ、戦は開戦前から勝敗がついていたようなものであ ったと感じました。これは私が米国の情報を学ぼうとして警察予 備隊に入った大きな収穫でした」 (引用終わり)

▼「諜報宣伝勤務指針』の記述内容

「査覈」は「サカク」と読む。「査覈」とは「調べる」という意味であるが、今日では使われない用語であるし、平館氏の証言から 当時においても一般的な用語ではない。  

同指針の第1編「諜報勤務」の総則の第二には、以下の条文が ある(なお、筆者がカタカナ表記をひらがな表記に改め、読みか なをふった)。  

第二「敵国、敵軍そのほか探知せんとする事物に関する情報の 蒐集(しゅうしゅう)、査覈(さかく)、判断並びに、これが伝 達普及に任ずる一切の業務を情報勤務と総称し、戦争間兵力もし くは戦闘器材の使用により、直接敵情探知の目的を達せんとする ものは、これを捜索勤務と称し、平戦両時を通じ、兵力もしくは 戦闘器材の使用によることなく、爾(じ)多の公明なる手段もし くは隠密なる方法によりて実施する情報勤務はこれを諜報勤務と 称す」    

ここでは、情報勤務と諜報勤務の意義が定義されている。前回 までの筆者記事において、『統帥参考』(1932年)および 『作戦要務令・第2部』(1938年)において情報が諜報と捜索からなることに整理されたことについて述べた。 だが、1925年から28年にかけて作成された『諜報宣伝指 針』において情報、諜報、捜索の関係はすでに整理されていたのである。  

また前回記事では『作戦要務令』の72条を引き合いに、「情 報を審査して、比較総合し、判決する」という、情報循環という 情報理論の萌芽がここにあることを述べた。 しかし、『諜報宣伝指針』の第三章「諜報勤務の実施」の第三 節には「情報の査覈、判断」との目次が掲げられ、計8つの条文 (133~140)がある。つまり、収集した情報を処理して、 その真否や価値を評価することなどは、すでに『諜報宣伝指針』 において整理されていたのである。

▼山本武利氏の重要な指摘  

山本氏は『諜報宣伝指針』の作成経緯について、本資料の源流 はイギリスにあって、ドイツ軍が第1次大戦の敗北から英・米と くにイギリスの類書を参照にしながら、この種本を作成したとい う説が有力である、との見解をとっている。  

そして山本氏は次のように述べている。

「同じころ、これを手に入れたアメリカ軍では、一般兵士にも理 解しやすい内容のものに作り替えていた。たとえばOSSでは 『外国新聞のインテリジェンス的分析法』(山本武利編訳・解説 『Intelligence』10号、2008年)をつくり、諜報、宣伝活動での 新聞のインテリジェンス価値や方法について具体例を並べてやさ しく講義している。  

ところが、日本軍では秘密化を図るべく無理に難解なことばを 濫用して、肝心の陸軍中野学校のインテリジェンス戦士の卵にも このテキストに手を触れさせなかった。『日本はその種本に何等 改良を加えることもなく、秘密だ、秘密だといって後生大事にし まいこみ、なるべく見せないようにしていました』という平館証 言の先の言葉は日本軍幹部の情報政策を根底から痛撃して余りあ るものである。  

そのような指導者の態度は、当時のマルクス主義者が難解なこ とばを羅列して大衆の理解を妨げた高踏的、衒学的な姿勢と通じ る」 (引用終わり)

▼戦後の展開  

戦後、米軍の教範『MILITARY INTELLIGENCE』をもとに、陸上自衛隊の幹部学校研究員であった松本重夫氏(陸士53期)が陸上 自衛隊の「情報教範」を作成した。  

これにより、インフォメーションは「情報資料」、インテリジ ェンスは「情報」と呼称するようになった。そして、情報循環の過程の中で、情報資料を処理して得た有用な知識が「情報」とな って、これが使用者に伝達・配布されることなどが規定された。  

松本氏が「情報教範」を作成した経緯などは、氏の著書『自衛 隊「影の部隊」情報戦』に詳述されている。 この中で、松本氏は以下のよう述べている。

「私が初めて米軍の『情報教範(マニュア ル)』と小部隊の情報(連隊レベル以下のマニュアル)を見て、 いかに論理的、学問的に出来上がっているものかを知り、驚き入 った覚えがある。それに比べて、旧軍でいうところの“情報”と いうものは、単に先輩から徒弟職的に引き継がれていたもの程度 にすぎなかった。私にとって『情報学』または『情報理論』と呼 ばれるものとの出会いはこれが最初だった」(引用終わり) 

つまり、旧軍における過剰な秘匿性が、重要な理論の一般化や 普遍化を妨げていたのである。それにより、イギリスを源流とし てドイツを経由して輸入された『諜報宣伝指針』は、管理者が一 部情報関係者に公開したにすぎず、群衆知による改良と工夫が加 えられずに、かくたる情報理論として発展させることができなか った。  

他方の米軍は、それを基に情報教範を作成して、一兵士に徹底 させた。そこに勝敗の分かれ目があった。このような平館氏の証 言や山本氏の指摘するところは実に重い。

▼秋山真之の教訓が生かされない日本  

時代はさらに遡るが、日露戦争の日本海海戦における大勝利の 立役者・秋山真之少佐が米国に留学し、米国海軍においては末端 クラスまでに作戦理解の徹底が図られていることに驚愕した。  

しかし、秋山は帰国後の1902年に海軍大学校の教官につい て教鞭したところ、基本的な戦術を艦長クラスが理解していない ことにさらに驚いたという。なぜなら、秘密保持の観点から、戦 術は一部の指揮官、幕僚にしか知らされなかったからだ。  

のちに秋山は「有益なる技術上の智識が敵に遺漏するを恐るる よりは、むしろその智識が味方全般に普及・応用されざることを 憂うる次第に御座候(ござそうろう)」との悲痛の手紙を上官に したためた。  

第2次大戦前の日本では、多くの情報を秘密にすれば、保全は 向上すると考えられていた。その結果、1937年以前の改正前 の軍事機密保護法では「何が秘密か」についても秘密にされ、秘 密指定を知っているのは軍部の限られた高官のみであった。  

この一見、厳しい秘密保護体制によって、効果的に秘密が守ら れたかといえばそうではない。むしろ逆に重要な秘密がしばしば 漏洩した。それは、秘密対象が不明確であったため、一般国民、 公務員はもちろん大部分の軍人までもが秘密情報であることを知 らずに無意識に漏らしてしまったからだ。  

また、警察当局も「何が秘密か」を明確に知らないから捜査が しにくかった。その結果、重箱の隅をつつくようなつまらぬ事犯 のみを取り締まり、重要な秘密漏洩は見逃す始末であった。さら に「秘密漏洩犯を裁く裁判官も、秘密基準が明確でないから判決 の下しようがないという奇妙な事態にしばしば直面した」という ことである。  

1937年の軍事機密機保護法の改正で、秘密指定は公表され るようになったが、秘密保護をめぐる状況は大して変わらなかっ た。秘密保護の必要性が強調され、厳しい取り締まりが行なわれ たが、重要な秘密の情報の漏洩は止まらなかった。あまりにも多 くのものを秘密指定にしたからである。

▼岐路に立つ情報保全  

今日、米国は軍事の教範類の多くをインターネットなどで公開 している。中国においても解放軍の関連機関が多くの軍事書籍を 出版している。つまり、作戦理論などは公開が原則である。 それが、国民の軍事への関心と知的水準を生み、愛国心の醸成 に一役買っていることは想像に難くない。  

筆者は以前、元中国大使・宮本雄二氏の講演を拝聴したが、こ の時に「中国の一般人はすこぶる軍事知識に詳しいし、軍事議論 が大好きである」との話を思い起こす。  

しかるに、我が自衛隊では教範はすべて非公開である。この点 に限れば『防衛白書』において「中国軍の不透明」を指摘する主 張には何らの説得力はない。  教範の非公開が守られているかといえばそうでもなく、何年か前には教範の漏洩事件が起きた。この一原因は、「実質的な秘密事項が含ま れていないので、これくらいはいいか」との関係者の甘えた自己 判断が引き起こしたと、筆者は見る。  

誤解のないように申し上げるが、内容がたいしたことであろう が、なかろうが非公開であれば漏洩など絶対にあってはならない のである。だから、漏洩事件を軽々しく扱ってよいということで はない。  

ただし、社会のICT化が進むなか、個人情報の保護とクラウ ド情報の利便性のせめぎ合いが予想される。こうした世の中の趨 勢から、防衛分野においても秘匿すべきもの、公開すべきものを いま一度精査し、情報保全と情報公開の在り方を再検と情報保全討すべきで あろう。  

筆者の個人的意見であるが、一部の教範類については(上述の 漏洩した教範も含め)、特段の保全を要しないし、国民への啓蒙 の観点から公開しても差し支えないと考える。  

いずれにせよ、なんでも秘密、秘密という情報保全の体質は改 めるべき岐路に立たされているのではなかろうか?

(次回に続く)

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